1923年9月の関東大震災で電話は壊滅的な打撃を受け、これを機に交換手による電話交換を自動交換方式へ切り替える方針が固まり、逓信省が音頭を取ってアメリカ式とドイツ式の自動交換機技術が通信機メーカー各社へ導入された。富士通の母体となった富士電機製造は、同じ1923年に古河電気工業とドイツのシーメンスとの提携契約にもとづいて設立され、1925年にシーメンスから電話交換装置の輸入と販売の事業を引き継いでいた。導入したドイツ式自動交換機の国産化は1932年から1933年にかけて成功し、1933年4月には川崎工場内に電話工場を建てて自動交換装置の製造を始め、同年9月に逓信省の指定工場となった。国産化の目処が立ったところで通信機を切り出す判断が下り、1935年6月、電話工場の設備と通信機関係の事業一切を継承して、資本金300万円の富士通信機製造株式会社が設立された。初代社長には富士電機製造取締役の吉村万治郎氏が就任した。
発足時に富士電機から引き継いだのは電話交換装置・電話機・装荷線輪の三部門で、1937年には搬送通信装置の製造も加えた。同年8月には電話中継器と搬送電話装置についても逓信省の指定工場となり、1938年11月、川崎市上小田中に工場を新設して本店をここへ移した。日中戦争の後は軍需が激増し、1942年4月に長野県へ須坂工場を開設して電話機の製造に充て、同年11月には軍の要望にもとづいて超短波無線機の製造を始めている。1944年4月には川崎・須坂の両工場が軍需会社の指定を受け、需要のさらなる増大を受けて同年6月、茨城県に下館工場を開設し、それまで川崎工場が担っていた各種搬送機器の製造を引き継がせた。一つの工場で受けきれない量を、製品ごとに場所を分けて受ける体制が、この数年でできあがった。
敗戦で軍需が消えたあとの再出発は、資本を積み直すところから始まった。1949年2月、企業再建整備計画にもとづいて未払込金300万円を切り捨てたうえで資本金2,700万円へ増資し、同年5月には東京証券取引所の再開と同時に株式を上場した。増資はその後も続き、1949年10月に5,000万円、1951年3月に1億円、1952年4月に2億円、1953年6月に3億円、1954年10月に6億円と、5年で20倍を超える積み上げになった。受け皿になったのは電気通信の復旧で、1954年9月期までの1年間の売上高は18億2,622万円、従業員は3,676人を数え、主な取引先には日本電信電話公社・日本国有鉄道・防衛庁・電力会社・私鉄が並んだ。1955年当時の社長は、富士電機製造の社長を兼ねていた和田恒輔氏だった。軍需のために建てた三つの工場は、そのまま公社の設備投資を受ける器へ移し替えられた。
社長の岡田完二郎氏が1968年の講演で語ったところでは、電子計算機へ通じる出発点は戦時中にあった。米軍の暗号を解く必要に迫られた日本軍のために、富士通信機製造の技術者が二進法を研究し始め、それが後年の計算機開発の源になったという。製造そのものに乗り出したのは1951年5月である。1952年に手がけ始めたリレー式計算機は電磁気式ゆえ動作が遅かったものの、湯川秀樹博士の考案した難しい方程式を20時間で解き、喜ばれた例もある。受動部品である蓄電器・抵抗・インダクタンスの生産には大手の中で先んじて着手し、論理回路の研究も早い時期から進めていた。1954年には、日本で初めてのリレー式コンピューターFACOM 100を完成させている。
電算機メーカー6社のうち、純国産の立場を守ったのは富士通信機製造ただ一社だった。発端は1957年で、電子工業振興臨時措置法ができたのち、通商産業省重工業局電子工業課の技術者が渡米し、IBMなど主要メーカーの工場を見て回った。視察の報告は、日本メーカーの水準とは比べようもない差があると伝えた。これを受けた通産省が外国メーカーとの技術提携を急ぐよう各社に促し、各社はその通りに提携を結んだ。岡田完二郎氏によれば、富士通信機製造にも誘いは来たが、自前の技術で苦心していたこともあって返答を保留していたという。1964年のニューヨーク世界博覧会には、自社で開発したFACOM 231を出品している。提携先を持たないことは輸出先に制約を受けないことでもあり、1963年の対ソ連向けを皮切りに、電算機の輸出は事実上の独占となった。
岡田完二郎氏が社長に就任した1960年まで、事業は部門に分けられていなかった。非能率な面が多いという判断から、通信工業部と電子工業部の二つに割っている。就任の時点では通信工業部の規模のほうが遥かに大きかったが、1967年度下期には電子工業部が上回る見通しとなり、1967年6月、商号は「富士通信機製造」から「富士通」へ改められた。1968年3月期の売上構成は、交換機・電話機が27%、無線伝送装置が23%で通信関係が50%、これに対して電子機器が27%、電子部品が15%で電子関係が42%を占めた。売上高そのものも、1963年3月期の229億1,000万円から1968年3月期の622億円へ2.7倍になっている。社名から「通信機」の三文字が消えたのは、売上の重心が移り終わる半年前だった。
約50名の委員が1年半を費やして答申をまとめたのは1966年4月で、その部会を率いたのは富士通社長の岡田完二郎氏だった。部会が置かれたきっかけは、1964年に電子工業振興臨時措置法が7年延長された際、電子計算機工業の国際競争力を急ぎ高める方策を通商産業大臣が諮問したことで、これを受けて電子工業審議会の中に電子計算機政策部会ができた。答申の骨子は、メーカー各社が共同で出資する日本電子計算機会社を窓口とし、融資の対象を国産の技術で作って売る電子計算機に限るというもので、その同社は日本開発銀行と都市銀行から同じ額ずつ借り入れ、売上高全体の80%に相当する分をレンタルに回し、1967年時点で創立からの取扱高は500億円を上回っていた。同じころ専務の高羅芳光氏は、外国機を国内で作った「混血機」に国の資金を回すのは認めがたいと記している。
1960年代の後半、電子計算機の商いは機械単体から通信回線を含む仕組みへ移った。地方銀行協会に加盟する63行・4,076店が、本店間だけでなく支店間も含めた為替決済をすべてオンライン・リアルタイム方式で処理する計画を立て、設備は日本電信電話公社へ依頼され、公社は機器を富士通へ発注した。受注できたのは公社が国産技術を優先する方針を採っていたためだと岡田完二郎氏は述べている。これは公社直営のデータ通信の第一号となり、中央の電子計算機を含む全システムを富士通が担当した。システムは1966年7月から1967年8月まで一年余りをかけて完成し、大型電子計算機2台と通信網へ連結する設備が納入された。第一銀行の普通預金業務については当初IBMとの契約があったが、富士通の側から願い出て受注し、東京方面99店・口座数百数十万を引き受けている。
1973年、日本アイ・ビー・エムが9%の値下げを発表した。前年の値下げ幅が3%だったのに対し、国産機と輸入販売機のいずれもほぼ同じ幅で下げており、資本自由化で業界が動揺する機会を捉えた措置とみられた。専務の小林大祐氏は、システムとして組めばソフトウエア料や保安サービス料が加わって大した値下げにはならないとして、対抗値下げはやらないと言い切った。代わりに広げたのが「裁量幅」で、主要大学の計算センター向け入札での50〜60%引きから、中小ユーザーへの要員・保安・ソフトウェア開発の無料提供までを含むこの値引きの余地こそ、外資に対して国産メーカーが競争優位を得た原動力だった。1973年3月期の売上高は1,779億円、うち電算機関連は1972年度で約960億円を占めており、価格表ではなく値引きの裁量で受けるほかに、当面の手はなかった。
1973年8月に発表したFACOM 230-8シリーズの出荷が、1974年10月から始まった。中大型の5機種から成り、「3.5世代」と呼ばれたIBMの370シリーズと真正面から競合する機種であり、370と同じ仮想記憶を採用していた。仮想記憶を採る機種をシリーズとして発表したメーカーは、IBM以外では世界で富士通だけだった。日本の電算機産業は1975年12月に資本と輸入の完全自由化を迎えることが決まっており、資本の50%自由化は1974年8月4日に実施されたばかりだった。前年秋の石油危機のあとも受注は落ちず、1973年度の受注額は危機以前の4月に立てた目標を101%達成している。後発の国産メーカーは、3〜4年ごとに訪れる機種の交替期を狙って先発のIBMの機械を国産へ置き換えるほかに生き残れなかった。
電算機事業は販売の多くがレンタル形式を取るため、資金をどれだけ確保できるかが企業の存続を左右した。富士通の電算機売上は、電電公社向けがおよそ半分を占める売り切りで、日本電子計算機を経由するレンタルが約3割、残り2割ほどを自社レンタル・寄託・リースが占めた。日本電子計算機へ納入した分はその期の売上高に計上され代金も回収できるが、利用者が返却すれば残存簿価での買い戻しが必要になり、同社が5年2か月の定額償却を採用しているため償却が追いつかなかった。平均のレンタル期間は約3年にとどまり、1,000万円で売った機械は3年後に平均478万円で引き取ることになった。1974年3月期末の電算機買戻損失準備金は174億1,400万円に達している。同期の売上高は2,093億円だった。
1974年7月初め、期の途中という異例の時期に組織改正と人事異動が行われた。通信・電子・部品の各事業本部に機種別の事業部を設けて独立採算制を採ったもので、狙いは各事業部ごとに利益を生み出す体制をつくることにあった。背景には翌年12月に控えた資本自由化があった。IBMは既に日本へ進出済みだから実質的な影響は小さいと見る向きもあったが、専務の赤沢璋一氏はこれを楽観しなかった。自由化後にIBMが世界戦略の一環として日本市場で本来の力を発揮すると予想したためである。それまで勢いに任せて拡大してきた会社にとって、この時期は速度を抑えながら進む局面への転換点だった。1975年3月期の経常利益は109億円で、前期の153億円から3割近く落ち込んだ。
1974年11月に池田敏雄常務が死去し、翌年には清宮博社長が病気で退任したため、社長になる気持ちの全くなかった小林大祐氏が1976年にその座へ押し上げられた。就任後のインタビューで小林氏が自社の立ち位置の根拠に挙げたのは、アメリカでの提携先であるアムダール社だった。IBMの設計の中心にいた人物が経営しており、そこが情報収集の拠点になるため、IBMの技術水準が今どのあたりにあるかは常に把握できていた。完全自由化を迎えた市場でハードウェアの面で対等に競えるかという問いに対する答えが、自社の研究所ではなく提携先の出自だったことになる。小林氏は1912年に兵庫県多可郡に生まれ、1935年3月に京都帝国大学工学部電気工学科を出て富士電機製造に入り、3か月後に発足した富士通信機製造へ移った生え抜きだった。
富士通の立ち位置は、顧客ごとの要望に合わせてソフトウェアを作り込むスペシャルメードの側にあった。対するIBMは既製服主義を採り、業種ごとに電子計算機で利益を上げる型を教科書として用意し、証券会社向け、病院向けといった型に機械をはめ込んで売った。二つの路線の差は人の抱え方に現れた。機械を顧客が使いこなし成果を出せるよう支援するシステムエンジニアを、声がかかれば即座に出向ける状態で多く抱えるほど売上が伸びる、という考え方が取られていた。人件費を削る低成長期でも学卒を300人、500人と採り続けたのは販売力の強化が目的で、何人採用したかが会社の売る力を示す物差しとされていた。1976年時点では従業員3万2,000人の3分の2がホワイトカラーで、大学卒は7,000人を数えた。売上高は1976年3月期の2,882億9,200万円が、1978年3月期には3,874億2,000万円となった。
古参社員を課長に任じ、システムエンジニアの集団を組織らしく整えようとした試みは、周囲から浮いて失敗に終わった。1966年ごろ課長職をすべてなくし、部長に兼ねさせる形へ切り替えると、社員の側に各自が課長であるという自覚が芽生えた。長くこの形を続けた結果、古くからある通信機部門と電算機部門は、同じ社内にありながら人の構成も空気も大きく隔たった。社員を動かしたのは地位や報酬ではない。やりたい仕事に就いて力を出し、それを正当に評価してもらえることが原動力で、給与は同業他社より低くも突出して高くもしない水準に据えられていた。新婚旅行を途中でやめて仕事へ戻る者まで出る集団を、社員は自ら「気違い集団」と呼び、家族もそれを受け入れていた。終戦直後の不振期から人づくりに一貫して力を入れてきた会社だと、社外からも評された。
1980年5月、国内の売上で日本アイ・ビー・エムを追い抜いたことが報じられた。1981年の時点で、国内の電子計算機メーカーの首位は富士通だった。1925年に熊本県で生まれた山本卓眞氏は、1949年3月に東京大学第二工学部を卒業して富士通信機製造へ入社した。1954年には、日本初のリレー式計算機を開発した研究スタッフに名を連ねている。1981年6月に小林大祐氏が会長へ退き、専務の山本氏が後を継いで社長となった。10年前の時点で役員に名を連ねていなかった人物が、専務を経て一気に頂点に立った形である。社長を引き受けるにあたり、山本氏は技術開発と商品開発を自ら先頭で率いることを条件に挙げた。
沼津への電算機生産基地の建設は1973年の時点で進んでおり、1976年8月に沼津工場が操業した。1982年2月には最新のソフトウェア開発設備を備えたソフト棟が完成し、52万7,000平方メートルの敷地に工場ゾーンのほか住居ゾーン・運動ゾーンが配された。従業員は約2,600名で、建物は機能別にハード棟とソフト棟の2棟に分かれる。ハード棟は1階から3階がシステム試験、4階と5階が装置組立、6階が部品倉庫、ソフト棟は1階から3階が計算機センター、4階から6階がソフトウェア開発という配置だった。両棟は緊密に連携し、一貫した設計思想にもとづく製品を作っている。顧客ごとに特注のソフトを書く売り方を選んだ以上、ハードとソフトを同じ敷地で同時に仕上げる体制は、その帰結だった。
1983年度、電電公社向けの受注は投資抑制のあおりで伸びず、1兆707億円の総受注に占める額は899億円にとどまったが、輸出は2,404億円と堅調だった。全体では受注高が1兆707億円で前期比23.2%増、売上高が9,916億円で同22.9%増となり、経常利益792億円、税引後利益448億円を含めて期初の目標をことごとく超えた。売上を部門で分けると、通信機器1,576億円、情報処理機器6,613億円、電子デバイス1,725億円である。受注で際立ったのは電子デバイスで、前期比62%増だった。1983年度に1,175億円だった設備投資は1984年度に2,000億円へ増え、その約6割が電子デバイス部門へ向けられた。資金は減価償却1,000億円に加え、1984年3月のユーロ・ドル債とスイス・フラン債で円換算570億円、8月末の時価発行増資4,800万株で約600億円を調達して賄っている。株式は1981年10月にロンドン、1983年9月にチューリッヒ・バーゼル・ジュネーブの各証券取引所へ上場していた。
https://the-shashi.com/api/companies.json https://the-shashi.com/api/decisions.json https://the-shashi.com/api/api-manifest.json https://the-shashi.com/api/6702/company.json https://the-shashi.com/api/6702/history.json https://the-shashi.com/api/6702/ceo.json https://the-shashi.com/api/6702/financials.json https://the-shashi.com/api/6702/financials/segment.json https://the-shashi.com/api/6702/financials/pl.json https://the-shashi.com/api/6702/financials/cf.json https://the-shashi.com/api/6702/financials/bs.json https://the-shashi.com/api/6702/financials/employee.json https://the-shashi.com/api/6702/financials/stock.json https://the-shashi.com/api/6702/financials.csv https://the-shashi.com/api/6702/financials_history.csv | 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1935〜1973年通信機から電算機への事業転換 | 富士電機製造の電話部が分離独立し富士通信機製造を設立 | ★★ | ||
| 本店を神奈川県川崎市(中原区)上小田中に移転 | ★ | |||
| 金岩工作所をグループ会社化 | ★ | |||
| 東京証券取引所再開と同時に上場 | ★ | |||
| 電子計算機の製造を開始 | ★★ | |||
| 無線通信機器の製造を開始 | ★ | |||
| 電子デバイスの製造を開始 | ★ | |||
| 日本初の商用リレー式自動計算機FACOM100を開発 | ★ | |||
| 新光電気工業をグループ会社化 | ★ | |||
| 岡田完二郎 | 大阪証券取引所に上場 | ★ | ||
| 岡田完二郎 | 名古屋証券取引所に上場 | ★ | ||
| 岡田完二郎 | 富士通研究所を新設 | ★ | ||
| 岡田完二郎 | 社名を富士通に変更 | ★ | ||
| 高羅芳光 | 富士電気化学をグループ会社化(1969年10月東京証券取引所に上場) | ★ | ||
| 1974〜1984年互換路線への資源集中 | 高羅芳光 | システムエンジニアを前面に立てた営業体制の構築と、その積み上げによる逆転 1970年代、富士通は天才技術者・池田敏雄氏の主導のもと、世界を支配するIBMに独自技術で挑むのではなく、IBM互換の大型汎用機とシステムエンジニア主体の営業で挑む道を選んだ。この選択は1980年に国内売上で日本IBMを上回る逆転として結実した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |
| 小林大祐 | フランクフルト証券取引所に上場(2009年12月上場廃止) | ★ | ||
| 小林大祐 | 富士通の国内売上が日本IBMを上回る | ★ | ||
| 山本卓眞 | ロンドン証券取引所に上場(2014年1月上場廃止) | ★ | ||
| 1985〜2001年「脱IBM」の多角化と英ICLのグループ化、Siemensとのパソコン合弁 | 山本卓眞 | 互換路線に頼らない通信・AI・パソコンという新市場への同時攻勢 1980年に汎用機で日本IBMを追い抜いた富士通が、その後の成長の限界を見越して"脱IBM"を掲げ、通信機・AI・パソコンなど汎用機以外の新市場へ多角化を仕掛けた1980年代半ばの判断。この多角化が後の3本柱体制を厚くした。 詳細を読む | ★★★ | |
| 山本卓眞 | 日商岩井との合弁でエヌ・アイ・エフを設立 | ★ | ||
| 山本卓眞 | 保守部門の一部を分離し富士通カストマエンジニアリングを設立 | ★ | ||
| 関澤義 | 欧州拠点の取り込みによる、欧州・北米・日本にまたがるメインフレーム供給体制の構築 汎用機で日本IBMを追い抜いた富士通が、IBM互換メインフレーム事業を国際的に広げるため、1990年に英ICLを出資比率80%で買収した経営判断。1997年の米Amdahl完全子会社化と合わせ、欧州・北米・日本の3極でメインフレームを展開する体制を構築した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 関澤義 | 携帯電話の販売を開始 | ★ | ||
| 関澤義 | Amdahlを完全子会社化 | ★★ | ||
| 秋草直之 | Siemensと合弁でFujitsu Siemens Computersを設立 | ★ | ||
| 2002〜2008年3,825億円の最終赤字からの構造改革とLSI事業の分社 | 秋草直之 | 連結最終赤字3,825億円からの再建 ITバブル崩壊と通信不況で2002年3月期に連結最終赤字3,825億円を計上した富士通が、翌2003年6月に秋草直之氏から黒川博昭氏へ社長を代え、"富士通魂"の再建を掲げてリストラと事業構造改革を進めた経営判断。以後20年続く祖業ハードの整理はここから始まった。 詳細を読む | ★★★ | |
| 黒川博昭 | 会津の200mm工場を段階的に渡し、前工程の製造を自前で抱えることをやめた 富士通セミコンダクターは2017年10月、福島県会津若松市に持つ200mm製造会社、会津富士通セミコンダクターマニュファクチャリング(AFSM)の株式30%をオン・セミコンダクターへ追加譲渡することで合意した。オン・セミコンダクターの出資比率は2018年4月1日に40%、同年10月1日に60%となり、2020年前半を目途に100%まで引き上げる計画が示された。AFSMの資産と負債は売却目的で保有する資産に分類され、デバイスソリューションから外れていった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 2009〜2018年野副社長の突然の退任と山本・田中体制、携帯端末・パソコン事業の譲渡 | 野副州旦 | FY08連結最終赤字1,124億円 | ★ | |
| 間塚道義 | 野副州旦氏が社長を突然退任 | ★★ | ||
| 間塚道義 | 間塚道義氏が代表取締役会長兼社長に就任 | ★ | ||
| 山本正已 | 山本正已氏が社長に就任 | ★ | ||
| 山本正已 | 富士通マイクロエレクトロニクスを富士通セミコンダクターに商号変更 | ★ | ||
| 田中達也 | 田中達也氏が社長に就任 | ★ | ||
| 田中達也 | 東京電力事案の発覚後に自ら社内調査を起こし、中部電力事案を課徴金減免申請で自主申告した 2016年7月、東京電力向けの電力保安通信用機器の受注調整について独占禁止法違反が認定され、排除措置命令及び課徴金納付命令を受けた。これに先立つ同年5月には、公正取引委員会から排除措置命令案及び課徴金納付命令案の通知を受けている。 違反に関与した社員は懲戒に処し、取締役会の決議に基づき、会長および社長を含む関係役員7名に月額報酬の10〜30%を3か月減額する処分を行った。 詳細を読む | |||
| 田中達也 | 携帯端末事業をポラリス・キャピタル・グループへ譲渡 | ★★ | ||
| 田中達也 | 個人向けパソコン事業を中国Lenovo Group Limitedへ譲渡 | ★★ | ||
| 2019〜2026年時田隆仁のDX企業への変革とFujitsu Uvance、新光電気の切り離しとメインフレーム終了 | 時田隆仁 | 時田隆仁氏が社長に就任 | ★ | |
| 時田隆仁 | DX企業への変革方針を表明 | ★ | ||
| 時田隆仁 | 事業モデルの再定義と、DX企業への立ち位置の置き換え SE出身で初めて社長に就任した時田隆仁氏が、まず管理職へジョブ型人事を導入し、2021年に"Fujitsu Uvance"を掲げて業種横断のデジタルサービス企業へ事業モデルを組み替えた転換。祖業ハードを手放し続けた富士通が、残した事業で何を売るかへ初めて答えを出した判断である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 時田隆仁 | 半導体子会社の新光電気を非継続事業化へ | ★ | ||
| 時田隆仁 | メインフレーム販売を2030年度末で終了すると発表 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(富士通)