1909年〜 国鉄並走線という宿命と都心ターミナルの確保
- 1909年 京成電気軌道を設立
- 1912年 押上〜市川間、曲金〜柴又間で電車開通
- 1921年 船橋〜千葉間開通
- 1926年 津田沼〜成田花咲町間開通
- 1930年 成田花咲町〜成田間開通
- 1931年 青砥〜日暮里間開通
- 1933年 日暮里〜上野公園間開通
総武線並走の宿命と押上から上野までの路線整備
1909年6月、創業者の本多貞次郎氏らが京成電気軌道を資本金およそ150万円で設立した。成田山新勝寺への参詣客輸送を主目的とする鉄道で、東京の下町から成田まで電気鉄道で結ぶ構想だった。1912年11月に押上から市川までの区間で開業し、東への延伸を続けた。1921年に船橋から千葉まで、1926年に津田沼から成田花咲町まで、1930年4月に成田までの全通を迎えた。設立から21年を要した全通の長さは、資金調達の困難さと沿線人口の薄さを反映している。1930年時点の業界誌は、京成にとっての最大の課題は国鉄総武線との並行関係だと分析していた。総武線が両国経由で都心へ直結すれば押上ターミナルの利便性が劣るため、京成側はどんな犠牲を払ってでも都心乗り入れを実現する必要があると指摘されていた(ダイヤモンド 1930/01/01)。 [1][2][3][4][5][6]
- 京成電鉄 有価証券報告書【沿革】
- [1]1909年6月 京成電気軌道を資本金150万円で設立
- [3]社名「京成」は東京と成田に由来し、成田山新勝寺への参詣客輸送を主目的とした
- [4]1912年11月 押上〜市川間で開業(最初の開業区間)
- [5]延伸の年次:1921年船橋〜千葉、1926年津田沼〜成田花咲町、1930年4月 成田まで全通
- [2]創業時の中心人物は本多貞次郎(1909年専務取締役、1921年初代取締役社長)
- ダイヤモンド(ダイヤモンド社, 1930年1月1日)
- [6]1930年の業界誌は京成の最大の課題を国鉄総武線との並行関係とし、都心乗り入れの必要を指摘
都心側の路線整備も並行して進んだ。1931年に青砥から日暮里までの区間が開通し、1933年12月には日暮里から上野公園までが開業して京成上野駅が誕生した。上野ターミナルの確保は、成田方面への集客力を高めるとともに、日暮里を起点とする空港アクセス鉄道の基盤を後の時代に提供する意味を持った。1932年にバス事業の直営を開始し、1933年には不動産業の営業も始めた。成田山参詣客輸送と沿線住宅開発が、創業期の京成電鉄を支える二本柱となった。さらに千葉県東葛飾郡の24町村を独占供給区域とする電灯電力業の兼営も収益の柱で、東京電灯との千葉県内協定の下で安定した収益を生んでいた(ダイヤモンド 1930/01/01)。上野ターミナルの確保によって、京成は首都圏の主要な私鉄の一角に名を連ねた。 [7][8][9][10]
- 京成電鉄 有価証券報告書【沿革】
- [7]1931年 青砥〜日暮里間開通
- [8]1933年12月 日暮里〜上野公園間開業、京成上野駅が誕生
- [9]1932年バス事業直営開始、1933年不動産業の営業開始
- ダイヤモンド(ダイヤモンド社, 1930年1月1日)
- [10]千葉県東葛飾郡24町村を独占供給区域とする電灯電力業を兼営(東京電灯との千葉県内協定下)
- 京成電鉄 有価証券報告書【沿革】
- [1]1909年6月 京成電気軌道を資本金150万円で設立
- [3]社名「京成」は東京と成田に由来し、成田山新勝寺への参詣客輸送を主目的とした
- [4]1912年11月 押上〜市川間で開業(最初の開業区間)
- [5]延伸の年次:1921年船橋〜千葉、1926年津田沼〜成田花咲町、1930年4月 成田まで全通
- [7]1931年 青砥〜日暮里間開通
- [8]1933年12月 日暮里〜上野公園間開業、京成上野駅が誕生
- [2]創業時の中心人物は本多貞次郎(1909年専務取締役、1921年初代取締役社長)
- [9]1932年バス事業直営開始、1933年不動産業の営業開始
- ダイヤモンド(ダイヤモンド社, 1930年1月1日)
- [6]1930年の業界誌は京成の最大の課題を国鉄総武線との並行関係とし、都心乗り入れの必要を指摘
- [10]千葉県東葛飾郡24町村を独占供給区域とする電灯電力業を兼営(東京電灯との千葉県内協定下)
商号変更と上場、そして総武線並走という構造的不利
1945年6月に商号を京成電気軌道から京成電鉄に変更し、1949年5月には東京証券取引所に上場した。戦後復興期から高度経済成長期にかけて、京成沿線の人口は増加し、沿線住民の通勤輸送が収益の主軸へと移った。成田山参詣という観光輸送の側面は後景に退き、通勤・通学輸送を支える大都市近郊電鉄としての顔が前面に出た。1956年に首都圏整備構想が策定され、都内区部の人口流入抑制と周辺地帯への衛星都市育成が方針として打ち出された。都心区部の年間人口増20万人前後という流入圧力を周辺へ分散させる構想は、京成沿線にあたる千葉県側にとって追い風となる位置づけだった(読売新聞 1956/08/16)。千葉県側の宅地需要は今後の確実な拡大が見込まれ、京成沿線も恩恵を受ける位置にあった。 [11][12][13]
- 京成電鉄 有価証券報告書【沿革】
- [11]1945年6月 商号を京成電気軌道から京成電鉄に変更
- [12]1949年5月 東京証券取引所に上場
- 読売新聞(1956年8月16日)
- [13]1956年 首都圏整備構想の策定(都内区部の人口流入抑制・衛星都市育成)
ただし首都圏私鉄のなかでの京成の立ち位置は厳しいものだった。同社の川崎千春社長は1959年のインタビューで自社の鉄道事業を「正直なところ鉄道事業は非常に悪い立地条件におかれています。というのは、国鉄線との平行線が多い。そして都心に入るには遠回りをしなければならない。したがって運賃もかかる。その点非常に不利です」と率直に評し、東急のように国鉄並行線を持たない私鉄を優位な比較対象に挙げていた(経済展望 1959/06/01)。同時期、川崎社長は通勤客の運賃割引による収益圧迫にも触れ、「定期運賃の乗客が平均7割引、学生は最高9割引で原価を割っている安い運賃です」と述べ、社会政策上やむを得ないとしつつ私鉄経営を圧迫する要因と位置づけた(経済展望 1959/06/01)。国鉄並走線という構造的な不利のなかで、京成は次の打ち手として都心地下鉄への直通乗り入れを準備していた。 [14][15]
- [14]川崎千春社長が1959年のインタビューで鉄道事業の立地条件の不利(国鉄並行線・都心への遠回り)を述べた
- [15]川崎社長は定期運賃の割引(通勤7割引・学生最高9割引)が原価を割り経営を圧迫すると述べた
- 京成電鉄 有価証券報告書【沿革】
- [11]1945年6月 商号を京成電気軌道から京成電鉄に変更
- [12]1949年5月 東京証券取引所に上場
- 読売新聞(1956年8月16日)
- [13]1956年 首都圏整備構想の策定(都内区部の人口流入抑制・衛星都市育成)
- [14]川崎千春社長が1959年のインタビューで鉄道事業の立地条件の不利(国鉄並行線・都心への遠回り)を述べた
- [15]川崎社長は定期運賃の割引(通勤7割引・学生最高9割引)が原価を割り経営を圧迫すると述べた