【筆者所感】 三井不動産は1941年7月、三井物産から不動産部門の分離継承を受けて、三井11家の全額出資で発足した、きわめて閉じた同族管理会社だった。戦後のGHQ財閥解体で株式は一般市場へ放出され、同族管理会社から事業会社への転換は、自発的な経営判断ではなく占領政策が制度面から強制したものだった。1955年に社長へ就任した江戸英雄は、千葉県市原の埋立と全国規模の宅地造成という二つの賭けに踏み出し、三井家ゆかりの不動産を管理する会社から、自ら土地を生み出して街をつくる会社へと業態の中身を入れ替えた。不動産業は土地仕入れから竣工・回収までに10年単位の資金拘束が常態の業態で、規模を確保した者だけが立地を選べる構造にある。
1968年に竣工した日本初の超高層「霞が関ビルディング」から、2024年発表の長期経営方針「& INNOVATION 2030」までの歴史は、超高層オフィス・都心ミクストユース・海外旗艦物件という「大型・長期回収・規模優位」の連続として組み上がっている。2025年3月期の売上高2兆6,254億円・純利益2,488億円は過去最高を更新したが、総資産9兆円台・有利子負債4兆円台へ膨らんだバランスシートをどう運用するか、そして国内外での資産回転と株主還元をどう両立させるかが、2023年4月に就任した植田俊体制にとって最大の論点となった。「街づくりから産業づくりへ」を旗印に据えた産業デベロッパー路線は、この拡大した規模を前提に組み立てられている。
歴史概略
1909年〜1974年同族管理会社から事業会社への占領政策による強制転換
三井物産から切り出された三井家の不動産課
1941年7月、三井不動産株式会社は三井物産から不動産部門の分離継承を受けて設立された。前年1940年8月に三井物産は1909年設立の三井合名会社を吸収合併しており、そこに含まれていた不動産資産を、管理と運用に専念する独立事業体として切り出すための新会社という位置づけだった。資本金は300万円、株主は三井11家の全額出資というきわめて閉じた設計で、設立当初は社長を置かず、三井総元方の常務理事であった小池正晃が会長に就いている。株式公開を前提とせず、三井家の内部のみで意思決定を完結させる同族会社の体裁が、戦時下の設立時には、そのまま新会社にも引き継がれたかたちだった。
継承した対象不動産は、三井本館を中心とする東京・大阪の三井ビル群と、その他全国に広がる約59万4,000平方メートルの土地で、事業の中身は三井家ゆかりの不動産の管理と運営そのものだった。もとをたどれば1914年8月に三井合名会社内の部署として発足した「不動産課」の機能が、戦時下の経済体制再編のなかで、独立した会社としての体裁をようやく整えるに至ったものとも言い換えられる。戦時経済下の1941年という設立時期は、物資不足・建物疎開・空襲による焼失、そして終戦による財閥解体という一連の大きな混乱と不可分で、新会社は発足の早々から会社そのものの根幹を揺さぶられていったかたちにあたる。
占領政策が強制した株式公開と三井本社吸収
1945年8月の終戦後、GHQが進めた一連の財閥解体政策により、三井11家はそれまで共有していた全株式の所有を禁止された。保有株式は一般市場に放出されて一般公開となり、1949年5月に東京証券取引所、同年6月に大阪証券取引所、翌1950年4月には札幌証券取引所へとあいついで上場した。三井家の閉じた管理会社から、株主に対して開かれた事業会社への転換は、自発的な経営判断ではなく、占領政策が制度面から強制した経緯にあたる。同社のその後のすべての事業展開は、この強制的な転換を前提として乗っていくものとなり、以降の判断の自由度を一段広げる土台にもなった。
占領軍の進駐により、三井本館の一部や網町分館などの中核資産は1952年まで接収され、事業活動は長く制約を受けた。停滞を抜け出す転機は、1956年10月に清算中であった株式会社三井本社を吸収合併したときに訪れた。これにより三井不動産は三井の本格的な血脈と中核資産を受け継ぐ立場となり、東京日本橋と大阪中之島を中心とする約10万平方メートルのビル賃貸を行う事業会社としての基盤を整えた。ただし運用・販売できる不動産の所有量そのものは乏しく、「全く新しい分野の開拓」(日本会社史総覧 1995/11/1)に踏み出すことが、次の段階の経営課題として残されたかたちだった。
「社運を賭けた」千葉県市原の埋立と三本柱の獲得
1955年に江戸英雄が社長に就任した。以降の三井不動産は、ビル賃貸と住宅という二つの方向で、新事業に本格着手することになった。1957年に千葉県市原地区での埋立事業へ進出したことが、同社の臨海土地造成事業の第一歩となった。社内では「社運を賭けた」(日本会社史総覧 1995/11/1)と語られるほどの重い判断で、当時の同社の経営体力からすれば、無謀とも映る種類の賭けだった。事業は結果として成功を収め、同じ造成手法はその後、千葉中央地区、大分県鶴崎、岡山県水島へと各地に横展開していった。1974年10月には、この事業分野そのものを分社化によって三井不動産建設へ継承させており、本体は次の収益軸へ切り替えていく態勢を整えた。
住宅造成事業へは1961年頃から本格進出した。都市部とその近郊の深刻な宅地不足を受けて、最初は単純な宅地造成から始めたが、扱う区画は年を追うごとに大型化し、やがて街区そのものを面としてつくるトータルな街づくりを目指すかたちへと、事業の幅が広がっていった。ビル賃貸の部門も、1960年代の高度経済成長下で旺盛な事務所需要を取り込みつづけ、1965年上半期のビル保有面積は約38万平方メートルにまで達した。三井家の不動産管理会社から本格的な事業会社への転換は、臨海土地造成・住宅造成・ビル賃貸という三本柱を同時に手に入れた段階で、実質的に完了したといえる。
1975年〜2004年容積率を売る会社への転身と総合デベロッパー化
霞が関ビル36階が業界に持ち込んだ容積率発想
1968年4月、わが国初の超高層ビルである霞が関ビルディング(36階)が竣工した。建設の理念と、柔構造理論をはじめとする一連の技術的な成果は、その後の日本における超高層ビル時代誕生の土台となり、三井不動産のビル賃貸事業を量と質の両面で一段引き上げた。続く1974年9月には第2の超高層ビルとして新宿三井ビルディング(55階)が完成し、同社は霞が関に続いて、新宿副都心の超高層街区にも旗を立てた。二棟の完成によって、同社のビル事業は、都心一等地の超高層ビルを自ら所有し運営する立場にまで到達したことを、対外的にも示すことになった。
超高層化の本質は、ビルの高さを上げたという表層の話にとどまらず、同じ敷地のうえで床をどこまで積み上げられるかという、容積率を起点とする事業設計の発想そのものを、業界全体に根づかせていく転換でもあった。霞が関ビルを起点として、三井不動産は都心一等地における高層オフィスビル主要事業者としての地歩を、ここで一段上へ固めていった。住宅部門でも1971年、三田綱町にわが国初の超高層住宅を実現しており、超高層化の軸は住と商の両面でほぼ同時並行に進んでいたことが分かる。容積率を稼ぐという発想は、以降の同社の都心再開発における共通の言語として、組織のなかに深く根づいた。
- 日本会社史総覧 1995/11/1
- 有価証券報告書
分社化と親会社化を往復した機能別グループ再編
1968年、川崎市の百合ヶ丘ガーデンマンションを手はじめとして、同社は中高層住宅の分譲事業にも本格的に進出した。1971年には戸建事業の領域にも乗り出し、埼玉県上尾市の郊外に730戸規模の大型住宅団地を建設している。当時は量的な住宅不足が続いた時代で、他業種からの住宅産業への新規参入も相次ぐ競争環境にあった。こうした条件のなかで、三井不動産は供給力の拡大だけでなく販売体制の強化も急ぎ、1969年7月に三井不動産販売株式会社を設立して、続けて1970年に朝日土地興業、1973年には新名古屋ビルという2社を順に合併することで、販売網と商圏を一挙に広げていった。
1974年10月には、ツーバイフォー工法住宅の開発・販売を担う三井ホームと、臨海土地造成を担う三井不動産建設という2社を設立した。これにより、土地造成を三井不動産建設、マンション・戸建販売を三井不動産販売、戸建建築を三井ホーム、ビル開発を本体が担うという、機能分離型の総合デベロッパー体制が整った。その後2002年に三井不動産建設を売却し、同年に三井不動産販売を完全子会社化、さらに2018年には三井ホームも完全子会社化するというかたちで、機能の分社化と親会社化のあいだを行き来しながら、グループ全体の体制は長い時間をかけて再編されていった。
- 日本会社史総覧 1995/11/1
- 有価証券報告書
石油危機後のゼロ成長下で始まった事業手法多様化
1979年の第二次石油危機を経て、日本経済の景気は鈍化し、企業側の高蓄経営への転換もあいまって、賃貸ビル市場は長い低迷期に入っていった。ゼロ成長下での収益力の確保が課題となるなか、三井不動産は事業手法そのものの多様化に着手する。1980年度の土地税制改正を機に、土地所有者との共同事業システムを「Let's」(「共同参加」の意)と名付け、ひとつのパッケージ化した事業システムとして、組織的な展開を始めた。土地の有効活用から相続対策までを含む総合的なコンサルティングを、デベロッパー側が土地所有者に対して提供する枠組みであり、自社単独の用地仕入れに頼らない収益源の確保にもつながる仕組みだった。
ビル事業では、従来型のオフィス用途以外の展開として、商業施設とホテルという二つの領域への多面展開が進んだ。1981年には商業施設事業の第1号となる「ららぽーと船橋」、1984年には国内直営ホテルチェーン第1号の「三井ガーデンホテル大阪」があいついで開業している。ららぽーとはその後、堺・福岡・門真など各地へと全国展開し、2024年にはLaLa arena TOKYO-BAYを併設する商業とエンタメの融合型の施設群へと姿を変えていった。1981年開業の「ららぽーと船橋」は、以降40年以上の長い期間にわたって、三井不動産の商業施設戦略そのものを規定しつづける起点の拠点となった。
- 日本会社史総覧 1995/11/1
- 有価証券報告書
2005年〜2024年都心ミクストユースとハドソンヤード集中投資
日本橋と赤坂の二拠点並行開発による都心戦略の定型化
2005年7月に日本橋三井タワーが竣工した。三井家発祥の地である日本橋を舞台にして、オフィス・商業・文化施設を一体に組み合わせた本格的なミクストユース開発を仕掛けたことが、同社の都心ミクストユース戦略の出発点となる物件を生んだ。2007年1月には赤坂・六本木エリアで東京ミッドタウンが竣工し、オフィス・住宅・商業・ホテル・美術館までを一体化した代表的な事例として、業界のなかに広く認知された。日本橋と赤坂という性格の異なる二拠点を並行開発するこの手法そのものが、同社の都心戦略の型を形づくり、以降の主要な再開発にも引き継がれていった。
2018年2月には東京ミッドタウン日比谷が竣工した。都心の主要エリアで再開発案件を積み重ねていく過程で、街づくりの視点に立った都心ミクストユース開発と、ソフトサービスによる差別化という二つの要素の組み合わせが、三井不動産のオフィス事業の標準型として定着した。2024年4月には日本橋室町三井タワーと東京ミッドタウン八重洲の2物件があいついで竣工し、日本橋から八重洲・有楽町・日比谷までを結ぶ一連の回廊が、ひとつの連続した街区として完成した。同社の都心再開発は、ひとつの街区という単位を超え、都心全体を面としてつなぐネットワークへと広がっていった。
- 有価証券報告書
- 日本経済新聞 2023/1/9
- 日本経済新聞 2023/5/27
- 財界オンライン 2023/5/8
- 日経ビジネス 2024/7/12
- 決算説明会 FY22
- 決算説明会 FY24-2Q
北米資産2兆円のうち3物件に8,000億円含み益が集中する構造
海外展開は、1973年の米国三井不動産設立、1981年のシンガポール進出、1990年の英国拠点開設というかたちで、地域拠点を一歩ずつ広げてきた経緯にある。とりわけ2010年代後半には、ニューヨークのハドソンヤード地区への集中投資が進み、2018年10月に55ハドソンヤードが竣工し、さらに2024年には50ハドソンヤードが竣工した。2024年11月の決算説明会では、北米資産およそ2兆円のうち約半分(およそ1兆円分)が、50ハドソンヤード・55ハドソンヤード・1251 Avenue of the Americaという3物件で占められ、この3物件だけで合計およそ8,000億円に達する含み益を抱えているとあらためて示された(決算説明会 FY24-2Q)。
海外事業では、同時並行でポートフォリオの棚卸しも進めた。2024年度には、将来キャッシュフローのアップサイドが限定的と見なされる物件を早期に売却し、一部で売却損を計上した。同時に、米国サンベルトエリアの賃貸住宅を回転アセット事業として新たに強化する方針があらためて示された。海外事業の全体を一律に広げていくのではなく、都心のプライム物件には集中的に投資し、それ以外の物件は機動的に回転させて利益を作り出すという二段構えの設計へ、事業の整理が進んだ。海外戦略の重点は、地域拠点数の拡大という軸から、資産の選別と回転という軸へと、確実に移り変わった。
- 有価証券報告書
- 日本経済新聞 2023/1/9
- 日本経済新聞 2023/5/27
- 財界オンライン 2023/5/8
- 日経ビジネス 2024/7/12
- 決算説明会 FY22
- 決算説明会 FY24-2Q
菰田の「リアル再認識」と植田の「街づくりから産業づくりへ」
2011年6月に菰田正信が代表取締役社長に就任し、2023年4月までのおよそ12年という長い期間にわたって、同社の経営を担うことになった。菰田は社長退任にあたり、「リアルワールド(現実世界)の価値を再認識した」(日本経済新聞 2023/01/09)と、就任から退任までの12年間を振り返った。コロナ禍を挟んだ12年間の結論を、リアルな物理空間を扱うデベロッパーという業態そのものの価値と結びつけた総括の言葉だった。コロナ期の需要の大きな揺らぎや、在宅勤務の急速な浸透といった一連の変化を経たうえでの言葉は、続く植田体制が掲げる産業デベロッパー路線へとつながる、ひとつの橋渡しの位置にある。
2023年4月に社長へ就任した植田俊は「目指す姿は産業デベロッパー」(日本経済新聞 2023/05/27)と語り、さらに「異なる分野同士を交ぜ、つなぐ役割を発揮し、日本でイノベーションを起こしていきたい」(財界オンライン 2023/05/08)と繰り返し掲げた。2024年には「街づくりから産業づくりへ」(日経ビジネス 2024/07/12)を対外的な標語として正面に据えている。ライフサイエンス分野のコミュニティ「LINK-J」や宇宙領域の「CROSS-U」を通じた場とコミュニティの提供そのものを、単なる賃貸床の提供にとどまらない独自の収益源として位置づけ直した。植田は「LINK-Jというコミュニティーこそが、当社のライフサイエンスビルやラボといった他社には真似できないアセットクラスを支えている」(決算説明会 FY22)と、その狙いを説明している。
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直近の動向と展望
PBR1倍割れ時代に組まれた「& INNOVATION 2030」
2024年5月、三井不動産は長期経営方針「& INNOVATION 2030」を正式に発表した。直前の2023年度に計上した純利益2,200億円という水準を発射台に位置づけて、2026年度には純利益2,700億円以上、EPS年平均成長率8%以上、ROE 8.5%以上、さらに総還元性向50%以上(配当性向として35%程度・自己株取得15%以上を目安とする)という、広範な定量目標群を全面に掲げた内容になっている。植田俊は「長期経営方針『& INNOVATION 2030』は資本市場の声に耳を傾け、投資家の皆様とともに作り上げたもの」(決算説明会 FY23)と策定過程を説明しており、PBR1倍割れの時代下にあって、株主への還元と成長投資の両立を企図した設計であることを、経営側が対外的に示すかたちとなった。
2023年3月期の売上高2兆2,691億円・純利益1,970億円という水準から出発して、2024年3月期には売上高2兆3,833億円・純利益2,246億円、さらに2025年3月期には売上高2兆6,254億円・純利益2,488億円へと、長期経営方針の初年度と2年度目の業績は、いずれも過去最高を更新するかたちで進捗している。2027年度以降の投資水準については、2024〜2026年度の水準よりさらに一段加速させる一方で、資産側の回転も同時に加速させることにより、総資産9兆円台・有利子負債4兆円台という現在の水準から大きくは変えない規模に、バランスシート全体を抑え込むという設計が、直近の決算説明資料のなかで繰り返し示されているかたちにある。
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バランスシート9兆円のROE改善と需要創出
直近の経営課題は、拡大を続けてきたバランスシート全体をどう運用していくかという、この一点に集約される段階に入った。2023年5月の決算説明会で植田は「金利上昇リスクに備え、いたずらにレバレッジをかけることによりROEを上げることは考えていません」(決算説明会 FY22)と語り、金融レバレッジの拡大ではなく、トップラインとボトムラインそれぞれの増加そのものによってROEを改善していく方針を、対外的に明示した。同社のROE目標は「2025年前後においてROE8%という目標を確実に達成していきます」(決算説明会 FY23-2Q)という段階から、「& INNOVATION 2030」のなかで掲げた8.5%以上の水準へと、さらにもう一段引き上げられた。
植田は需要側の見方として「これからの時代において大事なことは、現在の限られた需要を奪い合うことではなく、新たな需要を作り出していくこと」(決算説明会 FY23-2Q)とも述べている。海外事業では、ニューヨーク旗艦3物件が抱える8,000億円の含み益と、サンベルトエリア賃貸住宅の回転アセット事業を組み合わせて、利益の厚みを作り出す設計が組まれている。国内ではLINK-JとCROSS-Uを核としたライフサイエンス・宇宙領域の「6番目のアセットクラス」の構築、東京ドームの連結子会社化を起点とする商業とエンタメの連動、さらには築地地区のまちづくり事業へのコンソーシアム参画などが、同時並行で動いている。江戸英雄が選んだ路線は、植田体制のもとで、産業を生み出し街を進化させるテーマへと置き換えられている。
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