ソニーの歴史
戦後日本を代表する急成長企業。多角化で「家電」から「ゲーム・金融」に業態転換。製造はCMOSなど一部のみ残存
Author: @yusugiura
戦後日本を代表する急成長企業。多角化で「家電」から「ゲーム・金融」に業態転換。製造はCMOSなど一部のみ残存
ソニーはテープレコーダーを官公庁や教育機関向けに売り込むことで順調に業容を拡大した。1951年10月期にソニーは売上高1.02億円、利益0.9億円という高収益な決算を計上した。配当3割を行うことで、株主還元にも積極的であった。
1951年にソニーの部長会議において「全社を挙げて録音機製造にあたる」方針を決定。テープレコーダーの製造販売に経営資源を投下した。
そこで、本社工場の隣接地を買収してテープレコーダーの製造工場を増設する方針を決めた。1951年に資本金を従来の2倍となる2000万円になるように増資を実施。本社工場に隣接していた会社が保有していた土地を取得し、テープレコーダの増産に備えた。
1951年を境にソニーは、テープレコーダーにおいて日本の第一人者となり、業績も安定するようになった。すなわち、最初のPMFをテープレコーダーによって成し遂げた。
1955年にソニーは日本初となるトランジスタラジオ「TR-55」を発売した。鬼門だったトランジスタの歩留まり問題は、製造工程にアンチモンを投入するという画期的な発明によって改善し、国内の大手電機メーカーよりも早く小型ラジオの開発に成功した。
ただし、国内ではトランジスタラジオの販売に苦戦した。当時の日本人にとってはトランジスタラジオの価格が1台2万円と高すぎたことが原因であった。
販売を担当していた盛田昭夫氏は、1950年代を通じてアメリカへのトランジスタラジオの輸出の本格化を決めた。1956年にソニーはトランジスタラジオ「TR-63」を開発し、さらなる小型化に成功。盛田昭夫氏は、TR-63を日本国内で発売する前に、欧米の海外で販売して市場の開拓を目論んだ。
当時は世界的にトランジスタラジオの実用化に成功した企業は少なく、競合はテキサスインスツルメンツ社の1社だけであった。このため、SONYがグローバルな先進国の市場で戦える余地が存在していた。盛田昭夫氏はニューヨークの高級マンションを借りた上で、一家で移住。さらに、一流ホテルをラジオ販売の商談の場所にすることで、アメリカのバイヤーに信用されるように努めた。これらの努力によって、地道に販売の糸口を作って行った。
輸出拡大の原動力は、独自ブランド「SONY」としてトランジスタラジオを売り出したことにある。当時の日本企業は「米国企業のOEM」として輸出することが多かったが、盛田昭夫氏は独自ブランド「SONY」で輸出展開することを断固として譲らなかった。なお、当時、ソニーの社名は「東京通信工業」であり外国にとって発音しにくい名称だったことから、ラテン語のSONUSと英語のSONNYをもとに、SONYを自社のブランド名として採用した。
すなわち、一般的な日本企業の販売戦略であった安易なOEMに頼るのではなく、盛田昭夫氏による「自社ブランドでアメリカ市場を攻略する」という決定が、SONYがグローバル企業として成長を遂げる原動力になった。
トランジスタラジオの開発成功と販売拡大によって、ソニーは戦後日本を代表する「急成長企業」として注目を集める最初の契機となった。以後、家電業界においてソニーは、戦後に設立された後発企業ながらも急成長を遂げる会社として、産業界からも注目されるようになった。1960年前後には売上高の40%がアメリカ向けの輸出で占められており、グローバル企業でもあった。
また、井深氏は新製品の開発といった技術面、盛田氏は海外輸出といったマーケティング面を担当することで、共同創業者の役割分担が明確になった。
(注:アメリカにおいて)ソニーの名は日本製品中のチャンピオン的役割を果たしていると言える。事実、質的に優秀であるし、量的にも一番多く出ていると思う。では何故かかる名声を勝ち得たかといえば、日本のメーカーの中で一番早くから輸出に力を注いだために、SONYの名が非常に早くから売れていたということ。しかも当社は、初めからSONYの名で統一し、アメリカでの名(注:OEM)を使わなかった。徹頭徹尾SONYの名で統一し、そのために開拓時にはかなり苦労はあったが、とにかくSONYの名を明示せずには、品物を出さぬということを固持してきた。それが実に良かったのである。
このSONYという名が、アメリカでは覚えられやすく、親しまれやすい名であったということも、良かったのである。日本を訪れたアメリカのバイヤーが、他社に行ってSONY製品をくれ!といった話をいくつも聞いているが、それほど海外でSONYの人気は高い。
ラジオ、カラーテレビに次ぐ期待の電機製品として「ビデオ」の開発を推し進め、ベータマックスの規格を発表した。ソニーは競合他社にもベータマックス規格の採用を申し出るが、松下電器とその子会社である日本ビクターは「VHS」方式を提唱して、ビデオ規格は2つの流派が入り乱れる形となった。
この結果、1980年代を通じてソニーと日本ビクターの間で熾烈な「ビデオ戦争」が勃発したが、ファミリー作りに成功した日本ビクターのVSHが優勢となった。1988年ごろににソニーはVHSの併売を決めてビデオ戦争で敗北を喫した。
ベータマックスの規格策定失敗という経緯から、ソニーはハードウェアでの競争だけではなく、ソフト面(映像コンテンツ)も競争の軸として加えるようになった。これが、1989年のコロムビア買収の布石となる。
当時のゲーム機業界は任天堂の1強であったが、ソニーは任天堂に宣戦布告する形でテレビゲーム市場に後発参入した。任天堂がハードウェアの性能を「必要最低限」に抑えたのに対し、ソニーはハードウェアの性能を「最大限」に高めることで差別化を図り、コアなゲーム好きな層をを獲得することでゲーム事業を発展させた。
なお、ゲーム事業の発展の立役者は久夛良木健氏とされており、「プレーステーションの父」と呼ばれるらしい。