東京通信工業が最初に手にした武器は、技術そのものではなく、他社が同じ商品を作れない期間だった。1950年に25万円で買った高周波バイアス法の特許は1960年まで有効で、東芝も日立製作所も松下電器産業も、テープレコーダーの市場へ10年のあいだ入れなかった。井深大氏がトランジスタの技術導入にあたって難度の高さを動機に挙げたのも、同じ発想の延長にある。難しい技術は、それ自体が模倣までの時間を長くする。資本も販路も持たない20人の会社にとって、時間こそが唯一の元手であり、特許料25万円もライセンス料900万円も、その時間を買う代金だった。
盛田昭夫氏が米ブローバ社のOEM供給を断って自社の名で売ると決めたとき、手放したのは10万台の確定注文であり、代わりに得たのは商標という資産である。下請けとして輸出すれば売上はその場で立つが、値決めも次の商品も相手が握る。SONYの4文字を世界へ置いた選択は、機器の性能が陳腐化しても残るものを先に作る判断だった。1968年に米CBS Inc.と折半で音盤の会社を設け、1979年に米プルデンシャル生命保険と組んで保険へ入れたのも、電気の技術ではなくこの商標を持ち出して別の市場に立てたからである。創業からの30年は、売る物を作る力と、名前を貸せる力を同時に育てた期間だった。
ソニーの前身は、1945年10月に元海軍技術者の井深大氏が旧日本測定器の同志約20人と、東京・日本橋の白木屋百貨店の一隅で電気通信機と測定器の研究製作を始めた東京通信研究所である。製品が運輸省や逓信省に採用されて受注が伸び、1946年5月、酒造家の息子である盛田昭夫氏も加わって資本金19万円・従業員20人余りで東京通信工業株式会社を設立した。元文部大臣の前田多門氏を形式上の社長に、帝国銀行元頭取の万代順四郎氏を相談役に迎えて信用力を借りた。設立趣意書は目的の第一に、自由闊達で愉快な理想工場の建設を掲げている。井深氏は戦中から『生き残って新しい仕事が始められるなら、その時こそ一般の大勢の人々を相手にしたコンシューマー・プロダクトをやろう』と一般の消費者に向けた製品を構想していた。技術力だけで大手に伍するのは難しく、同社が最初に掴んだ武器は特許という参入障壁だった。
同社は当初、真空管電圧計などの測定器を手がけていたが、大手がやらず自社の技術を生かせる商品としてテープレコーダーの開発を選び、1949年に磁気テープと録音機の試作に成功した。1950年、井深氏は安立電気と日本電気から高周波バイアス法の特許を25万円で取得し、テープレコーダー市場に参入した。この特許は1960年まで有効であり、東芝・日立製作所・松下電器産業が同市場へ参入するのを事実上10年にわたって封じる盾になった。1951年10月期には売上高1億200万円を計上し、資本金を2,000万円へ積み増して本社工場の隣接地を取得した。1959年8月には従業員2000人規模へ育ち、戦後ベンチャーの代表格に数えられた——『中小企業のチャンピオン・技術革新の波にのったソニー』『同社は13年前、どこにでもある小さな町工場から、いま従業員2000人を数える会社にのしあがった』。
1952年2月、井深氏は初めて渡米し、ウェスタン・エレクトリック社がトランジスタの特許を900万円でライセンスすると聞いて交渉に入った。当時の東京通信工業は従業員120人ほどで、技術者が3分の1以上を占めていた。難度の高さこそが導入の動機であり、井深氏はのちに『テープレコーダはそれほど奥深い技術とは思えず、大勢の技術者をその後どうしようかと困っていた。一方、トランジスタは、これは相当に難しそうだ』と明かしている(技術開発の昭和史 1986)。ところが通商産業省は『トランジスタラジオの開発など小さな町工場にそんな大それたことができるものか』と取り合わず、許可が下りたのは1954年1月末だった。米国のリージェンシーが1954年末に先に市販し、日本初のトランジスタラジオ"TR-55"の発売は1955年8月となった。
最初のラジオは1台18,900円で、当時流行のミニチュア管ポータブルラジオと比べて小さいともいえず、国内での販売は伸び悩んだ。井深氏はポケットに入る大きさを目標に据え、ミツミ電機やフォスター電機を訪ねて小型のスピーカー・コンデンサー・トランスを新たに作らせ、電池まで専用の6ボルト品を用意させて1957年に世界初のポケッタブルラジオを市販した。盛田昭夫氏は家族を伴いニューヨークへ移り、時計で知られる米ブローバ社からのOEM供給の申し出を断って自社ブランド"SONY"での輸出に賭けた。当時の日本メーカーは米企業の下請けとして輸出するのが常道であり、無名のまま自社の名で売る選択は異例である。1958年1月に社名をソニー株式会社へ改め、同年12月に東京証券取引所へ上場した。
同社は総合電機への拡大を採らず、常務の吉井陛氏は1966年10月の講演で『間口を広くすれば技術の集中度において欠けるところが出て来ます』と述べ、専業を貫く理由を技術の集中度に置いている。カラーテレビでは1961年3月に井深氏が米国の学会で見たパラマウントのクロマトロン方式を導入したが、量産の歩留まりは1割に満たず、1台あたり10万円の赤字を出した。RCAのシャドウマスク方式へ乗り換えれば技術の看板が傷つき、開発を率いた吉田進氏は宮岡千里氏に一本の電子銃から三つの電子ビームを水平に出す構造を求めた。1966年末に電子銃の原型ができ、大越明男氏がアパーチャ・グリルを1967年夏に仕上げ、着想から6年を経た1968年4月にトリニトロンを発表している。
1970年3月の講演で、吉井氏はトリニトロンの量産に向けて200億円の設備投資を決めたことを示し、その規模を『昭和43年まで過去23年間の投資累計額に匹敵する』と位置づけた。同じ講演で輸出が総売上の60%、うち米国向けが37%を占めることを示している。外国人の持株は2,450万株・32.14%に達し、当時の許容枠33%にほぼ届いていた。1961年6月のADR発行以来、同社は時価発行で資金を集め、無償交付は累計で総発行株数の44.4%にあたる3,560万株へ及んだ。1979年に発売した携帯型再生機ウォークマンは世界で大きく売れ、盛田氏はのちに家電の条件を『商品というものは、素人の人が喜んで使えるものでなきゃ、本物じゃない』と語っている。
1968年3月、ソニーは米CBS Inc.と折半出資でシービーエス・ソニーレコードを設立した。機器を作って売る会社が、その機器で再生される音盤を作る側へ回った最初の一歩である。経営を担ったのは、東京芸術大学とベルリン国立芸術大学で声楽を修めて1959年に入社した大賀典雄氏で、1968年に専務、1970年に社長へ就いた。大賀氏は製造部長の時代にテープレコーダーから録音レベルの調節器を外し、社内のデザイナーを集めてデザイン室を主宰するなど、技術の外側から製品の形を決める役回りを担っていた。この合弁は1988年1月に全額出資へ移り、1991年4月にソニー・ミュージックエンタテインメントへ商号を変えている。
家庭用の録画機で、ソニーは他社に先んじて機器を出し続けた。1969年には世界初のカセット式ビデオとしてUマチックを発表したが、4分の3インチのテープを使い、カセットは週刊誌ほどの大きさで価格も高く、業務用にしか売れなかった。発表の席で盛田昭夫氏は『いろいろなプログラムを記録したカセットが発売され、将来は貸本屋で本が貸し出されているように、録画済みのビデオカセットが貸し出されるようになる』と語り、録画済みの中身が貸し出される市場のほうを先に描いている。1975年5月には世界初のベータ方式の家庭用ビデオを発売し、翌1976年10月に日本ビクターがVHS方式を出して規格は二つに割れた。ベータ方式を出した1975年10月期の単独売上高は2,955億円だった。機器を先に出す型は繰り返されたが、映像の中身については、この時点でまだ自社の手が及んでいなかった。
1979年8月、米プルデンシャル生命保険との合弁でソニー・プルーデンシャル生命保険を設立し、出資比率50%でエレクトロニクスとは無縁に見える金融事業へ参入した。同社は1991年4月にソニー生命保険へ商号を変更し、1996年3月に完全子会社となっている。機器の販売に収益が偏る構造を補うこの事業は、のちに設立されるソニー銀行やソニー損害保険とあわせてグループの一角を占めた。2004年4月にはこれらを統括する持株会社ソニーフィナンシャルホールディングスが設立され、2007年10月に東京証券取引所市場第一部へ上場している。本業のエレクトロニクスが振れるなかで金融は安定した収益を供給し、2020年3月期の営業利益は1,296億円に達した。
規格を作る力と、その規格を市場に通す力は別のものである。ソニーは1975年にベータ方式の家庭用ビデオを世界で初めて出しながら、1987年度には国内生産3,200万台のうち140万台、シェア4%まで落ちた。同じ会社が、1980年にフィリップスと組んで提案したコンパクトディスクでは世界の統一規格を実現している。違いは、組んだ相手の数と、中身を誰が供給するかにあった。ビデオでは映画会社が9対1の比率でVHSの盤を作り、1万3,000店に増えたレンタル店の棚がその比率をそのまま映した。機器の優劣を決めていたのは、機器の外にある中身の量だった。
この経験から出た答えが、中身そのものを資本で買うことだった。1988年に約20億ドルでCBSレコードを、1989年に約34億ドルでコロンビア・ピクチャーズを取り込み、2年でおよそ60億ドルを米国のソフト産業へ移している。買収前のソニーの資産9,666億円に対し、レコード部門だけで4分の1にあたる額を投じた計算になる。ただし、この答えには条件があった。借入の利息も営業権の償却も、機器を売って稼いだ現金から払われる。1991年度は円高と欧米の景気後退が重なり、連結営業利益は23%の減益を見込む水準まで落ちた。中身を抱える体力は、抱えた中身ではなく、なお機器の側が支えていた。
1982年、ソニーは大賀典雄氏を社長に据えた。大賀氏は1970年から、米CBS Inc.との折半出資によるシービーエス・ソニーレコードの社長を務めていた人物である。就任は逆オイルショック後の世界同時不況のさなかで、在庫調整に後れた同社は大幅な減益に見舞われていた。1982年10月期の単独売上高は8,329億円、当期純利益は416億円だった。大賀氏はトップに直結していた組織を事業本部制へ改めて権限を分散させ、半導体などの部品は製品を差別化するために外部へ売らないとしてきた方針を覆して外販へ踏み出した。就任の記者会見では『この会社の財産は工場でも建物でもない。「SONY」という4つの文字だ』と述べ、会社の財産を工場でも建物でもなく四文字の商標に置いている。
1983年10月期、ソニーは単独で8年ぶりの減収と2年連続の減益を記録し、海外の子会社71社を合わせた連結決算も初めて減収減益となった。単独の売上高は前期の8,329億円から7,700億円へ、当期純利益は416億円から255億円へ落ちている。1984年1月末の株主総会は午前10時から深夜11時半まで13時間半続き、特殊株主の集中砲火を浴びて最長記録を更新した。家庭用ビデオではベータ方式が振るわず、技術のソニーという像は徐々に薄れつつあった。会社は総会の前に立て直しの方策を打ち出しており、1月のマネジメント会同では民生用だけでなく成長の著しい産業用の分野にも力を注ぐ方針が示された。
コンパクトディスクは、ソニーがオランダのフィリップスと1980年6月に規格方式を連名で提案し、複数方式の並立を避けて統一を実現した規格である。1982年8月に第1号機CDP-101を16万9,800円で発表したが、価格の高さと盤の種類の少なさから売れ行きは伸びず、1984年までの市場全体の累積は25万台ほどにとどまった。第2世代の開発では、縦横13センチ・高さ4センチの木型に事業部長が日付と署名を入れて寸法を固定し、8個のLSIのうち3個を1チップへまとめている。1984年10月に発売したD-50は4万9,800円で、同時にCBS・ソニーが盤の定価を3,000円へ下げた。単独売上高は1984年10月期に9,119億円へ戻り、機器と中身の値段を同時に落とす手は、1990年度に年間900万台の販売目標を掲げるところまで市場を広げた。
1984年1月のマネジメント会同で、ソニーは民生用に加えて成長の著しい産業用の分野へ力を注ぐ方針を掲げ、光ディスク、ニューメディア、OAとコンピュータ、ソフト、半導体、ディスプレイ、コンポーネント、高精細ビデオの八つを全社プロジェクトに定めた。翌1985年度にはファクトリー・オートメーションが加わり九つになっている。1983年度の産業用部門は連結売上の16%にすぎない。同じころ松下電器産業は特機部門の比率を31%から39%へ引き上げる計画を掲げており、民生機器の成熟は業界に共通する前提だった。1984年7月にはソニーマグネスケール、1987年7月にはソニーケミカルの株式を東京証券取引所市場第二部へ上場させ、単独売上高は1985年10月期に1兆713億円と1兆円を超えた。
1985年秋のプラザ合意の後、1ドル240円だった円相場は1987年末に120円となり、円の価値は二年あまりで二倍になった。輸出依存度の高い家電産業の業績は急速に悪化し、松下電器産業・ソニー・シャープ・三洋電機の四社を合わせた1986年度の営業利益は前年度の半分以下に縮んだ。ソニーの単独売上高は1985年10月期の1兆713億円から1986年10月期は1兆361億円へ減り、当期純利益は489億円から309億円へ落ちている。四社は生産拠点の海外移転を広げ、売上に占める国内販売の比率を1983年度の54%から1988年度の63%へ高めた。ソニーもこの時期から海外での基盤強化と生産の増強に取り組んでいる。
1988年1月、ソニーは日本ビクターが開発したVHS方式の家庭用ビデオを併せて売ると発表した。1975年5月に世界で初めてベータ方式を出してから13年、ベータ陣営からVHS陣営へ移るメーカーが相次ぎ、ベータを手がけるのはソニーだけになっていた。1987年度の国内の家庭用ビデオ生産台数およそ3,200万台に対し、ソニーのベータは140万台でシェアは約4%にすぎない。決め手は機器ではなく中身の側にあった。普及率が1982年に12.4%を超えたころからレンタル店が増えて約1万3,000店に達し、映画のビデオソフトはVHS九に対しベータ一の比率で作られていた。国内のビデオ出荷は1988年に716万台のピークをつけており、市場そのものは伸びている。中身の品揃えが機器の規格を決める市場に変わっていた。
1988年1月、ソニーは米CBS Inc.のレコード部門であるCBS Records Inc.を約20億ドルで買収した。払込の行われた1月5日の為替は1ドル124円80銭で、邦貨にしておよそ2,500億円にあたる。1987年9月末のソニーの資産は9,666億円であり、全財産の約4分の1を一件の買収へ投じた計算になる。資金は借入で賄っており、盛田昭夫会長は前年12月の講演で『借金してやるわけですが、大賀君とは「これがうまくいかなかったら、二人とも首吊るんだな」といっている』と語っている。同じ月には折半出資だったシービーエス・ソニーレコードへの持分も100%へ引き上げた。機器を作る会社が、その機器で再生される中身を作る会社を、資本ごと自社の内側へ置いた。
1989年11月、ソニーは米Columbia Pictures Entertainment, Inc.を買収した。持分の取得額は約34億ドルである。1990年度上期末の営業権は前年同期末比4,836億円増の5,466億円へ膨らみ、自己資本比率は44.6%から32.6%へ下がり、支払利息は前年同期比154億円増の257億円となった。同じ年の10月には薄膜形成装置のMRC社を5,820万ドルで米国ソニーの完全子会社としている。買収先に常駐する社員は置かず、四半期に一度の委員会で中長期の経営課題だけを話す形をとった。米国ソニー執行副会長の盛田正明氏は『日本的経営と称されるものの中で、役に立ちそうなものがあったら採用すればいい。一方的に命じるべきことではない』と述べ、ソフト事業はマイケル・シュルホフ氏が統括した。買った会社を日本から動かさない形で、統合は進められた。
1991年度上期、円は対米ドルで7%、対独マルクで15%、対英ポンドで18%上昇し、前年と同水準の為替であれば連結売上高は632億円多かった計算になる。米国の景気後退の長期化と欧州の景気鈍化、国内の価格競争が重なり、上期の連結営業利益は前年同期比35.6%減、当期純利益は同13.3%減となった。通期では連結売上高4兆円を見込みながら、営業利益は23%減の2,300億円、単独の経常利益は48%減の600億円を予想している。1991年11月にはソニー・ミュージックエンタテインメントの株式を東京証券取引所市場第二部へ上場させた。国内の家電需要はバブルの崩壊で1991年から減り始めており、機器で稼いで中身を買う循環は、稼ぐ側から細っていった。
グローバルな巨額買収(米コロムビアの買収)による拡大路線は、1990年代の半ばに帳簿の上で清算を迫られた。1995年3月期、ソニーは映画部門の営業権2,652億円を一度に償却し、当期純損失は2,933億円に達した。同じ期に国内の売上を押し上げたのは、前年12月に出したばかりのゲーム機だった。そのゲーム機は3年余りで累計3,000万台を超え、1998年3月期には連結営業利益の約22%を稼いだ。2002年3月期にはエレクトロニクスが12億円の営業損失に沈むなかで、ゲームが829億円を稼ぎ出した。利益を支えたのは、買った映画会社ではなく、自ら規格を起こした機器の側だった。
2000年代の手の打ち方は、1989年の買収とは形が違う。携帯電話端末はエリクソンと、液晶パネルはサムスン電子と、音楽制作はBMGと、いずれも半分ずつの資本で合弁会社を設けた。2004年に決めたMGMの買収は総額約49億ドルに上ったが、ソニーの負担は約3億ドル以下にとどまった。コロンビアに約34億ドルを単独で投じた15年前と比べると、規模は他社の資本で取り、自らの資金は構造改革と半導体に充当する配分に変わった。その構造改革の初年度、2004年3月期の営業利益は989億円まで細った。
1993年3月期、ソニーの連結売上高は前期比1.6%増の3兆9,929億円だった。一方で営業利益は29.6%減の1,265億円、当期純利益は69.8%減の363億円に減少した。円高による売上の目減りは約1,540億円に及び、国内のAV機器市場は4年続けて縮んでいた。1994年3月期は売上高が6.5%減の3兆7,337億円、営業利益が21.2%減の997億円となった。円高による売上の目減りは、この期に約5,010億円まで膨らんだ。ソニーは1994年4月、事業部門を社内の会社に見立てて運営するカンパニー制を敷いた。その前年11月には、ソニー・ミュージックエンタテインメントとの合弁でソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)を設立していた。
1995年3月期の第2四半期、ソニーは映画部門の営業権2,652億円を一度に償却した。1994年9月末時点で映画部門の将来の営業キャッシュ・フローを割り引いた額が投資簿価に届かず、回収できないと判断したためである。作品の中止や訴訟の和解などで生じた一時費用約500億円も重なった。この期の当期純損失は2,933億円に達した。二つの特殊要因を除けば、営業利益は前期比44%増の約1,436億円だった。国内の売上は、1994年12月に発売した32ビットのゲーム機プレイステーションが押し上げていた。機器の稼ぎで中身を買う手法は、この償却で最初の大きな代償を払ったとみられる。
1995年4月1日、常務を1年務めただけの出井伸之氏が、14人を飛び越えて社長に就任した。大賀典雄氏は会長としてCEOにとどまり、出井氏がCOOとして実務を担った。引き継いだ課題は二つあり、一つは1兆4,000億円に膨らんだ有利子負債、もう一つはDVDの規格争いでの孤立だった。出井氏は同年7月、伊庭保副社長をCFOに、森尾稔副社長をCTOに任じた。1996年2月には3,000億円の転換社債を出し、全額を借入金の返済に充てた。1996年4月には8つのカンパニーを10に組み直し、商品開発と営業の機能の多くを本社へ戻した。1996年3月期の連結営業利益は2,353億円、当期純利益は543億円と黒字化した。
1997年3月期、ソニーの連結売上高は前期比23.3%増の5兆6,631億円に達した。営業利益も3,703億円となり、ともに過去最高を記録した。前期と同じ為替であれば売上高は約5,200億円少なかった計算で、円安が伸びの一部を支えた。1998年3月期には売上高6兆7,555億円、営業利益5,202億円、当期純利益2,221億円と最高を更新した。連結ROEも11%から14%へ上がった。牽引役の一つが、1994年12月に参入したゲーム事業だった。ゲーム機の累計生産出荷台数は3年余りで3,000万台を超え、1998年3月期の連結売上高の約10%、営業利益の約22%を占めた。映画の償却で失った利益を埋めたのは、買った中身より自ら起こした機器の規格だった。
1997年6月、ソニーは38人いた取締役を10人に減らし、執行役員制を導入した。グループの方針を決めて業務の執行を監督する取締役と、業務を執り行う執行役員を分け、意思決定を速めることを狙った。議案は1週間前に全取締役へ届け、2人の社外取締役にも社内会議と同じ情報を渡すと定めた。株価に連動する報酬は、取締役と執行役員のほか、関係会社を含む国内外の上級幹部にも広げた。1998年1月にはエレクトロニクスのカンパニーを再び10に組み直し、デジタル衛星放送やネットワーク関連を担うカンパニーを新設した。改革から1年のうちに、執行役員制を取り入れた企業は日興証券や東芝を含めて100社を上回った。
1999年3月期、連結売上高は6兆7,946億円と横ばいだったが、営業利益は34.9%減の3,386億円に減少した。ソニーは同年4月、エレクトロニクスを三つのネットワークカンパニーに集約し、SCEもその横に並ぶ事業ユニットの一つに位置づけた。2000年1月には株式交換で、上場子会社だった3社を完全子会社とした。ソニー・ミュージックエンタテインメント、ソニーケミカル、ソニー・プレシジョン・テクノロジーの3社である。2003年3月末までに70の製造事業所を55程度に集め、グループの人員を約10%減らす目標も置いた。各事業の評価には、税引後営業利益から資本コストを差し引いた経済価値の尺度を1999年度から使い始めた。
2000年4月、ソニーは出井伸之氏を会長兼CEO、安藤国威氏を社長兼COOとする体制で、ブロードバンドの時代へ向けた改革の第2段階に入った。自社ですべてを抱える垂直統合と、強い相手と補い合う提携を組み合わせる方針を掲げた。2001年10月には、スウェーデンのエリクソンと携帯電話端末の合弁会社を設けた。上場子会社のアイワは資金繰りに行き詰まり、ソニーは2001年夏に253億円の増資を引き受けて出資比率を61.4%まで上げていた。2002年2月に完全子会社化を決め、同年12月に吸収合併した。出井氏は、別ブランド同士を競わせる方針に最後までこだわったことを反省した。
2001年3月期は、ゲームがプレイステーション2の立ち上げ費用で511億円の営業損失を出し、エレクトロニクスが2,511億円を稼いだ。翌2002年3月期はエレクトロニクスが12億円の営業損失に転じ、ゲームの829億円が連結営業利益1,346億円を支えた。2003年3月期は営業利益が1,854億円まで戻したものの、エレクトロニクスは1〜3月期に大幅な営業損失を計上した。ソニーは2003年5月、2006年に向けた中期経営方針「トランスフォーメーション60」を示した。2006年度に金融を除く連結営業利益率10%を達成できる体質を築くことを目標に置いた。3年間で構造改革に約3,000億円、半導体の設備投資に約5,000億円、キーデバイスなどの開発研究に約5,000億円を投じる計画を立てた。
計画の初年度にあたる2004年3月期、ソニーは構造改革費用1,681億円を計上した。営業利益は46.7%減の989億円、当期純利益は885億円にとどまった。液晶テレビ向けのパネルは、2004年に韓国のサムスン電子と製造合弁会社S-LCDを設けて調達を固めた。出資はサムスン電子が50%と1株、ソニーが50%から1株を引いた比率とした。同年8月には音楽制作事業を独ベルテルスマン傘下のBMGと折半で統合し、ソニーBMGを発足させた。9月にはソニーを中心とする投資家グループが約49億ドルで米MGMの買収を決め、ソニーの負担は約3億ドル以下に抑えた。コロンビアを単独で買った1989年から、他社と資本を分け合って規模を取る方式へ移ったとみられる。
ソニーはこの9年間に4度、連結営業利益率5%を目標に掲げた。期限は2005年9月の方針が2007年度、2008年6月の方針が収益性の下限、2010年の見直しが2012年度末、2012年4月の方針が2014年度だった。最も近づいたのは2008年3月期の4.2%で、翌期には2,278億円の営業損失に転じている。構造改革は毎回約束どおりに進み、人員は1万人、8,000人、1万人と削減された。それでも目標が遠のいたのは、削減した固定費の外側に、PS3の立ち上げや液晶パネルの合弁のような大きな固定的負担を抱え続けたからである。利益率を決めていたのは削減の速さではなく、抱えた投資の重さだった。
前の章で広げた合弁の枠組みも、この章で解消された。2001年から2004年に組んだソニー・エリクソン、S-LCD、ソニーBMGの3つの折半出資は、2008年と2012年に、買い取るか手放すかのどちらかで決着している。折半は損失を半分に抑える形だが、意思決定も半分になる。携帯電話は1,071億円で相手の持分を取得して3つの重点領域の1つに据え、液晶パネルは持分を売却して外部からの調達へ切り替えた。平井一夫氏の「One Sony」は、どの事業を自分の手で持つかを決め直す作業から始まっていた。
2005年6月、出井伸之氏から経営を引き継ぎ、ハワード・ストリンガー氏が会長兼CEO、中鉢良治氏が社長兼エレクトロニクスCEOに就任した。前体制の中期経営方針トランスフォーメーション60は、固定費の削減こそ計画どおりに進めたが、エレクトロニクスの収益性を戻せなかった。新経営陣は100日間の事業精査を経て、2005年9月に新たな中期経営方針を示した。目標は2007年度の連結営業利益率5%で、構造改革費用と一時的な費用を除いて測る。約束には、2,000億円のコスト削減、65製造拠点のうち11拠点の閉鎖・統合、1万人の人員削減、1,200億円の資産売却が並んだ。エレクトロニクスはカンパニー制を廃して事業本部に改め、商品戦略から販売までの権限をエレクトロニクスCEOへ集めた。
成長に向けた注力領域には、ハイディフィニション映像とブルーレイディスク、Cellを積んだプレイステーション 3(PS3)が据えられた。PS3は2006年11月に発売され、2006年度末までに550万台を出荷した。BDドライブに欠かせない青紫色レーザーでは、生産上の問題も起きた。ゲーム分野の営業損益は、前の期の87億円の利益から2,323億円の損失へ転じた。ノートPC用リチウムイオン電池パックの自主回収と交換にも512億円の引当てが要った。連結営業利益は2007年3月期に718億円となり、前の期の1,913億円から減った。一方でエレクトロニクスは、一時的な費用を除く営業利益率4%の目標に1年前倒しで届いている。
3カ年の最終年度にあたる2008年3月期、連結売上高は2005年3月期比23%増の8兆8,714億円、営業利益は3,745億円となった。営業利益率は4.2%で、目標の5%には届かなかった。当期純利益は前年度比192%増の3,694億円と過去最高を記録している。会社は主因を、日本株の下落によるソニー生命保険の金融資産の評価損に求めた。エレクトロニクスの営業利益率は5.4%と目標の4%を上回り、人員・拠点・資産売却・コストの約束もすべて果たした。ゲーム分野は損失のままだったが、損益は前年度から1,000億円を超えて改善した。削減で積み上げた利益の多くを、PS3の立ち上げ損失が相殺した3年間だった。
2008年6月、ストリンガー氏と中鉢氏に、ゲーム子会社社長の平井一夫氏を加えた3人が、2010年度までの中期経営方針を発表した。使命には、ネットワークに対応した機器とエンタテインメントを届ける世界の主導企業になることを掲げた。3年間で約1.8兆円を戦略分野へ投じ、うち約9,000億円をイメージャーや電池などのコンポーネント・半導体に充てる。液晶テレビなど4事業にPC、BD関連、コンポーネント・半導体を加え、売上高1兆円の事業を7つにする計画も入った。財務目標は2010年度末に連結ROE 10%とし、営業利益率5%を収益性の下限と位置づけた。BRICs諸国の売上高は、2010年度末までに倍の2兆円へ広げるとした。
計画の初年度にあたる2009年3月期、売上高は12.9%減の7兆7,300億円となり、営業損益は2,278億円の損失に転じた。7,031億円の悪化のうち、円高の影響が約2,790億円、ソニー・エリクソンなど持分法適用会社の悪化が1,259億円を占めた。日本株の急落で金融分野の損益も538億円悪化した。構造改革費用に754億円を計上し、当期純損益は989億円の損失となった。前年度の純利益には、ソニーフィナンシャルホールディングスの上場で得た810億円の持分変動益が含まれていた。同じ期の2008年10月、ソニーはベルテルスマンが持つソニーBMGの持分50%を取得した。2004年8月に折半出資で発足した音楽の合弁は、完全子会社としてソニーの連結に戻った。
ストリンガー氏は2009年6月のアニュアルレポートで、『この不況により長年にわたってソニーに蓄積してきたひずみとぜい弱さが明らかになった』と書いた。2008年12月と2009年1月の対策では、全57製造事業所の約1割の削減と、エレクトロニクスの従業員約8,000人の削減を掲げた。2009年4月にはストリンガー氏が社長を兼ね、エレクトロニクスとゲームを2つの事業グループへ組み直した。2010年3月期はコスト削減3,300億円超の目標を果たし、営業利益は318億円に戻ったが、純損益は408億円の損失だった。テレビとゲームには、2010年度の黒字化が課された。会社は2012年度末までに営業利益率5%とROE 10%を達成するという目標を、改めて掲げた。
2011年3月期の連結営業利益は1,998億円と前年度の6倍を超え、エレクトロニクスとゲームが回復を牽引した。しかし2011年5月23日、ソニーは当期純損益の見通しを約2,600億円の損失へ引き下げた。ソニー単体と国内の連結納税対象会社の繰延税金資産に、約3,600億円の評価性引当金を積んだためである。国内の各社は2008年度からの3年間で累積損失となる見込みで、東日本大震災が2011年度の収益見通しをさらに押し下げた。震災が2011年度の営業利益に与える影響は、約1,500億円と試算された。
テレビでは、サムスン電子と2004年4月に設立した液晶パネルの合弁S-LCDが、大型パネル調達の要だった。2011年12月に両社は新しいパネル提携へ移ることで合意し、2012年1月19日にソニーは持分のすべてを719億8,600万円で売却した。携帯電話では2012年2月15日、エリクソンが持つ合弁の持分50%を1,071億7,400万円で取得した。ソニー・エリクソンは完全子会社となり、ソニーモバイルコミュニケーションズへ改称した。S-LCD持分には600億円の減損を計上し、ソニー・エリクソンの旧持分は再評価で1,023億円の益を生んだ。2012年3月期の営業損益は673億円の損失、当期純損益は4,567億円の損失となった。テレビ事業はこれで8期続けて赤字を計上した。
2012年4月1日、平井一夫氏がストリンガー氏の後を継いで社長兼CEOに就任し、『ソニーを変える。ソニーは変わる。』と宣言した。4月12日の経営方針では、デジタルイメージング、ゲーム、モバイルの3領域で2014年度にエレクトロニクスの営業利益の85%を稼ぐとした。テレビは2013年度の黒字化を目標に据え、2012年度に約1万人の人員減と約750億円の構造改革費用を見込んだ。2014年度の全社目標は、売上高8兆5,000億円、営業利益率5%以上、ROE 10%である。経営体制はOne Sony, One Managementと名づけ、CEOの下のCFOら4人と意思決定をまとめた。2013年3月期は本社ビルなどの売却益で純利益430億円と5期ぶりに黒字化したが、エレクトロニクスは営業赤字のままだった。
この7年間にソニーは中期経営計画を3度立て、そのたびに最も重く見る物差しを替えた。2012年の計画は売上高8兆5,000億円を掲げて届かず、2015年の計画はROEと営業利益に絞って2017年度に7,349億円、ROE18%で超えた。2018年の計画は3年累計の営業キャッシュ・フローを据えている。十時裕樹氏が出発点に置いたのは業績の振れの大きさで、物差しが規模から資本効率、さらに現金へ移る間に、事業は次々と子会社へ切り出された。目標が達成できるようになったのは、事業ごとに資本の使い方を問える組織へ作り替えた後だった。
平井一夫氏が就任後に掲げた第一次中期経営計画は、2014年度に売上高8兆5,000億円、営業利益率5%以上、ROE10%を上げる目標を置いた。最終年度の実績は売上高8兆2,159億円、営業利益率0.8%、ROEはマイナス5.5%にとどまり、配当も見送った。この年度の構造改革費用は906億8,900万円に達した。十時裕樹氏はCFOとして2019年に、この時期の出発点を『ソニーは過去、業績のボラティリティが高いという、経営上の課題がありました』と振り返っている。第一次中計以降の改革は、売上の大きさではなく利益の質を変えることに向けられ、継続して入るリカーリング収益を軸に据えた。規模の目標が外れた時点で、物差しそのものを替える必要が生じていたとみられる。
2014年2月6日、ソニーはPC事業の収束とテレビ事業の分社化を同じ取締役会で決めた。PC事業は日本産業パートナーズ側へ譲り、7月1日にVAIO株式会社への引き渡しを終えた。PC事業では2013年度に長期性資産を128億1,700万円減損し、部品在庫も評価減していた。同じ日にテレビ事業は、ソニービジュアルプロダクツとして本体を離れた。2015年5月のIR Dayで、ソニービジュアルプロダクツ社長の高木一郎氏はテレビが前年度に黒字化したと報告した。その支えには規律ある費用計画とROIC重視のサプライチェーン管理を挙げ、売上計画も堅実な水準を前提に組むとした。PCとテレビのうち、採算を立て直す道筋が描けた方だけを分社で手元に残したのだろう。
スマートフォンは2014年度に2,204億円の営業損失を出し、そのうち1,760億円は営業権の減損だった。ソニーモバイルコミュニケーションズ社長の十時氏は2015年5月のIR Dayで、2016年度の黒字化に向けて構造改革をやり遂げる方針を示した。商品モデルの数を絞って経営資源を寄せ、中国は縮めた体制のまま最小限の費用で続け、米州は高付加価値の機種に限って赤字を抑えるとした。13あった営業組織は5つの地域にまとめ、地域ごとに投資効率と収益を管理する形へ改めた。2014年度には、エレクトロニクスを中心に連結の人員が約9,200名減っていた。台数の回復より、損失の出口をふさぐことを先に置いた再建策と推察される。
2015年2月18日の中期経営方針は、ROEを最も重視する指標とし、2017年度にROE10%以上、営業利益5,000億円以上を目標に据えた。事業は成長牽引・安定収益・事業変動リスクコントロールの3領域に分け、テレビとスマートフォンは投下資本を抑える側に回した。各事業には、グループのROE目標とつながるROICの目標値を持たせた。十時氏はのちに、ROICで事業を管理した理由として、投下資本の効率を上げることと、数年単位の現金創出を単年度の損益より優先することを挙げた。分社を進める目的も、事業ごとの結果責任を明確にし、判断を速めることに置いた。資本の使い方を事業単位で問える形へ組み替える計画だったと思われる。
成長牽引領域に入ったデバイス分野では、イメージセンサーの増産に資本を振り向けた。2015年2月には、長崎・熊本・山形の3拠点で約1,050億円の設備投資を発表した。5月のIR Dayでは、2014年11月に月6万枚だったウェーハ生産能力を2016年9月に8万7,000枚へ上げる計画を示した。担当副社長の鈴木智行氏は、効率的な投資でROICを改善させる方針を添えた。2016年4月には半導体事業をソニーセミコンダクタソリューションズとして分社し、同年度に東芝から半導体事業を取得した。反対に電池事業は村田製作所グループへ譲り、2017年9月1日に引き渡した。投下資本を回収できる見込みで、残す事業と手放す事業を分けた配置だっただろう。
2017年度の営業利益は7,349億円、ROEは18%となり、第二次中計の2つの目標をともに上回った。ただし映画は2016年度に営業権1,120億6,900万円を減損し、モバイルとともに分野別の計画に届かなかった。翌2018年度も最高益を更新し、大型買収をした音楽を除く全事業で、営業と投資のキャッシュ・フローの合計が黒字になった。十時氏はこれを受けて『過去、最高益を達成した翌年に大きな減益を計上することが多かったソニーにとって、この持続性の意味は大きいととらえています』と記した。そのうえで、ここまでの利益を一連の改革の成果と位置づけた。利益の高さそのものより、好業績が翌年に崩れないことを改革の到達点として数えたのである。
2018年4月に吉田憲一郎氏が社長兼CEOに就き、5月22日の第三次中期経営計画は3年累計の営業キャッシュ・フローを最も重い指標に据えた。利益は特殊要因や会計処理で振れるので、数年分の現金の出入りで事業を測る、というのが十時氏の説明だった。テレビ、カメラ、スマートフォンはブランデッドハードウェアと括られ、規模を追わずに現金を生む役を負った。2019年10月の説明会でソニーは、スマートフォンで短期に上振れを追うのは危ういとした。そのうえで『まずは体質を筋肉質に変えてその上で自分達のポジショニングをきちんと見出していくということに注力するのが戦略の方向性かなと思っています』と答えた。損益分岐点は当初の目論見より下げられるとも述べた。台数の回復を待たず、固定費の側から採算を作り直す答えと読める。
2019年7月30日の説明会でソニーは、半導体の分離と金融事業の売却を投資家から提案されていると認めた。そのうえで『提案を具体的に受けているのは事実ですから、これについては我々は今深く検討しておりますし、考えているという状況です』と答え、それ以上の言及は控えた。同じ場では、ソニーフィナンシャルホールディングス傘下の会社の経営に深く関わり、取締役会を通じて価値を高めたいとも述べた。9月17日、吉田氏は株主宛ての書簡で半導体を成長の中核と位置づけて分離も上場もしないと表明し、オリンパス株の売却を打ち出した。10月には、イメージセンサーの3年7,000億円の設備投資が需要に応じて数百億円増える可能性も示した。求められた2事業はどちらも手放さず、周辺の持分を現金に換える形で応じた。
2020年5月19日、取締役会は約65%を持つソニーフィナンシャルホールディングスの完全子会社化を決め、翌日に1株2,600円の公開買付けを始めた。同日の経営方針説明会でソニーは、『35%の少数株主は我々にとってはコア事業の価値の流出と認識していた』と説明した。少数株主へ流れた純利益は過去3年平均で年約400億円あり、取り込めばEPSが8%ほど上がると試算した。同じ金額の自社株買いより1株利益を押し上げるという比較も示した。吉田氏は、上場子会社のまま独自に資金を調達させるより、判断の速さと柔軟さを取ったと位置づけた。9月に手続きを終え、取得の対価は3,967億円となった。
第四次中期経営計画は、事業別の利益目標をやめ、全社の調整後EBITDAの累計と戦略投資の枠だけを約束した。数字は目標を19%上回って閉じたが、個々の大型投資の成否はその総額とは別に決まった。Bungieは買収から3年余りで固定資産を減損し、ソニー・ホンダモビリティはAFEELAの開発と発売を止めた。第五次中計がKPIを営業利益の成長率と利益率へ移し、会社自身が投資の反省に触れるようになったのは、投資の量より回収の質を問う段階へ入ったからである。
この6年間の再編は、事業ごとに持ち方を決め直す作業だった。電機と半導体は完全子会社へ切り出し、モビリティは折半の合弁で連結の外に置き、金融は完全子会社にした3年後に16.4%を残して株主へ配った。イメージセンサーではTSMCとの合弁で製造を自前に限らない道へ踏み出した。2021年のソニーグループへの改称は、各事業を等距離に並べて資本の配り方を選び直すための器になった。
2021年4月1日、ソニー株式会社は商号をソニーグループ株式会社へ改めた。同じ日に、エレクトロニクスとイメージセンサーの事業は吸収分割で完全子会社へ移した。本社の手元に残した役割は、事業ポートフォリオの管理とキャピタルアロケーション、事業間のシナジー創出、人材と技術への投資の4つだった。会長兼社長CEOの吉田憲一郎氏はのちに、各事業が感動を共通項に等距離で結びつく形を目指した再編だと説明した。人事制度も各事業体の裁量に大きく委ね、事業ごとに自立して成長を追う前提を置いた。電機の本社として続いた序列を外し、6つの事業を同じ距離から比べて資本を配る器に改めたと推察される。
2021年5月の経営方針説明会で、ソニーは2021〜2023年度の第四次中期経営計画を示した。柱に据えたのは、調整後EBITDAの3年累計4.3兆円と2兆円以上の戦略投資だった。EBITDAを選んだのは、金融分野まで含めて測れ、投資を促す指標でもあるからだった。質疑では、第三次中計のセグメント別営業利益目標が形骸化したと投資家が指摘した。吉田氏は数字を外へ示す是非に触れ、『3年という時間軸は経営の目標としては短すぎ、環境の変化としては長すぎると思う』と答えた。4.3兆円には戦略投資が生む利益を入れず、ベースラインとして見るよう求めた。事業別の約束を外して全社の稼ぐ力と投資の枠だけを示したのは、環境の変化に応じて資本を動かす余地を残すためだったのだろう。
計画の時点では、IP・DTC・テクノロジーの3領域に投資の優先順位を置かないとしていた。1年後の2022年5月には、実際の重点はIPの側にあると説明した。音楽カタログの取得はリスクもリターンも低くROICを押し下げるが、中期の成長のために続けると答えた。2023年には足元のM&A市場を理由に、戦略投資の計画を約10%減の1.8兆円へ改めた。一方でイメージセンサーを主とする設備投資は、1.9兆円へ積み増した。3年間に実行した戦略投資は自社株買いを除いて約1.3兆円で、約4分の3がエンタテインメントへ向かい、最大の配分先は音楽だった。3年累計の調整後EBITDAは5.1兆円となり、目標を19%上回った。
ソニーは米ゲーム開発会社Bungieの買収を2022年7月に完了した。2月の決算説明会で示した対価36億ドルのうち約3分の1は、従業員株主の継続雇用を条件とする繰延支払とリテンション報酬に充てた。Epic Gamesへは少数出資にとどめながらBungieは全株を取る理由を問われ、会社側は『IPにもフェアバリューがあると思う。ソニーが投資することで将来アップサイドが作れるかどうかを基準に考えたい』と答えた。上積みの中身は、複数機種への展開とライブサービス運営の力を自社スタジオ群が学ぶことと、IPを映画や音楽へ広げることだった。対価の3分の1を在籍に結びつけた設計からは、作品よりも開発と運営の人材を買う案件だったと読める。
2022年11月には早期の減損の可能性を問われ、会社側は『減損は恣意的に判断するものではなく、環境の変化によって決まる』と答えた。2023年のCOO/CFOメッセージも、Bungieの知見を共有してライブサービスの開発と運営の力を高めると掲げた。2024年2月には、コストのかけ方や開発日程の説明責任に改善の余地があると認めた。同年8月の構造改革では、人員をDestiny 2と新作Marathonへ絞った。独立した環境を与える当初の方針は、2025年8月にPlayStation Studiosの一員という位置づけへ改まった。2025年11月、Destiny 2の成果が買収時の見込みを下回ったとして、Bungieの無形・有形の固定資産を減損した。
モビリティへの参入では、戦略投資枠に数えるほどの資本を入れない形を先に決めていた。2022年2月の質疑では、電池の自社開発も車両の製造設備も販売・整備の網も持たないと答えた。同年5月には、車体の製造には知見がないため提携先と組むのが良いとした。9月に本田技研工業と折半でソニー・ホンダモビリティを設立し、持分法の適用会社として連結の外に置いた。2026年5月にAFEELAの開発と発売が中止となり、会社側は車内を娯楽の場に変えるという仮説を試してきたと振り返った。経験を積んだ人材は、ホンダとソニーの両社へ戻ると述べた。連結の外に置いた設計が、撤退の損失を持分の範囲に収めたと思われる。
2023年5月18日、ソニーは金融事業のパーシャル・スピンオフの検討開始を公表した。約4,000億円で完全子会社としてから3年足らずでの転換で、質疑ではまずその理由が問われた。会社側は、金融事業の中長期の成長には投資が要り、イメージセンサーとエンタテインメントでも次元の違う投資が見込まれると答えた。大型の長期資金に備え、金融が独自に資金を調達できる形が要るという判断もあった。保有株を市場で少しずつ売る道は、『恒常的にオーバーハングといわれる状態を作り、手足を縛ることになりかねない』として退けた。大口で売れば戦略的投資家や競合が買い手となるため、その道も採らなかった。検討を始めると決めたのは同年2月中旬だったという。
分離の実行は、2023年4月から社長COO兼CFOを務め、2025年4月に社長CEOへ就いた十時裕樹氏の下で進んだ。CEOの交代は吉田氏の推薦を受け、2025年1月の取締役会が全会一致で決めた。同年2月の質疑で会社側は、ソニーが持ち続けて双方が伸びるかどうかを事業の見直しの物差しに挙げ、金融の分離をその実例とした。5月の説明資料は目的を、エンタテインメント3事業とイメージセンサーへの資本配分の集中と、金融の成長で膨らんだバランスシートの最適化に置いた。持分の一部を残して株主へ配る方式は国内初だった。2025年9月29日にソニーフィナンシャルグループが上場し、10月1日に持分16.4%を残して連結から外れた。
2024年度に始まった第五次中期経営計画は、KPIを金融分野を除く営業利益の年平均成長率と営業利益率へ移した。戦略投資枠は自社株買いを含めて3年で1.8兆円とし、会社側は第四次を未来へ投資する段階、第五次をリターンを出す段階と位置づけた。2026年5月時点で実行・意思決定を終えた戦略投資は、約1兆円強にとどまった。次期計画について会社側は、『これまで実施してきた様々な投資の成果や反省を踏まえ、適切な対象に合理的な価格で投資を継続したい』と答えた。同じ説明会では、イメージセンサーの製造を自前に限らないファブライト戦略の最初の一歩として、TSMCとの合弁を示した。金融に続いて半導体でも、事業を丸ごと抱えるか外の資本と組むかを選び直す段階へ入ったとみられる。
https://the-shashi.com/api/companies.json https://the-shashi.com/api/decisions.json https://the-shashi.com/api/api-manifest.json https://the-shashi.com/api/6758/company.json https://the-shashi.com/api/6758/history.json https://the-shashi.com/api/6758/ceo.json https://the-shashi.com/api/6758/financials.json https://the-shashi.com/api/6758/financials/segment.json https://the-shashi.com/api/6758/financials/pl.json https://the-shashi.com/api/6758/financials/cf.json https://the-shashi.com/api/6758/financials/bs.json https://the-shashi.com/api/6758/financials/employee.json https://the-shashi.com/api/6758/financials/stock.json https://the-shashi.com/api/6758/financials.csv https://the-shashi.com/api/6758/financials_history.csv | 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1946〜1979年特許とブランドで世界市場を切り拓いた技術ベンチャー | 資本金19万円で掲げられた「理想工場」という設立の理念 1946年5月、元海軍技術者の井深大氏と海軍研究で知己を得た盛田昭夫氏が、東京・日本橋の白木屋百貨店3階を間借りした作業場で、資本金19万円・従業員20人余りの東京通信工業株式会社を設立した創業。元文部大臣・前田多門氏を初代社長に据え、設立趣意書に技術者が思いきり働ける理想工場の建設を掲げた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 本社・工場を品川区に移転 | ★ | |||
| 井深大 | 東京店頭市場に株式公開 | ★ | ||
| 井深大 | 他社の看板を借りず自社ブランドを掲げて輸出に踏み出す道の選択 1954年にトランジスタ製造特許を導入し、1955年に日本初のトランジスタラジオを世に出した東京通信工業が、米国輸出にあたって時計で知られる米ブローバ社からのOEM(相手先ブランド)供給を断り、自社ブランド"SONY"での販売を貫いた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 井深大 | 社名をソニーに変更 | ★ | ||
| 井深大 | 東京証券取引所に上場 | ★ | ||
| 井深大 | Sony Corporation of Americaを設立 | ★ | ||
| 井深大 | ADR(米国預託証券)を発行 | ★ | ||
| 井深大 | CBS Inc.との合弁でシービーエス・ソニーレコードを設立 | ★★ | ||
| 井深大 | ニューヨーク証券取引所に上場 | ★ | ||
| 岩間和夫 | ソニー・プルーデンシャル生命保険を設立 | ★ | ||
| 1980〜1992年CBSレコードとコロンビア・ピクチャーズの買収によるハードとソフトの両輪 | 大賀典雄 | ソニーマグネスケールの株式を東京証券取引所二部に上場 | ★ | |
| 大賀典雄 | ソニーケミカルの株式を東京証券取引所二部に上場 | ★ | ||
| 大賀典雄 | CBS Records Inc.を買収 | ★★ | ||
| 大賀典雄 | CBSレコードに続く連続買収と、ハードとソフトの垂直統合 1988年から89年にかけて、ソニーが盛田昭夫会長・大賀典雄社長の主導で米CBSレコードとコロンビア・ピクチャーズを相次いで買収し、機器(ハード)とコンテンツ(ソフト)を自社で握る垂直統合に着手した経営判断。2年でおよそ60億ドルをハリウッドに投じた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 1993〜2004年ソニー・コンピュータエンタテインメント設立とカンパニー制、Ericsson・Samsung・BMGとの合弁 | 大賀典雄 | 家庭用ゲーム市場への進出 1994年12月、ソニーは家庭用ゲーム機"PlayStation"を国内で発売し、任天堂とセガが分け合っていたゲーム市場へ参入した。前年11月に子会社ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)を設立し、久夛良木健が開発を主導、大賀典雄社長が単独参入を決めた経営判断である。 詳細を読む | ★★★ | |
| 大賀典雄 | カンパニー制を導入 | ★ | ||
| 出井伸之 | Sony/ATV Music Publishing LLCを設立 | ★ | ||
| 出井伸之 | 執行役員制を導入 | ★ | ||
| 出井伸之 | ネットワークカンパニー制を導入 | ★ | ||
| 安藤国威 | 合弁会社の設立と、赤字下での追加出資による事業の継続 2001年10月、ソニーとスウェーデンのエリクソンが携帯電話端末事業を統合し、折半出資の合弁会社ソニー・エリクソン・モバイルコミュニケーションズを設立した経営判断。発足後は世界市場の低迷で赤字が続き提携解消の観測も出たが、2003年1月に両社が計3億ユーロの追加増資を発表し、事業継続を資本で裏づけた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 安藤国威 | Samsung Electronicsと合弁S-LCD Corporationを設立 | ★ | ||
| 安藤国威 | Bertelsmann AGと合弁SONY BMG MUSIC ENTERTAINMENTを設立 | ★ | ||
| 2005〜2013年ストリンガー・中鉢体制での初の営業赤字と過去最大の純損失、平井一夫の就任 | 中鉢良治 | ハワード・ストリンガーがCEOに就任 | ★ | |
| 中鉢良治 | 中鉢良治氏が社長に就任 | ★ | ||
| ハワード・ストリンガー | CEOと社長を一人へ集め、エレクトロニクスとゲームを一体で動かす体制への転換 2009年4月1日、代表執行役会長兼CEOのハワード・ストリンガー氏が社長を兼ね、代表執行役会長兼社長CEOとなった。2005年6月から社長を務めた中鉢良治氏は代表執行役副会長に移り、本社機能におけるCEOの補佐と製品安全・品質、環境を担当する立場となった。 同じ日に、エレクトロニクス事業とゲーム事業のオペレーションの抜本的改革を目的とした機構改革を実施している。業績報告のビジネスセグメントも2009年度第1四半期から、コンスーマープロダクツ&デバイスとネットワークプロダクツ&サービスの2分野を軸とする区分へ改まった。 詳細を読む | |||
| 中鉢良治 | 初の営業赤字・純損失を計上 | ★★ | ||
| ハワード・ストリンガー | 過去最大の純損失を計上 | ★★ | ||
| 平井一夫 | 平井一夫氏が社長兼CEOに就任 | ★ | ||
| 2014〜2020年VAIO譲渡とテレビ分社から吉田憲一郎体制、半導体分離要求の拒否とソニーFHの完全子会社化 | 平井一夫 | PC・電池・化学を資産と人員ごと手放し、五つの領域へ集中した構造改革 2012年4月1日付で発足した新経営体制のもと、社長兼CEOの平井一夫氏が進めたエレクトロニクスの構造改革。重点5施策の最後に事業ポートフォリオの見直しを置き、ケミカルプロダクツ関連事業・PC事業・電池事業を、事業を止めるのではなく資産と人員ごと他社へ譲渡した。 2014年2月6日にPC事業の収束とテレビ事業の分社化を決議し、VAIO株式会社への譲渡を2014年7月1日に完了。電池事業は2017年9月1日に村田製作所グループへ移った。連結従業員数は2012年3月期の162,700名から2019年3月期の114,400名へ減った。 詳細を読む | ★★★ | |
| 平井一夫 | 電池事業を村田製作所グループへ譲渡 | ★ | ||
| 吉田憲一郎 | 吉田憲一郎氏が社長兼CEOに就任 | ★ | ||
| 吉田憲一郎 | 物言う株主の切り出し要求を退けたうえでの一体経営の堅持 2013年と2019年の二度、米ヘッジファンドのサードポイント(ダニエル・ローブ氏)がソニー株を取得し、事業の切り出しを迫った。2013年は映画・音楽のエンタテインメント事業の部分上場を、2019年は半導体(イメージセンサー)事業の分離・上場と、金融子会社・エムスリー・オリンパスの持分売却を求めた。 要求は総会の議案にはならず、提案者が公開書簡を出し、ソニーが株主あて書簡で答えるという公開の応酬になった。ソニーは平井一夫社長のもとで2013年に、吉田憲一郎社長のもとで2019年に、いずれも分離を退け、両事業を報告セグメントの中核に据えたまま残した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 吉田憲一郎 | 3,967億円を投じた公開買付けによる上場子会社の取り込み 2020年5月19日、ソニーは上場子会社ソニーフィナンシャルホールディングス(SFH、証券コード8729)の普通株式と新株予約権の全てを取得し、完全子会社とすることを取締役会で決議した。当時の所有は283,050,000株、所有割合は約65%。掲げた目的は、金融事業に対する経営力をさらに強化し、グループ全体の企業価値向上につなげることであった。同じ日の経営方針説明会では、2021年4月にグループ本社を「ソニーグループ株式会社」とし、エレクトロニクス事業が「ソニー株式会社」の商号を継承する再編もあわせて示している。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 2021〜2026年ソニーグループへの改称とBungie買収、ソニー・ホンダモビリティと金融事業の再上場 | 吉田憲一郎 | Purposeを軸とする体制と、祖業の商号の子会社への譲渡によるグループ本社への特化 2020年5月19日の経営方針説明会で、社長兼CEOの吉田憲一郎氏がグループ本社「ソニーグループ株式会社」の発足を打ち出した。ソニー株式会社はそれまでグループ本社機能とエレクトロニクス事業の本社間接機能の両方を抱えており、この二つを分離・再定義して、本体をグループ本社機能に特化した会社に変える。 同じ日にPurpose(存在意義)を「クリエイティビティとテクノロジーの力で、世界を感動で満たす」と定め、経営の方向性を「人に近づく」と置いた。商号変更は2020年6月26日の定時株主総会で定款の一部変更として承認され、2021年4月1日に効力が生じた。 詳細を読む | ★★★ | |
| 吉田憲一郎 | Bungie, Inc.を買収 | ★ | ||
| 吉田憲一郎 | 連結の外に置いた折半出資の合弁への技術の持ち込みと、モビリティへの踏み出し 2022年3月に本田技研工業との戦略的提携の協議に入り、同年9月にモビリティ分野の合弁会社ソニー・ホンダモビリティを設立した。出資比率はソニーが50%で、連結子会社ではなく持分法適用会社として扱う。 掲げたのは2025年のEVの販売開始である。「セーフティ」「エンタテインメント」「アダプタビリティ」の3領域からモビリティの進化に貢献するという枠組みを置き、車という移動空間を感動空間の拡張先の一つに数えた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 十時裕樹 | 十時裕樹氏が社長に就任 | ★ | ||
| 十時裕樹 | 十時裕樹氏がCEOに就任 | ★ | ||
| 十時裕樹 | 株式の一部を残したままの分離と再上場という、部分的な切り出し 2025年10月1日、ソニーグループが金融事業を営む完全子会社ソニーフィナンシャルグループ(SFGI)をパーシャル・スピンオフで分離した。保有するSFGI普通株式の80%超を株主へ現物配当により分配し、同日、現物配当の効力発生をもって実行が完了した。SFGI株式は実行に先立ち2025年9月29日に東京証券取引所プライム市場へ上場している。 分離後にソニーグループが持つSFGI株式の持分比率は16.4%で、所有株式数は1,172,218,284株。SFGIは連結子会社から外れ、持分法適用の関連会社となった。 詳細を読む | ★★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(ソニー)