日本不動産銀行の元手は、朝鮮の中央銀行だった朝鮮銀行の国内資産である。朝鮮銀行は1909年11月、第一銀行の韓国内14店を引き継ぐ韓国銀行として発足し、1911年8月の朝鮮銀行法で改称した。銀行券の発行と国庫事務を担いながら、1945年の閉鎖までに延べ109店を東アジアに置いた。日中戦争後は華北の軍費送金を中国連合準備銀行との預け合で賄い、預金に占める中国店の比率は1945年3月末に93%へ達した。資産の大半が占領地に偏った銀行は、敗戦と同時に存立の基盤を失う。1945年9月30日、内地の店舗は連合国最高司令官の命令で閉鎖され、10月20日に日本銀行が特殊清算人に任じられた。のちに新銀行を生むのは、国外の店を切り離して残った、この内地分の資産だけだった。
清算は12年に及び、その間に株主の取り分を縛る措置が重なった。1950年12月に在外活動閉鎖機関へ指定されると、残余財産の処分が禁じられ、清算を終えても株主へ配ることができなくなった。処分の途が開いたのは1953年7月の閉鎖機関令の改正で、同年11月に元副総裁の星野喜代治氏が特殊清算人に就任した。残った資産は約67億円と算定されたが、保有国債54億円を時価85円で評価した結果の値である。発券銀行であった点を理由に納付金28億円が課され、清算所得税と営業税で19億円、地方税で3億円が差し引かれた。新銀行の元手に回せる額は、算定額の4分の1ほどの17億円まで縮んだ。資本の規模は、銀行を立てる側の構想ではなく、国庫と税が取った後の残りで決まったといえる。
17億円で何を営むかは、当初から不動産金融に定まっていたわけではない。1949年の旧職員と株主の陳情は貿易銀行を第一案とし、債券発行の特典を得た不動産金融の銀行を代案に挙げた。1955年9月、星野氏は諮問委員会で不動産銀行案を示したが、大蔵省の金融制度調査室は採算面から無理と判断した。前年に大蔵大臣が銀行新設を当面認めない方針を示していた。局面を変えたのは、中小企業対策として不動産金融の銀行を求めた自由民主党の政調会である。1956年8月の最終案で、資本金10億円、債券で調達し中小企業へ長期で貸す業態が固まった。都市銀行からの22億5,000万円の借入と7億5,000万円の政府出資が決まり、1957年4月1日に開業した。行政が認める目的を先に据えたことが、設立を通す条件だったとみられる。
日本不動産銀行は預金ではなく債券で資金を調達し、それを中小企業に長く貸す銀行として設計された。開業は1957年4月1日で、本店は千代田区九段にある日本銀行の分館を借用した。第1回の利付債は同年11月に出し、期間5年、利率7%、額面1万円に対する発行価額は9,775円だった。割引債は11ヵ月遅れの1958年10月に出た。債券の買い手は都市銀行から信用金庫まで全国の金融機関に依存するほかなく、販売網の弱さが資金量の上限を決めた。貸出の側では、中小企業等への貸出を総額の70%以上に保つ方針が課された。1961年度末までに代理貸付の契約先は233に広がり、自前の店舗の少なさを他の金融機関の窓口で補った。資金の入口と出口の双方が、設立の経緯から来る条件に縛られていた。
高度成長の資金需要が、この制約の内側でも規模を押し上げた。貸出残高は初年度末の81億8,500万円から1961年度末に1,210億9,600万円となり、14.8倍に伸びた。重荷だった中小企業比率の扱いは、1963年春に大蔵省との間で一応の合意を得た。1964年7月に外国為替業務を始め、翌8月に資金量が3,000億円に達すると、東京銀行協会で都市銀行として扱われることになった。同年9月に東京証券取引所へ上場し、1966年2月に第一部へ移り、1970年2月には大阪証券取引所にも上場した。資金量は1966年度末に6,303億円へ達した。上場で得たのは資金よりも、債券の買い手に示せる信用の裏付けだったと推察される。
1970年6月、勝田龍夫頭取は7ヵ年の長期経営計画を立て、量の拡大を主眼とした従来の計画と目標の立て方を改めた。取引先は中小・中堅企業から大企業へ広がり、不動産金融は建設・不動産・私鉄の3業種を重点に置いた。海外では1974年4月にロンドンへ初の支店を開設し、資金量は1974年度末に2兆8,852億円となった。業務の幅が広がると、不動産銀行という名前が実態から離れた。英文名のThe Nippon Fudosan Bankは海外で意味が伝わらず、頴川史郎副頭取は不動産と説明しても通じない不便を挙げている。1977年10月、債券による調達と長期の信用供与を表す日本債券信用銀行へ行名を改めた。設立の由来を名前から外したことは、中小企業向け不動産金融という出発点からの離脱を内外に示す意味を持った。
行名を改めた翌年の1978年10月、安川七郎氏が第六代頭取に就任した。安川氏は大蔵省で国税庁長官まで務めた後、1977年8月に顧問として入行した。就任直後の取材で、変化の時代にこそ長期資金の需要が生まれるとし、多品種少量のサービスを銀行の役割に挙げた。第一次石油危機の後は新たな長期計画を立てず、短期の業務計画で運営を続けた。この間、公共債の大量発行で有価証券の残高が積み上がり、1982年度末に総資金量の19%を占めた。資金量は1974年度末の2兆8,851億円から1982年度末に7兆1,021億円となった。1977年の対談で頴川氏は、中堅企業中心を保ちつつ電力・鉄鋼など基幹産業との取引も広げると語った。貸出先の中心が曖昧なまま、規模だけが伸びた時期と思われる。
1982年度に長期経営計画PROJECT30が始まり、同年11月に頴川史郎氏が第七代頭取に就任した。自由化で大企業の銀行離れが進み、製造業の比率は1982年度末の23.6%から1986年度末に15.3%へ下がった。代わって伸びたのは不動産業と、ノンバンクや信販を含む金融・保険業である。1985〜86年度の貸出純増の相当部分を不動産業が占めた。1983年11月には、オフィスビルやホテル用地の高度利用に最長20年まで貸す不動産高度利用ローンを設けた。住宅ローンは本体で絞る一方、住宅金融専門会社向けの貸出は1986年度末に2,429億円、総貸出の3.5%に達した。資金量は同年度末に10兆7,954億円に達した。製造業に代わる貸出先を、担保の取りやすい不動産とその周辺に求めたことになる。
1987年に就任した松岡誠司頭取は、日本債券信用銀行で初めての生え抜きの頭取だった。それまでは生みの親とされる勝田龍夫氏が長く経営の頂点にあり、重要な情報を会長と担当役員が握る意思決定が続いたという。1990年3月期の業務純益は396億円で、日本興業銀行の43%、日本長期信用銀行の70%にとどまった。拠点数も内外25ヵ所と、興銀の37ヵ所、長銀の31ヵ所を下回った。32歳という行員の平均年齢は興銀・長銀の34歳を下回り、法人営業の経験の薄さが課題とされた。1990年5月には20億円を投じた営業情報交換システムを動かし、現場の案件情報を全店で共有させた。資金量が10兆円を超えた時点で、日本債券信用銀行の取引基盤は長信銀3行の中で最も狭いままだった。不動産関連へ傾いた貸出は、その差を埋める手段でもあったのだろう。
1996年3月期の時点で、日本債券信用銀行の本体の不良債権は1兆4,000億円に達していた。系列ノンバンク3社の借入金は2兆円に上り、融資する他の金融機関に金利の減免を求め続けていた。単体の純損失は1996年3月期に1,638億8,600万円、1997年3月期に2,852億4,800万円を数えた。1995年3月期に5,167億円あった株主資本は、2年で994億円まで減った。調達の側でも、5年物の利付金融債は興銀より0.45%高い利率を求められ、1年物と3年物の発行で平均の調達コストを引き下げようとした。この短期債の発行は1996年6月に始まった。バブル期に膨らませた不動産向けの与信が、損益と資金調達の両方を同時に圧迫する構図だったとみられる。
窪田弘氏は大蔵省で理財局長と国税庁長官を務め、1993年6月に頭取に就任した。1年目には、福島交通問題をはじめ行の評判を傷めていた案件を本業から切り分けた。2年目と3年目は、リスク管理の仕組みづくりと、JPモルガンの助言を受けた新事業の設計に充てた。1996年6月の人事では、バブル期の経営を担った上層部を退かせた。新事業の受け皿の一つは、1994年2月に国内初の業態別子会社として設けた日債銀信託銀行だった。同行は1995年3月、格付機関から高い評価を得たローン債権の証券化を国内で初めて組成した。窪田氏は融資が膨らんだ原因について、後発の長信銀として興銀に追いつこうと『やや背伸びをしてきた面がありました』と振り返った。
1996年8月、窪田氏は合併を否定し、日本債券信用銀行を『不動産担保金融とマーケットビジネスを複合させた銀行にしたい』という方針を示した。主な顧客は中堅・中小企業とし、不動産融資の可否は物件が生む賃料で判断して、売却差益は当てにしない方針とした。系列ノンバンクの処理は法的整理を避け、関係する金融機関の支援を得ながら時間をかけて進める考えだった。行員数を2,600人と見込み、都市銀行のような大規模な人員削減は要らないとも判断していた。実際の行員は1993年4月末の3,086人をピークに、1997年3月末には2,769人まで減っていた。この路線は、金利が上がらず市場の信認が続くという二つの条件に、処理の時間を預けたものだったと推察される。
1997年春、不良債権の規模を危ぶむ市場の売りが日本債券信用銀行に集まり、株価は一時百数十円まで下げた。4月1日に総合リストラクチャリング計画を発表し、同じ月に米バンカース・トラストと業務提携の基本契約を結んだ。計画に沿って海外の営業拠点はすべて閉じ、国内では1993年から1996年までに3支店を閉鎖していた。人件費にも手を入れ、1997年6月から行員の年収を1割から3割削減した。1997年3月期末の株主資本は994億円で、前年の3,424億円から7割減っていた。窪田体制が時間をかけて処理するとした前提は、発表から1年足らずで市場に退けられた格好となった。
資本の穴は第三者割当増資で埋めた。1997年7月、普通株7億6,603万9,000株を1株218円で、第3種優先株3億6,839万8,000株を1株320円で発行した。引き受けたのは銀行や生命保険会社などで、前年10月にも第2種優先株1億200万株を1株500円で発行していた。資本金は1,777億9,200万円から3,231億1,400万円へ増え、1998年3月期は170億8,300万円の純利益を計上して黒字化した。ただ主な調達手段である金融債の残高は、1997年3月期の8兆3,357億円から1998年3月期には5兆3,461億円へ縮んだ。増資で資本は戻ったものの、金融債の買い手が離れる流れは止まっていなかったとみられる。
1997年8月19日、日本銀行で国際局長を務めた東郷重興氏が頭取に就任した。東郷氏は1996年5月に顧問として迎えられ、6月に常務、1997年6月に副頭取となっており、入行から1年余りでの昇格だった。会長に移った窪田氏はこの交代を非常時の人事と位置づけ、53歳という若さと行動力を選んだ理由に挙げた。東郷氏自身は、危機があったからこそ平時には通らない規模の合理化に踏み込め、同業に先んじたとみていた。ただ金融債に払う利率が上がって資金の仕入れ値は下がらず、企業が銀行以外の調達手段を広げたため、貸出を増やす見込みも立たなかった。1998年3月期末の貸出金は7兆7,818億円で、2年前の10兆717億円から2割余り減っていた。
1998年12月13日、日本債券信用銀行は金融再生法に基づく特別公的管理の開始を通知された。17日に預金保険機構が全株式を取得し、25日に同機構が選んだ藤井卓也頭取らの新経営陣が発足した。株式は東京・大阪の両証券取引所で上場を廃止した。1999年3月期の単体純損失は4,671億6,100万円で、前期末の株主資本と同じ額にあたり、株主資本は消えた。1997年7月の増資から1年5カ月で、増資に応じた金融機関の持分も実質的に失われた計算になる。この仕組みは清算ではなく、公的資金で日々の営業を支えながら、株式の譲渡か事業の移転で引き受け手を探すことを目的としていた。
新経営陣は1999年2月26日、特別公的管理に至った経緯の報告を法に沿って提出した。3月1日には経営合理化計画と業務運営基準が金融再生委員会の承認を受けた。計画は早期の管理終了、企業価値の維持、公的資金の最小化、責任体制の確立を目標に掲げた。旧経営陣は計画づくりの前に退任し、退職慰労金は支給されなかった。1989年以降に退いた代表取締役16人には、故人を除き退職金の自主返納を求め、1月には旧経営陣の責任を調べる委員会を設けた。業務運営基準は、市場取引を顧客の必要に応じるものに絞り、保守的に運用すると定めた。窪田体制が6年前に切り離した過去の案件は、この段階で旧経営陣個人の責任として問い直されることになった。
合理化は人員と経費の圧縮から進んだ。行員は1999年3月末に2,026人まで減り、最終目標を1,800人に置いた。1996年に窪田氏が大規模な削減は要らないとした時点の2,600人から、3年足らずで2割余り減った計算になる。経費はピークの1996年3月期の647億円から1999年3月期に497億円まで減らし、430億円を目標とした。1999年5月24日の資産判定で、金融再生委員会は総資産11兆4,166億円のうち3兆9,602億円を保有に適さないと判定した。6月にはモルガン・スタンレーを引き受け手探しの助言役に選び、9月には子会社の日債銀債権回収がサービサーとして営業を始めた。引き受け手への譲渡は、次の年に持ち越される課題として残った。
2003年4月、あおぞら銀行は2006年3月期の再上場を目標に据えた経営戦略「トリニティ・プラン」を公表した。同じ年、2000年の民営化で筆頭株主となったソフトバンクは、保有株を米国のサーベラス・グループへ譲ると決めた。サーベラスは2000年9月の引き受けの時点から大株主に加わっていた企業再生ファンドである。公開買付けでソフトバンクの普通株をすべて引き取り、2003年9月に過半を握る株主となった。当時の経営陣は、新しい筆頭株主が現行の経営方針を支持していると説明した。過半数を持つ株主の登場で、再建の主導権は銀行の経営陣から株主の側へ移ったとみられる。
トリニティ・プランは、再上場と、国内の銀行で上位に並ぶ格付けの取得を二つの目標に置いた。重点に選んだのは中堅企業向け融資、企業再生、金融商品の組成と販売の三分野で、三つを連動させて収益を上げる設計だった。融資では、担保の保全と回収見込みから約800の区分に振り分け、区分ごとに金利の下限を決める社内格付けを全取引に当てた。不良債権比率は2003年3月末の5.97%から、翌年3月末には2.95%まで下がった。貸出と並ぶ収益源として、手数料と売買益が粗利益に占める割合も17.6%へ上がった。ただ立案したのは丸山博社長の体制であり、株主の交代でその中身は組み替えを迫られたのだろう。
株主の交代を受け、会長にエドワード・G・ハーシュフィールド氏、社長に水上博和氏が就任した。水上氏は住友信託銀行で取締役を務めた人物で、2003年12月に社長となった。新しい経営陣は2004年4月、法人・金融機関・個人など顧客別の5グループへ組織を改め、財務・与信・技術の責任者を外部から招いた。2005年2月には、バンク・オブ・アメリカの副会長を務めたマイケル・E・ロッシ氏が会長兼CEOに就任した。2005年3月期には、非金利収益が純収益の36%を占め、前期の23%から伸びた。旧日債銀の貸出に依存する収益の形を、外部から来た経営陣が手数料と投資の側へ寄せていったと考えられる。
2006年4月、あおぞら銀行は長期信用銀行から普通銀行へ転じ、新しい顧客が預金を置きやすい形に改めた。10月に証券子会社のあおぞら証券を設け、11月には東京証券取引所第一部へ株式を上場した。1998年12月に特別公的管理に入って上場を廃止してから、8年を経ての再上場だった。トリニティ・プランが掲げた2006年3月期という時期からは、半年あまり後ろへずれた。その間に不良債権比率は事業再生計画の始まりの14.19%から0.68%へ、経費率は60.0%から40.7%へ下がっていた。転換と上場は、過半を持つサーベラスにとって持分を市場で売却できるようにする手続きでもあったとみられる。
再上場後の経営は、農林中金全共連アセットマネジメントの社長を務めた能見公一氏が会長兼CEOとして率いた。社長兼COOのフェデリコ・J・サカサ氏とともに、日本の銀行業界を上回る収益を上げることを使命に据えた。経営資源は、利回りの高い特化型金融と、ヘッジファンドを中心とする投資事業へ重点的に振り向けた。特化型金融の中身は、不動産、レバレッジド・ファイナンス、ストラクチャード・クレジット、プライベート・エクイティなどだった。米欧のシンジケート・ローンやアジアのレバレッジド・ローンにも加わり、2007年3月期の貸出残高は17.5%増えた。公的資金の返済を最優先に置き、2008年3月期の単体純利益を760億円とする計画も示した。
2008年の中期の枠組みでは、法人、投資銀行、グローバル投資、金融機関、金融市場、個人の6事業を並べた。2008年3月期の貸出残高は海外向けを中心に16.3%増え、年率二桁前半という経営目標を満たした。しかし同じ期に、CDOの評価損、GMACの51%を持つFIM LLCへの出資の損失、債券の売却損が重なった。連結の純収益は前期から65.2%減って398億円となり、単体の純利益は35億円にとどまった。前年8月に示した計画の760億円に対し、およそ20分の1の水準である。高い利回りを求めて積んだ海外の投資資産が、そのまま損失の源になった形だった。
2009年3月期、あおぞら銀行の連結当期純損失は2,426億円に達した。前の期は59億円の黒字で、損益は一年で大きく反転した。損失の中身は、GMAC、CDO、ヘッジファンド、ETF、リーマン・ブラザーズ向けの投資と融資の評価減と引当で、合計2,396億円にのぼった。普通株の配当を見送り、2008年10月に始めた役員報酬の削減に加えて希望退職を募った。新たに社長兼CEOとなったブライアン・F・プリンス氏は、国内の貸出、とりわけ不動産金融と特化型融資へ戻る方針を示した。2007年に資源を振り向けたヘッジファンドや海外投資を、自らの手で損失として切り離したことになる。
2009年7月1日、あおぞら銀行は新生銀行と、2010年の合併を目指す提携契約を結んだと公表した。株式の交換比率を1対1とする対等合併をうたい、統合後は国内6位の銀行になる見込みだった。ただし存続会社は新生銀行で、あおぞら銀行は消滅会社となる形だった。発表後、両行は統合委員会と分科会を置き、統合の計画づくりに入った。プリンス氏は、提携を幅広く探るというかねての方針に沿う取引と位置づけ、調達の均衡と資本の厚みを利点に挙げた。同じ8月には関東つくば銀行・茨城銀行の両グループや北海道銀行とも提携を結び、地域金融機関との連携は別に進めていた。
2010年5月14日、あおぞら銀行の取締役会は新生銀行との提携契約の解消を承認し、公表した。合意から10か月あまりでの解消で、財務と業績への重要な影響は無いとした。同じ2010年3月期、あおぞら銀行は83億円の純利益を計上して黒字を回復した。リテール預金は調達の62.9%を占め、前年に掲げた5割以上という目標を超えた。ロンドンとシンガポールの拠点を閉じ、2008年9月以降に海外中心の旧来資産を約9割減らした。経営陣は、合併や提携を今後も追う姿勢を示した。単独で黒字化と国内回帰を進めたことが、統合を急ぐ理由を薄めたのだろう。
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|---|---|---|---|---|
| 1957〜1993年日本不動産銀行の設立と上場、日本債券信用銀行への行名変更 | 星野喜代治 | 日本不動産銀行として設立 | ★ | |
| 中村建城 | 外国為替業務を開始 | ★ | ||
| 中村建城 | 東京証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 勝田龍夫 | 大阪証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 渡邉淳 | 行名を日本債券信用銀行に変更 | ★ | ||
| 1994〜2002年特別公的管理による一時国有化と再民営化、あおぞら銀行への行名変更 | 窪田弘 | 日債銀信託銀行を設立 | ★ | |
| 藤井卓也 | 特別公的管理による一時国有化と、民間企業連合への株式譲渡による再民営化 1997年、日本債券信用銀行は関連ノンバンク3社の自己破産を軸とする不良債権処理と約2,900億円の増資で単独再建を図ったが、1998年12月に金融再生法に基づく特別公的管理の対象となり上場を廃止された。1999年9月にソフトバンク・オリックス・東京海上を中心とする企業連合への譲渡が決まり、2000年9月に特別公的管理が終了、翌2001年1月に行名をあおぞら銀行へ変更した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 藤井卓也 | 日債銀債権回収がサービサー営業開始 | ★ | ||
| 藤井卓也 | 特別公的管理終了、再民営化 | ★★ | ||
| 丸山博 | 行名をあおぞら銀行に変更 | ★ | ||
| 2003〜2011年サーベラス傘下での普通銀行転換と新生銀行との合併断念 | 丸山博 | ソフトバンク保有株の売却を経た普通銀行への転換と再上場 2000年に日本債券信用銀行を引き受けた民間連合のうち、筆頭株主のソフトバンクが保有株の売却を模索し、2002年には三井住友銀行までが買収に名乗りを上げた。最終的に米ファンドのサーベラスが筆頭株主となり、あおぞら銀行は2006年4月に長信銀免許を返上して普通銀行へ転換、同年11月に東証一部へ再上場した。 詳細を読む | ★★★ | |
| 水上博和 | 普通銀行に転換 | ★★ | ||
| フェデリコJ.サカサ | 大幅純損失を計上 | ★★ | ||
| ブライアンF.プリンス | 同業大手との統合による規模拡大構想と、その白紙撤回 2009年7月、ともに長期信用銀行を前身とする新生銀行とあおぞら銀行が2010年10月の対等合併で合意したが、約10か月後の2010年5月に断念した案件。総資産約18兆円・国内6位の準メガバンク構想は実を結ばなかった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 2012〜2026年資本再構成プランと公的資金の完済、大幅赤字と大和証券グループ本社との資本業務提携 | ブライアンF.プリンス | 公的資金の分割返済と、期限を待たない一括での前倒し完済 2009年3月期に純損失2,425億円を計上したあおぞら銀行は、政府に残る優先株1,794億円の大半が2012年10月に普通株への強制転換期限を迎える前に、2012年8月に資本再構成プランを公表した。減資と優先株の買い戻し・特別優先配当で最長10年かけて返す枠組みを組み、2015年6月に残額を一括返済して完済した。 詳細を読む | ★★★ | |
| 馬場信輔 | 馬場信輔氏が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 馬場信輔 | 公的資金を完済 | ★★ | ||
| 馬場信輔 | 本店を千代田区麹町に移転 | ★ | ||
| 馬場信輔 | ABNアドバイザーズを設立(M&Aアドバイザリー専業子会社) | ★ | ||
| 馬場信輔 | あおぞら企業投資を設立(スタートアップ向け投融資会社) | ★ | ||
| 馬場信輔 | GMOあおぞらネット銀行がインターネット銀行事業を開始 | ★★ | ||
| 谷川啓 | 谷川啓氏が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 谷川啓 | 15年ぶりの大幅赤字を計上 | ★★ | ||
| 大見秀人 | 大見秀人氏が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 大見秀人 | 証券大手を引受先とする519億円の第三者割当増資による資本の受け入れ 2024年3月期に米国オフィス向け融資の引当などで純損失499億円を計上したあおぞら銀行は、2024年5月13日、大和証券グループ本社を引受先とする519億円の第三者割当増資と資本業務提携を発表した。7月1日に増資を実行し、大和証券グループ本社は議決権ベースで2割超を持つ筆頭株主となった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 大見秀人 | 新中期経営計画(2025-2027年度)発表 | ★ |
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事実根拠:出所(あおぞら銀行)