東京の隅田川沿いの鐘ヶ淵に紡績工場を新設して近代的な繊維事業に参入した。だが、工場の経営は軌道に乗らず、間も無く倒産の危機に陥ったが、出資者でもあった三井財閥が経営再建のために尽力した。このため、鐘紡は三井と縁の深い会社となった。

東京の隅田川沿いの鐘ヶ淵に紡績工場を新設して近代的な繊維事業に参入した。だが、工場の経営は軌道に乗らず、間も無く倒産の危機に陥ったが、出資者でもあった三井財閥が経営再建のために尽力した。このため、鐘紡は三井と縁の深い会社となった。
三井財閥は鐘紡を立て直すために、当時28歳の青年であった武藤山治を兵庫工場新設の責任者に抜擢した。兵庫工場は鐘紡の経営再建に大きく寄与し、以後、鐘紡は武藤山治のトップダウンにより経営された。以後、鐘紡は地方の繊維工場を買収することで業容を拡大する。
終戦直後に武藤山治の息子であった武藤絲治が鐘紡の社長に就任。以後、戦後の鐘紡の経営を武藤絲治が担う。
鐘紡の主力事業であった綿は天然繊維であったため、東レのナイロン・ポリエステルといった合成繊維に代替された。そこで、鐘紡は綿以外に「多角化する」方針を定めたグレーター鐘紡計画を策定し、合成繊維および化粧品への本格進出を決めた。
鐘紡は化粧品事業を強化するために、関係会社の鐘淵化学(カネカ)から化粧品事業を取得した。この過程で、カネカから熾烈な抵抗があったと言われている。
鐘紡の社長であった武藤絲治は「繊維産業は斜陽では無い」という論説を展開し、鐘紡は「労使協調」を重視する意味でも繊維の縮小を先送りした。
鐘紡はチューイングガムの国内トップシェアメーカーのハリス(小田原)を買収。食品事業に参入する。
合成繊維事業の好調な立ち上がりと、化粧品部門などの多角化事業の拡大によってカネボウは増収増益を達成。当時のメディアではグレーターカネボウ計画が「成功」(1967/09/04ダイヤモンド)と評価された。
1960年代を通じて繊維各社が合成繊維に参入したことを受けて、各社の収益性が悪化。そこで、鐘紡は「繊維にとらわれない事業構成」を目標とした、経営の多角化「ペンタゴン経営」を提唱。繊維、住宅、食品、化粧品、医薬品の5事業構成とすることを目標とした。
創業期から長らく続いてきた武藤家は鐘紡の経営の一線から退き、伊東淳二が45歳という若さで鐘紡の社長に就任した。この交代劇の裏には壮絶な社内政治があったと言われている。
カネボウの創業工場であったが、競争力低下により閉鎖。跡地は東京都に売却されて住宅団地として再開発された
繊維事業の比率低下に合わせて、社名から紡績の2文字を除去した「鐘紡」に変更した
繊維業界の不振を受けて鐘紡の業績も悪化。1975年には経常赤字に転落する。赤字補填のために、鐘紡は大阪の淀川工場跡地を集合住宅地として売却するなど、不動産売却益によって延命を図る。
京都出町柳付近にあった京都工場を閉鎖。跡地は売却されて、東大路高野団地として再開発された
大阪市内に存在した淀川工場の生産機能を、滋賀県長浜工場に移転することを決定。跡地は三井不動産によって売却され、1982年に分譲マンション「ベル・パークシティ」として再開発された。大阪都心部の優良な土地の大規模再開発として注目を集めた、カネボウは土地の売却益によって繊維の赤字を補填した
明治33年に稼働して淡路島の有力工場であったが、老朽化などによる競争力の低下により閉鎖を決定
天然繊維事業の競争力低下に合わせて、カネボウは主力の面紡績の3工場を併載した。閉鎖対象は、長野工場(上田)、松坂工場(三重)、西大寺(岡山)の3箇所。いずれも各地域の大口雇用主であり、地元経済に致命的な打撃となった。
合成繊維事業の競争力低下に合わせて、山口県の防府工場の閉鎖を決定したが、熾烈な反対を受けて一時頓挫する。
1970年から鐘紡の経営を担い「ペンタゴン経営」を推進してきた伊東淳二が会長職を退任した。伊藤淳二は化粧品事業(現カネボウ化粧品)の発展には寄与したが、繊維事業からの撤退判断が遅れ、鐘紡の企業価値を長期的に毀損した。
このうち大垣工場は三甲、長浜工場はセーレン(車載向けシート製造)に売却された
1999年ごろから鐘紡は企業存続を図るために社内で粉飾決算を行なったとされ、2005年に自体が明るみとなり、当時の社長が逮捕された。この結果、鐘紡は社会的信用を失い、多額の負債を抱えて倒産を免れない状態に陥る。
債務超過を解消するために、鐘紡は唯一の主駅源であった化粧品事業を花王に4500億円で売却した。その後、カネボウは産業再生機構のもとで、各事業部ごとに解体された。
株主総会で解散を採択。カネボウは精算業務を行うために商号を「海岸ベルマネジメント株式会社」に変更。カネボウとしての歴史に終止符を打った