りそなHD の歴史

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前身は大和銀行とあさひ銀行

創業 1918年
母体 大和銀行+近畿大阪銀行+奈良銀行
創業地 大阪府大阪市
創業 1918年5月、野村徳七氏が大阪野村銀行を設立した。1944年8月に同系の野村信
1918年5月、野村徳七氏が大阪野村銀行を設立した。1944年8月に同系の野村信託を併合して信託業務の兼営を始め、1966年の金融制度改正で他行が信託を分離したあとも兼営を維持した、戦前からの数少ない都市銀行である。1948年10月に大和銀行へ改称し、1949年5月に東京・大阪の両証券取引所へ上場した。関東側の源流は別にあり、1991年4月に協和銀行と埼玉銀行が合併して協和埼玉銀行となり、翌1992年9月にあさひ銀行へ改称している。2001年12月、大和銀行・近畿大阪銀行・奈良銀行が株式移転で大和銀行ホールディングスを設立し、2002年3月にあさひ銀行が加わって4系列が1つの持株会社へ集まり、同年10月に商号をりそなホールディングスへ改めた。
決断 再建の指揮は、銀行の外から来た経営者に委ねた。2003年3月期に繰延税金資産を取
再建の指揮は、銀行の外から来た経営者に委ねた。2003年3月期に繰延税金資産を取り崩して自己資本が国内基準を割り込み、同年5月に預金保険法102条の初適用で約1兆9,600億円の公的資金を受け入れた。旧経営陣が退任したあと、6月にJR東日本副社長の細谷英二氏が会長として招かれ、営業時間の延長やクイック決裁など、他のメガバンクが海外拡大と投資銀行業務へ向かった時期に国内リテールの業務改善へ資源を集中した。2015年6月に公的資金を完済し、2018年4月には関西みらいフィナンシャルグループを創設して関西の地銀再編を引き受けている。1996年の米国市場からの撤退で海外という選択肢を失っていたことが、この一点集中を可能にした。
現況 増益をつくったのは新しい事業ではなく、金利が戻ったこと自体である。粘着性の高い個
増益をつくったのは新しい事業ではなく、金利が戻ったこと自体である。粘着性の高い個人預金は政策金利の上昇に追随しにくく、普通預金の追随率は0.25%の利上げに対して40%にとどまる一方、貸出と有価証券の利回りは政策金利と連動して上がる。この非対称が働き、2026年3月期の経常収益は1兆3,572億円、親会社株主に帰属する当期純利益は2,587億円と、前期の2,133億円をさらに上回った。もっとも余剰資本の使い道は定まっていない。決済領域を厚くするため約500億円を追加出資したデジタルガレージの持ち分法適用会社化では、その半年後に449億円の評価損を計上している。
競合 他のメガバンクが海外と投資銀行業務へ向かった20年を、りそなは国内だけで過ごした
他のメガバンクが海外と投資銀行業務へ向かった20年を、りそなは国内だけで過ごした。分岐点は2000年で、3行統合構想からあさひ銀行が離脱し、三和・東海は東洋信託を加えてUFJへ、あさひは大和銀行との統合を選んでりそなへ進んだ。以後、三菱UFJフィナンシャル・グループが米州とアジアで商業銀行を取得したのに対し、りそなは信託兼営と関西・埼玉の店舗網に資源を置き、海外拠点をほとんど持たない。現在の相手はメガではなく、同じ地域で預金を奪い合う地方銀行と、SBIホールディングスが組成した第4のメガバンク構想のような地銀連合である。海外を持たない不利は金利がゼロの局面でだけ現れ、金利が戻ると預金の粘着性が利ざやを広げる側へ働いた。
長期業績の推移 1949〜2026年
りそなホールディングス:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
2006年3月期〜2026年3月期

第1章 1918年〜 大阪野村銀行の創立から大和銀行へ ── 証券金融で起こし、信託を兼ね、野村の名を返上するまで

1918年〜株式で築いた資産を移した大阪野村銀行の創業

野村徳七は、株式の売買で築いた資産を銀行業へ移すことで、相場師から金融業者へ立場を変えた。父から受けた2万円を元手に1904年に有価証券問屋の野村商店を開業し、1907年の暴落局面で売り方に回って700万円を超える資産を得た。第一次世界大戦下の1915年から1919年にかけての好況で野村家の資産は3,000万円に膨れ、1917年には野村商店を株式会社へ改組して、徳七自身は相場の第一線から退いた。翌1918年、野村家は1,000万円を全額払込資本金として出資し、大阪市東区安土町に本店を置く株式会社大阪野村銀行を設立した。設立の登記は6月25日に完了し、単一の店舗で8月1日に開業した。

  • 産業と経済 9巻3号(1955年)
    • [1]野村徳七は父から受けた2万円を資本に有価証券問屋の野村商店を開業し、1907年1月からの売り方の建玉で資本が350倍の700万円を下らない資産となった。
    • [2]1915年から1919年までの好成績により、野村家の資産は3,000万円に膨脹した。
    • [3]1917年にまず野村商店を株式会社に改組し、野村徳七自身が株式市場の第一線から退いた。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 一、創業
    • [4]野村家から1,000万円を出資し、これを全額払込資本金として、大阪市東区安土町二丁目61番地に本店を置き単一店舗で営業を開始した。
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「大和銀行」
    • [5]大阪野村銀行は1918年6月25日に設立登記を完了し、同年8月1日に開業した。資本金は1,000万円。

新しい銀行が掲げたのは、預金を集めて短期資金を回す商業銀行ではなく、事業資金の供給機関であった。野村徳七が念頭に置いたのはドイツ式の銀行経営で、開業披露の席上でもこの抱負を繰り返し述べた。定款は銀行条例による一般銀行業務に加え、担保付社債信託法による信託業の兼営を目的として掲げた。営業種目には工業資金の供給と、株式・国債・市債・社債の募集もしくは売出の取扱または引受が並んだ。当時は工業者と普通銀行のあいだに十分な疎通関係がなく、銀行の側も工業金融には消極的な態度を取っていた。証券の引受を営業種目に置くことは、野村家にとっては本業の延長であっても、普通銀行としては異色とされた。

  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 三、当行の立場と初期の営業
    • [6]野村徳七が最初に描いていたのは英米流の商業銀行・預金銀行ではなく、事業資金の供給機関すなわち興業銀行的なドイツ式の銀行経営であり、開業披露の席上でもこの抱負を発表した。
    • [9]当時は工業者と普通銀行の間にまだ十分な疎通関係がなく、銀行としても工業金融には消極的な態度を取っていた。
    • [10]有価証券の募集引受業務を営業種目に加えたことは、野村家伝来のお家芸とはいえ普通銀行としては異色とされた。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 一、創業(株式会社大阪野村銀行定款)
    • [7]定款第二条は、銀行条例に準拠し一般銀行業務を営むことを目的とし、かつ担保付社債信託法により信託業を兼営すると定めた。
    • [8]定款第三条の業務の種類には、株式・国債・市債・社債・債券の募集もしくは売出の取扱または引受が含まれた。

開業までの難関は、資金ではなく認可であった。大阪には本店を置く銀行だけで住友以下11行があり、政府はこのうえ銀行の新設を原則として認可しない方針を採っていたため、当局は難色を示した。野村徳七は自ら上京して大蔵当局と折衝し、野村商店専務の柴山鷲雄氏は、同窓で当時大阪府内務部長を務めていた柴田善三郎氏を再三訪ねて助力を請うた。認可を得て開業した1918年8月末の払込資本金1,000万円は、住友・三十四・浪速・山口に次ぐ在阪5位であった。もっとも証券界で名を成した野村家は銀行業者としては未知数で、多年の老舗が居ながらにして預金を集めるのに比べれば、相当な不利を背負っていた。創業から25期にわたって無配を通し、利益のほとんどを内部留保へ振り向けた。

  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 一、創業
    • [11]設立認可内伺書を提出した当時、大阪には本店銀行だけでも住友ほか10行があり、政府は銀行の新設を原則的に認可しない方針を採っていたため、認可には難色がうかがわれた。
    • [12]野村徳七が自ら上京して大蔵当局と折衝する一方、柴山鷲雄が大学の同窓で当時大阪府内務部長であった柴田善三郎を再三府庁に訪問して助力を懇請し、起業認可を得た。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 三、当行の立場と初期の営業
    • [13]1918年8月末の在阪普通銀行の払込資本金順位は、住友2,250万円、三十四1,397万5,000円、浪速1,125万円、山口1,000万円、大阪野村銀行1,000万円で第5位であった。
    • [14]証券界では名声のあった野村家も銀行業者としては未知数で、多年の老舗を誇る先進銀行が居ながらにして預金を集めうるのに比べ、相当なハンディキャップがあった。
    • [15]野村家は銀行の創始に際してその収益を当てにせず、創業以来25期にわたって無配当を押し通した。
参考文献[1]-[15]
  • 産業と経済 9巻3号(1955年)
    • [1]野村徳七は父から受けた2万円を資本に有価証券問屋の野村商店を開業し、1907年1月からの売り方の建玉で資本が350倍の700万円を下らない資産となった。
    • [2]1915年から1919年までの好成績により、野村家の資産は3,000万円に膨脹した。
    • [3]1917年にまず野村商店を株式会社に改組し、野村徳七自身が株式市場の第一線から退いた。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 一、創業
    • [4]野村家から1,000万円を出資し、これを全額払込資本金として、大阪市東区安土町二丁目61番地に本店を置き単一店舗で営業を開始した。
    • [11]設立認可内伺書を提出した当時、大阪には本店銀行だけでも住友ほか10行があり、政府は銀行の新設を原則的に認可しない方針を採っていたため、認可には難色がうかがわれた。
    • [12]野村徳七が自ら上京して大蔵当局と折衝する一方、柴山鷲雄が大学の同窓で当時大阪府内務部長であった柴田善三郎を再三府庁に訪問して助力を懇請し、起業認可を得た。
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「大和銀行」
    • [5]大阪野村銀行は1918年6月25日に設立登記を完了し、同年8月1日に開業した。資本金は1,000万円。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 三、当行の立場と初期の営業
    • [6]野村徳七が最初に描いていたのは英米流の商業銀行・預金銀行ではなく、事業資金の供給機関すなわち興業銀行的なドイツ式の銀行経営であり、開業披露の席上でもこの抱負を発表した。
    • [9]当時は工業者と普通銀行の間にまだ十分な疎通関係がなく、銀行としても工業金融には消極的な態度を取っていた。
    • [10]有価証券の募集引受業務を営業種目に加えたことは、野村家伝来のお家芸とはいえ普通銀行としては異色とされた。
    • [13]1918年8月末の在阪普通銀行の払込資本金順位は、住友2,250万円、三十四1,397万5,000円、浪速1,125万円、山口1,000万円、大阪野村銀行1,000万円で第5位であった。
    • [14]証券界では名声のあった野村家も銀行業者としては未知数で、多年の老舗を誇る先進銀行が居ながらにして預金を集めうるのに比べ、相当なハンディキャップがあった。
    • [15]野村家は銀行の創始に際してその収益を当てにせず、創業以来25期にわたって無配当を押し通した。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 一、創業(株式会社大阪野村銀行定款)
    • [7]定款第二条は、銀行条例に準拠し一般銀行業務を営むことを目的とし、かつ担保付社債信託法により信託業を兼営すると定めた。
    • [8]定款第三条の業務の種類には、株式・国債・市債・社債・債券の募集もしくは売出の取扱または引受が含まれた。

1920年〜野村証券の分離と昭和金融恐慌を通じた業態の絞り込み

創業時に掲げた三つの柱のうち、最初に伸びたのは証券であった。当行は創業時から証券係を置いて公社債の引受と売買を扱い、1920年10月に証券部を設けて証券業務を本格的に拡充した。同年秋に大阪株式取引所へ開設された国債市場では、地元銀行として取引員に加わった。1922年2月の第四回大同電力社債500万円、翌年9月の広島電気社債の募集を成功させ、収益に少なからず寄与した。一方、当初に企画した工業金融は、自己資本に余力のあった当座を過ぎると資金の弾力性に限界を生じ、次第に焦点を失った。1920年末に総貸出の74.7%を占めた証書貸付と手形貸付は1926年末に59.9%へ下がり、割引手形と当座貸越が比重を増した。

  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 四、証券部門の活躍
    • [16]創業時から証券係を置いて公社債の引受・売買の事務を取扱い、1920年10月から新たに証券部を設けて証券業務を本格的に拡充した。
    • [17]1920年10月1日に大阪の株式取引所へ国債市場が開設され、大阪市場では地元銀行として大阪野村銀行、藤本ビルブローカー、日本信託銀行等が取引員として参加した。
    • [18]1922年2月の第四回大同電力社債500万円、1923年9月の広島電気社債の募集に成功し、銀行の収益力に少なからず寄与した。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 一二、業績の進展と行名変更
    • [19]当初に企画した工業金融は、自己資本1,000万円の余力があった当座を過ぎると資金の弾力性に限界を生じ、次第に焦点を失うに至った。
    • [20]総貸出に占める証書貸付・手形貸付の比率は1920年末の74.7%から1926年末には59.9%へ低下し、割引手形・当座貸越の比重が増大した。

銀行の内部に性質の異なる二つの部門を抱える不便が、証券部の分離を促した。野村家が証券業務を切り離し、独立した会社で営むと決めたのは片岡音吾氏の帰国後の検討を経てのことで、1924年から設立の準備が始まった。その下地には、取締役支配人から常務に進んだ片岡音吾氏がニューヨークでナショナル・シティ・カンパニーを訪れ、同社が1916年にナショナル・シティ銀行の証券部を分離して独立会社となった経緯を総裁から聞いた経験があった。片岡音吾氏を初代社長に据え、資本金500万円で1926年1月に開業した野村証券株式会社は公社債を受け持ち、株式は1923年に野村商店から改称した大阪屋商店に任された。危険の大きい株式を傍系に、銀行を最も安全な位置に据えた資本の配置である。

  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 九、野村証券株式会社の創立
    • [21]野村家は証券業務を一独立会社として経営することとし、1924年に入ってから創設準備に取りかかった。
    • [22]片岡音吾はニューヨーク滞在中にナショナル・シティ・カンパニーを訪問し、同社を1916年にナショナル・シティ銀行の証券部から独立会社に仕立てた総裁チャールス・ミッチェルから、その間の事情と経過を聞いた。
  • 産業と経済 9巻3号(1955年)
    • [23]1926年1月から片岡音吾を初代社長として資本金500万円の野村証券が開業した。
    • [24]開業時の野村証券は公社債だけを取扱い、株式は1923年に野村商店を改称した大阪屋商店が担当した。

商号から「大阪」の二字が取れた直後に、金融恐慌が来た。営業圏が東京・名古屋・京都・神戸・福岡へ及び、地区に偏する商号が取引上の支障となったため、1926年12月9日付で商号変更の認可を得て、1927年1月1日から野村銀行となった。同年3月の預金は9,300万円に達し、1億円の大台乗せも近いと見られていた。ところが恐慌の第二波で4月19日から引出しが激化し、最高潮の21日には530万円、3月半ばからの減少は3,300万円に及んだ。当行は手持の有価証券と担保物件を早期に動員し、日銀へは一覧表と番号を付けて整然と持ち込んだ。野村徳七は私財をことごとく投げ出す腹を決めて合名会社に証券と権利書の整理を指令しており、近江・加島・藤田といった先輩の銀行が閉店するなか、恐慌期を含む一営業期の預金減少は400万円程度にとどまった。

  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 野村銀行時代前期 一、昭和金融恐慌に際会して
    • [25]営業所の分布が大阪以外に東京・名古屋・京都・神戸・福岡へ及び、地区的に偏する商号が取引上の支障となったため、1926年12月9日付で商号変更の認可を得て1927年1月1日から野村銀行と改称した。
    • [26]1927年3月に預金は9,300万円に達し、当面の目標である1億円の大台乗せも近いとみられていた。
    • [27]恐慌第二波の影響は1927年4月19日から激化し、最高潮の21日には530万円の引出しがあり、3月半ば以降この日までの預金減少は3,300万円となった。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 野村銀行時代前期 二、銀行の整理合同と当行の他行吸収
    • [28]担保物件を他行のように鞄や長持に詰め込まず、一々整理して一覧表と番号をつけ、日銀の要求するとおりに持ち出した。担保整理の行き届いた銀行は三行あり、その一行が当行であった。
    • [29]野村徳七は私財をことごとく投げ出しても危機を乗り切る腹を決めて合名会社に指令し、証券・権利書等を整理させた。近江・加島・藤田等の先輩銀行が閉店あるいは経営挫折するなか、恐慌時を含む一営業期中の預金減少額は400万円程度で切り抜けた。
参考文献[16]-[29]
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 四、証券部門の活躍
    • [16]創業時から証券係を置いて公社債の引受・売買の事務を取扱い、1920年10月から新たに証券部を設けて証券業務を本格的に拡充した。
    • [17]1920年10月1日に大阪の株式取引所へ国債市場が開設され、大阪市場では地元銀行として大阪野村銀行、藤本ビルブローカー、日本信託銀行等が取引員として参加した。
    • [18]1922年2月の第四回大同電力社債500万円、1923年9月の広島電気社債の募集に成功し、銀行の収益力に少なからず寄与した。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 一二、業績の進展と行名変更
    • [19]当初に企画した工業金融は、自己資本1,000万円の余力があった当座を過ぎると資金の弾力性に限界を生じ、次第に焦点を失うに至った。
    • [20]総貸出に占める証書貸付・手形貸付の比率は1920年末の74.7%から1926年末には59.9%へ低下し、割引手形・当座貸越の比重が増大した。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 九、野村証券株式会社の創立
    • [21]野村家は証券業務を一独立会社として経営することとし、1924年に入ってから創設準備に取りかかった。
    • [22]片岡音吾はニューヨーク滞在中にナショナル・シティ・カンパニーを訪問し、同社を1916年にナショナル・シティ銀行の証券部から独立会社に仕立てた総裁チャールス・ミッチェルから、その間の事情と経過を聞いた。
  • 産業と経済 9巻3号(1955年)
    • [23]1926年1月から片岡音吾を初代社長として資本金500万円の野村証券が開業した。
    • [24]開業時の野村証券は公社債だけを取扱い、株式は1923年に野村商店を改称した大阪屋商店が担当した。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 野村銀行時代前期 一、昭和金融恐慌に際会して
    • [25]営業所の分布が大阪以外に東京・名古屋・京都・神戸・福岡へ及び、地区的に偏する商号が取引上の支障となったため、1926年12月9日付で商号変更の認可を得て1927年1月1日から野村銀行と改称した。
    • [26]1927年3月に預金は9,300万円に達し、当面の目標である1億円の大台乗せも近いとみられていた。
    • [27]恐慌第二波の影響は1927年4月19日から激化し、最高潮の21日には530万円の引出しがあり、3月半ば以降この日までの預金減少は3,300万円となった。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 野村銀行時代前期 二、銀行の整理合同と当行の他行吸収
    • [28]担保物件を他行のように鞄や長持に詰め込まず、一々整理して一覧表と番号をつけ、日銀の要求するとおりに持ち出した。担保整理の行き届いた銀行は三行あり、その一行が当行であった。
    • [29]野村徳七は私財をことごとく投げ出しても危機を乗り切る腹を決めて合名会社に指令し、証券・権利書等を整理させた。近江・加島・藤田等の先輩銀行が閉店あるいは経営挫折するなか、恐慌時を含む一営業期中の預金減少額は400万円程度で切り抜けた。

1928年〜銀行合同への不参加と、野村信託の併合から大和銀行への改称

恐慌の後に来たのは、銀行を数の上で淘汰する政策であった。1928年1月に施行された銀行法は資本金の下限を100万円、特定の大都市に本店を置く銀行は200万円と定め、単独の増資による適格化を認めなかったため、小銀行には合同のほかに道がなかった。施行時に1,283行あった普通銀行は、1932年末には538行まで減った。当行は1927年11月の淡河銀行神戸支店をはじめ、加島・藤田ほか数行から営業の一部を買い取るにとどめ、1933年の在阪三行の合同にも同調しなかった。合併に頼らずに預金は伸び、1927年末から1932年末までの増加率59%は、五大銀行の21%を大きく上回った。

  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 野村銀行時代前期 二、銀行の整理合同と当行の他行吸収
    • [30]1928年1月から施行された銀行法は、銀行の資本金を最低100万円、特定の大都市に本店を置くものは200万円の株式会社でなくてはならないと定め、5カ年間にこの規格へ達することを求めた。単独の増資による適格化は許されず、小銀行は合同するほかなかった。
    • [31]銀行法施行当時の普通銀行数は1,283行、そのうち非適格銀行は半数の617行にのぼり、普通銀行数は1926年末の1,420行から1932年末の538行へ減少した。
    • [32]1927年11月にまず淡河銀行から神戸支店と附属出張所を、加島・藤田その他数行から営業の一部を買収して営業網に加えた。
    • [34]1927年末から1932年末にかけて当行の預金は59%増加し、五大銀行の増加率21%を大きく上回った。
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「大和銀行」
    • [33]1933年の在阪三行の合同に際し、野村銀行はこれに同調せず、独自の立場に立って特色を生かすよう努めた。

大銀行どうしの合同が始まると、単独で残る方針はあらためて問われた。1942年12月下旬に第一銀行と三井銀行の合同が公表される前夜、三和銀行頭取の中根貞彦氏が当行の松島社長と会見し、翌日には住友本店総理事の古田俊之助氏と野村合名の専務理事が会合した。三行の申し合わせは互いの立場を尊重するという了解にとどまり、直後に開かれた野村合名理事会は、従来どおり自主独往の方針を貫くと決めた。合同のかわりに選んだのが、同系の野村信託の併合である。1944年8月21日に2,000万円を増資し、同月28日に野村信託を併合して資本金は5,000万円となった。信託を併営する総合銀行は当行が最初であった。

  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 野村銀行時代中期 一一、野村信託の併合
    • [35]第一銀行と三井銀行の合同が発表された1942年12月下旬、その発表の前夜に三和銀行頭取の中根貞彦が野村銀行の松島社長と会見し、翌日には住友本店総理事の古田俊之助と野村合名の山内専務理事が会合した。
    • [36]三行の合同が不可避となった場合は互いの立場を尊重しようという了解ができただけで終わり、会談後ただちに開かれた野村合名理事会では、家長をはじめ全員がこれまでどおり自主独往の方針を貫くことに決した。
    • [37]野村信託は1933年春に大正信託の営業を継承して大阪信託の名で発足し、1936年に加島信託を吸収、開業後10年間で全国21社中5、6位を争う有力会社に発展していた。
    • [38]信託会社の併合を予定して単独増資が認められ、1944年8月21日に2,000万円を増資して資本金を4,000万円とし、同月28日に野村信託を併合して資本金5,000万円となった。
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「大和銀行」
    • [39]1944年の野村信託の合併により、わが国最初の総合的金融機関として信託兼営の先鞭をつけた。

野村の名を外したのは、敗戦後の再建整備であった。1946年3月、野村家の所有する株式は持株会社整理委員会へ移された。1948年3月の最終処理で銀行勘定の特別損失は4億9,900万円と確定し、資本金は90%が切り捨てられ、第二封鎖預金等の切捨率は66%となった。この切捨率は主要銀行のなかでは低い方であった。同年10月1日、行名は職員から募った候補のうち最も多数を占めたものから審議のうえ「大和銀行」に改まり、11月1日には増資によって資本金が5億5,000万円へ回復した。発足の挨拶で右松社長は、創業当時に大阪の本店銀行12行中で最弱小に過ぎなかった銀行を『殆んど合併を行わずして大銀行に仕上げた』と述べた。合併ではなく自力で地位を積んだという自負が、そこに置かれていた。

  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「大和銀行」
    • [40]1946年3月、野村家族の所有株式を持株会社整理委員会に移譲した。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 野村銀行時代後期 九、当行の再建整備
    • [41]最終処理において銀行勘定の特別損失額は4億9,900万円と確定し、当行は資本金の90%を切り捨てると同時に、一般の第二封鎖預金等の切捨は66%と決定した。
    • [42]各都市銀行の資本・整理債務の切捨率は、帝国100%・76%、住友100%・77%、三菱93%・70%、三和90%・69%などで、当行の預金切捨率66%は主要銀行中では割合に低い方であった。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 野村銀行時代後期 九、当行の再建整備/大和銀行時代 一、大和銀行の発足
    • [43]整備計画により1948年10月1日から行名を「大和銀行」とあらため、増資の応募額が予定を超えたため10月30日の株主総会で追加増資を決議し、11月1日に新資本金を5億5,000万円とした。行名は職員から新しい名づけ方を募り、最も多数を占めた有力候補から審議のうえ決定した。
参考文献[30]-[43]
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 野村銀行時代前期 二、銀行の整理合同と当行の他行吸収
    • [30]1928年1月から施行された銀行法は、銀行の資本金を最低100万円、特定の大都市に本店を置くものは200万円の株式会社でなくてはならないと定め、5カ年間にこの規格へ達することを求めた。単独の増資による適格化は許されず、小銀行は合同するほかなかった。
    • [31]銀行法施行当時の普通銀行数は1,283行、そのうち非適格銀行は半数の617行にのぼり、普通銀行数は1926年末の1,420行から1932年末の538行へ減少した。
    • [32]1927年11月にまず淡河銀行から神戸支店と附属出張所を、加島・藤田その他数行から営業の一部を買収して営業網に加えた。
    • [34]1927年末から1932年末にかけて当行の預金は59%増加し、五大銀行の増加率21%を大きく上回った。
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「大和銀行」
    • [33]1933年の在阪三行の合同に際し、野村銀行はこれに同調せず、独自の立場に立って特色を生かすよう努めた。
    • [39]1944年の野村信託の合併により、わが国最初の総合的金融機関として信託兼営の先鞭をつけた。
    • [40]1946年3月、野村家族の所有株式を持株会社整理委員会に移譲した。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 野村銀行時代中期 一一、野村信託の併合
    • [35]第一銀行と三井銀行の合同が発表された1942年12月下旬、その発表の前夜に三和銀行頭取の中根貞彦が野村銀行の松島社長と会見し、翌日には住友本店総理事の古田俊之助と野村合名の山内専務理事が会合した。
    • [36]三行の合同が不可避となった場合は互いの立場を尊重しようという了解ができただけで終わり、会談後ただちに開かれた野村合名理事会では、家長をはじめ全員がこれまでどおり自主独往の方針を貫くことに決した。
    • [37]野村信託は1933年春に大正信託の営業を継承して大阪信託の名で発足し、1936年に加島信託を吸収、開業後10年間で全国21社中5、6位を争う有力会社に発展していた。
    • [38]信託会社の併合を予定して単独増資が認められ、1944年8月21日に2,000万円を増資して資本金を4,000万円とし、同月28日に野村信託を併合して資本金5,000万円となった。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 野村銀行時代後期 九、当行の再建整備
    • [41]最終処理において銀行勘定の特別損失額は4億9,900万円と確定し、当行は資本金の90%を切り捨てると同時に、一般の第二封鎖預金等の切捨は66%と決定した。
    • [42]各都市銀行の資本・整理債務の切捨率は、帝国100%・76%、住友100%・77%、三菱93%・70%、三和90%・69%などで、当行の預金切捨率66%は主要銀行中では割合に低い方であった。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 野村銀行時代後期 九、当行の再建整備/大和銀行時代 一、大和銀行の発足
    • [43]整備計画により1948年10月1日から行名を「大和銀行」とあらため、増資の応募額が予定を超えたため10月30日の株主総会で追加増資を決議し、11月1日に新資本金を5億5,000万円とした。行名は職員から新しい名づけ方を募り、最も多数を占めた有力候補から審議のうえ決定した。

第2章 1949年〜 都市銀行としての全国展開 ── 外国為替と信託兼営を抱えたまま高度成長を走る

1949年〜甲種外国為替銀行への選定と、都市銀行としての店舗網の組み替え

1949年11月、外国為替銀行の臨時措置等に関する政令が公布され、当行はほかの10行とともに甲種外国為替銀行の指定を受けた。改称後の大和銀行にとって、これが初めて手にした新しい免許である。輸出手形の買取りは同年12月、輸入業務は翌1950年1月に始まり、取り扱う店舗も本店と東京・横浜・神戸・名古屋・京都・福岡の各支店から、のちに20カ店まで増えた。コルレス契約は1950年4月にアメリカ系の6銀行と結んだのが最初で、1957年末には世界の主要各国で211行・779カ店を結ぶ網となった。1952年6月からは自己名義のドル勘定を持つことが認められ、輸出と輸入の為替を自行内で突き合わせる基盤ができた。

  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 五、外国為替業務への進出
    • [44]1949年11月に外国為替銀行の臨時措置等に関する政令が公布され、この規定にもとづいて大和銀行は他の10行と並んで甲種外国為替銀行に選定された。
    • [45]1949年12月から輸出手形の買取りを開始し、翌1950年1月から輸入業務を開始した。
    • [46]外国為替業務の取扱店舗は、当初は本店および東京・横浜・神戸・名古屋・京都・福岡の各支店について認可を得て、その後の追加と廃止を経て20カ店となった。
    • [47]1950年4月にアメリカ系の6銀行と初めてコルレス契約を結び、その後コルレス網を拡大して1957年末には世界主要各国211行・779カ店に達した。
    • [48]1952年6月からドル資金について為替銀行が自ら外貨を保有することが実施され、各取引先外銀に自己名義のドル勘定を保有することとなった。これにより為替銀行が自立的にドル資金を操作し、輸出入為替をマリーさせる基盤ができた。

経済が落ち着いてくると、当局は店舗の単純な増設をなかなか認めなくなった。各行の競争を抑える狙いである。そこで当行は1949年から1950年にかけ、既にあった出張所や詰所を支店に格上げして独立の営業所に改め、1951年3月の時点で出張所以下の店舗をすべてなくした。新設が難しいなかで配置を組み替え、店舗網を立て直したことになる。あわせて貯蓄の増強と取引先の開拓という観点から効率の悪い支店を整理し、1952年には広島と札幌に進出した。預金の増加に歩調を合わせて資本金も増やし、再建整備の時点で5億5,000万円だったものが、1951年9月に11億円、1953年4月に22億円、1957年7月に44億円となった。1951年11月の株主総会では定款を改正して社長制を廃し、頭取制へ復した。

  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 七、支店網の拡充と内部体制の整備
    • [49]当局の方針からすれば経済が落ちつくに従って各行間の競争を制する意味で単純な増設の認可は難しくなる情勢にあったため、1949年から1950年にかけて、かつて増設を許された簡易店舗である出張所または詰所を支店に昇格させて独立の営業所とすることから手をつけた。
    • [50]多くの出張所を支店に昇格させたほかは、1951年3月までに出張所以下の店舗を全部廃止した。
    • [51]1950年から1953年にかけて支店の配置転換を実施し、貯蓄増強や取引先開拓の見地から効率的でない支店を整理する一方、1952年に広島・札幌へ進出した。
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大和銀行」
    • [52]1948年10月の改称時の資本金は5億5,000万円、店舗は89カ店であった。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 七、支店網の拡充と内部体制の整備/一五、数量景気以後の当行/一六、海外活動とプルダニア銀行の創立
    • [53]1951年9月1日に倍額増資で資本金を11億円とし、1953年4月の増資で22億円、1957年7月の倍額増資で44億円とした。1951年11月28日の株主総会で定款を改正し、社長制を廃して頭取制に復帰した。

1952年ごろになると、協調融資方式が後退して各行は融資先を自ら選ぶようになり、旧財閥の関係会社を中心に金融の系列化が進んだ。当行はこの流れから距離を置き、広く大衆を相手にして大小の企業の発展に役立つという立場から、融資を系列に絞り込むことはしなかった。その代わりに厚みを増したのが中小企業金融で、創業のときに重点の一つとして中小金融の道を開くことを掲げて以来手がけてきた分野だった。中小金融特別店舗は1950年4月の生野支店が最初で、中小企業金融公庫の代理貸付は1958年7月までの累計で45億6,000万円に達し、都市銀行全体の1割以上に及んだ。全貸出金残高に占める資本金1,000万円以下の企業向けの比率は、1956年3月末で40.62%と全国銀行の36.31%を上回った。

  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 一二、金融の正常化と当行の貸出業務
    • [54]1952年ごろから協調融資方式が後退して各銀行が融資先を自主的に選別し始め、旧財閥関係会社間の取引緊密化という形の金融の系列化が進み、これが融資選別の一つの基準とされた。
    • [55]大和銀行は広く大衆を対象とし産業の各分野におけるあらゆる大小企業の恒久的な発展に資することを使命としてきたことにかえりみ、バランスのとれた安定性のある営業基盤の拡充を本位として、融資の系列化を重点的に進めることはしなかった。
    • [57]1950年4月に大蔵省の通牒にもとづき中小金融特別店舗としてまず生野支店を振り向け、中小企業金融公庫の代理貸付は1958年7月までの累計額が45億6,000万円に達して都市銀行全体の1割以上を占めた。
    • [58]全貸出金残高中に占める資本金1,000万円以下の企業に対する比率は、1956年3月末で当行40.62%に対し全国銀行36.31%、1957年3月末で当行40.38%に対し全国銀行36.11%であった。
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大和銀行」
    • [56]大阪野村銀行は創業にあたり、工業銀行としての新しい行き方、担保付社債信託法による信託業務、証券金融による資本市場の育成、中小金融の途をつけることの4点に重点を置いた。
参考文献[44]-[58]
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 五、外国為替業務への進出
    • [44]1949年11月に外国為替銀行の臨時措置等に関する政令が公布され、この規定にもとづいて大和銀行は他の10行と並んで甲種外国為替銀行に選定された。
    • [45]1949年12月から輸出手形の買取りを開始し、翌1950年1月から輸入業務を開始した。
    • [46]外国為替業務の取扱店舗は、当初は本店および東京・横浜・神戸・名古屋・京都・福岡の各支店について認可を得て、その後の追加と廃止を経て20カ店となった。
    • [47]1950年4月にアメリカ系の6銀行と初めてコルレス契約を結び、その後コルレス網を拡大して1957年末には世界主要各国211行・779カ店に達した。
    • [48]1952年6月からドル資金について為替銀行が自ら外貨を保有することが実施され、各取引先外銀に自己名義のドル勘定を保有することとなった。これにより為替銀行が自立的にドル資金を操作し、輸出入為替をマリーさせる基盤ができた。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 七、支店網の拡充と内部体制の整備
    • [49]当局の方針からすれば経済が落ちつくに従って各行間の競争を制する意味で単純な増設の認可は難しくなる情勢にあったため、1949年から1950年にかけて、かつて増設を許された簡易店舗である出張所または詰所を支店に昇格させて独立の営業所とすることから手をつけた。
    • [50]多くの出張所を支店に昇格させたほかは、1951年3月までに出張所以下の店舗を全部廃止した。
    • [51]1950年から1953年にかけて支店の配置転換を実施し、貯蓄増強や取引先開拓の見地から効率的でない支店を整理する一方、1952年に広島・札幌へ進出した。
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大和銀行」
    • [52]1948年10月の改称時の資本金は5億5,000万円、店舗は89カ店であった。
    • [56]大阪野村銀行は創業にあたり、工業銀行としての新しい行き方、担保付社債信託法による信託業務、証券金融による資本市場の育成、中小金融の途をつけることの4点に重点を置いた。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 七、支店網の拡充と内部体制の整備/一五、数量景気以後の当行/一六、海外活動とプルダニア銀行の創立
    • [53]1951年9月1日に倍額増資で資本金を11億円とし、1953年4月の増資で22億円、1957年7月の倍額増資で44億円とした。1951年11月28日の株主総会で定款を改正し、社長制を廃して頭取制に復帰した。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 一二、金融の正常化と当行の貸出業務
    • [54]1952年ごろから協調融資方式が後退して各銀行が融資先を自主的に選別し始め、旧財閥関係会社間の取引緊密化という形の金融の系列化が進み、これが融資選別の一つの基準とされた。
    • [55]大和銀行は広く大衆を対象とし産業の各分野におけるあらゆる大小企業の恒久的な発展に資することを使命としてきたことにかえりみ、バランスのとれた安定性のある営業基盤の拡充を本位として、融資の系列化を重点的に進めることはしなかった。
    • [57]1950年4月に大蔵省の通牒にもとづき中小金融特別店舗としてまず生野支店を振り向け、中小企業金融公庫の代理貸付は1958年7月までの累計額が45億6,000万円に達して都市銀行全体の1割以上を占めた。
    • [58]全貸出金残高中に占める資本金1,000万円以下の企業に対する比率は、1956年3月末で当行40.62%に対し全国銀行36.31%、1957年3月末で当行40.38%に対し全国銀行36.11%であった。

1956年〜信託分離の行政指導と、併営を手放さない選択

銀行が兼ねてきた信託を切り離し、独立した経営体に本来の働きを専ら担わせるというのが当局の方針であった。1950年代後半、大蔵省はこうして銀行と信託の分離へ向きを変えた。信託業務を営んできた地方銀行は1956年10月以降、自ら新たな受託をやめ、中国銀行も1957年3月末に信託勘定を閉め、信託業の認可も返上した。併営を続ける銀行は、三和・東海・神戸と当行の4行を残すのみとなった。残った4行もいずれ信託部門を切り離すことになるだろうという推測や噂が広がった。

  • 大和銀行四十年史(1958年)信託部門史 一四、業務分野の調整問題
    • [59]大蔵省は銀行と信託の業務分野の調整を検討し、信託業を銀行の併営とする制度をあらためて信託業を独自の経営体とし、信託本来の機能を専行させる方向で行政指導を進めた。
    • [60]従来信託業務を経営してきた地方銀行7行は、1956年10月以降、自発的に新たな受託を停止した。
    • [61]中国銀行は1957年3月末をもって信託勘定を閉鎖し、信託経営の認可を返上した。
    • [62]地方銀行の受託停止と中国銀行の認可返上の結果、信託を併営する銀行は三和・東海・神戸および大和銀行の4行となった。
    • [63]業界の動きから、残る4行も早晩信託部門を分離させるのではないかとの推測や風評が飛んだ。

世論も行政も信託経営のあり方をめぐって何度も立場を変えたが、当行は最後まで併営の体制を崩さなかった。1926年の金融制度調査会特別委員会では野村徳七が信託を銀行に兼ねさせる案に賛成し、1947年11月に金融制度調査会が兼営形態の廃止を答申した際も、当行から第五特別委員会に加わった峯村英薫氏が少数派の一人として異を唱えた。その底には、信託は強い固有勘定が背後にあってこそ成り立つという、創業期から変わらない見方があった。創業時の定款に書き込んだ担保付社債信託の免許から数えて、信託は30年をまたいで持ち越された。

  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大和銀行」
    • [64]1944年の野村信託の合併により、創業以来の念願であった信託併営銀行となった。
  • 大和銀行四十年史(1958年)信託部門史 一四、業務分野の調整問題
    • [65]1926年の金融制度調査会特別委員会において、野村徳七は信託業を銀行の兼営とする案を支持した。
    • [66]1947年11月に金融制度調査会が信託に関して銀行の兼営形態を廃止すべきことを答申した際、大和銀行から経営者代表として第五特別委員会に参加した峯村英薫は、少数派の一人として同案に反対した。
    • [67]大和銀行は創業以来の理想と経験にもとづき、また真の信託業務は強固な固有勘定を背後にもつことによって成り立つとする信念のもとに、併営体制を確守した。

併営を残した選択は、1960年代の収益で報われた。金銭信託は1955年当時の75億円から、1968年には2,800億円強へおよそ38倍に伸びた。1962年に始まった企業年金信託では業界で20数%のシェアを占め、首位に立った。銀行業務・信託業務・外国為替業務の三本柱が揃い、当行はわが国唯一の総合金融機関と称された。預金残高は1954年3月の900億円から10年後の1964年3月に5,000億円を突破し、信託部門と合わせた資金量は1968年に1兆円の大台を超えた。同年の資本金は180億円、従業員は9,000名であった。

  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大和銀行」
    • [68]金銭信託預金は1955年当時の75億円から1968年には2,800億円強へ約38倍の伸びを示した。
    • [69]1962年から始まった企業年金信託で業界の20数パーセントのシェアを占め、首位にあった。
    • [70]1949年11月の甲種外国為替銀行の指定により、銀行業務・信託業務・外為業務を三本柱とした。大和銀行はわが国唯一の総合金融機関として活動した。
    • [71]預金残高は1954年3月の900億円が10年後の1964年3月には5,000億円を突破し、資金量は信託部門と合わせて1兆円の大台を突破した。
    • [72]1968年時点の大和銀行は資本金180億円、従業員9,000名、頭取は寺尾威夫であった。
参考文献[59]-[72]
  • 大和銀行四十年史(1958年)信託部門史 一四、業務分野の調整問題
    • [59]大蔵省は銀行と信託の業務分野の調整を検討し、信託業を銀行の併営とする制度をあらためて信託業を独自の経営体とし、信託本来の機能を専行させる方向で行政指導を進めた。
    • [60]従来信託業務を経営してきた地方銀行7行は、1956年10月以降、自発的に新たな受託を停止した。
    • [61]中国銀行は1957年3月末をもって信託勘定を閉鎖し、信託経営の認可を返上した。
    • [62]地方銀行の受託停止と中国銀行の認可返上の結果、信託を併営する銀行は三和・東海・神戸および大和銀行の4行となった。
    • [63]業界の動きから、残る4行も早晩信託部門を分離させるのではないかとの推測や風評が飛んだ。
    • [65]1926年の金融制度調査会特別委員会において、野村徳七は信託業を銀行の兼営とする案を支持した。
    • [66]1947年11月に金融制度調査会が信託に関して銀行の兼営形態を廃止すべきことを答申した際、大和銀行から経営者代表として第五特別委員会に参加した峯村英薫は、少数派の一人として同案に反対した。
    • [67]大和銀行は創業以来の理想と経験にもとづき、また真の信託業務は強固な固有勘定を背後にもつことによって成り立つとする信念のもとに、併営体制を確守した。
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大和銀行」
    • [64]1944年の野村信託の合併により、創業以来の念願であった信託併営銀行となった。
    • [68]金銭信託預金は1955年当時の75億円から1968年には2,800億円強へ約38倍の伸びを示した。
    • [69]1962年から始まった企業年金信託で業界の20数パーセントのシェアを占め、首位にあった。
    • [70]1949年11月の甲種外国為替銀行の指定により、銀行業務・信託業務・外為業務を三本柱とした。大和銀行はわが国唯一の総合金融機関として活動した。
    • [71]預金残高は1954年3月の900億円が10年後の1964年3月には5,000億円を突破し、資金量は信託部門と合わせて1兆円の大台を突破した。
    • [72]1968年時点の大和銀行は資本金180億円、従業員9,000名、頭取は寺尾威夫であった。

1958年〜プルダニア銀行の設立と、インドネシアで問われた存続

海外への最初の足場は、取引先の求めに応じて置かれた。1952年に化学会社の石原産業とインドネシアの有力者のあいだで新銀行創設の話し合いが始まったが、同社に銀行経営の経験はなく、取引関係の深い当行が誘い込まれた。当行も1952年7月に調査員を現地へ派し、東南アジア諸国の開発と産業金融に関与する意図を持っていた。1953年にインドネシア大蔵省の設立認可を得て、授権資本は5,000万ルピア、出資比率はインドネシア51%・日本49%と定まった。1956年2月に定款の認証を得て正式に設立し、1958年2月1日、ジャカルタでバンク・プルダニアが開業した。経営は主として当行に委ねられ、日本側取締役2名のうち1名と、営業関係の幹部として現職行員3名が出向した。

  • 日経ビジネス 1973年7月9日号
    • [73]1952年に石原産業とインドネシアの有力者の間で新銀行創設の話し合いが行われたが、石原産業には銀行経営の経験がなかったため、取引関係の深い大和銀行を誘い込んだ。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 一六、海外活動とプルダニア銀行の創立
    • [74]大和銀行は東南アジア諸国の開発ならびに産業金融に関係したい意図を持ち、1952年7月に調査員を現地に派遣して各国の政治・経済事情を調査させていた。
    • [75]1953年7月に石原産業が発起人となって合弁銀行を設立することについてインドネシア大蔵省の認可を得た。銀行の授権資本は5,000万ルピアで、出資比率はインドネシア51%、日本49%であった。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 一七、創業四十周年を目前にして
    • [76]定款の認証は1956年2月に得られ、1958年2月1日に合弁銀行バンク・プルダニアがジャカルタで開業した。
    • [77]プルダニア銀行設立後の経営は主として大和銀行に委ねる約束であり、日本側取締役2名のうち1名を出すほか、営業関係の幹部に現職行員3名を出向させた。

開業から6年で、この銀行は存続そのものを問われた。1964年5月、スカルノ大統領がすべての外国銀行の閉鎖を命じ、合弁であるプルダニア銀行は閉鎖こそ免れたものの、インドネシア国内での預金活動を禁じられた。1965年末には1000分の1のデノミネーションが実施され、設立当初5,000万ルピアであった資本金は5万ルピアへ減価した。物価上昇率は1965年に300%、翌1966年には600%を記録した。日本の親会社では閉鎖が真剣に検討されたが、現地は営業拡大の方針を打ち出し、日本人と現地職員が組んだ勧誘チーム4組が毎日町を回って預金を集めた。1968年に民族銀行か外国銀行かの選択を迫られると、支店を設けられないかわりに外国為替を扱える外国銀行を選び、1969年2月から外為の取扱いを始めた。

  • 日経ビジネス 1973年7月9日号
    • [78]1964年5月にスカルノ大統領がすべての外国銀行の閉鎖を命じたが、プルダニア銀行は合弁銀行であるため大統領令による閉鎖は免れ、かわりにインドネシアでの預金活動を禁じられた。
    • [79]1965年のデノミネーションによって、設立当初5,000万ルピアであった資本金はわずか5万ルピアに減価した。
    • [80]1965年の300%というインフレ率に続いて、1966年は600%の物価上昇を記録した。
    • [81]日本の親会社ではプルダニアの閉鎖を真剣に検討したが、現地では意を決して営業拡大方針を打ち出し、日本人と現地職員がペアになった勧誘チーム4組が毎日町を駆けずり回って預金を集めた。
    • [82]1968年に政策当局から民族銀行か外銀かの選択を迫られ、民族銀行なら支店を開けるが外国為替を扱えないため、合弁銀行のメリットを生かすとして外銀の道を選び、1969年2月から外国為替の取扱いを始めた。

駐在員事務所から始まった海外の拠点は、やがて支店になった。1956年9月にニューヨーク、1958年3月にロンドンへ駐在員事務所を置き、1968年にはいずれも支店となって、外国為替の取引網は世界主要都市の330行1,300カ店に及んだ。国内では1958年7月末に総預金が2,405億円へ達し、都市銀行のなかで長く第10位にあった預金順位が第9位へ上がった。この時点で預金の47.5%を大阪地区が占め、京浜地区が31.3%で続いており、大阪を本拠としながら東京方面への進出が進んだことを示していた。20年後の1978年3月期には預金高2兆4,267億円、経常利益83億7,300万円、資本金200億円となった。

  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 一七、創業四十周年を目前にして
    • [83]海外の枢要地に拠点を設けるべく、1956年9月にニューヨーク駐在員事務所を、1958年3月にロンドン駐在員事務所を開設した。
    • [85]1958年7月末の総預金は2,405億円となり、3月末比19%の増加で都市銀行12行の平均増加率2%を大きく上回った。都市銀行中で長く第10位にあった預金順位が第9位へ進んだ。
    • [86]1958年7月末の地区別預金残高構成比は、大阪地区47.5%、京浜地区31.3%、東海地区6.3%、兵庫地区5.8%で、1942年末の大阪62.5%・京浜22.8%から京浜の比重が高まった。
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大和銀行」
    • [84]外国為替業務では世界主要都市に330行1,300カ店の取引網を有し、ニューヨーク、ロンドンに支店を設けていた。
  • 日本企業要覧 1978年版「大和銀行」
    • [87]1978年3月期の預金高は2兆4,267億100万円、経常利益83億7,300万円、純利益33億7,000万円で、資本金は200億円であった。
参考文献[73]-[87]
  • 日経ビジネス 1973年7月9日号
    • [73]1952年に石原産業とインドネシアの有力者の間で新銀行創設の話し合いが行われたが、石原産業には銀行経営の経験がなかったため、取引関係の深い大和銀行を誘い込んだ。
    • [78]1964年5月にスカルノ大統領がすべての外国銀行の閉鎖を命じたが、プルダニア銀行は合弁銀行であるため大統領令による閉鎖は免れ、かわりにインドネシアでの預金活動を禁じられた。
    • [79]1965年のデノミネーションによって、設立当初5,000万ルピアであった資本金はわずか5万ルピアに減価した。
    • [80]1965年の300%というインフレ率に続いて、1966年は600%の物価上昇を記録した。
    • [81]日本の親会社ではプルダニアの閉鎖を真剣に検討したが、現地では意を決して営業拡大方針を打ち出し、日本人と現地職員がペアになった勧誘チーム4組が毎日町を駆けずり回って預金を集めた。
    • [82]1968年に政策当局から民族銀行か外銀かの選択を迫られ、民族銀行なら支店を開けるが外国為替を扱えないため、合弁銀行のメリットを生かすとして外銀の道を選び、1969年2月から外国為替の取扱いを始めた。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 一六、海外活動とプルダニア銀行の創立
    • [74]大和銀行は東南アジア諸国の開発ならびに産業金融に関係したい意図を持ち、1952年7月に調査員を現地に派遣して各国の政治・経済事情を調査させていた。
    • [75]1953年7月に石原産業が発起人となって合弁銀行を設立することについてインドネシア大蔵省の認可を得た。銀行の授権資本は5,000万ルピアで、出資比率はインドネシア51%、日本49%であった。
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 一七、創業四十周年を目前にして
    • [76]定款の認証は1956年2月に得られ、1958年2月1日に合弁銀行バンク・プルダニアがジャカルタで開業した。
    • [77]プルダニア銀行設立後の経営は主として大和銀行に委ねる約束であり、日本側取締役2名のうち1名を出すほか、営業関係の幹部に現職行員3名を出向させた。
    • [83]海外の枢要地に拠点を設けるべく、1956年9月にニューヨーク駐在員事務所を、1958年3月にロンドン駐在員事務所を開設した。
    • [85]1958年7月末の総預金は2,405億円となり、3月末比19%の増加で都市銀行12行の平均増加率2%を大きく上回った。都市銀行中で長く第10位にあった預金順位が第9位へ進んだ。
    • [86]1958年7月末の地区別預金残高構成比は、大阪地区47.5%、京浜地区31.3%、東海地区6.3%、兵庫地区5.8%で、1942年末の大阪62.5%・京浜22.8%から京浜の比重が高まった。
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大和銀行」
    • [84]外国為替業務では世界主要都市に330行1,300カ店の取引網を有し、ニューヨーク、ロンドンに支店を設けていた。
  • 日本企業要覧 1978年版「大和銀行」
    • [87]1978年3月期の預金高は2兆4,267億100万円、経常利益83億7,300万円、純利益33億7,000万円で、資本金は200億円であった。

第3章 1980-1999 (気が向いたら執筆します!) 協和・埼玉の合併とあさひ銀行の誕生、大和銀行ニューヨーク支店事件

第4章 2000-2012 (気が向いたら執筆します!) 大和銀ホールディングスの発足とりそなへの改称、実質国有化と細谷英二の改革

第5章 2013-2019 (気が向いたら執筆します!) 東和浩の公的資金完済と関西みらいフィナンシャルグループの発足

第6章 2020-2026 (気が向いたら執筆します!) 南昌宏の関西みらい吸収と過去最高益、デジタルガレージへの出資

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歴史年表 1918〜2025年

りそなホールディングスの沿革1918〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1918〜1948年大阪野村銀行の創立から大和銀行へ ── 証券金融で起こし、信託を兼ね、野村の名を返上するまで大阪野村銀行を設立★
大阪野村銀行が野村銀行に商号変更★
武州・第八十五など4行が合併し埼玉銀行設立★
野村銀行が野村信託を併合し信託兼営を開始★
9貯蓄銀行が合併し日本貯蓄銀行を設立★
日本貯蓄銀行が普通銀行へ転換し協和銀行に商号変更★
野村銀行が大和銀行に商号変更★
1949〜1979年都市銀行としての全国展開 ── 外国為替と信託兼営を抱えたまま高度成長を走る大和銀行が東京・大阪両証取に上場★
金融制度改正で他の都市銀行が信託業務を分離するなか、大和銀行は信託兼営を維持★
大和銀行がニューヨーク支店を開設★
1980〜1999年協和・埼玉の合併とあさひ銀行の誕生、大和銀行ニューヨーク支店事件協和銀行と埼玉銀行が相互業務提携★
協和銀行と埼玉銀行が合併し協和埼玉銀行発足★★
大和銀行ニューヨーク支店で巨額損失事件が発覚★★
2000〜2012年大和銀ホールディングスの発足とりそなへの改称、実質国有化と細谷英二の改革3行による大型連合の構想からの離脱と、単独路線への引き返し

2000年3月、三和・東海・あさひの3行が共同持株会社方式による経営統合で基本合意したが、統合方式をめぐる対立からあさひがわずか3カ月で離脱し、3行構想は破談した案件である。

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勝田泰久二行の経営統合による新たな持株会社の誕生と、2002年の体制成立

都市銀行再編から取り残された大和銀行とあさひ銀行が、近畿大阪銀行・奈良銀行とともに共同持株会社の傘下に集い、のちのりそなホールディングスを形づくった経営統合。

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勝田泰久大阪証券取引所・東京証券取引所の市場第一部に上場★
勝田泰久りそなHDに商号変更★
勝田泰久大和銀行・あさひ銀行を合併してりそな銀行発足、埼玉りそな銀行も発足★★
川田憲治預金保険法102条の初適用による公的資金約1兆9,600億円の受け入れと、外部招聘した細谷英二会長のもとでのリテール銀行再建

2003年5月、繰延税金資産の取り崩しで自己資本が国内基準を割ったりそなホールディングスが、預金保険法第102条第1号の措置に基づき約1兆9,600億円の公的資金を受け入れて実質国有化され、旧経営陣が退いてJR東日本副社長だった細谷英二会長を外部から迎え、"ダントツのリテール銀行"へ路線を定めた経営判断。

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川田憲治旧経営陣退任、細谷英二(JR東日本出身)が会長に就任★★
檜垣誠司檜垣誠司が代表執行役社長に就任★
2013〜2019年東和浩の公的資金完済と関西みらいフィナンシャルグループの発足東和浩東和浩が代表執行役社長に就任★
東和浩預金保険機構向けの公的資金1兆9,600億円を完済★★
東和浩近畿大阪銀行株式を関西みらいフィナンシャルグループに譲渡★
東和浩関西みらいフィナンシャルグループの創設と完全子会社化による関西リテール基盤の集約

りそなホールディングスが、傘下の近畿大阪銀行と三井住友フィナンシャルグループ傘下の関西アーバン銀行・みなと銀行を、新設した中間持株会社の傘下に集約した組織再編。2018年4月1日に関西みらいフィナンシャルグループが発足し、同日に東京証券取引所市場第一部へ上場した。 りそなホールディングスが握った議決権は51.41%、三井住友フィナンシャルグループは2019年3月期末で23.51%を残し、二つの金融グループが一つの上場地域金融グループに相乗りした。

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★★★
2020〜2026年南昌宏の関西みらい吸収と過去最高益、デジタルガレージへの出資南昌宏南昌宏が代表執行役社長兼グループCEOに就任★
南昌宏関西みらいFGを完全子会社化★
南昌宏関西みらいフィナンシャルグループを吸収合併★
南昌宏FY2024に過去最高益を達成★
南昌宏約500億円の追加出資と持ち分法適用会社化、その半年後に生じた449億円の評価損

2025年7月、りそなホールディングス(HD)は、決済プラットフォームを手がけるデジタルガレージ(DG)の株式をアクティビストのオアシス・マネジメントから追加取得し、持ち分比率を12.42%から30.90%へ引き上げて持ち分法適用関連会社とした。約500億円を投じたこの戦略出資は、公的資金を完済した同社が掲げる"資本活用フェーズ"の柱をなす成長投資であったが、期末の市場価格が取得原価を50%以上下回り、2026年3月末には449億円の評価損計上に至った。

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★★★
出典・参考 23件
出典・参考
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 一、創業
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 三、当行の立場と初期の営業
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 一、創業(株式会社大阪野村銀行定款)
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 四、証券部門の活躍
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 一二、業績の進展と行名変更
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大阪野村銀行時代 九、野村証券株式会社の創立
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 野村銀行時代前期 一、昭和金融恐慌に際会して
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 野村銀行時代前期 二、銀行の整理合同と当行の他行吸収
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 野村銀行時代中期 一一、野村信託の併合
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 野村銀行時代後期 九、当行の再建整備
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 野村銀行時代後期 九、当行の再建整備/大和銀行時代 一、大和銀行の発足
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 五、外国為替業務への進出
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 七、支店網の拡充と内部体制の整備
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 七、支店網の拡充と内部体制の整備/一五、数量景気以後の当行/一六、海外活動とプルダニア銀行の創立
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 一二、金融の正常化と当行の貸出業務
  • 大和銀行四十年史(1958年)信託部門史 一四、業務分野の調整問題
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 一六、海外活動とプルダニア銀行の創立
  • 大和銀行四十年史(1958年)本史 大和銀行時代 一七、創業四十周年を目前にして
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「大和銀行」
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大和銀行」
  • 産業と経済 9巻3号(1955年)
  • 日経ビジネス 1973年7月9日号
  • 日本企業要覧 1978年版「大和銀行」

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