資生堂 の歴史

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1872年、福原有信氏が東京・銀座に洋風調剤薬局として創業。練り歯磨から化粧品へ、チェインストア制度、再販価格維持の撤廃、メガブランドTSUBAKI、魚谷雅彦氏の招聘までの沿革と経緯を執筆。

創業

1872年

創業者

福原有信

創業地

東京都中央区

直近売上高(2025/12)

9,699億円

長期業績と転換点(1996/3〜2025/12)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1872年に薬剤師の福原有信氏は銀座で「薬局」を開いたのか
A 医薬品の調剤で品質を保証する立場を取ったことが、化粧品参入時の差別化の素地になったためである。1872年9月、薬剤師免許第一号の福原有信氏は商業の中心である銀座に資生堂薬局を開き、医師の処方に基づく調剤を主業として医師の信頼を得た。1897年1月には化粧水『オイデルミン』を発売し、医薬品で培った成分管理の知見を製品設計へ移して輸入品と競った。薬局からメーカーへ主業が移る出発点に、銀座という立地と医薬品由来の品質保証が並んでいた
Q なぜ1923年に資生堂は問屋を販社へ組み替えるチェインストア方式を作ったのか
A 関東大震災で配給機構が壊滅した混乱を、流通を組み替える機会と捉えたためである。1923年12月、資生堂は問屋を『資生堂製品だけを扱う販売会社』へ組み替え、その株式を所属する小売店に持たせる二段構えのチェインストア方式を作った。福原信三氏は『配給機構が全く壊滅し、混乱を致しておりましたので、それを機会に、系統だった販売組織を確立しようと思いつきまして』と後年に述べている。流通の各段を資本で囲い込み、値引きが起きない仕組みと小売価格まで握る垂直統合が成り立った
Q なぜ2021年にパーソナルケアを売却しスキンケア・プレステージへ集中したのか
A 1997年の再販価格維持撤廃で『値引きが起きない仕組み』の前提が崩れ、低価格帯の収益性が落ちたためである。2021年7月、資生堂はパーソナルケア事業を売却して低価格帯から事実上撤退し、同年12月にはベアミネラルなど米国3ブランドを譲渡した。約100ブランドを抱えた2000年代初頭の事業構成から、スキンケアとプレステージへ資源を集める構造へ組み替えた。単純化と引き換えに、中国市場の需要変動が業績を直に揺らす体質を引き受けた

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1872年〜 銀座の洋風調剤薬局と、薬学の手法で興した化粧品

医薬分業を実地に示すための薬局

福原有信氏は幕府医学所と大学東校で薬学を修め、海軍薬剤監として海軍病院の薬局を主宰した[1]のち、1872年に官務を辞して東京銀座に資生堂薬局を開いた[2]。わが国最初の薬剤師免許を受けた薬剤師[3]で、開局の趣旨は医師の処方と薬剤師の調剤を分ける医薬分業の実践[4]にあった。文明開化の先端にあった銀座に民間の洋風調剤所を構え、あわせて神田鎌倉河岸にわが国初の製薬工場を設け[5]て洋風手法による製薬へ進んだ。社名は中国古典『易経』の『至哉坤元 万物資生』に由来する[6]。資生堂薬局で育った薬剤師は各地で資生堂の名を掲げて独立開局[7]し、その薬局網が売薬の販路となった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [1]福原有信 幕府医学所・大学東校で薬学研修、海軍薬剤監として海軍病院の薬局を主宰
    • [4]開局の趣旨 医薬分業の実践
    • [5]神田鎌倉河岸 わが国初の製薬工場
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [2]1872年9月 東京銀座に資生堂薬局として創業
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
    • [3]福原有信 わが国最初の薬剤師免許(第一号)
    • [7]資生堂薬局で育成された薬剤師が各地で資生堂の名で独立開局
  • 資生堂「社名の由来」(企業情報)
    • [6]社名の由来 易経「至哉坤元 万物資生」

洋風の生活様式が広がって輸入品への需要が高まる一方、国産品を求める風潮も強まった[8]。資生堂は1888年1月に練歯磨『福原衛生歯磨石鹸』を発売[9]し、わが国練歯磨の元祖[10]となった。日清戦争の勝利後に化粧品の需要が高まると、1897年1月には化粧水『オイデルミン』を発売[11]して化粧品事業へ進んだ。あわせて髪油『柳糸香』やふけとり香水『花たちばな』[12]も出し、いずれも薬学的手法によって製造した[13]点で輸入品や既存の化粧品と分かれた。オイデルミンは『資生堂の赤い水』と呼ばれて長く愛用[14]されている。1899年にはソーダファウンテンを併設し、アイスクリームとソーダ水の先鞭[15]をつけた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [8]洋風生活様式の普及で輸入が増大、一方で国産品愛用の風潮
    • [10]わが国練歯磨の元祖
    • [12]明治30年 花椿香油・柳糸香・オイデルミンを製造。薬学的手法による製造
    • [14]オイデルミン 「資生堂の赤い水」と呼ばれ長く愛用
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [9]1888年1月 練歯磨「福原衛生歯磨石鹸」を発売
    • [11]1897年1月 オイデルミンを発売し化粧品事業へ進出
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
    • [13]薬学的手法で製造した化粧品
    • [15]明治32年 ソーダファウンテン併設。アイスクリームとソーダ水の先鞭
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [1]福原有信 幕府医学所・大学東校で薬学研修、海軍薬剤監として海軍病院の薬局を主宰
    • [4]開局の趣旨 医薬分業の実践
    • [5]神田鎌倉河岸 わが国初の製薬工場
    • [8]洋風生活様式の普及で輸入が増大、一方で国産品愛用の風潮
    • [10]わが国練歯磨の元祖
    • [12]明治30年 花椿香油・柳糸香・オイデルミンを製造。薬学的手法による製造
    • [14]オイデルミン 「資生堂の赤い水」と呼ばれ長く愛用
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [2]1872年9月 東京銀座に資生堂薬局として創業
    • [9]1888年1月 練歯磨「福原衛生歯磨石鹸」を発売
    • [11]1897年1月 オイデルミンを発売し化粧品事業へ進出
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
    • [3]福原有信 わが国最初の薬剤師免許(第一号)
    • [7]資生堂薬局で育成された薬剤師が各地で資生堂の名で独立開局
    • [13]薬学的手法で製造した化粧品
    • [15]明治32年 ソーダファウンテン併設。アイスクリームとソーダ水の先鞭
  • 資生堂「社名の由来」(企業情報)
    • [6]社名の由来 易経「至哉坤元 万物資生」

二代目の意匠と、化粧品会社への組み替え

福原有信氏の後継者となった福原信三氏は、日露戦争の前後にアメリカへ留学して化粧品工業を研究し、帰国後は新しい処方で製品を開発[16]した。ヨーロッパの美術工芸にも通じており[17]、1915年9月には商標『花椿』を考案[18]している。優雅で香気あるデザインとして発表時から評判を得た[19]同標は、文字に頼らない図形で会社を識別する資産となった。商標の制定後は製品の幅も広がり、なかでも資生堂コールドクリームが新しい油性クリームとして注目[20]を集めた。1917年には化粧品部を独立させ、翌年以降は本店卸部・大阪小売部・大阪卸部[21]を相次いで設けている。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [16]福原信三 アメリカ留学で化粧品工業を研究、帰国後に新処方で新製品を開発
    • [17]福原信三 二代目社長。ヨーロッパの美術工芸に造詣
    • [19]花椿マーク 優雅で香気あるデザインとして発表時から好評
    • [20]資生堂コールドクリーム 新しい油性クリームとして脚光
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [18]1915年9月 商標「花椿」制定
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
    • [21]大正6年 化粧品部を独立、大正7年以降 本店卸部・大阪小売部・大阪卸部を設立

事業の広がりに合わせて組織も改め、1921年3月にはそれまでの個人経営を合資会社組織に変更[22]している。石鹸は1922年から資生堂石鹸として発売[23]し、化粧品・歯磨と並ぶ三つ目の製品群となった。この時点の販路は薬種問屋と、資生堂薬局出身の薬剤師が開いた薬局に依存[24]しており、問屋が新製品の説明を担わないという流通上の摩擦[25]を抱えていた。小売店と共存する組織を自前で作るという発想は、創業期の薬局網に既に芽生えていた[26]ものの、制度としてはまだ形になっていない。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
    • [22]大正10年3月 個人経営を合資会社組織に変更
    • [23]大正11年以来 資生堂石鹸を発売
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [24]売薬は薬種問屋および資生堂薬局出身の薬剤師が独立開局した薬局を通じて販売
    • [26]小売店と共に生きる共存共栄をモットーとするチェインストア組織の基盤は創業期の薬局網
  • ダイヤモンド 1963年6月3日号
    • [25]問屋は新製品への関心が薄く小売店に商品を引き渡すだけで説明もしない流通の摩擦
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [16]福原信三 アメリカ留学で化粧品工業を研究、帰国後に新処方で新製品を開発
    • [17]福原信三 二代目社長。ヨーロッパの美術工芸に造詣
    • [19]花椿マーク 優雅で香気あるデザインとして発表時から好評
    • [20]資生堂コールドクリーム 新しい油性クリームとして脚光
    • [24]売薬は薬種問屋および資生堂薬局出身の薬剤師が独立開局した薬局を通じて販売
    • [26]小売店と共に生きる共存共栄をモットーとするチェインストア組織の基盤は創業期の薬局網
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [18]1915年9月 商標「花椿」制定
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
    • [21]大正6年 化粧品部を独立、大正7年以降 本店卸部・大阪小売部・大阪卸部を設立
    • [22]大正10年3月 個人経営を合資会社組織に変更
    • [23]大正11年以来 資生堂石鹸を発売
  • ダイヤモンド 1963年6月3日号
    • [25]問屋は新製品への関心が薄く小売店に商品を引き渡すだけで説明もしない流通の摩擦

1923年〜 チェインストア制度という流通の設計と、戦後の首位

資生堂の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1923年 チェインストア・販売会社方式の確立 化粧品の乱売と関東大震災後の流通壊滅を前に、資生堂はなぜ問屋依存をやめてメーカー主導の販売会社制へ組み替えたのか
  2. 1927年 資生堂に商号変更
  3. 1949年 東京証券取引所に株式上場
  4. 1952年 躍進5ヵ年計画を策定
  5. 1957年 台湾資生堂を設立
  6. 1959年 大船工場を新設
  7. 1964年 国内シェア1位

震災が壊した配給機構と、販売会社への組み替え

大正期の化粧品業界は乱売で疲弊しており、福原信三氏は後年、「今から30、40年前に業界の乱売が激しく、メーカーも問屋も小売店も倒産者が続出するという恐慌時代[27]がありまして、私どもはやはり、公正な利潤を獲得することが、結局は消費者に対する正しいサービスだということに気がつき[28]、その当時から販売組織の研究を始めたのです」(東商 1963/05)と振り返っている。問屋への不満も強く、『あまりメーカーの開発した新製品には関心を持たず、従って十分な説明もせずに、小売店にただ商品を引き渡せば、時分の仕事は終わったというやり方には不満がありました』(同)と述べた。のちに社長となる松本昇氏がアメリカのボランタリー・チェーンを調べて持ち帰っていたが、商工省に取り上げられず棚上げ[29]になっていた。

  • 東商 1963年5月号「我が社の販売組織とスーパー・マーケットに対する考え方」
    • [27]大正期の化粧品業界 乱売でメーカー・問屋・小売店に倒産者が続出する恐慌状態
    • [28]福原信三 公正な利潤の獲得が消費者への正しいサービスと考え販売組織の研究を開始
    • [29]松本昇(のちの社長)がアメリカのボランタリー・チェーンを調査して持ち帰るも商工省に取り上げられず棚上げ

1923年9月の関東大震災は資生堂にも大きな被害を与え[30]、既存の配給機構を壊した。福原信三氏はこれを転機と受け止め、『大震災後、配給機構が全く壊滅し、混乱を致しておりましたので、それを機会に、系統だった販売組織を確立しようと思いつきまして、組織づくりを初めたわけであります』(東商 1963/05)と語っている。同年12月、資生堂はチェインストア制度を採用[31]した。当初は20店程度という見込みだったが、まもなく数千の協力店[32]を得るまで広がっている。あわせて大阪・吹田に工場を設け[33]、翌1924年には取次店制度を実施[34]した。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [30]大正12年 関東大震災で大被害
    • [32]当初20店程度の予想を破りまもなく数千の協力店
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [31]1923年12月 チェインストア制度を採用
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
    • [33]大正12年 大阪吹田に工場を増設
    • [34]大正13年 取次店制度を実施

組み替えは二段構えで進み、資生堂はまず問屋へ別会計を求めて自社の営業代理部とし、次にそれらを資生堂製品だけを扱う販売会社へ組織替え[35]した。福原信三氏は『そこで初めて当社製品の値引き販売の防止ということが、小売店にまで徹底しました』と述べている。さらに販売会社の株式を所属チェインストア全部に持たせ[36]、『これはあなた方の会社だからという印象を与え、利害関係をともにするという密接な関係に結びつけた』(同)。1926年にはセールスメンバー販売組織を敷き[37]、1927年6月には資本金150万円で合資会社を株式会社組織に改め[38]、同年8月に取次店制度を発展させて販売会社制度とした[39]

  • 東商 1963年5月号「我が社の販売組織とスーパー・マーケットに対する考え方」
    • [35]問屋に別会計を求めて営業代理部とし、さらに資生堂製品専業の販売会社へ組織替え
    • [36]販売会社の株式を所属チェインストア全部に保有させ利害を共有
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
    • [37]大正15年 セールスメンバー販売組織を実施
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [38]1927年6月 合資会社を株式会社組織に変更(資本金150万円)
    • [39]1927年8月 販売会社制度を採用
  • 東商 1963年5月号「我が社の販売組織とスーパー・マーケットに対する考え方」
    • [27]大正期の化粧品業界 乱売でメーカー・問屋・小売店に倒産者が続出する恐慌状態
    • [28]福原信三 公正な利潤の獲得が消費者への正しいサービスと考え販売組織の研究を開始
    • [29]松本昇(のちの社長)がアメリカのボランタリー・チェーンを調査して持ち帰るも商工省に取り上げられず棚上げ
    • [35]問屋に別会計を求めて営業代理部とし、さらに資生堂製品専業の販売会社へ組織替え
    • [36]販売会社の株式を所属チェインストア全部に保有させ利害を共有
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [30]大正12年 関東大震災で大被害
    • [32]当初20店程度の予想を破りまもなく数千の協力店
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [31]1923年12月 チェインストア制度を採用
    • [38]1927年6月 合資会社を株式会社組織に変更(資本金150万円)
    • [39]1927年8月 販売会社制度を採用
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
    • [33]大正12年 大阪吹田に工場を増設
    • [34]大正13年 取次店制度を実施
    • [37]大正15年 セールスメンバー販売組織を実施

花椿会という消費者組織と、大陸への拡張

流通の統制は消費者の層にまで及び、1937年1月に資生堂は消費者組織『花椿会』を結成[40]している。小売段階での組織化を担ったのはチェインストアで、会員には雑誌『花椿』を配り、購買高に応じて景品を贈り、おしゃれの映画へ招く[41]といった催しを各地で行った。1927年1月には向島に石鹸工場を開設[42]し、1928年3月には東京・品川の新工場が竣工して大阪工場を合わせている[43]

  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [40]1937年1月 資生堂花椿会発足
  • 東商 1963年5月号「我が社の販売組織とスーパー・マーケットに対する考え方」
    • [41]花椿会 会員に雑誌「花椿」を配布、購買高に応じ景品、映画へ招待
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
    • [42]昭和2年1月 向島に石鹸工場を開設
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [43]昭和3年3月 東京・品川に新工場竣工、大阪工場を合体

1930年代後半、外地の販売会社は10社を超え[44]、販売網は中国大陸から台湾・朝鮮・満州・東南アジアに及んでいる[45]。生産面では撫順と上海に工場を建て、台湾と海南島では農園も経営[46]した。化粧品業者としてはアジア最大の組織となり、東洋最大の化粧品メーカー[47]と呼ばれる規模に達している。1939年9月には資生堂化学研究所を設けて[48]製品の改良にあたった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [44]外地における販売会社は10社を超える
    • [47]化粧品業者としてアジア最大の組織/東洋最大の化粧品メーカー
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
    • [45]販売網は台湾・朝鮮・満州・中国・東南アジアに及ぶ
    • [46]撫順および上海に工場を建設、台湾・海南島で農園を経営
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [48]1939年9月 資生堂化学研究所完成

太平洋戦争が終わると、資生堂は戦火を免れた東京工場をもとに再建[49]へ入った。窮乏した戦後の生活のなかで苦難が続き、1950年にようやく『花椿香油』と『資生堂石鹸』が復活[50]している。戦争で姿を消した商品も順に再出発[51]した。1948年12月には大阪資生堂を設立[52]して生産の網を整え直し、社業は戦前の盛時をしのいで再び業界第一位の地位を占めている[53]。1955年時点の製品は化粧品関係267品目・石鹸歯磨関係48品目[54]に達し、1954年度の売上は40億7000万円、同年6月に資本金3億円[55]となった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [49]戦火を免れた東京工場をもとに再建
    • [50]昭和25年 「花椿香油」「資生堂石鹸」が復活
    • [51]戦争で姿を消していた商品もつぎつぎ再出発
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [52]1948年12月 大阪資生堂設立
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
    • [53]社業は戦前の盛時をしのぎ再び業界第一位
    • [54]1955年時点 化粧品関係267品目・石鹸歯磨関係48品目
    • [55]昭和29年度売上 40億7000万円、昭和29年6月 資本金3億円
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [40]1937年1月 資生堂花椿会発足
    • [48]1939年9月 資生堂化学研究所完成
    • [52]1948年12月 大阪資生堂設立
  • 東商 1963年5月号「我が社の販売組織とスーパー・マーケットに対する考え方」
    • [41]花椿会 会員に雑誌「花椿」を配布、購買高に応じ景品、映画へ招待
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
    • [42]昭和2年1月 向島に石鹸工場を開設
    • [45]販売網は台湾・朝鮮・満州・中国・東南アジアに及ぶ
    • [46]撫順および上海に工場を建設、台湾・海南島で農園を経営
    • [53]社業は戦前の盛時をしのぎ再び業界第一位
    • [54]1955年時点 化粧品関係267品目・石鹸歯磨関係48品目
    • [55]昭和29年度売上 40億7000万円、昭和29年6月 資本金3億円
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [43]昭和3年3月 東京・品川に新工場竣工、大阪工場を合体
    • [44]外地における販売会社は10社を超える
    • [47]化粧品業者としてアジア最大の組織/東洋最大の化粧品メーカー
    • [49]戦火を免れた東京工場をもとに再建
    • [50]昭和25年 「花椿香油」「資生堂石鹸」が復活
    • [51]戦争で姿を消していた商品もつぎつぎ再出発

上場と量産、そして業界首位

1949年5月、資生堂は東京証券取引所へ株式を上場[56]した。1955年時点で販売会社は73社(資本金合計1億6000万円余)、契約チェインストアは約8000店、セールスメンバーは約10万店[57]を数えている。1956年には東京・渋谷に東洋最大の資生堂美容室を開き[58]、店頭で美容を教える体制を広げた。1957年6月には台湾資生堂を設立して、翌年4月から製造を始めている[59]

  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [56]1949年5月 東京証券取引所に株式を上場
    • [59]1957年6月 台湾資生堂設立(翌年4月製造開始)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
    • [57]1955年時点 販売会社73社(資本金合計1億6千余万円)・契約チェーンストア約8000・セールスメンバー約10万店
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [58]昭和31年 東洋最大の資生堂美容室を東京・渋谷に開設

1959年10月には資生堂商事を設立[60]し、翌11月には神奈川・大船に化粧品専門工場を建てて[61]化粧水や乳液を量産した。1960年代前半の資生堂は国内化粧品市場で首位に立ち、経済誌は『東方の中央集権的に組織化されたチェーン・システムと、西方の自主性を尊重する弾力性ある代理店システムのいずれが販売戦の雌雄を決するか』(ダイヤモンド 1963/06/03)と、資生堂と中山太陽堂の方式を対置して論じた。1968年時点の年間売上高は約650億円で過去10年に約6倍となり、業界シェアは30%を超えている[62]

  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [60]1959年10月 資生堂商事設立
    • [61]1959年11月 大船工場完成(化粧品専門工場)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [62]1968年時点 年間売上高約650億円・過去10年で約6倍・業界シェア30%超
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [56]1949年5月 東京証券取引所に株式を上場
    • [59]1957年6月 台湾資生堂設立(翌年4月製造開始)
    • [60]1959年10月 資生堂商事設立
    • [61]1959年11月 大船工場完成(化粧品専門工場)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
    • [57]1955年時点 販売会社73社(資本金合計1億6千余万円)・契約チェーンストア約8000・セールスメンバー約10万店
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [58]昭和31年 東洋最大の資生堂美容室を東京・渋谷に開設
    • [62]1968年時点 年間売上高約650億円・過去10年で約6倍・業界シェア30%超

1965年〜 再販制度に支えられた繁栄と、その前提の喪失

資生堂の業績推移

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1965年 資生堂コスメティックスを設立
  2. 1975年 掛川工場を新設
  3. 1983年 久喜工場を新設(トイレタリー)
  4. 1987年 販社改革・在庫回収
  5. 1991年 中国・北京麗源公司と資生堂麗源化粧品有限公司を設立
  6. 1996年 ヘレンカーチス社の北米プロフェッショナル事業を買収
  7. 1997年 再販価格維持の撤廃 公取委と争えたはずの資生堂は、なぜ70年続いた価格統制を手放し「争いより改革」を選んだのか

自力自衛の財務と、1,000万人の消費者組織

1969年2月、常務取締役の伊藤高氏は証券アナリスト協会の企業分析部会で資生堂の経営を説明[63]した。配当性向が低いという批判に対し、資本自由化と再販価格問題を控えて利益剰余金の積み増しによる体質強化に努めてきた[64]と述べ、『いろいろな意味で、いざという時に国家や金融機関から助けられる産業はあるが、化粧品会社はどこにも助けを求めることはできない』(証券アナリストジャーナル 1969年7巻3号)と説明している。自己資本比率は32%で国内では高い部類にあったが、マックスファクターの81%、レブロンの62%、エイボンの69%[65]には及ばなかった。1968年11月期には5分の特別配当を付け、あわせて2割5分の配当[66]を実施している。

  • 証券アナリストジャーナル 1969年7巻3号(常務取締役 伊藤高)
    • [63]1969年2月12日 常務取締役 伊藤高が企業分析第4部会で講演
    • [64]資本自由化と再販価格問題を控え、利益剰余金の積み増しで企業体質を強化
    • [65]自己資本比率32%。マックスファクター81%・レブロン62%・エイボン69%
    • [66]昭和43年11月期 5分の特別配当を付け合計2割5分の配当

同じ講演では流通の規模も示され、1969年時点で国内の販売会社は82社、チェインストアは約1万5000店、ホールセールチェインは約300店、セールスメンバーは約10万店[67]に達していた。消費者組織『花椿会』の会員は1000万人を超え[68]、各店には会員の住所や肌質、購入した製品名と金額を記した会員台帳が置かれ、3000人から5000人分の会員カードを持つ店もあった[69]。資生堂はここから集めた情報を電子計算機に入れて営業活動へ用いており[70]、伊藤氏はこの規模の消費者組織は世界でも類がないと述べている。店頭に立つ美容部員は全国で6000人以上[71]を数えた。

  • 証券アナリストジャーナル 1969年7巻3号(常務取締役 伊藤高)
    • [67]1969年時点 販売会社82社・チェインストア約15,000店・ホールセールチェイン約300店・セールスメンバー約10万店
    • [68]花椿会 会員数1,000万人超
    • [69]会員台帳に住所・肌・販売製品名・販売金額を記載。3,000〜5,000名の会員カードを持つ店も
    • [70]チェインストアから集めた情報を電子計算機に入れて経営に反映
    • [71]美容部員は全国に6,000人以上

海外へは自前で出て、1962年にシセイドウ・オブ・ハワイを設立[72]して足がかりを作り、1965年8月には資生堂コスメティックス(アメリカ)を設立[73]して本格的な進出に踏み切っている。米国企業を買収すれば会社設立の手間も販路開拓も省け黒字転換は早いという指摘に対し、伊藤氏は化粧品は卸へ一括で売れば済む商品ではなく、自社で養成した美容部員を店頭に立たせて消費者の手に渡るまで世話をする必要がある[74]と答えた。地味な進出ながら、当時すでにニューヨークのメーシーデパートをはじめ全米各地の販売店[75]へ商品を置いている。1968年6月にはイタリアへ[76]、1980年7月にはドイツへ現地法人を設けた[77]

  • 証券アナリストジャーナル 1969年7巻3号(常務取締役 伊藤高)
    • [72]昭和37年 シセイドウ・オブ・ハワイ設立
    • [74]伊藤高 買収でなく自前進出を選んだ理由は美容部員を店頭に立たせる必要があるため
    • [75]ニューヨークのメーシーデパートをはじめ全米各地の販売店を通じて販売
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [73]1965年8月 資生堂コスメティックス(アメリカ)設立
    • [76]1968年6月 資生堂コスメティチ(イタリア)設立
    • [77]1980年7月 資生堂ドイチュラントGmbH設立
  • 証券アナリストジャーナル 1969年7巻3号(常務取締役 伊藤高)
    • [63]1969年2月12日 常務取締役 伊藤高が企業分析第4部会で講演
    • [64]資本自由化と再販価格問題を控え、利益剰余金の積み増しで企業体質を強化
    • [65]自己資本比率32%。マックスファクター81%・レブロン62%・エイボン69%
    • [66]昭和43年11月期 5分の特別配当を付け合計2割5分の配当
    • [67]1969年時点 販売会社82社・チェインストア約15,000店・ホールセールチェイン約300店・セールスメンバー約10万店
    • [68]花椿会 会員数1,000万人超
    • [69]会員台帳に住所・肌・販売製品名・販売金額を記載。3,000〜5,000名の会員カードを持つ店も
    • [70]チェインストアから集めた情報を電子計算機に入れて経営に反映
    • [71]美容部員は全国に6,000人以上
    • [72]昭和37年 シセイドウ・オブ・ハワイ設立
    • [74]伊藤高 買収でなく自前進出を選んだ理由は美容部員を店頭に立たせる必要があるため
    • [75]ニューヨークのメーシーデパートをはじめ全米各地の販売店を通じて販売
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [73]1965年8月 資生堂コスメティックス(アメリカ)設立
    • [76]1968年6月 資生堂コスメティチ(イタリア)設立
    • [77]1980年7月 資生堂ドイチュラントGmbH設立

多品種化が積み上げた在庫と、押し込みの是正

1973年時点の資生堂は問屋と共同出資した販売会社89社を擁し、その傘下に約1万6000店のメーカー主宰ボランタリーチェーン[78]を抱えて化粧品流通を掌握していた。生産設備も1970年代から80年代にかけて増え、1975年7月に掛川工場が完成して同年10月から稼働[79]し、1983年1月には久喜工場が完成している[80]。市場の側はその間に変わり、1973年ごろまでは季節キャンペーンを打てばチェーン店の売上が伸びたが、1980年代に入ると消費者は年齢に応じて自分に合う化粧品を選ぶようになり、立地ごとに売れる商品が分かれた[81]。資生堂は多品種少量生産で細分化に応じたものの、のちに弦間明常務チェイン事業本部副本部長は、『当時、マーケティング上の常識だった』多品種化が『結局、在庫の増加だけだった』[82](日経流通新聞 1991/09/17)と総括している。

  • 日経ビジネス 1973年7月9日号(日経BP社)
    • [78]1973年時点 販売会社89社・傘下約1万6000店のボランタリーチェーン
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [79]1975年7月 掛川工場完成(同年10月稼動)
    • [80]1983年1月 久喜工場完成
  • 日経産業新聞(日本経済新聞社, 1982年8月26日)
    • [81]1980年代 消費者が年齢に応じて化粧品を選び、立地ごとに売れる商品が分化
  • 日経流通新聞(日本経済新聞社, 1991年9月17日)
    • [82]弦間明(常務チェイン事業本部副本部長)多品種化を「結局、在庫の増加だけだった」と総括

1983年には大野良雄社長が『肝心の小売店側には高度成長期の良き日々の思い出に浸っているところが多い』『私ら自身が美容部員からコーナー設定まで面倒をみるなどずっと小売店に"過保護"だった』と述べ、自らのチェインストア政策が小売の自助努力を損ねたことを認めた。約2万人の社員と全国約2万5000軒のチェーン店[83]を束ねる負担は重く、1987年7月には社長が2代続けて急死した[84]。押し込み販売でたまった在庫の処理に踏み込んだのは同年に社長へ就いた福原義春氏で、就任直後に化粧品専門店へ積み上がっていた在庫300億円を処理[85]しており、これは創業家出身の社長であればこそできたことだと当時の幹部は振り返っている[86]

  • 日本経済新聞(1987年7月20日)
    • [83]約2万人の社員・全国約2万5000軒のチェーン店。1987年7月に2代続いた社長急死
    • [84]1987年7月に社長が2代続けて急死
  • 週刊東洋経済 2023年9月30日号
    • [85]福原義春 1987年社長就任。就任直後に押し込み販売でたまった在庫300億円を処理
    • [86]在庫処理は創業家出身の社長だからこそできたことという幹部OBの証言

福原氏は外国部長の時代にフランスでの事業開始と中国進出を進めた[87]人物でもあり、社長の時期に資生堂は海外ブランドの買収と現地生産へ動いた。1986年2月にフランスのカリタ社を[88]、1988年9月には米国のゾートス社を買収[89]している。1988年8月には資生堂インターナショナルを設立し[90]、1989年3月には決算日を11月30日から3月31日へ改めた[91]。1990年10月にはボーテプレステージインターナショナルをフランスに設立[92]し、翌1991年10月にフランス・ジアン工場が竣工[93]している。1991年12月には中国の北京麗源公司と合弁で資生堂麗源化粧品有限公司を設立[94]し、1996年12月には米国ヘレンカーチス社の北米プロフェッショナル事業部門を買収[95]した。

  • 週刊東洋経済 2023年9月30日号
    • [87]福原義春 外国部長時代にフランス事業開始と中国進出を推進
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [88]1986年2月 フランスカリタ社買収
    • [89]1988年9月 米国ゾートス社を買収
    • [90]1988年8月 資生堂インターナショナルCorp.設立
    • [91]1989年3月 決算日を11月30日から3月31日に変更
    • [92]1990年10月 ボーテプレステージインターナショナルS.A.をフランスに設立
    • [93]1991年10月 フランスジアン工場竣工
    • [94]1991年12月 北京麗源公司と合弁で資生堂麗源化粧品有限公司を設立
    • [95]1996年12月 米国ヘレンカーチス社の北米プロフェッショナル事業部門を買収
  • 日経ビジネス 1973年7月9日号(日経BP社)
    • [78]1973年時点 販売会社89社・傘下約1万6000店のボランタリーチェーン
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [79]1975年7月 掛川工場完成(同年10月稼動)
    • [80]1983年1月 久喜工場完成
    • [88]1986年2月 フランスカリタ社買収
    • [89]1988年9月 米国ゾートス社を買収
    • [90]1988年8月 資生堂インターナショナルCorp.設立
    • [91]1989年3月 決算日を11月30日から3月31日に変更
    • [92]1990年10月 ボーテプレステージインターナショナルS.A.をフランスに設立
    • [93]1991年10月 フランスジアン工場竣工
    • [94]1991年12月 北京麗源公司と合弁で資生堂麗源化粧品有限公司を設立
    • [95]1996年12月 米国ヘレンカーチス社の北米プロフェッショナル事業部門を買収
  • 日経産業新聞(日本経済新聞社, 1982年8月26日)
    • [81]1980年代 消費者が年齢に応じて化粧品を選び、立地ごとに売れる商品が分化
  • 日経流通新聞(日本経済新聞社, 1991年9月17日)
    • [82]弦間明(常務チェイン事業本部副本部長)多品種化を「結局、在庫の増加だけだった」と総括
  • 日本経済新聞(1987年7月20日)
    • [83]約2万人の社員・全国約2万5000軒のチェーン店。1987年7月に2代続いた社長急死
    • [84]1987年7月に社長が2代続けて急死
  • 週刊東洋経済 2023年9月30日号
    • [85]福原義春 1987年社長就任。就任直後に押し込み販売でたまった在庫300億円を処理
    • [86]在庫処理は創業家出身の社長だからこそできたことという幹部OBの証言
    • [87]福原義春 外国部長時代にフランス事業開始と中国進出を推進

排除勧告の受諾と、価格統制の終わり

対面販売を義務づける仕組みは1990年代に入って法廷と当局の双方から問われ、東京地裁は対面販売の義務づけが価格維持の効果を生み、独占禁止法の趣旨に反する可能性があると判断[96]し、公正取引委員会も販売会社を立ち入り検査[97]している。1991年の時点で再販価格維持制度からの除外は必至とみられており、規模の小さいチェーン店がスーパーとの価格競争にさらされる懸念[98]も指摘された。同じころ資生堂の費用構造も重くなり、1993年3月期の売上高に占める固定費比率は54.32%で、製造業平均の28.5%[99]の倍近くに達した。美容部員の派遣費を含む販管費が、定価販売を支える一方で収益を圧迫[100]していた。

  • 日経ビジネス 1993年11月8日号(日経BP社)
    • [96]東京地裁 対面販売の義務づけが価格維持の効果を生み独禁法の趣旨に反する可能性があると判断
    • [97]公正取引委員会が販売会社を立ち入り検査
    • [99]1993年3月期 売上高に占める固定費比率54.32%(製造業平均28.5%)
    • [100]美容部員派遣費などの販管費が高コスト体質の要因
  • 日経流通新聞(日本経済新聞社, 1991年9月17日)
    • [98]1991年時点で再販価格維持制度からの除外は必至との見方。小規模チェーン店がスーパーとの価格競争にさらされる懸念

1995年6月、公正取引委員会は大手量販店への価格拘束を理由に排除勧告[101]を出している。役員会では争う意見も強かったが、福原義春社長は同年9月末に受諾を決めている[102]。市場が流動化するなかで争い続ける実質的な意味を疑い、守りに費やすエネルギーを販売体質の改革へ振り向けるべきだと判断[103]した。福原氏はこの受諾を、大正時代のチェーンストア発足以来の転換点と位置づけている[104]。組織の側も1995年4月に販売会社15社を合併して資生堂化粧品販売とし[105]、分散していた販社を束ね直した。価格統制は1997年4月に手放され[106]、1923年以来の値引きが起きない仕組みは前提を失った。

  • 日経ビジネス 1995年10月30日号(日経BP社)
    • [101]1995年6月 公正取引委員会が大手量販店への価格拘束を理由に排除勧告
    • [102]福原義春 1995年9月末に排除勧告の受諾を決断
    • [103]福原義春 争い続ける意味を疑い、守りのエネルギーを販売体質の改革へ振り向けると判断
    • [104]福原義春 排除勧告受諾を大正時代のチェーンストア発足以来の歴史的転換点と位置づけ
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [105]1995年4月 販売会社15社を合併し資生堂化粧品販売とする
  • 日経ビジネス 1998年6月29日号(日経BP社)
    • [106]1997年4月 再販売価格維持を撤廃

価格拘束が外れると小売段階での値引き販売が広がり、ドラッグストアを主戦場とする低価格帯のブランドが力を伸ばした[107]弦間明社長は、メーカーの論理と顧客の論理のずれを早く埋めなければ支持されないという教訓[108]を得たと総括し、価格拘束を外したうえでスキンケアを軸に対面販売を強化する方針[109]を示した。連結売上高は1998年3月期の6209億円を頂点として伸び悩み[110]に入っている。1998年2月には上海に合作会社を設け[111]、同年9月には香港に合弁会社を設立[112]して、中国圏の足場を作り直した。

  • 日経ビジネス 1998年6月29日号(日経BP社)
    • [107]再販撤廃後に値引き商品志向が広がり低価格帯ブランドが台頭
    • [108]弦間明 メーカーの論理と顧客の論理のギャップを埋めなければ支持されないと総括
    • [109]弦間明 価格拘束を外してもスキンケアを軸に対面販売を強化する方針
  • 資生堂 有価証券報告書(連結)
    • [110]連結売上高は1998年3月期の6209億円がピーク
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [111]1998年2月 上海に合作会社 上海卓多姿中信化粧品有限公司を設立
    • [112]1998年9月 香港に合弁会社 資生堂大昌行化粧品有限公司を設立
  • 日経ビジネス 1993年11月8日号(日経BP社)
    • [96]東京地裁 対面販売の義務づけが価格維持の効果を生み独禁法の趣旨に反する可能性があると判断
    • [97]公正取引委員会が販売会社を立ち入り検査
    • [99]1993年3月期 売上高に占める固定費比率54.32%(製造業平均28.5%)
    • [100]美容部員派遣費などの販管費が高コスト体質の要因
  • 日経流通新聞(日本経済新聞社, 1991年9月17日)
    • [98]1991年時点で再販価格維持制度からの除外は必至との見方。小規模チェーン店がスーパーとの価格競争にさらされる懸念
  • 日経ビジネス 1995年10月30日号(日経BP社)
    • [101]1995年6月 公正取引委員会が大手量販店への価格拘束を理由に排除勧告
    • [102]福原義春 1995年9月末に排除勧告の受諾を決断
    • [103]福原義春 争い続ける意味を疑い、守りのエネルギーを販売体質の改革へ振り向けると判断
    • [104]福原義春 排除勧告受諾を大正時代のチェーンストア発足以来の歴史的転換点と位置づけ
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [105]1995年4月 販売会社15社を合併し資生堂化粧品販売とする
    • [111]1998年2月 上海に合作会社 上海卓多姿中信化粧品有限公司を設立
    • [112]1998年9月 香港に合弁会社 資生堂大昌行化粧品有限公司を設立
  • 日経ビジネス 1998年6月29日号(日経BP社)
    • [106]1997年4月 再販売価格維持を撤廃
    • [107]再販撤廃後に値引き商品志向が広がり低価格帯ブランドが台頭
    • [108]弦間明 メーカーの論理と顧客の論理のギャップを埋めなければ支持されないと総括
    • [109]弦間明 価格拘束を外してもスキンケアを軸に対面販売を強化する方針
  • 資生堂 有価証券報告書(連結)
    • [110]連結売上高は1998年3月期の6209億円がピーク

2001年〜 連結初の赤字から、規模を追った先の過去最大の赤字へ

資生堂の業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 2001年 ブランド集約とチェーン店再生 約100に膨らんだブランドと赤字転落を前に、資生堂はなぜ新チャネルではなく大正時代の販売網へ回帰したのか
  2. 2005年 メガブランド戦略とTSUBAKIへの集中投資 分散した約100ブランドから、資生堂はなぜ一つのシャンプーへ宣伝費を集中させたのか
  3. 2010年 米ベアエッセンシャルの買収と初の大型クロスボーダーM&A 攻めあぐねた北米市場で、資生堂はなぜ約1800億円を投じて高収益ブランドを買ったのか
  4. 2014年 外部プロ経営者・魚谷雅彦氏の招聘と「VISION 2020」 生え抜きの老舗はなぜ初めて外からトップを迎え、1兆円企業への到達は何を積み残したか
  5. 2017年 ゾートス社をヘンケル社に譲渡
  6. 2021年 パーソナルケア事業の売却 低価格帯を手放し高価格帯に賭ける——魚谷雅彦社長CEOはなぜ祖業に連なる日用品ブランドを1,600億円で手放したのか
  7. 2024年 過去最大級の赤字と構造改革 米州事業で468億円の減損を計上し二期連続の赤字へ沈むなか、藤原憲太郎社長CEOはなぜ痛みを先取りする道を選んだのか

連結初の赤字と、チェーンストアへの改革

2001年3月期、資生堂は連結決算を始めて以来初の赤字に転じた[113]。営業利益は期初予想の400億円から323億円へ落ち、前々期比で15%減[114]となっている。退職給付債務と米サロン事業子会社の営業権を一括償却[115]したこともあり、最終損益は450億円の赤字[116]を計上した。背景には、1994年ごろから毎年20から30の新ブランドを投入して数が約100に膨らみ、経営資源が分散[117]していたことがある。前年に立ち上げたコンビニ専用ブランドもセルフ市場の特性を理解しないまま始めて失敗[118]した。販促費を増やせば売上が増えるという運営のもとで販管費比率は60%を超え、カネボウや花王の約40%[119]を大きく上回っていた。

  • 資生堂 有価証券報告書(連結)
    • [113]2001年3月期 連結決算開始以来初の赤字
    • [116]2001年3月期 最終損益450億円の赤字(連結決算開始以来初)
  • 週刊東洋経済 2001年6月23日号
    • [114]2001年3月期 営業利益は期初予想400億円から323億円へ、前々期比15%減
    • [115]退職給付債務と米サロン事業子会社の営業権一括償却
    • [119]販管費比率60%超。カネボウ・花王は約40%
  • 日経ビジネス 2001年4月9日号(日経BP社)
    • [117]1994年ごろから毎年20〜30の新ブランドを投入し約100に膨張、経営資源が分散
    • [118]コンビニ専用ブランドはセルフ市場の特性を理解しないまま始まり失敗

2001年3月6日、資生堂は株主総会に四カ月近く先立って社長交代を発表[120]し、弦間明社長が会長へ、池田守男副社長が社長へ就いた[121]。改革の対象には、それまで手を入れてこなかった、全国2万5000店で売上の65%を占めるチェーンストア[122]も入った。同組織向けのリベートは、固定化していた上限を2%引き下げて取引額に応じた報奨金へ回し、同年夏までに1万店へレジ一体型のPOS端末を無償貸与[123]している。仕入基準から店頭売上基準への切り替えは、仕入れを促す営業から一緒に売る提案営業への転換[124]にあたる。チェーンストアが売上に占める比率は1990年ごろの推定70%[125]から低下していた。連結最終損益は2002年3月期の赤字を経て、2003年3月期に244億円の黒字へ戻っている[126]

  • 週刊東洋経済 2001年6月23日号
    • [120]2001年3月6日 株主総会の4カ月近く前に社長交代を発表。弦間明→会長、池田守男→社長
    • [121]弦間明が会長へ、池田守男副社長が社長へ
    • [122]チェーンストア全国2万5000店・資生堂の売上の65%
    • [123]リベート上限を2%引き下げ取引額に応じた報奨金へ。同年夏までに1万店へPOS端末を無償貸与
    • [125]1990年ごろのチェーンストア売上比率は推定70%
  • 日経ビジネス 2001年4月9日号(日経BP社)
    • [124]リベートを仕入れ基準から店頭売上基準へ改め、提案営業へ転換
  • 資生堂 有価証券報告書(連結)
    • [126]連結最終損益は2003年3月期に244億円の黒字へ回復

池田守男社長は改革の的を新しい販路の開拓ではなく既存の販売店組織の再生に置き、創業の精神をオイデルミンに始まるスキンケアと総括して、スキンケア中心の仕組みへ組み替える[127]結論に至った。安売り店との低価格競争へ飛び込まず、最寄り性という既存の資産を磨く道を選んだ[128]ことになる。中国では2003年12月に上海へ持株会社の資生堂(中国)投資有限公司を設立[129]し、2004年10月には資生堂プロフェッショナルを設けて[130]美容室向けの事業を切り出した。国内では2003年4月に大阪資生堂と資生堂化工の両生産会社を吸収合併[131]し、生産の体制も整理している。

  • 日経ビジネス 2001年4月9日号(日経BP社)
    • [127]池田守男 創業の精神をオイデルミンに始まるスキンケアと総括し、スキンケア中心の仕組みへ組み替え
    • [128]新チャネル開拓ではなくチェーン店への回帰を選び低価格競争のリスクを避けた
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [129]2003年12月 上海に持株会社 資生堂(中国)投資有限公司を設立
    • [130]2004年10月 資生堂プロフェッショナル設立
    • [131]2003年4月 大阪資生堂・資生堂化工の両生産会社を吸収合併
  • 資生堂 有価証券報告書(連結)
    • [113]2001年3月期 連結決算開始以来初の赤字
    • [116]2001年3月期 最終損益450億円の赤字(連結決算開始以来初)
    • [126]連結最終損益は2003年3月期に244億円の黒字へ回復
  • 週刊東洋経済 2001年6月23日号
    • [114]2001年3月期 営業利益は期初予想400億円から323億円へ、前々期比15%減
    • [115]退職給付債務と米サロン事業子会社の営業権一括償却
    • [119]販管費比率60%超。カネボウ・花王は約40%
    • [120]2001年3月6日 株主総会の4カ月近く前に社長交代を発表。弦間明→会長、池田守男→社長
    • [121]弦間明が会長へ、池田守男副社長が社長へ
    • [122]チェーンストア全国2万5000店・資生堂の売上の65%
    • [123]リベート上限を2%引き下げ取引額に応じた報奨金へ。同年夏までに1万店へPOS端末を無償貸与
    • [125]1990年ごろのチェーンストア売上比率は推定70%
  • 日経ビジネス 2001年4月9日号(日経BP社)
    • [117]1994年ごろから毎年20〜30の新ブランドを投入し約100に膨張、経営資源が分散
    • [118]コンビニ専用ブランドはセルフ市場の特性を理解しないまま始まり失敗
    • [124]リベートを仕入れ基準から店頭売上基準へ改め、提案営業へ転換
    • [127]池田守男 創業の精神をオイデルミンに始まるスキンケアと総括し、スキンケア中心の仕組みへ組み替え
    • [128]新チャネル開拓ではなくチェーン店への回帰を選び低価格競争のリスクを避けた
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [129]2003年12月 上海に持株会社 資生堂(中国)投資有限公司を設立
    • [130]2004年10月 資生堂プロフェッショナル設立
    • [131]2003年4月 大阪資生堂・資生堂化工の両生産会社を吸収合併

メガブランドへの集中と、海外買収の連鎖

回復は続かず、2005年3月期の連結最終損益は88億円の赤字で、売上高は6398億円[132]にとどまっている。同年に社長へ就いた前田新造氏は、100以上あったブランドを統廃合して17カテゴリーそれぞれで首位を狙える基軸ブランドを確立する方針[133]を掲げた。2006年に投入したヘアケアのTSUBAKIには発売初年度で50億円を超える宣伝予算を一つのブランドへ配分[134]し、複数の女優を起用した広告を集中的に投じている。TSUBAKIは発売初年度に当初計画を1.8倍上回る売上[135]を挙げ、資生堂はシャンプーのメーカー別シェアを4位から首位へ引き上げた[136]。2006年3月には舞鶴工場と板橋工場の2工場を閉鎖[137]している。

  • 資生堂 有価証券報告書(連結)
    • [132]2005年3月期 連結最終損益88億円の赤字・売上高6398億円
  • INSIGHT NOW! 2007年12月28日 松尾順「長期的視点が成功をもたらした資生堂の経営改革」
    • [133]前田新造 100以上のブランドを統廃合し17カテゴリーで首位を狙える基軸ブランドを確立する方針
    • [134]TSUBAKI 発売初年度に50億円超の宣伝予算を一ブランドへ配分
    • [135]TSUBAKI 初年度に当初計画を1.8倍上回る売上
  • Business Insider Japan 2021年3月23日
    • [136]シャンプーのメーカー別シェアを4位から首位へ
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [137]2006年3月 舞鶴工場・板橋工場の2工場を閉鎖

国内で立て直しを進める一方、資生堂は海外へ資金を投じ、2010年3月には米ミネラル化粧品大手ベアエッセンシャルを総額約1800億円で買収[138]している。対象はミネラルファンデーション市場でシェア67%・年商500億円超・営業利益率31.5%の高収益ブランドで、3カ月平均株価に40.8%のプレミアム[139]を付けた。前田氏は『成長性が高く割高とはとらえていない』と説明し、米国売上比率を8%から14%へ引き上げる狙いを示している。国内では2012年4月に自社ECサイト『ワタシプラス』を開き、2600アイテムをネットで買える形[140]にした。1990年代に40%を超えていた国内売上に占める専門店比率はこの時点で25%程度まで縮み[141]、国内売上高は2011年3月期に3828億円と10年間で1300億円近く減っている[142]

  • 週刊東洋経済 2010年1月30日号
    • [138]2010年3月 米ベアエッセンシャルを総額約1800億円で買収
    • [139]ベアエッセンシャル ミネラルファンデーション市場シェア67%・年商500億円超・営業利益率31.5%・プレミアム40.8%
  • 週刊東洋経済 2012年4月13日号
    • [140]2012年4月 watashi+(ワタシプラス)を開始。2600アイテムを販売
    • [141]国内売上に占める専門店比率 1990年代の40%超から25%程度へ低下
    • [142]国内売上高 2011年3月期3828億円。10年間で1300億円近く減少

2013年3月、就任から2年の末川久幸社長が退任し、前社長の前田新造会長が社長を兼務[143]した。前年10月に株価が10年ぶりに1000円を割り込み、配当性向は3年連続で100%を超え、ベアエッセンシャルののれんは約800億円[144]残っていた。社長の指名諮問委員を務めた社外取締役の上村達男氏は、取締役会には『負の遺産を清算する責任は、それを築いた前田氏本人にある、という判断があった』と明かしている。前田氏自身も『かつて自分が敷いた経営路線を否定することもあるだろう』と述べた。資生堂は同年1月に鎌倉工場の閉鎖を発表[145]しており、減配や減損、事業領域の見直しが視野に入っていた。

  • 週刊東洋経済 2013年3月15日号
    • [143]2013年3月 末川久幸が就任2年で退任、前田新造会長が社長を兼務
    • [144]2012年10月 株価が10年ぶりに1000円割れ。配当性向3年連続100%超。ベアエッセンシャルののれん約800億円
    • [145]2013年1月 鎌倉工場の閉鎖を発表
  • 資生堂 有価証券報告書(連結)
    • [132]2005年3月期 連結最終損益88億円の赤字・売上高6398億円
  • INSIGHT NOW! 2007年12月28日 松尾順「長期的視点が成功をもたらした資生堂の経営改革」
    • [133]前田新造 100以上のブランドを統廃合し17カテゴリーで首位を狙える基軸ブランドを確立する方針
    • [134]TSUBAKI 発売初年度に50億円超の宣伝予算を一ブランドへ配分
    • [135]TSUBAKI 初年度に当初計画を1.8倍上回る売上
  • Business Insider Japan 2021年3月23日
    • [136]シャンプーのメーカー別シェアを4位から首位へ
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [137]2006年3月 舞鶴工場・板橋工場の2工場を閉鎖
  • 週刊東洋経済 2010年1月30日号
    • [138]2010年3月 米ベアエッセンシャルを総額約1800億円で買収
    • [139]ベアエッセンシャル ミネラルファンデーション市場シェア67%・年商500億円超・営業利益率31.5%・プレミアム40.8%
  • 週刊東洋経済 2012年4月13日号
    • [140]2012年4月 watashi+(ワタシプラス)を開始。2600アイテムを販売
    • [141]国内売上に占める専門店比率 1990年代の40%超から25%程度へ低下
    • [142]国内売上高 2011年3月期3828億円。10年間で1300億円近く減少
  • 週刊東洋経済 2013年3月15日号
    • [143]2013年3月 末川久幸が就任2年で退任、前田新造会長が社長を兼務
    • [144]2012年10月 株価が10年ぶりに1000円割れ。配当性向3年連続100%超。ベアエッセンシャルののれん約800億円
    • [145]2013年1月 鎌倉工場の閉鎖を発表

外部経営者の十年と、規模を追った先の赤字

2014年4月、日本コカ・コーラ社長を務めた魚谷雅彦氏が、外部出身として初めて資生堂の社長に就いた[146]。前年にマーケティング統括顧問として招かれ、半年で成果を上げたとして前田氏が後継に指名[147]している。就任年度の売上高は7776億円・営業利益276億円[148]で、2015年3月期には中国の在庫引き当て130億円が発生して営業利益は前期比で半減[149]した。販社が百貨店や専門店へ過剰に出荷する押し込みが中国に残っていた[150]ためである。魚谷氏は10月31日の決算説明会で『来期、再来期、いい業績数字を作るつもりはない』と述べ、先行投資を優先する構えを示した。同年12月に策定したVISION 2020は、2020年度に売上高1兆円超・営業利益1000億円超・ROE12%以上[151]を掲げている。

  • 日本経済新聞(2022年11月10日)
    • [146]2014年4月 魚谷雅彦が外部人材として初めて社長に就任
  • 週刊東洋経済 2014年11月14日号
    • [147]前年にマーケティング統括顧問として招かれ、半年で成果を上げたとして前田新造が後継指名
    • [149]2015年3月期 中国の在庫引き当て130億円が発生、営業利益は前期比で半減
    • [150]販社が百貨店・専門店へ過剰出荷する押し込みが中国に残存
  • 週刊東洋経済 2023年9月30日号
    • [148]2014年度 売上高7,777億円・営業利益276億円
  • 資生堂 ニュースリリース 2014年12月17日「中長期戦略「VISION 2020」を策定」
    • [151]VISION 2020 2020年度に売上高1兆円超・営業利益1000億円超・ROE12%以上

訪日客の需要を受けて業績は伸び、2019年12月期の連結売上高は1兆1315億円、営業利益は1138億円といずれも過去最高[152]を記録した。だがコロナ禍で需要が消えると、2020年12月期は売上高9208億円・最終損益116億円の赤字へ転じ、7年ぶりの赤字[153]となっている。この期の販管費比率は72%で、仏ロレアルの54%[154]を上回っている。2020年11月には自社ECで主力ブランドの化粧水を値引きセットにして直接販売し、化粧品専門店の反発を受けて11月30日に提供を終えている[155]。魚谷氏は専門店へ『当施策に関する協議の不足、もたらす影響への配慮の不足』を認める詫び状を出した。欧米事業が2016年から2020年までの5年間で計上した累計赤字は1000億円を超え[156]、ベアエッセンシャルには2017年11月までに計950億円の減損損失[157]を計上している。

  • 資生堂 有価証券報告書(連結)
    • [152]2019年12月期 連結売上高1兆1315億円・営業利益1138億円でいずれも過去最高
  • 週刊東洋経済 2021年3月13日号
    • [153]2020年12月期 売上高9208億円(前期比18.6%減)・最終損益116億円の赤字(7年ぶり)
    • [154]2020年12月期 販管費比率72%。仏ロレアルは54%
    • [155]2020年11月11日から自社ECで主力ブランドを値引きセット販売、11月30日に終了
    • [156]欧米事業 2016〜2020年の5年間で累計赤字1000億円超
    • [157]ベアエッセンシャル 2017年11月までに計950億円の減損損失

2021年2月3日、資生堂はTSUBAKIやunoからなるパーソナルケア事業を1600億円で投資ファンドへ譲渡すると発表し、7月1日に完了[158]した。対象事業の売上高は2019年12月期で1055億円と全体の約1割[159]を占めている。同年12月にはベアミネラル・バクソム・ローラメルシエの米国3ブランドも譲渡[160]した。2022年11月に藤原憲太郎氏の社長就任が発表され[161]、翌2023年8月30日には創業家出身で1987年から97年まで社長を務めた福原義春氏が92歳で死去[162]している。2019年11月に約900億円で買収した米ドランクエレファント[163]は、2024年上期に導入した新システムの影響で出荷が減って店頭に商品が並ばず、その間に競合の参入を許して消費者離れ[164]が進んだ。資生堂は2024年に国内で美容部員ら1477人を減らし[165]、2025年12月期は米州事業ののれん減損468億円を計上して純損益406億円の赤字となり、2期連続の赤字[166]を記録した。藤原氏は『今後は単に規模を追うための買収は行わない』と方針を示している。

  • 週刊東洋経済 2021年3月13日号
    • [158]2021年2月3日 パーソナルケア事業を1600億円で譲渡発表、7月1日完了
    • [159]対象事業の売上高 2019年12月期1055億円・全体の約1割
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [160]2021年12月 bareMinerals・BUXOM・Laura Mercierの3ブランドを譲渡
  • 日本経済新聞(2022年11月10日)
    • [161]2022年11月 藤原憲太郎の社長就任を発表
  • 週刊東洋経済 2023年9月30日号
    • [162]2023年8月30日 福原義春が92歳で死去。1987〜97年に社長
  • 週刊東洋経済 2025年12月27日号
    • [163]2019年11月 米Drunk Elephantを約900億円で買収
    • [164]ドランクエレファント 2024年上期の新システム導入で出荷減・店頭欠品、競合参入で消費者離れ
  • 日本経済新聞(2026年1月6日)
    • [165]2024年 国内で美容部員ら1477人が早期退職
  • WWDJAPAN(2026年2月10日)
    • [166]2025年12月期 のれん減損468億円・純損益406億円の赤字で2期連続
  • 日本経済新聞(2022年11月10日)
    • [146]2014年4月 魚谷雅彦が外部人材として初めて社長に就任
    • [161]2022年11月 藤原憲太郎の社長就任を発表
  • 週刊東洋経済 2014年11月14日号
    • [147]前年にマーケティング統括顧問として招かれ、半年で成果を上げたとして前田新造が後継指名
    • [149]2015年3月期 中国の在庫引き当て130億円が発生、営業利益は前期比で半減
    • [150]販社が百貨店・専門店へ過剰出荷する押し込みが中国に残存
  • 週刊東洋経済 2023年9月30日号
    • [148]2014年度 売上高7,777億円・営業利益276億円
    • [162]2023年8月30日 福原義春が92歳で死去。1987〜97年に社長
  • 資生堂 ニュースリリース 2014年12月17日「中長期戦略「VISION 2020」を策定」
    • [151]VISION 2020 2020年度に売上高1兆円超・営業利益1000億円超・ROE12%以上
  • 資生堂 有価証券報告書(連結)
    • [152]2019年12月期 連結売上高1兆1315億円・営業利益1138億円でいずれも過去最高
  • 週刊東洋経済 2021年3月13日号
    • [153]2020年12月期 売上高9208億円(前期比18.6%減)・最終損益116億円の赤字(7年ぶり)
    • [154]2020年12月期 販管費比率72%。仏ロレアルは54%
    • [155]2020年11月11日から自社ECで主力ブランドを値引きセット販売、11月30日に終了
    • [156]欧米事業 2016〜2020年の5年間で累計赤字1000億円超
    • [157]ベアエッセンシャル 2017年11月までに計950億円の減損損失
    • [158]2021年2月3日 パーソナルケア事業を1600億円で譲渡発表、7月1日完了
    • [159]対象事業の売上高 2019年12月期1055億円・全体の約1割
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [160]2021年12月 bareMinerals・BUXOM・Laura Mercierの3ブランドを譲渡
  • 週刊東洋経済 2025年12月27日号
    • [163]2019年11月 米Drunk Elephantを約900億円で買収
    • [164]ドランクエレファント 2024年上期の新システム導入で出荷減・店頭欠品、競合参入で消費者離れ
  • 日本経済新聞(2026年1月6日)
    • [165]2024年 国内で美容部員ら1477人が早期退職
  • WWDJAPAN(2026年2月10日)
    • [166]2025年12月期 のれん減損468億円・純損益406億円の赤字で2期連続

資生堂の沿革1872〜2024年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
資生堂創業——銀座の洋風調剤薬局から化粧品メーカーへ医薬分業を志した薬剤師・福原有信氏は、なぜ官を辞して銀座に日本初の民間洋風調剤薬局を開いたのか 詳細を読む★★★
日本初の練り歯磨を発売
化粧品に新規参入★★
商標「花椿」を考案
チェインストア・販売会社方式の確立化粧品の乱売と関東大震災後の流通壊滅を前に、資生堂はなぜ問屋依存をやめてメーカー主導の販売会社制へ組み替えたのか 詳細を読む★★★
資生堂に商号変更
松本昇東京証券取引所に株式上場
松本昇躍進5ヵ年計画を策定
伊与田光男台湾資生堂を設立
伊藤隆男大船工場を新設
森治樹国内シェア1位
森治樹資生堂コスメティックスを設立
福原信和掛川工場を新設
大野良雄久喜工場を新設(トイレタリー)
福原義春カリタ社を買収
福原義春販社改革・在庫回収★★
福原義春ゾートス社を買収
福原義春ボーテプレステージインターナショナルをフランスに設立
福原義春中国・北京麗源公司と資生堂麗源化粧品有限公司を設立★★
弦間明ヘレンカーチス社の北米プロフェッショナル事業を買収★★
弦間明再販価格維持の撤廃公取委と争えたはずの資生堂は、なぜ70年続いた価格統制を手放し「争いより改革」を選んだのか 詳細を読む★★★
池田守男ブランド集約とチェーン店再生約100に膨らんだブランドと赤字転落を前に、資生堂はなぜ新チャネルではなく大正時代の販売網へ回帰したのか 詳細を読む★★★
池田守男持株会社を新設
前田新造メガブランド戦略とTSUBAKIへの集中投資分散した約100ブランドから、資生堂はなぜ一つのシャンプーへ宣伝費を集中させたのか 詳細を読む★★★
前田新造国内4拠点の閉鎖
前田新造米ベアエッセンシャルの買収と初の大型クロスボーダーM&A攻めあぐねた北米市場で、資生堂はなぜ約1800億円を投じて高収益ブランドを買ったのか 詳細を読む★★★
魚谷雅彦外部プロ経営者・魚谷雅彦氏の招聘と「VISION 2020」生え抜きの老舗はなぜ初めて外からトップを迎え、1兆円企業への到達は何を積み残したか 詳細を読む★★★
魚谷雅彦ゾートス社をヘンケル社に譲渡★★
魚谷雅彦Drunk Elephant HDを買収
魚谷雅彦国内生産体制を増強
魚谷雅彦パーソナルケア事業の売却低価格帯を手放し高価格帯に賭ける——魚谷雅彦社長CEOはなぜ祖業に連なる日用品ブランドを1,600億円で手放したのか 詳細を読む★★★
魚谷雅彦米国3ブランドを売却★★
藤原憲太郎DDG Skincare HDを買収
藤原憲太郎過去最大級の赤字と構造改革米州事業で468億円の減損を計上し二期連続の赤字へ沈むなか、藤原憲太郎社長CEOはなぜ痛みを先取りする道を選んだのか 詳細を読む★★★
出典・参考
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
  • 資生堂「社名の由来」(企業情報)
  • ダイヤモンド 1963年6月3日号
  • 東商 1963年5月号「我が社の販売組織とスーパー・マーケットに対する考え方」
  • 証券アナリストジャーナル 1969年7巻3号(常務取締役 伊藤高)
  • 日経ビジネス 1973年7月9日号(日経BP社)
  • 日経産業新聞(日本経済新聞社, 1982年8月26日)
  • 日経流通新聞(日本経済新聞社, 1991年9月17日)
  • 日本経済新聞(1987年7月20日)
  • 週刊東洋経済 2023年9月30日号
  • 日経ビジネス 1993年11月8日号(日経BP社)
  • 日経ビジネス 1995年10月30日号(日経BP社)
  • 日経ビジネス 1998年6月29日号(日経BP社)
  • 資生堂 有価証券報告書(連結)
  • 週刊東洋経済 2001年6月23日号
  • 日経ビジネス 2001年4月9日号(日経BP社)
  • INSIGHT NOW! 2007年12月28日 松尾順「長期的視点が成功をもたらした資生堂の経営改革」
  • Business Insider Japan 2021年3月23日
  • 週刊東洋経済 2010年1月30日号
  • 週刊東洋経済 2012年4月13日号
  • 週刊東洋経済 2013年3月15日号
  • 日本経済新聞(2022年11月10日)
  • 週刊東洋経済 2014年11月14日号
  • 資生堂 ニュースリリース 2014年12月17日「中長期戦略「VISION 2020」を策定」
  • 週刊東洋経済 2021年3月13日号
  • 週刊東洋経済 2025年12月27日号
  • 日本経済新聞(2026年1月6日)
  • WWDJAPAN(2026年2月10日)

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