創業1935年6月、富士電機製造の電話部が分離独立し、富士通信機製造として発足した。母体の富士電機は古河電工とドイツ・シーメンスの合弁で、富士通は欧州由来の通信技術を引き継いだ通信機メーカーとして出発した。戦前・戦中は電話交換機を主力に身を立て、戦後は国内通信インフラ投資の拡大に乗って規模を広げた。1954年に日本初の商用リレー式計算機FACOM100を開発し、1967年には社名から「通信機」を外して、自らをコンピュータメーカーへと定義し直した。
決断1974年、池田敏雄氏が主導してIBM互換戦略を選んだことが、富士通の進路を決めた。独自アーキテクチャを開発する重い負担を避け、米Amdahlへの出資でIBMの生態系に相乗りし、その顧客を直接取り込む道である。独自色を残した日立・NECとはここで分かれた。1980年に国内売上で日本IBMを抜き、1990年の英ICL買収と1997年の米Amdahl完全子会社化で欧州・北米・日本の3極にメインフレーム事業を広げ、IBMに次ぐ世界2位の汎用機メーカーになった。
- 歴史詳細 3章・7,040字
メインコンテンツ。一次資料をベースに歴史を紐解く
- 沿革年表 52件
主要な出来事を重要度別に時系列で整理
- 長期業績 1967〜2025年(59カ年)
有価証券報告書などの公開データに基づく長期データ
- 直近の業績
業績推移と経営体制
- セグメント情報 2005〜2025年(21カ年)
各事業の売上・営業利益・利益率の推移
- 歴代社長 5名
代表取締役社長・CEO の在任期間・経歴・在任中の施策
- 取締役一覧 2018〜2025年(8カ年)
取締役の構成バランスと社外独立性
- 大株主・株主構成 1955〜2024年(70カ年)
上位10名の入れ替わりと所有者区分7区分の推移
- 組織と給料 2005〜2025年(21カ年)
連結/単体の年次変化と業界他社の平均給与比較
決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く
- Q なぜ1967年に「通信機」を社名から外し、コンピュータメーカーへ自己を定義し直したのか
- A 米IBMが日本市場へ攻めてくるなか、電算機を国産で押さえる国策の圧力が富士電機系の通信機メーカーに向いたためである。欧州由来の通信技術で出発した富士通には1954年のFACOM100という計算機の足場があり、通信投資で稼ぎながら計算機を本業へ据え直す余地があった。1959年に読売新聞がIBMの日本進出計画と国産化への協力を促す論調を伝え、1967年6月に社名から「通信機」を外して自らをコンピュータメーカーと名乗り、1971年には日立と提携して国内シェア3割の連合を組んだ。
- Q なぜ1974年に独自開発でなく、IBM互換という追随路線を選んだのか
- A 独自アーキテクチャを一から開発する重い負担を避け、IBMの生態系に相乗りしてその顧客を直接取り込むほうが、限られた体力で世界大手と戦える現実的な道だったためである。価格ではなくSE集団のサポートで使い続けてもらう読みもあった。1974年に池田敏雄氏が主導して米Amdahlへ出資し互換路線を採ると、独自色を残した日立・NECとはここで分かれた。1980年に国内売上で日本IBMを抜き、1990年の英ICL買収と1997年の米Amdahl完全子会社化で欧州・北米・日本の3極にメインフレームを広げ、IBMに次ぐ世界2位の汎用機メーカーになった。
- Q なぜ2026年に、IBM互換で世界2位まで上り詰めた祖業のメインフレームを畳む決断をしたのか
- A 社会インフラがクラウドへ移り、ハードを自前で抱える流儀の合理性が薄れたためである。半導体・携帯・PCを次々と手放した先に最後まで残っていた祖業のハードまで畳むことで、SIとサービスへ経営資源を集める判断でもあった。2026年1月の決算説明会で富士通は、1954年のFACOM100から続いたメインフレームの販売を2030年度末で終えると示した。価値で売るFujitsu Uvanceや、生成AIのFujitsu KozuchiとカナダCohereへの出資が、ハードを離れた新しい本業を厚くする布石である。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1935年〜1999年 通信機メーカーからコンピュータメーカーへの転身
欧州系通信機メーカーとして出発した祖業の性格
富士通は1935年6月、富士電機製造株式会社の電話部が分離独立するかたちで富士通信機製造株式会社として設立された[1]。母体の富士電機は古河電工とドイツ・シーメンスの合弁で1923年に生まれた会社で、[2]富士通は発足当初から欧州由来の通信技術の影響を色濃く受けた通信機メーカーの性格を帯びた。事業は富士電機が1930年に始めた電話機の組立・修理に遡り、[3]1935年の分離独立では電話交換装置・電話機・装荷線輪の三部門を引き継いで発足した(明治百年 1968)[4]。戦前・戦中は電話交換機を中心に事業規模を伸ばし、戦後の高度経済成長期には国内通信インフラ投資の拡大にあわせて規模を広げた。1960年代半ばには富士電機が経営不振に陥り、名門の更生法適用申請まで噂される事態となる(実業の世界 1965/09)[5]。分離した富士通側は通信投資の受注を積み、古河グループのなかでも軽量級ながら身軽に動く通信機メーカーとして独自の拡大軌道に入った。
1954年10月、富士通は日本初の商用リレー式自動計算機FACOM100を開発した[6]。日本の国産コンピュータ開発の出発点となる製品で、以後富士通のDNAには「コンピュータメーカー」という新たな側面が加わる。エレクトロニクスの応用にも早くから踏み込み、1956年11月にはわが国最初の工作機械自動制御装置を完成させている(明治百年 1968)[7]。1961年10月に東京証券取引所第一部へ上場し、1967年6月には社名を富士通株式会社へ変更して、[8]「通信機」の呼称を会社の看板から外した。通信機メーカーから総合電機・コンピュータメーカーへという自己定義の転換が、このタイミングで起きている。1959年10月の読売新聞はIBMの日本進出計画を伝え、国産化への協力体制を急ぐ必要性を指摘した(読売新聞 1959/10/04)[9]。国策としての電算機国産化の圧力が、富士通の背中を押した。
当時の富士通社長・岡田完二郎はIBMの脅威を冷静に捉えた[10]。「経済界というものは非常に大きな"いきもの"ですね。ですから、積極策もいいのですが、それも波に乗った時にやらないと失敗する。つまり機に応じてカジをとっていくことですね」(経済時代 1963/05)と語り、技術革新への先回りを重視した。「現にフォーチュン誌(中略)をみても、30年前に比べると100位いないにあった会社が50%以上も脱落している。ということは、その変化に応じ切れなかったからである」(経済時代 1963/05)とも述べ、変化対応力を経営の軸に据えている。1971年10月には日立との電算機事業提携が公表され、富士通1位・日立2位の連合で国内シェア3割を占める構図が生まれた(読売新聞 1971/10/22)[11]。国策でIBMに対抗する布陣のなか、富士通は国内1位の座を握った。
池田敏雄のIBM互換戦略とAmdahl・ICL買収による3極体制
富士通のコンピュータ事業の方向性を決めたのは、1970年代に天才技術者と呼ばれた池田敏雄が主導したIBM互換戦略である[12]。1974年5月、富士通は米Amdahl社に出資し、IBM互換メインフレームの開発体制と販売網を得た[13]。当時の日本のコンピュータメーカーは、IBMに対抗して独自アーキテクチャを追求する道と互換路線のどちらを採るかで二分されていた。富士通は互換路線を選び、アーキテクチャ開発の重い負担を避けつつIBMユーザーを直接取り込む攻めに出た。自社で全てを背負わず、IBMの生態系に相乗りして体力を温存するという選択が、他社との分水嶺となった。日立・NECが独自色を残したのに対し、富士通はIBMへの追随を徹底し、世界大手の顧客を面で取りに行った。
現場の士気は高かった。小林大祐は社員を"気違い集団"と呼び、[14]「自分たちは普通のことをやってたんじゃダメなんだ、という意識が強いですよ。そこで自らを"気違い集団"といって家族を納得させる」(日経ビジネス 1976/08/30)と明かした。小林は営業体制についても「お客様が機械を使って効果を上げていただくようなアフターサービスが重要なんです。システムサポートと言いますがね。このためにシステムエンジニアの集団を、お客様の要望に応じてすぐに提供できるような態勢にしておかなければならないんです」(日経ビジネス 1976/08/30)と語り、SE集団を主戦力に据えた営業スタイルをとった。資本自由化後のIBM対抗では価格ではなくサポートで勝てるという読みである。1980年5月、富士通の国内売上がIBM日本法人を上回ったことが報じられ、国産機によるIBM追い抜きは一面級のニュースとなった(読売新聞 1980/05/28)[15]。
戦略上の選択は1980年代に入って効き、富士通をIBMに次ぐ世界2位の汎用機メーカーへ押し上げた。1990年10月に英ICLを出資比率80%で買収、[16]1997年10月に米Amdahlを完全子会社化し、[17]IBM互換機事業を国際的に広げた。欧州・北米・日本の3極体制でメインフレーム事業を展開する構造ができ、富士通全体の海外売上比率は上昇した[18]。国内市場で価格競争に巻き込まれる日立・NECとは異なる独自の立ち位置が、ICL・Amdahl買収を通じて形作られた。富士通の存在感の源泉はここで定まり、IBM互換というニッチを世界規模で押さえた企業は他に例を見ない。国策として国産電算機の育成を掲げた時代に、欧米メーカーの買収で国境をまたいだ富士通の身のこなしは、日立・NECとも松下・東芝とも違う独自の路線だった。
3本柱体制がバブル崩壊後に同時に揺らいだ理由
1990年代末の富士通は、通信機(FNAシリーズや光伝送装置)、コンピュータ(メインフレーム・サーバ・PC・ミドルウェア)、半導体(DRAM・ロジック・マイコン)の3本柱を抱える国内有数の総合ICTメーカーだった。独自アーキテクチャとIBM互換機のソフトウェア互換性、DRAM半導体の内製と通信インフラへの強みを組み合わせ、1990年代半ばまでは総合力の厚みで勝負できた。事業ポートフォリオの広さが富士通の強みであり、戦後の日本の電機産業を代表する存在でもあった。通信・計算機・半導体が相互に補完し、全方位型のメーカーとしてピーク期を迎えていた時期である。ハイテク人材争奪戦でも東京大学電気工学科・電子工学科から富士通には年6人が入社し、日立と並ぶ水準を確保していた(日経産業新聞 1984/08/22)[19]。
しかし1993年1月の日経ビジネスは既に変調を伝えている。売上の7割強を稼ぐコンピューター部門の柱である汎用機がぐらつき始めたという指摘だった(日経ビジネス 1993/01/25)[20]。米IBMの赤字転落が示すとおり、ダウンサイジングが汎用機の地位を揺るがしていた。同記事は、汎用機の需要が残るうちにハード中心の汎用機文化から素早く決別できるかどうかに富士通のリストラの成否がかかるとまで書いた(日経ビジネス 1993/01/25)。小林大祐も「大きなコピューターではIBMにはかないませんが、こうしたソフトウェアの分野こそわれわれの最も得意とするところでしてね」(日経ビジネス 1976/08/30)と語っており、社内の問題意識自体は以前からあった。
多角化は1990年代末から採算上の負担へ転じた。DRAM事業は韓国勢の台頭で価格が崩壊し、メインフレームは分散型のクライアントサーバ・アーキテクチャの普及で市場自体が縮小に向かい、通信機は国内市場の成熟と海外競争激化に同時に直面した。1990年代末のITバブルで通信インフラ投資が過熱し、2001年からの通信不況の反動が富士通を直撃する。2001年10月の日経ビジネスは、3000億円の巨費を投じる全社リストラの窮状を取り上げ、10年来掲げたソフトウェア・サービス事業への構造改革が絵に描いた餅だったことが露呈したと書いた(日経ビジネス 2001/10/08)[21]。3本柱は同時に揺らぎ、富士通は2000年代初頭の危機の入口に立った。
2000年〜2018年 捨て続けた20年による祖業ハードウェア事業の再編
連結最終赤字3,825億円が強いた20年の構造改革
2002年3月期、富士通は連結最終赤字3,825億円を計上した。ITバブル崩壊と通信不況のダブル直撃で通信機・コンピュータ・半導体の3本柱すべてが損失を出したことが主因である。上場後最大級の赤字で、日立・NEC・東芝が揃って赤字に沈んだ「電機ショック」の一角を占める数字だった。2002年6月、秋草直之から黒川博昭へ社長交代が行われ、富士通の構造改革はここから動き出す[22]。日本の電機業界にとっても歴史的転換の起点となる規模の赤字で、総合ICTメーカーという自己規定そのものに赤信号が灯った年である。戦後の日本の電機産業が掲げた全方位型の総合メーカー像は、ここで実質的な限界を露呈した。
構造改革は一度で終わらなかった。2008年秋のリーマンショックで再び業績が悪化し、FY08(2009年3月期)は連結最終赤字1,123億円を計上した。同年度途中の2009年9月、野副州旦社長が突然退任し、異例の交代劇として山本正已が社長に就任した[23]。企業ガバナンスの混乱に市場は動揺し、富士通の構造改革は長期化した。HDD事業を東芝へ譲渡し、DRAM事業はエルピーダメモリの一員として本体から切り離された[24]。10年掲げたサービス事業への転換が遅々として進まないまま、周辺事業の整理が先行する格好になった。祖業の切り離しは、以後の富士通を貫く常態となる。売上高はピーク時の5兆円台から縮小軌道に入り、赤字期を挟みながらの痩せ身化が続いた。
半導体・携帯・PCを手放して残ったSI事業の輪郭
2010年4月、富士通は半導体事業を富士通マイクロエレクトロニクス(後の富士通セミコンダクター)として分社した[25]。国内DRAM市場の苦境、ロジック半導体の規模不足、ファブレス化の波に対応した組織再編で、以後の富士通は半導体事業を次々と手放した。2012年8月には富士通セミコンダクターの一部を国内ファウンドリへ売却し、2014年以降も部門ごとに分割売却を繰り返し、最終的にロジック事業はオンセミへ渡った[26]。DRAM・ロジック・マイコンと続いた祖業の半導体系事業の系譜は、ここでほぼ終わる。FACOM100の開発から続いたハードウェア自前主義の象徴である半導体の内製体制が、2010年代を通じて消えていった。
携帯電話事業も同じ軌道を辿った。2014年3月、携帯電話事業を富士通コネクテッドテクノロジーズとして分社し、[27]2019年4月にはポラリス・キャピタルへ譲渡して完全撤退した[28]。2017年11月にはPC事業をレノボと合弁化し、富士通クライアントコンピューティング(FCCL)を発足させ、レノボが過半出資者となった[29]。日本のPC産業再編の代表案件で、NECと同じくPC事業を事実上レノボに委ねた。祖業の通信機・コンピュータに由来する事業群が次々と本体から切り離され、最後に残ったのはSI(システムインテグレーション)・ミドルウェア・サーバ・ネットワーク機器とメインフレームだった。ハードウェアの広がりを捨て、サービス側に残す判断が積み重なった時期である。
何を残したかを語れなかった停滞期の本質
2015年に山本正已から田中達也へ、2019年に田中達也から時田隆仁へと社長交代が続くなかで、[30]富士通は「何を残したか」ではなく「何を手放したか」で語られた。売上高は縮小し、FY13(2014年3月期)のテクノロジーソリューション事業の売上は2兆9,424億円、営業利益は1,740億円で、[31]ポートフォリオ縮小に伴う数字の減少が続いた。次の成長の絵を描けないまま、富士通は停滞期のただなかに腰を据えた。40年前に小林大祐が描いたソフトウェアで勝つという構想は、2010年代に入っても実体化せず、富士通の自己定義は空洞のまま宙に浮き続けた。2002年から続く構造改革は整理と縮小の局面に留まり、残した事業で勝つという次の段階へ踏み出せずにいた。
最後まで残った事業の質は高かった。国内SI事業は官公庁・大手金融・製造業といった顧客層に深く食い込み、継続的な保守案件と数十〜数百億円規模のプロジェクトで安定した粗利を生んだ。ミドルウェアのInterstage、メインフレームOSのMSP、サーバの製品ライン、そしてAmdahl・ICLを通じて築いた欧州・北米のコンサル/SI基盤。これらの事業資産は2020年代の富士通における次の成長を支える基盤となる。問題は、その基盤を活かす事業モデルが欠けていた点にある。時田隆仁が2019年6月にSE出身者として初めて社長に就くまで、富士通は何を売るかを再定義できずに足踏みした[32]。祖業を手放す判断は数々下されたが、残した事業で稼ぐ構えの組み直しは、ここから始まる。
2019年〜2025年 Fujitsu Uvanceによる事業モデル再定義の5年
SE出身社長が着手したジョブ型導入と「普通の会社」宣言
2019年6月、時田隆仁が田中達也の後任として社長職を引き継いだ[33]。時田は富士通のSE出身者として初めてトップに就いた人物で、現場のSI事業の実情を肌感覚で熟知した経営者だった。2020年7月、富士通は管理職全員を対象にジョブ型人事制度を本格導入し、日本企業におけるジョブ型転換の先行事例となる。同時にFujitsu Wayという行動指針を刷新し、「DX企業への変革」を会社の方針に掲げた。ハードウェア事業を次々と切り離すだけの富士通から、残ったサービス事業を主軸に事業全体を再定義する富士通へと、自己像の組み替えが宣言された瞬間である。20年続いた構造改革の目的が、縮小から成長へ反転し始めた点に時田体制の意義がある。
時田は後のインタビューで、富士通がクロスインダストリーを手掛けてこなかったと振り返っている[34]。それまでの富士通は官公庁・金融・製造・流通などの業種別に組織と営業を分け、業種ごとのSI案件を個別受注した。業種横断の共通課題に標準化されたオファリングを提供する発想が社内に乏しかったというのが、時田体制の出発点の実態である。「普通の会社」すなわち成長を目指す会社へ戻すには、業種横断という軸で新しい事業モデルを一から作る必要があった。既存のSI営業網を残したまま、横軸の製品群をどう載せるかが以後の課題となる。
Fujitsu Uvance発表と中計2025の7,000億円コミット
2021年10月、富士通はFujitsu Uvanceというブランドを市場へ発表した。業種横断(クロスインダストリー)型のオファリングビジネスの枠組みで、Sustainable Manufacturing、Consumer Experience、Healthy Living、Trusted Societyといった業種横断テーマに、標準化されたオファリング群を提供する事業モデルである。2022年5月発表の中期経営計画2025では、Fujitsu UvanceのFY25売上7,000億円を中核目標に据え、[35]富士通はDX企業としての自己定義を市場に正式にコミットした。計画は富士通の変革の背骨となり、自己像の再構築を市場へ宣言する内容だった。捨て続ける会社から、横串で売る会社への自己組み替えの意思表示であり、業種別SI営業の上に標準オファリングを重ねる二層構造を社外へ掲げた。
VerticalとHorizontalの2種類のオファリングを組み合わせる構造で、Vertical(業種特化)はグローバルソリューション部門が開発と販売の両方を担当し、Horizontal(SAP・ServiceNow・Salesforce連携や生成AI・モダナイゼーションなど)はリージョンズ(Japan)部門が顧客に付加価値を付けて販売する役割分担になった。2020年代半ばに向けては、ジョブ型制度の段階拡大、不採算な海外事業の整理、ノンコア資産のリサイクリング(3年で約3,000億円のキャッシュイン)を同時に行った[36]。ハードウェア中心の祖業を手放しながら、事業の中身を全方位で組み替える並行作業である。残すものと売るものを同時に再定義する動きが、5年の中計に束ねられた。
調整後営業利益率3.3pt改善が示した構造転換の手応え
中計2025の後半に入り、富士通の業績は目に見える変化を示した。サービスソリューションのうちリージョンズ(Japan)では、FY23 3Q時点で調整後営業利益率16.1%だった水準が、FY24 3Qには19.4%へ3.3ポイント改善した[37]。要因は開発の標準化とオフショア活用(JGG・GDC経由)、品質管理による不採算案件の削減、Fujitsu Uvanceを中心とするポートフォリオシフトによる価値ベースプライシングへの移行の3つで、それぞれ約1ポイントずつ利益率改善に寄与した(決算説明会 FY24-3Q)。価格ではなく価値で売るという自己組み替えに、数字で裏付けが出始めた点が従来の構造改革と異なる。20年続いた赤字と整理の時代を抜け、残した事業の粗利を押し上げる局面に富士通は入った。
FY24実績はFujitsu Uvance全体の売上目標こそ計画通りに進捗したが、内訳ではVerticalが140億円の未達、Horizontalが超過という凹凸を生じた[38]。グローバルソリューション部門の調整後営業利益率はFY25計画時点で5%にとどまり、磯部武司CFOは「グローバルソリューションの調整後営業利益率も5%と、国内サービスビジネスとしては全く十分な水準ではない」(決算説明会 FY24)と投資フェーズの継続を明言した[39]。それでも時田は中計の進捗について、良くも悪くもオントラックだと述べ、構造転換への自信を示した[40]。同じ取材では、ようやく普通の会社、すなわち成長を目指す会社になったとの自己評価も語り、5年の変革を総括した。