1924年〜 信託業法の公布から戦後の銀行業務兼営まで
- 1924年 三井信託を設立
- 1925年 住友信託を設立
- 1927年 三井信託、大阪支店を開設
- 1928年 三井信託、全国信託会社の受託財産30%シェアに到達
- 1929年 三井信託、新築三井本館に本社移転
- 1932年 住友信託、国債引受シンジケート団に加入
- 1943年 兼営法施行、地方信託の親銀行吸収進む
米山梅吉が関東大震災を越えて設立した「最初の信託会社」
1922年4月の信託業法公布を受け、三井銀行常務でアメリカの信託事情に通じていた米山梅吉は、基礎の固い信託会社を立ち上げる構想を練った。三井合名理事長・團琢磨の支持を得て準備したが、翌年の関東大震災で計画は難航した。米山は計画を押し通し、1924年3月25日に三井信託株式会社が成立した。わが国で最初の信託会社である。米国で信託業務を調査した米山が、その経験をもとに日本の信託業の基礎を据えた人物となる。三井財閥の信用を後ろ盾に開業した同社は、以後の全国信託会社の先行事例として働き、戦前の信託業全体の骨格を作る原点となった。関東大震災直後の混乱期に踏み切った開業でもあった。 [1][2][3]
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [1]1924年3月25日 三井信託株式会社が成立(わが国最初の信託会社)
- [2]三井銀行常務・米山梅吉が信託業法公布を受け三井信託の設立を主導
- [3]三井信託はわが国で最初の信託会社
開業から4年後の1928年11月末、同社の受託財産残高は全国信託会社37社合計の約30%を占めた。受託財産の内訳は金銭信託80%、有価証券信託19%で、金銭信託は主に貸付金で運用された。日本興業銀行が一手に引き受けていた長期資金供給の一翼を担う形で、貸出先は電力・私鉄を中心とした基幹産業に広がった。1929年6月には新築の三井本館に本店を移した。受託財産で全国シェア3割を占める三井信託は、戦前日本の長期資金供給システムの中核に位置を占めた。金銭信託を主力とし、日本興業銀行と並ぶ長期資金の担い手として電力・私鉄への資金供給を支えた時期である。戦前の信託会社で三井信託だけが突出した規模を持っていた。 [4][5]
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [4]1928年11月末 三井信託の受託財産残高は全国信託会社37社合計の約30%
- [5]1929年6月 三井信託は新築の三井本館に本店を移転
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [1]1924年3月25日 三井信託株式会社が成立(わが国最初の信託会社)
- [2]三井銀行常務・米山梅吉が信託業法公布を受け三井信託の設立を主導
- [3]三井信託はわが国で最初の信託会社
- [4]1928年11月末 三井信託の受託財産残高は全国信託会社37社合計の約30%
- [5]1929年6月 三井信託は新築の三井本館に本店を移転
住友財閥資本の参入と戦時統制下の7社存続
1925年7月に住友信託が住友吉左衛門ら住友関係者の資本を中心に創立され、9月に開業した。金銭信託を資金源に長期設備資金の貸付・社債投資を行い、1932年には国債引受シンジケート団に加入して起債市場にも足場を築いた。担保付社債信託の受託と債券引受の双方で高いシェアを取り、三井・住友の2大財閥系信託が戦前の信託業を牽引した。住友信託は関西経済を地盤とする財閥系信託として、関東を地盤とする三井信託と並ぶ戦前の信託業界の2大勢力となる。後発ながら住友財閥の資本力で規模を伸ばし、三井信託と肩を並べる位置まで成長した。両行を通じた戦前期に、長期金融機関としての地位が固まった。 [6][7][8]
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [6]1925年7月 住友信託が住友関係者の資本を中心に創立(9月開業)
- [7]創立は住友吉左衛門ら住友関係者の資本が中心
- [8]1932年 住友信託が国債引受シンジケート団に加入し起債市場に参入
1927年の金融恐慌では、信託会社は金銭信託の期間が最短2年という制限が幸いし、取り付け騒ぎの圏外にあった。1934〜36年には戦前信託会社のピーク期を迎えた。1937年の日中戦争以降、戦時統制下のインフレで金銭信託は不振に転じた。1943年の兼営法施行で地方信託の多くは親銀行に吸収されたが、三井・住友をはじめ財閥系大信託は独立を守り、終戦時に7社が存続した。この7社が戦後信託銀行業界の骨格を作る。地方信託が親銀行に吸収されるなかで財閥系大信託が独立を守り抜いた構図は、戦後の信託銀行業界にそのまま引き継がれた。戦前の7社体制が戦後の信託銀行7行体制の原型となり、うち三井と住友が後に統合して最大グループを形成する経路をたどる。 [9][10]
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [9]1943年の兼営法施行で地方信託の多くが親銀行に吸収され、終戦時に財閥系大信託7社が存続
- [10]終戦時に存続した信託会社は7社
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [6]1925年7月 住友信託が住友関係者の資本を中心に創立(9月開業)
- [7]創立は住友吉左衛門ら住友関係者の資本が中心
- [8]1932年 住友信託が国債引受シンジケート団に加入し起債市場に参入
- [9]1943年の兼営法施行で地方信託の多くが親銀行に吸収され、終戦時に財閥系大信託7社が存続
- [10]終戦時に存続した信託会社は7社
GHQ提案による銀行兼営への転換
敗戦で金銭信託の基盤だった大口資産家が没落し、両行は開業以来の苦境に陥った。1948年、大蔵当局が信託会社の銀行業務兼営を認めると、同年7月に三井信託は財閥色払拭のため東京信託銀行と改称し、8月に普通銀行業務の兼営を始めた。住友信託も同8月に富士信託銀行と改称し、旧資本金2000万円を減資して新資本金5000万円で銀行業務を始めた。GHQの財閥解体方針のもとで財閥商号の使用が禁じられ、信託会社は戦前の姿から制度的にいったん切り離された。信託会社から銀行兼営への移行は、戦後の業態の出発点となった。戦前に大口資産家を主な顧客としていた信託会社が、戦後は預金口座を持つ兼営銀行として再出発する形だった。 [11][12][13]
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [11]1948年7月 三井信託が財閥色払拭のため東京信託銀行に改称、8月に普通銀行業務の兼営を開始
- [12]1948年8月 住友信託が富士信託銀行に改称し、旧資本金2000万円を減資して新資本金5000万円で銀行業務を開始
- [13]住友信託は旧資本金2000万円を減資し新資本金5000万円とした
銀行業務の導入で収益構造が変わった。それまで信託勘定の貸出代わり金は他行の預金口座に振り込まれていたが、自行の預金口座に振り込まれるようになり、低コスト資金の滞留が収益の源泉に転じた。1949年5月、両行ともに東京・大阪両証券取引所へ株式を上場した。信託会社は、信託業法に基づく文字どおりの信託会社から、兼営法のもとで信託業務を兼営する銀行へと業態を切り替えた。銀行業務と信託業務の併営は、後に日本の信託銀行業の基本形として定着する。金銭信託から貸付信託へと主力商品も移り、戦後信託銀行の姿が輪郭を見せ始めた。信託会社から信託銀行への名称変更と業態転換は、ほぼ同時並行で進んだ。 [14]
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [14]1949年5月 両行とも東京・大阪両証券取引所へ株式を上場
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [11]1948年7月 三井信託が財閥色払拭のため東京信託銀行に改称、8月に普通銀行業務の兼営を開始
- [12]1948年8月 住友信託が富士信託銀行に改称し、旧資本金2000万円を減資して新資本金5000万円で銀行業務を開始
- [13]住友信託は旧資本金2000万円を減資し新資本金5000万円とした
- [14]1949年5月 両行とも東京・大阪両証券取引所へ株式を上場