1872年〜 銀座の洋風調剤薬局と、薬学の手法で興した化粧品
- 1872年 資生堂創業——銀座の洋風調剤薬局から化粧品メーカーへ 医薬分業を志した薬剤師・福原有信氏は、なぜ官を辞して銀座に日本初の民間洋風調剤薬局を開いたのか
- 1888年 日本初の練り歯磨を発売
- 1897年 化粧品に新規参入
- 1915年 商標「花椿」を考案
医薬分業を実地に示すための薬局
福原有信氏は幕府医学所と大学東校で薬学を修め、海軍薬剤監として海軍病院の薬局を主宰した[1]のち、1872年に官務を辞して東京銀座に資生堂薬局を開いた[2]。わが国最初の薬剤師免許を受けた薬剤師[3]で、開局の趣旨は医師の処方と薬剤師の調剤を分ける医薬分業の実践[4]にあった。文明開化の先端にあった銀座に民間の洋風調剤所を構え、あわせて神田鎌倉河岸にわが国初の製薬工場を設け[5]て洋風手法による製薬へ進んだ。社名は中国古典『易経』の『至哉坤元 万物資生』に由来する[6]。資生堂薬局で育った薬剤師は各地で資生堂の名を掲げて独立開局[7]し、その薬局網が売薬の販路となった。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
- [1]福原有信 幕府医学所・大学東校で薬学研修、海軍薬剤監として海軍病院の薬局を主宰
- [4]開局の趣旨 医薬分業の実践
- [5]神田鎌倉河岸 わが国初の製薬工場
- 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
- [2]1872年9月 東京銀座に資生堂薬局として創業
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
- [3]福原有信 わが国最初の薬剤師免許(第一号)
- [7]資生堂薬局で育成された薬剤師が各地で資生堂の名で独立開局
- 資生堂「社名の由来」(企業情報)
- [6]社名の由来 易経「至哉坤元 万物資生」
洋風の生活様式が広がって輸入品への需要が高まる一方、国産品を求める風潮も強まった[8]。資生堂は1888年1月に練歯磨『福原衛生歯磨石鹸』を発売[9]し、わが国練歯磨の元祖[10]となった。日清戦争の勝利後に化粧品の需要が高まると、1897年1月には化粧水『オイデルミン』を発売[11]して化粧品事業へ進んだ。あわせて髪油『柳糸香』やふけとり香水『花たちばな』[12]も出し、いずれも薬学的手法によって製造した[13]点で輸入品や既存の化粧品と分かれた。オイデルミンは『資生堂の赤い水』と呼ばれて長く愛用[14]されている。1899年にはソーダファウンテンを併設し、アイスクリームとソーダ水の先鞭[15]をつけた。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
- [8]洋風生活様式の普及で輸入が増大、一方で国産品愛用の風潮
- [10]わが国練歯磨の元祖
- [12]明治30年 花椿香油・柳糸香・オイデルミンを製造。薬学的手法による製造
- [14]オイデルミン 「資生堂の赤い水」と呼ばれ長く愛用
- 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
- [9]1888年1月 練歯磨「福原衛生歯磨石鹸」を発売
- [11]1897年1月 オイデルミンを発売し化粧品事業へ進出
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
- [13]薬学的手法で製造した化粧品
- [15]明治32年 ソーダファウンテン併設。アイスクリームとソーダ水の先鞭
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
- [1]福原有信 幕府医学所・大学東校で薬学研修、海軍薬剤監として海軍病院の薬局を主宰
- [4]開局の趣旨 医薬分業の実践
- [5]神田鎌倉河岸 わが国初の製薬工場
- [8]洋風生活様式の普及で輸入が増大、一方で国産品愛用の風潮
- [10]わが国練歯磨の元祖
- [12]明治30年 花椿香油・柳糸香・オイデルミンを製造。薬学的手法による製造
- [14]オイデルミン 「資生堂の赤い水」と呼ばれ長く愛用
- 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
- [2]1872年9月 東京銀座に資生堂薬局として創業
- [9]1888年1月 練歯磨「福原衛生歯磨石鹸」を発売
- [11]1897年1月 オイデルミンを発売し化粧品事業へ進出
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
- [3]福原有信 わが国最初の薬剤師免許(第一号)
- [7]資生堂薬局で育成された薬剤師が各地で資生堂の名で独立開局
- [13]薬学的手法で製造した化粧品
- [15]明治32年 ソーダファウンテン併設。アイスクリームとソーダ水の先鞭
- 資生堂「社名の由来」(企業情報)
- [6]社名の由来 易経「至哉坤元 万物資生」
二代目の意匠と、化粧品会社への組み替え
福原有信氏の後継者となった福原信三氏は、日露戦争の前後にアメリカへ留学して化粧品工業を研究し、帰国後は新しい処方で製品を開発[16]した。ヨーロッパの美術工芸にも通じており[17]、1915年9月には商標『花椿』を考案[18]している。優雅で香気あるデザインとして発表時から評判を得た[19]同標は、文字に頼らない図形で会社を識別する資産となった。商標の制定後は製品の幅も広がり、なかでも資生堂コールドクリームが新しい油性クリームとして注目[20]を集めた。1917年には化粧品部を独立させ、翌年以降は本店卸部・大阪小売部・大阪卸部[21]を相次いで設けている。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
- [16]福原信三 アメリカ留学で化粧品工業を研究、帰国後に新処方で新製品を開発
- [17]福原信三 二代目社長。ヨーロッパの美術工芸に造詣
- [19]花椿マーク 優雅で香気あるデザインとして発表時から好評
- [20]資生堂コールドクリーム 新しい油性クリームとして脚光
- 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
- [18]1915年9月 商標「花椿」制定
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
- [21]大正6年 化粧品部を独立、大正7年以降 本店卸部・大阪小売部・大阪卸部を設立
事業の広がりに合わせて組織も改め、1921年3月にはそれまでの個人経営を合資会社組織に変更[22]している。石鹸は1922年から資生堂石鹸として発売[23]し、化粧品・歯磨と並ぶ三つ目の製品群となった。この時点の販路は薬種問屋と、資生堂薬局出身の薬剤師が開いた薬局に依存[24]しており、問屋が新製品の説明を担わないという流通上の摩擦[25]を抱えていた。小売店と共存する組織を自前で作るという発想は、創業期の薬局網に既に芽生えていた[26]ものの、制度としてはまだ形になっていない。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
- [22]大正10年3月 個人経営を合資会社組織に変更
- [23]大正11年以来 資生堂石鹸を発売
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
- [24]売薬は薬種問屋および資生堂薬局出身の薬剤師が独立開局した薬局を通じて販売
- [26]小売店と共に生きる共存共栄をモットーとするチェインストア組織の基盤は創業期の薬局網
- ダイヤモンド 1963年6月3日号
- [25]問屋は新製品への関心が薄く小売店に商品を引き渡すだけで説明もしない流通の摩擦
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
- [16]福原信三 アメリカ留学で化粧品工業を研究、帰国後に新処方で新製品を開発
- [17]福原信三 二代目社長。ヨーロッパの美術工芸に造詣
- [19]花椿マーク 優雅で香気あるデザインとして発表時から好評
- [20]資生堂コールドクリーム 新しい油性クリームとして脚光
- [24]売薬は薬種問屋および資生堂薬局出身の薬剤師が独立開局した薬局を通じて販売
- [26]小売店と共に生きる共存共栄をモットーとするチェインストア組織の基盤は創業期の薬局網
- 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
- [18]1915年9月 商標「花椿」制定
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
- [21]大正6年 化粧品部を独立、大正7年以降 本店卸部・大阪小売部・大阪卸部を設立
- [22]大正10年3月 個人経営を合資会社組織に変更
- [23]大正11年以来 資生堂石鹸を発売
- ダイヤモンド 1963年6月3日号
- [25]問屋は新製品への関心が薄く小売店に商品を引き渡すだけで説明もしない流通の摩擦