| 期 | 区分 | 売上高 | 利益※ | 利益率 |
|---|---|---|---|---|
| 1950/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1951/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1952/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1953/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1954/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1955/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1956/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1957/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1958/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1959/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1960/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1961/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1962/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1963/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1964/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1965/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1966/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1967/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1968/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1969/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1970/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1971/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1972/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1973/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1974/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1975/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1976/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1977/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1978/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1979/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1980/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1981/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1982/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1983/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1984/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1985/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1986/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1987/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1988/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1989/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1990/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1991/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1992/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 64,179億円 | 1,012億円 | 1.5% |
| 1993/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 61,975億円 | -559億円 | -1.0% |
| 1994/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 58,008億円 | -869億円 | -1.5% |
| 1995/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 58,341億円 | -1,660億円 | -2.9% |
| 1996/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 60,391億円 | -884億円 | -1.5% |
| 1997/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 66,588億円 | 777億円 | 1.1% |
| 1998/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 65,646億円 | -140億円 | -0.3% |
| 1999/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 65,800億円 | -277億円 | -0.5% |
| 2000/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 59,770億円 | -6,843億円 | -11.5% |
| 2001/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 60,896億円 | 3,310億円 | 5.4% |
| 2002/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 61,962億円 | 3,722億円 | 6.0% |
| 2003/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 68,285億円 | 4,951億円 | 7.2% |
| 2004/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 74,292億円 | 5,036億円 | 6.7% |
| 2005/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 85,762億円 | 5,122億円 | 5.9% |
| 2006/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 94,282億円 | 5,180億円 | 5.4% |
| 2007/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 104,685億円 | 4,607億円 | 4.4% |
| 2008/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 108,242億円 | 4,822億円 | 4.4% |
| 2009/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 84,369億円 | -2,337億円 | -2.8% |
| 2010/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 75,172億円 | 423億円 | 0.5% |
| 2011/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 87,730億円 | 3,192億円 | 3.6% |
| 2012/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 94,902億円 | 3,414億円 | 3.5% |
| 2013/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 87,373億円 | 3,411億円 | 3.9% |
| 2014/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 104,825億円 | 3,890億円 | 3.7% |
| 2015/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 113,752億円 | 4,575億円 | 4.0% |
| 2016/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 121,895億円 | 5,238億円 | 4.2% |
| 2017/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 117,200億円 | 6,634億円 | 5.6% |
| 2018/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 119,511億円 | 7,468億円 | 6.2% |
| 2019/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 115,742億円 | 3,191億円 | 2.7% |
| 2020/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 98,788億円 | -6,712億円 | -6.8% |
| 2021/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 78,625億円 | -4,486億円 | -5.8% |
| 2022/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 84,245億円 | 2,155億円 | 2.5% |
| 2023/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 105,966億円 | 2,219億円 | 2.0% |
| 2024/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 126,857億円 | 4,266億円 | 3.3% |
日産自動車の創業は、新興財閥の資本力を背景に自動車の量産に挑んだ事業投資であった。鮎川義介氏は「年に数百台では事業にならない」と量産を前提とした参入を志向し、日産財閥の傘下企業が稼いだ収益を自動車事業に投下する戦略をとった。輸入車が席巻する国内市場において、国産メーカーとして量産体制を構築するという挑戦は、国防上の要請と産業育成の両面から支持された。
1930年代の日本国内における自動車市場は、米フォードおよびGMからの輸入車に席巻されていた。国内メーカーによる自動車の量産体制は未確立であり、国防的な観点からも日本国内で自動車を製造する必要性が認識されていた。こうした状況のなか、新興財閥であった日産財閥の創業者・鮎川義介氏は、国内でも自動車を量産できれば米国企業に対抗できると判断し、莫大な投資が必要な自動車事業への参入を決定した。
参入にあたっては、日産財閥傘下の戸畑鋳物(鋳物製造会社)が保有していた自動車事業を足がかりとした。戸畑鋳物はクボタの創業者から小型車「ダットサン」の事業を買収しており、この買収を通じて日産は自動車製造の技術基盤を獲得していた。
1933年12月に日本産業(日産財閥の持株会社)と戸畑鋳物の出資により「自動車製造株式会社」を設立。初代社長には鮎川義介氏が就任した。翌1934年6月には商号を「日産自動車株式会社」に変更し、日産財閥における自動車事業を担う事業会社として位置づけた。
鮎川社長は「年に1万台や1.5万台を造らなければ事業にならない」との方針のもと、自動車の量産に必要な設備に積極投資を実施した。日産財閥の傘下企業群が稼いだ収益を投資事業である自動車領域に投下する戦略をとり、ダットサンの年産5,000台を計画するとともに、米フォードおよびシボレー向けの部品量産を通じた技術向上を図った。
日産自動車の創業は、新興財閥の資本力を背景に自動車の量産に挑んだ事業投資であった。鮎川義介氏は「年に数百台では事業にならない」と量産を前提とした参入を志向し、日産財閥の傘下企業が稼いだ収益を自動車事業に投下する戦略をとった。輸入車が席巻する国内市場において、国産メーカーとして量産体制を構築するという挑戦は、国防上の要請と産業育成の両面から支持された。
自動車は年に10,000台や15,000台を造らなければならぬ。年に500台や1,000台つくったのでは、それは自動車というものは何であるかという研究にはなるが、自動車の製造というものはそんなことぐらいではダメである。到底事業にならぬ。(略)
日産という一つのホールディング・カンパニー(持株会社)があって金が光っている。その傘下にはたくさんの会社があって、好業績を上げている。しかし、その中に1つや2つは脛かじりのものがあっても、日産全体としては少しも困らない。たとえば今は脛かじりでも5〜6年経てば立派な者になって結構親に貢いでくれる。そういう見通しがつけば、勇気をもってこの事業を守り育ててゆくことができる。これは国家的検知からしても、非常に必要なことであります。
それ故に、今度の自動車工業のごときものも、私は勇気を持ってやっている。私は太腹に金を使っている。
戦後の日産自動車がオースチン社と結んだ技術提携は、敗戦で生じた技術的空白を埋めるための戦略的な選択であった。単なる完成車の輸入ではなく、ノックダウン生産と段階的な部品国産化を組み合わせることで、自社の技術水準を引き上げる仕組みを契約に組み込んだ。ロイヤリティ3.5%の対価で図面・仕様書の全面開示を獲得した点は、技術導入の契約設計として合理的であった。
戦後の日本の自動車産業は、敗戦による技術的空白に直面していた。戦時中はトラックや軍用車両の生産に集中しており、乗用車の設計・製造技術は欧米に大きく遅れをとっていた。1950年代に入り、国内における乗用車需要の回復が見込まれるなか、日産自動車は自社の技術力だけでは先進国の水準に追いつくことが困難であると認識していた。
浅原源七社長は「世界の水準から見れば田舎者である」との認識のもと、先進国の自動車メーカーから技術を導入する方針を決定。提携先として英国の老舗自動車メーカーであるオースチン社を選定した。選定理由は、エンジン技術の水準が高いこと、欧米市場において一流のブランド力を有していたことであった。
1952年12月に日産自動車はオースチン社と技術提携契約を締結した。提携の骨子は、オースチンA40サルーン型乗用車のノックダウン生産(年間2,000台)を行うこと、生産に必要な部品を順次国産化すること、オースチン社が図面・材料・仕様書・部品表を開示して技術支援を行うこと、A40部品の日産の他車種への転用を許可することであった。
契約の対価として、日産自動車はロイヤリティの支払を実施。初年度は無料、2年度は工場出荷価格の2.0%、3年度以降は同3.5%とし、契約期間は7カ年に設定した。日産自動車は「オースチン部」を新設し、1953年3月から鶴見工場内でオースチンA40の組立生産を開始した。
日産自動車による英オースチン社との提携は、戦後の国内自動車メーカーにおける海外技術導入の先駆けとなった。1953年までに、日野自動車(ルノー)、いすゞ自動車(ルーツ)、新三菱重工(ウイリス・オーバーランド)も相次いで海外メーカーと提携し、ノックダウン生産を開始した。
オースチン社から導入した技術は、図面や仕様書の開示を通じて日産の技術者に吸収され、部品の国産化率を段階的に高めることで自社の技術水準を引き上げた。この技術提携で蓄積した乗用車の設計・製造ノウハウは、のちのダットサンブルーバードなど自社開発車種の基盤となり、日産自動車が乗用車メーカーとして成長する礎を築いた。
| 提携日時 | 企業名 | 提携先 | 生産車種 |
| 1952/12 | 日産自動車 | オースチン | A40 |
| 1953/3 | 日野自動車 | ルノー | 4CV |
| 1953/3 | いすゞ自動車 | ルーツ | ヒルマン |
| 1953/9 | 新三菱重工 | ウイリス・オーバーランド | ジープ(4WD) |
戦後の日産自動車がオースチン社と結んだ技術提携は、敗戦で生じた技術的空白を埋めるための戦略的な選択であった。単なる完成車の輸入ではなく、ノックダウン生産と段階的な部品国産化を組み合わせることで、自社の技術水準を引き上げる仕組みを契約に組み込んだ。ロイヤリティ3.5%の対価で図面・仕様書の全面開示を獲得した点は、技術導入の契約設計として合理的であった。
オースチン社との技術提携は、全般的な基礎に立った方策であって、敗戦の空白によって立ち遅れた設備機械、そして人をも世界の水準に引き上げようとの考えです。特に人については、世界の水準から見れば田舎者であります。この際堂々と先進国と手を結んで、与えるべきは耐え、取るべきは取る態度で技術の方法を見聞きし習得して、率直に導入することが、オースチン社との提携を結んだ根本です。
追浜工場の新設は、トヨタの元町工場稼働に対する日産の回答であった。旧海軍基地跡地という広大な用地を確保し、ワシントン輸出入銀行からの借款で139億円の投資資金を調達するという大胆な資金計画により、年間12万台の乗用車専門工場を実現した。吉原工場からの生産移管と部品工場への転換も含め、生産体制の全面的な再編を伴う戦略的な投資であった。
日産自動車は1959年7月にダットサンのモデルチェンジ車種として乗用車「ダットサンブルーバード」を発表した。当初の生産計画では月産2,000台(年産2.4万台)を予定していたが、販売が想定を上回る好調な推移を見せ、既存の吉原工場(静岡県)における生産設備では増産対応が困難な状況に陥りつつあった。
加えて、競合のトヨタ自動車が1959年に乗用車専用工場として元町工場(愛知県)を新設し、乗用車への集中投資を本格化していた。元町工場の稼働によってトヨタは乗用車の生産能力を大幅に拡大しており、日産自動車としても乗用車の量産体制を強化しなければ、国内シェア競争でさらに後手に回るリスクがあった。
1960年代初頭の国内乗用車市場は急速に拡大しており、量産によるコストダウンが競争力の源泉となっていた。日産自動車は乗用車の増産に対応するため、新たな専門工場の建設が不可避であると判断した。
1958年に日産自動車は、旧海軍の追浜基地跡地(神奈川県横須賀市)の国有地について買収を決定した。選定理由は、主力工場である横浜工場に近接すること、約30万坪(約100万㎡)の広大な敷地面積を確保できること、埋め立てにより20〜30万坪の拡張が可能であること、海岸に面した立地が輸出拠点として有利であることが決め手となった。
1962年3月23日に日産自動車は追浜工場を稼働した。同社として初の「乗用車専門工場」であり、稼働時の年間生産能力は12万台とした。工場の従業員については、それまで乗用車生産を担っていた吉原工場から826名の配置転換によって確保した。
追浜工場への生産移管に伴い、吉原工場(静岡県)は乗用車の生産を終了して部品工場へと転換された。トランスミッションやステアリングの生産拠点として活用され、のちにフォードとの合弁会社の拠点を経て、現在はジャトコの富士工場(本社)として機能している。
追浜工場の総投資額は139億円に及び、国内銀行からの借入や自己資金だけでは調達が困難であった。そこで、日産自動車は1959年から1961年にかけてワシントン輸出入銀行から合計1,400万ドル(約50億円)の借入を実施し、米国からの資金調達によって設備投資に充当した。
ワシントン輸出入銀行からの借款を活用して、追浜工場には34台のプレス機をはじめとする新鋭設備を導入。自動化および合理化された乗用車専門工場として、国内最高水準の生産効率を実現した。
追浜工場の稼働により、日産自動車はブルーバードの増産体制を確立し、トヨタ自動車に対抗しうる乗用車の量産基盤を構築した。同工場はのちに日産の国内主力工場として長期にわたって稼働し、日産の乗用車事業を支える中核拠点となった。
追浜工場の新設は、トヨタの元町工場稼働に対する日産の回答であった。旧海軍基地跡地という広大な用地を確保し、ワシントン輸出入銀行からの借款で139億円の投資資金を調達するという大胆な資金計画により、年間12万台の乗用車専門工場を実現した。吉原工場からの生産移管と部品工場への転換も含め、生産体制の全面的な再編を伴う戦略的な投資であった。
日産自動車によるプリンス自動車の合併は、トヨタとのシェア競争を意識した戦略的な再編であった。シェアの単純合算ではトヨタを上回る計算であったが、トヨタがカローラの販売拡大で対抗したため、首位奪取には至らなかった。ただし、村山工場という量産拠点の取得は日産の生産能力拡大に直接貢献しており、合併の実質的な成果は生産基盤の強化にあった。
1960年代半ばの国内乗用車市場において、日産自動車は販売シェア28%で第2位に位置し、首位のトヨタ自動車(同32%)を追う構図にあった。日産自動車はトヨタと比較して乗用車の量産拠点の新設で出遅れており、生産能力の面でトヨタに対する劣勢が鮮明になりつつあった。
一方、プリンス自動車は高級乗用車「グロリア」を主力とする独立メーカーであったが、高級車路線に特化したことでシェアは8%(国内4位)にとどまっていた。加えて、1960年代に政府が推進した「資本の自由化」により、海外メーカーの参入が現実味を帯びるなか、国内自動車メーカーの再編圧力が高まっていた。
1966年8月に日産自動車(川又克二社長)はプリンス自動車工業を合併した。合併比率は日産自動車1:プリンス自動車2とし、実質的に日産自動車によるプリンス自動車の取り込みであった。合併直前のシェアの単純合算では、日産28%+プリンス8%=36%となり、トヨタの32%を上回る計算であった。
合併における最大の狙いは、プリンス自動車が保有する村山工場(東京都武蔵村山市)の取得であった。プリンス自動車は1962年に乗用車量産のために敷地面積40万坪の大規模工場を新設しており、日産自動車は合併を通じて村山工場を取り込むことで、乗用車の生産能力を一挙に拡大する狙いがあった。
合併により日産自動車は生産拠点を拡充し、車種ラインナップにプリンスのグロリアやスカイラインを加えることで商品力を強化した。しかし、合併後もトヨタ自動車が「カローラ」の販売を急拡大したことで、日産自動車が目指した国内シェア1位の奪取には至らなかった。
結果として、トヨタ1位・日産2位の構図が定着し、国内乗用車市場におけるシェア競争は長期にわたってトヨタが優位を維持することとなった。川又社長は「この狭い市場に何十社もメーカーがあるのは無理であり、再編成はもっとシビアに推進されなければならない」と述べたが、業界再編の主導権を握るまでには至らなかった。
| 順位 | 企業名 | シェア | 主な乗用車工場 |
| 1位 | トヨタ | 32% | 元町工場(1959年〜) |
| 2位 | 日産自動車 | 28% | 追浜工場(1962年〜) |
| 3位 | マツダ(東洋工業) | 11% | |
| 4位 | プリンス自動車 | 8% | 村山工場(1962年〜) |
| 5位 | いすゞ自動車 | 6% | 藤沢工場(1962年〜) |
| 6位 | 富士重工(SUBARU) | 5% | 群馬製作所(1960年〜) |
| 位 | その他(ホンダなど) | 10% |
日産自動車によるプリンス自動車の合併は、トヨタとのシェア競争を意識した戦略的な再編であった。シェアの単純合算ではトヨタを上回る計算であったが、トヨタがカローラの販売拡大で対抗したため、首位奪取には至らなかった。ただし、村山工場という量産拠点の取得は日産の生産能力拡大に直接貢献しており、合併の実質的な成果は生産基盤の強化にあった。
今回、日産自動車がこのように規模において日本一になったのは、プリンス自動車工業を吸収合併した結果である。この合併は「資本の自由化」に対するわが国自動車産業のあり方という観点にたって検討した結果であって、日産を日本一の自動車会社にしようとか、日産1社の国際競争力を高めようとか、ましてや私一人が偉くなろうとか思ってやったことではないのである。(略)
今回、日産、プリンスと合併して、日本一の自動車会社になったというのも、こうした大局的見地に立ってやった、その結果なのである。この狭い市場に何十社も自動車メーカーがあるということが、どだい無理だし、そんなことをしていては過当競争になるばかりで、敵に餌を与える結果になる。だから、もっともっと再編成はシビアに推進されなければならないと思っているのである。
ジャトコの設立は、自動変速機の輸出における特許リスクを回避するための戦略的な選択であった。ボルグワーナーがトヨタ系のアイシン精機と合弁関係にあったことから、日産はクロスライセンス先であるフォードとの提携を選択。フォード主導の出資比率を受け入れることで、AT関連特許の問題を解消し、輸出車へのAT搭載を可能にした。
1960年代後半、自動変速機(AT)の搭載が乗用車の標準仕様として普及しつつあった。日産自動車は自社開発のATを国内販売車両(サニーB10)に搭載しており、国内市場では特許上の問題はなかった。しかし、輸出車においては米ボルグワーナー社が保有するAT関連特許に抵触するリスクが存在しており、北米を中心とした輸出拡大の障壁となっていた。
ボルグワーナー社はGM・フォードとの間でクロスライセンス契約を結んでおり、いずれかの企業から技術導入を受けることで特許問題を回避できる構造にあった。ところが、ボルグワーナーはトヨタ系の部品メーカーであるアイシン精機と合弁会社を設立しており、日産自動車にとって直接提携は競合上の懸念があった。
そこで日産自動車は、クロスライセンス先である米フォード社からの技術導入を選択した。1970年1月にフォード、日産自動車、マツダの3社合弁により「日本自動変速機株式会社(ジャトコ)」を設立。出資比率はフォード50%、日産25%、マツダ25%とし、フォードが主導権を握る形とした。
ジャトコの本社工場には、日産のトランスミッション生産拠点であった旧吉原工場の一部敷地を活用した。追浜工場の稼働に伴い乗用車生産から部品工場へ転換されていた吉原工場が、AT専業メーカーの拠点として新たな役割を担うこととなった。
ジャトコの設立は、自動変速機の輸出における特許リスクを回避するための戦略的な選択であった。ボルグワーナーがトヨタ系のアイシン精機と合弁関係にあったことから、日産はクロスライセンス先であるフォードとの提携を選択。フォード主導の出資比率を受け入れることで、AT関連特許の問題を解消し、輸出車へのAT搭載を可能にした。