1935年〜 通信機メーカーの出発と電算機事業への参入
富士通の業績推移:単体
- 1935年 富士電機製造の電話部が分離独立し富士通信機製造を設立
- 1938年 本店を神奈川県川崎市(中原区)上小田中に移転
- 1944年 金岩工作所をグループ会社化
- 1949年 東京証券取引所再開と同時に上場
- 1951年 電子計算機の製造を開始
- 1953年 無線通信機器の製造を開始
- 1954年 電子デバイスの製造を開始
富士電機から分かれた通信機メーカーの出発
富士通の事業は、富士電機が1930年に電話機の組立と修理を始めた[1]地点に始まる。母体の富士電機製造は1923年、古河電気工業とドイツのシーメンスの技術提携にもとづいて設立され[2]、各種の電気機器と通信機の輸入や製造販売を手がけていた。通信網の発達で通信機の需要が伸びたのを受け、1935年6月、富士電機は通信機部門を分離独立させ、富士通信機製造株式会社を発足させた[3]。承継したのは電話交換装置・電話機・装荷線輪の三部門で、1937年には搬送通信装置の製造も加えている[4]。1938年11月には本店を神奈川県川崎市上小田中へ移し[5]、1949年5月、東京証券取引所の再開と同時に上場した[6]。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)「富士通」
- [1]1930年 富士電機が電話機の組立と修理を開始
- [2]富士電機製造 1923年 シーメンスとの技術提携にもとづき設立
- [4]承継した三部門 電話交換装置・電話機・装荷線輪/1937年 搬送通信装置の製造を追加
- 富士通 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
- [3]1935年6月 富士電機が通信機部門を分離独立させ富士通信機製造株式会社を発足
- [5]1938年11月 本店を神奈川県川崎市上小田中へ移転
- [6]1949年5月 東京証券取引所再開と同時に上場
総合通信機・電子機器メーカーとしての形が固まったのは戦後で、その第一歩が1951年5月の電子計算機への進出だった[7]。1952年4月にシーメンスとの技術提携を復活させ、1953年8月に無線通信装置、1954年4月に電子機器部品の製造をそれぞれ始めている[8]。応用分野への踏み込みも早く、1956年11月にはわが国最初の工作機械自動制御装置を完成させた[9]。1964年には国内で唯一の純国産・自社開発技術によるFACOM電算機231をニューヨークの世界博覧会へ出品[10]し、国内外のメーカーとユーザーから高い評価を得ている。1957年6月に新光電気工業をグループ会社とし、1960年12月に大阪証券取引所、1961年10月に名古屋証券取引所へ上場[11]、1962年5月には富士通研究所を設置して開発の担い手を社内に抱えた[12]。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)「富士通」
- [7]1951年5月 電子計算機へ進出
- [8]1952年4月 シーメンスとの技術提携を復活/1953年8月 無線通信装置/1954年4月 電子機器部品
- [9]1956年11月 わが国最初の工作機械自動制御装置を完成
- [10]1964年 純国産のFACOM電算機231をニューヨーク世界博覧会へ出品
- 富士通 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
- [11]1957年6月 新光電気工業をグループ会社化/1960年12月 大阪証券取引所上場/1961年10月 名古屋証券取引所上場
- [12]1962年5月 富士通研究所を設置
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)「富士通」
- [1]1930年 富士電機が電話機の組立と修理を開始
- [2]富士電機製造 1923年 シーメンスとの技術提携にもとづき設立
- [4]承継した三部門 電話交換装置・電話機・装荷線輪/1937年 搬送通信装置の製造を追加
- [7]1951年5月 電子計算機へ進出
- [8]1952年4月 シーメンスとの技術提携を復活/1953年8月 無線通信装置/1954年4月 電子機器部品
- [9]1956年11月 わが国最初の工作機械自動制御装置を完成
- [10]1964年 純国産のFACOM電算機231をニューヨーク世界博覧会へ出品
- 富士通 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
- [3]1935年6月 富士電機が通信機部門を分離独立させ富士通信機製造株式会社を発足
- [5]1938年11月 本店を神奈川県川崎市上小田中へ移転
- [6]1949年5月 東京証券取引所再開と同時に上場
- [11]1957年6月 新光電気工業をグループ会社化/1960年12月 大阪証券取引所上場/1961年10月 名古屋証券取引所上場
- [12]1962年5月 富士通研究所を設置
IBMの日本進出という脅威と国産化の圧力
1959年10月時点で、IBMの日本進出計画についての申請はすでに現実に出ており、国産化へ早急に踏み切るための協力体制づくり[13]が急務となっていた。1960年6月には貿易・為替自由化計画の大綱が決まり、国際社会の一員として自由化の体制へ積極的に順応することが求められる情勢となる[14]。相手の規模は隔絶しており、1962年時点のIBMは従業員7万5000人、前年の売上高16億9496万ドルでアメリカ第22位、全額出資子会社を通じて世界93カ国に支社を持ち、比較できる日本の会社はないと評された[15]。対する日本のメーカー7社の電子計算機部門は総動員しても7000人に届かず[16]、自由化を前に「いったい、どこに活路を求めたらよいか」が問われた[17]。
- 読売新聞「実用化を進める」(1959年10月4日)
- [13]1959年10月 IBM日本進出計画の申請を受け国産化の協力体制を急ぐ必要性が指摘された
- 日経 1960年6月24日号「貿易為替・資本自由化計画の大綱決まる」
- [14]1960年6月 貿易・為替自由化計画の大綱が決定
- 読売新聞「IBMへ敵情視察」(1962年10月16日)
- [15]1962年 IBM 従業員7万5000人・前年売上高16億9496万ドル・アメリカ第22位・世界93カ国に支社
- [16]日本のメーカー7社の電子計算機部門は総動員しても7000人に届かない
- [17]自由化を前に「いったい、どこに活路を求めたらよいか」と問われた
社長の岡田完二郎氏は、経営の軸を変化への対応力に置いた[18]。「経済界というものは非常に大きな“いきもの”ですね。ですから、積極策もいいのですが、それも波に乗った時にやらないと失敗する。つまり機に応じてカジをとっていくことですね」(経済時代 1963年5月)と語り、「現にフォーチュン誌(中略)をみても、30年前に比べると100位いないにあった会社が50%以上も脱落している。ということは、その変化に応じ切れなかったからである」(同)と続けた。技術の細部を自ら解するのではなく、報告する技術者の声の大きさと目の輝きを手がかりに最終判断を下す型の経営者でもあった[21]。1967年6月、社名を富士通信機から富士通へ変更し[22]、通信機の専業から通信と電子の総合メーカーへ転じた姿を看板に反映させている。1968年3月期の売上構成は交換機・電話機27%と無線伝送装置23%で通信機関係が50%、電子機器27%と電子部品15%で電子関係が42%となり[23]、両者が肩を並べた。 [19][20]
- [18]岡田完二郎 富士通社長 1963年に変化への対応力を経営の軸として語る
- [19]岡田完二郎氏の発言「機に応じてカジをとっていくこと」
- [20]フォーチュン誌の30年前上位100社のうち50%以上が脱落
- 志を高く(1999年)
- [21]岡田完二郎氏は技術者の報告の声の大きさと目の輝きをもとに自ら最終判断を下した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)「富士通」
- [22]1967年6月 社名を富士通信機から富士通へ変更
- [23]1968年3月期 売上構成 交換機・電話機27%/無線伝送装置23%/電子機器27%/電子部品15%
国産電算機メーカーは技術そのものは開発済みとしながらも、当時もっとも進んだ電算機とされたIBM370シリーズが採用されることに脅威を感じていた[24]。国内の布陣もこの圧力のもとで組み替[25]えられる。1971年10月、日立製作所との電算機事業提携が公表された[26]。売上で富士通が1位、日立が2位であり、この1位・2位連合によって国内シェアの3割を占め[27]、国内ではIBMと対抗できる勢力になると報じられた。電算機業界は3年後に控えた資本自由化を前に再編成の機運が急速に高ま[28]っていた。国策で国産電算機を育てる枠組みのなかで、富士通は国内首位の位置を確保した[29]。
- 志を高く(1999年)
- [24]国産電算機メーカーはIBM370シリーズの採用に脅威を感じていた
- 読売新聞「電算機・日立・富士通が提携」(1971年10月22日)
- [25]国内の布陣が自由化圧力のもとで組み替えられた(日立との提携)
- [26]1971年10月 日立製作所との電算機事業提携を公表
- [27]富士通1位・日立2位の連合で国内シェア3割
- [28]電算機業界は3年後の資本自由化を控え再編成機運が高まっていた
- 読売新聞「富士通ついにIBM追い抜く」(1980年5月28日)
- [29]国策としての国産電算機育成のもとで富士通が国内首位を確保
- 読売新聞「実用化を進める」(1959年10月4日)
- [13]1959年10月 IBM日本進出計画の申請を受け国産化の協力体制を急ぐ必要性が指摘された
- 日経 1960年6月24日号「貿易為替・資本自由化計画の大綱決まる」
- [14]1960年6月 貿易・為替自由化計画の大綱が決定
- 読売新聞「IBMへ敵情視察」(1962年10月16日)
- [15]1962年 IBM 従業員7万5000人・前年売上高16億9496万ドル・アメリカ第22位・世界93カ国に支社
- [16]日本のメーカー7社の電子計算機部門は総動員しても7000人に届かない
- [17]自由化を前に「いったい、どこに活路を求めたらよいか」と問われた
- [18]岡田完二郎 富士通社長 1963年に変化への対応力を経営の軸として語る
- [19]岡田完二郎氏の発言「機に応じてカジをとっていくこと」
- [20]フォーチュン誌の30年前上位100社のうち50%以上が脱落
- 志を高く(1999年)
- [21]岡田完二郎氏は技術者の報告の声の大きさと目の輝きをもとに自ら最終判断を下した
- [24]国産電算機メーカーはIBM370シリーズの採用に脅威を感じていた
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)「富士通」
- [22]1967年6月 社名を富士通信機から富士通へ変更
- [23]1968年3月期 売上構成 交換機・電話機27%/無線伝送装置23%/電子機器27%/電子部品15%
- 読売新聞「電算機・日立・富士通が提携」(1971年10月22日)
- [25]国内の布陣が自由化圧力のもとで組み替えられた(日立との提携)
- [26]1971年10月 日立製作所との電算機事業提携を公表
- [27]富士通1位・日立2位の連合で国内シェア3割
- [28]電算機業界は3年後の資本自由化を控え再編成機運が高まっていた
- 読売新聞「富士通ついにIBM追い抜く」(1980年5月28日)
- [29]国策としての国産電算機育成のもとで富士通が国内首位を確保