1918年〜 電気器具製作所から「ナショナル」ブランド家電最大手への展開
- 1918年松下幸之助が松下電気器具製作所を設立創業
- 1923年砲弾型電池式ランプを考案発売
- 1927年「ナショナル」の商標を制定
- 1933年門真に本店を移転、事業部制を採用
- 1935年松下電器産業株式会社に改組
- 1952年フィリップス社との技術提携で松下電子工業を設立
- 1964年熱海会談を開き、新販売制度で系列販売網を刷新
パナソニックの業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
資金200円の土間工場から始まった配線器具メーカー
創業者の松下幸之助氏は1894年に和歌山県に生まれ、家計の困窮から9歳で大阪の自転車店に丁稚奉公に出された。15歳で電力会社の大阪電灯に就職して配線工事に従事し、丁寧な仕事ぶりで22歳にして検査員に昇格した。しかし実働2〜3時間の安定した職に物足りなさを感じ、在職中に研究していた新型ソケットの事業化を志して1917年に退職した。「よし会社を辞めよう。7年間の努力も惜しいが」(私の履歴書 経済人1 1980/6)。退職金と知人からの借入を合わせた約200円を元手に、自宅の二間を土間に改装して妻の弟である井植歳男氏とともに配線器具の製造を開始した。当初はソケットの販路がまったく開けず質屋に財産を入れる日々が続いたが、1917年末に扇風機向けの碍盤を受注して黒字化の糸口を掴み、1918年3月に松下電気器具製作所を正式に創業した。 [1][2][3][4]
- 日本経済新聞(1989年4月27日)
- [1]松下幸之助は1894年に和歌山県に生まれた
- [2]松下幸之助は1917年に大阪電灯を退職し配線器具の製造を開始
- [3]妻の弟である井植歳男とともに配線器具の製造を開始した
- パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
- [4]1918年3月 松下電気器具製作所を設立創業し配線器具の製造を開始
1923年、松下氏は丁稚奉公時代に自転車店で体感した夜間走行の不便さに着目し、砲弾型の電池式ランプを開発した。従来品の寿命2〜3時間に対して30〜50時間の持続を達成したが、無名メーカーに問屋は関心を示さなかった。松下氏は全国の小売店にランプを無償で配布して店頭で点灯させ性能を証明する販促策で販路を切り開いた。このランプはのちに改良されて「ナショナルランプ」として売り出され、乾電池工業の飛躍の基となった。1927年には統一商標「ナショナル」を制定し、以後「マネシタ電器」と揶揄されながらも新製品投入のたびに既存の信頼を転用できるブランドの仕組みを作った。1932年5月5日には全店員を集めて第1回創業記念式を行ない、その席で「水道哲学」を打ち出した。後年松下氏は「生活に必要な物資を、水道の水のように安く、無尽蔵に提供する。そうすれば、この世の中から貧乏人はなくなる」(読売新聞 1982/07/30)と語っている。翌1933年に門真へ本店を移転して製品別の事業部制を採用した。体が弱く一人の力には限界があると自覚した松下氏が、若い従業員に仕事を任せた経験がこの制度を生んだ。 [5][6][7][8][9][10]
- パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
- [5]1923年 砲弾型電池式ランプを考案発売
- [7]1927年 統一商標「ナショナル」を制定
- [9]翌1933年 門真へ本店を移転し事業部制を採用
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [6]砲弾型電池式ランプはのちに改良され「ナショナルランプ」として売り出され、わが国乾電池工業の一大飛躍の基となった
- [8]1932年5月5日 第1回創業記念式で松下幸之助が「水道哲学」を打ち出した
- [10]事業部制は、体が弱く自分一人の力には限界があると自覚した松下幸之助が若い従業員に責任ある仕事を任せる行き方を学びとった経験から生まれた
- 日本経済新聞(1989年4月27日)
- [1]松下幸之助は1894年に和歌山県に生まれた
- [2]松下幸之助は1917年に大阪電灯を退職し配線器具の製造を開始
- [3]妻の弟である井植歳男とともに配線器具の製造を開始した
- パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
- [4]1918年3月 松下電気器具製作所を設立創業し配線器具の製造を開始
- [5]1923年 砲弾型電池式ランプを考案発売
- [7]1927年 統一商標「ナショナル」を制定
- [9]翌1933年 門真へ本店を移転し事業部制を採用
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [6]砲弾型電池式ランプはのちに改良され「ナショナルランプ」として売り出され、わが国乾電池工業の一大飛躍の基となった
- [8]1932年5月5日 第1回創業記念式で松下幸之助が「水道哲学」を打ち出した
- [10]事業部制は、体が弱く自分一人の力には限界があると自覚した松下幸之助が若い従業員に責任ある仕事を任せる行き方を学びとった経験から生まれた
三種の神器とナショナル店会が築いた国内販売網
日本の総合電機産業は明治期の重電国産化に始まり、戦後は家電・重電・半導体・通信のあらゆる分野を手がける「総合」モデルが成長の原動力となった。日立製作所・東芝・三菱電機・ソニーとともに「電機5社」と呼ばれたパナソニックはその家電領域の中核企業に位置し、1951年に洗濯機の製造を開始、翌1952年にはオランダのフィリップス社との技術提携でブラウン管技術を導入して白黒テレビを発売した。さらに1953年には資本提携した中川機械(のちの松下冷機)を通じて冷蔵庫にも参入し、わずか3年で洗濯機・テレビ・冷蔵庫の「三種の神器」を全て網羅した。配線器具メーカーから総合家電メーカーへの転換を果たし、1954年には日本ビクターと資本提携して映像音響領域の製品基盤も拡充した。 [11][12]
- パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
- [11]1952年 オランダのフィリップス社との技術提携で松下電子工業を設立しブラウン管技術を導入
- [12]1954年 日本ビクターと資本提携
販売面では1957年にナショナル店会を発足させ、全国各地の零細な電器店をメーカー系列の販売網として組織化する独自の体制を整えた。1964年には家電の乱売競争による減収減益を受けて、すでに会長に退いていた松下幸之助氏が全国の販社社長を伊豆の熱海に招集し、長期手形に依存した取引慣行の是正と現金決済への移行を強く求めた。この「熱海会議」をきっかけに一地域一販社制への再編が進み、メーカーと販売店が利益を分け合う共存共栄の構造が制度として確立された。国内の販売基盤を固めた松下電器は海外展開にも乗り出し、1959年にアメリカ松下電器を設立して以降各地に製造販売拠点を設け、1971年にはニューヨーク証券取引所に上場して国際的な資金調達基盤と企業認知度を獲得した。 [13][14]
- パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
- [13]1959年 アメリカ松下電器を設立し海外展開を開始
- [14]1971年 ニューヨーク証券取引所に株式を上場
- パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
- [11]1952年 オランダのフィリップス社との技術提携で松下電子工業を設立しブラウン管技術を導入
- [12]1954年 日本ビクターと資本提携
- [13]1959年 アメリカ松下電器を設立し海外展開を開始
- [14]1971年 ニューヨーク証券取引所に株式を上場
フィリップス提携と子会社群の拡大が生んだ垂直統合体制
1952年のフィリップスとの技術提携は、松下氏が「貴社のロイヤリティと松下の経営力は対等に評価すべきである」(プレジデント 1973/10)と交渉した結果、イニシャル・ペイメントを支払う代わりに対等な関係を勝ち取った内容だった。1961年の業界誌は「泥くさい松下が、『量から質への転換』をしたのは外資との提携のためである」「テレビ、トランジスタブーム時代に、断然他者を圧倒する基礎となった」(実業の世界 1961/01)と評価している。松下電器は電子部品の内製化を進め、ブラウン管・コンデンサ・抵抗器といった主要部品の自社製造と組立加工までを自社グループ内で完結させる垂直統合体制へ移行した。1976年に松下電子部品を設立して電子部品製造部門を分離し、翌1977年には松下住設機器と松下産業機器を設立、1979年には松下電池工業を設立して電池製造部門を本体から切り出した。各子会社は事業部制の延長として独立採算で運営された。 [15][16][17][18]
- パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
- [15]1952年 フィリップスとの技術提携(イニシャル・ペイメント支払と対等な関係)
- [16]1976年 松下電子部品を設立して電子部品製造部門を分離
- [17]1977年 松下住設機器と松下産業機器を設立
- [18]1979年 松下電池工業を設立して電池製造部門を分離
この体制は1970年代後半の規格戦争で真価を発揮した。傘下の日本ビクターが開発した家庭用ビデオの規格VHS方式を松下電器が量産力と全国の販売網で強力に後押しし、ソニーのベータマックスとの競争を制して事実上の標準規格に押し上げた。各子会社が部品供給と最終組立の両面で規模の経済を追求する構造は、アナログ技術の時代における競争優位の源泉となった。1977年には創業家以外から山下俊彦氏が社長に就任し、「山下跳び」と呼ばれた抜擢人事で世代交代が進んだ。日経ビジネスは1974年の時点で「日本の家庭電化が大勢としてほぼ一巡したことでもある。松下電器の生みの親であり、育ての親でもある松下幸之助氏が、昨年7月に会長から相談役に名実ともに第一線を退いたのは、象徴的である」(日経ビジネス 1974/10/28)と節目を評していた。 [19][20]
- パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
- [19]日本ビクターが開発したVHS方式を松下電器が後押ししソニーのベータマックスとの規格競争を制した
- [20]1977年 創業家以外から山下俊彦が社長に就任(「山下跳び」)
- パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
- [15]1952年 フィリップスとの技術提携(イニシャル・ペイメント支払と対等な関係)
- [16]1976年 松下電子部品を設立して電子部品製造部門を分離
- [17]1977年 松下住設機器と松下産業機器を設立
- [18]1979年 松下電池工業を設立して電池製造部門を分離
- [19]日本ビクターが開発したVHS方式を松下電器が後押ししソニーのベータマックスとの規格競争を制した
- [20]1977年 創業家以外から山下俊彦が社長に就任(「山下跳び」)