オリンパス の歴史

創業

1919年

創業者

山下長

創業地

東京都渋谷区幡ヶ谷

直近売上高(2026/3)

10,107億円

長期業績と転換点(1997/3〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1923年に、創業4年で体温計を手放してまで顕微鏡へ絞ったのか
A 世界大戦でドイツ製光学機器の輸入が途絶した好機をつかんだものの、創業期のオリンパスは体温計と顕微鏡という収益化の遠い二事業を同時に抱え、資本金30万円とほぼ同額の開発費が3年で先行して財務を圧迫した。両立する資金的余裕を失ったため、消費者向けで広告費がかさみ販売競争も激しい体温計を切り、研究投資の成果が見込める顕微鏡へ資源を寄せる判断に至る。山下長氏は1923年に体温計事業を後のテルモへ売却し、負債も同時に譲渡して財務を立て直した
Q なぜ1969年に、医師主導で育った内視鏡をわざわざ独立事業に据えたのか
A 1950年代の内視鏡は一部の技術者と医師の協力で育った特殊な事業で、成長市場はあくまでカメラだったため全社の投資対象ではなかった。だが1963年のファイバースコープ完成で診断需要が増えると、顕微鏡・測定器と同じ事業部に同居したままでは独立した資源配分が難しくなった。そこでオリンパスは1969年3月に第三事業部を新設し、内視鏡を顕微鏡・カメラに次ぐ第三の柱として全社の投資対象に据えた。社長の内藤隆福氏は医療機械と情報を重点分野に掲げ、ファイバー技術を共通基盤とする新事業の体制を整えた。
Q なぜ2020年前後に、101年続いたカメラと祖業の顕微鏡まで手放して医療専業へ振り切ったのか
A 不正会計の収束後、オリンパスは利益率の高い医療へ資源を集めるほど企業価値を組み直せると見て、長期目線で協調するバリューアクト・キャピタルを2019年に取締役へ迎え、内視鏡と治療機器の二事業へ絞る変革を進めた。2020年に101年続いたカメラ事業を日本産業パートナーズへ手放し、2023年には祖業の顕微鏡を担うエビデントをベインキャピタルへ4276億円で売却した。切り離しで軽くした財務を、年間配当を10円増の30円へ引き上げ、別途500億円の自己株取得を決めるなど、稼いだ現金を投資家へ配り直す経営へ転じた

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1919年〜 顕微鏡国産化と戦時疎開に始まる創業期の試練

  1. 1919年株式会社高千穂製作所を設立
  2. 1919年東京幡ヶ谷に本社工場を新設
  3. 1921年顕微鏡で「オリンパス」の商標取得
  4. 1923年財務状況が悪化。体温計事業を仁丹テルモに譲渡
  5. 1929年森下仁丹を提訴。和解へ
  6. 1933年海軍省指定工場に登録・海軍病院に納入へ
  7. 1949年東京証券取引所に株式上場

オリンパスの業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

体温計を手放してでも顕微鏡を守った資金制約

第一次世界大戦の勃発によってドイツから輸入されていた顕微鏡や測距儀といった光学機器が市場から姿を消し、日本国内でも教育・研究・軍事の各方面で深刻な不足が生じた。こうした外部環境のもとで、創業者の山下長氏は1919年10月に資本金30万円で株式会社高千穂製作所を東京渋谷区幡ヶ谷に設立し、光学機器の国産化に踏み切った。顕微鏡の製作経験を豊富に持つ寺田枠吉氏を技師長に招き、翌1920年には国産顕微鏡「旭号」を完成させて市場投入にこぎつけた。しかし創業期のオリンパスは体温計と顕微鏡の二事業を同時に運営する体制を取っており、資金繰りの観点から両事業の維持は次第に難しくなった。限られた資本をどちらの事業に集中するかという経営判断が、早くも創業者に突きつけられた。 [1][2]

  • 有価証券報告書
    • [1]1919年10月 山下長が資本金30万円で株式会社高千穂製作所を東京渋谷区幡ヶ谷に設立
    • [2]1920年に国産顕微鏡「旭号」を完成

1923年にオリンパスは体温計事業を後のテルモへ売却し、顕微鏡事業へ経営資源の集中を図った。この撤退に伴って本社工場は物理的に二つに割れ、さらに1928年には株主であった森下仁丹が追加の資産譲渡と顕微鏡事業からの撤退を要求するまでに関係が悪化した。山下氏は東京地方裁判所に提訴する強硬な対応を選び、1929年に和解が成立して顕微鏡事業を自社で続ける基盤を残した。創業から10年にも満たないあいだに事業撤退と経営体制の動揺、そして株主間の法廷係争までを同時に経験した波乱の出発であり、この経験が選択と集中への志向を経営文化の底層に残した。 [3][4]

  • 有価証券報告書
    • [3]1923年に体温計事業を後のテルモへ売却
    • [4]東京地方裁判所に提訴し1929年に和解
  • 有価証券報告書
    • [1]1919年10月 山下長が資本金30万円で株式会社高千穂製作所を東京渋谷区幡ヶ谷に設立
    • [2]1920年に国産顕微鏡「旭号」を完成
    • [3]1923年に体温計事業を後のテルモへ売却
    • [4]東京地方裁判所に提訴し1929年に和解

戦時疎開が結果として残した信州の生産基盤

1933年にオリンパスは海軍省の指定工場として正式に登録され、顕微鏡を海軍病院へ安定的に納入する販路を得た。軍との関係を軸にした販売チャネルの安定は、民間市場の未成熟な時代における光学メーカーにとって事業基盤の骨格そのものであり、顕微鏡事業の継続性を支える柱となった。1936年4月には写真機の製造を開始し、顕微鏡で培った精密光学を民生のカメラへ広げる足がかりを得た。1937年からは砲鏡や双眼鏡といった軍需光学機器の本格生産に踏み切り、1939年には安宅商会から財務支援を受け、同時に創業者の山下長氏が退任して経営体制が入れ替わった。1942年6月には社名を高千穂光学工業へ改め、戦前期の日本の光学産業全体がそうであったように、オリンパスの生産も軍需中心へ傾斜した。 [5][6][7][8][9]

  • 有価証券報告書
    • [5]1933年に海軍省の指定工場として登録・海軍病院へ納入
    • [7]1937年から砲鏡・双眼鏡など軍需光学機器の本格生産
    • [8]1939年に安宅商会から財務支援を受け創業者山下長が退任
    • [9]1942年6月に社名を高千穂光学工業へ改称
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [6]1936年4月に写真機の製造を開始

1943年12月に長野県岡谷市の諏訪、1944年2月には伊那へ疎開工場を新設して軍需生産の分散化を図る戦時体制を敷いた。これらの疎開拠点は1945年5月の空襲で本社および幡ヶ谷工場が戦災により焼失した後の復興基盤として結果的に役立ち、本社は渋谷区田毎町(現東一丁目)へ移転した。とりわけ諏訪工場はカメラの量産体制を早期に確立する拠点として戦後に重要な役割を担い、オリンパスの生産基盤は戦時中の疎開政策によって形づくられた側面が強い。1949年1月には社名をオリンパス光学工業へ改め、同年に株式上場を果たして、戦前の軍需メーカーから戦後の民需光学メーカーへ組織の性格を転じた。この過程で形成された信州中心の生産拠点配置は現在に至るまで同社のものづくり基盤の地理的な骨格を規定している。 [10][11][12][13]

  • 有価証券報告書
    • [10]1943年12月に長野県岡谷市の諏訪・1944年2月に伊那へ疎開工場を新設
    • [11]1945年5月の空襲で本社および幡ヶ谷工場が戦災で焼失し本社を渋谷区田毎町(現東一丁目)へ移転
    • [12]1949年1月に社名をオリンパス光学工業へ改称
    • [13]1949年に株式上場
  • 有価証券報告書
    • [5]1933年に海軍省の指定工場として登録・海軍病院へ納入
    • [7]1937年から砲鏡・双眼鏡など軍需光学機器の本格生産
    • [8]1939年に安宅商会から財務支援を受け創業者山下長が退任
    • [9]1942年6月に社名を高千穂光学工業へ改称
    • [10]1943年12月に長野県岡谷市の諏訪・1944年2月に伊那へ疎開工場を新設
    • [11]1945年5月の空襲で本社および幡ヶ谷工場が戦災で焼失し本社を渋谷区田毎町(現東一丁目)へ移転
    • [12]1949年1月に社名をオリンパス光学工業へ改称
    • [13]1949年に株式上場
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [6]1936年4月に写真機の製造を開始

1950年〜 胃カメラ発明とペンEEヒットが拓いた医療事業の確立

  1. 1950年胃カメラを開発。医療機器に参入
  2. 1955年輸出基本方針を策定。カメラ輸出を本格化
  3. 1961年カメラ「オリンパス・ペンEE」を発売。爆発的ヒットへ
  4. 1963年八王子事業を新設・本社工場を移転
  5. 1968年米国販売法人Olympus Corporation of Americaを設立
  6. 1969年第三事業部を発足・内視鏡事業を本格化
  7. 1987年金融資産運用を積極化

オリンパスの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

医師ネットワークを抱え込んだ世界初の胃カメラ

1950年、オリンパスは東京大学の医師からの要請に応じて世界初の胃カメラ開発に着手した。胃の内部を撮影するという全く新しい医療機器の構想は、当時の技術水準から見ればかなりの冒険だったが、顕微鏡で培った精密光学と小型カメラ開発のノウハウを組み合わせて実用機の完成にこぎつけた。1955年には全国胃カメラ研究会の事務局を引き受け、消化器科医のネットワークを抱え込む構造が出来上がった。技術と医師コミュニティの相互依存は、後の内視鏡事業の競争優位の源流となる。ただし当時のオリンパスにとって成長市場はあくまで民生カメラであり、内視鏡への本格投資は経営の周辺部にとどまっていた。当時の幹部自身が後年、経営戦略と呼べるほどの位置づけは持っていなかったと振り返っている。 [14]

  • 有価証券報告書
    • [14]1950年に世界初の胃カメラ開発に着手(東京大学の医師からの要請)

1961年7月に発売された「ペンEE」は自動露出装置を搭載して撮影の全工程をほぼ自動化した普及機であり、カメラ大衆化の象徴となった。ペンシリーズの累計販売台数は1963年に100万台を超え、オリンパスはカメラメーカーとしての認知度を全国規模へ広げた。同じ1963年にはファイバースコープ内視鏡を完成させ、翌1964年から八王子事業所で本格量産に入った。カメラと内視鏡の2事業が時を同じくして成長するなかで、社内では依然としてカメラ事業が主役であり続けた。しかし医師との協業で育まれた内視鏡技術は誰の目にも明らかな競争優位として積み上がり、後の事業構成の逆転を準備した。 [15][16]

  • 有価証券報告書
    • [15]1961年7月に自動露出機「ペンEE」を発売
    • [16]1963年にファイバースコープ内視鏡を完成、1964年から八王子事業所で本格量産
  • 有価証券報告書
    • [14]1950年に世界初の胃カメラ開発に着手(東京大学の医師からの要請)
    • [15]1961年7月に自動露出機「ペンEE」を発売
    • [16]1963年にファイバースコープ内視鏡を完成、1964年から八王子事業所で本格量産

内視鏡の独立事業化と水面下で進んだ金融運用の拡大

1969年3月、オリンパスは第三事業部を新設し、内視鏡を独立した投資対象の事業とした。社長の内藤隆福は医療機械産業と情報産業を重点分野として掲げ、ファイバー技術を共通基盤とした複数の新事業を社内で進める方針を示した。これによって、技術者と現場の医師の属人的な協力関係を軸に進んできた内視鏡事業は、初めて全社的な経営戦略の枠組みに組み込まれた。ファイバースコープから電子スコープへの技術転換を見据えた研究開発投資もここから本格化し、1980年代を通じて消化器内視鏡の領域でオリンパスは世界シェアの大半を押さえた。医師コミュニティとの密着と技術的な先行の組み合わせが、単なる機器メーカーを超えた事業基盤を形づくった。 [17]

  • 有価証券報告書
    • [17]1969年3月に第三事業部を新設し内視鏡を独立した事業とした

その裏側では、1987年にオリンパスが金融資産運用の積極化を決めたことが、後年の経営危機の土台として水面下で進んでいた。1985年のプラザ合意による円高で輸出中心の収益が悪化するなか、利益確保のために債券や株式先物取引への傾斜を強め、本業では得られない収益を金融市場に求める経営判断が社内で定着した。バブル崩壊後に含み損が広がり、1998年頃には損失額が約950億円に達したとされるが、社外への計上は一貫して先送りされた。本業の内視鏡事業が成長し続けたことが、結果としてこの損失の存在を覆い隠す余地を経営に与え、問題を直視する機会を何度も失わせる構造的な土壌となった。 [18][19][20]

  • 有価証券報告書
    • [18]1987年に金融資産運用の積極化を決定
    • [19]1985年のプラザ合意による円高で輸出収益が悪化
    • [20]1998年頃に金融損失が約950億円に達した
  • 有価証券報告書
    • [17]1969年3月に第三事業部を新設し内視鏡を独立した事業とした
    • [18]1987年に金融資産運用の積極化を決定
    • [19]1985年のプラザ合意による円高で輸出収益が悪化
    • [20]1998年頃に金融損失が約950億円に達した

2003年〜 不正会計の露呈と医療機器専業への集中という帰結

  1. 2004年映像・医療を会社分割で別法人化
  2. 2008年Gyrus Group PLCを買収
  3. 2011年Olympus Corporation of Asiaを設立
  4. 2012年情報通信事業を売却
  5. 2015年医療・映像を本体に再吸収
  6. 2021年蘭Quest Photonic Devicesを買収
  7. 2021年イスラエルMedi-Tateを買収

オリンパスの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

映像と医療の二軸投資が不正発覚につながる過程

2002年に就任した菊川剛社長の下で、オリンパスは2003年度から本格化する「経営基本計画」として映像と医療の双方に積極投資する方針を公表した。映像事業ではデジタルカメラのグローバル展開を志向し、5年間で200億円規模のブランド投資を計画するなど、2つの主力事業の同時成長を掲げた。しかし実際にはソニー・パナソニック・キヤノンといった電機メーカーの一斉参入でデジタルカメラ市場の価格競争は激化し、オリンパスの映像事業はセグメント単位で恒常的な赤字に沈んだ。内視鏡を中心とする医療事業の堅調な収益が映像の赤字を埋める構造が固まり、グループ全体の利益成長は続いたが、事業ポートフォリオの偏りは深まった。 [21]

  • 有価証券報告書
    • [21]2002年に菊川剛が社長に就任、2003年度から経営基本計画を本格化

2008年には英国の医療機器メーカーGyrus Groupを2597億円で買収する案件を実行したが、フィナンシャルアドバイザーへの異常に高額な報酬支払いに、長年にわたる金融損失の付け替えが仕込まれていた。この問題は2011年7月に表面化した。当時の英国人社長マイケル・ウッドフォードが内部告発的に疑念を公にしたことをきっかけに、日経新聞と海外メディアを中心に不正会計疑惑の全貌が報道され、同社は戦後日本のコーポレートガバナンス論議の焦点となった。損失隠しの総額は約1000億円規模に及び、役員の刷新と証券取引等監視委員会からの課徴金納付命令を経て、会社は再建のスタートラインに立たされた。 [22][23][24]

  • 有価証券報告書
    • [22]2008年に英Gyrus Groupを2597億円で買収
    • [23]2011年7月に不正会計問題が表面化(ウッドフォードの内部告発が契機)
    • [24]損失隠しの総額は約1000億円規模(資産は約950億円とする)
  • 有価証券報告書
    • [21]2002年に菊川剛が社長に就任、2003年度から経営基本計画を本格化
    • [22]2008年に英Gyrus Groupを2597億円で買収
    • [23]2011年7月に不正会計問題が表面化(ウッドフォードの内部告発が契機)
    • [24]損失隠しの総額は約1000億円規模(資産は約950億円とする)

101年のカメラ事業を手放して医療専業へ振り切る決断

不正会計問題の収束後、オリンパスはアクティビスト投資家であるバリューアクト・キャピタルの関与を深く受け入れ、医療事業への集中投資を加速した。2012年には情報通信事業すなわちITX社を約530億円で売却し、2020年には101年の歴史を持つカメラ事業そのものを日本産業パートナーズへ売却して映像事業から全面撤退する決断を下した。当時の竹内康雄社長はカメラも祖業も切り離す選択と集中が不可欠だったとして判断の意味を説明し、2022年には後任格である笹宏行氏も事業の整理は一巡したとし、医療事業を徹底強化する方針を示した。創業期から会社のブランドを象徴したカメラ部門を手放すことで、同社は自らを消化器内視鏡を中核とする純粋な医療機器メーカーとして定義し直し、利益率の高い事業への集中で企業価値を組み直す道を選んだ。 [25][26][27]

  • 有価証券報告書
    • [25]2012年に情報通信事業(ITX社)を約530億円で売却
    • [26]2020年に101年の歴史を持つカメラ事業を日本産業パートナーズへ売却
    • [27]竹内康雄社長が「カメラも祖業も切り離す選択と集中が不可欠」と説明

バリューアクトの支援下でオリンパスは取締役会の構成と経営の英語公用化を含むグローバルガバナンス改革を断行し、日本企業のなかでは異例のメドテック専業企業への転換を行った。FY2024/3期には売上高9258億円、当期利益2426億円を計上し、内視鏡を中核とする医療機器メーカーとしての収益基盤が数字の上でも固まった。顕微鏡から胃カメラ、そしてファイバースコープを経て現代の消化器内視鏡へ連なる技術の系譜は、1950年に1人の医師の要請で始まった事業が70年以上の時を経て会社全体の性格を規定するまでに膨らんだことを示す。同時にそれは、事業の一極集中が抱えるリスクを経営に常に意識させる立場にも同社を置いた。 [28]

  • 有価証券報告書
    • [28]顕微鏡から胃カメラ・ファイバースコープを経た消化器内視鏡への技術系譜の起点は1950年
  • 有価証券報告書
    • [25]2012年に情報通信事業(ITX社)を約530億円で売却
    • [26]2020年に101年の歴史を持つカメラ事業を日本産業パートナーズへ売却
    • [28]顕微鏡から胃カメラ・ファイバースコープを経た消化器内視鏡への技術系譜の起点は1950年
    • [27]竹内康雄社長が「カメラも祖業も切り離す選択と集中が不可欠」と説明

オリンパスの沿革1919〜2024年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
株式会社高千穂製作所を設立★★★
東京幡ヶ谷に本社工場を新設★★
顕微鏡で「オリンパス」の商標取得★★
財務状況が悪化。体温計事業を仁丹テルモに譲渡★★
森下仁丹を提訴。和解へ★★
海軍省指定工場に登録・海軍病院に納入へ★★
安宅商会が経営支援。穏便に経営体制の変更へ★★
高千穂光学工業に商号変更★★
オリンパス光学工業に商号変更★★
東京証券取引所に株式上場★★★
胃カメラを開発。医療機器に参入★★★
輸出基本方針を策定。カメラ輸出を本格化★★
カメラ「オリンパス・ペンEE」を発売。爆発的ヒットへ★★
八王子事業を新設・本社工場を移転★★
現地法人を通じたカメラ輸出を本格化
米国販売法人Olympus Corporation of Americaを設立★★★
第三事業部を発足・内視鏡事業を本格化★★
小型一眼レフカメラ「OM-1」を発売
本社を西新宿に移転
辰野事業所を新設
金融資産運用を積極化★★
日の出工場を新設(東京都西多摩郡)
菊川剛5カ年の「経営基本計画」を策定★★
菊川剛オリンパス株式会社に商号変更
菊川剛映像・医療を会社分割で別法人化★★
菊川剛Gyrus Group PLCを買収★★
笹宏行Olympus Corporation of Asiaを設立★★★
笹宏行長年の不正会計が露呈(オリンパス事件)
笹宏行情報通信事業を売却★★
笹宏行医療・映像を本体に再吸収★★
笹宏行本社を八王子に移転
竹内康雄バリューアクトが大量保有報告書を提出
竹内康雄医療分野のグローバル展開に集中投資を決定
竹内康雄映像事業(カメラ製造)から撤退
竹内康雄医療機器で買収積極化
竹内康雄蘭Quest Photonic Devicesを買収★★
竹内康雄イスラエルMedi-Tateを買収★★
シュテファン・カウフマン完全子会社エビデントを売却・顕微鏡領域から撤退★★
竹内康雄整形外科事業をポラリス・キャピタルに譲渡★★
出典・参考

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