東急 の歴史

更新:

創業

1922年

創業者

五島慶太

創業地

東京都

直近売上高(2026/3)

10,862億円

長期業績と転換点(1997/3〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1922年に五島慶太氏は関東で郊外電鉄を始めたのか
A 関西の阪急電鉄が示した「鉄道が乗客を生む」郊外電鉄を関東で実践できる事業者がいなかったため、五島慶太氏は手つかずの市場とみて参入した。1922年9月に資本金350万円で目黒蒲田電鉄を設立すると、翌1923年9月の関東大震災で都心から郊外への移住需要が拡大し、沿線に学校と住宅が集まった。1928年には渋沢栄一が設立した田園都市株式会社を合併して田園調布の高級住宅地開発を取り込み、鉄道を敷いて沿線に住宅を売る私鉄経営が1930年代前半までに動き出した
Q なぜ五島慶太氏は1953年に多摩丘陵400〜500万坪の買収と「第二の東京」を構想したのか
A 鉄道を単独で走らせれば赤字が避けられないため、沿線の土地と住宅を先に開発して販売益で投資を回収する構造が要るとみた。1953年7月に五島慶太氏は「城西南地区開発趣意書」で多摩丘陵約400〜500万坪を買収して「第二の東京都を作りたい」と構想し、1959年から55地区3,204ヘクタールの区画整理を約40年続けた。後継の五島昇氏も鉄道は月1億円の赤字を覚悟しつつ土地と家で回収すると述べており、1984年の田園都市線全通でこの土地と住宅で稼ぐ構造を実現した
Q なぜ東急は2019年に鉄道を本体から切り離して持株会社へ移行したのか
A 固定費が重く需要の変動に左右される鉄道を本体から外せば、不動産開発やM&Aなど成長投資の意思決定を速められるとみた。2019年9月に商号を東京急行電鉄から東急へ改め、翌10月に鉄軌道業を東急電鉄として会社分割で切り出し、本体を不動産・生活サービス・ホテルを統括する持株会社へ移した。長年築いたビジネスモデルが社会環境の変化でわずかな期間に崩れうると見据え、機能別に再編して長期循環型の成長を志向した。2013年に先んじて東急不動産ホールディングスを設けており、鉄道と不動産を別々の意思決定ラインで動かす体制をとった

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1922年〜 五島慶太と関東初の郊外電鉄・大東急の形成と解体

関東大震災が生んだ郊外電鉄の需要と田園調布の誕生

関西では阪急電鉄が「鉄道が乗客を創造する」モデルで成功していたが、関東では郊外電鉄に参入する事業者がいなかった。1922年9月に五島慶太は資本金350万円で目黒蒲田電鉄を設立し、目黒〜田園調布〜蒲田間の路線建設に着手した。1923年9月の関東大震災で都心から郊外への移住需要が拡大し、沿線では大岡山に東京高等工業が蔵前から移転するなど学校・住宅の進出が相次いだ。1925年9月の東洋経済は、電鉄の速力が国鉄東海道本線や京浜電気鉄道を上回るため相応の乗客を吸収しうると評し、翌年も創業翌年から営業成績が改善したと記録している(週刊東洋経済 1925/09/19)。震災後の郊外移住の動きは、戦後の多摩田園都市開発まで続く長期トレンドの起点になった。 [1][2][3][4]

  • 東急 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1922年9月 五島慶太が資本金350万円で目黒蒲田電鉄を設立
    • [2]五島慶太が目黒蒲田電鉄の起業者(関東初の郊外電鉄)
    • [3]1923年9月1日 関東大震災(都心から郊外への移住需要が拡大)
    • [4]東京高等工業学校は1924年4月に大岡山へ移転(震災で蔵前校地焼失後)

1928年には渋沢栄一が設立した田園都市株式会社を合併し、田園調布の高級住宅地と不動産開発のノウハウを取得した。1932年には東横線(渋谷〜横浜〜桜木町)が全通し、東京と横浜を結ぶ基幹路線として東急の収益基盤を据えた。1934年に池上電気鉄道を合併し、目黒・渋谷・蒲田・横浜を結ぶ路線網を整えた。1930年初頭には桜木町線の未成によって建設費負担が重く、1株あたり収入が京浜・王子の半分にとどまるという指摘もあったが(ダイヤモンド 1930/01/01)、桜木町までの直通開通後は乗客と収入が増加した(ダイヤモンド 1932/11/10)。鉄道を敷設し、沿線に住宅地を開発し、ターミナルに百貨店を置くという私鉄ビジネスモデルの基本形が、1930年代前半までに整った。渋谷駅をターミナルに据えた判断は、約90年後の渋谷ヒカリエ・渋谷ストリーム・渋谷スクランブルスクエアへ連なる起点になる。 [5][6][7]

  • 東急 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [5]1928年5月 田園都市株式会社を合併(田園調布の宅地・不動産開発ノウハウ取得)
    • [6]1932年3月 東横線(渋谷〜田園調布〜横浜〜桜木町)が全通
    • [7]1934年10月 池上電気鉄道を合併
  • 東急 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1922年9月 五島慶太が資本金350万円で目黒蒲田電鉄を設立
    • [2]五島慶太が目黒蒲田電鉄の起業者(関東初の郊外電鉄)
    • [3]1923年9月1日 関東大震災(都心から郊外への移住需要が拡大)
    • [5]1928年5月 田園都市株式会社を合併(田園調布の宅地・不動産開発ノウハウ取得)
    • [6]1932年3月 東横線(渋谷〜田園調布〜横浜〜桜木町)が全通
    • [7]1934年10月 池上電気鉄道を合併
    • [4]東京高等工業学校は1924年4月に大岡山へ移転(震災で蔵前校地焼失後)

戦時統合による「大東急」の膨張と戦後の解体

1942年5月、戦時統合により京浜電気鉄道(現・京急)と小田急電鉄を合併し、商号を東京急行電鉄に変更、資本金2億480万円となった。1944年には京王電気軌道も合併して「大東急」が出現し、関東の主要私鉄を傘下に収める日本最大級の私鉄グループになった。終戦後の1948年6月、会社再編成により京王帝都電鉄・小田急電鉄・京浜急行電鉄が再独立し、わずか6年ほどで「大東急」は解体された。戦時統制で関東全域の私鉄を束ねた特殊な6年だったが、グループ経営における水平展開の発想を後年に残した。解体後に東急に残ったのは東横線・目蒲線と渋谷ターミナルを軸とする東京南西部の路線網である。 [8][9][10][11]

  • 東急 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [8]1942年5月 京浜電気鉄道・小田急電鉄を合併し東京急行電鉄に商号変更
    • [9]資本金2億480万円となったのは1942年5月(京浜・小田急合併・商号変更時)
    • [10]1944年5月 京王電気軌道を合併
    • [11]1948年6月 会社再編成で京王帝都電鉄・小田急電鉄・京浜急行電鉄を再独立(大東急解体)

東急は東横線・目蒲線と渋谷ターミナルを保持して再出発した。1948年に東横百貨店(現・東急百貨店)を設立して百貨店業を分離し、1949年に東京証券取引所へ上場した。1953年には東急不動産を設立して不動産販売・遊園業を分離した。大東急の解体で路線規模は縮小したが、渋谷ターミナルと東横線の基幹資産は手元に残り、後の田園都市開発と渋谷再開発の土台になった。鉄道・不動産・百貨店の三位一体が、再建期を通じて東急グループの骨格として定着した。1948年の東横百貨店、1953年の東急不動産という中核会社の設立はいずれも戦後再建期に集中しており、後の多摩田園都市開発や渋谷再開発を担う主体の原型がそろった。渋谷ターミナルを残せたかどうかが、戦後の事業構造を決めた分水嶺だったといえる。 [12][13][14]

  • 東急 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [12]1948年5月 東横百貨店(現・東急百貨店)を設立し百貨店業を分離
    • [13]1949年5月 東京証券取引所に上場
    • [14]1953年12月 東急不動産を設立し不動産販売業・遊園業等を分離
  • 東急 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [8]1942年5月 京浜電気鉄道・小田急電鉄を合併し東京急行電鉄に商号変更
    • [9]資本金2億480万円となったのは1942年5月(京浜・小田急合併・商号変更時)
    • [10]1944年5月 京王電気軌道を合併
    • [11]1948年6月 会社再編成で京王帝都電鉄・小田急電鉄・京浜急行電鉄を再独立(大東急解体)
    • [12]1948年5月 東横百貨店(現・東急百貨店)を設立し百貨店業を分離
    • [13]1949年5月 東京証券取引所に上場
    • [14]1953年12月 東急不動産を設立し不動産販売業・遊園業等を分離

1956年〜 多摩田園都市の宅地開発とバブル崩壊からの再建

東急の業績推移

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1962年 多摩田園都市の最初の区画整理事業(野川地区)完成
  2. 1966年 鉄道と沿線開発を一体で回す多摩田園都市の建設 鉄道単独では赤字を覚悟した東急は、55地区3,204haの区画整理と田園都市線でどう「土地・住宅・電車」の三層で稼ぐ構造を築いたか
  3. 1968年 五島昇社長による多角化——流通・ホテル・観光・航空への事業拡張 多摩田園都市で得た開発力と資金を元手に、東急はどこまで事業を広げ「上場13社」の企業集団を築いたか
  4. 1969年 玉川線(渋谷〜二子玉川園)廃止
  5. 1977年 路面電車・玉川線に代わる地下新線「新玉川線」の建設と都心直通ネットワークの完成 「会社の前途を考えれば軽々には踏み切れない」——多摩田園都市の乗客を都心へ運ぶ巨額の鉄道投資に、東急はどう踏み切ったか
  6. 1995年 五島家の個人支配の終焉と、バブル期に膨らんだ非中核事業の整理 五島昇会長の死後、遠心力の働く362社のグループを、横田二郎社長は集団指導体制でどう立て直そうとしたか
  7. 1996年 東急百貨店の本業回帰による再建 — 財テク破綻から「自分で仕入れ、自分で売れ」へ 財テクに溺れた中核子会社を、現場主義の内山徹社長はどう小売業の基本へ引き戻したか

五島慶太の構想から田園都市線全通までの約30年

1953年7月、五島慶太は首都圏に流入する人口の受け皿として多摩丘陵を選び、「城西南地区開発趣意書」を周辺自治体に提出した。五島は「いま試しに東京駅を中心として約40kmの半径をもって円を描いて見ると、東の方は千葉、土浦、大宮、北西の方は川越、八王子、相模原町、西南の方は藤沢、横須賀などがこの円に含まれている。この円内で一番開発されておらないで、山林、原野そのままのところは二子玉川より厚木大山街道に沿って鶴間、座間、海老名地方に至る地域である」(産業と経済 1953/09)と未開発地の選定根拠を示し、「そこで私はこの厚木大山街道に沿って、約400〜500万坪の土地を買収して、第二の東京都を作りたいと思う」(産業と経済 1953/09)と構想の規模を明示した。1956年に「多摩川西南新都市計画」が決定し、新線の駅から概ね1kmの範囲を市街化許容区域に指定した。 [15][16]

  • 東急 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [15]1953年7月 五島慶太が「城西南地区開発趣意書」を周辺自治体に提出(多摩田園都市開発の起点)
    • [16]構想を打ち出したのは五島慶太

事業主体については「これをやるのは、やはり東京急行電鉄が一番適当であると考えるが、独立した個別の会社としてもよいと考えている。いずれにしても、1つの会社がその400〜500万坪の土地を買収し、これに道路、下水、ガス、電気を引き込み、かつその他公共施設を設けて完全な住宅地として売り出す方法以外に東京都の人口をここに呼ぶ方法がないと思う」(産業と経済 1953/09)と述べ、組合方式では公共施設の整備が困難という判断を示した。1956年8月の読売新聞は首都圏の人口流入を抑えるため衛星都市の整備が必要と報じており、行政側の問題意識と五島構想は同方向にあった。1959年に最初の区画整理(川崎市野川地区)が着手され、以後2000年の犬蔵地区まで55地区・3,204ヘクタールの区画整理が約40年にわたって続いた。 [17][18]

  • 東急 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [17]1959年 最初の区画整理(川崎市野川地区)が着手、以後2000年まで55地区・3,204ヘクタールの区画整理が約40年継続
    • [18]区画整理は55地区・3,204ヘクタール規模

五島は1959年に逝去したが、後継経営者が構想を引き継ぎ、1966年に田園都市線の溝の口〜長津田間を開通させた。当時の五島昇は「現状では電車を走らせるごとに赤字の積み重ねとなり、月に1億円が赤字となるなしいが、もっともこんなことは百も承知(中略)私企業としての東急がやる以上、ソロバンの無視のことはやれまい。これが当たれば、土地で儲け、家で儲け、電車で儲け、なかなかこたえられない話だが、それにしてもとてつもない大計画だ」(実業の世界 1966/12)と述べ、鉄道単独では赤字を覚悟しつつ土地と住宅で回収する事業構造を示した。後年も「執念だけで突っ走った」(日経新聞 1989/03/14)と振り返っている。1977年に新玉川線(渋谷〜二子玉川園)が開通し、1979年に営団半蔵門線との全列車直通運転が始まった。1984年に中央林間まで延伸して田園都市線が全通し、五島構想から約30年で鉄道インフラがそろった。 [19][20][21][22][23]

    • [19]五島慶太は1959年に逝去(同年8月没)
  • 東急 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [20]1966年4月 田園都市線 溝の口〜長津田間が開通
    • [21]1977年4月 新玉川線(渋谷〜二子玉川園)開通
    • [22]1979年8月 田園都市線・新玉川線・営団半蔵門線の全列車直通運転開始
    • [23]1984年4月 田園都市線がつきみ野〜中央林間間開通で全通
  • 東急 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [15]1953年7月 五島慶太が「城西南地区開発趣意書」を周辺自治体に提出(多摩田園都市開発の起点)
    • [16]構想を打ち出したのは五島慶太
    • [17]1959年 最初の区画整理(川崎市野川地区)が着手、以後2000年まで55地区・3,204ヘクタールの区画整理が約40年継続
    • [18]区画整理は55地区・3,204ヘクタール規模
    • [20]1966年4月 田園都市線 溝の口〜長津田間が開通
    • [21]1977年4月 新玉川線(渋谷〜二子玉川園)開通
    • [22]1979年8月 田園都市線・新玉川線・営団半蔵門線の全列車直通運転開始
    • [23]1984年4月 田園都市線がつきみ野〜中央林間間開通で全通
    • [19]五島慶太は1959年に逝去(同年8月没)

バブル崩壊と特別損失429億円からの非中核事業整理

1986年の日経朝刊で五島昇は「鉄道だけで採算のとれる経営ができる自信はまるでなかった。沿線に200万坪の土地を先に購入し、地域開発すればなんとかなるのではないかと考えた。区画整理事業などはまだ考えられなかったころであり、大づかみな計画だった」(日経朝刊 1986/03/16)と多摩田園都市の出発点を回想した。同年の日経ビジネスは東急グループが多摩田園都市開発の所産であり、沿線人口の増加が旅客の安定増につながったと指摘している(日経ビジネス 1986/06/23)。1989年に五島昇は「『20世紀の奇跡』と世界から注目されていた。池田内閣の所得倍増計画と不動産ブームで地価も上がった」(日経新聞 1989/03/16)と時代背景を語り、「日本の『奇跡』がなければ成功のおぼつかないリスクの大きな事業でもあったのだ」(日経新聞 1989/03/16)と振り返った。

バブル期に拡大したリゾート・百貨店事業の不振が表面化し、1995年3月期に特別損失429億円を計上した。創業家である五島家の影響力が薄まるなか、東急は経営再建に転じた。非中核事業の整理を進める方針のもとで、バブル期に膨張した事業ポートフォリオの縮小と、鉄道・不動産・生活サービスへの選択と集中が、1990年代後半の経営の基本テーマになった。多摩田園都市の開発は1970年代の山を越えて落ち着き、2000年の犬蔵地区を最後に区画整理事業も一段落した。次の課題は渋谷ターミナルと都心側の不動産価値の引き出し方である。戦後の多摩田園都市モデルから都心ターミナル再開発モデルへの転換点であり、鉄道事業単独での収益拡大に天井が見え、不動産事業への重心シフトが本格化した時期でもある。 [24][25]

  • 東急 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [24]1995年3月期に特別損失429億円を計上(バブル期のリゾート・百貨店事業不振)
    • [25]多摩田園都市の区画整理は2000年の犬蔵地区を最後に一段落

2000年に渋谷マークシティが開業し、渋谷駅周辺の再開発が始まった。2001年に石油販売事業を終了し、2002年に東亜国内航空の流れを汲む日本エアシステムが日本航空グループと経営統合して航空事業から撤退した。非中核事業を整理し、鉄道・不動産・生活サービスに経営資源を集中させる方針が固まった時期である。渋谷エリアは保有前提、その他エリアは資産回転型のビル事業を展開する不動産戦略の基本も2000年代前半に固まった。バブル期の多角化を清算しつつ、渋谷ターミナルの再開発を準備する組織・財務体制が、2000年代前半に整えられた。非中核事業の清算と渋谷への集中投資は、後の渋谷ヒカリエ以降のプロジェクトを支える財務的な前提になった。 [26][27][28]

    • [26]渋谷マークシティは2000年4月7日に開業
  • 東急 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [27]2001年3月 石油販売事業の営業終了
    • [28]2002年10月 日本エアシステム(旧・東亜国内航空)が日本航空グループと経営統合(航空事業から撤退)
  • 東急 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [24]1995年3月期に特別損失429億円を計上(バブル期のリゾート・百貨店事業不振)
    • [25]多摩田園都市の区画整理は2000年の犬蔵地区を最後に一段落
    • [27]2001年3月 石油販売事業の営業終了
    • [28]2002年10月 日本エアシステム(旧・東亜国内航空)が日本航空グループと経営統合(航空事業から撤退)
    • [26]渋谷マークシティは2000年4月7日に開業

2001年〜 渋谷再開発の本格化と持株会社体制への移行

東急の業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 2002年 航空事業への参入と撤退——東亜国内航空への出資から日本エアシステムの統合まで 鉄道会社の東急はなぜ空へ乗り出し、なぜ約30年で退いたか——多角化の理想と資本の現実
  2. 2003年 田園都市線、半蔵門線経由で東武伊勢崎線と相互直通運転開始
  3. 2004年 東横線、みなとみらい線との相互直通運転開始
  4. 2012年 鉄道の地下化で生んだ跡地への集中投資による渋谷ターミナルの再開発 東横線と田園都市線を都心へ潜らせた東急は、地上に空いた軌道跡と駅街区をどうオフィス・商業の中核資産へ作り替えたか
  5. 2013年 東横線と副都心線の相互直通運転開始
  6. 2013年 東急不動産HDを設立
  7. 2019年 商号を東急に変え、鉄軌道業を東急電鉄へ会社分割した持株会社体制への移行 髙橋和夫社長は、なぜ約100年掲げた「電鉄」を社名から外し、鉄道を本体から切り離したか

線路付け替えで生まれる再開発用地と渋谷ヒカリエ

2003年に田園都市線が半蔵門線経由で東武伊勢崎線と相互直通運転を開始し、2004年に東横線がみなとみらい線と直通運転を始めた。同時に東横線の横浜〜桜木町間の営業を終了し、みなとみらい地区への接続に切り替えた。2005年には東急百貨店を完全子会社化し、グループ内の事業再編を行った。渋谷エリアの物件は保有前提、その他エリアでは資産回転型ビル事業を展開する不動産戦略のもとで、2000年代半ばまでに保有・回転の二層構造が定着した。東横線・田園都市線の相互直通ネットワークが首都圏全体に広がり、沿線人口の移動需要を首都圏レベルで捕捉する体制が整った。相互直通運転の拡大は、渋谷を横断する首都圏鉄道ネットワークの中核として東急の位置を引き上げ、以後の渋谷ターミナル再開発の前提条件を形づくった。 [29][30][31]

  • 東急 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [29]2003年3月 田園都市線が半蔵門線経由で東武伊勢崎線と相互直通運転を開始
    • [30]2004年2月 東横線がみなとみらい線と相互直通運転を開始(横浜〜桜木町間の営業終了)
    • [31]2005年4月 東急百貨店を完全子会社化

2012年に渋谷ヒカリエが竣工した。旧東急文化会館の跡地を再開発した物件で、東横線渋谷駅の地下化と連動した渋谷再開発の第1弾である。新玉川線の意思決定について山戸松身は「新玉川線の必要性は充分に認めながらも、会社の前途を考えれば軽々には踏み切れないという苦悩が重く会社を支配した」(交通公論 1978/05)と振り返り、「田園都都市線の直通経路は旧大井町線を経由する事なく、別途最短路を経由する事が望ましい」(交通公論 1978/05)と直通経路の選定根拠も記録している。2013年3月に東横線渋谷駅を地下化し、副都心線・東武東上線・西武線との相互直通運転を始めると、地上駅の跡地が新たな再開発用地になった。 [32][33]

  • 東急 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [32]2012年3月 渋谷ヒカリエ竣工(旧東急文化会館跡地・渋谷再開発第1弾)
    • [33]2013年3月 東横線渋谷駅を地下化し副都心線・東武東上線・西武線と相互直通運転開始

2018年に渋谷ストリーム(投資額約680億円)が竣工し、旧東横線の地上軌道跡地にGoogleの日本法人等が入居した。2019年に渋谷スクランブルスクエア第I期(東棟、投資額約498億円)が開業した。山戸は新玉川線の遅れと完成形について「思えば生みの陣痛に悩む期間が長かったこそ、新玉川線は理想な形で世に生まれてきたといえよう」(交通公論 1978/05)と評しており、銀座線の延長線として建設されていた場合の輸送限度の不安にも触れている。線路付け替えで生まれた跡地をオフィスビルへ転用する手法は、駅・線路という鉄道資産を不動産開発に振り向ける点で他の私鉄にはない特徴である。渋谷ヒカリエから渋谷ストリーム、渋谷スクランブルスクエア第I期まで一連の再開発が続き、駅周辺の床面積と賃貸オフィスのストックが拡大した。 [34][35][36][37]

  • 東急 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [34]2018年9月 渋谷ストリーム竣工(投資額約680億円・旧東横線地上軌道跡地・Google日本法人等入居)
    • [35]渋谷ストリームの投資額は約680億円
    • [36]2019年11月 渋谷スクランブルスクエア第I期(東棟)開業(投資額約498億円)
    • [37]渋谷スクランブルスクエア第I期の投資額は約498億円
  • 東急 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [29]2003年3月 田園都市線が半蔵門線経由で東武伊勢崎線と相互直通運転を開始
    • [30]2004年2月 東横線がみなとみらい線と相互直通運転を開始(横浜〜桜木町間の営業終了)
    • [31]2005年4月 東急百貨店を完全子会社化
    • [32]2012年3月 渋谷ヒカリエ竣工(旧東急文化会館跡地・渋谷再開発第1弾)
    • [33]2013年3月 東横線渋谷駅を地下化し副都心線・東武東上線・西武線と相互直通運転開始
    • [34]2018年9月 渋谷ストリーム竣工(投資額約680億円・旧東横線地上軌道跡地・Google日本法人等入居)
    • [35]渋谷ストリームの投資額は約680億円
    • [36]2019年11月 渋谷スクランブルスクエア第I期(東棟)開業(投資額約498億円)
    • [37]渋谷スクランブルスクエア第I期の投資額は約498億円

持株会社化による鉄道切り離しとグループ経営の再編

2019年9月に商号を東京急行電鉄から東急に変更し、同年10月に鉄軌道業を東急電鉄に会社分割で移管した。東急本体は鉄道・不動産・生活サービス・ホテルのグループ全体を統括する持株会社へ移った。鉄道事業のリスクとリターンを本体から切り離し、不動産開発やM&Aなど資本効率を重視した意思決定を速める狙いがあった。並行してベトナム・ビンズン省で進めていた海外の田園都市型開発(ベカメックス東急)も動いており、国内の沿線開発モデルを海外に展開する試みも並行した。持株会社への移行は、1922年の目黒蒲田電鉄設立以来約100年続いた「鉄道会社を軸とする東急」の構造を、不動産・生活サービスを主役に据える方向へ組み替える組織再編になった。 [38][39][40][41]

  • 東急 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [38]2019年9月 商号を東京急行電鉄から東急に変更
    • [39]2019年10月 鉄軌道業を東急電鉄に会社分割で移管
    • [40]ベトナム・ビンズン省で田園都市型開発(ベカメックス東急)を推進
    • [41]目黒蒲田電鉄設立は1922年(持株会社化まで約100年)

2013年には東急不動産・東急コミュニティー・東急リバブルの3社が共同株式移転で東急不動産ホールディングスを設立し、グループの不動産事業を先に持株会社体制へ再編していた。東急本体の持株会社化と合わせ、鉄道・不動産・生活サービスの3領域がそれぞれの持株会社のもとで独立運営される体制が整った。この二段階の持株会社化で、東急グループは鉄道事業と不動産事業を別の意思決定ラインで運営する、首都圏私鉄では独特のガバナンス構造を取った。2013年の東急不動産ホールディングス設立から2019年の東急本体の持株会社化までの約6年が、グループの経営構造を組み替えた中心期間である。経営判断の速度を上げる組織改革と、渋谷再開発の本格化が同時に進んだのが2010年代の特徴である。 [42][43]

  • 東急 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [42]2013年10月 東急不動産・東急コミュニティー・東急リバブルの3社が共同株式移転で東急不動産ホールディングスを設立
    • [43]東急不動産ホールディングスを構成する3社は東急不動産・東急コミュニティー・東急リバブル
  • 東急 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [38]2019年9月 商号を東京急行電鉄から東急に変更
    • [39]2019年10月 鉄軌道業を東急電鉄に会社分割で移管
    • [40]ベトナム・ビンズン省で田園都市型開発(ベカメックス東急)を推進
    • [41]目黒蒲田電鉄設立は1922年(持株会社化まで約100年)
    • [42]2013年10月 東急不動産・東急コミュニティー・東急リバブルの3社が共同株式移転で東急不動産ホールディングスを設立
    • [43]東急不動産ホールディングスを構成する3社は東急不動産・東急コミュニティー・東急リバブル

東急の沿革1922〜2025年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
目黒蒲田電鉄の創業と「鉄道と沿線開発を一体で回す」経営モデルの確立鉄道単独では採算の立たない郊外電鉄を、五島慶太専務はどのように土地・住宅・鉄道の一体で成り立たせようとしたか 詳細を読む★★★
目蒲線が全通
田園都市を合併★★
東横線が全通
東京横浜電鉄を合併し商号変更
戦時交通統合による「大東急」の形成と戦後の解体戦時の国策が一社へ束ねた関東の私鉄は、なぜ6年で解かれ、今日の東急・小田急・京急・京王の地図をどう定めたか 詳細を読む★★★
京王電気軌道を合併★★
鈴木幸七東横百貨店を設立★★
鈴木幸七京王・小田急・京急が再独立★★
鈴木幸七東京証券取引所に上場
鈴木幸七五島慶太が多摩田園都市の開発構想を発表★★
鈴木幸七東急不動産を設立
五島昇多摩田園都市の最初の区画整理事業(野川地区)完成
五島昇鉄道と沿線開発を一体で回す多摩田園都市の建設鉄道単独では赤字を覚悟した東急は、55地区3,204haの区画整理と田園都市線でどう「土地・住宅・電車」の三層で稼ぐ構造を築いたか 詳細を読む★★★
五島昇五島昇社長による多角化——流通・ホテル・観光・航空への事業拡張多摩田園都市で得た開発力と資金を元手に、東急はどこまで事業を広げ「上場13社」の企業集団を築いたか 詳細を読む★★★
五島昇玉川線(渋谷〜二子玉川園)廃止★★
五島昇路面電車・玉川線に代わる地下新線「新玉川線」の建設と都心直通ネットワークの完成「会社の前途を考えれば軽々には踏み切れない」——多摩田園都市の乗客を都心へ運ぶ巨額の鉄道投資に、東急はどう踏み切ったか 詳細を読む★★★
五島昇田園都市線・新玉川線・営団半蔵門線の全列車直通運転開始
五島昇田園都市線、つきみ野〜中央林間間開通
横田二郎自動車事業を東急バスに譲渡
清水仁五島家の個人支配の終焉と、バブル期に膨らんだ非中核事業の整理五島昇会長の死後、遠心力の働く362社のグループを、横田二郎社長は集団指導体制でどう立て直そうとしたか 詳細を読む★★★
清水仁東急百貨店の本業回帰による再建 — 財テク破綻から「自分で仕入れ、自分で売れ」へ財テクに溺れた中核子会社を、現場主義の内山徹社長はどう小売業の基本へ引き戻したか 詳細を読む★★★
清水仁目蒲線を目黒線と東急多摩川線に系統分割
上條清文航空事業への参入と撤退——東亜国内航空への出資から日本エアシステムの統合まで鉄道会社の東急はなぜ空へ乗り出し、なぜ約30年で退いたか——多角化の理想と資本の現実 詳細を読む★★★
上條清文田園都市線、半蔵門線経由で東武伊勢崎線と相互直通運転開始
上條清文東横線、みなとみらい線との相互直通運転開始
野本弘文鉄道の地下化で生んだ跡地への集中投資による渋谷ターミナルの再開発東横線と田園都市線を都心へ潜らせた東急は、地上に空いた軌道跡と駅街区をどうオフィス・商業の中核資産へ作り替えたか 詳細を読む★★★
野本弘文東横線と副都心線の相互直通運転開始
野本弘文東急不動産HDを設立★★
髙橋和夫商号を東京急行電鉄から東急に変更
髙橋和夫商号を東急に変え、鉄軌道業を東急電鉄へ会社分割した持株会社体制への移行髙橋和夫社長は、なぜ約100年掲げた「電鉄」を社名から外し、鉄道を本体から切り離したか 詳細を読む★★★
髙橋和夫コロナ禍で純損失559億円を計上★★
堀江正博東急新横浜線(日吉〜新横浜)開通
堀江正博渋谷3大再開発プロジェクトの投資額を6,000億円に上方修正
出典・参考

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