創業1923年5月、利光鶴松らが資本金1350万円で小田原急行鉄道を設立し、関東大震災の直撃をくぐって1927年4月に新宿から小田原までの82.5kmを一挙に開業した。当時の日本最長の電気鉄道で、箱根・湘南への行楽と東京近郊の輸送を両取りする観光私鉄として出発した。だが沿線の多くは無人の原野で、1929年に開いた江ノ島線も収入が伸びず、増資のたびに経営難が深まった。
決断1948年6月、大東急の解体で資本金1億円の別法人として小田急電鉄は再独立した。翌1949年に箱根登山鉄道と神奈川中央乗合自動車の株式を取得し、沿線バス網と箱根観光を一挙に押さえる。さらに1950年代後半からは観光線から通勤線へ性格を移し、原価割れに抑えられた定期収入を、1961年設立の小田急百貨店と1964年設立の小田急不動産による新宿ターミナルと沿線の開発で補った。
- 歴史詳細 3章・3,931字
メインコンテンツ。一次資料をベースに歴史を紐解く
- 沿革年表 36件
主要な出来事を重要度別に時系列で整理
- 長期業績 1971〜2025年(55カ年)
有価証券報告書などの公開データに基づく長期データ
- 直近の業績
業績推移と経営体制
- セグメント情報 2006〜2025年(20カ年)
各事業の売上・営業利益・利益率の推移
- 歴代社長 4名
代表取締役社長・CEO の在任期間・経歴・在任中の施策
- 取締役一覧 2018〜2025年(8カ年)
取締役の構成バランスと社外独立性
- 大株主・株主構成 1955〜2024年(70カ年)
上位10名の入れ替わりと所有者区分7区分の推移
- 組織と給料 2007〜2025年(19カ年)
連結/単体の年次変化と業界他社の平均給与比較
決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く
- Q なぜ1927年に小田急は無人の原野へ82.5kmの電気鉄道を一挙に通したのか
- A 原野に長い高速電気鉄道を一挙に通せたのは、利光鶴松が1910年設立の鬼怒川水力電気を親会社に持ち、余剰電力を消費する大口需要として鉄道を構想したためである。利光は起業目論見書で東海道本線の混雑緩和と所要時間短縮を訴え、箱根・湘南の行楽と東京近郊輸送の両取りを狙った。1927年4月に新宿から小田原まで82.5kmを当時の日本最長の電気鉄道として全線一挙開業したが、沿線の多くは無人の原野で、需要は構想に追いつかなかった。
- Q なぜ1950年代後半に観光線から通勤線へ転じ、新宿ターミナルの商業開発に乗り出したのか
- A 通勤線への転換が利益に直結しなかったのは、定期運賃が社会政策の観点から私企業の採算を無視した低料金に抑えられ、通勤客を運ぶほど原価割れの定期輸送を抱える構造だったからである。1948年6月に大東急の解体で再独立した小田急は、1950年代後半に観光線から通勤線へ性格を変えたが、鉄道だけでは採算が立たなかった。そこで1961年設立の小田急百貨店と1964年設立の小田急不動産で、新宿ターミナルと沿線の開発から定期外収益を取り、原価割れ定期を補う複合経営を組み上げた。
- Q なぜ複々線化を完成させたのち、線路ではなく箱根の観光地再生へ大型投資を向けたのか
- A 次の大型投資が線路ではなく観光地と街区へ向かったのは、複々線化で鉄道側のボトルネック投資が一段落する一方、2021年3月期の経常赤字▲312億円・純損失▲398億円という創業以来初の赤字が、鉄道に偏った収益構造の弱さを露わにしたためである。新型コロナで鉄道とホテルの収入が激減した経験を経て、小田急は1949年から押さえる箱根観光の資産とインバウンド需要に成長を求めた。2024年4月に小田急箱根グループを再編して観光事業を一本化し、2025年度から箱根エリアの再生に総額150億円規模の投資を始めた。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1923年〜1949年 観光私鉄として開業し戦時統合で消えた小田急の名
無人の原野に82.5kmを通した観光私鉄
1923年5月に利光鶴松らが小田原急行鉄道を資本金1350万円で設立した直後、関東大震災が建設計画を直撃した。それでも1927年4月に新宿から小田原までの82.5kmを全線一挙に開業し、当時の日本最長の電気鉄道となった。発起人の利光鶴松は起業目論見書で「最近、小田原・箱根〜東京の輸送はますます頻繁となり、国鉄がいかに輸送力を増強したとしても、この混雑を緩和するのは難しい」(起業目論見書 1923/02)と述べ、東海道本線の混雑緩和と所要時間短縮を訴えた。1929年4月には相模大野から片瀬江ノ島までの江ノ島線を開通させ、湘南海岸への行楽輸送に乗り出した。発起時の構想は箱根・湘南観光と東京近郊輸送の両取りにあった[1][2][3][4][5]。
しかし沿線の多くは未開発の原野で、観光私鉄としての離陸は容易ではなかった。1926年6月のダイヤモンド誌は新宿から登戸までを除けば「大部分は無人の原野である」(ダイヤモンド 1926/06)と書き、阪急電鉄が1割2分の配当に達するまで20年を要した経過と引き比べた。実際1929年4月の読売新聞は「江ノ島線の開業によって資本金が増加したにも関わらず、収入は増加せず、いよいよ経営難に陥った」(読売新聞 1929/04/12)と報じ、5分の配当も土地評価益でかろうじて捻出していた状況を伝えた。鉄道省への補助金追加申請と、世論の反発で頓挫した2割の運賃値上げ計画は、創業期の小田急が観光私鉄として描いた構想を、需要不足が押し戻した姿である[6][7]。
戦時統合と6年間にわたる小田急の名の空白
1939年5月のダイヤモンド誌は「運賃収入は、約180万円となり、前年同期と比べ33.3%の増収を記録した」(ダイヤモンド 1939/05)と報じ、座間付近への軍関係施設の進出を主因に挙げた。皮肉にも、創業期の経営難を脱したきっかけは沿線の軍需化だった。1940年5月に井の頭線を運営する帝都電鉄を合併し、1941年3月には鬼怒川水力電気との合併で社名を小田急電鉄に変更した。だが1942年5月、陸上交通事業調整法に基づき東京横浜電鉄・京浜電気鉄道との3社合併で東京急行電鉄に吸収された。京王・京急とともに東急の傘下に置かれた大東急体制の発足である。観光客を呼ぶための私鉄が、戦時の輸送統合のなかで首都圏西部の通勤輸送を担う巨大組織へと組み替えられ、独自経営の余地は奪われた[8][9][10][11]。
1944年5月には京王電気軌道も加わり、首都圏西部の私鉄網は1社に集約された。創業から19年で小田急の名は地図から消え、復活までさらに6年を要した。終戦後、空襲で甚大な被害を受けた旧小田急の路線復旧を一企業で賄う体力は東急にはなく、旧小田急従業員のあいだから分離独立を求める声が高まった。1948年6月1日に資本金1億円で再設立された小田急電鉄は、戦前の小田原急行鉄道とは法人格の異なる新会社として発足している。京王帝都電鉄・京浜急行電鉄も同時に独立し、大東急は解体された。再独立直後の1949年2月には神奈川中央乗合自動車と箱根登山鉄道の株式を取得し、沿線バス網と箱根観光の中核を一挙に押さえた。同年5月の東京証券取引所上場と、銀座タクシー・箱根観光船・武蔵野乗合自動車・江ノ島鎌倉観光と続く出資が、戦後の小田急グループの骨格を形作った[12][13][14][15][16]。
1950年〜1995年 通勤線への転身を支えた新宿ターミナル商業
通勤線への転身と原価割れ定期の構造矛盾
小田急が観光線から通勤線へ性格を変えたのは1950年代後半である。1958年6月のダイヤモンド誌は「これまで当社は観光線という特色で好調を続けてきた。だが、今後は通勤線としての比重が次第に大きくなることが予想される」(ダイヤモンド 1958/06)と分析した。同記事は、定期収入が「社会政策の観点から、私企業の採算を無視した低料金に抑えられている」(ダイヤモンド 1958/06)と書き、行楽客から得る定期外収入で原価割れ定期を補う収益構造を素描している。1958年9月の読売新聞「東京の素顔」は成城学園付近を高級住宅地として描き、戦後の沿線宅地化が進んでいた様子を伝えた[17][18][19]。
この通勤線化の流れに対応して、小田急は新宿ターミナルの商業集積に乗り出した。1961年6月に小田急百貨店を設立し、1962年11月に新宿店が営業を開始した。1964年12月には小田急不動産を設立して沿線の宅地分譲に本格参入、1966年11月に新宿駅西口駐車場・地下名店街、1967年11月に新宿西口駅ビルが相次いで完成した。社長の安藤楢六は1964年の対談で「小田急が開業したのは1927年ですが、神奈川県の裏街道を通っている関係から、長いこと苦しい経営を続けてきたのです。それが戦時中に、沿線に軍関係の施設ができたことがきっかけになって、住宅が増えるようになり、従来開けていなかった沿線が急速に開発されてきたのです」(広告 1964/07)と振り返り、通勤輸送を主軸に据える方向をした[20][21][22][23][24]。
多摩ニュータウン乗り入れと膨張する設備投資
1964年12月には代々木上原から喜多見までの立体交差・複々線化が都市計画決定された。背景には朝ラッシュ時に250%を超える混雑率があり、ハード増強なしには通勤線への転身が成立しない事情があった。同年10月の読売新聞は東京都の多摩30万人住宅計画を報じ、京王・小田急・西武の乗り入れを前提に進められた経緯を伝えている(読売新聞 1964/10)。安藤楢六は1965年8月の取材に「東京都がさきに多摩30万年の建設計画を発表したので、わが社でもこれに対応して喜多見から分岐し、稲城本町まで新線9.4kmの建設を計画したが、これを含めると約230億円にものぼる膨大な資金を必要とする」(実業の世界 1965/08)と述べ、社内留保金だけで賄えず借入金や社債に依存する構造への懸念を示した[25][26][27]。
その懸念は1971年4月の読売新聞社説「大団地の建設と交通の先行投資」に裏書きされる。京王・小田急のニュータウン乗り入れが「いまだに着工をみていない」(読売新聞 1971/04)と批判され、私鉄側が低額用地・長期低利融資・特別料金制を求めて条件闘争を続けていた構図が示された。1974年6月に多摩線が新百合ヶ丘から小田急永山までで開通し、翌年4月に小田急多摩センター、1990年3月に唐木田まで延伸された。1981年4月の読売新聞朝刊は多摩ニュータウン10年を特集し、1.8万戸が並ぶ「東京一のベッドタウン」(読売新聞 1981/04)と評価した。1976年9月の町田駅ビル、1984年10月の新宿南口駅ビル、1989年8月の小田急西富士ゴルフ倶楽部、1992年11月の新百合ヶ丘ショッピングセンタービル、1996年10月の相模大野駅ビルと、沿線拠点の商業集積が連なった時期である[28][29][30][31]。
1996年〜2019年 54年と3100億円を要した複々線化事業の完成
喜多見の先行完成と下北沢地下化の難工事
1997年6月、喜多見から和泉多摩川までのおよそ2km強の区間で複々線化が完成した。1964年の都市計画決定から33年を経てようやく最初の区間が形になった。当時の連結営業収益はおよそ6231億円、経常利益は370億円台で、有利子負債は6000億円台後半まで積み上がっていた。複々線化工事の長期投資を吸収しながら配当と経常利益を維持する一方で、財務の重みは20年以上にわたり続いた。1998年3月には新宿南口ビルも完成し、新宿ターミナル開発の次の手も並行して打たれた。複々線化は鉄道インフラ投資の重みを長く財務に刻み続けた事業であり、開業から70年で全面完成した路線にもう1組の線路を重ねる工事は、用地取得の難しさと工期の長さの両面で従来の鉄道投資の枠を超える性格を帯びた[32][33]。
2004年11月には世田谷代田から喜多見までのおよそ6km強の区間が完成し、2013年3月に東北沢から世田谷代田までの在来線地下化が完了した。下北沢駅を含むこの区間は地下シールド工法による難工事で、商店街・住宅地との調整が工期を引き延ばした。並行して2007年10月に住宅販売事業を小田急不動産へ会社分割するなどグループ内の事業再編も進んだ。2007年3月期の運輸業セグメントは売上高およそ1638億円・営業利益263億円で、流通・不動産を含む多角化収益が複々線化の財務負担を吸収した。観光私鉄として出発した小田急が、新宿ターミナルと沿線商業を加えた複合経営で長期インフラ投資を支える形が、2000年代後半までにはっきり見えてきた[34][35]。
2018年3月の全面完成と次の経営課題
2017年6月に星野晃司が社長に就任し、翌2018年3月、東北沢から世田谷代田までの最後の複々線化区間が完成した。代々木上原から登戸までのおよそ12km弱で複々線運転が始まり、朝の通勤時間帯の列車本数は27本から36本に増えた。町田から新宿までの急行所要時間は49分から、快速急行で37分へ12分短縮された。1964年の都市計画決定から54年、着工からおよそ30年を要した事業である。総事業費はおよそ3100億円で、小田急の歴史上で最大の鉄道インフラ投資となった。星野晃司は未来を見据えた挑戦で日本一暮らしやすい沿線をつくる方針を打ち出し、次の経営課題を沿線価値の組み立てに置いた[36][37][38][39][40]。
2019年1月にはヒューマニックホールディングスの株式を取得し、同年10月には江ノ島電鉄を株式交換で完全子会社化して沿線観光網を補強した。2019年3月期の連結営業収益はおよそ5200億円台、経常利益はおよそ500億円で過去最高益圏にあった。観光・商業・不動産の収益基盤が組み合わさり、複々線完成年度として鉄道インフラ投資が果実を結ぶ年となった。だが、ここで完成した鉄道インフラの上にどう新しい価値を載せるかという問いが、すでに次の課題として立ち上がっていた。1923年に新宿と小田原を結ぶ構想で出発した会社が、新宿ターミナルそのものを再定義する地点に立ったのが、複々線完成の意味するところである[41][42]。