門真工場を新設・事業部制を採用
12工場の分散と創業者一人の意思決定の限界
1930年代初頭、松下電器はラジオ、乾電池、配線器具と製品領域を拡大し、大阪府内に第12工場まで生産拠点が点在する状況にあった。受注拡大のたびに増設を重ねてきたが、工場の分散は管理効率と物流の両面で課題を抱えていた。量産体制を確立しコスト低減を進めるには、拠点の集約と設備の近代化が不可欠であった。
同時に、製品数の増加は松下幸之助一人による意思決定に限界をもたらしていた。組織の拡大は活力を生む反面、責任の所在が曖昧になるリスクも伴う。生産体制と組織体制の双方を同時に再設計しなければ、成長の持続は困難な局面に入りつつあった。
門真への集約と事業部制の同時導入
松下電器は大阪市郊外の門真地区に大規模工場を新設することを決定し、1933年5月に本店工場を竣工させた。敷地面積は約7万平方メートル。投資額50万円のうち30万円を住友銀行から無担保で調達した。町工場出身の企業に対する無担保融資は、当時の松下電器の信用力を示すものであった。
あわせて同月、製品別に経営責任を明確化する事業部制を採用した。第一事業部をラジオ、第二事業部をランプ・乾電池、第三事業部を配線器具・合成樹脂・電熱器と定め、各事業部が生産から販売まで一貫して担う体制を整えた。米デュポンの導入から13年後であり、日本企業としては極めて早い採用であった。
量産体制と分権経営の基盤を同時に形成
門真本店工場の新設により生産拠点が集約され、コスト低減と供給能力の拡大が進んだ。広大な敷地は将来の増設余地を含んでおり、長期にわたる成長基盤として機能した。本店と工場群を一体に配置する構造は、管理の効率化と意思決定の迅速化を可能にした。
事業部制の導入は、創業者中心の経営から分権的経営への転換を意味した。各事業部が独立採算で損益責任を持つ仕組みは、後年の多角化を支える組織モデルとなった。門真への集約と事業部制の同時採用は、生産の近代化と経営の制度化を一挙に進めた転機であり、松下電器が総合電機メーカーへ成長する骨格を形成した。