小田急電鉄 の歴史

更新:

創業

1923年

創業者

利光鶴松

創業地

東京都

直近売上高(2026/3)

4,187億円

長期業績と転換点(1997/3〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1927年に小田急は無人の原野へ82.5kmの電気鉄道を一挙に通したのか
A 原野に長い高速電気鉄道を一挙に通せたのは、利光鶴松が1910年設立の鬼怒川水力電気を親会社に持ち、余剰電力を消費する大口需要として鉄道を構想したためである。利光は起業目論見書で東海道本線の混雑緩和と所要時間短縮を訴え、箱根・湘南の行楽と東京近郊輸送の両取りを狙った。1927年4月に新宿から小田原まで82.5kmを当時の日本最長の電気鉄道として全線一挙開業したが、沿線の多くは無人の原野で、需要は構想に追いつかなかった
Q なぜ1950年代後半に観光線から通勤線へ転じ、新宿ターミナルの商業開発に乗り出したのか
A 通勤線への転換が利益に直結しなかったのは、定期運賃が社会政策の観点から私企業の採算を無視した低料金に抑えられ、通勤客を運ぶほど原価割れの定期輸送を抱える構造だったからである。1948年6月に大東急の解体で再独立した小田急は、1950年代後半に観光線から通勤線へ性格を変えたが、鉄道だけでは採算が立たなかった。そこで1961年設立の小田急百貨店と1964年設立の小田急不動産で、新宿ターミナルと沿線の開発から定期外収益を取り、原価割れ定期を補う複合経営を組み上げた
Q なぜ複々線化を完成させたのち、線路ではなく箱根の観光地再生へ大型投資を向けたのか
A 次の大型投資が線路ではなく観光地と街区へ向かったのは、複々線化で鉄道側のボトルネック投資が一段落する一方、2021年3月期の経常赤字▲312億円・純損失▲398億円という創業以来初の赤字が、鉄道に偏った収益構造の弱さを露わにしたためである。新型コロナで鉄道とホテルの収入が激減した経験を経て、小田急は1949年から押さえる箱根観光の資産とインバウンド需要に成長を求めた。2024年4月に小田急箱根グループを再編して観光事業を一本化し、2025年度から箱根エリアの再生に総額150億円規模の投資を始めた

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

1923年〜 観光私鉄として開業し戦時統合で消えた小田急の名

  1. 1923年 小田原急行鉄道を設立
  2. 1927年 小田原線(新宿〜小田原間)開通
  3. 1940年 帝都電鉄を合併
  4. 1941年 鬼怒川水力電気と合併し小田急電鉄に商号変更
  5. 1942年 東京横浜電鉄・京浜電気鉄道と合併し東京急行電鉄に商号変更
  6. 1948年 東京急行電鉄から分離し小田急電鉄を再設立
  7. 1949年 箱根登山鉄道・神奈川中央乗合自動車の株式取得と西武との「箱根山戦争」 独占か共存か——箱根の観光需要をめぐる西武との攻防は、1968年の決着から半世紀を経てどう形を変えたか

無人の原野に82.5kmを通した観光私鉄

1923年5月に利光鶴松らが小田原急行鉄道を資本金1350万円で設立した直後、関東大震災が建設計画を直撃した。それでも1927年4月に新宿から小田原までの82.5kmを全線一挙に開業し、当時の日本最長の電気鉄道となった。発起人の利光鶴松は起業目論見書で「最近、小田原・箱根〜東京の輸送はますます頻繁となり、国鉄がいかに輸送力を増強したとしても、この混雑を緩和するのは難しい」(起業目論見書 1923/02)と述べ、東海道本線の混雑緩和と所要時間短縮を訴えた。1929年4月には相模大野から片瀬江ノ島までの江ノ島線を開通させ、湘南海岸への行楽輸送に乗り出した。発起時の構想は箱根・湘南観光と東京近郊輸送の両取りにあった。 [1][2][3][4][5]

  • 小田急電鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1923年5月 利光鶴松らが小田原急行鉄道を資本金1,350万円で設立
    • [2]設立時資本金は1,350万円
    • [3]1927年4月 小田原線(新宿〜小田原)82.5kmを全線一挙開業・当時の日本最長の電気鉄道
    • [5]1929年4月 江ノ島線(相模大野〜片瀬江ノ島)開通
  • 起業目論見書(1923年2月)
    • [4]利光鶴松の起業目論見書(1923/02)の引用

しかし沿線の多くは未開発の原野で、観光私鉄としての離陸は容易ではなかった。1926年6月のダイヤモンド誌は新宿から登戸までを除けば「大部分は無人の原野である」(ダイヤモンド 1926/06)と書き、阪急電鉄が1割2分の配当に達するまで20年を要した経過と引き比べた。実際1929年4月の読売新聞は「江ノ島線の開業によって資本金が増加したにも関わらず、収入は増加せず、いよいよ経営難に陥った」(読売新聞 1929/04/12)と報じ、5分の配当も土地評価益でかろうじて捻出していた状況を伝えた。鉄道省への補助金追加申請と、世論の反発で頓挫した2割の運賃値上げ計画は、創業期の小田急が観光私鉄として描いた構想を、需要不足が押し戻した姿である。 [6][7]

  • 小田急電鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1923年5月 利光鶴松らが小田原急行鉄道を資本金1,350万円で設立
    • [2]設立時資本金は1,350万円
    • [3]1927年4月 小田原線(新宿〜小田原)82.5kmを全線一挙開業・当時の日本最長の電気鉄道
    • [5]1929年4月 江ノ島線(相模大野〜片瀬江ノ島)開通
  • 起業目論見書(1923年2月)
    • [4]利光鶴松の起業目論見書(1923/02)の引用
    • [6]1926年6月ダイヤモンド誌『大部分は無人の原野である』の引用
  • 読売新聞(1929年4月12日)
    • [7]1929年4月12日読売新聞『江ノ島線の開業…いよいよ経営難に陥った』の引用

戦時統合と6年間にわたる小田急の名の空白

1939年5月のダイヤモンド誌は「運賃収入は、約180万円となり、前年同期と比べ33.3%の増収を記録した」(ダイヤモンド 1939/05)と報じ、座間付近への軍関係施設の進出を主因に挙げた。皮肉にも、創業期の経営難を脱したきっかけは沿線の軍需化だった。1940年5月に井の頭線を運営する帝都電鉄を合併し、1941年3月には鬼怒川水力電気との合併で社名を小田急電鉄に変更した。だが1942年5月、陸上交通事業調整法に基づき東京横浜電鉄・京浜電気鉄道との3社合併で東京急行電鉄に吸収された。京王・京急とともに東急の傘下に置かれた大東急体制の発足である。観光客を呼ぶための私鉄が、戦時の輸送統合のなかで首都圏西部の通勤輸送を担う巨大組織へと組み替えられ、独自経営の余地は奪われた。 [8][9][10][11]

    • [8]1939年5月ダイヤモンド誌『運賃収入は約180万円…前年同期比33.3%増収』の引用
  • 小田急電鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [9]1940年5月 帝都電鉄(井の頭線)を合併
    • [10]1941年3月 鬼怒川水力電気と合併し社名を小田急電鉄に変更
    • [11]1942年5月 陸上交通事業調整法に基づき東京横浜電鉄・京浜電気鉄道との3社合併で東京急行電鉄(大東急)に統合

1944年5月には京王電気軌道も加わり、首都圏西部の私鉄網は1社に集約された。創業から19年で小田急の名は地図から消え、復活までさらに6年を要した。終戦後、空襲で甚大な被害を受けた旧小田急の路線復旧を一企業で賄う体力は東急にはなく、旧小田急従業員のあいだから分離独立を求める声が高まった。1948年6月1日に資本金1億円で再設立された小田急電鉄は、戦前の小田原急行鉄道とは法人格の異なる新会社として発足している。京王帝都電鉄・京浜急行電鉄も同時に独立し、大東急は解体された。再独立直後の1949年2月には神奈川中央乗合自動車と箱根登山鉄道の株式を取得し、沿線バス網と箱根観光の中核を一挙に押さえた。同年5月の東京証券取引所上場と、銀座タクシー・箱根観光船・武蔵野乗合自動車・江ノ島鎌倉観光と続く出資が、戦後の小田急グループの骨格を形作った。 [12][13][14][15][16]

  • 小田急電鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [12]1944年5月 京王電気軌道も大東急に合併・首都圏西部私鉄が1社に集約
    • [14]1948年6月 京王帝都電鉄・京浜急行電鉄も同時に独立し大東急が解体
    • [15]1949年2月 神奈川中央乗合自動車・箱根登山鉄道の株式取得
    • [16]1949年5月 東京証券取引所に上場
    • [13]1948年6月1日 資本金1億円で小田急電鉄を再設立・戦前の小田原急行鉄道とは別法人として発足
    • [8]1939年5月ダイヤモンド誌『運賃収入は約180万円…前年同期比33.3%増収』の引用
  • 小田急電鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [9]1940年5月 帝都電鉄(井の頭線)を合併
    • [10]1941年3月 鬼怒川水力電気と合併し社名を小田急電鉄に変更
    • [11]1942年5月 陸上交通事業調整法に基づき東京横浜電鉄・京浜電気鉄道との3社合併で東京急行電鉄(大東急)に統合
    • [12]1944年5月 京王電気軌道も大東急に合併・首都圏西部私鉄が1社に集約
    • [14]1948年6月 京王帝都電鉄・京浜急行電鉄も同時に独立し大東急が解体
    • [15]1949年2月 神奈川中央乗合自動車・箱根登山鉄道の株式取得
    • [16]1949年5月 東京証券取引所に上場
    • [13]1948年6月1日 資本金1億円で小田急電鉄を再設立・戦前の小田原急行鉄道とは別法人として発足

1950年〜 通勤線への転身を支えた新宿ターミナル商業

小田急電鉄の業績推移

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1950年 箱根登山線への乗入れを開始
  2. 1955年 国鉄御殿場線への乗入れを開始
  3. 1961年 小田急百貨店を設立
  4. 1962年 小田急百貨店新宿店が営業開始
  5. 1964年 小田急不動産を設立
  6. 1966年 向ヶ丘遊園モノレール線開通
  7. 1994年 小田急百貨店の「負の遺産」整理と専門大店化による本業回帰 バブル期に広げた事業の後始末を、利光國夫社長はどう引き受けたか

通勤線への転身と原価割れ定期の構造矛盾

小田急が観光線から通勤線へ性格を変えたのは1950年代後半である。1958年6月のダイヤモンド誌は「これまで当社は観光線という特色で好調を続けてきた。だが、今後は通勤線としての比重が次第に大きくなることが予想される」(ダイヤモンド 1958/06)と分析した。同記事は、定期収入が「社会政策の観点から、私企業の採算を無視した低料金に抑えられている」(ダイヤモンド 1958/06)と書き、行楽客から得る定期外収入で原価割れ定期を補う収益構造を素描している。1958年9月の読売新聞「東京の素顔」は成城学園付近を高級住宅地として描き、戦後の沿線宅地化が進んでいた様子を伝えた。 [17][18][19]

    • [17]1958年6月ダイヤモンド誌『これまで当社は観光線…通勤線としての比重が次第に大きくなる』の引用
    • [18]同記事『社会政策の観点から、私企業の採算を無視した低料金に抑えられている』の引用
  • 読売新聞(1958年9月)
    • [19]1958年9月読売新聞『東京の素顔』が成城学園付近を高級住宅地と描写

この通勤線化の流れに対応して、小田急は新宿ターミナルの商業集積に乗り出した。1961年6月に小田急百貨店を設立し、1962年11月に新宿店が営業を開始した。1964年12月には小田急不動産を設立して沿線の宅地分譲に本格参入、1966年11月に新宿駅西口駐車場・地下名店街、1967年11月に新宿西口駅ビルが相次いで完成した。社長の安藤楢六は1964年の対談で「小田急が開業したのは1927年ですが、神奈川県の裏街道を通っている関係から、長いこと苦しい経営を続けてきたのです。それが戦時中に、沿線に軍関係の施設ができたことがきっかけになって、住宅が増えるようになり、従来開けていなかった沿線が急速に開発されてきたのです」(広告 1964/07)と振り返り、通勤輸送を主軸に据える方向をした。 [20][21][22][23][24]

  • 小田急電鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1961年6月 小田急百貨店を設立
    • [21]1962年11月 小田急百貨店新宿店が営業開始
    • [22]1964年12月 小田急不動産を設立
    • [23]1967年11月 新宿西口駅ビル完成
  • 広告(1964年7月)
    • [24]安藤楢六(社長)の1964年7月対談での回顧の引用
    • [17]1958年6月ダイヤモンド誌『これまで当社は観光線…通勤線としての比重が次第に大きくなる』の引用
    • [18]同記事『社会政策の観点から、私企業の採算を無視した低料金に抑えられている』の引用
  • 読売新聞(1958年9月)
    • [19]1958年9月読売新聞『東京の素顔』が成城学園付近を高級住宅地と描写
  • 小田急電鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1961年6月 小田急百貨店を設立
    • [21]1962年11月 小田急百貨店新宿店が営業開始
    • [22]1964年12月 小田急不動産を設立
    • [23]1967年11月 新宿西口駅ビル完成
  • 広告(1964年7月)
    • [24]安藤楢六(社長)の1964年7月対談での回顧の引用

多摩ニュータウン乗り入れと膨張する設備投資

1964年12月には代々木上原から喜多見までの立体交差・複々線化が都市計画決定された。背景には朝ラッシュ時に250%を超える混雑率があり、ハード増強なしには通勤線への転身が成立しない事情があった。同年10月の読売新聞は東京都の多摩30万人住宅計画を報じ、京王・小田急・西武の乗り入れを前提に進められた経緯を伝えている(読売新聞 1964/10)。安藤楢六は1965年8月の取材に「東京都がさきに多摩30万年の建設計画を発表したので、わが社でもこれに対応して喜多見から分岐し、稲城本町まで新線9.4kmの建設を計画したが、これを含めると約230億円にものぼる膨大な資金を必要とする」(実業の世界 1965/08)と述べ、社内留保金だけで賄えず借入金や社債に依存する構造への懸念を示した。 [25][26][27]

  • 小田急電鉄 公式サイト
    • [25]1964年12月 代々木上原〜喜多見の立体交差・複々線化が都市計画決定
  • 読売新聞(1964年10月)
    • [26]1964年10月読売新聞が東京都の多摩30万人住宅計画と京王・小田急・西武の乗り入れ前提を報道
  • 実業の世界(1965年8月)
    • [27]安藤楢六の1965年8月取材発言(喜多見分岐・稲城本町まで新線9.4km・約230億円)の引用

その懸念は1971年4月の読売新聞社説「大団地の建設と交通の先行投資」に裏書きされる。京王・小田急のニュータウン乗り入れが「いまだに着工をみていない」(読売新聞 1971/04)と批判され、私鉄側が低額用地・長期低利融資・特別料金制を求めて条件闘争を続けていた構図が示された。1974年6月に多摩線が新百合ヶ丘から小田急永山までで開通し、翌年4月に小田急多摩センター、1990年3月に唐木田まで延伸された。1981年4月の読売新聞朝刊は多摩ニュータウン10年を特集し、1.8万戸が並ぶ「東京一のベッドタウン」(読売新聞 1981/04)と評価した。1976年9月の町田駅ビル、1984年10月の新宿南口駅ビル、1989年8月の小田急西富士ゴルフ倶楽部、1992年11月の新百合ヶ丘ショッピングセンタービル、1996年10月の相模大野駅ビルと、沿線拠点の商業集積が連なった時期である。 [28][29][30][31]

  • 読売新聞(1971年4月)
    • [28]1971年4月読売新聞社説『大団地の建設と交通の先行投資』が乗り入れ未着工を批判『いまだに着工をみていない』
  • 小田急電鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [29]1974年6月 多摩線(新百合ヶ丘〜小田急永山)開通
    • [30]1990年3月 多摩線が唐木田まで延伸
  • 読売新聞(1981年4月)
    • [31]1981年4月読売新聞朝刊が多摩ニュータウン10年を特集・1.8万戸『東京一のベッドタウン』
  • 小田急電鉄 公式サイト
    • [25]1964年12月 代々木上原〜喜多見の立体交差・複々線化が都市計画決定
  • 読売新聞(1964年10月)
    • [26]1964年10月読売新聞が東京都の多摩30万人住宅計画と京王・小田急・西武の乗り入れ前提を報道
  • 実業の世界(1965年8月)
    • [27]安藤楢六の1965年8月取材発言(喜多見分岐・稲城本町まで新線9.4km・約230億円)の引用
  • 読売新聞(1971年4月)
    • [28]1971年4月読売新聞社説『大団地の建設と交通の先行投資』が乗り入れ未着工を批判『いまだに着工をみていない』
  • 小田急電鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [29]1974年6月 多摩線(新百合ヶ丘〜小田急永山)開通
    • [30]1990年3月 多摩線が唐木田まで延伸
  • 読売新聞(1981年4月)
    • [31]1981年4月読売新聞朝刊が多摩ニュータウン10年を特集・1.8万戸『東京一のベッドタウン』

1996年〜 54年と3100億円を要した複々線化事業の完成

小田急電鉄の業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1997年 小田急百貨店の「負の遺産」整理と専門大店化による本業回帰 バブル期に広げた事業の後始末を、利光國夫社長はどう引き受けたか
  2. 1997年 負の遺産の整理に着手
  3. 1997年 複々線化工事第1期完成(喜多見〜和泉多摩川間)
  4. 2004年 複々線化工事第2期完成(世田谷代田〜喜多見間)
  5. 2008年 千代田線との特急車両直通運転を開始
  6. 2011年 山木利満氏が取締役社長に就任
  7. 2018年 半世紀を貫いた複々線化投資——1964年都市計画決定から2018年全面完成まで 都市計画決定から54年、なぜ小田急は3,100億円の投資に踏みとどまったか

喜多見の先行完成と下北沢地下化の難工事

1997年6月、喜多見から和泉多摩川までのおよそ2km強の区間で複々線化が完成した。1964年の都市計画決定から33年を経てようやく最初の区間が形になった。当時の連結営業収益は5,844億円、経常利益は211億円で、有利子負債は6000億円台後半まで積み上がっていた。複々線化工事の長期投資を吸収しながら配当と経常利益を維持する一方で、財務の重みは20年以上にわたり続いた。1998年3月には新宿南口ビルも完成し、新宿ターミナル開発の次の手も並行して打たれた。複々線化は鉄道インフラ投資の重みを長く財務に刻み続けた事業であり、開業から70年で全面完成した路線にもう1組の線路を重ねる工事は、用地取得の難しさと工期の長さの両面で従来の鉄道投資の枠を超える性格を帯びた。 [32][33]

  • 小田急電鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1997年6月 複々線化第1期(喜多見〜和泉多摩川 約2km強)完成・1964年都市計画決定から33年
    • [33]1998年3月 新宿南口ビル完成

2004年11月には世田谷代田から喜多見までのおよそ6km強の区間が完成し、2013年3月に東北沢から世田谷代田までの在来線地下化が完了した。下北沢駅を含むこの区間は地下シールド工法による難工事で、商店街・住宅地との調整が工期を引き延ばした。並行して2007年10月に住宅販売事業を小田急不動産へ会社分割するなどグループ内の事業再編も進んだ。2007年3月期の運輸業セグメントは売上高およそ1638億円・営業利益263億円で、流通・不動産を含む多角化収益が複々線化の財務負担を吸収した。観光私鉄として出発した小田急が、新宿ターミナルと沿線商業を加えた複合経営で長期インフラ投資を支える形が、2000年代後半までにはっきり見えてきた。 [34][35]

  • 小田急電鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [34]2004年11月 複々線化第2期(世田谷代田〜喜多見 約6km強)完成
    • [35]2013年3月 東北沢〜世田谷代田の在来線地下化完了
  • 小田急電鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1997年6月 複々線化第1期(喜多見〜和泉多摩川 約2km強)完成・1964年都市計画決定から33年
    • [33]1998年3月 新宿南口ビル完成
    • [34]2004年11月 複々線化第2期(世田谷代田〜喜多見 約6km強)完成
    • [35]2013年3月 東北沢〜世田谷代田の在来線地下化完了

2018年3月の全面完成と次の経営課題

2017年4月に星野晃司が社長に就任し、翌2018年3月、東北沢から世田谷代田までの最後の複々線化区間が完成した。代々木上原から登戸までのおよそ12km弱で複々線運転が始まり、朝の通勤時間帯の列車本数は27本から36本に増えた。町田から新宿までの急行所要時間は49分から、快速急行で37分へ12分短縮された。1964年の都市計画決定から54年、着工からおよそ30年を要した事業である。総事業費はおよそ3100億円で、小田急の歴史上で最大の鉄道インフラ投資となった。星野晃司は未来を見据えた挑戦で日本一暮らしやすい沿線をつくる方針を打ち出し、次の経営課題を沿線価値の組み立てに置いた。 [36][37][38][39][40]

  • 小田急電鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [36]2017年4月 星野晃司が社長に就任
    • [37]2018年3月 東北沢〜世田谷代田の最後の複々線化区間完成・複々線運転開始(代々木上原〜登戸 約12km弱)
  • 小田急電鉄 公式サイト
    • [38]朝の列車本数27本→36本・町田〜新宿 急行49分→快速急行37分(12分短縮)
    • [39]複々線化総事業費 約3100億円・1964年都市計画決定から54年
    • [40]星野晃司『未来を見据えた挑戦で日本一暮らしやすい沿線をつくる』の引用

2019年1月にはヒューマニックホールディングスの株式を取得し、同年10月には江ノ島電鉄を株式交換で完全子会社化して沿線観光網を補強した。2019年3月期の連結営業収益はおよそ5200億円台、経常利益はおよそ500億円で過去最高益圏にあった。観光・商業・不動産の収益基盤が組み合わさり、複々線完成年度として鉄道インフラ投資が果実を結ぶ年となった。だが、ここで完成した鉄道インフラの上にどう新しい価値を載せるかという問いが、すでに次の課題として立ち上がっていた。1923年に新宿と小田原を結ぶ構想で出発した会社が、新宿ターミナルそのものを再定義する地点に立ったのが、複々線完成の意味するところである。 [41][42]

  • 小田急電鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [41]2019年1月 ヒューマニックホールディングスの株式取得
    • [42]2019年10月 江ノ島電鉄を株式交換で完全子会社化
  • 小田急電鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [36]2017年4月 星野晃司が社長に就任
    • [37]2018年3月 東北沢〜世田谷代田の最後の複々線化区間完成・複々線運転開始(代々木上原〜登戸 約12km弱)
    • [41]2019年1月 ヒューマニックホールディングスの株式取得
    • [42]2019年10月 江ノ島電鉄を株式交換で完全子会社化
  • 小田急電鉄 公式サイト
    • [38]朝の列車本数27本→36本・町田〜新宿 急行49分→快速急行37分(12分短縮)
    • [39]複々線化総事業費 約3100億円・1964年都市計画決定から54年
    • [40]星野晃司『未来を見据えた挑戦で日本一暮らしやすい沿線をつくる』の引用

小田急電鉄の沿革1923〜2024年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
小田原急行鉄道を設立
小田原線(新宿〜小田原間)開通
江ノ島線(相模大野〜片瀬江ノ島間)開通
帝都電鉄を合併★★
鬼怒川水力電気と合併し小田急電鉄に商号変更★★
東京横浜電鉄・京浜電気鉄道と合併し東京急行電鉄に商号変更★★
京王電気軌道を合併
安藤楢六東京急行電鉄から分離し小田急電鉄を再設立★★
安藤楢六箱根登山鉄道・神奈川中央乗合自動車の株式取得と西武との「箱根山戦争」独占か共存か——箱根の観光需要をめぐる西武との攻防は、1968年の決着から半世紀を経てどう形を変えたか 詳細を読む★★★
安藤楢六東京証券取引所に上場
安藤楢六箱根登山線への乗入れを開始
安藤楢六国鉄御殿場線への乗入れを開始
安藤楢六小田急百貨店を設立★★
安藤楢六小田急百貨店新宿店が営業開始
安藤楢六小田急不動産を設立
安藤楢六向ヶ丘遊園モノレール線開通
安藤楢六新宿西口駅ビルが竣工
広田宗多摩線開通(新百合ヶ丘〜小田急永山間)
広田宗地下鉄千代田線との相互直通運転開始
利光達三多摩線延伸(小田急多摩センター〜唐木田間)開通
北中誠小田急百貨店の「負の遺産」整理と専門大店化による本業回帰バブル期に広げた事業の後始末を、利光國夫社長はどう引き受けたか 詳細を読む★★★
北中誠負の遺産の整理に着手★★
北中誠複々線化工事第1期完成(喜多見〜和泉多摩川間)
松田利之複々線化工事第2期完成(世田谷代田〜喜多見間)
大須賀賴彦千代田線との特急車両直通運転を開始
山木利満山木利満氏が取締役社長に就任
山木利満在来線地下化(東北沢〜世田谷代田間)
星野晃司星野晃司氏が取締役社長に就任
星野晃司半世紀を貫いた複々線化投資——1964年都市計画決定から2018年全面完成まで都市計画決定から54年、なぜ小田急は3,100億円の投資に踏みとどまったか 詳細を読む★★★
星野晃司江ノ島電鉄を株式交換により完全子会社化
星野晃司小田急SCディベロップメントを設立し商業施設運営事業を会社分割
星野晃司初の経常赤字・純損失を計上★★
星野晃司新宿駅西口の資産入替と1,300億円再開発売るか、抱え続けるか——ハイアット売却で賄う新宿駅西口の大型再開発 詳細を読む★★★
鈴木滋鈴木滋氏が取締役社長に就任
出典・参考

免責事項およびポリシー