1899年〜 通信機メーカーから総合電機へ、多角化100年の道のり
NECの業績推移
- 1899年 W.E.社との合弁で日本電気を設立
- 1918年 W.E.社が海外投資部門を分離しI.W.E.社が日本電気株を承継
- 1925年 I.W.E.社がITTの子会社となり親会社がISE社に商号変更
- 1932年 ISE社が日本電気の経営を住友本社に委託
- 1978年 C&C構想の提唱——コンピュータと通信の融合という全社ビジョン 通信・半導体・コンピュータを個別に世界トップへ育てる資源はない——小林宏治会長は多角化をどう一つのビジョンで束ねようとしたか
- 1982年 PC-9800シリーズ発売
- 1999年 過去最大の連結赤字の公表と、金子社長の退任・西垣新社長への交代 20年続いた関本体制の終わりに際し、西垣浩司新社長は過去最大の赤字と多角化の重みにどう向き合おうとしたか
外資合弁で出発した通信機メーカーの基盤形成
日本電気の誕生に先立ち、わが国の通信制度は段階的に整った。電信の利用は1869年に始まり、1877年からは電話が使われ、1890年には官営による本格的な公衆通信事業が始まって、1896年には電話拡張の七カ年計画が成立した(『企業の歴史:明治百年』1968)。当時すでに世界最大の通信機会社であった米国ウェスタン・エレクトリック社は、世界活動の一環として日本市場への進出を望んでいた。1899年の通商条約改正と同時に、前年の1898年に設立されていた日本電気合資会社(資本金5万円)を基礎とし、ウェスタン社からの出資を加えて資本金20万円の株式会社へと改組された。前身の合資会社を母体に外資との合弁会社として発足したこの経緯が、続く国際的な性格を方向づけた。 [1][2][3]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [1]電信利用は1869年、電話使用は1877年に開始、1890年に官営の本格的公衆通信事業開始、1896年に電話拡張の七カ年計画成立(明治百年)
- [2]ウェスタン・エレクトリック社は当時すでに世界最大の通信機会社で、世界活動の一環として日本市場進出を望んだ(明治百年)
- [3]前身の日本電気合資会社は1898年設立・資本金5万円、1899年の通商条約改正と同時にWE出資を加え資本金20万円の株式会社へ改組(明治百年)
NECは1899年7月、米国ウェスタン・エレクトリック社(W.E.社)との合弁により日本電気株式会社として設立された。日本初の外資系合弁メーカーであり、設立当初の主力事業は電話交換機と通信機だった。通信機産業は大量生産のノウハウと特許網が事業基盤を決める装置産業であり、国内に量産技術の蓄積が乏しかった当時、欧米資本と提携して技術を取り込む選択は合理的だった。1918年にはW.E.社の海外投資部門が分離してI.W.E.社がNEC株式を承継し、1925年にはI.W.E.社がITTに買収されインターナショナル・スタンダード・エレクトリック(ISE社)と改称した。NECは発足当初から欧米資本の一部として通信機事業を育てた。 [4][5][6]
- 日本電気 有価証券報告書 第187期(2025年3月期)【沿革】
- [4]1899年7月 米W.E.社との合弁により日本電気株式会社を設立(日本初の外資系合弁メーカー)
- [5]1918年 W.E.社が海外投資部門を分離しI.W.E.社が当社株式を承継
- [6]1925年 I.W.E.社がITT(インターナショナル・テレホン・アンド・テレグラフ社)に買収されI.S.E.社(インターナショナル・スタンダード・エレクトリック)と改称
1932年6月、ISE社はNECの経営を住友本社に委託した。これが後の住友グループとの関係の起点である。1941年12月、ISE社所有のNEC株式が敵国資産として処分され資本提携が解消、1943年に社名を住友通信工業株式会社へ変更した。敗戦後の1945年11月に日本電気株式会社へ戻し、1949年5月に東京証券取引所へ上場、1951年11月にISE社との資本提携を復活した。後年、小林宏治社長は業界状況を「電気通信分野の技術と業界の実情は(中略)特許の面では、9割までが外国特許であった。関連する素材、部品産業は、甚だ貧弱で存在しないにも等しい状況であった」(経済同友 1966/6)と振り返り、国産技術で追いつくために払った努力を語った。戦時下に外資との関係を一度断ち切り、戦後すぐ再接続する異例の経緯を持つ会社として、国際ネットワーク事業の基盤を欧米資本との継続的な関係のうえに置いた。 [7][8][9][10][11][12][13]
- 日本電気 有価証券報告書 第187期(2025年3月期)【沿革】
- [7]1932年6月 I.S.E.社が当社の経営を住友本社に委託
- [8]1941年12月 I.S.E.社所有のNEC株式が敵国資産として処分され資本提携解消
- [9]1943年2月 社名を住友通信工業株式会社に変更
- [10]1945年11月 社名を日本電気株式会社に戻す
- [11]1949年5月 東京証券取引所に上場
- [12]1951年11月 I.S.E.社と資本提携復活
- 経済同友(1966年6月)
- [13]小林宏治の発言「特許の面では、9割までが外国特許であった」(経済同友 1966/6)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [1]電信利用は1869年、電話使用は1877年に開始、1890年に官営の本格的公衆通信事業開始、1896年に電話拡張の七カ年計画成立(明治百年)
- [2]ウェスタン・エレクトリック社は当時すでに世界最大の通信機会社で、世界活動の一環として日本市場進出を望んだ(明治百年)
- [3]前身の日本電気合資会社は1898年設立・資本金5万円、1899年の通商条約改正と同時にWE出資を加え資本金20万円の株式会社へ改組(明治百年)
- 日本電気 有価証券報告書 第187期(2025年3月期)【沿革】
- [4]1899年7月 米W.E.社との合弁により日本電気株式会社を設立(日本初の外資系合弁メーカー)
- [5]1918年 W.E.社が海外投資部門を分離しI.W.E.社が当社株式を承継
- [6]1925年 I.W.E.社がITT(インターナショナル・テレホン・アンド・テレグラフ社)に買収されI.S.E.社(インターナショナル・スタンダード・エレクトリック)と改称
- [7]1932年6月 I.S.E.社が当社の経営を住友本社に委託
- [8]1941年12月 I.S.E.社所有のNEC株式が敵国資産として処分され資本提携解消
- [9]1943年2月 社名を住友通信工業株式会社に変更
- [10]1945年11月 社名を日本電気株式会社に戻す
- [11]1949年5月 東京証券取引所に上場
- [12]1951年11月 I.S.E.社と資本提携復活
- 経済同友(1966年6月)
- [13]小林宏治の発言「特許の面では、9割までが外国特許であった」(経済同友 1966/6)
C&C思想が加速した多角化と半導体・PC事業
1961年4月、NECは事業部制を導入し、通信機・電波機器・電子機器・電子部品・商品・海外の6事業部制に切り替えた。同年10月には東京証券取引所第一部へ移行、1963年1月には米国にニッポン・エレクトリック・ニューヨーク社(現NEC Corporation of America)を設立し、海外展開を本格化させた。1975年9月には中央研究所を完成させ、1970年代から半導体・コンピュータ領域への投資を継続的に拡大した。通信機単品のメーカーから、情報処理と通信を横断する総合電機メーカーへ事業領域を広げる助走期である。1966年には小林社長がソフトウェアの将来を「今から10年くらい前の電子計算機は、お得意さんに機械を供給すると、お得意さんが使いこなしていた。これが、最近ではコンピューターにソフト・ウェアをつけてお得意さんにこれも供給して満足を受けるように、ソフト・ウェアの業務がハードと統合されている」(経済同友 1966/6)と捉えていた。 [14][15][16][17][18]
- 日本電気 有価証券報告書 第187期(2025年3月期)【沿革】
- [14]1961年4月 事業部制を導入(通信機・電波機器・電子機器・電子部品・商品・海外の6事業部)
- [15]1961年10月 東京証券取引所市場第一部へ移行
- [16]1963年1月 米国にニッポン・エレクトリック・ニューヨーク社(現NEC Corporation of America)を設立
- [17]1975年9月 中央研究所完成
- 経済同友(1966年6月)
- [18]1966年の小林社長のソフトウェア観の発言(経済同友 1966/6)
1978年、小林宏治会長はインテルコム'78で「C&C(Computers & Communications)」の融合というコンセプトを提唱した。後に小林会長は「私はC&Cを提唱し、事業領域間の相乗効果を生かすべきだとしたのである」(構想と決断 1989)と、単独領域で世界と戦うには資源が足りないから領域間の相乗効果で対抗するしかなかった事情を明かしている。1982年10月発売のPC-9800シリーズは1990年代前半まで国内PC市場で過半のシェアを握り、1980年代にはDRAMで世界シェア首位を取った。1983年の業界誌は「日本電気は、ただのハイテク企業ではない」「『C&C』の提案に象徴されるように、巧みな時代感覚で『夢』をぶち上げる」「1981年からは『万年1位』の日立製作所を蹴落として3年連続1位となった」(強さの研究・日本電気 1983/12/26)とブランド上昇を評した。 [19][20][21][22]
- 日本電気 有価証券報告書 第187期(2025年3月期)【沿革】
- [19]1978年 小林宏治がC&C(Computers & Communications)の融合というコンセプトを提唱
- 構想と決断(小林宏治 著, ダイヤモンド社, 1989)
- [20]小林宏治の著書発言「私はC&Cを提唱し、事業領域間の相乗効果を生かすべきだとした」(構想と決断 1989)
- 日本電気 有価証券報告書
- [21]PC-9800シリーズは1982年10月発売
- 強さの研究・日本電気(1983年12月26日)
- [22]1983年業界誌のブランド評(3年連続1位等)(強さの研究・日本電気 1983/12/26)
- 日本電気 有価証券報告書 第187期(2025年3月期)【沿革】
- [14]1961年4月 事業部制を導入(通信機・電波機器・電子機器・電子部品・商品・海外の6事業部)
- [15]1961年10月 東京証券取引所市場第一部へ移行
- [16]1963年1月 米国にニッポン・エレクトリック・ニューヨーク社(現NEC Corporation of America)を設立
- [17]1975年9月 中央研究所完成
- [19]1978年 小林宏治がC&C(Computers & Communications)の融合というコンセプトを提唱
- 経済同友(1966年6月)
- [18]1966年の小林社長のソフトウェア観の発言(経済同友 1966/6)
- 構想と決断(小林宏治 著, ダイヤモンド社, 1989)
- [20]小林宏治の著書発言「私はC&Cを提唱し、事業領域間の相乗効果を生かすべきだとした」(構想と決断 1989)
- 日本電気 有価証券報告書
- [21]PC-9800シリーズは1982年10月発売
- 強さの研究・日本電気(1983年12月26日)
- [22]1983年業界誌のブランド評(3年連続1位等)(強さの研究・日本電気 1983/12/26)
多角化の重みが競争力分散として表面化した1990年代末
多角化は成長の装置であると同時に、競争力の分散装置でもあった。1990年代後半には韓国・台湾勢の台頭でDRAM事業の採算が悪化し、PC領域でもIBM互換機(DOS/V)の普及でPC-9800の独自規格の優位性が失われた。通信機事業は国内市場では強かったが、海外では北米・欧州のシーメンス・アルカテル・ノーテルなどに対して相対的な弱さを抱え、規模の経済で戦えない構造の弱点がじわじわと表面化した。1990年、社長の関本忠弘氏は「最高のソフトは理念なんです。私はいま、企業理念、企業文化は第5の経営資源であるという言い方をしています」(日経ビジネス 1990/6/18)と述べ、ソフトと理念で差別化する路線を打ち出していたが、DRAMとPCのハードウェア価格下落の圧力を覆すには至らなかった。C&C思想のもとで広げた事業領域の一つひとつが、世界市場の再編のなかで採算の取りにくい位置へ押し込まれ始めた。 [23]
- 日経ビジネス(1990年6月18日)
- [23]関本忠弘の発言「最高のソフトは理念なんです…企業理念、企業文化は第5の経営資源」(日経ビジネス 1990/6/18)
1999年2月、日経新聞は「1999年3月期の連結最終損益が過去最大の1500億円の赤字に転落する」「世界で従業員の約10%にあたる1.5万人を今後3年間で削減」「国内だけで9000人を対象」(日経新聞 1999/2/20)とリストラを報じた。2000年4月の社内カンパニー制導入は、3本柱を独立採算で運営して責任の所在をはっきりさせる試みだった。しかし同じ時期、半導体メモリ市場の価格崩壊で事業ポートフォリオの見直しは待ったなしになり、2002年11月には半導体事業を分社化してNECエレクトロニクスを設立した。祖業の一翼を本体から切り離す最初の大手術である。2003年4月に事業ライン制、2004年4月にビジネスユニット制と短期間で組織を入れ替え続けた事実は、最適な形を見つけられずにいた当時の迷走を物語っており、多角化の遺産を処理する組織設計が定まらないままDRAMの価格崩壊という外部環境の変化に直面した。 [24][25][26][27]
- 日本経済新聞(1999年2月20日)
- [24]1999年2月の日経報道:1999年3月期連結最終損益が過去最大1500億円の赤字/世界で従業員約10%・1.5万人を3年で削減/国内9000人対象(日経新聞 1999/2/20)
- 日本電気 有価証券報告書 第187期(2025年3月期)【沿革】
- [25]2000年4月 社内カンパニー制と執行役員制を導入
- [27]2003年4月 事業ライン制、2004年4月 ビジネスユニット制へ移行
- 日本電気 有価証券報告書
- [26]2002年11月 半導体事業を分社化しNECエレクトロニクスを設立
- 日経ビジネス(1990年6月18日)
- [23]関本忠弘の発言「最高のソフトは理念なんです…企業理念、企業文化は第5の経営資源」(日経ビジネス 1990/6/18)
- 日本経済新聞(1999年2月20日)
- [24]1999年2月の日経報道:1999年3月期連結最終損益が過去最大1500億円の赤字/世界で従業員約10%・1.5万人を3年で削減/国内9000人対象(日経新聞 1999/2/20)
- 日本電気 有価証券報告書 第187期(2025年3月期)【沿革】
- [25]2000年4月 社内カンパニー制と執行役員制を導入
- [27]2003年4月 事業ライン制、2004年4月 ビジネスユニット制へ移行
- 日本電気 有価証券報告書
- [26]2002年11月 半導体事業を分社化しNECエレクトロニクスを設立