田園都市会社は1922年9月、鉄道部門を分離して資本金350万円の目黒蒲田電鉄を設立した。田園都市会社は1918年に渋沢栄一氏らが設けた土地会社で、荏原郡の洗足・大岡山・多摩川台の3地区を分譲する計画を立てていた。鉄道の免許は得たものの、経営陣に鉄道の専門家がおらず、建設は進まなかった。第一生命の矢野恒太氏が人選を相談すると、小林一三氏は武蔵電気鉄道常務の五島慶太氏を推し、五島慶太氏が専務に就任した。小林一三氏は、先に鉄道を建設して45万坪を売却すれば資金ができ、その資金で武蔵電気鉄道を建設すればよいと五島慶太氏に説いた。宅地の売却益で電鉄を成り立たせる箕面有馬電気軌道の型を、東京の郊外へ移す人選だったとみられる。
目黒蒲田電鉄は1923年3月に目黒〜丸子間を開業し、同年11月に丸子〜蒲田間も開業して目蒲線を全通させた。開業に先立つ1922年6月、田園都市会社は洗足地区の18万1,500平方メートルを売り出し、約80%がすぐに予約された。1923年8月には第2回として多摩川台地区の10万5,600平方メートルを売り出し、翌9月に関東大震災が起きた。震災で目黒蒲田電鉄は8日間休業したものの、政府補助金6万4,124円を加えて同期から5%の配当を始めた。震災後、焼け出された都心の住民が目蒲線沿線へ次々に移り住み、目黒蒲田電鉄の業績は急速に上向いた。多摩川台地区の最寄り駅だった調布は、1926年1月に駅名を田園調布へ改めた。
目黒蒲田電鉄は1924年、震災で損害を受けた蔵前の東京高等工業学校(現東京工業大学)を大岡山へ移転させた。田園都市会社が大岡山地区に持つ30万平方メートルと、蔵前の校地4万平方メートルを、日本勧業銀行が算定した価格で交換した。同じ時期に小山駅前へ府立第八中学校(現都立小山台高校)も開校した。1924年上期には、前期と比べて乗客数が2倍余り、旅客収入が約8割、総収入が2倍1分増えた。1925年に入っても、東京高等工業の移転と沿線住宅の増加を背景に、目黒蒲田電鉄の営業成績は急に上向いていた。通学の定期客は住宅の売れ行きに左右されにくく、郊外線の乗客を底上げする需要になったと推察される。
目黒蒲田電鉄は1924年10月に武蔵電気鉄道を傘下に収め、武蔵電気鉄道は社名を東京横浜電鉄に改めた。武蔵電気鉄道は1910年の設立後に横浜方面への免許を得たものの、建設資金を調達できず、多くの免許を失効させていた。五島慶太氏は1920年から同社の常務を兼ねており、目蒲線の業績で得た資金で同社株の過半数を取得した。両社の役員は同じ顔ぶれとなり、本社を目黒駅前に置いて業務組織も共通にした。東京横浜電鉄は1926年2月に丸子多摩川〜神奈川間を、1927年8月に渋谷〜丸子多摩川間を開業した。目蒲で先に資金をつくり武蔵電気鉄道に充当するという小林一三氏の助言は、創立から2年で実行に移されたと考えられる。
目黒蒲田電鉄は1928年5月5日、母体の田園都市会社を合併した。1927年7月の大井町〜大岡山間の開業で、交通機関を整えるという田園都市会社の目的は目黒蒲田電鉄の手で果たされていた。分譲も買収総面積160万平方メートルの約67%を売り終え、田園都市会社は1926年10月に資本金を500万円から300万円へ減らした。合併で目黒蒲田電鉄は225万円を増資して田園都市会社株2株に3株を交付し、解散費用47万円も支払った。目黒蒲田電鉄は残地53万1,500平方メートルを引き継ぎ、定款に住宅地経営と土地建物の売買・賃貸を加えた。宅地を売却して得る資金で鉄道を建設するという、小林一三氏が創立時に五島慶太氏へ説いた構想は、合併で1社の中に収まった。
全通前の1930年1月、ダイヤモンド誌は『当社の問題は、建設費の高いことである』と書き、収入も京浜・王子の2社の半分にとどまると指摘した。目黒蒲田電鉄と東京横浜電鉄は1929年7月、慶応義塾大学予科を日吉へ迎える契約で23万7,600平方メートルを無償で寄付した。寄付地は当時の地価で72万円にあたり、同期の鉄道運賃収入51万円を上回った。移転が決まった後の1930年上期、日吉台地区の土地売上は前期の1万7,900円から37万9,680円へ増えた。東京横浜電鉄は1932年3月31日に高島町〜桜木町間を開業し、東横線を全通させた。全通で山手方面から桜木町へ直通できるようになり、1932年11月までに乗客と収入が増えた。
東京横浜電鉄は1934年11月1日、渋谷駅に直結する東横百貨店を開業し、関東の私鉄で初めて直営の百貨店を駅に置いた。1933年5月の渋谷駅周辺の乗降客は15万8,000人と新宿の半分で、新宿の3百貨店に対し渋谷には百貨店がなかった。専務の五島慶太氏は、住宅地が沿線の奥へ広がるほど買物の場が遠くなるとして、東京西南部の入口にあたる渋谷に百貨店を置く方針を示した。東京横浜電鉄は乗降客で玉川電気鉄道を下回り、1927年から政府補助金を受けており、鉄道以外の事業で収益を補う必要に迫られていた。開業までに五島慶太氏は2年余りの調査を重ね、百貨店の経験を持たない社員で店を立ち上げた。建設には社内の慎重論もあったものの、地下1階・地上7階の店舗を建て、工事費は諸設備込みで231万3,000円だった。
目黒蒲田電鉄は1934年10月1日に池上電気鉄道を、東京横浜電鉄は1938年4月1日に玉川電気鉄道を合併した。池上電気鉄道は蒲田を目蒲線と同じ終点とし、建設と経営に積極さを欠いて業績が振るわなかった。専務の五島慶太氏は大株主の川崎肇氏を説得し、総株数14万株のうち8万5,000株を取得して1933年7月に傘下へ収めた。玉川電気鉄道は渋谷で東横線と事業が重なり、五島慶太氏は競合が二重投資となって渋谷の発展を妨げると考えた。1936年10月に大株主の金融機関が5万6,000株を譲渡し、東京横浜電鉄は総株数25万株の60%にあたる14万6,000株を握った。五島慶太氏はのちに、株の買い占めという強硬手段も経費を下げるために採ったと回想した。
目黒蒲田電鉄は1939年10月1日に東京横浜電鉄を合併し、同月16日に商号を東京横浜電鉄へ改めた。両社の業績がほぼ並んだのを機に、統制の強化と経営の合理化を図った合併で、1938年8月施行の陸上交通事業調整法にもかなっていた。資本金は7,250万円となり、1922年の創立時の350万円から増えた。地下鉄では社長の五島慶太氏が常務を務める東京高速鉄道が、1939年1月に渋谷〜新橋間を全通させた。新橋での接続を拒む東京地下鉄道の早川徳次氏に対し、五島慶太氏は1939年夏に同社株45万株を取得して経営権を握った。同年9月には渋谷〜浅草間の直通運転が始まり、東京横浜電鉄の起点である渋谷は都心の地下鉄とつながった。
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| 1922〜1941年目黒蒲田電鉄の設立と田園都市の合併、東横線全通 | 竹田政智 | 創業を機とした「鉄道と沿線開発を一体で回す」経営モデルの確立 1922年9月、渋沢栄一氏らの田園都市株式会社から鉄道部門を分離して目黒蒲田電鉄が発足し、五島慶太専務のもとで関東初の本格的な郊外電鉄が動き出した経営判断である。 詳細を読む | ★★★ | |
| 竹田政智 | 目蒲線が全通 | ★ | ||
| 田園都市を合併 | ★★ | |||
| 東横線が全通 | ★ | |||
| 東京横浜電鉄を合併し商号変更 | ★ | |||
| 1942〜1965年大東急の成立と京王・小田急・京急の再独立、多摩田園都市構想 | 戦時交通統合による戦後の解体 1942年5月、東京横浜電鉄が京浜電気鉄道・小田急電鉄を合併して東京急行電鉄へ商号変更し(資本金2億480万円)、1944年に京王電気軌道も加えて関東の主要私鉄を水平統合する"大東急"を形成した経営判断。統合は陸上交通事業調整法に基づく戦時の国策であり、敗戦後の1948年6月には占領期の再編で3社が再独立し、大東急は解体された。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 京王電気軌道を合併 | ★★ | |||
| 鈴木幸七 | 東横百貨店を設立 | ★★ | ||
| 鈴木幸七 | 京王・小田急・京急が再独立 | ★★ | ||
| 鈴木幸七 | 東京証券取引所に上場 | ★ | ||
| 鈴木幸七 | 五島慶太が多摩田園都市の開発構想を発表 | ★★ | ||
| 鈴木幸七 | 東急不動産を設立 | ★ | ||
| 五島昇 | 多摩田園都市の最初の区画整理事業(野川地区)完成 | ★ | ||
| 1966〜1994年田園都市線の開通と五島昇氏の多角化、新玉川線と半蔵門線直通 | 五島昇 | 鉄道の敷設と沿線の開発を一体で回す事業モデルの確立 1953年に五島慶太氏が構想した多摩丘陵の面的開発を、後継の五島昇氏が事業として完遂した判断。鉄道単独では赤字を覚悟し、区画整理で生み出した宅地と住宅の販売益で投資を回収する"開発利益還元型"の構造を築き、1966年の田園都市線開通を軸に、1984年の全通までに鉄道と沿線開発を一体で回すデベロッパーへ東急を作り替えた。 詳細を読む | ★★★ | |
| 五島昇 | 五島昇社長による、流通・観光・航空にまで及ぶ事業領域の拡張 多摩田園都市の開発で得た資金と組織の余力を元手に、二代目の五島昇社長が鉄道・不動産の枠を超えて流通・ホテル・観光・航空へ事業を多角化し、上場13社を含む企業集団を築いた判断。高度成長の追い風のもと1968年から1970年代にかけて多角化が進み、1980年代には五島昇社長が3C(CATV・カルチャー・消費者クレジット)を重点新規事業に掲げた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 五島昇 | 玉川線(渋谷〜二子玉川園)廃止 | ★★ | ||
| 五島昇 | 路面電車に代わる地下新線への切り替えと、都心直通ネットワークの完成 1966年に開通した田園都市線で多摩丘陵の乗客が増えるなか、渋谷側を走る路面電車の玉川線では輸送力が足りず、五島昇社長は玉川線を廃して地下新線の新玉川線を建設した判断。会社の前途を左右する巨額投資への社内の苦悩を越え、1977年に渋谷〜二子玉川園間を開通させ、1979年の営団半蔵門線との全列車直通運転で都心直通ネットワークを完成させた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 五島昇 | 田園都市線・新玉川線・営団半蔵門線の全列車直通運転開始 | ★ | ||
| 五島昇 | 田園都市線、つきみ野〜中央林間間開通 | ★ | ||
| 横田二郎 | 自動車事業を東急バスに譲渡 | ★ | ||
| 1995〜2026年バブル崩壊の特損と東急百貨店再建、渋谷ヒカリエと鉄道分社、渋谷再開発 | 横田二郎 | 五島家の個人支配の終焉と、バブル期に膨らんだ 1980年代に文化事業やリゾート、消費者クレジットへ広げた非中核事業がバブル崩壊で不振に陥り、東急が1995年3月期に特別損失429億円を計上して整理へ転じた判断。1989年の五島昇会長の死で創業家の求心力が薄れるなか、横田二郎社長を核とする集団指導体制のもとで、鉄道・不動産・生活サービスへ経営資源を絞り込んだ。 詳細を読む | ★★★ | |
| 清水仁 | 財テクの行き詰まりを受けた、仕入れと販売を自ら担う本業への回帰 バブル期に財テク依存で破綻した中核子会社・東急百貨店を、1995年に社長へ就任した内山徹氏が本業回帰で立て直した判断。三浦守会長が『東急グループ外からスカウトする気持ち』で子会社ながの東急の現場経営者を抜擢し、『自分で仕入れ、自分で売れ』を掲げて自主販売と単品管理を全店へ広げた。東急グループ全体のバブル後再建を構成する個別事業の判断であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 清水仁 | 目蒲線を目黒線と東急多摩川線に系統分割 | ★ | ||
| 上條清文 | 東亜国内航空への出資に始まる航空事業への参入と、その撤退 2002年10月、旧・東亜国内航空を継ぐ日本エアシステムが日本航空グループと経営統合し、東急は約30年におよんだ航空事業への関与を実質的に終えた。統合前に30.66%あった東急の日本エアシステム持株比率は、共同持株会社の設立時に約4%へ下がり、東急グループから分離した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 上條清文 | 田園都市線、半蔵門線経由で東武伊勢崎線と相互直通運転開始 | ★ | ||
| 上條清文 | 東横線、みなとみらい線との相互直通運転開始 | ★ | ||
| 野本弘文 | 鉄道の地下化で生み出した跡地への集中投資と、拠点駅の作り替え 2012年の渋谷ヒカリエから2018年の渋谷ストリーム、2019年の渋谷スクランブルスクエア第I期まで、東急が渋谷駅周辺で続けた面的な再開発の判断。東横線渋谷駅の地下化で地上に空いた軌道跡と、駅街区の一体再開発の機会をとらえ、渋谷を保有前提の中核資産と定めてオフィス・商業へ集中投資した。野本弘文社長・髙橋和夫社長の代にまたがる。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 野本弘文 | 東横線と副都心線の相互直通運転開始 | ★ | ||
| 野本弘文 | 東急不動産HDを設立 | ★★ | ||
| 髙橋和夫 | 商号を東京急行電鉄から東急に変更 | ★ | ||
| 髙橋和夫 | 商号の変更と、鉄軌道業を切り出した持株会社体制への移行 2019年、東急が商号を東京急行電鉄から東急株式会社へ改め、鉄軌道業を会社分割で東急電鉄株式会社へ移した経営判断。髙橋和夫社長のもと、本体を鉄道・不動産・生活サービスを統括する事業持株会社へ改め、資本負担の重い鉄道を本体から切り離した。2013年の東急不動産ホールディングス設立と対をなす、二段階の持株会社化の総仕上げにあたる。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 髙橋和夫 | コロナ禍で純損失559億円を計上 | ★★ | ||
| 髙橋和夫 | 東急新横浜線(日吉〜新横浜)開通 | ★ | ||
| 堀江正博 | 渋谷3大再開発プロジェクトの投資額を6,000億円に上方修正 | ★ |
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事実根拠:出所(東急)