戦前において新興財閥であった日産財閥は、莫大な投資が必要な自動車への参入を決定。1938年12月に日本産業と戸畑鋳物(日産系の鋳物製造会社)の出資により自動車製造株式会社を設立。翌1934年6月には商号を日産自動車株式会社に変更し、日産財閥における自動車事業を担当する事業会社として位置付けられた。
日産財閥は自動車事業への参入にあたって、戸畑鋳物における自動車部の事業を取得。戸畑鋳物は日産自動車の発足前に、クボタの創業者から自動車事業(ダットサン)を買収しており、買収を通じて日産は自動車事業への参入を図った。
日産自動車の発足にあたって、初代社長として鮎川義介氏(日産財閥の創業者)が就任した。鮎川社長は日本国内における自動車が米フォードおよびGMからの輸入車に席巻されていることを問題視し、日本国内でも自動車を量産できれば米国企業と競争できると判断した。また、国防的な観点から、日本国内で自動車製造を行う必要性を認識していた。
このため、自動車の量産に必要な設備に積極投資を実施。日産財閥の他の事業で稼いだ収益を、投資事業である自動車領域(日産自動車)に投下することで、自動車の量産を志向した。
日産自動車では会社設立時点において、ダットサンの製造と、米フォードおよびシボレー社向けの部品の量産を目的とした。ダットサンは年産5000台を予定。米フォードおよびシボレー向けの自動車部品については、自動車製造の技術向上が目的であった。
自動車は年に10,000台や15,000台を造らなければならぬ。年に500台や1,000台つくったのでは、それは自動車というものは何であるかという研究にはなるが、自動車の製造というものはそんなことぐらいではダメである。到底事業にならぬ。(略)
日産という一つのホールディング・カンパニー(持株会社)があって金が光っている。その傘下にはたくさんの会社があって、好業績を上げている。しかし、その中に1つや2つは脛かじりのものがあっても、日産全体としては少しも困らない。たとえば今は脛かじりでも5〜6年経てば立派な者になって結構親に貢いでくれる。そういう見通しがつけば、勇気をもってこの事業を守り育ててゆくことができる。これは国家的検知からしても、非常に必要なことであります。
それ故に、今度の自動車工業のごときものも、私は勇気を持ってやっている。私は太腹に金を使っている。
乗用車「ダットサン」を量産するために新工場の建設を決定。横浜の子安地区で臨海工業地帯が造成されたこともあり、1933年に横浜市から土地を取得。1934年5月に日産自動車は横浜工場を新設した。
戦時中の1943年には疎開工場として、静岡県に吉原工場を新設。航空機用エンジンの生産に従事した。
戦時体制において、日本政府は自動車事業について認可会社による許可制への移行を決定。1936年に「自動車製造事業法」を制定し、自動車生産に従事する企業の選別が実施された。
すでにダットサンの量産実績がある日産自動車は「自動車製造事業法」における指定会社となり、戦時中を通じて自動車(軍用トラック等)の生産に従事した。なお、許可会社は「日産自動車、トヨタ自動車、いすゞ自動車」の3社であり、戦時中も自動車メーカーとして業容を拡大するに至った。
乗用車の技術導入を目的として、1952年12月に日産自動車(浅原社長)は、英国の老舗自動車メーカーであるオースチン社と提携。同社を選定した理由は、エンジンにおける技術力の高さや、欧米で一流と評されたブランドを持つためであった。
提携内容の骨子は、オースチンA40サルーン型乗用車のノックダウン生産(年間2000台)を行うこと、ノックダウン生産に必要な部品を順次国産化すること、オースチン社が日産自動車に対して技術支援(図面・材料・仕様書・部品表の開示)をすること、A40部品について日産の他の車種への転用を許可することであった。
契約の対価として、日産自動車はオースチンへのロイヤリティ(車両における特許使用料)の支払を実施。組立開始の初年度は無料、2年度は小売価格(工場出荷価格)の2.0%、3年度以降は同3.5%の支払を実施。契約期間の有効期限は7カ年とした。
日産自動車はオースチンA40の生産にあたって「オースチン部」を発足。1953年3月から鶴見工場内において、ノクダウン(組立生産)による乗用車「オースチン・サマーセット・サルーン(A40)」生産を開始した。
なお、1953年までに、日野自動車(ルノー)、いすゞ自動車(ルーツ)、三菱重工(ウイリス・オーランド)も海外の完成車メーカーと提携してノックダウン生産を開始しており、日産は外国企業との提携によるノックダウン生産で先陣を切った。
提携日時 | 企業名 | 提携先 | 生産車種 |
1952/12 | 日産自動車 | オースチン | A40 |
1953/3 | 日野自動車 | ルノー | 4CV |
1953/3 | いすゞ自動車 | ルーツ | ヒルマン |
1953/9 | 新三菱重工 | ウイリス・オーバーランド | ジープ(4WD) |
オースチン社との技術提携は、全般的な基礎に立った方策であって、敗戦の空白によって立ち遅れた設備機械、そして人をも世界の水準に引き上げようとの考えです。特に人については、世界の水準から見れば田舎者であります。この際堂々と先進国と手を結んで、与えるべきは耐え、取るべきは取る態度で技術の方法を見聞きし習得して、率直に導入することが、オースチン社との提携を結んだ根本です。
日産自動車はダットサンのモデルチェンジ車種として、1959年7月に乗用車「ダットサンブルーバード」を発表。当初の生産計画では月産2000台(年産2.4万台)を予定したが、販売が好調に推移しており、既存の生産設備(吉原工場で生産に従事)では手狭になりつつあった。
加えて、競合のトヨタ自動車が1959年に「乗用車専用工場」として元町工場を新設し、乗用車への集中投資を志向。競合である日産自動車としても「乗用車専門工場」を新設し、ダットサンの増産によってコストダウンによって対抗する必要が生じた。
1958年に日産自動車は国有地(追浜基地跡)であった神奈川県追浜地区の土地について買収を決定。選定理由は、主力工場である横浜工場に近いことや、約30万坪(約100万m2)の敷地面積を確保できること、埋め立ての実施によって20万坪〜30万坪の拡張が可能であったこと、海岸に面した工場によって輸出拠点として有利なことが決め手となった。
1962年3月23日に日産自動車は、同社としては初となる「乗用車専門工場」として追浜工場を稼働した。稼働時の生産規模は、年間12万台であった。工場の従業員については、乗用車生産を担っていた吉原工場からの配置転換(対象者826名)によって対応した。
追浜工場の稼働によって、それまでダットサンの生産に従事していた吉原工場(静岡県)は乗用車の生産を終了して部品工場に転換。トランスミッションやステアリングの生産拠点として活用した。この経緯から、吉原工場は1970年代にフォードとの合弁会社の拠点として運営され、現在はジャトコの富士工場(本社)として活用されている。
追浜工場の新設にあたって、日産自動車は139億円を投資した。莫大な投資であり、国内銀行からの借入や自己資金では調達が難しい状況にあった。そこで、日産自動車は1959年から1961年にかけて、ワシントン輸出入銀行から合計1400万ドル(約50億円)の借入を実施。米国からの借入調達により、追浜工場の投資に充当した。
ワシントン輸出入銀行からの借款を通じた調達により、日産自動車は追浜工場において34台のプレス機など、新鋭設備を導入。自動化および合理化された乗用車専門工場として運営した。
横浜工場で実施していたトラック生産を効率化するために、1965年に座間工場(神奈川県)を新設。1968年ごろには追浜工場で生産していた「サニー」について座間工場への移管を実施し、乗用車生産に従事
1966年8月に日産自動車(乗用車国内シェア2位・川又克ニ社長)は、プリンス自動車(乗用車国内シェア4位)と合併。合併後の日産自動車のシェアはトヨタ自動車に匹敵し、自動車業界における大型再編の合併として注目を浴びた。
プリンス自動車は高級乗用車「グロリア」などの販売に従事して、独自に高級車路線を志向するメーカーであった。高級車の展開に絞ったことにより、プリンス自動車は乗用車の国内シェアで8%(国内4位)と低迷していた。
そこで、プリンス自動車は同じく関東に拠点を置く日産自動車との合併を決定した。合併直前における乗用車の販売シェアは、日産自動車28%+プリンス自動車8%(合計36%)であり、トヨタ自動車の32%を上回る試算であった。このため、合併によるシェア拡大で、日産自動車は国内の乗用車のシェアで1位を確保する見通しとなった(ただしトヨタはカローラの販売を拡大し、実際にはトヨタ1位・日産2位の構図が定着した)。
実質的に日産自動車によるプリンス自動車の取り込みであり、合併比率は、日産自動車:プリンス自動車=1:2に決定された。
日産自動車とプリンス自動車の合併において、最大の狙いが乗用車の量産工場である村山工場(東京都内)の取得であった。プリンス自動車は乗用車の量産のために、1962年に村山工場を新設。敷地面積40万坪の大規模な量産工場を稼働していた。
日産自動車はトヨタ自動車と比較して乗用車の量産拠点の新設で出遅れていたことから、プリンス自動車の合併を通じて村山工場を取り込み、乗用車の生産台数を拡大する狙いがあった。
順位 | 企業名 | シェア | 主な乗用車工場 |
1位 | トヨタ | 32% | 元町工場(1959年〜) |
2位 | 日産自動車 | 28% | 追浜工場(1962年〜) |
3位 | マツダ(東洋工業) | 11% | |
4位 | プリンス自動車 | 8% | 村山工場(1962年〜) |
5位 | いすゞ自動車 | 6% | 藤沢工場(1962年〜) |
6位 | 富士重工(SUBARU) | 5% | 群馬製作所(1960年〜) |
-位 | その他(ホンダなど) | 10% |
今回、日産自動車がこのように規模において日本一になったのは、プリンス自動車工業を吸収合併した結果である。この合併は「資本の自由化」に対するわが国自動車産業のあり方という観点にたって検討した結果であって、日産を日本一の自動車会社にしようとか、日産1社の国際競争力を高めようとか、ましてや私一人が偉くなろうとか思ってやったことではないのである。(略)
今回、日産、プリンスと合併して、日本一の自動車会社になったというのも、こうした大局的見地に立ってやった、その結果なのである。この狭い市場に何十社も自動車メーカーがあるということが、どだい無理だし、そんなことをしていては過当競争になるばかりで、敵に餌を与える結果になる。だから、もっともっと再編成はシビアに推進されなければならないと思っているのである。
自動変速機(AT)を生産するために、米フォード社からの技術導入を決定。日産ではATを自社開発して国内販売車両(サニーB10)に搭載しており特許面の問題はないと判断したが、輸出車においてはボルクワーナー社が保有している特許に抵触するリスクが存在した。
そこで、クロスライセンス先(ボルクワーナー・GM・フォードの3社でクロスライセンス)であるフォードからの技術導入を選択した。これは、ボルグワーナーがトヨタ系の部品メーカーであるアイシン精機と合弁会社を設立していることが理由で、日産自動車はフォードと提携することで競合を回避した。
1970年1月にフォード、日産、マツダの3社の合弁により日本自動変速機(ジャトコ)を設立した。出資比率が米フォード50%、日産25%、マツダ25%であり、フォードが主導権を握った。会社発足にあたって、日産のトランスミッションの生産拠点であった旧吉原工場について、一部の敷地をジャトコの本社工場(富士工場)として活用した。
1993年3月期に日産自動車は経常赤字に転落。国内における販売不振に加え、円高ドル安の進行によって海外輸出の採算が悪化したことが下人員であった。
(注:シェアが落ちた要因は)販売力の弱さでしょうね。普通、乗用車のモデルチェンジサイクルは4年です。モデルチェンジ直後は黙っていてもよく売れるが、2年目、3年目と年を追うごとに売れ行きが落ちていく。この落ち方が、うちの場合、ちょっとひどいんです。
最初の年は目標販売台数が100だとすると、120くらい売れる。これはどの会社もだいたい同じです。この後の落ち方がうちは普通よりも大きい。モデル末期の4年目にどれだけ台数を維持できるかが、販売力の目安になる。この点でトヨタさんと歴然とした差があるんです。(略)
問題になるのは商品を売った後のサービスの充実度、フォロー体制の優劣なんですね。この点でトヨタさんに比べてうちはまだ、不十分なんじゃないかな。
1993年2月に日産自動車は座間工場における車両生産の中止を発表。乗用車の販売が低迷。国内工場の稼働率が80%以下の状況となり、生産台数の適正化のために座間工場における車両生産からの撤退を決定した。合理化によって国内における年間生産台数は270万台から230万台となり、約40万台の生産能力を削減した。
座間工場で生産していた「サニー」は九州工場へ、同じく「プレセア」は村山工場への生産移管を決定した。
1995年3月22日に日産自動車の座間工場において「サニー」「プレセア」の生産を終了。1964年の工場稼働時から続いた車両生産に終止符を打った。座間工場における車両工場は役目を終え、工場跡地の売却を実施した。
座間の問題は改革の一部に過ぎません。社会的な影響が大きいため目立ちますが、これだけで収益が改善するわけではない。今年は日産にとって勝負の年です。1993年度に1桁でいいから黒字に転換させられれば、94年度、95年度はレールに乗ったと考えてもいい。人に嫌われるような決定は先延ばししたいですが、日産の抱える問題は今すぐ着手しても3年後でないと成果が現れない類のものが多い。つらい決断も下していかなければならない。今やらないと、私が社長在任中に業績が回復することはないだろうと思います。
1999年10月18日に日産自動車は「日産リバイバルプラン」を策定。2003年3月期までに1兆円のコスト削減、販売金融を除く有利子負債の削減(1.4兆円→0.7兆円)によって財務体質を改善し、2001年3月期の黒字化、2003年3月期に売上高営業利益率4.5%を目標とした。
日産リバイバルプランの策定を受けて、人員削減の実施を決定。5工場の閉鎖とともに、合計21,000名のリストラを決定したが、希望退職社の募集ではなく、配置転換および採用抑制によって人員削減に対応した。
2000年3月期に日産自動車は当期純損失6843億円を計上し、過去最大の赤字を計上した。日産リバイバルプランによる事業構造改革特別損失2326億円に加え、年金過去勤務費用償却額2758億円、製品保証引当金繰入額484億円、その他特別損失1925億円を計上した結果、同年度の合計の特別損失は7496億円に及んだ。
ルノーの出資およびカルロスゴーン氏の社長就任によって、2002年までに日産自動車は国内における工場閉鎖を含む事業再編を完了。翌2003年からはグローバル展開のために、現地生産の増強による積極投資を本格化した。
グローバル展開の地域について、欧州に関しては提携先であるルノーが展開している関係から、日産自動車としては中国と北米を積極的な投資対象とした。
北米におけるグローバル販売を拡大するため、2003年3月に北米日産において米国で2箇所目の現地生産拠点となる「キャントン工場(ミシシッピー州)」を新設。年間生産台数は40万台とし、米国向けに大型車の生産を開始した。
中国におけるグローバル販売を拡大するため、2003年7月に現地企業との合弁により東風汽車有限公司を発足。2004年に花都工場を新設し、中国における四輪車の現地生産(年間生産15万台計画)を開始。
2000年代から2010年代にかけて、日産自動車の販売台数では、日本国内における販売に苦戦する一方、北米・中国を中心とした海外における販売台数を拡大。
41年ぶりに本社を東京都中央区銀座から、発祥の地である神奈川県横浜市内(みなとみらいグローバルセンター)に移転
2005年に日産自動車は、系列部品メーカーであるカルソニックカンセイ(東証一部上場)について連結子会社化(株式保有比率41.59%)したが、2017年3月に売却を決定。売却先は投資ファンドのKKR。売却前年度(2016年3月期)におけるカルソニックカンセイの概況は、売上高1053億円・営業利益343億円・従業員数21,987名であった。
カルソニックカンセイの売却に伴い、日産自動車は関係会社株式売却益として1150億円を計上。
新車投入サイクルが一巡したことや、北米における販売不振により、中国における経済不況による販売不振により、2020年3月期に▲6712億円の最終赤字に転落した。日産自動車としては、ルノーによる経営再建直前の最終赤字に匹敵する金額であった。
販売不振による業績悪化を踏まえ、日産自動車は大規模な人員削減を決定。2019年7月に従業員1.2万名のリストラを発表した。
業績が低迷する日産について、提携先かつ筆頭株主であるルノー(日産の株式43.4%を保有)は株式の段階的な売却を決定。2023年7月に新アライアンス契約を締結し、ルノーによる日産に対する出資比率を15%台まで下げることを決定した。
この異動により、ルノーは保有する日産自動車の株式28.4%を信託会社に移管。2024年3月時点で日産の筆頭株主はル信託会社(24.8%)、第2位の大株主としてルノー(15.9%)の序列となり、日産はルノーとの関係性を整理した。