1957年〜 不動産担保長信銀として生まれ、平成金融危機で消えた47年
あおぞら銀行の業績推移:単体
- 1957年 日本不動産銀行として設立
- 1964年 外国為替業務を開始
- 1964年 東京証券取引所に株式上場
- 1970年 大阪証券取引所に株式上場
- 1977年 行名を日本債券信用銀行に変更
- 1998年 特別公的管理による一時国有化と、民間企業連合への株式譲渡による再民営化 自力再建か、公的管理か——2,900億円の増資では届かなかった長信銀3番手の帰結
- 2000年 特別公的管理終了、再民営化
長信銀3行の異端 ── 不動産担保に賭けた政府系長信銀
1957年4月、長期信用銀行法に基づき日本不動産銀行が資本金10億円で設立された。長信銀3行(日本興業銀行・日本長期信用銀行・日本不動産銀行)の一角だが、不動産金融に比重を置いた点で他2行とは立ち位置が異なった。金融債発行で中長期資金を調達し、不動産担保を中核に据えた企業向け長期貸出を本業とする設計である。戦後復興期の長期設備資金需要を不動産担保で受ける枠組みは、興銀・長銀が担った純粋産業金融とは別の経路で働いた。長信銀法の枠組みのなかで不動産という担保アセットに依存する設計が、後のバブル期不動産融資集中の遠因となる構造を当初から内包していた。のちに窪田弘頭取(1996年)は「後発の不利を挽回しようと、日本興業銀行に追いつこうとやや背伸びをしてきた」と設立の経緯を振り返っている。 [1][2][3][4]
- あおぞら銀行 有価証券報告書【沿革】
- [1]1957年4月 長期信用銀行法に基づき日本不動産銀行が設立(資本金10億円)
- [2]設立時の資本金は10億円
- [3]長信銀3行は日本興業銀行・日本長期信用銀行・日本不動産銀行
- 日経ビジネス(1996年8月5日・12日号)
- [4]窪田弘頭取(1996年)が「1957年にできた銀行で後発の不利を挽回しようと、興銀に追いつこうと背伸びをしてきた」と自行の出発点を回顧
1964年に外国為替業務を開始し、同年9月に東京証券取引所へ上場、1970年に大阪証券取引所へも上場した。1977年10月、行名を日本債券信用銀行へ変更し、不動産金融専業から総合長信銀への脱皮を図った。1994年には日債銀信託銀行を設立、信託業にも踏み込み、業務の幅を広げた。金融債発行と企業向け長期貸出という長信銀モデルは戦後日本の産業金融を半世紀支えた仕組みだが、日債銀の場合は不動産担保への依存度が他2行より高く、産業金融の本道よりも担保アセットの市況に業績が左右されやすい体質を抱えた。1990年代に入ってその脆弱性が露呈し、長信銀3行の中で最も早く破綻処理の対象となる。 [5][6][7][8][9]
- あおぞら銀行 有価証券報告書【沿革】
- [5]1964年7月 外国為替業務を開始(外国為替公認銀行)
- [6]1964年9月 東京証券取引所へ株式上場
- [7]1970年2月 大阪証券取引所へ株式上場
- [8]1977年10月 行名を日本債券信用銀行へ変更
- [9]1994年2月 日債銀信託銀行を設立(現GMOあおぞらネット銀行の前身)
同行は長らく「生みの親」と称された勝田龍夫がトップに立ち続け、そのワンマン経営は「役員はイエスマン集団」と評されるほどだった。意思決定は会長と担当役員の相対取引に閉じ、重要な情報はトップが独占する体質が続いた。転機は1987年、同行初の生え抜き頭取として松岡誠司が就任したことである。松岡は閉鎖的だった行風の改革に乗り出し、1990年5月には行員300人規模で稼働する営業情報交換システム「WINS」を頭取室主導で始動させ、末端情報がトップに届かないまま消える体質(社内で「情報のバミューダ・トライアングル」と呼ばれた)の打破を図った。当時の全行員平均年齢は32歳と都銀・長信銀の中で最も若く、日本興業銀行比43%・日本長期信用銀行比70%にとどまる業務純益(396億円、90年3月期)が、若く経験の浅い組織という同行の構造的な弱さを映し出していた。 [10][11][12][13]
- 日経ビジネス(1990年7月16日号)
- [10]同行の「生みの親」と称された勝田龍夫のワンマン経営(「役員はイエスマン集団」と評された)
- [11]1987年 同行初の生え抜き頭取として松岡誠司が就任
- [12]1990年5月、営業情報交換システム「WINS」を頭取室主導で始動
- [13]全行員平均年齢32歳(都銀・長信銀で最も若い)、90年3月期業務純益396億円は興銀比43%・長銀比70%
- あおぞら銀行 有価証券報告書【沿革】
- [1]1957年4月 長期信用銀行法に基づき日本不動産銀行が設立(資本金10億円)
- [2]設立時の資本金は10億円
- [3]長信銀3行は日本興業銀行・日本長期信用銀行・日本不動産銀行
- [5]1964年7月 外国為替業務を開始(外国為替公認銀行)
- [6]1964年9月 東京証券取引所へ株式上場
- [7]1970年2月 大阪証券取引所へ株式上場
- [8]1977年10月 行名を日本債券信用銀行へ変更
- [9]1994年2月 日債銀信託銀行を設立(現GMOあおぞらネット銀行の前身)
- 日経ビジネス(1996年8月5日・12日号)
- [4]窪田弘頭取(1996年)が「1957年にできた銀行で後発の不利を挽回しようと、興銀に追いつこうと背伸びをしてきた」と自行の出発点を回顧
- 日経ビジネス(1990年7月16日号)
- [10]同行の「生みの親」と称された勝田龍夫のワンマン経営(「役員はイエスマン集団」と評された)
- [11]1987年 同行初の生え抜き頭取として松岡誠司が就任
- [12]1990年5月、営業情報交換システム「WINS」を頭取室主導で始動
- [13]全行員平均年齢32歳(都銀・長信銀で最も若い)、90年3月期業務純益396億円は興銀比43%・長銀比70%
「金融構造の崩壊」 ── 日債銀破綻と民間連合による再生
バブル崩壊後、1993年に就任した窪田弘頭取(96年6月会長兼務)は不良債権処理の陣頭指揮を執ったが、1996年時点でなお本体だけで1兆4000億円の不良債権(96年3月期)を抱え、2兆円の借入金を抱える系列ノンバンク3社も経営難に陥ったままだった。窪田は他行との合併を否定し「不動産担保金融とマーケットビジネスを複合させた銀行にしたい」と単独再建の道を選んだが、1997年4月には関連ノンバンク3社の自己破産を軸とする不良債権処理・海外拠点撤退のリストラ策を発表、7月末には約2900億円の増資を完了した。同年8月、日本銀行出身の東郷重興が入行からわずか1年で頭取に就任して窪田(会長)からバトンを引き継ぎ、増資に応じた金融機関に「株価を10倍にしてお返しする」と述べたが、抜本的な収益改善には至らなかった。 [14][15][16][17][18][19][20]
- 日経ビジネス(1996年8月5日・12日号)
- [14]窪田弘は1993年6月に頭取就任、96年6月に会長兼務
- [15]1996年3月期時点で本体だけで1兆4000億円の不良債権、系列ノンバンク3社は2兆円の借入金を抱え経営難
- [16]窪田弘頭取が合併を否定し「不動産担保金融とマーケットビジネスを複合させた銀行にしたい」と述べた
- 週刊東洋経済(1997年9月13日号)
- [17]1997年4月 関連ノンバンク3社の自己破産を軸とした不良債権処理・海外拠点撤退のリストラ策を発表
- [18]1997年7月末までに約2900億円の増資を完了
- [19]1997年8月、日本銀行出身の東郷重興が入行1年で頭取に就任(96年5月日債銀入行、96年6月常務、97年6月副頭取、97年8月頭取)
- [20]東郷重興頭取が増資に応じた金融機関に「株価を10倍にしてお返しする」と述べた
1998年12月、同行は金融再生法に基づく特別公的管理の対象となり、東京・大阪両証券取引所での上場が廃止された。バブル崩壊後の不動産関連融資が不良債権化したためで、同年10月に特別公的管理入りした日本長期信用銀行に続く長信銀破綻にあたる。長信銀3行のうち2行が相次いで国有化され、戦後日本の産業金融の主要経路の一つが崩れた。株主持分は実質消滅し、不動産担保長信銀という設計そのものが事実上の終止符を打った。日本興業銀行も後にみずほグループへ統合される道をたどり、長信銀という存在そのものが日本の金融構造から退場する一連の流れの先陣となった。 [21]
- あおぞら銀行 有価証券報告書【沿革】
- [21]1998年12月 金融再生法に基づく特別公的管理の対象となり、東証・大証で上場廃止
1999年9月、グループ会社の日債銀債権回収(現あおぞら債権回収)がサービサー営業を開始し、不良債権処理体制を整えた。2000年9月、特別公的管理が終了、ソフトバンク・オリックス・東京海上を中心とする企業連合が買い取る形で再民営化された。日本の銀行破綻処理で民間資本主導の再建枠組みが成立した最初の事例である。2001年1月、行名を日本債券信用銀行からあおぞら銀行へ変更した。破綻銀行の看板を外すリブランディングであり、長信銀3行の枠組みから民間商業銀行への移行を旗印に置いた改称となった。再生プロセスは公的資本注入と民間連合買収の組み合わせで設計され、長期にわたる完済義務を内包する出発点となった。 [22][23][24]
- あおぞら銀行 有価証券報告書【沿革】
- [22]1999年9月 日債銀債権回収(現あおぞら債権回収)がサービサー営業を開始
- [23]2000年9月 特別公的管理が終了し、ソフトバンク・オリックス・東京海上等の連合が買収して再民営化
- [24]2001年1月 行名を日本債券信用銀行からあおぞら銀行へ変更
- 日経ビジネス(1996年8月5日・12日号)
- [14]窪田弘は1993年6月に頭取就任、96年6月に会長兼務
- [15]1996年3月期時点で本体だけで1兆4000億円の不良債権、系列ノンバンク3社は2兆円の借入金を抱え経営難
- [16]窪田弘頭取が合併を否定し「不動産担保金融とマーケットビジネスを複合させた銀行にしたい」と述べた
- 週刊東洋経済(1997年9月13日号)
- [17]1997年4月 関連ノンバンク3社の自己破産を軸とした不良債権処理・海外拠点撤退のリストラ策を発表
- [18]1997年7月末までに約2900億円の増資を完了
- [19]1997年8月、日本銀行出身の東郷重興が入行1年で頭取に就任(96年5月日債銀入行、96年6月常務、97年6月副頭取、97年8月頭取)
- [20]東郷重興頭取が増資に応じた金融機関に「株価を10倍にしてお返しする」と述べた
- あおぞら銀行 有価証券報告書【沿革】
- [21]1998年12月 金融再生法に基づく特別公的管理の対象となり、東証・大証で上場廃止
- [22]1999年9月 日債銀債権回収(現あおぞら債権回収)がサービサー営業を開始
- [23]2000年9月 特別公的管理が終了し、ソフトバンク・オリックス・東京海上等の連合が買収して再民営化
- [24]2001年1月 行名を日本債券信用銀行からあおぞら銀行へ変更
サーベラスが持ち込んだ収益性重視のガバナンス
再民営化直後の1999年11月、初代社長に就く予定だった本間忠世が急逝するという不測の事態に見舞われ、後任探しは難航した。厳しい経営再建を見込んで有力候補が固辞するなか、2000年12月にオリックス出身の丸山博が社長に就任し、翌2001年1月のあおぞら銀行への改称とともに新体制を発足させた。丸山は外資が主導した新生銀行(旧日本長期信用銀行)との違いを強調し、多くの地銀からの出資を中小企業・ベンチャー向け融資に生かす路線を掲げ、過大な先行投資を伴うネット事業には慎重だった。収益の9割を通常のバンキング業務が占めるとして、他行にない強みを前面に出す地道な失地回復を優先する経営は、2年後にサーベラスが持ち込む収益性重視のガバナンスとは対照的な出発点だった。 [25][26][27][28]
- 週刊東洋経済(2001年1月20日号)
- [25]1999年11月 初代社長就任予定だった本間忠世が急逝
- [26]2000年12月 オリックス出身の丸山博が日本債券信用銀行社長に就任
- [27]あおぞら銀行は多くの地銀からの出資を中小企業・ベンチャー向け融資に活用する路線を掲げ、ネット事業には慎重だった
- [28]丸山博社長「収益の九〇%は通常のバンキングビジネス」との発言
2003年、ソフトバンクが保有株式を米系ファンドのサーベラスへ売却し、日本の銀行で珍しい米系ファンド主導の経営体制が成立した。サーベラスは同行を日本の金融再編プラットフォームと位置付け、国際的な金融人材を経営陣へ送り込んだ。長信銀の枠組みから普通銀行への移行を並行して進め、2005年にはニューヨーク駐在員事務所を開設した。日本の銀行では珍しい収益性重視のガバナンスが持ち込まれ、ALMとクレジット投資の運用手法も従来の長信銀とは異なる設計に組み替えられた。後の海外クレジット投資拡大の土台は、ここで据わった。長信銀DNAから商業銀行モデルへの移行を、外部資本主導で短期間に進める設計だった。 [29][30]
- あおぞら銀行 有価証券報告書【沿革】
- [29]2003年 ソフトバンクが保有株式を米系ファンドのサーベラスへ売却(サーベラス傘下入り)
- [30]2005年 ニューヨーク駐在員事務所を開設
2006年4月、長信銀免許を返上して普通銀行へ転換、同月あおぞら証券を設立、同年11月に東京証券取引所市場第一部へ再上場した。特別公的管理による上場廃止から8年ぶりの市場復帰である。49年続いた長信銀業務の制約から解放され、株式・債券業務を含む総合金融サービスへ幅を広げる体制を整えた。米系ファンド主導のガバナンスは日本的経営との摩擦を抱えつつ、収益性重視の運営と海外クレジット投資の拡大を持ち込んだ。インターネット経由の個人預金取り込みや法人向けストラクチャードファイナンスの拡張は、米系ファンド主導期に種がまかれた。経営の自由度と海外リスクへの傾斜を同時に手に入れる体制再編だった。 [31][32][33]
- あおぞら銀行 有価証券報告書【沿革】
- [31]2006年4月 長信銀免許を返上して普通銀行へ転換
- [32]2006年4月 あおぞら証券を設立
- [33]2006年11月 東京証券取引所市場第一部へ再上場(上場廃止から8年ぶりの市場復帰)
- 週刊東洋経済(2001年1月20日号)
- [25]1999年11月 初代社長就任予定だった本間忠世が急逝
- [26]2000年12月 オリックス出身の丸山博が日本債券信用銀行社長に就任
- [27]あおぞら銀行は多くの地銀からの出資を中小企業・ベンチャー向け融資に活用する路線を掲げ、ネット事業には慎重だった
- [28]丸山博社長「収益の九〇%は通常のバンキングビジネス」との発言
- あおぞら銀行 有価証券報告書【沿革】
- [29]2003年 ソフトバンクが保有株式を米系ファンドのサーベラスへ売却(サーベラス傘下入り)
- [30]2005年 ニューヨーク駐在員事務所を開設
- [31]2006年4月 長信銀免許を返上して普通銀行へ転換
- [32]2006年4月 あおぞら証券を設立
- [33]2006年11月 東京証券取引所市場第一部へ再上場(上場廃止から8年ぶりの市場復帰)