創業1922年9月、五島慶太が資本金350万円で目黒蒲田電鉄を設立、関西の阪急モデルを関東で実装する郊外電鉄として出発した。1923年9月の関東大震災で郊外移住需要が拡大、1928年に渋沢栄一の田園都市株式会社を合併して田園調布の住宅地開発手法を取り込み、1932年の東横線全通で渋谷をターミナルに据えた。
決断1942年から44年の戦時統合で京浜・小田急・京王を合併した「大東急」は1948年の再編成で解体されたが、東横線・目蒲線と渋谷ターミナルが残った。1953年7月、五島慶太は「城西南地区開発趣意書」で多摩丘陵400〜500万坪買収による第二の東京構想を打ち出し、1959年から55地区・3204haの区画整理を約40年続け、1984年に田園都市線が中央林間まで全通。バブル期のリゾート・百貨店不振で1995年3月期に特別損失429億円を計上し、非中核事業整理に転じた。
課題2013年3月の東横線渋谷駅地下化で生まれた跡地を、2018年渋谷ストリーム・2019年スクランブルスクエアI期へ転用、2019年9月に持株会社体制へ移行した。Shibuya Upper West・スクランブルスクエア中央棟西棟・宮益坂地区の3大プロジェクトに6000億円を投じる最終フェーズで、建設仮勘定積み上げによるROE低下と700億円資産売却の両立をどう設計するか。郊外電鉄モデルの2030年代向け再定義が東急の選択である。
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歴史概略
1922年〜1955年五島慶太と関東初の郊外電鉄・大東急の形成と解体
関東大震災が生んだ郊外電鉄の需要と田園調布の誕生
関西では阪急電鉄が「鉄道が乗客を創造する」モデルで成功していたが、関東では郊外電鉄に参入する事業者がいなかった。1922年9月に五島慶太は資本金350万円で目黒蒲田電鉄を設立し、目黒〜田園調布〜蒲田間の路線建設に着手した。1923年9月の関東大震災で都心から郊外への移住需要が拡大し、沿線では大岡山に東京高等工業が浅草から移転するなど学校・住宅の進出が相次いだ。1925年9月の東洋経済は、電鉄の速力が国鉄東海道本線や京浜電気鉄道を上回るため相応の乗客を吸収しうると評し、翌年も創業翌年から営業成績が改善したと記録している(週刊東洋経済 1925/09/19)。震災後の郊外移住の動きは、戦後の多摩田園都市開発まで続く長期トレンドの起点になった。
1928年には渋沢栄一が設立した田園都市株式会社を合併し、田園調布の高級住宅地と不動産開発のノウハウを取得した。1932年には東横線(渋谷〜横浜〜桜木町)が全通し、東京と横浜を結ぶ基幹路線として東急の収益基盤を据えた。1934年に池上電気鉄道を合併し、目黒・渋谷・蒲田・横浜を結ぶ路線網を整えた。1930年初頭には桜木町線の未成によって建設費負担が重く、1株あたり収入が京浜・王子の半分にとどまるという指摘もあったが(ダイヤモンド 1930/01/01)、桜木町までの直通開通後は乗客と収入が増加した(ダイヤモンド 1932/11/10)。鉄道を敷設し、沿線に住宅地を開発し、ターミナルに百貨店を置くという私鉄ビジネスモデルの基本形が、1930年代前半までに整った。渋谷駅をターミナルに据えた判断は、約90年後の渋谷ヒカリエ・渋谷ストリーム・渋谷スクランブルスクエアへ連なる起点になる。
戦時統合による「大東急」の膨張と戦後の解体
1942年5月、戦時統合により京浜電気鉄道(現・京急)と小田急電鉄を合併し、商号を東京急行電鉄に変更した。1944年には京王電気軌道も合併して資本金2億480万円の「大東急」が出現し、関東の主要私鉄を傘下に収める日本最大級の私鉄グループになった。終戦後の1948年6月、会社再編成により京王帝都電鉄・小田急電鉄・京浜急行電鉄が再独立し、わずか6年ほどで「大東急」は解体された。戦時体制下で関東全域の私鉄を束ねた特殊な6年だったが、グループ経営における水平展開の発想を後年に残した。解体後に東急に残ったのは東横線・目蒲線と渋谷ターミナルを軸とする東京南西部の路線網である。
東急は東横線・目蒲線と渋谷ターミナルを保持して再出発した。1948年に東横百貨店(現・東急百貨店)を設立して百貨店業を分離し、1949年に東京証券取引所へ上場した。1953年には東急不動産を設立して不動産販売・遊園業を分離した。大東急の解体で路線規模は縮小したが、渋谷ターミナルと東横線の基幹資産は手元に残り、後の田園都市開発と渋谷再開発の土台になった。鉄道・不動産・百貨店の三位一体が、再建期を通じて東急グループの骨格として定着した。1948年の東横百貨店、1953年の東急不動産という中核会社の設立はいずれも戦後再建期に集中しており、後の多摩田園都市開発や渋谷再開発を担う主体の原型がそろった。渋谷ターミナルを残せたかどうかが、戦後の事業構造を決めた分水嶺だったといえる。
1956年〜2000年多摩田園都市の宅地開発とバブル崩壊からの再建
五島慶太の構想から田園都市線全通までの約30年
1953年7月、五島慶太は首都圏に流入する人口の受け皿として多摩丘陵を選び、「城西南地区開発趣意書」を周辺自治体に提出した。五島は「いま試しに東京駅を中心として約40kmの半径をもって円を描いて見ると、東の方は千葉、土浦、大宮、北西の方は川越、八王子、相模原町、西南の方は藤沢、横須賀などがこの円に含まれている。この円内で一番開発されておらないで、山林、原野そのままのところは二子玉川より厚木大山街道に沿って鶴間、座間、海老名地方に至る地域である」(産業と経済 1953/09)と未開発地の選定根拠を示し、「そこで私はこの厚木大山街道に沿って、約400〜500万坪の土地を買収して、第二の東京都を作りたいと思う」(産業と経済 1953/09)と構想の規模を明示した。1956年に「多摩川西南新都市計画」が決定し、新線の駅から概ね1kmの範囲を市街化許容区域に指定した。
事業主体については「これをやるのは、やはり東京急行電鉄が一番適当であると考えるが、独立した個別の会社としてもよいと考えている。いずれにしても、1つの会社がその400〜500万坪の土地を買収し、これに道路、下水、ガス、電気を引き込み、かつその他公共施設を設けて完全な住宅地として売り出す方法以外に東京都の人口をここに呼ぶ方法がないと思う」(産業と経済 1953/09)と述べ、組合方式では公共施設の整備が困難という判断を示した。1956年8月の読売新聞は首都圏の人口流入を抑えるため衛星都市の整備が必要と報じており、行政側の問題意識と五島構想は同方向にあった。1959年に最初の区画整理(川崎市野川地区)が着手され、以後2000年の犬蔵地区まで55地区・3,204ヘクタールの区画整理が約40年にわたって続いた。
五島は1959年に逝去したが、後継経営者が構想を引き継ぎ、1966年に田園都市線の溝の口〜長津田間を開通させた。当時の五島昇は「現状では電車を走らせるごとに赤字の積み重ねとなり、月に1億円が赤字となるなしいが、もっともこんなことは百も承知(中略)私企業としての東急がやる以上、ソロバンの無視のことはやれまい。これが当たれば、土地で儲け、家で儲け、電車で儲け、なかなかこたえられない話だが、それにしてもとてつもない大計画だ」(実業の世界 1966/12)と述べ、鉄道単独では赤字を覚悟しつつ土地と住宅で回収する事業構造を示した。後年も「執念だけで突っ走った」(日経新聞 1989/03/14)と振り返っている。1977年に新玉川線(渋谷〜二子玉川園)が開通し、1979年に営団半蔵門線との全列車直通運転が始まった。1984年に中央林間まで延伸して田園都市線が全通し、五島構想から約30年で鉄道インフラがそろった。
バブル崩壊と特別損失429億円からの非中核事業整理
1986年の日経朝刊で五島昇は「鉄道だけで採算のとれる経営ができる自信はまるでなかった。沿線に200万坪の土地を先に購入し、地域開発すればなんとかなるのではないかと考えた。区画整理事業などはまだ考えられなかったころであり、大づかみな計画だった」(日経朝刊 1986/03/16)と多摩田園都市の出発点を回想した。同年の日経ビジネスは東急グループが多摩田園都市開発の所産であり、沿線人口の増加が旅客の安定増につながったと指摘している(日経ビジネス 1986/06/23)。1989年に五島昇は「『20世紀の奇跡』と世界から注目されていた。池田内閣の所得倍増計画と不動産ブームで地価も上がった」(日経新聞 1989/03/16)と時代背景を語り、「日本の『奇跡』がなければ成功のおぼつかないリスクの大きな事業でもあったのだ」(日経新聞 1989/03/16)と振り返った。
バブル期に拡大したリゾート・百貨店事業の不振が表面化し、1995年3月期に特別損失429億円を計上した。創業家である五島家の影響力が薄まるなか、東急は経営再建に転じた。非中核事業の整理を進める方針のもとで、バブル期に膨張した事業ポートフォリオの縮小と、鉄道・不動産・生活サービスへの選択と集中が、1990年代後半の経営の基本テーマになった。多摩田園都市の開発は1970年代の山を越えて落ち着き、2000年の犬蔵地区を最後に区画整理事業も一段落した。次の課題は渋谷ターミナルと都心側の不動産価値の引き出し方である。戦後の多摩田園都市モデルから都心ターミナル再開発モデルへの転換点であり、鉄道事業単独での収益拡大に天井が見え、不動産事業への重心シフトが本格化した時期でもある。
2000年に渋谷マークシティが開業し、渋谷駅周辺の再開発が始まった。2001年に石油販売事業を終了し、2002年に東亜国内航空の流れを汲む日本エアシステムが日本航空グループと経営統合して航空事業から撤退した。非中核事業を整理し、鉄道・不動産・生活サービスに経営資源を集中させる方針が固まった時期である。渋谷エリアは保有前提、その他エリアは資産回転型のビル事業を展開する不動産戦略の基本も2000年代前半に固まった。バブル期の多角化を清算しつつ、渋谷ターミナルの再開発を準備する組織・財務体制が、2000年代前半に整えられた。非中核事業の清算と渋谷への集中投資は、後の渋谷ヒカリエ以降のプロジェクトを支える財務的な前提になった。
2001年〜2019年渋谷再開発の本格化と持株会社体制への移行
線路付け替えで生まれる再開発用地と渋谷ヒカリエ
2003年に田園都市線が半蔵門線経由で東武伊勢崎線と相互直通運転を開始し、2004年に東横線がみなとみらい線と直通運転を始めた。同時に東横線の横浜〜桜木町間の営業を終了し、みなとみらい地区への接続に切り替えた。2005年には東急百貨店を完全子会社化し、グループ内の事業再編を行った。渋谷エリアの物件は保有前提、その他エリアでは資産回転型ビル事業を展開する不動産戦略のもとで、2000年代半ばまでに保有・回転の二層構造が定着した。東横線・田園都市線の相互直通ネットワークが首都圏全体に広がり、沿線人口の移動需要を首都圏レベルで捕捉する体制が整った。相互直通運転の拡大は、渋谷を横断する首都圏鉄道ネットワークの中核として東急の位置を引き上げ、以後の渋谷ターミナル再開発の前提条件を形づくった。
2012年に渋谷ヒカリエが竣工した。旧東急文化会館の跡地を再開発した物件で、東横線渋谷駅の地下化と連動した渋谷再開発の第1弾である。新玉川線の意思決定について山戸松身は「新玉川線の必要性は充分に認めながらも、会社の前途を考えれば軽々には踏み切れないという苦悩が重く会社を支配した」(交通公論 1978/05)と振り返り、「田園都都市線の直通経路は旧大井町線を経由する事なく、別途最短路を経由する事が望ましい」(交通公論 1978/05)と直通経路の選定根拠も記録している。2013年3月に東横線渋谷駅を地下化し、副都心線・東武東上線・西武線との相互直通運転を始めると、地上駅の跡地が新たな再開発用地になった。
2018年に渋谷ストリーム(投資額約680億円)が竣工し、旧東横線の地上軌道跡地にGoogleの日本法人等が入居した。2019年に渋谷スクランブルスクエア第I期(東棟、投資額約498億円)が開業した。山戸は新玉川線の遅れと完成形について「思えば生みの陣痛に悩む期間が長かったこそ、新玉川線は理想な形で世に生まれてきたといえよう」(交通公論 1978/05)と評しており、銀座線の延長線として建設されていた場合の輸送限度の不安にも触れている。線路付け替えで生まれた跡地をオフィスビルへ転用する手法は、駅・線路という鉄道資産を不動産開発に振り向ける点で他の私鉄にはない特徴である。渋谷ヒカリエから渋谷ストリーム、渋谷スクランブルスクエア第I期まで一連の再開発が続き、駅周辺の床面積と賃貸オフィスのストックが拡大した。
持株会社化による鉄道切り離しとグループ経営の再編
2019年9月に商号を東京急行電鉄から東急に変更し、同年10月に鉄軌道業を東急電鉄に会社分割で移管した。東急本体は鉄道・不動産・生活サービス・ホテルのグループ全体を統括する持株会社へ移った。鉄道事業のリスクとリターンを本体から切り離し、不動産開発やM&Aなど資本効率を重視した意思決定を速める狙いがあった。並行してベトナム・ビンズン省で進めていた海外の田園都市型開発(ベカメックス東急)も動いており、国内の沿線開発モデルを海外に展開する試みも並行した。持株会社への移行は、1922年の目黒蒲田電鉄設立以来約100年続いた「鉄道会社を軸とする東急」の構造を、不動産・生活サービスを主役に据える方向へ組み替える組織再編になった。
2013年には東急不動産・東急コミュニティー・東急リバブルの3社が共同株式移転で東急不動産ホールディングスを設立し、グループの不動産事業を先に持株会社体制へ再編していた。東急本体の持株会社化と合わせ、鉄道・不動産・生活サービスの3領域がそれぞれの持株会社のもとで独立運営される体制が整った。この二段階の持株会社化で、東急グループは鉄道事業と不動産事業を別の意思決定ラインで運営する、首都圏私鉄では独特のガバナンス構造を取った。2013年の東急不動産ホールディングス設立から2019年の東急本体の持株会社化までの約6年が、グループの経営構造を組み替えた中心期間である。経営判断の速度を上げる組織改革と、渋谷再開発の本格化が同時に進んだのが2010年代の特徴である。