外国の資本と結ぶことは、この会社にとって長く技術の入口であり、同時に官需を受ける資格を欠く理由でもあった。1899年に米ウェスタン・エレクトリック社の出資で発足した日本電気は、電話交換機と通信機を逓信省へ納めて伸び、1930年前後には官庁からの需要が売上の75パーセントを占めるまでになる。ところが国産化を求める声が強まると、逓信省は外資系会社に政策上の恩典を与えず、国産品優先の指名入札で契約すると定めた。技術を持っていることではなく、誰の資本かで受注の可否が決まる。1931年下期の純益は3万円で、5年前の100分の1まで減少していた。1932年に米側の持株を減らして住友電線へ譲渡したのは、技術の系統を保ったまま、欠格の理由だけを外す手であった。
住友の資本が入ってからの十年で会社が積んだのは、外国の設計図に頼らない製造の型である。1935年の玉川向工場、満州の放送局へ納めた100キロワットの真空管、1939年に東京とハルピンを3,000キロで結んだ無装荷ケーブル。いずれもウェスタン・エレクトリック社もシーメンス社も持たない方式で、中継器は自分たちで組むほかなかった。この蓄積は戦争に動員され、1938年に玉川向工場は陸海軍の監督工場となり、売上のほとんどが軍需向けに変わる。敗戦のとき人員は2万数千人から6,000人へ、工場は十数カ所から2カ所へ縮んだ。残ったのは設備ではなく、1952年に電電公社が240チャネルの外国機を示したときに100チャネルを200、400へ伸ばせる技術の側だった。
日本電気の誕生に先立ち、わが国の通信制度は段階的に整った。米国ウェスタン・エレクトリック社は、当時すでに世界一の通信機メーカーであった。同社は世界規模の事業展開の一環として、日本市場への進出を望んだ。日本では、1869年に電信、1877年に電話の利用が始まり、1890年には官営の公衆通信事業が本格的に動き出して、1896年には電話拡張の七カ年計画が成立していた("企業の歴史:明治百年"1968)。1898年に資本金5万円で設立されていた日本電気合資会社は、1899年の通商条約改正に合わせてウェスタン社の出資を受け入れ、資本金20万円の株式会社に改組された。前身の合資会社を土台に外国資本と組んで生まれたことから、日本電気は発足の時点から国際色の濃い会社であった。
NECは1899年7月、米国ウェスタン・エレクトリック社(W.E.社)との合弁により日本電気株式会社として設立された。日本初の外資系合弁メーカーであり、設立当初の主力事業は電話交換機と通信機だった。通信機産業は大量生産のノウハウと特許網が事業基盤を決める装置産業であり、国内に量産技術の蓄積が乏しかった当時、欧米資本と提携して技術を取り込む選択は合理的だった。1918年にはW.E.社の海外投資部門が分離してI.W.E.社がNEC株式を承継し、1925年にはI.W.E.社がITTに買収されインターナショナル・スタンダード・エレクトリック(ISE社)と改称した。NECは発足当初から欧米資本の一部として通信機事業を育てた。
1932年6月、ISE社はNECの経営を住友本社に委託した。これが後の住友グループとの関係の起点である。1941年12月、ISE社所有のNEC株式が敵国資産として処分され資本提携が解消、1943年に社名を住友通信工業株式会社へ変更した。敗戦後の1945年11月に日本電気株式会社へ戻し、1949年5月に東京証券取引所へ上場、1951年11月にISE社との資本提携を復活した。『電気通信分野の技術と業界の実情は(中略)特許の面では、9割までが外国特許であった。関連する素材、部品産業は、甚だ貧弱で存在しないにも等しい状況であった』(経済同友 1966/6)——後年に小林宏治社長が示した、当時の業界状況の見立てである。戦時下に外資との関係を一度断ち切り、戦後すぐ再接続する異例の経緯を持つ会社として、国際ネットワーク事業の基盤を欧米資本との継続的な関係のうえに置いた。
1930年前後の日本電気は、官庁からの需要が売上の75パーセントを占めていた。昭和に入ってからの金融恐慌に伴う不況へ強い国産化運動の台頭が重なり、外資系会社として存続すること自体が難しくなっていた。電話の自動交換化が進むにつれ、逓信省はウェスタン・エレクトリック社の技術を持つ日本電気へ発注を一手に寄せていた。会計検査院はこれを非難する報告を出し、議会も警告を決議した。国産品を使うべきだとの声が強まり、決着がつくまで電話拡張工事は止められた。これに政府の財政緊縮が重なり、公債発行の停止などで第三次電話拡張計画は半減して、削減された予算がそのまま受注の減少となった。1931年下期の純益は3万円にとどまり、5年前と比べて100分の1にまで縮んだ。
日本電気の株式は、アメリカ資本が過半を握っていた。その日本電気を追い込んだのが逓信省の定めた規程で、外資系の会社には政策面の優遇を認めず、以後の契約は国産品を優先する指名入札によるとした。差別的なこの扱いに同社は強く抗議したが、効果はなかった。住友電線東京支店長の矢島富造が1932年5月に渡米してITT社長のベーンと会談し、翌6月には住友側との交渉がまとまった。取り決めでは、アメリカ側の持株を50パーセントに下げ、その分を住友電線へ移して住友の持株を29パーセントに引き上げた。のちの増資を経て、両者の比率はアメリカ側33パーセント、住友側32パーセントまで近づいた。住友電線の常務取締役だった秋山武三郎が会長に、同じく技術部長だった志田文雄が専務に就任した。同年6月には、ISE社が日本電気の経営を住友本社に委ねている。
住友の資本を背にした志田文雄は、社内の危惧を押し切って1935年に川崎市玉川向への近代工場の建設を決めた。日本が満州と中国へ進出すれば、その神経組織として無線の需要が莫大になるという読みであった。工場の完成前後には、小林正次らの研究グループが満州の新京放送局へ納める100キロワットの大出力放送用真空管をつくり上げている。1939年6月には、逓信省の松前重義が提唱した無装荷ケーブル搬送方式によって、東京とハルピンを結ぶ3,000キロという世界最長のケーブルが完成した。ウェスタン・エレクトリック社もシーメンス社もつくっていない方式で設計図は無く、中継器は独自に組み上げるほかなかった。1930年の第三次電話拡張計画と国産奨励という要請に応えるかたちで、わが国の自主技術による通信機器開発の体制が根を張っていた。
1938年に玉川向工場が陸海軍の監督工場となり、軍から管理官が派遣された。管理官ははじめ工場管理人の選任と解任に口を出す程度だったが、やがて職制改正や社内人事にまで介入し、会社が内定した課長人事を大幅に変更させることもあった。労働力も原材料も軍の統制下に置かれ、売上のほとんどが軍需向けとなった。1941年12月にISE社の所有株式が敵国資産として処分され、1943年2月には社名を住友通信工業株式会社へ改めた。空襲で玉川向工場は焼失し、敗戦を迎えたときには2万数千人まで膨らんだ人員が6,000人まで減って、地方十数カ所へ疎開していた工場を整理し三田と玉川の2事業所へ集約した。財閥の解体を経て1945年11月に社名を日本電気へ戻したが、インフレのなかで税金の滞納と給料の遅配が続き、占領軍の追放令で梶井剛社長と丹羽保次郎専務が会社を去った。
長年積み上げた技術力が、この時期の再建を下から支えた。給料の支払いが遅れても、研究陣は新しい知識を求め続けた。ベル電話研究所のショックレーが1948年末にトランジスタを発明したと伝わると研究陣は沸き立ち、外国へ開かれた数少ない窓だった日比谷の米軍図書館に足しげく通って米国の雑誌を読んだ。同じころGHQ民間通信部の係官マギールが玉川事業所を訪れ、事業所長として生産を立て直していた小林宏治氏は、検査を後始末に終わらせず工程に組み込めば不良品をなくし品質もそろえられるという品質管理にこそ自分たちの求めるものがあると悟った。小林宏治氏は園部進を助手に据えてこれに取り組み、1952年に第1回デミング賞を受けた。
1952年7月、電気通信省が日本電信電話公社へ改組され、かつて日本電気の会長であった梶井剛が初代総裁に就任した。民間ラジオ放送が広まり、テレビ放送も始まった時期である。梶井はすぐに電信電話施設の第一次拡充五カ年計画を立て、全国の即時通話化を目標に掲げて、技術革新を取り入れられるだけ取り入れる方針を関連業界に示した。まず浮上したのがマイクロ波通信である。番組を中継する回線を同軸ケーブルで敷いていては工事に年月を要するため、電電公社は東京と大阪をマイクロ波で結ぶ構想を立てた。公社は国産メーカーにも注文を出す一方で外国機も輸入するとし、240チャネルを通せる外国機に対して、日本電気に求めたのは100チャネルであった。玉川の技術陣はこれを200、400と引き上げ、中継機の小型化や高感度受信方式を相次いで生み出した。
電電公社という相手ひとつが売上の半分近くを占め、製品の8割以上が受注ごとに設計から始まる一品料理では、規模が伸びても収益の形は変わらない。1964年度の日本電気は売上713億円のうち338億円が電電公社向けで、1人当たりの生産額は月25万円程度にとどまった。ここから抜ける道として採られたのが、自分の収益源を自分で置き換えることであった。従来のステップ・バイ・ステップ式交換機が収益を生んでいる最中にクロスバ交換機を出し、搬送電話の計算を楽にするための社内用として始めた電子計算機を事業へ育てる。1959年にパリの国際会議で実際に動いたトランジスタ計算機はNEACだけだった。
用途の無いものへ人と金を回し続けられるかどうかが、次の収益源の有無を決めた。1966年に集積回路設計本部を置いたとき、社内に集積回路の使い道は一つも無く、他の部門は人を出さず、事業は万年赤字であった。それでも投資を続けた結果、1968年に国内首位、1985年にテキサス・インスツルメンツを抜いて世界首位へ立つ。1985年3月期の売上はコンピュータ他電子機器が34パーセント、通信機器が33パーセント、電子デバイスが27パーセントと、三つの事業がほぼ等しく並んだ。ただし収益源が増えることは、どれかが傾いたときに残りが支えきれない重さを抱えることでもある。1999年3月期の連結当期純損失1,579億円は、その重さが顕在化した数字であった。
日本電気では嶋津保次郎や中嶋章らを軸に、電電公社の第一次拡充計画が始まるずっと前からクロスバ交換機を研究していた。拡充計画で市外線が整い、県庁所在地どうしで即時通話が可能になると、技術革新の焦点は電話交換機へ移った。交差させた棒でスイッチを組むクロスバ方式は、従来のstep-by-step方式に比べて安く済み、故障も少なく、動きも速かった。従来方式が会社にかなりの収益をもたらし、置き換えれば減収は避けられなかったが、技術担当常務の小林宏治氏は渡邊斌衡社長に問われて、減収になっても自分たちの手で置き換えるしかないと答えた。国産初のクロスバ交換機は1956年に栃木県の三和局で使われ始め、その後は市外局から市内局へと広がった。公社に納める製品は毎年の機種ごとに値下げを求められ、技術の向上と合理化で対処するほかなかった。
計算機づくりを言い出したのは、大学を出たての技術者であった。電電公社から搬送通信施設の小型化を迫られていた折、アメリカではデータの整理や計算を計算機が受け持っていると彼は伝え、まず計算機を手がければ搬送電話の生産も容易になると説いた。話を聞いた小林宏治氏は、電子技術を使う計算機がいずれ大きな意味を持つだろうと感じ取った。約100人の技術者が出川雄二郎の下に集められ、電電公社の電気通信研究所と東北大学の手を借りて、後藤英一の発明したパラメトロンによる計算機を完成させた。第一号機は東北大学へ直接納められ、SENACの名で呼ばれた。機種名はNEAC-1102である。3号機まで作ったところで、電気試験所で和田弘を中心に研究されていたトランジスタ方式を土台に、本格的な計算機の開発へ移った。
1958年には玉川製造所の一角に国内第1号のトランジスタ専門工場を設けており、ゲルマニウムが主流だった当時からシリコンに目を向けていた。トランジスタとダイオードは、それ以前から自社で作っていた。1959年6月、NEAC-2201と名付けたトランジスタ式電子計算機の一号機がパリのユネスコ主催情報処理国際会議へ空輸され、トランジスタ機で実際に動いたのはNEACのみ、しかも真空管式のIBM650より小型で性能も上回った。続く1960年には、当時としては大型の純国産機NEAC-2203を開発し、国内で30台を販売した。この技術力に目を留めた米国の計算機メーカーから提携の申し入れが相次ぎ、小林宏治氏が相手に選んだのはソフトウェアの技術に優れたハネウエル社であった。日本電気はトランジスタ式電子計算機の公開稼動へ世界で最初に成功し、この分野でも国内第一位となった。
渡辺斌衡氏は戦後の苦しい時期を切り抜け、日本電気を通信とエレクトロニクスを併せ持つ総合メーカーに育て上げた。1947年から17年間社長を務めた渡辺斌衡氏は、1964年11月に退いて取締役会長へ移った。後任の社長には副社長の小林宏治氏が就任した。もっとも渡辺斌衡氏の時代の末には、権限が社長ひとりに集まり、経営の硬直が進んでいた。小林宏治氏は就任後の記者会見で、開放経済の下で築いた自主体制を土台に会社を伸ばし、国内にとどまらず海外でも積極的に活動する方向を示した。1965年1月には最高経営陣を、社長をチームリーダーとする経営集団として組み直した。点から面へという言葉のとおり、社長の権限は分担役員にまで広げられた。同じ年の5月には、1961年から続けてきた5事業部を14事業部と3開発本部に分け直し、それらを4事業グループにまとめた。
1964年度の日本電気は、売上713億円のうち電電公社向けが338億円と47.4パーセントを占めていた。諸官庁向けが55億円、民需が257億円、輸出が66億円という構成で、製品の8割以上が受注生産であり、受注ごとに設計から始める一品料理が多かった。このため標準品を大量に生産することが難しく、1人当たりの生産額は月25万円から26万円の水準に留まっていた。1955年と比べて資本金は10億円から125億円へ、従業員は8,000人から28,000人へ、売上高は82億円から850億円の見込みへと10年で10倍に伸びたが、会社が次の数年に見込んだ成長は年15パーセント程度にとどまった。輸出は東南アジア向けが全体の6割以上を占め、米本土とヨーロッパには進出できずにいた。
半導体は長いあいだ資金を費やすばかりで利益の出ない事業だった。日本電気が電電公社のために開発した交換機用集積回路は不良品が多く、公社は日本電気1社を相手とする共同研究から撤退する意向を示した。それでも集積回路設計本部長の大内淳義は、会議で設備投資の資金を確保した。設計本部が置かれたのは1966年11月で、当時は集積回路を名に掲げた事業部を持つ企業が世界中どこにも無かった。社内には集積回路を使う用途がまったく無かった。小林宏治氏は作る側と使う側の技術者を混ぜた部隊を組むよう指示したが、通信をはじめ他部門は人員を出さなかったため、大内は各部門に頼み込んで人を集めるところから始めた。1967年に集積回路事業部が発足した。翌1968年、日本電気は国内の首位を日立製作所から奪った。この頃までに半導体・集積回路は、有線通信、情報処理と肩を並べる事業グループの一角を占めるようになっていた。
1985年にテキサス・インスツルメンツを上回り、世界最大の半導体メーカーの座に就くまでの道筋を担ったのは大内淳義である。大内に与えられた課題は、品質の改善などを通じて半導体事業を収益の出る構造へ作り替えることだった。そのためにメモリーの対米輸出を始め、あわせてシリコンバレーの中堅メーカー、エレクトロニック・アレイズ社を買収して米国での生産拠点を得た。同社の対米の足場は、1963年1月に設立したニッポン・エレクトリック・ニューヨーク社にさかのぼる。1985年3月期の日本電気は、単体の売上1兆8,893億円のうちコンピュータ他電子機器が6,373億円で34パーセント、通信機器が6,139億円で33パーセント、電子デバイスが5,076億円で27パーセントを占めた。経常利益は1,259億円であった。電電公社向けの受注生産だけで立っていた会社は、三つの事業がほぼ等しく並ぶ構造へ変わっていた。
日本からの輸出が伸びるにつれて米国との間に貿易摩擦が生じ、1977年には米半導体工業会が訪米した福田赳夫首相に会見を申し入れ、日本の集積回路関税の引き下げを求めるとともに、国の育成策に支えられて対米輸出が膨らんでいる点を問題にした。大内がミスター半導体と呼ばれるようになったのは、日本側の代表として米国に渡り、インテル副会長ロバート・ノイスを相手に産業政策や貿易統計を論じ合う公開の論争を繰り返したためである。1987年1月、米政府が半導体に制裁措置を発動し、摩擦は政治問題にまで広がった。通商産業省が生産と輸出の量を制限する行政指導を強引に申し入れたとき、これに真っ向から反対したのが日本電気であった。社長の関本忠弘氏は通産省批判を繰り返し、小林宏治氏はその行動に眉をひそめて、のちの両者の対立の遠因となった。
1980年に社長となった関本忠弘氏は、1989年度に経常利益1,332億円という過去最高の数字を出し、前年度の1,021億円から30パーセント伸ばした。1990年には600億円を投じた新本社ビルを三田に完成させ、小林宏治氏が打ち出した企業理念であるC&Cの旗を掲げ続ける方針を示した。一方で同年6月の株主総会まで、名誉会長と社長の確執は2年に及んでいた。会長の大内淳義は入退院を繰り返しながらその調停に当たり、総会で小林宏治氏は1949年以来41年間務めた取締役を退いた。事業は1993年7月に22の事業本部を置く体制へ組み替えられたが、広がった多角化の重みは収益を圧迫し、1999年3月期の日本電気は連結売上4兆7,594億円に対して経常損失2,247億円、当期純損失1,579億円を計上した。
NECは2000年4月、事業をソリューションズ・ネットワークス・エレクトロンデバイスの3つの社内カンパニーに再編し、執行役員制を導入した。1999年3月期の赤字を受けて、西垣浩司社長は、撤退や縮小の判断を先送りしてきた体制を赤字の原因とみていた。改革を主導した杉原瀚司常務は、ある事業の不振を他の事業が補ってきた構造がもたれ合いを生んだと説明した。それまで3事業部門は税引き後利益の30%を本社に納めるだけで、赤字の部門には負担が生じなかった。新制度では各カンパニーに株主資本の5%を資本コストとして課し、業績をAからFの6段階で評価して賞与に反映させた。開発・生産・販売の権限もカンパニーへ移し、取締役会は執行役員の監督と全社戦略の策定に役割を絞った。
西垣浩司社長は2000年2月に社内向けの「経営革新のホームページ」を設け、進行中の案件の情報を社員が閲覧できるようにした。毎月開いていた幹部会議は3カ月に1度に減らし、議事録と説明資料をイントラネットで公開した。西垣浩司社長は、改革が遅れた最大の原因を企業統治の不在に求め、経営の執行と監視を分ける必要を説いた。2001年1月には社外の有識者6人による経営諮問委員会と報酬委員会を新設し、役員の退職慰労金をほぼゼロにした。カンパニー制について、年報は『Greater transparency is another advantage of this system since managers are now more accountable for meeting targets.』と記した(訳:経営陣が目標達成への説明責任を負うため、透明性も高まる)。情報を社員と株主の前に出すことが、関本忠弘前会長の時代に生じた聖域を再び作らないための手段と位置づけられていた。
米国の景気減速を受け、NECは2001年2月に2001年3月期の連結純利益の見通しを900億円から600億円へ引き下げた。翌2002年3月期は通信機器、パソコン、電子デバイスの需要が同時に急減し、当期純損失は3,120億円に達した。損失の中心はNECエレクトロンデバイスで、DRAMとカラー液晶の価格急落により1,482億円のセグメント損失を計上した。西垣浩司社長は『過去最大の赤字が見込まれる事態に鑑み、従来の改革の内容・スピードでは不十分であるとの判断から、さらに一段踏み込んだ改革を断行しました。』と説明し、米国と英国でのDRAM生産の中止や旧世代設備の廃棄を実施した。カンパニー社長の戸坂馨氏は、資源をシステムLSIなど3分野に絞り、残る事業は資本調達を含め外部の力を使う方針を示した。カンパニーごとの損益を公開していたため、半導体の赤字は他部門の利益で相殺されずに示され、切り離しの議論を早めたとみられる。
NECは2002年11月1日、システムLSIを中心とする半導体事業を分社し、NECエレクトロニクスを設立した。NECは事業の方向を、IT・ネットワーク統合ソリューションと半導体ソリューションの2つに分け、特性の違いに応じて別の戦略をとると定めた。分社の狙いは、世界の半導体専業企業に対抗できる速さで意思決定し、財務基盤を強化することにあった。NECエレクトロニクスは2003年7月に上場し、資本市場から直接資金を調達できる体制を得た。NECは年報で、分社を短期間で実現できたのは2000年からのカンパニー制と権限委譲の成果だと位置づけた。4年後の説明会でNECは、上場によって資金調達の手段が広がり、親会社以外の株主の監視が経営を律していると評価した。
2003年3月28日、西垣浩司社長は代表取締役副会長に移り、NECソリューションズのカンパニー社長だった金杉明信氏が社長に就任した。NECは同年4月1日、社内カンパニー制を事業ライン制に改めた。ITとネットワークの両分野で融合が進み、カンパニーの壁を取り払って全社で統合ソリューションを提供する必要があるという判断だった。金杉明信社長は、組織の壁がなくなったことで技術と組織を超えた製品化が進んだと1年後に総括した。2004年3月期の目標とした営業利益1,800億円に対し、実績は1,827億円となった。当期純利益は411億円と黒字に転じ、1株6円の配当を再開した。社長の交代は、カンパニー制を築いた西垣浩司氏の体制から、カンパニーを横断する体制への移行と重なっていたと考えられる。
NECのパソコン事業は、2001年3月期に売上高9,367億円を上げながら72億円の赤字だった。NECは生産子会社4社を統合したNECカスタムテクニカに調達から生産までを任せ、部品の9割を使った時点で仕入れるVMIを導入した。部品価格が週単位で下がるため、在庫を持たないことが損失の防止に直結した。2004年には使用済みパソコンを再生して販売する事業を本格化し、NECパーソナルプロダクツの片山徹社長は国内シェア首位の維持を掲げた。携帯電話では2004年2月に中国で薄型機N900を投入し、現行規格で4%程度のシェアを得てから3Gで上位を狙う計画を立てた。金杉明信社長は、中国の生産委託先を使って過剰在庫の危険を抑えつつ海外出荷を増やす方針を示した。
2006年4月、ネットワークス・カンパニー社長を務めた矢野薫氏が代表取締役執行役員社長に就任した。翌5月、NECは株式交換によりNECインフロンティアを完全子会社とした。NECはキーテレホンを担っていたNECインフロンティアを企業向けネットワークの開発部門と一体化し、IP電話の開発力を高めた。前年の2005年6月にも、NECソフトとNECシステムテクノロジーを株式交換で完全子会社としていた。2004年に金杉明信社長は、コア事業を担う子会社の上場は一段落したと述べていた。2007年7月の説明会でNECは、コア事業を本体と共同で担う会社は原則全株式を持ち、機能分担が明確な会社だけを上場させる方針を示した。
矢野薫社長は2007年6月、NGNの構築に要るITとネットワーク、半導体の3領域の技術を持つことを成長の根拠に据えた。通信事業者向け売上を約7,000億円から中期に1兆円へ増やし、その40%程度をNGN関連とする目標を示した。海外売上比率は約26%から早期に30%超とする計画だった。2007年11月には、NGN構築の売上を前年度の900億円から2,000億円へ倍増させる計画を据え置いた。2008年3月期は半導体とモバイルターミナルが営業黒字に転じ、NGN構築の売上も約2倍になったが、海外売上比率は25%にとどまった。ROEについて矢野薫社長は『グローバルな企業であるためには15%程度のROEが必要と思いますが、中期的にはまず10%を目標としています。』と述べ、2004年に掲げた15%から中期の目標を下げた。
NECは2009年3月期、連結当期純損失2,966億円を計上した。後半からの急激な景気悪化でエレクトロンデバイス事業が大幅な赤字となり、持分法による投資損失や投資有価証券評価損も重なった。NECは2009年1月、外部委託先を含むグループで2万人超の人員削減を発表した。固定費は2009年3月期比で2,700億円削減する計画を立てた。NECエレクトロニクスは製造ラインの一部を前倒しで閉鎖した。2007年7月の説明会でNECは、NECエレクトロニクスについて『NEC エレクトロニクスについては半導体事業という明確に区別できる機能を分担しており、上場によるメリットがあると考えています。』と答え、持株比率を見直さないとしていた。その方針を改め、NECは2009年9月にNECエレクトロニクスとルネサステクノロジの統合を決定した。
2010年4月、NECエレクトロニクスはルネサステクノロジと合併し、商号をルネサスエレクトロニクスに改めた。統合の目的は、半導体事業の経営基盤と技術力を強め、企業価値を高める点に置かれた。この合併で半導体事業は連結子会社から外れ、日本電気の持分法適用会社となった。同じ2010年4月、遠藤信博取締役執行役員常務が矢野薫社長の後任として社長に就任した。遠藤信博氏は1981年に入社し、モバイルワイヤレス事業部長やモバイルネットワーク事業本部長を務めた無線通信の技術者だった。2009年3月期の最終赤字2,966億円のあと、2010年3月期は固定費を3,209億円削減し、最終利益114億円に回復していた。損益の振れが大きい半導体を連結から外し、通信出身の社長を立てたことで、経営の重心は通信とITへ移ったとみられる。
中期経営計画「V2012」は、遠藤信博氏の社長就任に先立つ2010年2月に策定された。2013年3月期の目標は売上高4兆円、営業利益2,000億円、当期純利益1,000億円、ROE10%だった。注力領域は「C&Cクラウド戦略の推進」「グローバル事業の拡大」「新規事業の創出」の3つである。海外売上高は当時の約2倍の1兆円とし、売上高比率25%を目標に置いた。ITとネットワークの双方の技術を持つ日本電気にとって、クラウドは強みを発揮できる領域だという判断が計画の前提にあった。成長投資の資金として、新株発行で1,185億円を調達した。遠藤信博社長は就任後、世界5極の地域統括会社を置く体制づくりを進めた。
携帯電話機事業は2010年6月、カシオ日立モバイルコミュニケーションズとの統合で、NECカシオモバイルコミュニケーションズとして再出発した。統合の目的は、端末の競争力を強め、海外を含めて事業を広げることにあった。パソコン事業では2011年3月期中に、レノボ・グループと事業統合に関する戦略的提携に合意した。2012年3月期には日本のパソコン事業をレノボと統合し、個人向けパソコン事業は持分法適用会社となった。半導体に続いて端末でも、日本電気は単独での事業運営を改めた。国内市場が縮小するなかで、端末の開発費を1社で負担し続ける余地は小さいと判断したと推察される。
2012年3月期の連結当期純損益は1,103億円の損失となり、期初計画の150億円の利益を大きく下回った。営業利益も期初計画900億円に対して737億円にとどまった。繰延税金資産の見直しに加え、人員削減を含む事業構造改善費用405億円を特別損失に計上した。遠藤信博社長は前年の年報で、『グローバルな事業体制の構築や新製品・新サービスの開発など事業拡大に向けた施策の実行スピードに課題が残りました』と記していた。日本電気は売上高4兆円の目標を取り下げ、売上高3兆円でも営業利益1,000億円以上を安定して計上できる体質への転換に方針を改めた。人員は2012年9月末までに国内約7千人、海外約3千人、合計1万人を削減する計画とした。
2013年3月期、日本電気は約1万人の人員削減を完遂し、計画どおり400億円の営業利益改善効果を得た。営業利益は1,146億円、当期純利益は304億円となり、1株4円の配当を再開した。一方でV2012の目標は達成できず、遠藤信博社長は『IT領域で海外での大型M&Aを実現できなかったことなどもあり、グローバル成長の道筋をつけることができませんでした』と説明した。2013年4月には「2015中期経営計画」を発表した。計画は、ICTで社会インフラを高度化する「社会ソリューション事業」に経営資源を集中する方針を掲げた。海外はグローバル全域ではなく、セーフティ事業の基盤があるアジアに絞った。2016年3月期の目標には営業利益1,500億円、フリー・キャッシュ・フロー1,000億円、営業利益率5%を置いた。
2014年3月期、日本電気は携帯電話端末事業でスマートフォンの新規開発を中止し、事業を大幅に縮小した。構造改革費用として約220億円を特別損失に計上した。スマートフォンの競争力不足は、2012年3月期に営業利益が期初計画を下回った要因の一つだった。2012年の構造改革では、国内での開発と生産の一部を海外に委託する方針を示していた。遠藤信博社長は2014年の年報で、撤退によって同事業の課題は解消したとの認識を示した。同じ年報は、2015中期経営計画で社会ソリューション事業を中心とする事業構造への転換を決めたと説明した。開発投資を続けても海外勢との規模の差を埋める見通しが立たなかったのだろう。
2014年3月期、日本電気はインターネット接続サービスのNECビッグローブの株式を売却した。同じ年度に、携帯電話販売のNECモバイリングの株式も売却した。遠藤信博社長は、2社の売却によって社会ソリューション事業への注力をより明確にしたと説明した。経営陣はこの1年、売上規模が3兆円まで縮小した日本電気が何に注力すべきかを議論していた。2014年3月期の当期純利益は、関係会社株式の売却益などで337億円となり、期初計画の200億円を上回った。2015年3月期にはインターネットサービス事業と携帯電話販売事業の非連結化で、その他の事業の売上高が減少した。NECビッグローブの事業譲渡は、2015年3月期の年報にも記された。消費者向けの2事業を外したことで、顧客の中心は官公庁、企業、通信事業者へ移った。
事業の入れ替えは、ビッグローブとモバイリングの売却にとどまらなかった。2013年3月期には電子部品のNECトーキンが米国ケメット社との資本業務提携で連結子会社から外れた。ルネサスエレクトロニクスも、産業革新機構などへの第三者割当増資で持分法適用会社から外れることになった。反対に、米国コンバージス社の通信事業者向け事業支援システム事業と、豪州CSG社のITサービス事業を買収した。2014年3月期には、運用・保守サービスのNECフィールディングを完全子会社化した。遠藤信博社長は、注力事業ベースの売上高が2011年3月期から増加を続け、2014年3月期も前年度比約6%増えたと説明した。
2015中期経営計画の最終年度にあたる2016年3月期、連結売上高は2兆8,211億円、営業利益は1,073億円だった。営業利益は目標の1,500億円を400億円以上下回った。2014年3月期と2015年3月期は期初の利益計画を達成していたが、最終年度に売上高と営業利益が当初計画を大きく下回った。目標との差が大きかったのは、テレコムキャリア事業とスマートエネルギー事業だった。日本電気はその原因を『それぞれにおける市場への過度な期待や、計画値を達成するための実行力の不足が要因であると考えています』と総括した。フリー・キャッシュ・フローとROEも目標に達しなかった。社長は2016年4月に遠藤信博氏から代表取締役執行役員副社長の新野隆氏へ交代することが決まり、次の計画は新体制に委ねられた。
2016年4月、副社長の新野隆氏が代表取締役執行役員社長兼CEOに就任した。直前の2015中期経営計画は、最終年度の2016年3月期に売上高と営業利益がともに計画を大きく下回った。新野隆社長はその原因を『当年度の営業利益目標と実績を比較すると、テレコムキャリア事業とスマートエネルギー事業の未達幅が大きく、それぞれにおける市場への過度な期待や、計画値を達成するための実行力の不足が要因であると考えています。』と総括した。そのうえで2019年3月期を最終年度とする「2018中期経営計画」を掲げ、営業利益率を3.2%から5%へ引き上げる目標を置いた。方針の先頭は「収益構造の立て直し」で、不採算案件の抑制、スタフ業務の効率化、開発・生産機能の統合で費用を減らすとした。成長の源はセーフティ、グローバルキャリア向けネットワーク、リテール向けITサービスの3事業に絞った。成長より先に利益率の目標を置いたのは、前計画の未達を市場の読み違いと実行の不足に帰したためだろう。
計画初年度の2017年3月期、NECは2017年1月に業績予想を下方修正した。売上収益は期初計画の2兆8,800億円に対し2兆6,650億円、営業利益率は3.5%に対し1.6%にとどまった。計画は国内の既存事業が横ばいで推移し、海外中心の注力3事業で売上を拡大する前提だったが、既存事業が目標を下回り、注力3事業の立ち上げも遅れた。新野隆社長は『この最大の原因は、市場環境や顧客動向の変化に対応したマネジメントの実行力が不足していたことだと考えています。』と記した。NECは2017年7月の年報で、新たな中期経営計画を年内に策定し、計画の策定プロセスも改める方針を示した。のちの統合レポートは、営業利益1,500億円の目標の実現が困難になったため中計期間の途中で目標を見直したと説明した。
2016年7月、公正取引委員会は東京電力との電力保安通信用機器の取引について、NECに独占禁止法違反行為があったと認定した。2017年2月には消防救急デジタル無線機器の取引と、中部電力との光通信装置などの取引で、排除措置命令と課徴金納付命令を受けた。NECは2017年3月期に偶発損失引当金繰入などを計上した。2018年3月期の業績見通しには、命令に伴う指名停止による減収を織り込んだ。新野隆社長は全従業員にコンプライアンスのメッセージを繰り返し発信し、公正取引教育と社内審査・モニタリングの制度を見直した。官公庁と電力会社は社会インフラ事業の中核顧客であり、計画の作り直しと並行して受注基盤の信頼回復が課題になったと考えられる。
2018年1月、NECは2021年3月期を最終年度とする「2020中期経営計画」を策定した。目標は売上収益3兆円、営業利益1,500億円(営業利益率5%)である。方針は「収益構造の改革」「成長の実現」「実行力の改革」の3つである。収益構造の改革では、国内の間接部門とハードウェア事業領域を対象に3,000人の構造改革を実施し、SGA比率20%以下を目指すとした。NECは2019年3月期に特別転進支援施策と生産拠点の再編を実施し、その理由にSGA水準が他社より高いことへの危機感を挙げた。実行力の改革を新野隆社長は計画の中で最も重視し、NECについて『一度言ったこと・決めたことを最後までやり抜く実行力が不足していることも課題であると捉えています。』と記した。執行役員は1年任期の委任契約に改め、結果責任を厳しく問う制度とした。
NECは2018年1月に英国のNorthgate Public Services社を買収した。2019年2月にはデンマークのKMD Holding社も買収した。2020中期経営計画の策定時点で、NECは売上収益の増加分をほぼ海外で実現し、国内の売上収益は前計画並みの水準で推移すると見込んでいた。KMD社はデンマークの中央・地方政府向けソリューションで首位のシェアを持ち、継続的に収益を生むリカーリング型の事業を営んでいた。NECは両社を通じた追加の買収で「NEC Safer Cities」の提供価値を広げる方針を示した。目標は2020年度に海外売上高2,000億円、営業利益率5%である。2件の買収に投じた額は約2,000億円である。森田隆之副社長兼CFOは2020年に、両社の統合作業は順調に進みシナジーも出始めたと評価した。
2020年6月25日、NECは日本電信電話(NTT)と資本業務提携の契約を結び、NTTを割当先とする第三者割当増資を決めた。払込金額の総額は644億6,682万円で、2021年3月末のNTTの持株比率は4.77%となった。提携の目的は光・無線技術を用いたICT製品の共同研究開発とグローバル展開で、「O-RAN」などオープンアーキテクチャの普及促進にあった。NECは2020年の統合レポートで、ネットワーク事業の弱みにコモディティ領域の価格競争力の低さとグローバル実績の不足を挙げた。対策はオープン化とエコシステムを軸に海外で製品をつくり込むことで、メガベンダーによるオープン化への抵抗を脅威と位置づけた。単独では海外大手と規模で競えないため、NTTと並んで基地局仕様の開放を進める方針を選んだとみられる。
2020年10月3日、NECは取締役会でスイスの金融ソフトウェア企業Avaloq Group社の買収を決め、12月22日に連結子会社とした。取得の対価は2,168億8,600万円である。Avaloq社は30ヵ国150社を超える金融機関に金融資産管理のソフトウェアを提供していた。SaaS型で継続的に収益を得る事業モデルで成長していた。NECはこの買収でデジタル・ファイナンス領域のソフトウェアとドメイン知識を得て、同領域にグローバルで参入するとした。狙いはNorthgate、KMDと合わせた欧州3社のSaaS基盤に、NECの生体認証やAIを組み合わせてシナジーを生むことにあった。KMD社を含むグループの販路でAvaloq社のソフトウェアを海外に広げる計画も示した。
2020中期経営計画の最終年度にあたる2021年3月期、NECの営業利益は1,538億円となり、目標の1,500億円を上回った。売上収益は2兆9,940億円で、3兆円の目標には届かなかった。藤川修CFOは、不採算案件の抑制と新型コロナウイルス感染症に対応した費用削減が営業利益率5.0%の達成につながったと説明した。5G基地局の出荷が本格化したことも、売上の減少を前年度比3.3%にとどめた。新たな統合レポートは前計画を『2020年度は前中期経営計画で目標としていた営業利益率5%を達成し、財務的な体質改善と事業成長のための布石もしっかりと打つことができたと評価しています。』と総括した。売上の目標は未達のまま残ったが、2度の中計未達を経て利益の目標を達成した。2021年4月、新野隆社長は代表取締役副会長に移り、森田隆之副社長が社長兼CEOとして次の計画を担った。
2021年4月、森田隆之氏が代表取締役執行役員社長兼CEOに就任し、新野隆社長は代表取締役副会長に移った。森田隆之社長はそれまでに、合計50件以上のM&Aや事業譲渡、合弁会社の設立と解消に携わってきた。2018年、CFOだった森田隆之氏は2020中期経営計画をある投資家に説明した。その投資家は過去の中計がどれも未達だったことを挙げ、NECを信用できないと突き放した。当時のNECは、市場に示した中計も毎年度の業績計画も守れていなかった。森田隆之社長はこの場面を振り返り、『約束を守れない会社は信頼されず、話すら聞いてもらえないのだ』と感じたと記している。その2020中期経営計画は、過去最高の最終黒字を計上して超過達成で終わった。新社長の最初の課題は、一度の達成を市場からの継続的な信用に変えることにあったとみられる。
2021年5月、NECは2021〜2025年度の5年間を対象とする2025中期経営計画を発表した。最終年度の目標は、売上収益35,000億円、調整後営業利益3,000億円、調整後営業利益率8.6%に置いた。EBITDAの年平均成長率9%と、2025年度のROIC6.5%も目標指標に加えた。計画期間を従来の3年から5年に延ばした理由は、投資から回収までに要する時間にあった。森田隆之社長は、短期の利益を優先する期間損益主義を断つ狙いもこの期間設定に込めたと説明した。成長事業にはデジタル・ガバメント/デジタル・ファイナンスとグローバル5Gを挙げ、国内ではIT事業の変革を掲げた。4年後の決算説明会で、森田隆之社長は『2021年に2025中計を発表した翌日に株価が14%下落しましたが、挫けずにしっかりと構造改革と先行投資を実施したのが現在に活きていると思っています。』と振り返った。
2022年の統合レポートで、森田隆之社長は過去の中期経営計画が未達に終わった背景を自ら分析した。NECの売上高と営業利益は、2000年頃を境にともに減少した。その間もNECは、半導体やパソコン、携帯電話端末、大型蓄電池のすべてで競争優位を得ようとしていた。森田隆之社長は、投資とリターンの時期を精査して領域を絞る「財務戦略と事業戦略の一体化」が徹底されていなかったと総括した。長期の利益より短期の利益を追う期間損益主義と、全社より部門の利益を優先する部門損益主義も課題に挙げた。同じ統合レポートは、1899年の設立、1977年のC&C宣言、2013年の社会価値創造型企業への変革宣言を三つの創業として整理した。2025中期経営計画は、過去の撤退の原因を先に言葉にし、その反省を計画の設計へ組み込んでいた。
2023年6月、NECは監査役会設置会社から指名委員会等設置会社へ機関設計を移した。森田隆之社長は目的を意思決定の迅速化とガバナンス体制の強化に置き、経営陣で1年以上議論した末の結論だと説明した。移行後の取締役会は社外取締役による監督機能を強め、執行役へ権限を委譲した。社外取締役にはグローバル経営の経験者が増え、M&Aや中計に建設的な意見を出すようになった。同じ2023年度には、事業セグメントを「ITサービス」と「社会インフラ」の二つに改めた。投資家から「NECはわかりにくい」という声を受けており、中計の進捗を外から追える開示に変える狙いがあった。前年の2022年度には、階層を減らして組織を平らにし、現場への権限委譲も進めていた。
2023年11月30日、藤川修CFOは2025中期経営計画の進捗を説明し、全社の目標を据え置いたまま事業ごとの計画を改めた。国内ITサービスは想定以上に伸びた一方、グローバル5Gは海外市場の立ち上がりが遅れて構造改革に至っていた。グローバル5Gの2025年度目標は、売上収益を当初比630億円引き下げて1,270億円とした。同事業の調整後営業損益は、2022年度に311億円の赤字だった。森田隆之社長は、海外の通信事業者によるOpen RAN導入の本格化に当初の見通しより時間がかかっていると説明した。更新後の計画には、政府の防衛予算増加に伴うナショナルセキュリティ事業の成長を織り込んだ。翌2024年の統合レポートで、森田隆之社長は『懸案だった5G事業については4Gからの移行投資の到来が遅く、当初の戦略を大幅に見直してキャッシュアウトを抑え、潮目の変化を伺います。』と記した。
2024年5月、NECは価値創造モデル「BluStellar」を発表した。森田隆之社長は、BluStellarは製品名ではなく、自社を最初の顧客として変革した知見と技術、人材の総称だと説明した。背景には、低収益事業の改善が進んでも利益率が競合に劣後しているという認識があった。森田隆之社長は社員に『お客さまから正当な対価を得られないのなら、構わないから仕事をお断りしなさい』と伝え、2023年度からは提案時点で採算をデータで見える化する仕組みを始めていた。BluStellarでは、約1万点に分かれていた製品群を、500の商材へ集約した。シナリオ型の商材は、それ以外の商材より利益率が3〜5%程度高かった。2025年度第1四半期には、BluStellarの利益率が前年比2.1ポイント向上した。
2024年10月30日、NECは上場子会社のNECネッツエスアイ株式に対し、1株3,250円で公開買付けを開始した。目的は、NECネッツエスアイ株式のすべてを取得して非公開化することにあった。NECは応募の状況を踏まえて期間を延ばし、12月20日には買付価格を3,300円に引き上げて最終とした。引き上げの理由は、NECネッツエスアイの株価が買付価格を上回って推移し、成立の確度を高める必要があったためだった。NECネッツエスアイは2025年3月に完全子会社となった。その後、NECネッツエスアイとNECネクサソリューションズの再編でNESICホールディングスが生まれた。森田隆之社長は、その機能を統合・強化して「日本のDX」を進める方針を示した。
2026年1月29日の決算説明会で、藤川修CFOは従来型の専用ハードウェアによる基地局販売を2025年度末までに終息させると説明した。対象はRUやCUと呼ばれる装置で、2026年度の売上への影響は軽微とした。営業損益では、2025年度以降に年50億円強の改善が続く見込みを示した。余剰となる人員はANS事業などへ移し、追加の構造改革費用は想定しないとした。テレコム部門では、2024年度の1年間ですでに1,500名程度を他の領域へ移していた。森田隆之社長は2025年の統合レポートで、インフラ投資が振るわないテレコム領域でコストの適正化を続けると記していた。2023年の目標引き下げから2年あまりで、グローバル5Gは成長事業から終息の対象へ位置づけが変わった。
2025年10月29日、NECは米国のCSG Systems Internationalの買収を発表した。買収総額は約29億米ドル(約4,417億円)だった。CSGは米国の通信・ブロードバンド事業者にBSSソフトウェアを提供しており、米国子会社Netcrackerと顧客基盤が補い合う関係にあった。資金は手元現預金と新規借入で充当し、完了は2026年中を見込んだ。同年11月のIR Dayでは、BluStellarの売上高と利益率について『売上高1兆円・利益率20%はミニマムの目標です。』と示した。その達成時期は、2026年度から始まる次期中期経営計画の期間中とした。森田隆之社長は次期中計について、Non-GAAP営業利益率15%や企業価値10兆円が視野に入ると記した。
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|---|---|---|---|---|
| 1899〜1954年外資合弁から住友傘下へ、国産化と戦争が置き換えた事業基盤 | W.E.社との合弁で日本電気を設立 | ★★ | ||
| W.E.社が海外投資部門を分離しI.W.E.社が日本電気株を承継 | ★ | |||
| I.W.E.社がITTの子会社となり親会社がISE社に商号変更 | ★ | |||
| ISE社が日本電気の経営を住友本社に委託 | ★★ | |||
| ISE社所有の日本電気株式が敵国資産として処分 | ★ | |||
| 社名を住友通信工業に変更 | ★ | |||
| 社名を日本電気に戻す | ★ | |||
| 渡辺斌衡 | 東京証券取引所に上場 | ★ | ||
| 渡辺斌衡 | ISE社と資本提携を復活 | ★ | ||
| 1955〜1999年電電公社向けの受注生産から電子計算機と半導体へ広げた多角化 | 渡辺斌衡 | 事業部制を採用 | ★ | |
| 渡辺斌衡 | 東京証券取引所一部に移行 | ★ | ||
| 渡辺斌衡 | ニッポン・エレクトリック・ニューヨーク社を設立 | ★ | ||
| 小林宏治 | 中央研究所が竣工 | ★ | ||
| 田中忠雄 | コンピュータと通信の融合という全社ビジョン 1977年10月、米アトランタの通信展"インテルコム'77"の基調講演で、小林宏治会長がC&C(コンピュータと通信の融合)を世界へ提唱した経営判断。通信機・半導体・コンピュータの多角化を一つの事業ビジョンに統合し、1970年代末から1980年代にかけて全社へ定着させた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 関本忠弘 | PC-9800シリーズ発売 | ★★ | ||
| 関本忠弘 | 事業本部制を採用(22事業本部) | ★ | ||
| 西垣浩司 | 過去最大の連結赤字の公表と、金子尚志社長の退任 1999年2月、日本電気(NEC)が1999年3月期の連結最終損益が過去最大の1,500億円の赤字になる見通しと、世界の従業員の約10%にあたる1万5,000人の3年間削減を公表し、同時に金子尚志社長が突然退任して新社長の西垣浩司氏へ交代した経営判断。1978年のC&C提唱以来、関本忠弘会長を中心に約20年続いた経営体制の終わりでもあった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 2000〜2009年カンパニー制の導入と半導体のNECエレクトロニクス分社、2,966億円の最終赤字 | 西垣浩司 | 社内カンパニー制と執行役員制を導入 | ★ | |
| 西垣浩司 | 主力事業だった半導体の分社化と、本体からの切り離し 2001年、過去最大級の赤字に直面した日本電気(NEC)が、西垣浩司社長の主導で祖業の一翼である半導体事業を本体から切り離す判断に踏み切り、2002年11月にシステムLSI・マイコンを担うNECエレクトロニクスを分社設立した経営判断。初代社長には半導体の外で育った戸坂馨氏を充てた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 矢野薫 | NECインフロンティアを完全子会社化 | ★ | ||
| 矢野薫 | 連結最終赤字2,966億円を計上 | ★★ | ||
| 2010〜2015年遠藤信博体制でのルネサス統合とスマホ撤退、BIGLOBE売却 | 遠藤信博 | 遠藤信博氏が社長に就任 | ★ | |
| 遠藤信博 | 半導体子会社NECエレクトロニクスの切り出しと、他社との一本化 2009年4月27日、日本電気(NEC)は半導体子会社のNECエレクトロニクスを、日立製作所と三菱電機の半導体会社ルネサステクノロジと統合させると発表した。存続会社をNECエレクトロニクスとし、2010年4月に世界第3位の半導体会社ルネサスエレクトロニクスを発足させる経営判断で、矢野薫社長のもとで決めた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 遠藤信博 | FY11連結最終赤字1,103億円 | ★ | ||
| 遠藤信博 | NECカシオモバイルコミュニケーションズがスマホ新機種開発から撤退 | ★★ | ||
| 遠藤信博 | BIGLOBEをKKR系ファンドに売却 | ★ | ||
| 2016〜2020年新野隆社長のもとでのITサービスと社会インフラへの絞り込み | 新野隆 | 新野隆氏が社長に就任 | ★ | |
| 新野隆 | 排除措置命令と課徴金納付命令を受け、公正取引の審査と教育を組み直した対応 2015年5月に東京電力との、2016年2月に中部電力との電力保安通信用機器の取引について、独占禁止法違反の疑いで公正取引委員会の立入検査を受けた。2016年7月には東京電力との取引に独占禁止法違反行為があった旨の認定を受け、2017年2月2日に消防救急デジタル無線機器の取引で、同月15日に中部電力とのハイブリッド光通信装置および伝送路用装置の取引で、それぞれ排除措置命令および課徴金納付命令を受けている。 課徴金の額は有価証券報告書に記載がない。 詳細を読む | |||
| 2021〜2026年森田隆之氏の2025中期経営計画とNECネッツエスアイの完全子会社化、5G基地局の終息 | 森田隆之 | 新野隆から森田隆之に社長兼CEO交代 | ★ | |
| 森田隆之 | ハード売り切りからの脱却と、再成長に向けた事業モデルの組み替え "捨て続けた10年"で祖業周辺を整理し国内IT事業へ集中したNECが、2021年4月就任の森田隆之社長のもとでハードの売り切りビジネスから脱却した戦略。2021年4月発表の2025中期経営計画を出発点に、DX・生成AI・セキュリティを統合する価値創造モデル"BluStellar"を2024年5月に公表し、社会価値と経済価値の同時実現を掲げた。2020年代を通じて固まった面的な事業モデルの再設計にあたる。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 森田隆之 | 監査役会設置会社をやめ、監督と執行を分けて意思決定を速めるための組み替え 2023年6月22日の第185期定時株主総会の決議により、NECは監査役会設置会社から指名委員会等設置会社へ移った。移行の時点で取締役は12名、うち7名が社外取締役で、指名・報酬・監査の3委員会が法定の委員会として置かれた。取締役会は取締役および執行役の職務執行の監督と、経営の基本方針に関する重要事項の審議を担う。 監督と執行を明確に分け、取締役会から執行役へ大幅な権限を委譲することで、意思決定と事業遂行の迅速化をはかる組み替えである。 詳細を読む | |||
| 森田隆之 | NECネッツエスアイを完全子会社化 | ★★ | ||
| 森田隆之 | 従来型の5G基地局(RU・CU)事業を2025年度末で終息すると発表 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(NEC)