前身・松下電器と創業者の松下幸之助氏
松下幸之助氏は、九歳で丁稚奉公に出て火鉢店と自転車店を経たのち、電気の仕事へ移った人物である。自転車店で六年を過ごしたのち、電車の普及で自転車の需要が細ると読んで転業を決めた。1910年10月に大阪電灯の幸町営業所へ内線係の見習工として入り、三カ月で配線工事の担当者へ昇進した。20歳から夜学へ通ったものの、尋常小学校を中退した松下幸之助氏には口頭筆記の授業が追えず中途で挫折した。1917年春には最年少で検査員へ昇格したが、実働二、三時間で済む職には熱が入らなかった。その少し前から手がけていた改良ソケットの試作品は上司に採用されず、かえって自ら事業を起こす意志が固まった。1917年6月、七年勤めた大阪電灯を辞め、翌1918年3月に改良ソケットを製品にするための独立。
独立したときの手元資金は、退職金33円20銭と会社の積立金42円、貯金20円ほどを合わせて百円に満たなかった。作業場は住んでいた大阪市東成区猪飼野の借家の一部屋で、二畳と四畳半の半分を土間にして充てた。義弟の井植歳男氏と大阪電灯時代の同僚二人を加えた四人でソケットの製造を始めた。同僚の林氏はその友人から100円を借りて資金を継ぎ足したが、完成した品は十日間で10円足らずしか売れなかった。売り先の見当がつかず、同僚二人は自活の道を求めて離れ、松下幸之助氏夫妻は着物を残らず質屋へ入れた。改良した製品を作る力と、それを買い手へ届ける経路とは、まったく別の資源であった。
ソケットが売れないなかで事業をつないだのは、扇風機の碍盤という下請の注文であった。川北電気から碍盤1,000枚を請け負った松下幸之助氏は、井植歳男氏と徹夜で仕上げて年内に納め、80円の利益を得た。碍盤の注文はその後も続いたため事業の継続を断念せずに済み、翌1918年の正月には2,000枚の第二回の注文が入った。同年3月、家賃16円50銭の借家へ移り、3月7日に大阪市此花区大開町で松下電気器具製作所を興した。碍盤の下請を続けるかたわら、自ら改良設計したアタッチメントプラグの製造に入った。下請の工賃が、理念を試すための時間を買ったのであった。
大開町で最初に当たったのはアタッチメントプラグであった。松下幸之助氏は古電球の口金を応用して原価を抑え、市価の3割安で売り出したところ注文に応じ切れず、初めて四、五人を雇った。続く二灯用差込みプラグは実用新案を取り、関東方面へも販路が伸びて月産5,000個に達し、従業員は1918年末に20人を超えた。空き家になった隣家を借り受けて工場とし機械設備も増設したが、それでも注文に応じ切れなかった。松下幸之助氏は大阪の吉田商店と保証金3,000円で一手販売の契約を結び、その資金を工場の拡張へ充てた。1922年7月には大開町に約330平方メートルの土地を借り、工場と事務所を建てた。
1922年の松下電気器具製作所は製品を月産1万5,000円分まで伸ばし、従業員は50人となっていた。配線器具は十数種を揃えていたが、当時の主力品であるキーソケットには手を出していなかった。価格競争が激しいうえ製品としても研究し尽くされ、独自の改良の余地がなく採算が合わなかったためである。取引先からは発売を求める声が強く、配線器具の作り手としての体面もあったが、松下幸之助氏は『あせったり、面目にこだわったりしてはならない。仕事はどこまでも成り立つ基礎の上に立たねばならない』という信念から無理な発売を控えた。同じころ松下幸之助氏は、事業の不振は運ではなく経営の進め方が当を得ていないためだと同業者へ語っていた。売れている市場ではなく、自らの改良が価格へ転嫁できる市場だけを選んだのが、この時期の製品選択であった。
1923年3月、松下幸之助氏は砲弾型の電池式自転車ランプを考案し発売した。当時の自転車の灯火はろうそくか石油ランプが大半で、電池式のものは寿命が二、三時間と短く故障も多かった。半年をかけて百個近い試作を重ねた砲弾型は、三十時間から五十時間もった。それでも粗悪な電池式ランプに懲りていた問屋はどこも扱わず、在庫は2,000個に達した。松下幸之助氏は三十時間以上の点灯試験をして納得できたら取引してほしいという条件で、大阪市内の自転車店へランプを預けて回った。この直接の宣伝は二、三カ月で月2,000個の販売となり、一年後には月産1万個に達した。
1927年4月、松下電気器具製作所は砲弾型を改良した角型ランプを発売し、ここからナショナルの商標を使い始めた。商標そのものは1925年6月29日に、M矢マークに次いで登録されていた。1928年4月には練りもの配線器具専門の第3工場を、11月にはランプ組立の東京分工場を開設した。同じ年に月の販売額は10万円を超え、従業員は300人に達した。1929年3月には研究部を新設して商号を松下電器製作所へ改めた。1930年にはラジオ部門への進出と同時に乾電池を直営とし、翌1931年9月には競合であった小森乾電池を買収して第八工場とした。製品ごとの名で売る段階から、作り手の名で売る段階へ移ったのがこの数年であった。
1929年末、政府の緊縮政策で製品の売れ行きは半減し、倉庫に入りきらない在庫が積み上がった。病床にあった松下幸之助氏は、従業員を半減してはどうかと相談を受けた。氏が決めたのは、生産を即日半減するかわりに従業員を一人も減らさない案であった。工場は半日勤務とし、日給は全額を支給したうえで、休日を廃して全員で在庫の販売に当たった。在庫は二カ月ほどで売り切れ、工場の稼働は元へ戻った。同じ年、松下幸之助氏はこの不況のなかで得た経営観を、経営者の社会に対する責任として綱領と信条に明文化した。雇用を減らさずに在庫を捌いたこの二カ月が、従業員を費用ではなく販売の担い手として扱う筋道を確かめさせたとみられる。
松下幸之助氏がこのころ抱えていたのは、世間の通念どおりの商売では物足りないという反省であった。生産者の使命は何かを夜半まで考え続けた末に行き着いたのは、この世の貧しさを克服することだという信念であった。価のある水道の水を道端で飲んでも誰もとがめないのは、水が豊富だからである。生産者の務めは世に物資を満たし、不自由を無くすることにあると松下幸之助氏は考えた。1932年5月5日、松下幸之助氏は全従業員を前に『今日ここに、松下電器製作所の遠大な使命を諸君に明らかにし、真の創業に入る記念すべきこの5月5日を創業記念日と制定し、以後毎年この日を記念日として厳粛なる式典を挙行することにする。そして本年を創業命知第1年とする』と述べた。使命の達成には250年をかけ、25年を一節として十節で完成させるという時間の枠も置いた。翌1933年7月、松下幸之助氏は産業報国をはじめとする遵奉すべき五つの精神を掲げた。
1933年5月、松下幸之助氏は大阪府北河内郡門真町に新しい本店と工場を建て、移転と同時に組織を製品別の事業部へ改めた。門真の敷地には本店とラジオ工場、フェノール樹脂を扱う第12工場、店員養成所と店員寮が建った。松下電気器具製作所は創業から15年で従業員1,800人を擁する中堅企業に育っていた。体が弱かった松下幸之助氏は自分一人の力に限界があると早くから自覚し、他人へ仕事を任せる行き方を身につけていた。その行き方を組織の制度へ置き換え、各事業部長に製造から販売までの損益責任を負わせることで、自主責任経営への組織の組み替え。当時は大企業でも事業部制を採った例がなく、個人企業から脱したばかりの製作所が先に参入した。
配線器具から出発した松下電気器具製作所は、ランプ・乾電池・電熱器・ラジオへ品目を広げており、分割の基準もその製品に置かれた。ラジオを第一事業部、ランプ・乾電池を第二事業部、配線器具・合成樹脂・電熱器を第三事業部とした。各事業部は工場と出張所を翼下に置き、製品の開発から生産・販売・収支までを一貫して担当する独立採算の事業体となった。1934年1月、松下幸之助氏は従業員に対し、仕事を忠実にやるだけでは充分でないと述べた。どんな仕事でも一つの経営と観念するところに工夫と新発見が生まれる、というのがその趣旨であった。市場も技術も異なる品目を一人で捌くより、品目ごとに責任者を立てて数字で計らせるほうが速いという判断であった。
当時の配線器具は絶縁性と価格から陶磁器製の器台が多く使われ、第三事業部は京都の北村陶器所から磁器台を仕入れていた。産地での自社生産へ切り替えるため、1935年10月には瀬戸市へ瀬戸陶器工場を開設した。同じ月に電線管を扱うコンヂット部を創設し、品目を配線から配管へ広げた。1934年6月には松下化学工業所を設立し、フェノール樹脂製の食器・文房具の生産にも入った。同じ年、松下幸之助氏は関西に小型モーターの作り手がいないこと自体を無限の市場と読んだ。住友と提携し、資本金100万円の傍系電動機会社を設立した。分けた事業部は与えられた製品の内側に留まらず、材料と設備の調達まで自ら取りに行った。
1935年12月、松下電器製作所は松下電器産業株式会社へ改組し、事業部制を分社制へ進めた。事業部門別に九つの系列会社が設けられ、統轄会社である産業本社の公称資本金は1,000万円であった。ラジオ・部品の松下無線と乾電池・ランプの松下乾電池が各500万円、配線器具の松下電器と電熱器具の松下電熱が各200万円であった。産業本社を含む総資本金は2,610万円に達した。松下幸之助氏は産業本社の社主として全社を統べる地位に就任し、配線器具を継いだ松下電器株式会社の社長を兼ねた。改組の趣旨について松下幸之助氏は、経営の実情を世間へ公表することが公明正大の精神に合致すると述べた。資本や人材を外部へ求める必要から株式会社にしたのではないと明らかにした。
分社となった配線器具部門は、配線器具・合成樹脂・電線管の三つを継承した。1934年に着手したユリア樹脂の研究は、1936年に業界で初めて製品化に至った。色調と成形性でフェノール樹脂に優る特性を生かし、まず電気スタンドに使われた。1936年5月には構内に小型捲線工場を建て、信号器具の生産をここへ集約した。本社工場ではハンドプレスに代えて100トン水圧機5基を据え、金型に特殊鋼を用い、熱源を重油からスチームへ切り替えた。1936年6月に20万円だった月間販売高は、同年12月に30万円へ達した。1937年12月にはナショナル商標の字体を統一し、すべての商品で同一の書体を用いることを定めた。
1938年、国家総動員法の制定で戦時体制は急速に強化され、物資の統制が始まった。同じ年の1月、松下電器株式会社は軍需用の仮栓の発注を受け、初めて軍需生産に手を染めた。平和産業を志向する会社が進みたい道ではなかったが、当時の日本の産業に選択は許されなかった。太平洋戦争の拡大に伴い、軍の要請に基づく軍需生産を逐次引き受けざるを得なくなった。軍関係の需要に応えるため積層板の製造計画へ着手したが、成形に要する3,000トン水圧機を軍需に追われた機械メーカーはどこも引き受けなかった。未経験の分野であったが、残された道は自家製作しかなかった。民需のために積んだ樹脂と成形の技術が、統制の下では軍へ差し出せる資産として数えられ始めた。
自家製作の3,000トン水圧機2基は1939年1月に完成し、積層板の試作品は海軍の規格試験に合格した。1940年8月、松下電器株式会社は海軍購買名簿へ正式に登録され、海軍の指定工場となった。納入品のほとんどは飛行機の治具板と艦船の配電盤用で、1943年には月産30トンのフル生産でも需要に追いつかなかった。資材も機械も次第に手に入らなくなるなかで、軍向けの生産だけは続いた。1939年7月には組織を改め、海軍用の電気小兵器を担う特殊電機部と、陸軍用砲弾の信管などを担う金属工業部を新設した。1942年6月には国家総動員法に基づき、本社工場が陸海軍の共同管理下に置かれた。製品別に切ったはずの区分は、需要家の軍種別へ置き換わっていった。
1940年1月5日、松下幸之助氏は大阪中央電気クラブで初めての経営方針発表会を開催し、『今後、軍需産業がふえるだろうが、全国およそ7万の販売店や一般国民の日常生活を思うと平和産業をゆるがせにはできない』と述べた。1943年5月、松下電器株式会社は航空工業部を新設して関目工場を開設した。積層板で積んだ成形の技術を生かし、飛行機の木製プロペラと航空機用強化木の製造へ入った。同年8月18日、生産物資の支給を円滑に受けるという会社運営上の必要から、社名は松下航空工業株式会社へ変更された。翌1944年4月、資本金は2,275万円へ増額された。工場の配置も軍が決め、1943年の生産拡充命令によって津と北条に兵器製造所を新設した。配線器具から始まった分社の名は、資材の配給を受ける都合で書き換えられた。
1943年には、木造船を造る松下造船と木製飛行機を造る松下飛行機も設立された。いずれも松下電器本来の事業から完全に離れた分野で、戦後の財閥指定の大きな原因ともなった。木造船は終戦までに56隻が水に浮かんだが、月産200機まで引き上げる予定だった木製飛行機は3機しか完成しなかった。1944年、松下航空工業の主力工場はすべて軍需工場に指定され、管理も軍需省の手へ移った。同年11月、産業本社は無線・乾電池・蓄電池・電気工業の4分社を吸収合併し、本社直轄の製造所制へ改めた。資本金は4,600万円となり、この体制のまま終戦を迎えた。1933年に分けて任せた組織は、統制の下で外から組み替えられた。
松下幸之助氏は、敗戦後に進駐軍の占領政策で財閥指定をはじめ七つの制限が課せられ、経済活動はおろか資産も動かせなくなったと振り返っている。指定は本体にとどまらず、1935年に配線器具部門を担って分社した松下電工へも及んだ。軍需生産を行ったことと本体が財閥指定を受けたことを理由に、制限会社・特別経理会社・賠償工場・過度経済力集中排除の四つを重ねて受けた。輸出部門を分離した松下電器貿易は系列から切り離され、復帰は1951年8月まで待たされた。松下電工は配線器具生産の主力であった明石工場を1945年に焼失しており、立ち直りの遅れの最大の原因はそこにあった。製品別に分社を積み上げた戦前の構えが、そのまま解体の対象名簿になった。
最初の財閥指定に対して松下幸之助氏は松下は財閥ではないと反論を続け、指定は未解決のまま1949年末に解除された。だが財閥指定に続いて公職追放のA級に置かれ、軍需生産を指導した以上は社長退陣に抗議の余地がないと本人も腹を決めかけた。分社した松下電工が太平洋戦争下で手がけた航空機用補給器や木製プロペラも、軍需品の生産は全体の2〜3割にとどまっている。留任の運動に立ったのは、賃上げ争議を打ってきた当の労働組合であった。1万5,000人の従業員が一人ずつ署名捺印を取って政府と司令部へ訴えた。当時の商工大臣であった星島二郎氏も、この情勢下での社長擁護運動に驚いたという。一ヵ月後に指定はB級へ変わり、審査の結果、全重役が追放取止めとなった。
制限下の五年で松下電器産業の負債は10億円に達し、税金の滞納でも一時は最上位に数えられた。松下幸之助氏は、それまでどんな苦境でも避けてきた人員整理に踏み切り、従業員は3,500人まで減った。1950年に各種の制限が解かれると回復は速く、同年に27億円だった売上高は1955年に220億円、従業員も1万3,000人へ戻った。分社した各社も同じ軌道をたどり、松下電工は1951年5月に整備計画を完了した。ビル建築の盛行で電線管の引き合いが急増している。配線器具の同業には東芝のほかは二、三種類を手がける小メーカーしかなかった。再建の元手は設備でも資本でもなく、配線器具で全国生産高の5割を占める市場地位と、成型材料まで自給する体制であった。
財閥解体で三井・三菱・住友の系列が後退する一方、松下電器産業は配線器具メーカーから総合家電メーカーへの転換を急いでいた。だがテレビの心臓部であるブラウン管には高度な電子技術が要り、当時の松下に電子の蓄積は薄かった。のちに社長となる山下俊彦氏は、提携以前の会社を『町工場に毛の生えたような感じ』と振り返っている。松下幸之助氏は1951年、アメリカとヨーロッパを回って提携の相手を探した。選んだのは、1937年ごろから取引があり、戦争で中断したまま1948年末に取引再開を申し込んできていたオランダのフィリップスであった。日本にはアメリカの技術が流入する一方でヨーロッパの技術は乏しく、松下幸之助氏はそれが日本の技術発展に欠かせないと判断した。
フィリップスが示した条件は、新会社へのイニシャル・ペイメント55万ドル、株式参加30%、技術指導料6%であった。松下幸之助氏は前の二つを受け入れる一方、技術指導料6%は受けなかった。合弁会社を日本で経営するのは松下電器産業であり、技術指導料を払うなら経営指導料を受け取ってよいという主張である。払うべきものは払う用意を示したうえで、販売力と経営力を対価に対等を求めた。交渉は決裂寸前まで進み、相手はこれ以上進まないなら打ち切ろうと言い出した。現地で折衝した専務の高橋荒太郎氏が粘り、技術を持たない側が経営力を対価に据えた条件交渉。技術指導料4.5%に対し経営指導料3%を松下側が受け取る条件で決着し、1952年10月18日に調印した。
1952年12月、提携の産物として合弁会社の松下電子工業が発足した。大阪府高槻市に建てた新工場では、1954年から電球・蛍光灯・真空管・ブラウン管・トランジスタの生産へ入った。松下電器産業は導入したブラウン管技術で1953年に白黒テレビを発売している。松下電工は1952年下期に蛍光灯器具の生産を始めたが、灯球の生産能力に縛られていた。1954年7月に松下電子工業の管球工場が稼働し、その制約が外れた。1952年に月産四千個だった蛍光灯器具は、1953年に二万四千個へ伸びている。松下電器産業の関係事業部は、これらの電子管や半導体を使ってラジオ・テレビの品質を世界的な水準まで高めた。提携で手に入れたのは技術そのものより、部品の供給を自前で握る構造であった。
制限が解けて六年目の1956年、松下幸之助氏は1月10日の経営方針発表会で五ヵ年計画を発表し、向こう五年で売上高を四倍にすると宣言した。当時、一企業体が将来の目標を社外へ堂々と公表する例はなかった。1960年時点で事業部は二十一を数え、工場を数個ずつ統括する事業部が独立採算で損益を負っていた。その上には、類似製品の事業部をまとめる事業本部が置かれた。副社長の松下正治氏は、事業部長を社内における子会社の社長のようなものだと説明している。毎朝、社長・副社長・専務の三人が九時半から十時半まで重要な経営上の問題を合議した。1933年に敷いた製品別の組織は、戦時統制と占領期の指定を越えて、再び会社の背骨へ戻った。
1935年に輸出部が分離して設立された松下電器貿易は、1962年10月に東京証券取引所第二部へ上場した。1962年3月期の販売実績は、輸出78%・輸入22%であった。売上高は82億4,484万円、輸出先は約80カ国、海外代理店は120社に及んだ。輸出品の83.7%は松下電器産業の製品で、ブランドはすべてナショナルに統一されていた。だが国内では、東京オリンピックを境に金融の引き締めが強化され、産業界は景気の後退と過剰設備の重荷に苦しんだ。日本特殊鋼や山陽特殊製鋼のような大企業までが倒産し、家電業界も不況の波をかぶった。松下電器産業の販売会社と代理店にも、市況の悪化で赤字へ転じるところが増えた。
1964年7月、会長になって三年ほど過ぎていた松下幸之助氏は、三年半ぶりに熱海のニュー富士屋ホテルへ全国の販売会社・代理店の社長を集めた。会場で聞かされたのは、資本金500万円に対し1億5,000万円という資本金の30倍の欠損を抱えた販売会社の実情であった。もうかっている社を尋ねると手を挙げたのは30人ほどで、残る170人ほどは赤字であった。二日間の予定は一日延び、三日目に松下幸之助氏は『結局は松下電器が悪かった。この一語に尽きる』と全面的に非を認めた。松下電器産業はこの謝罪を起点に販売制度そのものを組み替え、販売会社との関係を組み替えた新販売制度。1965年2月からは、一地域一販社制・事業部直販制・新月販制度が地域ごとに実施された。作る力を外から買った会社が、売る力だけは非を認めることからしか作り直せなかった。
松下電器産業の系列販売網は、1965年の時点で作り直された直後だった。前年の1964年、会長へ移っていた松下幸之助氏が営業本部長代行に就任し、伊豆の熱海に販売代理店の社長を集めて3日間の会議を開催した。争点は、販売店が松下へ手形を乱発し、決済が長期に延びていたことにあった。代理店側は松下の指導が悪いと非難したが、松下幸之助氏は3日目に自社の非を認めて謝罪した。会議の後、長期手形による決済という業界の慣習は消え、販売会社からの回収は月末の現金払いへ統一された。松下幸之助氏はあわせて、過当競争が起きないよう地域性を重視した販売制度を敷いた。この現金決済と地域割りの規律が、以後の25年にわたって販売網を律する土台になった。
この販売網の規律は、石油危機の後に試された。1973年の石油価格の急騰でメーカーは大きな原価上昇を抱え、松下電器産業も事業計画の縮小を迫られた。稼働率の低下と余剰人員を承知のうえで、1974年3月、他社に先がけて減産を宣言した。減産しなければ63に分かれた事業部が資金不足に陥り、本社が資金繰りに追われるという判断だった。市場占有率を保つために販売会社へ製品を押し込む策は採らず、価格へ転嫁できない原価の上昇はそのまま自社で負担した。高橋荒太郎会長は、閑散期こそ販売店を通じて消費者の要望を確かめる好機だと述べた。松下正治社長も1977年の年頭に、業界にもはや高度成長期の伸びは期待できないとの見方を示した。消費者の要望は多様化し、根強い原価上昇に悩む情勢が続くと見ていた。
完成した販売網が軋み始めたのは1970年代の末だった。電化時代に作られたナショナル店会は小売店にとって負担が重くなり、系列を離れる動きが現れていた。諸経費の高騰とエアコンなど夏物商品の極端な不振が重なり、販売会社の経営にも陰りが見えた。1980年、松下電器産業は鹿児島と滋賀の販売会社を家電営業本部の直轄へ移し、東海・東京23区・三多摩へ同じ再編を広げた。最大の市場である東京では、21の家電販売会社と12の住宅設備機器会社が、4つの家電販売会社と2つの設備機器会社へ集約された。新会社の資本は松下が50%、従来の販売会社が50%を持ち、集約で余った管理部門の人員は営業へ振り向けられた。
松下電器産業の事業部は、社内の部門ではなく小さな独立会社として設計されていた。1976年の初頭には64を数え、それぞれが製品別に専門を細分され、損益と資金繰りの全責任を負った。本社は各事業部に内部資本金を割り当て、固定資本と標準運転資本を合わせた枠の内でのみ事業を回させた。材料は何日分まで、製品在庫は何日まで、売上債権は何日までという規則があり、これを超えれば手元資金が尽きた。資金が尽きても市中銀行から借りることは許されず、経理本部から実質の市中金利を払って借りるほかなかった。作りだめと押し込みは、訓示ではなく資金の制約によって止められた。人へ任せても経営が数字で見えるという設計思想は、創業者が病を得ていた1930年代に事業部制を敷いたときから変わらなかった。
この分権を成り立たせたのは、本社が握った経理の系統だった。事業部は収益の60%を税金と配当として経理本部へ納め、残る40%だけを内部留保として再投資に使えた。製造部門が営業部門を通して売る価格は仕切値の70%と決められ、基準利益10%を営業と製造が折半する定めだった。毎月20日に経理を締め、25日までに決められた様式の決算を本社へ提出させた。仕入れの支払いは月末に全額現金で行う原則で、支払いを繰り延べて資金を融通する逃げ道は塞がれていた。この仕組みを動かしたのが経理社員と呼ばれる約1500人で、9年の職場内訓練を経て各事業部へ配された。関連会社は1966年の346社から1976年には668社へ増えたが、人は出さない・金は貸さない・物は買わないという3原則で突き放された。
財務の型も同じ思想の上にあった。1973年度の連結決算で自己資本比率は46.0%に達した。ゼネラル・エレクトリックの40.5%、フィリップスの36.0%、日立製作所の24.1%をいずれも上回る水準だった。現金・預金は2416億円で資産合計の21.9%を占め、4社のうち借入金より預金が多いのは松下だけだった。高橋荒太郎会長は、資金力を競争の道具に使ってはならないと述べた。ある製品で得た利益を別の製品の専門メーカーとの競争に充てるのは不正競争だという考えだった。事業部を分けて独立採算に置いたのは、その歯止めを組織に組み込むためでもあった。ただしインフレの進行下では、厚く積んだ預金はそのまま目減りする資産でもあった。
型が完成した先に現れたのは硬直だった。1977年の時点で、松下電器産業が巨大化と高齢化につれて官僚臭を強め、組織が硬直しているとの指摘が出ていた。松下幸之助氏自身、終身雇用と事業部制の徹底によって社内から冒険する人間がいなくなったと認めていた。1977年2月、松下幸之助氏は松下正治社長・高橋荒太郎会長と3人で、序列25番手の取締役だった山下俊彦氏の社長起用を決め、年功の序列によらない経営陣の入れ替え。山下俊彦氏は松下電子工業でフィリップスの管理手法を学び、赤字の関連会社ウエスト電気で長期の労働争議を自ら収めた現場の経営者だった。二度断ったが押し切られ、就任にあたって相談役の権威を後ろ盾に使わせてほしいと求めた。松下幸之助氏は後年、この人事を自分自身の冒険だったと語った。
山下俊彦氏が就任して最初に絞ったのは収益だった。就任直前の1976年11月期の税込み利益率は6.5%で、目標の10%を大きく下回っていた。松下電器産業単独の売上高は年2兆円に達していたが、利益率は徐々に低下しており、巨大化そのものが転落の第一歩だという認識に立っていた。事業部を営業利益率で4つの階級へ分け、下位の事業部が2年でランクを上げられなければ事業部長を交代させると決めた。数年のうちに下位2階級の事業部はほとんど姿を消した。あわせて、一つの事業部に入れば動かないという慣行を崩すため、課長への登用条件に3つ以上の職種と職場の経験を課した。事業部の上に乗っていた事業本部は廃され、事業部は社長の直轄へ置かれた。1年きざみだった事業計画には3年の中期計画を課し、1981年からは長期の構想づくりに着手させた。
それでも、事業部制そのものには手が付かなかった。1984年には事業部を部門別に統括する本部制を敷いた。1987年には5つあった営業本部を顧客と地域で括り直して3つにまとめ、翌1988年には松下電器貿易を吸収合併した。いずれも事業部制を残したまま弱点を補強する策で、組織の原理を変えるものではなかった。1986年に社長へ就任した谷井昭雄氏は、家電で培った強さが方向転換の妨げになりうるとし、力が細ってからでは変われないと述べた。事業部は独立の意識が強く、会社が潰れても事業部が残ればよいとまで言われる壁を抱えていた。創業者の松下幸之助氏が死去したのは1989年4月で、型を作り替える仕事は次の世代へ残された。
1989年4月に創業者の松下幸之助氏が94歳で逝去し、松下電器産業はハイビジョン時代の主導権をめぐってソニーと競合した。高画質のAV機器を広めるには、それを映すソフトの支援が不可欠との見方が強まった。1977年に社長へ就任した山下俊彦氏、その後を継いだ谷井昭雄氏と、松下は二代続いてサラリーマン社長が経営の舵取りを担った。1990年12月、谷井昭雄氏は約61億ドル、当時の為替で約7800億円を投じた米MCAの買収に踏み切った。日本企業の海外買収では史上最高額で、もの作りに徹するという創業以来の方針を破る決断でもあった。社内では、故人の経営の遺産を否定した結果と受け止められた。
買収は失敗すれば松下グループの屋台骨を揺るがすと社内で受け止められ、資金は新株発行を伴う調達で潤沢に積み上がった。MCAとの交渉は平田雅彦副社長に委ねられ、最終的な判断は松下正治会長にあおがれたという。松下一族の保有株数は3400万株で、発行済み株式の3.1%にすぎなかったが、創業者の家の存在感はそれとは別だった。谷井昭雄氏が掲げた狙いは、松下のハードとMCAのソフトを組み合わせた新しい価値の創出に置かれた。買収は、もの作り中心の企業文化に変革を起こす起爆剤としても位置づけられた。明快な狙いに対し、決裁の主体はこの買収で最後まで曖昧なままだったとみられる。
松下はコンテンツ事業の経営ノウハウを持たず、MCA側も日本企業の傘下に入ることへ抵抗感を示した。森下洋一氏は1993年2月に社長へ就任してから、確執が表面化した1994年10月まで、MCA首脳陣と直接協議しなかった。ジュラシック・パークのゲーム化権をめぐり、松下はMCAを傘下の一部門とみなして不満を募らせた。才能を持つ個人が価値を決めるソフトの事業には、良い製品を安く大量に製造する松下の評価基準が適合しなかった。1995年6月、松下は持分の約80%を57億400万ドルでカナダのシーグラムへ譲渡し、5年に満たずに撤退した。急激な円高を考慮すると、損失は2000億円前後に達した可能性がある。
松下電器産業は家電不況と産業機器の低迷で3期連続の減益に沈み、1995年3月期には営業赤字も見込まれた。1994年3月期の単独売上高は4兆3496億円、経常利益は639億円で、経常利益率は1970年代の水準まで低下した。1984年に復活した事業本部制は組織の二重構造を生み、委員会と会議が膨れ上がって意思決定を鈍らせた。事業部長は会議の形骸化を『何かを決めるのではなく、報告だけの会議がほとんど』と評した。1993年11月には約25万台のIHジャー炊飯器のリコールで、公表まで2週間を要した。同年12月8日、森下洋一社長は事業本部の廃止と、社長が事業部を直接みる組織への組み替えに踏み切った。
松下の組織は20年周期で集中と分散を繰り返してきた。1933年に松下幸之助氏が導入した事業部制は、1950年に再導入され、1972年には事業本部制の廃止で強められた。1978年には山下俊彦社長の直轄となり、1984年にふたたび事業本部制へ戻った。1990年には事業本部が多額の社内資本金を持ち、本部長のスタッフは100人に膨らんだ。1991年には事業本部をさらに統括する部門制が加わり、役割の分担は不明確なまま組織だけが複雑化した。経営の主体はあくまで事業部という建前が貫かれたまま、二つの経営組織が同じ分野に併存した。社内は、森下洋一氏が山下俊彦氏の型を踏襲すると受け止めた。
森下洋一氏の基準は、呼び名ではなく、自己資本を持ち別会社のごとく完結できるかどうかに置かれた。だが事業部長と社長の間に置かれた事業担当は役割が定まらず、社内には処遇のためだけのポストとする評さえあった。生産部門の強化に着手する一方で、営業部門のリストラは手つかずに残った。全国2万5000店の系列店は、ディスカウンターの攻勢と家電不況で採算の重荷となった。1994年10月には組織の単純化を掲げながらマルチメディア全社推進本部を新設し、森下洋一氏自ら本部長を兼ねた。事業部と販売部門の接続という核心の課題に、この回帰は及ばなかった。
松下電器産業は1992年3月期に2兆7549億円あった有利子負債を、2001年3月期には1兆900億円まで減らした。その代償として、10年前に3兆5000億円の差をつけた売上高でソニーに逆転を許した。デジタルスチルカメラはグループ3社が別の製品を出し、市場シェアは無視してよい水準に低迷した。事業部や分社が似通った製品を同時に手がける社内競争は効果を生まず、重複による効率低下が重荷となった。2000年6月に社長へ就任した中村邦夫氏は、松下幸之助氏以来の事業部制を、そぐわない分野ではやめればいいと退けた。2002年1月10日、中村邦夫氏は14の事業ドメインへの集約と、グループ5社の完全子会社化を打ち出した。
事業部制は、松下幸之助氏が病弱で全事業にかかわれないために権限を譲る仕組みとして生まれた。事業部は開発・製造・販売の主導権を握ったが、市場が成熟すると販売会社に在庫を押し込む弊害が目立った。事業部と分社による自主責任経営は松下幸之助氏が残した聖域とされ、松下はその認識から抜け出せずにいた。中村邦夫氏は事業部から工場を切り離して採算性を重視させ、約2万店の地域販売店への一律の支援も廃した。早期退職制度では約1万3000人が退社し、2003年度にはブランドをPanasonicへ統一した。3年間で2200億円を超えるコスト削減を積み上げ、2006年度には営業利益率5%の目標を達成した。
2003年4月、松下は東芝とブラウン管事業の合弁会社を設立し、2007年3月に完全子会社としてMT映像ディスプレイへ商号を改めた。2007年1月に大坪文雄社長が発表した「GP3計画」は、大画面ではプラズマに優位性があるとの見立てに立った。松下は次の3年間で、プラズマの国内第5工場をはじめとする設備投資に1兆5千億円を投じる計画を立てた。2007年11月以降、松下は公正取引委員会・米国司法省・欧州委員会などの調査を受けた。2009年10月に処分を受けたMT映像ディスプレイは、排除措置命令と課徴金納付命令の取消請求へ進んだ。市場から退出した表示デバイスの法的処理と、次世代の表示デバイスへの集中投資が、同じ数年に重なった。
2008年12月19日、パナソニックは三洋電機と資本・業務提携契約を締結し、公開買付けによる過半数取得と子会社化を定めた。三洋電機は太陽電池、二次電池、電子デバイス、業務用機器、AV機器などを手がけた。大坪文雄社長が掲げた狙いは、ソーラー事業の拡大と二次電池事業の強化、そして環境・エナジーを軸とするソリューション事業の創造であった。2009年12月、パナソニックは現金403,780百万円を投じた議決権50.2%の取得を終え、のれん514,419百万円を計上した。2011年4月1日には株式交換により三洋電機を完全子会社とした。配線器具と家電で積み上げてきた収益源を電池へ移す転換は、ここで始まった。
三洋電機とパナソニック電工の完全子会社化を終えた2011年4月から一年で、収益基盤は崩れた。2012年3月期の純損失は7,721億円に達した。2012年度も赤字が続いて二年連続の大赤字となり、資金リスクの拡大から無配に転落した。ネット資金は1兆円を超えるマイナスに沈み、これをマイナス5,000億円以内へ戻すことが当面の課題となった。2012年6月、大坪文雄氏に代わって津賀一宏氏が取締役社長に就任した。津賀一宏氏は財務危機からの脱出を最優先に置き、グループ全体に資金創出活動を課した。買収で電池と住宅設備を抱え込む一方、テレビとデバイスの赤字を止める仕組みを持たず、家電で積んだ収益は流出し続けた。
津賀一宏氏が最初に手を付けたのは、会社の形の再構築である。本社の機能を大幅に絞り込み、2013年4月に9ドメイン・88のビジネスユニットを49の事業部へ括り直して、これを経営の基軸に位置づけた。事業部はグローバルな開発・製造・販売の責任と、資金・利益を継続的に増やす責任を負う。同時に、複数の事業部を統括する4社からなるカンパニー制を導入し、事業部単独では難しい大型の事業展開・新規事業の創出・基幹デバイスの強化を担わせた。1933年に松下幸之助氏が製品別の事業部へ損益責任まで持たせた自主責任経営に、組織を戻す作業だった。1933年の型を呼び戻したのは復古ではなく、損益の帰属を曖昧にしない仕組みが他に無かったためとみられる。
49の事業部はすべて対等に置かれ、それぞれの経営状況が全役員と事業部長へ見えるようになった。この見える化を前提に、2013年4月から中期経営計画「CV2015」を始めた。主要な赤字5事業には1,300億円の赤字改善を課した。2015年度の到達点は、赤字事業部ゼロ、営業利益3,500億円以上、営業利益率5%以上に置いた。携帯電話事業では個人向けスマートフォンの新製品開発を休止し、光事業では国内拠点の再編を完了した。2013年度下期には、他の事業部へ統合される事業部と、他社の出資を仰いで外へ出る事業部が現れた。事業部制は、撤退の対象を損益で機械的に取り出す装置として働いた。
テレビ用パネルの内製は、固定費の圧縮、大型化、電子黒板への展開を重ねても採算へ戻らなかった。液晶の大型化と4Kの展開に需要の縮小が止まらず、2013年度のプラズマディスプレイパネル事業の営業赤字は200億円を超える見通しとなった。2013年10月31日、津賀一宏氏はプラズマディスプレイパネル事業の終息に踏み切った。パネル生産は同年12月末で終えた。テレビ・パネル事業は流通を含む総連結で300億円以上の営業赤字となる見通しにあり、米国では流通チャネルを絞り込んで工場直販へ移した。画質の優位は、価格競争の進んだ市場で買い手の支払意思へ翻訳されなくなっていた。
終息を決めた同じ日、津賀一宏氏はテスラモーターズとの合意を公表した。2014年からの4年間で約20億個の円筒形電池を供給する内容で、2012年と2013年の2年間の供給見通し約2億個の10倍にあたる。既に決めていた約130億円に約180億円の追加投資を決定し、既存拠点と遊休施設の活用によって投資対効果を確保した。車載電池は、テレビのような消費者向け商品と異なり、取引先からの需要が数量で確定している。車載リチウムイオン電池は、この時点で大手自動車メーカー5社・10車種以上から受注を得ていた。電池技術そのものは、2009年12月の子会社化と2011年4月の完全子会社化を経て三洋電機から取り込んだものである。撤退の判断と次へ張る判断は、順序ではなく同じ日の対として出された。
2014年8月、津賀一宏氏はテスラのギガファクトリーへの製造機能ごとの参画を決めた。2015年度の全社戦略投資は約2,000億円で、およそ3分の1がオートモーティブ&インダストリアルシステムズ社へ配られた。主な用途はギガファクトリーの設備投資と、フィコサ社への出資である。テスラとの基本契約には、国内拠点の稼働を維持し、不足分をギガファクトリーから供給することを盛り込んだ。車載電池の受注は14社・23車種へ広がり、角形と円筒形の両方を持つことがハイブリッド車から電気自動車までの要望に応える条件となった。2013年時点で家電事業は全社売上の25%にとどまり、残る75%は既にBtoB事業だった。家電の会社という自認と、売上構成の実態は、この時点で既に離れていた。
中期経営計画「CV2015」が掲げた3つの目標のうち、2つは2014年度に一年前倒しで達成した。残る目標は営業利益率5%以上のみとなった。課題事業と位置づけた7事業も方向づけを完了し、事業構造改革は完遂との整理に至った。その先に置いたのが、2018年度に売上10兆円という目標である。ところが2015年度は、売上が年初目標に対して4,500億円、営業利益が200億円の下方修正となった。増収の牽引役を期待した大規模6事業部が、その役を果たさなかった。2016年3月、津賀一宏氏は中期的に目指す指標を利益成長へ置き換え、売上をその手段の一つへ格下げした。5つの事業領域を4つへ組み替え、2018年度の目標を営業利益5,000億円・当期純利益2,500億円以上に引き直した。
2021年6月、楠見雄規氏が代表取締役社長に就任した。同年9月、サプライチェーンソフトを手がけるブルーヨンダーの株式80%分を7,760億円で追加取得して完全子会社化した。2020年7月に取得した20%分873億円と合わせた取得対価は8,633億円、計上したのれんと無形資産等は約9,600億円に達する。翌2022年4月、楠見雄規氏は持株会社制・事業会社制への移行を実行した。競合に劣後する事業を複数抱えたままでは使命の達成に届かないとの判断から、就任後の2年間を競争力強化に集中する期間と定めていた。1933年の事業部制が損益責任を事業部へ置いたのに対し、事業会社制は法人格ごと分けて自主責任経営を制度化した。
2023年11月、楠見雄規氏は車載システム事業への外部資本の導入を決めた。2024年度に株式譲渡損500億円を計上し、パナソニックオートモーティブシステムズは連結子会社から持分法適用会社へ移った。一方、2022年度から2024年度にかけては目標未達が続き、販管費率は同業他社より高い水準にとどまった。2025年5月、楠見雄規氏は国内外1万人規模の人員適正化に踏み切った。課題事業は2025年度中に見極め、2026年度末までの撲滅を方針に置いた。赤字事業は地域別・商品別に見極め、終息と事業譲渡の方針を順次決める段取りとした。それでも家電事業領域を縮小する意図は置かず、スマートライフ領域で調整後営業利益率10%を目標に据えた。やめたのは家電ではなく、家電を一社で抱える会社の形である。
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|---|---|---|---|---|
| 1918〜1932年二畳の土間から始めた配線器具と、生産者の使命 | 売れない改良品を抱えたままの独立と、電気器具製作所の設立 1917年6月、大阪電灯の検査員であった松下幸之助氏が、社内で容れられなかった改良ソケットを自らつくるために七年勤めた会社を辞め、翌1918年3月、大阪市大開町の借家に松下電気器具製作所を創立した経営判断。妻むめの氏と義弟の井植歳男氏を含む数人の家内工業として、配線器具の製造を開始した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 砲弾型電池式ランプを考案発売 | ★ | |||
| 「ナショナル」の商標を制定 | ★ | |||
| 1933〜1945年門真で分けた三つの事業部と、統制経済に飲まれた拡大 | 製品別に分けて独立採算とする、自主責任経営への組織の組み替え 1933年5月、松下幸之助氏は門真への本店移転と同時に、工場を製品別の三つの事業部に分け、各事業部長に製造から販売までの損益責任を負わせる事業部制を導入した。体が弱く自分一人では全体を見切れないと自覚した創業者が、若い従業員に仕事を任せる行き方を制度にしたもので、日本の企業組織における事業部制の先駆けとなった経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 松下電器貿易を設立 | ★ | |||
| 松下幸之助 | 松下電器産業に改組 | ★ | ||
| 1946〜1964年制限会社指定からの再建と、フィリップス提携・熱海会談 | 松下幸之助 | 東京証券取引所・大阪証券取引所に株式上場 | ★ | |
| 松下幸之助 | 「5分と5分、対等である」を貫いた条件交渉と、対等での技術導入 1952年、松下電器産業はオランダのフィリップスと技術提携し、合弁で松下電子工業を設立してブラウン管技術を導入した。テレビ参入の技術的な壁を越え、"量から質への転換"を果たした経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 松下幸之助 | 中央研究所を設立 | ★ | ||
| 松下幸之助 | 日本ビクターと資本提携 | ★★ | ||
| 松下幸之助 | 松下通信工業を設立し通信機器部門を分離 | ★ | ||
| 松下幸之助 | アメリカ松下電器を設立し海外展開を開始 | ★ | ||
| 松下正治 | 松下正治氏が取締役社長に就任 | ★ | ||
| 松下正治 | 東方電機と資本提携 | ★ | ||
| 松下正治 | 「松下電器が悪かった」と非を認めることから始めた代理店との関係の作り直し 1964年、家電の乱売競争で販売会社・代理店の多くが赤字に陥るなか、会長の松下幸之助氏は全国170社の社長を熱海に集めた。3日間の激論の末、幸之助氏は『結局は松下電器が悪かった』と非を認めて涙し、対立を和解へ転じた。直後に自ら営業本部長を代行し、一地域一販社制・事業部直販制・新月販制度からなる新販売制度を敷いて、共存共栄を仕組みに変えた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 1965〜1989年系列販売が完成させた家電の型と、松下幸之助氏の退場 | 松下正治 | 松下寿電子工業を設立 | ★ | |
| 松下正治 | ニューヨーク証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 松下正治 | 松下電子部品を設立し電子部品部門を分離 | ★ | ||
| 松下正治 | 松下住設機器・松下産業機器を設立し2部門を分離 | ★ | ||
| 山下俊彦 | 序列を飛び越えた社長人事による、年功に縛られない経営陣の入れ替え 1977年2月、松下電器産業は取締役の山下俊彦氏を社長に登用した。序列で25番手からの"25段跳び"とも言われた抜擢で、創業者の松下幸之助氏が松下正治社長・高橋荒太郎会長と諮って決めた。同族でも純粋な実力主義でもない、専門経営者に創業者の権威を後ろ盾として付ける二重統治の始まりとなった経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 山下俊彦 | 松下電池工業を設立し電池部門を分離 | ★ | ||
| 山下俊彦 | 金融子会社を設立 | ★ | ||
| 山下俊彦 | 半導体基礎研究所を設立 | ★ | ||
| 谷井昭雄 | 谷井昭雄氏が取締役社長に就任 | ★ | ||
| 谷井昭雄 | 松下電器貿易を合併 | ★ | ||
| 谷井昭雄 | 創業者松下幸之助が逝去 | ★ | ||
| 1990〜2011年7800億円のMCA買収から、事業部制の解体まで | 谷井昭雄 | 7800億円を投じた大型買収から短期で手を引く、方針の転換 1990年12月、松下電器産業は米エンターテインメント大手MCAを約61億ドル(約7800億円)で買収した。ハードとソフトの融合を掲げ、日本企業の海外買収では史上最高額の投資だったが、才能が価値を決めるハリウッドの事業を製造業の論理で御しきれず、1995年に持分の8割をシーグラムへ譲渡してわずか5年で撤退した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |
| 森下洋一 | 森下洋一氏が取締役社長に就任 | ★ | ||
| 森下洋一 | フィリップス社との松下電子工業に関する合弁契約を解消 | ★★ | ||
| 森下洋一 | 事業本部の廃止と、社長直轄へ現場を戻す組織の作り替え 1993年12月、松下電器産業の森下洋一社長は、1984年に復活させた事業本部制を廃止し、担当役員は置きつつ実質的に社長直轄で事業部をみる組織へ改めた。3期連続減益と炊飯器リコールでの意思決定の遅れを背景に、組織の二重構造を断って迅速な意思決定を取り戻そうとした。幸之助氏が1933年に生んだ事業部制への回帰でもあった経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 森下洋一 | MCA社持分の80%をシーグラム社へ譲渡 | ★★ | ||
| 中村邦夫 | 長年の事業部制の解体と、グループ5社を取り込む組織の作り替え 2000年6月に社長へ就任した中村邦夫氏は"破壊と創造"を掲げ、上場後初の連結最終赤字に沈んだ松下電器の構造改革に着手した。事業ドメイン制の導入で事業部の壁を崩し、松下幸之助氏が築いた分社経営の象徴だったグループ主要5社を株式交換で完全子会社化し、1万人規模の希望退職も断行した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 中村邦夫 | 松下電工・パナホームとその子会社を子会社化 | ★★ | ||
| 大坪文雄 | 大坪文雄氏が取締役社長に就任 | ★ | ||
| 大坪文雄 | 社名を松下電器産業からパナソニックに変更 | ★ | ||
| 大坪文雄 | 排除措置命令と欧州委員会の制裁金を争い、8年をかけて確定した独占禁止法違反 2007年11月以降、パナソニックと子会社のMT映像ディスプレイは、ブラウン管事業に関する独占禁止法違反の可能性について、公正取引委員会・米国司法省・欧州委員会等の政府機関の調査を受けた。2009年10月、MT映像ディスプレイは公正取引委員会から排除措置命令を、その東南アジア子会社3社は課徴金納付命令を受けている。 2012年12月には、パナソニックとMT映像ディスプレイが、欧州競争法に違反したとして制裁金を課す欧州委員会の決定通知を受けた。いずれの処分に対しても、事実認定や法令の適用に疑義があるとして取消しを求め、日本と欧州の双方で法廷に持ち込んでいる。 詳細を読む | |||
| 大坪文雄 | 純損失を計上 | ★★ | ||
| 大坪文雄 | リチウムイオン電池と太陽電池の技術を、のれん5,144億円を積んで取りに行く選択 2008年12月19日、パナソニックは三洋電機と資本・業務提携契約を締結し、国内外の競争法に基づく手続を終えたのち、公開買付けにより三洋電機株式の過半数を取得して子会社化すると定めた。大坪文雄社長は各国の承認を待って、2009年11月4日の取締役会で1株131円の公開買付けを決議する。11月5日から12月9日までを買付期間とし、12月16日に優先株式の全てを取得、12月21日にこれを普通株式へ転換して議決権の50.2%を握った。対価は現金403,780百万円であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 大坪文雄 | パナソニック電工・三洋電機を完全子会社化 | ★★ | ||
| 2012〜2026年プラズマ撤退と車載電池、そして事業会社制 | 大坪文雄 | 巨額の純損失を計上 | ★★ | |
| 津賀一宏 | 津賀一宏氏が取締役社長に就任 | ★ | ||
| 津賀一宏 | 尼崎の専用パネル工場を止め、内製で画質を競う路線を畳んだ判断 2013年10月、パナソニックの津賀一宏社長は、プラズマパネルとプラズマテレビセットの事業から撤退することを決めた。同年12月にパネルの生産を終え、2014年3月末で兵庫県尼崎市のPDP国内第3工場・第4工場を止めた。両工場の建物等は売却予定資産へ振り替えられ、処分コスト控除後の見積公正価値が帳簿価額を下回った差額31,412百万円が損失として認識された。液晶の大型化と低価格化にプラズマの画質優位を相殺され、自前パネルの内製という垂直統合の看板を、自ら畳んだ経営判断であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 津賀一宏 | ギガファクトリーへの生産設備ごとの踏み込みと、電池の主力の家電向けから自動車向けへの転換 危機の底から会社を立て直した津賀一宏社長は、家電依存からの脱却を最重要テーマに据え、車載電池を主力事業に選んだ。2009年にテスラへ円筒形リチウムイオン電池の供給を始めたパナソニックは、2014年7月31日に大規模電池工場ギガファクトリーでの協力に合意し、同年9月30日の取締役会で包括契約及び価格合意契約等の締結を決議して、10月1日に契約を締結した。三洋買収で得た電池技術を"走る電池"で生かす、BtoB転換の象徴となった経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 楠見雄規 | 楠見雄規が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 楠見雄規 | Blue Yonderを完全子会社化 | ★★ | ||
| 楠見雄規 | 大型買収を機に事業ごとを独立させる「事業会社制」への組み替え 2021年6月に社長へ就任した楠見雄規氏は、就任直後の同年9月16日に米サプライチェーン・ソフト大手ブルーヨンダーの残り80%を追加取得し、2020年7月に取得していた20%と合わせて全株式を握った。全株式の取得対価は総額79.0億米ドル、支配獲得日に認識したのれんは6,070億円にのぼる。翌2022年4月1日には吸収分割で事業を9社へ承継させ、社名をパナソニックホールディングスへ改めて持株会社となった。ハードとソフトの融合と自主責任経営の徹底を掲げ、事業構造と組織を同時に組み替えた経営判断である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 楠見雄規 | 全株式を手放しつつ持株会社に2割を残す形での車載事業の切り出し 2023年11月、パナソニック ホールディングスは、車載機器子会社パナソニック オートモーティブシステムズの事業について、米投資ファンド大手アポロ・グローバル・マネジメントと共同パートナーになることで基本合意した。楠見雄規社長が"成長領域"への集中を進めるなかで、100%子会社であった車載事業を持分法適用会社へ移す判断であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 楠見雄規 | 中期戦略の未達を受け、国内外1万人規模の人員適正化に踏み込んだ固定費構造の改革 2025年2月4日の取締役会で「グループ経営改革」を決議し、5月9日の取締役会で「グループ経営改革の進捗」を決議して、人員の適正化を含む具体的施策と国内外1万人規模という削減の規模を示した。グループ各社で営業部門・間接部門を中心に業務効率を徹底的に見直し、必要な組織・人員数を再設計する。決議時点の連結従業員数は207,548人であった。 楠見雄規社長は、この規模に至った理由を『2022年度から2024年度にかけて目標未達が続き、同業他社と比較して販管費率が高い状況。成長に転じるために構造改革が急務』と、収益力の後れに置いている。 詳細を読む | ★★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(パナソニック)