前身は大和銀行とあさひ銀行
野村徳七は、株式の売買で築いた資産を銀行業へ移すことで、相場師から金融業者へ立場を変えた。父から受けた2万円を元手に1904年に有価証券問屋の野村商店を開業し、1907年の暴落局面で売り方に回って700万円を超える資産を得た。第一次世界大戦下の1915年から1919年にかけての好況で野村家の資産は3,000万円に膨れ、1917年には野村商店を株式会社へ改組して、徳七自身は相場の第一線から退いた。翌1918年、野村家は1,000万円を全額払込資本金として出資し、大阪市東区安土町に本店を置く株式会社大阪野村銀行を設立した。設立の登記は6月25日に完了し、単一の店舗で8月1日に開業した。
新しい銀行が掲げたのは、預金を集めて短期資金を回す商業銀行ではなく、事業資金の供給機関であった。野村徳七が念頭に置いたのはドイツ式の銀行経営で、開業披露の席上でもこの抱負を繰り返し述べた。定款は銀行条例による一般銀行業務に加え、担保付社債信託法による信託業の兼営を目的として掲げた。営業種目には工業資金の供給と、株式・国債・市債・社債の募集もしくは売出の取扱または引受が並んだ。当時は工業者と普通銀行のあいだに十分な疎通関係がなく、銀行の側も工業金融には消極的な態度を取っていた。証券の引受を営業種目に置くことは、野村家にとっては本業の延長であっても、普通銀行としては異色とされた。
開業までの難関は、資金ではなく認可であった。大阪には本店を置く銀行だけで住友以下11行があり、政府はこのうえ銀行の新設を原則として認可しない方針を採っていたため、当局は難色を示した。野村徳七は自ら上京して大蔵当局と折衝し、野村商店専務の柴山鷲雄氏は、同窓で当時大阪府内務部長を務めていた柴田善三郎氏を再三訪ねて助力を請うた。認可を得て開業した1918年8月末の払込資本金1,000万円は、住友・三十四・浪速・山口に次ぐ在阪5位であった。もっとも証券界で名を成した野村家は銀行業者としては未知数で、多年の老舗が居ながらにして預金を集めるのに比べれば、相当な不利を背負っていた。創業から25期にわたって無配を通し、利益のほとんどを内部留保へ振り向けた。
創業時に掲げた三つの柱のうち、最初に伸びたのは証券であった。当行は創業時から証券係を置いて公社債の引受と売買を扱い、1920年10月に証券部を設けて証券業務を本格的に拡充した。同年秋に大阪株式取引所へ開設された国債市場では、地元銀行として取引員に加わった。1922年2月の第四回大同電力社債500万円、翌年9月の広島電気社債の募集を成功させ、収益に少なからず寄与した。一方、当初に企画した工業金融は、自己資本に余力のあった当座を過ぎると資金の弾力性に限界を生じ、次第に焦点を失った。1920年末に総貸出の74.7%を占めた証書貸付と手形貸付は1926年末に59.9%へ下がり、割引手形と当座貸越が比重を増した。
銀行の内部に性質の異なる二つの部門を抱える不便が、証券部の分離を促した。野村家が証券業務を切り離し、独立した会社で営むと決めたのは片岡音吾氏の帰国後の検討を経てのことで、1924年から設立の準備が始まった。その下地には、取締役支配人から常務に進んだ片岡音吾氏がニューヨークでナショナル・シティ・カンパニーを訪れ、同社が1916年にナショナル・シティ銀行の証券部を分離して独立会社となった経緯を総裁から聞いた経験があった。片岡音吾氏を初代社長に据え、資本金500万円で1926年1月に開業した野村証券株式会社は公社債を受け持ち、株式は1923年に野村商店から改称した大阪屋商店に任された。危険の大きい株式を傍系に、銀行を最も安全な位置に据えた資本の配置である。
商号から「大阪」の二字が取れた直後に、金融恐慌が来た。営業圏が東京・名古屋・京都・神戸・福岡へ及び、地区に偏する商号が取引上の支障となったため、1926年12月9日付で商号変更の認可を得て、1927年1月1日から野村銀行となった。同年3月の預金は9,300万円に達し、1億円の大台乗せも近いと見られていた。ところが恐慌の第二波で4月19日から引出しが激化し、最高潮の21日には530万円、3月半ばからの減少は3,300万円に及んだ。当行は手持の有価証券と担保物件を早期に動員し、日銀へは一覧表と番号を付けて整然と持ち込んだ。野村徳七は私財をことごとく投げ出す腹を決めて合名会社に証券と権利書の整理を指令しており、近江・加島・藤田といった先輩の銀行が閉店するなか、恐慌期を含む一営業期の預金減少は400万円程度にとどまった。
恐慌の後に来たのは、銀行を数の上で淘汰する政策であった。1928年1月に施行された銀行法は資本金の下限を100万円、特定の大都市に本店を置く銀行は200万円と定め、単独の増資による適格化を認めなかったため、小銀行には合同のほかに道がなかった。施行時に1,283行あった普通銀行は、1932年末には538行まで減った。当行は1927年11月の淡河銀行神戸支店をはじめ、加島・藤田ほか数行から営業の一部を買い取るにとどめ、1933年の在阪三行の合同にも同調しなかった。合併に頼らずに預金は伸び、1927年末から1932年末までの増加率59%は、五大銀行の21%を大きく上回った。
大銀行どうしの合同が始まると、単独で残る方針はあらためて問われた。1942年12月下旬に第一銀行と三井銀行の合同が公表される前夜、三和銀行頭取の中根貞彦氏が当行の松島社長と会見し、翌日には住友本店総理事の古田俊之助氏と野村合名の専務理事が会合した。三行の申し合わせは互いの立場を尊重するという了解にとどまり、直後に開かれた野村合名理事会は、従来どおり自主独往の方針を貫くと決めた。合同のかわりに選んだのが、同系の野村信託の併合である。1944年8月21日に2,000万円を増資し、同月28日に野村信託を併合して資本金は5,000万円となった。信託を併営する総合銀行は当行が最初であった。
野村の名を外したのは、敗戦後の再建整備であった。1946年3月、野村家の所有する株式は持株会社整理委員会へ移された。1948年3月の最終処理で銀行勘定の特別損失は4億9,900万円と確定し、資本金は90%が切り捨てられ、第二封鎖預金等の切捨率は66%となった。この切捨率は主要銀行のなかでは低い方であった。同年10月1日、行名は職員から募った候補のうち最も多数を占めたものから審議のうえ「大和銀行」に改まり、11月1日には増資によって資本金が5億5,000万円へ回復した。発足の挨拶で右松社長は、創業当時に大阪の本店銀行12行中で最弱小に過ぎなかった銀行を『殆んど合併を行わずして大銀行に仕上げた』と述べた。合併ではなく自力で地位を積んだという自負が、そこに置かれていた。
1949年11月、外国為替銀行の臨時措置等に関する政令が公布され、当行はほかの10行とともに甲種外国為替銀行の指定を受けた。改称後の大和銀行にとって、これが初めて手にした新しい免許である。輸出手形の買取りは同年12月、輸入業務は翌1950年1月に始まり、取り扱う店舗も本店と東京・横浜・神戸・名古屋・京都・福岡の各支店から、のちに20カ店まで増えた。コルレス契約は1950年4月にアメリカ系の6銀行と結んだのが最初で、1957年末には世界の主要各国で211行・779カ店を結ぶ網となった。1952年6月からは自己名義のドル勘定を持つことが認められ、輸出と輸入の為替を自行内で突き合わせる基盤ができた。
経済が落ち着いてくると、当局は店舗の単純な増設をなかなか認めなくなった。各行の競争を抑える狙いである。そこで当行は1949年から1950年にかけ、既にあった出張所や詰所を支店に格上げして独立の営業所に改め、1951年3月の時点で出張所以下の店舗をすべてなくした。新設が難しいなかで配置を組み替え、店舗網を立て直したことになる。あわせて貯蓄の増強と取引先の開拓という観点から効率の悪い支店を整理し、1952年には広島と札幌に進出した。預金の増加に歩調を合わせて資本金も増やし、再建整備の時点で5億5,000万円だったものが、1951年9月に11億円、1953年4月に22億円、1957年7月に44億円となった。1951年11月の株主総会では定款を改正して社長制を廃し、頭取制へ復した。
1952年ごろになると、協調融資方式が後退して各行は融資先を自ら選ぶようになり、旧財閥の関係会社を中心に金融の系列化が進んだ。当行はこの流れから距離を置き、広く大衆を相手にして大小の企業の発展に役立つという立場から、融資を系列に絞り込むことはしなかった。その代わりに厚みを増したのが中小企業金融で、創業のときに重点の一つとして中小金融の道を開くことを掲げて以来手がけてきた分野だった。中小金融特別店舗は1950年4月の生野支店が最初で、中小企業金融公庫の代理貸付は1958年7月までの累計で45億6,000万円に達し、都市銀行全体の1割以上に及んだ。全貸出金残高に占める資本金1,000万円以下の企業向けの比率は、1956年3月末で40.62%と全国銀行の36.31%を上回った。
銀行が兼ねてきた信託を切り離し、独立した経営体に本来の働きを専ら担わせるというのが当局の方針であった。1950年代後半、大蔵省はこうして銀行と信託の分離へ向きを変えた。信託業務を営んできた地方銀行は1956年10月以降、自ら新たな受託をやめ、中国銀行も1957年3月末に信託勘定を閉め、信託業の認可も返上した。併営を続ける銀行は、三和・東海・神戸と当行の4行を残すのみとなった。残った4行もいずれ信託部門を切り離すことになるだろうという推測や噂が広がった。
世論も行政も信託経営のあり方をめぐって何度も立場を変えたが、当行は最後まで併営の体制を崩さなかった。1926年の金融制度調査会特別委員会では野村徳七が信託を銀行に兼ねさせる案に賛成し、1947年11月に金融制度調査会が兼営形態の廃止を答申した際も、当行から第五特別委員会に加わった峯村英薫氏が少数派の一人として異を唱えた。その底には、信託は強い固有勘定が背後にあってこそ成り立つという、創業期から変わらない見方があった。創業時の定款に書き込んだ担保付社債信託の免許から数えて、信託は30年をまたいで持ち越された。
併営を残した選択は、1960年代の収益で報われた。金銭信託は1955年当時の75億円から、1968年には2,800億円強へおよそ38倍に伸びた。1962年に始まった企業年金信託では業界で20数%のシェアを占め、首位に立った。銀行業務・信託業務・外国為替業務の三本柱が揃い、当行はわが国唯一の総合金融機関と称された。預金残高は1954年3月の900億円から10年後の1964年3月に5,000億円を突破し、信託部門と合わせた資金量は1968年に1兆円の大台を超えた。同年の資本金は180億円、従業員は9,000名であった。
海外への最初の足場は、取引先の求めに応じて置かれた。1952年に化学会社の石原産業とインドネシアの有力者のあいだで新銀行創設の話し合いが始まったが、同社に銀行経営の経験はなく、取引関係の深い当行が誘い込まれた。当行も1952年7月に調査員を現地へ派し、東南アジア諸国の開発と産業金融に関与する意図を持っていた。1953年にインドネシア大蔵省の設立認可を得て、授権資本は5,000万ルピア、出資比率はインドネシア51%・日本49%と定まった。1956年2月に定款の認証を得て正式に設立し、1958年2月1日、ジャカルタでバンク・プルダニアが開業した。経営は主として当行に委ねられ、日本側取締役2名のうち1名と、営業関係の幹部として現職行員3名が出向した。
開業から6年で、この銀行は存続そのものを問われた。1964年5月、スカルノ大統領がすべての外国銀行の閉鎖を命じ、合弁であるプルダニア銀行は閉鎖こそ免れたものの、インドネシア国内での預金活動を禁じられた。1965年末には1000分の1のデノミネーションが実施され、設立当初5,000万ルピアであった資本金は5万ルピアへ減価した。物価上昇率は1965年に300%、翌1966年には600%を記録した。日本の親会社では閉鎖が真剣に検討されたが、現地は営業拡大の方針を打ち出し、日本人と現地職員が組んだ勧誘チーム4組が毎日町を回って預金を集めた。1968年に民族銀行か外国銀行かの選択を迫られると、支店を設けられないかわりに外国為替を扱える外国銀行を選び、1969年2月から外為の取扱いを始めた。
駐在員事務所から始まった海外の拠点は、やがて支店になった。1956年9月にニューヨーク、1958年3月にロンドンへ駐在員事務所を置き、1968年にはいずれも支店となって、外国為替の取引網は世界主要都市の330行1,300カ店に及んだ。国内では1958年7月末に総預金が2,405億円へ達し、都市銀行のなかで長く第10位にあった預金順位が第9位へ上がった。この時点で預金の47.5%を大阪地区が占め、京浜地区が31.3%で続いており、大阪を本拠としながら東京方面への進出が進んだことを示していた。20年後の1978年3月期には預金高2兆4,267億円、経常利益83億7,300万円、資本金200億円となった。
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| 1918〜1948年大阪野村銀行の創立から大和銀行へ ── 証券金融で起こし、信託を兼ね、野村の名を返上するまで | 大阪野村銀行を設立 | ★ | ||
| 大阪野村銀行が野村銀行に商号変更 | ★ | |||
| 武州・第八十五など4行が合併し埼玉銀行設立 | ★ | |||
| 野村銀行が野村信託を併合し信託兼営を開始 | ★ | |||
| 9貯蓄銀行が合併し日本貯蓄銀行を設立 | ★ | |||
| 日本貯蓄銀行が普通銀行へ転換し協和銀行に商号変更 | ★ | |||
| 野村銀行が大和銀行に商号変更 | ★ | |||
| 1949〜1979年都市銀行としての全国展開 ── 外国為替と信託兼営を抱えたまま高度成長を走る | 大和銀行が東京・大阪両証取に上場 | ★ | ||
| 金融制度改正で他の都市銀行が信託業務を分離するなか、大和銀行は信託兼営を維持 | ★ | |||
| 大和銀行がニューヨーク支店を開設 | ★ | |||
| 1980〜1999年協和・埼玉の合併とあさひ銀行の誕生、大和銀行ニューヨーク支店事件 | 協和銀行と埼玉銀行が相互業務提携 | ★ | ||
| 協和銀行と埼玉銀行が合併し協和埼玉銀行発足 | ★★ | |||
| 大和銀行ニューヨーク支店で巨額損失事件が発覚 | ★★ | |||
| 2000〜2012年大和銀ホールディングスの発足とりそなへの改称、実質国有化と細谷英二の改革 | 3行による大型連合の構想からの離脱と、単独路線への引き返し 2000年3月、三和・東海・あさひの3行が共同持株会社方式による経営統合で基本合意したが、統合方式をめぐる対立からあさひがわずか3カ月で離脱し、3行構想は破談した案件である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 勝田泰久 | 二行の経営統合による新たな持株会社の誕生と、2002年の体制成立 都市銀行再編から取り残された大和銀行とあさひ銀行が、近畿大阪銀行・奈良銀行とともに共同持株会社の傘下に集い、のちのりそなホールディングスを形づくった経営統合。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 勝田泰久 | 大阪証券取引所・東京証券取引所の市場第一部に上場 | ★ | ||
| 勝田泰久 | りそなHDに商号変更 | ★ | ||
| 勝田泰久 | 大和銀行・あさひ銀行を合併してりそな銀行発足、埼玉りそな銀行も発足 | ★★ | ||
| 川田憲治 | 預金保険法102条の初適用による公的資金約1兆9,600億円の受け入れと、外部招聘した細谷英二会長のもとでのリテール銀行再建 2003年5月、繰延税金資産の取り崩しで自己資本が国内基準を割ったりそなホールディングスが、預金保険法第102条第1号の措置に基づき約1兆9,600億円の公的資金を受け入れて実質国有化され、旧経営陣が退いてJR東日本副社長だった細谷英二会長を外部から迎え、"ダントツのリテール銀行"へ路線を定めた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 川田憲治 | 旧経営陣退任、細谷英二(JR東日本出身)が会長に就任 | ★★ | ||
| 檜垣誠司 | 檜垣誠司が代表執行役社長に就任 | ★ | ||
| 2013〜2019年東和浩の公的資金完済と関西みらいフィナンシャルグループの発足 | 東和浩 | 東和浩が代表執行役社長に就任 | ★ | |
| 東和浩 | 預金保険機構向けの公的資金1兆9,600億円を完済 | ★★ | ||
| 東和浩 | 近畿大阪銀行株式を関西みらいフィナンシャルグループに譲渡 | ★ | ||
| 東和浩 | 関西みらいフィナンシャルグループの創設と完全子会社化による関西リテール基盤の集約 りそなホールディングスが、傘下の近畿大阪銀行と三井住友フィナンシャルグループ傘下の関西アーバン銀行・みなと銀行を、新設した中間持株会社の傘下に集約した組織再編。2018年4月1日に関西みらいフィナンシャルグループが発足し、同日に東京証券取引所市場第一部へ上場した。 りそなホールディングスが握った議決権は51.41%、三井住友フィナンシャルグループは2019年3月期末で23.51%を残し、二つの金融グループが一つの上場地域金融グループに相乗りした。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 2020〜2026年南昌宏の関西みらい吸収と過去最高益、デジタルガレージへの出資 | 南昌宏 | 南昌宏が代表執行役社長兼グループCEOに就任 | ★ | |
| 南昌宏 | 関西みらいFGを完全子会社化 | ★ | ||
| 南昌宏 | 関西みらいフィナンシャルグループを吸収合併 | ★ | ||
| 南昌宏 | FY2024に過去最高益を達成 | ★ | ||
| 南昌宏 | 約500億円の追加出資と持ち分法適用会社化、その半年後に生じた449億円の評価損 2025年7月、りそなホールディングス(HD)は、決済プラットフォームを手がけるデジタルガレージ(DG)の株式をアクティビストのオアシス・マネジメントから追加取得し、持ち分比率を12.42%から30.90%へ引き上げて持ち分法適用関連会社とした。約500億円を投じたこの戦略出資は、公的資金を完済した同社が掲げる"資本活用フェーズ"の柱をなす成長投資であったが、期末の市場価格が取得原価を50%以上下回り、2026年3月末には449億円の評価損計上に至った。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(りそなホールディングス)