ヤオハン の歴史

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創業 1930年
創業者 和田良平
創業地 静岡県熱海市
創業 1930年12月、和田良平氏が静岡県熱海市で"八百半"から暖簾分けを受け、青果商
1930年12月、和田良平氏が静岡県熱海市で"八百半"から暖簾分けを受け、青果商"八百半熱海支店"を興した。1948年10月に個人経営を改め、八百半商店を設立した。商いは旅館向けの青果卸で、掛売が常態化していた。1955年7月に八百半食品デパートへ改称し、翌1956年、商業界の倉本長治氏の指導で現金正札廉価販売を導入して、旅館への掛売を全廃した。現金決済で仕入の回転が速まり、1960年代の伊豆半島での多店舗展開を支えた。ただし大店法のもとで国内の出店は大手に先行され、静岡の一地方スーパーという位置にとどまった。
決断 国内で得た上場の信用を、出店規制のない海外の店へ振り向けた会社である。1986年
国内で得た上場の信用を、出店規制のない海外の店へ振り向けた会社である。1986年3月に東証一部へ上場し、同年12月からワラント債と転換社債で市場から資金を集めた。その資金を大店法の及ばない土地で使うため、1990年にはグループ本部を香港へ移した。一方で国内でもネクステージ半田・知立の大型店を建て、その原資を市場調達約600億円で賄って有利子負債を1000億円超へ膨らませた。1995年12月には上海・浦東に百貨店を開き、中国でスーパー1,000店を出す構想を掲げて、資金繰りが悪化した後も中国の拡大を崩さなかった。銀行との関係を薄くしたまま社債で店を増やしたため、償還期が重なると利益の出る店を売るほかなかった。
現況 1997年の会社更生で、ヤオハンは店を残して社名を失った。同年2月、資金繰りの逼
1997年の会社更生で、ヤオハンは店を残して社名を失った。同年2月、資金繰りの逼迫から熱海の高収益店を含む主力16店を約330億円で競合ダイエー傘下のセイフーへ一括で売却し、代金の大半は借入の返済に消えた。1997年3月期に359億円の当期純損失を計上し、同年9月18日に会社更生法の適用を申請した。12月に東京証券取引所の上場は廃止された。再建のスポンサーにはジャスコが入り、2000年3月にヤオハンへ商号を戻し、2002年2月に更生手続が終結、翌3月にマックスバリュ東海へ商号を変更した。海外へ振り向けた投資が国内の現金を細らせ、店を買う力のある競合へ本業を委ねる結末を招いた。
競合 同じ後発でも、規模を合併で作った社と出店で作った社に道が分かれた。1970年、地
同じ後発でも、規模を合併で作った社と出店で作った社に道が分かれた。1970年、地方の中堅スーパー5社が対等合併でジャスコを発足させ、仕入と資金を持ち合って全国化する。ダイエーは1972年に価格破壊で三越を抜き、多店舗チェーンで小売業首位に立った。ヤオハンは自前の出店で規模を積み、その延長で国内の出店規制を避けて海外へ延ばした。合併で仕入と資金を持ち合った各社に対し、ヤオハンは借入と社債で自前の出店を続け、資金繰りの余力だけが先に尽きた。
長期業績の推移 1975〜1997年
ヤオハン:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
1975年5月期〜1997年3月期

第1章 1930年〜 現金正札販売への業態転換熱海の旅館向け掛け売りから市民相手の正札販売へ

筆者考察y.sugiura, author

八百半が1956年11月に手放したのは、年商3,000万円の売上ではなく、価格を自分で決められない立場である。熱海の旅館の板場を得意先にする商いでは、代金がいつ入るかも、取引が成立するかどうかも、買う側の都合で決まった。掛け売りは信用の供与に見えて、実際には売り手が資金繰りを肩代わりする仕組みであり、板前への付け届けはその上に乗る費用であった。熱海が日本一物価の高い町といわれたのは、その費用が末端の値段へ乗った結果である。現金と正札に替えれば、回収の不確実さも値決めの交渉も無くなる。和田一夫氏が父・良平氏に迫ったのは商道徳の話ではなく、誰が値段を決めるのかという話であった。

切替の成果は、そのまま次の制約になった。1957年に日商10万円だった熱海店は、1961年には日商100万円へ伸びる。ただし伸びたのは売場170坪の一店舗であって、店の数ではない。安く売る仕組みで客を集めた店は、客が増えるほど一店舗の器に収まらなくなる。和田一夫氏が1961年の視察でツアーのあとも3カ月残り、米国の家庭の買い物に同行したのは、売り方ではなく買い方の構造を確かめるためであった。そこで選んだローカル・チェーンは、生鮮食品が仕入れから販売まで時間に縛られるという制約から逆算した答えである。全国へ広げる力が足りなかったのではなく、広げてはいけない商材を扱っていた。

熱海店の日商 現金正札販売への切替をはさむ2時点(万円)

10 1957 100 1961
  • 昭和32年(1957年)と昭和36年(1961年)の日商として示された値。1956年11月1日に現金・掛け売りなし・正札販売へ商法を切り換えた前後の対比にあたる。
  • 出所は Decide 1986年4巻10号「グローバル・スーパー八百半が軌道に乗るまで」。

1930年〜熱海の旅館を得意先にした和田良平・カツの行商

天秤棒一本で旅館を回る

ヤオハンの起点は、1930年12月に和田良平氏が静岡県熱海市で開いた八百半熱海支店である。屋号は八百半からの暖簾分けで、良平氏と妻のカツ氏は旅館の蔵の軒下を借り、天秤棒をかついで旅館を回る行商から商いを起こした。元手は千円だった。得意先は熱海の旅館の板場であり、青果を納める八百屋として土地に根を下ろした。良平氏とカツ氏はともに篤実な人柄だったという。長男の一夫氏が生まれたのは1929年3月で、一夫氏が大学に通うころの店はそれなりの大店となり、熱海では知られた存在になっていた。もっとも一夫氏自身は、八百屋の長男として育ちながら、商いに割り切れないうしろめたさを覚えていた。旅館という固定客を先に押さえた商いは、店舗も在庫も持たずに始められる点で、元手の小ささと釣り合っていた。

  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1930年12月 静岡県熱海市に八百半熱海支店を創業
    • [2]和田良平が「八百半」から暖簾分けを受けて開業した
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
    • [3]父・良平と母・カツは1930年以来熱海で店を張り、旅館の蔵の軒下を借り天びん棒をかついで旅館回りをする行商から出発した
    • [4]和田良平は「1930年に千円で始めた商いだから、千円残れば元々だ」と述べた
    • [5]八百半は熱海の旅館の板場を主なお得意先にする八百屋だった
    • [7]父・良平と母・カツは篤実な人柄だった
    • [9]和田一夫が大学に通うころには八百半はそれなりの大店になっていて、熱海では知られた存在になっていた
    • [10]和田一夫は八百屋の長男として生まれ育ちながら、商いに割り切れないある種のうしろめたさを感じつつ育ち、商いが嫌いだった
  • Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
    • [6]和田良平・カツは熱海市で青果商を営んでいた
    • [8]和田一夫は1929年3月に和田良平・カツの長男として生まれた
掛け売りと付け届けに縛られる

物価の高さで日本一といわれた当時の熱海で、その最大の原因とされたのが掛売制度である。旅館相手の商いは掛けで回り、板前への付け届けがあって初めて取引がまとまる慣行さえあったが、掛売制度そのものは熱海に限らず全国の温泉町に共通する商習慣であった。長男の一夫氏はこうした商いをまともなものと見ず、八百屋という職業自体を嫌って、両親を守銭奴とののしったこともある。横浜市立商業、東京外事専門学校を経て日本大学経済学部に入ると、社会主義研究会で学園民主化運動に加わり、反ファッショ闘争委員会の副委員長に選ばれた。日本共産党にも入党し、自由法曹団に属する弁護士を目指して司法試験の勉強を進めた。商いとは汚いものだという先入観への反発が、その左傾化の背景にあった。

  • Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
    • [11]当時の熱海は日本一物価の高い町といわれ、高物価の最大の原因は掛売制度だった
    • [14]掛売制度は全国の温泉町で行なわれていた商習慣である
    • [16]和田一夫は八百屋という職業を激しく嫌い、両親に「守銭奴」という言葉を投げたこともあった
    • [19]和田一夫は日本共産党に入党し、自由法曹団所属の弁護士を志して司法試験の勉強に取り組んだ
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
    • [12]旅館相手の商いは掛け売りだった
    • [13]板前の付け届けの要求に応じることで取引が成立していた
    • [15]和田一夫は旅館相手の商いを正常ではないと考えていた
    • [17]和田一夫は横浜市立商業から東京外事専門学校を経て日本大学経済学部へ進んだ
    • [18]和田一夫は大学時代に社会主義研究会に入り学園民主化運動に乗り出し、反ファッショ闘争委員会副委員長に選ばれた
    • [20]和田一夫の左傾化は、商いとは汚いものという先入観への反発からだった
熱海大火で店と住居を失う

1950年、熱海市の大火で八百半の店と住居は全焼した。当時の一夫氏が将来に描いていたのは外交官か弁護士であって、家業を継ぐ姿ではなかった。大学の卒業を目前にしたこの一件は、一夫氏にとって思想の面での転回点になった。両親を中心に家族全員が再建へ力を結集しなければならないときに、イデオロギーを論じてはいられなかったからである。母カツ氏から頼まれていた火災保険の加入手続きを、一夫氏はうっかりして済ませていなかった。過ちへの責任感と父母への償いの気持ちが、家業を手伝う動機になった。母カツ氏が入信していた宗教は父母への孝を説き、逆らい続けてきた自分を見守ってきた父母の苦労を、一夫氏は直視する気になった。もっともそれは孝と償いにとどまり、商いそのものに没頭したわけではなかった。

  • Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
    • [21]和田一夫が卒業を目前にした昭和25年(1950年)、熱海市の大火で店と住居が全焼した
    • [23]両親を中心に家族全員が一丸となって再建に力を結集しなければならない時、イデオロギーを論じてはいられなかった
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
    • [22]和田一夫は大学時代、将来は外交官か弁護士を夢見ていた
    • [24]全焼寸前に母カツから頼まれていた火災保険加入を、和田一夫はうっかりして手続きしていなかった
    • [25]過ちへの責任感と父母への償いの気持ちが、和田一夫が家業を手伝うようになった節目の一つだった
    • [26]母カツが入信していた宗教は父母への孝を説き、和田一夫はさからい続けてきた自分を見守り続けてきた父母の苦労を直視する気になった
    • [27]それは「孝と償い」にすぎず、和田一夫は心底商いに没頭したわけではなかった
参考文献[1]-[27]
  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1930年12月 静岡県熱海市に八百半熱海支店を創業
    • [2]和田良平が「八百半」から暖簾分けを受けて開業した
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
    • [3]父・良平と母・カツは1930年以来熱海で店を張り、旅館の蔵の軒下を借り天びん棒をかついで旅館回りをする行商から出発した
    • [4]和田良平は「1930年に千円で始めた商いだから、千円残れば元々だ」と述べた
    • [5]八百半は熱海の旅館の板場を主なお得意先にする八百屋だった
    • [7]父・良平と母・カツは篤実な人柄だった
    • [9]和田一夫が大学に通うころには八百半はそれなりの大店になっていて、熱海では知られた存在になっていた
    • [10]和田一夫は八百屋の長男として生まれ育ちながら、商いに割り切れないある種のうしろめたさを感じつつ育ち、商いが嫌いだった
    • [12]旅館相手の商いは掛け売りだった
    • [13]板前の付け届けの要求に応じることで取引が成立していた
    • [15]和田一夫は旅館相手の商いを正常ではないと考えていた
    • [17]和田一夫は横浜市立商業から東京外事専門学校を経て日本大学経済学部へ進んだ
    • [18]和田一夫は大学時代に社会主義研究会に入り学園民主化運動に乗り出し、反ファッショ闘争委員会副委員長に選ばれた
    • [20]和田一夫の左傾化は、商いとは汚いものという先入観への反発からだった
    • [22]和田一夫は大学時代、将来は外交官か弁護士を夢見ていた
    • [24]全焼寸前に母カツから頼まれていた火災保険加入を、和田一夫はうっかりして手続きしていなかった
    • [25]過ちへの責任感と父母への償いの気持ちが、和田一夫が家業を手伝うようになった節目の一つだった
    • [26]母カツが入信していた宗教は父母への孝を説き、和田一夫はさからい続けてきた自分を見守り続けてきた父母の苦労を直視する気になった
    • [27]それは「孝と償い」にすぎず、和田一夫は心底商いに没頭したわけではなかった
  • Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
    • [6]和田良平・カツは熱海市で青果商を営んでいた
    • [8]和田一夫は1929年3月に和田良平・カツの長男として生まれた
    • [11]当時の熱海は日本一物価の高い町といわれ、高物価の最大の原因は掛売制度だった
    • [14]掛売制度は全国の温泉町で行なわれていた商習慣である
    • [16]和田一夫は八百屋という職業を激しく嫌い、両親に「守銭奴」という言葉を投げたこともあった
    • [19]和田一夫は日本共産党に入党し、自由法曹団所属の弁護士を志して司法試験の勉強に取り組んだ
    • [21]和田一夫が卒業を目前にした昭和25年(1950年)、熱海市の大火で店と住居が全焼した
    • [23]両親を中心に家族全員が一丸となって再建に力を結集しなければならない時、イデオロギーを論じてはいられなかった

1956年〜白浜のゼミナールと年商3,000万円を捨てた商法の切替

商業界ゼミナールで商いを継ぐと決める

転機は1956年、一夫氏が27歳のときに訪れた。母カツ氏のすすめで和歌山県白浜の商業界ゼミナールに出席した一夫氏は、当時商業界の副社長でJ・C・ペニーの伝記翻訳でも知られた新保民八氏の言葉に衝撃を受けた。『正しきにより滅ぶ店あらば滅びてもよし。断じて滅びず』という一節である。十字屋の創業者・山藤捷七氏の講演がこれを補い、大衆のために奉仕に明けて奉仕に暮れることこそ商いだと説いた。奉仕の中身は、良い商品をより安く売ること、現金取引として掛け売りをしないこと、正札販売を徹底することであった。一夫氏はここで商いが善であることを初めて確信した。それまでうっ積していたものが爆発するように、商いへ取り組む気になったという。両親の仕事を継ぐと決め、日本一の八百屋づくりを目標に掲げたのはこのときである。

  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
    • [28]1956年、27歳の和田一夫は母カツのすすめで商業界主催の和歌山県白浜ゼミナールに参加した
    • [29]新保民八は当時商業界副社長で、J・C・ペニーの伝記翻訳でも知られていた
    • [30]十字屋の創業者・山藤捷七は講演で「大衆のために奉仕に明けて奉仕に暮れることこそ商い」と述べた
    • [31]奉仕の内容は「良い商品をより安く売る」「現金・掛け売りなし」「正札販売の徹底」だった
    • [32]和田一夫は「商いが善」であることを初めて確信させられた
    • [33]和田一夫はそれまでうっ積していたものが爆発するように商いに取り組む気になった
  • Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
    • [34]和田一夫は両親の仕事を継ぐことを決意し「どうせやるからには日本一の八百屋づくりを」を目標にした
掛け売りを捨てて現金正札販売へ切り替える

一夫氏が父・良平氏に迫ったのは、掛け売りと付け届けに依存する旅館取引の廃止であり、正札販売で市民を相手にする方針への転換であった。当時あった年商約3,000万円をふいにしかねない要求である。現金販売に踏み切って売掛金を回収できるのか、大口消費者である旅館がこれまで通り買ってくれるのかという不安もあった。日本一高い物価は商人の恥であり、八百半がここまで伸びたのは客のおかげである。客が一円でも安く買えるなら危険は覚悟すべきだ、というのが一夫氏の立てた理屈だった。それでも良平氏がその正しさに同意したのは、『1930年に千円で始めた商いだから、千円残れば元々だ』という理由からである。1956年11月1日、八百半は現金・掛け売りなし・正札販売へ商法を切り換えた。長年の商習慣だっただけに一部の旅館からは注文を断られたが、ヤオハンはこの月日を創業の時としている。

  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
    • [35]和田一夫は父に「掛け売り・賄賂商法の旅館取引の廃止」を迫り「正札販売で市民相手」への経営方針の変更を説いた
    • [36]旅館取引の廃止は当時あった年商約3,000万円をフイにするかも知れないことを意味した
    • [40]父・良平は「1930年に千円で始めた商いだから、千円残れば元々だ」と述べて同意した
    • [41]1956年11月1日、八百半は「現金・掛け売りなし」「正札販売」に商法を切り換えた
    • [43]八百半は1956年11月1日を創業の時としている
  • Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
    • [37]現金販売を断行して売掛金が回収できるか、大口消費者である旅館からこれまで通り買ってもらえるかという不安があった
    • [38]和田一夫は「日本一高い物価は商人の恥だ。ここまで八百半が伸びたのはお客様のお蔭」と述べた
    • [39]和田一夫は「お客が一円でも安く買えるなら、危険を覚悟しなくてはいけない」として現金正札販売システムの断行に踏み切った
    • [42]長年続いた商習慣だっただけに、当初は一部の旅館から注文を断られた
家族の経営会議で薄利多売を回す

切替からの3年間が八百半の生死の境目であった。店仕舞いのあと、良平氏とカツ氏、一夫氏とのちにヤオハンジャパンの社長となる弟の晃昌氏、1953年に結婚した一夫氏の妻きみ子氏が額を寄せ合う経営会議が常だった。薄利多売と正札販売という初心に取り組む戦場であり、商いは善であることの実証に家族の全員が燃えていた。家族の心が一つになっていなければこの時期の八百半は潰れていたはずだと、一夫氏はのちに振り返っている。旅館の側にしても、長期的に見れば安く買えるほうが得であった。断られた取引が戻る余地はそこにあり、商法の切替は大口客を切り捨てる策ではなく、価格の決まり方を店の側へ引き取る策であった。

  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
    • [44]商法の切替からの3年間が八百半の生死の境目だった
    • [45]弟の和田晃昌は後年ヤオハンジャパンの社長を務めた
    • [46]夜の店仕舞いのあとは父母・和田一夫・弟の晃昌・1953年に結婚した妻きみ子が額を寄せ合う「経営会議」が常だった
    • [47]「薄利多売・正札販売」の初心に取り組む戦場だった
    • [48]「商いは善」の実証に家族のみんなが燃えていた
    • [49]燃え続けなければあの時期に八百半は潰れていたに違いない、と和田一夫は述べている
  • Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
    • [50]旅館側にしても長期的に見れば安く買えるにこしたことはなかった
参考文献[28]-[50]
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
    • [28]1956年、27歳の和田一夫は母カツのすすめで商業界主催の和歌山県白浜ゼミナールに参加した
    • [29]新保民八は当時商業界副社長で、J・C・ペニーの伝記翻訳でも知られていた
    • [30]十字屋の創業者・山藤捷七は講演で「大衆のために奉仕に明けて奉仕に暮れることこそ商い」と述べた
    • [31]奉仕の内容は「良い商品をより安く売る」「現金・掛け売りなし」「正札販売の徹底」だった
    • [32]和田一夫は「商いが善」であることを初めて確信させられた
    • [33]和田一夫はそれまでうっ積していたものが爆発するように商いに取り組む気になった
    • [35]和田一夫は父に「掛け売り・賄賂商法の旅館取引の廃止」を迫り「正札販売で市民相手」への経営方針の変更を説いた
    • [36]旅館取引の廃止は当時あった年商約3,000万円をフイにするかも知れないことを意味した
    • [40]父・良平は「1930年に千円で始めた商いだから、千円残れば元々だ」と述べて同意した
    • [41]1956年11月1日、八百半は「現金・掛け売りなし」「正札販売」に商法を切り換えた
    • [43]八百半は1956年11月1日を創業の時としている
    • [44]商法の切替からの3年間が八百半の生死の境目だった
    • [45]弟の和田晃昌は後年ヤオハンジャパンの社長を務めた
    • [46]夜の店仕舞いのあとは父母・和田一夫・弟の晃昌・1953年に結婚した妻きみ子が額を寄せ合う「経営会議」が常だった
    • [47]「薄利多売・正札販売」の初心に取り組む戦場だった
    • [48]「商いは善」の実証に家族のみんなが燃えていた
    • [49]燃え続けなければあの時期に八百半は潰れていたに違いない、と和田一夫は述べている
  • Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
    • [34]和田一夫は両親の仕事を継ぐことを決意し「どうせやるからには日本一の八百屋づくりを」を目標にした
    • [37]現金販売を断行して売掛金が回収できるか、大口消費者である旅館からこれまで通り買ってもらえるかという不安があった
    • [38]和田一夫は「日本一高い物価は商人の恥だ。ここまで八百半が伸びたのはお客様のお蔭」と述べた
    • [39]和田一夫は「お客が一円でも安く買えるなら、危険を覚悟しなくてはいけない」として現金正札販売システムの断行に踏み切った
    • [42]長年続いた商習慣だっただけに、当初は一部の旅館から注文を断られた
    • [50]旅館側にしても長期的に見れば安く買えるにこしたことはなかった

1961年〜米国視察が決めたローカル・チェーンの進路

一店舗の商いに限界を見る

商法の切替は数字に表れた。1957年に日商10万円だった売上は、1961年には日商100万円まで伸びている。1960年から1961年にかけて、売場面積約170坪の熱海店は軌道に乗っていた。だが時代は高度成長期へ向かい、流通業界では大資本による連鎖店展開の兆しが出ていた。連鎖店とは当時の呼び方で、スーパーチェーンを指す。八百半は1948年10月に八百半商店として法人へ改組され、1955年7月には八百半食品デパートへ商号を改めていたが、熱海一店舗の八百屋としてこれからどうするかという問いは残った。一夫氏は1961年7月、米国スーパー業界の視察ツアーに参加した。商いの作法を入れ替えて伸びた一店舗は、伸びたがゆえに次の形を決めなければならなくなっていた。

  • Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
    • [51]昭和32年(1957年)に日商10万円だったものが、昭和36年(1961年)には日商100万円となり売上が急増した
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
    • [52]1960年から1961年になると売り場面積約170坪の店も軌道に乗っていた
    • [53]時代は高度成長期に向かい、業界では大資本による「連鎖店展開」の兆候が出ていた
    • [54]「連鎖店」とはスーパーチェーン店のことで、当時はそう呼んでいた
    • [57]熱海一店舗だけの八百屋としてこれからどうするか、が和田一夫の問いだった
    • [58]1961年7月、和田一夫は「米国スーパー業界視察ツアー」に参加した
  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [55]1948年10月 個人経営から改組して八百半商店を設立
    • [56]1955年7月 八百半食品デパートに商号変更
客の側から米国のスーパーを見る

ハワイと米国西海岸を回る2週間のツアーが終わったあとも、一夫氏は独り現地に残った。業界に手づるがあるわけではなく、入信していた宗教の信者の家庭に世話になり、人々の買い物に同行して客の立場から店を見て回っている。約3カ月をかけてサンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨーク、ワシントン、ソルトレークシティーを歩き、国民所得の構造、車社会というライフスタイル、大量廉価販売のチェーン・システム、科学的経営法を確かめた。日本一の八百屋を目指していた目標は、スーパー・チェーンで日本一になることへ移っていた。生鮮食品の商いは、仕入れから配送、販売まで時間との勝負になる。チェーンにはナショナル・チェーンとローカル・チェーンの別があり、そうした商いには後者が向くと一夫氏は判断した。引退を決めたのは良平氏で、帰国して報告を受けたうえでのことだった。事業は一夫氏へ任された。

  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
    • [59]ハワイ・アメリカ西海岸の2週間のツアーが終わったあとも和田一夫は独り残った
    • [60]業界に手づるはなく、入信していた宗教の入信者の家庭に世話になり、人々の買い物にお供をするなど客の立場から徹底的に見て回った
    • [61]約3カ月かけてサンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨーク、ワシントン、ソルトレークシティーなどを歩き回った
    • [62]背景としての国民所得構造、車社会などのライフスタイル、「大量廉価販売」のチェーン・システム、科学的経営法などを見た
    • [64]チェーンシステムにはナショナル・チェーンとローカル・チェーンがあり、仕入れから配送・販売まで時間が勝負の生鮮食品屋の立場から和田一夫はローカル・チェーンに将来像を見た
    • [65]和田一夫がローカル・チェーンのスーパー展開をやりたいと報告すると、父・良平は引退を決意し、お前がやれと言った
  • Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
    • [63]和田一夫の夢は「日本一の八百半づくり」から「日本一のスーパー・チェーン作り」へと広がった
参考文献[51]-[65]
  • Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
    • [51]昭和32年(1957年)に日商10万円だったものが、昭和36年(1961年)には日商100万円となり売上が急増した
    • [63]和田一夫の夢は「日本一の八百半づくり」から「日本一のスーパー・チェーン作り」へと広がった
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
    • [52]1960年から1961年になると売り場面積約170坪の店も軌道に乗っていた
    • [53]時代は高度成長期に向かい、業界では大資本による「連鎖店展開」の兆候が出ていた
    • [54]「連鎖店」とはスーパーチェーン店のことで、当時はそう呼んでいた
    • [57]熱海一店舗だけの八百屋としてこれからどうするか、が和田一夫の問いだった
    • [58]1961年7月、和田一夫は「米国スーパー業界視察ツアー」に参加した
    • [59]ハワイ・アメリカ西海岸の2週間のツアーが終わったあとも和田一夫は独り残った
    • [60]業界に手づるはなく、入信していた宗教の入信者の家庭に世話になり、人々の買い物にお供をするなど客の立場から徹底的に見て回った
    • [61]約3カ月かけてサンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨーク、ワシントン、ソルトレークシティーなどを歩き回った
    • [62]背景としての国民所得構造、車社会などのライフスタイル、「大量廉価販売」のチェーン・システム、科学的経営法などを見た
    • [64]チェーンシステムにはナショナル・チェーンとローカル・チェーンがあり、仕入れから配送・販売まで時間が勝負の生鮮食品屋の立場から和田一夫はローカル・チェーンに将来像を見た
    • [65]和田一夫がローカル・チェーンのスーパー展開をやりたいと報告すると、父・良平は引退を決意し、お前がやれと言った
  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [55]1948年10月 個人経営から改組して八百半商店を設立
    • [56]1955年7月 八百半食品デパートに商号変更

第2章 1962年〜 海外出店による市場開拓ダイエーとの規模差からブラジル・シンガポール出店へ

筆者考察y.sugiura, author

ヤオハンの海外進出は、世界を目指した結果ではなく、国内で競争の焦点から外れた結果である。1968年度のダイエーの年商1,000億円に対し、八百半は30億円であった。日本一のスーパー・チェーンを掲げる以上は東京と大阪へ出るしかないが、その市場には資本の桁が二つ違う先行者がいる。和田一夫氏が書物で知ったソニーのすき間理論は、国内をいったん諦めて海外で市場を取り、その成功を国内へ持ち帰るという順序であった。1969年のサンパウロで一夫氏が測ったのは、市場の大きさよりも競争相手の水準である。靴下1足の客に素気ない店しかない場所であれば、30億円の会社でも優位に立てる。

ただし競争相手の弱い市場は、ほかの条件も弱い。ブラジルヤオハンは1971年9月のピニエーロス店から6年で破綻したが、要因は店の売り方ではなく、1975年にブラジル政府が金融を引き締めたことにあった。コスタリカでも似たことが起きている。1979年に開いた中米ヤオハンは1日4,000人の客を集めながら、国際収支の悪化と金融の逼迫で中米各地への展開を諦めた。国内であれば資金の調達条件は全店に共通するが、海外では店ごとに別の国の金融政策がつく。1982年12月の名証二部上場は、静岡と神奈川の店が生む720億円の売上を足場に、条件の揃わない海外を抱え続けるための資金の口であった。

単体売上高 1975年5月期〜1982年5月期(億円)

295 75.5 350 76.5 396 77.5 431 78.5 471 79.5 531 80.5 632 81.5 720 82.5
  • すべて単体。ブラジルヤオハンが破綻した1977年5月期の当期純利益は1.1億円で、前期の3.9億円から落ち込んだ。
  • 出所はヤオハン 単体業績(証券 38(4)(445))。

1962年〜和田一夫の社長就任と同族会社の改組

33歳で社長に就き総合スーパーへ動く

組織の改組は知人の提案を受けたもので、根本から手が入った。まず1962年6月に八百半が和田商事を設立し、翌7月には一夫氏が父・良平氏の後を継いで社長となり、年齢は33歳であった。社長就任に合わせて社名を八百半デパートとし、日用の衣料品の品目を広げて、総合スーパーへの転換とチェーン展開に踏み出した。青果中心の食品店から、衣料まで扱う総合的な店へ間口を広げる方向であった。新会社の資本金は1,000万円、1株の額面は50円とした。米国で見たチェーンの仕組みを熱海へ持ち込むには、店の形より先に会社の形を変える必要があった。

  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
    • [66]知人の提案もあり、和田一夫は根本的に経営組織を改組した
    • [72]八百半デパートの資本金は1,000万円、一株50円だった
  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [67]1962年6月 和田商事を設立
    • [68]1962年7月 和田一夫が社長に就任(33歳での就任)
  • Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
    • [69]昭和37年(1962年)、和田一夫は父・良平から社長の座を譲り受けた。33歳の時だった
    • [70]和田一夫は社長就任と同時に社名を「八百半デパート」と改めた
    • [71]日用衣料品を増やして総合スーパー化を図り、チェーン化へ乗り出した
同族会社を資産管理会社と事業会社に分ける

それまでの八百半は何から何まで同族会社で、社員が参加する余地がなかった。一夫氏は従来の八百半を和田保善へ社名変更して資産管理会社の性格を与え、そこから資産を借り受ける形で八百半デパートを設立している。新会社は和田商事から営業権を譲り受けて発足した。あわせて社員持株制度を導入し、社員の経営参加の意識を高めた。持株比率は和田家が約60%、社員など和田家以外が40%となり、社長になった一夫氏は自らの持株を10%限度と定めた。企業を私物化しない意思表示である。正しく働く者が正しく報われる待遇の仕組みを公開することで、若い社員の意欲と知恵を引き出す狙いであった。

  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
    • [73]それまでの八百半は何から何まで同族会社で社員参加の余地がなかった
    • [74]それまでの八百半を「和田保善」と社名変更して資産管理会社の性格とし、そこから様々な資産を借り受けた「八百半デパート」を設立した
    • [76]社員持ち株制度を導入し、社員の経営参加意識を高めた
    • [77]持ち株比率は和田家が約60%、社員など和田家以外の人々が40%だった
    • [78]社長になった和田一夫は自らの持ち株比率を10%限度とした
    • [79]持ち株比率を10%限度としたのは企業を私物化しないという意思表示でもあった
    • [80]正しく働く者が正しく報われる待遇のシステムを公開することで、若い社員のやる気と知恵とエネルギーをフル回転させようと考えた
  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [75]1962年7月 和田商事から営業権を譲受し、八百半デパートに商号変更
参考文献[66]-[80]
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
    • [66]知人の提案もあり、和田一夫は根本的に経営組織を改組した
    • [72]八百半デパートの資本金は1,000万円、一株50円だった
    • [73]それまでの八百半は何から何まで同族会社で社員参加の余地がなかった
    • [74]それまでの八百半を「和田保善」と社名変更して資産管理会社の性格とし、そこから様々な資産を借り受けた「八百半デパート」を設立した
    • [76]社員持ち株制度を導入し、社員の経営参加意識を高めた
    • [77]持ち株比率は和田家が約60%、社員など和田家以外の人々が40%だった
    • [78]社長になった和田一夫は自らの持ち株比率を10%限度とした
    • [79]持ち株比率を10%限度としたのは企業を私物化しないという意思表示でもあった
    • [80]正しく働く者が正しく報われる待遇のシステムを公開することで、若い社員のやる気と知恵とエネルギーをフル回転させようと考えた
  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [67]1962年6月 和田商事を設立
    • [68]1962年7月 和田一夫が社長に就任(33歳での就任)
    • [75]1962年7月 和田商事から営業権を譲受し、八百半デパートに商号変更
  • Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
    • [69]昭和37年(1962年)、和田一夫は父・良平から社長の座を譲り受けた。33歳の時だった
    • [70]和田一夫は社長就任と同時に社名を「八百半デパート」と改めた
    • [71]日用衣料品を増やして総合スーパー化を図り、チェーン化へ乗り出した

1965年〜伊豆・静岡へのチェーン化と大手との規模差

第2号店まで4年をかけて人を育てる

スーパー展開を決めた1962年から、本格的な第2号店の開店までには4年を要した。その間に一夫氏が注いだのは、熱海店の体質強化と人材育成である。新規店が軌道に乗る前に既存店が傾けば元も子もなかった。世間から見れば当時の八百半はたかが熱海の八百屋であり、社員を募集しても高卒の採用さえ思うようにいかず、中卒が中心だった。一夫氏は人間は学歴ではないとして、仕事を終えると社員の寮に出向き、米国の現状と日本のスーパーチェーンの未来を語った。損益計算書の見方に加え、1個50円のかしわ餅を5,000個売るにはどうするかといった問いを出す試験制度も設けている。利益目標を達成すれば3分の1を社員の待遇へ還元すると公言し、実行した。チェーン化の第1店である小田原店が神奈川県小田原市に開いたのは、1965年11月であった。

  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
    • [81]スーパー展開を決意した1962年から本格的な第二号店のオープンまで4年の歳月を要した
    • [82]その間、和田一夫はひたすら熱海店の体質強化と人材育成に情熱を傾けた
    • [83]新規店が軌道に乗る前に既存店がおかしくなったのでは元も子もなくなるため、熱海店の体質強化に狂奔した
    • [84]世間から見れば当時の八百半は「たかが熱海の八百屋」で、社員募集しても高卒者採用さえ思うようにいかず中卒が中心だった
    • [85]和田一夫は「人間は学歴ではない」として社員のエネルギーを引き出す手だてを考えた
    • [86]和田一夫は仕事を終えると社員寮に出向き、アメリカの現状と日本のスーパーチェーン界の未来を語った
    • [87]試験制度を導入し、「損益計算書の見方」に加え「一個五十円のかしわ餅を五千個売りたい。どうすれば良いか」などを出題した
    • [88]利益目標を達成すると3分の1は社員待遇に還元すると公言し、実際に実行した
  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [89]1965年11月 神奈川県小田原市に小田原店を新設
  • Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
    • [90]昭和40年(1965年)、小田原市にチェーン化第1店をオープンした
伊豆・富士へ8店を置く

第2号店にあたる伊東店が静岡県伊東市に開いたのは1966年5月である。2年後の1968年には下田店が開き、この空白の2年もまた体質強化と人材育成に充てられた。スーパー業では出店のたびに優秀な人材を投入せざるを得ず、そのためには次の人材が育っていなければならない。マニュアルがあっても、その成否は人の心にかかるというのが一夫氏の考えであった。人の心が商いに燃えるのは、自らの商いが善だと信じられ、それを実証できるときだとも述べている。1970年までに伊豆・富士一帯で8店が置かれて店舗拡大の布石となり、1973年11月には静岡県清水市に清水店が加わった。出店の速度を決めたのは資金ではなく、店を任せられる人の数であった。

  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [91]1966年5月 静岡県伊東市に伊東店を新設
    • [97]1973年11月 静岡県清水市に清水店を新設
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
    • [92]1966年に第二号店が伊東にオープンし、2年後の1968年に下田店を開店。この空白の2年間も「体質強化」と「人材育成」に充てられた
    • [93]スーパー業では新規オープンの都度、優秀な人材を投入せざるを得ず、そのあとの優秀な人材が育っていなければならない
    • [94]マニュアルがあってもその成否は人の心にかかっている、と和田一夫は述べている
    • [95]人の心が商いに熱く燃えるのは、自らの商いが善だと信じられ、それを実証できる時である、と和田一夫は述べている
  • Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
    • [96]昭和45年(1970年)までに伊豆・富士一帯で8店を出店した
ダイエーとの規模差に突き当たる

1968年度の年間売上高で、ダイエーが1,000億円を上回っていたとき、八百半は30億円にとどまっていた。日本一のスーパー・チェーンを目指す以上、東京と大阪へ出ることは避けられなかったが、本格的なチェーン化で競えば勝負にならない差である。グループ年商が100億円を上回るのは1972年まで待たねばならず、ダイエーの1,000億円突破から4年遅れた。ソニーのすき間理論を一夫氏が本で知ったのは、このころである。戦後の井深大氏らが国内の販売網を大手電機メーカーに固められていたため、一時的に国内市場を捨てて海外へ出て市場を確立し、その成功を国内へ持ち帰ったという筋書きであった。競争の焦点を国内から外す発想を、一夫氏は流通業へ当てはめた。

  • Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
    • [98]当時ダイエーの年間売り上げがすでに1千億円を超えていたのに対し、八百半は30億円(昭和43年度)だった
    • [99]「日本一のスーパー・チェーン作り」という夢を実現するには東京・大阪への進出が不可欠だった
    • [100]本格的なチェーン化競争になれば、とても太刀打ちできない規模差だった
    • [102]そのころ和田一夫は書物で「ソニーのすき間理論」を知った
    • [103]ソニーは戦後、井深大ら三人で出発し販路を広げようとした時に全国の販売網が大手電機メーカーに固められていたため、一時的に国内市場を捨てて海外に進出しマーケットを確立、海外での成功を国内に持ち帰って成長した
  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [101]1972年 グループ年商が100億円を突破
参考文献[81]-[103]
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
    • [81]スーパー展開を決意した1962年から本格的な第二号店のオープンまで4年の歳月を要した
    • [82]その間、和田一夫はひたすら熱海店の体質強化と人材育成に情熱を傾けた
    • [83]新規店が軌道に乗る前に既存店がおかしくなったのでは元も子もなくなるため、熱海店の体質強化に狂奔した
    • [84]世間から見れば当時の八百半は「たかが熱海の八百屋」で、社員募集しても高卒者採用さえ思うようにいかず中卒が中心だった
    • [85]和田一夫は「人間は学歴ではない」として社員のエネルギーを引き出す手だてを考えた
    • [86]和田一夫は仕事を終えると社員寮に出向き、アメリカの現状と日本のスーパーチェーン界の未来を語った
    • [87]試験制度を導入し、「損益計算書の見方」に加え「一個五十円のかしわ餅を五千個売りたい。どうすれば良いか」などを出題した
    • [88]利益目標を達成すると3分の1は社員待遇に還元すると公言し、実際に実行した
    • [92]1966年に第二号店が伊東にオープンし、2年後の1968年に下田店を開店。この空白の2年間も「体質強化」と「人材育成」に充てられた
    • [93]スーパー業では新規オープンの都度、優秀な人材を投入せざるを得ず、そのあとの優秀な人材が育っていなければならない
    • [94]マニュアルがあってもその成否は人の心にかかっている、と和田一夫は述べている
    • [95]人の心が商いに熱く燃えるのは、自らの商いが善だと信じられ、それを実証できる時である、と和田一夫は述べている
  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [89]1965年11月 神奈川県小田原市に小田原店を新設
    • [91]1966年5月 静岡県伊東市に伊東店を新設
    • [97]1973年11月 静岡県清水市に清水店を新設
    • [101]1972年 グループ年商が100億円を突破
  • Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
    • [90]昭和40年(1965年)、小田原市にチェーン化第1店をオープンした
    • [96]昭和45年(1970年)までに伊豆・富士一帯で8店を出店した
    • [98]当時ダイエーの年間売り上げがすでに1千億円を超えていたのに対し、八百半は30億円(昭和43年度)だった
    • [99]「日本一のスーパー・チェーン作り」という夢を実現するには東京・大阪への進出が不可欠だった
    • [100]本格的なチェーン化競争になれば、とても太刀打ちできない規模差だった
    • [102]そのころ和田一夫は書物で「ソニーのすき間理論」を知った
    • [103]ソニーは戦後、井深大ら三人で出発し販路を広げようとした時に全国の販売網が大手電機メーカーに固められていたため、一時的に国内市場を捨てて海外に進出しマーケットを確立、海外での成功を国内に持ち帰って成長した

1969年〜ブラジルの破綻と中米への出店、名証二部上場

サンパウロで商機を測る

サンパウロには当時、日系人が70万人を数えたが、日本の百貨店は1店も出ていなかった。一夫氏がブラジルの土を初めて踏んだのは1969年6月で、入信していた宗教団体の先輩からの招きによる。国土は日本の23倍、人口は1億に達し、メーカーの成長が一巡したこの国は、大量販売で流通を変える段階に差しかかっていた。サンパウロの有名百貨店で試しに靴下を1足だけ買おうとすると、店員はもっと買わないかと返し、日本の百貨店ならありえない素っ気なさだった。この応対が一夫氏に進出を決心させた。海外1号店のピニエーロス店がサンパウロで開業したのは1971年9月である。

  • Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
    • [104]当時サンパウロに70万人の日系人がいながら日本のデパートが1店もなかったことも進出の材料になった
    • [105]昭和44年(1969年)6月、和田一夫はブラジルで教化活動をしていた入信先の宗教団体の先輩の招きで初めてブラジルを訪れた
    • [106]日本の23倍の国土、1億の人口を持つブラジルはメーカーの発展段階が一段落し、大量販売による流通革命の時期を迎えていた
    • [107]和田一夫はサンパウロのある有名百貨店で一つの実験を試みた
    • [108]靴下を1足だけ買おうとすると店員は「たったそれだけか。もっと買わないか」と応じ、日本のデパートでは考えられないサービス心のない素気ない態度だった
    • [109]この応対で和田一夫はブラジル進出の決意を固めた
  • 実業往来 1978年11月号
    • [110]1971年9月 ブラジル・サンパウロにピニエーロス店を開店(海外1号店)
ブラジルヤオハンが破綻する

国内では1974年5月に和田商事を吸収合併し、事業の器を一つにまとめている。だがブラジルでは1975年に政府が金融引き締めへ転じ、これが契機となって1977年にブラジルヤオハンは破綻した。海外1号店は開店から6年で失われたことになる。同じ1977年5月期には、単体の当期純利益も前期の3.9億円から1.1億円へ落ち込んだ。一夫氏はのちに、失敗もしたとしてブラジル店の撤退を挙げている。国内の大手チェーングループに吸収合併されることを考えた時期もあったという。海外で先に市場を取るという筋書きは、進出先の金融政策ひとつで折れる脆さを抱えていた。

  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [111]1974年5月 和田商事を吸収合併
  • 実業往来 1978年11月号
    • [112]1975年のブラジル政府による金融引き締めが契機となり、1977年にブラジルヤオハンが破綻した
  • ヤオハン 単体業績(証券 38(4)(445)・1975年5月期〜1982年5月期)
    • [113]単体の当期純利益は1976年5月期3.9億円、1977年5月期1.1億円
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
    • [114]和田一夫は「失敗もした(ブラジル店撤退)」と述べている
    • [115]途中、ナショナル大手チェーングループに吸収合併されることを考えたこともあった
中米の店で日本式の売り方を試す

出店の先はブラジルだけではない。1974年にシンガポールのオーチャード・ロードへ1号店を開き、1979年3月にはコスタリカの首府サンホセで中米ヤオハンが開店した。出資比率は八百半デパートが70%、現地資本のコメルシアル・サテリチが30%、売場面積は4,000平方メートル、従業員は230人である。昼休み2時間、土曜は正午まで、日曜は閉店という商習慣の国で、国定の祭日を除く年中無休、朝8時から夜10時までの営業に踏み切った。真空パックや冷凍食品、惣菜コーナー、自家製パン工場など日本の売り方をそのまま持ち込み、レジの通過客は1日平均4,000人に達した。開店3年目には期間利益の黒字転換を見込んでいる。ただし当初描いた中米各地へのチェーン展開は、同国の国際収支悪化と金融の逼迫で断念せざるを得なくなった。

  • 実業往来 1978年11月号
    • [116]1974年 シンガポールのオーチャード・ロードに1号店を開店
  • 日経ビジネス 1980年10月6日号
    • [117]中米ヤオハン(ヤオハン・セントロアメリカーナ)は1979年3月にコスタリカの首府サンホセで開店した
    • [118]出資比率は八百半デパート70%、現地資本のコメルシアル・サテリチ30%
    • [119]売り場面積は4,000平方メートル、従業員数は230人(うち派遣7人)
    • [120]コスタリカは昼休み2時間、土曜は正午まで、日曜は閉店が商習慣で、中米ヤオハンは国定の祭日を除き年中無休、朝8時から夜10時まで営業した
    • [121]真空パックや冷凍食品、コロッケやトンカツの惣菜コーナー、自家製パン工場の併設など日本のノウハウをそのまま導入した
    • [122]レジ通過客は1日平均4,000人
    • [123]創業3年の来年度に期間利益の黒字転換をねらっていた
    • [124]計画当初描いた中米各地へのチェーン展開は、同国経済の国際収支悪化による金融ひっ迫などで断念せざるを得ない情勢になった
名証二部へ上場する

国内では1981年11月に愛知県蒲郡市へ蒲郡店を開き、1982年12月に名古屋証券取引所市場第二部へ株式を上場した。1930年12月の創業から52年、現金正札販売への切替から26年を経ての上場である。単体の売上高は1975年5月期の295億円から1982年5月期には720億円となり、7期で2.4倍に伸びた。1980年5月期の531億円、1981年5月期の632億円と、上場前の数年は二桁の伸びが続いた。当期純利益は同じ期間に2.1億円から7.5億円となっている。上場先が東京でも大阪でもなく名古屋だったことに、静岡と神奈川に店を置く地域チェーンとしての立ち位置が表れている。

  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [125]1981年11月 愛知県蒲郡市に蒲郡店を新設
    • [126]1982年12月 名古屋証券取引所市場第二部に上場
    • [127]1930年12月 静岡県熱海市に八百半熱海支店を創業
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
    • [128]1956年11月1日、八百半は「現金・掛け売りなし」「正札販売」に商法を切り換えた
  • ヤオハン 単体業績(証券 38(4)(445)・1975年5月期〜1982年5月期)
    • [129]単体売上高は1975年5月期295億円、1982年5月期720億円
    • [130]単体売上高は1980年5月期531億円、1981年5月期632億円
    • [131]当期純利益は1975年5月期2.1億円、1982年5月期7.5億円
参考文献[104]-[131]
  • Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
    • [104]当時サンパウロに70万人の日系人がいながら日本のデパートが1店もなかったことも進出の材料になった
    • [105]昭和44年(1969年)6月、和田一夫はブラジルで教化活動をしていた入信先の宗教団体の先輩の招きで初めてブラジルを訪れた
    • [106]日本の23倍の国土、1億の人口を持つブラジルはメーカーの発展段階が一段落し、大量販売による流通革命の時期を迎えていた
    • [107]和田一夫はサンパウロのある有名百貨店で一つの実験を試みた
    • [108]靴下を1足だけ買おうとすると店員は「たったそれだけか。もっと買わないか」と応じ、日本のデパートでは考えられないサービス心のない素気ない態度だった
    • [109]この応対で和田一夫はブラジル進出の決意を固めた
  • 実業往来 1978年11月号
    • [110]1971年9月 ブラジル・サンパウロにピニエーロス店を開店(海外1号店)
    • [112]1975年のブラジル政府による金融引き締めが契機となり、1977年にブラジルヤオハンが破綻した
    • [116]1974年 シンガポールのオーチャード・ロードに1号店を開店
  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [111]1974年5月 和田商事を吸収合併
    • [125]1981年11月 愛知県蒲郡市に蒲郡店を新設
    • [126]1982年12月 名古屋証券取引所市場第二部に上場
    • [127]1930年12月 静岡県熱海市に八百半熱海支店を創業
  • ヤオハン 単体業績(証券 38(4)(445)・1975年5月期〜1982年5月期)
    • [113]単体の当期純利益は1976年5月期3.9億円、1977年5月期1.1億円
    • [129]単体売上高は1975年5月期295億円、1982年5月期720億円
    • [130]単体売上高は1980年5月期531億円、1981年5月期632億円
    • [131]当期純利益は1975年5月期2.1億円、1982年5月期7.5億円
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
    • [114]和田一夫は「失敗もした(ブラジル店撤退)」と述べている
    • [115]途中、ナショナル大手チェーングループに吸収合併されることを考えたこともあった
    • [128]1956年11月1日、八百半は「現金・掛け売りなし」「正札販売」に商法を切り換えた
  • 日経ビジネス 1980年10月6日号
    • [117]中米ヤオハン(ヤオハン・セントロアメリカーナ)は1979年3月にコスタリカの首府サンホセで開店した
    • [118]出資比率は八百半デパート70%、現地資本のコメルシアル・サテリチ30%
    • [119]売り場面積は4,000平方メートル、従業員数は230人(うち派遣7人)
    • [120]コスタリカは昼休み2時間、土曜は正午まで、日曜は閉店が商習慣で、中米ヤオハンは国定の祭日を除き年中無休、朝8時から夜10時まで営業した
    • [121]真空パックや冷凍食品、コロッケやトンカツの惣菜コーナー、自家製パン工場の併設など日本のノウハウをそのまま導入した
    • [122]レジ通過客は1日平均4,000人
    • [123]創業3年の来年度に期間利益の黒字転換をねらっていた
    • [124]計画当初描いた中米各地へのチェーン展開は、同国経済の国際収支悪化による金融ひっ迫などで断念せざるを得ない情勢になった

第3章 1983年〜 香港進出と東証上場、グループ本社移転と中国1000店構想、有利子負債の膨張東証一部上場と転換社債から香港本部移転・ネクステージ・中国1000店構想へ

筆者考察y.sugiura, author

1980年代後半のヤオハンは、国内で得た信用を国外で使う仕組みを組み上げた。静岡の地域チェーンのままでは全国チェーンとの規模の差は埋まらないが、東証一部の上場企業という看板があれば、全国の大手と同じ市場から資金を集められる。1986年12月に始めたワラント債・転換社債の調達がそれにあたり、和田一夫氏は資金は日本で調えると明言した。1990年5月のグループ本部の香港移転は、その資金を大店法も保証金もない土地へ持ち出す判断であった。天安門事件の後で売りに出た香港企業を安く買えた時期とも重なり、2年で12社を傘下に入れている。

1990年代に入ると、同じ仕組みが二つの方向へ同時に資金を送り出した。一方は中国の1,000店構想と上海の百貨店で、もう一方は和田氏自身が投資効率が悪いと語った国内での百貨店ネクステージである。国内を見切る論理と国内に大型店を建てる投資が並び、その双方を転換社債が支えた。1993年3月期の連結の有利子負債は約1,200億円に達したが、キャッシュフローは約18億円にとどまり、単体の純利益は1991年3月期の41億円から1994年3月期の15億円へ細った。利益が減っても社債の償還期日は動かないという条件を、1994年のヤオハンはすでに抱えていた。

単体売上高 1983年6月期〜1994年3月期(億円)

836 '83.6 923 '84.7 944 '85.7 1,035 '86.3 1,051 '87.3 1,113 '88.3 1,191 '89.3 1,252 '90.3 1,431 '91.3 1,311 '92.3 1,542 '93.3 1,526 '94.3
  • すべて単体。当期純利益は1991年3月期の41億円が頂点で、1994年3月期は15億円。
  • 出所は1983-84年がヤオハン 単体業績(証券 38(4)(445))、1985-1991年3月期がヤオハン烈烈 国境のない企業 世界制覇の野望(1991年)、1992-1994年3月期が三浦後美『経営破綻企業と社債金融』。

1983年〜八佰伴香港の設立と東証一部上場、ワラント債・転換社債の調達と海外22店

静岡の地域チェーンが東証一部へ上がる

1986年の八百半デパートは、国内の89店を静岡県中心に置き、一部を神奈川県に広げた地域チェーンで、1店あたりの平均売場面積は約1,000平方メートルであった。同じころ海外ではロサンゼルスやフレスノなど米国西海岸、コスタリカ、シンガポールに店を持ち、1987年から翌年にかけて香港の2・3号店、ブルネイ、マレーシアへの出店を控えていた。香港の足場は、1984年に自前で設けた百貨店会社の八佰伴香港である。同じ1984年11月には株式が名古屋証券取引所の第一部へ指定替えとなり、1986年3月には東京証券取引所の第一部にも上場した。店の網は静岡から動かないまま、株式を売買する市場だけが全国区に広がったのである。

  • Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
    • [132]1986年時点の八百半の国内店舗数は89店で、静岡県下を中心に一部神奈川県に集中し、1店あたり平均売場面積は約1,000平方メートルだった
    • [133]海外ではロサンゼルス、トレンス、フレスノの米国西海岸、コスタリカ、シンガポールなどに店舗網を持っていた
    • [134]1987年から1988年にかけて香港の2・3号店、ブルネイ、マレーシアへの出店を予定していた
  • 日経ビジネス 1992年3月16日号 編集長インタビュー 和田一夫
    • [135]百貨店業務の八佰伴香港有限公司はヤオハンが1984年に独自に設立した
  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [136]1984年11月 名古屋証券取引所市場第一部に指定替え
    • [137]1986年3月 東京証券取引所市場第一部に上場
上場企業の信用で資金を集める

東証上場の9か月後にあたる1986年12月、八百半デパートはワラント債と転換社債による資金調達を始めた。1988年9月には香港でも株式を上場し、同年11月には杉山商事を吸収合併している。1988年3月の米経済誌フォーブスは、和田家の持つ株式が東証で額面の60倍に評価され、1億4,000万ドルに相当すると書いた。和田一夫氏は1989年の取材で、上場企業であるため資金調達は順調で、借入金はほとんどないと答えた。そのうえで新規の投資に充てる1,000億円をすでに用意したと明かし、資金の出どころについてはこう述べている。『とにかく資金は日本が一番力がありますから、ファイナンスは日本で、と決めています』(Decide 1989年7巻9号)株式市場の評価が、そのまま海外へ出る資金の厚みを決める形であった。

  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [138]1986年12月 ワラント債・転換社債による資金調達を開始
    • [140]1988年11月 杉山商事を吸収合併
  • Decide 1989年7巻9号(和田一夫・国際流通グループヤオハン代表)
    • [139]和田一夫は1989年のインタビューで、前年9月に香港で上場したと語った
    • [142]和田一夫は、八百半デパートは上場企業なので資金調達は順調で、借入金はほとんどないと述べた
    • [143]和田一夫は、すでに1,000億円の資金を用意しており、中華料理店の買収やディベロッパー事業に使うと述べた
  • 日経ビジネス 1989年2月13日号
    • [141]フォーブス1988年3月21日号は、和田家が所有する株式は東証で額面の60倍の価値があり1億4,000万ドルに相当すると書いた
海外22店と大店法の外側

1989年には、海外の店は北米7店、東南アジア14店にコスタリカを加えた22店に達した。国内は静岡を中心に神奈川・愛知へ広がる90店で、主力店の平均売場面積は約3,000平方メートルになっていたが、ダイエーやイトーヨーカ堂、西友といった全国チェーンに並ぶ規模ではなかった。和田氏が海外を選び続けた理由は、出店の条件の差にある。大店法のように大型店の出店を縛る法律を持つ国は少なく、借りた建物に出るなら保証金も建築協力金も要らず、内装の費用ほどで済んだ。1店が評判を取ると、別の都市から出店を頼まれる循環も生まれた。シンガポールでは卸売の売上高が小売の7倍ある点に目を付け、政府と合弁で卸売センターを建て始めた。

  • Decide 1989年7巻9号(和田一夫・国際流通グループヤオハン代表)
    • [144]1989年時点の海外店舗は北米7店、コスタリカ、東南アジア14店で計22店だった
    • [145]国内の店舗数は90店で、静岡県下を中心に神奈川県・愛知県を含み、主力店舗の平均売場面積は約3,000平方メートルだった
    • [146]八百半はダイエー、イトーヨーカ堂、西友といったナショナル・チェーンの仲間入りができる規模ではなかった
    • [147]海外には大店法のような大規模小売業の出店を規制する法律に縛られている国は少ない
    • [148]和田一夫によれば、海外では家賃だけで保証金は不要で、かかるのは内装工事の費用ぐらいである
    • [149]最初の店が呼び水となり、シカゴやバンクーバーなどから出店要請が来た
    • [150]卸売業の売上高が小売業の7倍というシンガポールの現実に着目し、シンガポール政府との合弁で大規模な卸売センターを建設中だった
参考文献[132]-[150]
  • Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
    • [132]1986年時点の八百半の国内店舗数は89店で、静岡県下を中心に一部神奈川県に集中し、1店あたり平均売場面積は約1,000平方メートルだった
    • [133]海外ではロサンゼルス、トレンス、フレスノの米国西海岸、コスタリカ、シンガポールなどに店舗網を持っていた
    • [134]1987年から1988年にかけて香港の2・3号店、ブルネイ、マレーシアへの出店を予定していた
  • 日経ビジネス 1992年3月16日号 編集長インタビュー 和田一夫
    • [135]百貨店業務の八佰伴香港有限公司はヤオハンが1984年に独自に設立した
  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [136]1984年11月 名古屋証券取引所市場第一部に指定替え
    • [137]1986年3月 東京証券取引所市場第一部に上場
    • [138]1986年12月 ワラント債・転換社債による資金調達を開始
    • [140]1988年11月 杉山商事を吸収合併
  • Decide 1989年7巻9号(和田一夫・国際流通グループヤオハン代表)
    • [139]和田一夫は1989年のインタビューで、前年9月に香港で上場したと語った
    • [142]和田一夫は、八百半デパートは上場企業なので資金調達は順調で、借入金はほとんどないと述べた
    • [143]和田一夫は、すでに1,000億円の資金を用意しており、中華料理店の買収やディベロッパー事業に使うと述べた
    • [144]1989年時点の海外店舗は北米7店、コスタリカ、東南アジア14店で計22店だった
    • [145]国内の店舗数は90店で、静岡県下を中心に神奈川県・愛知県を含み、主力店舗の平均売場面積は約3,000平方メートルだった
    • [146]八百半はダイエー、イトーヨーカ堂、西友といったナショナル・チェーンの仲間入りができる規模ではなかった
    • [147]海外には大店法のような大規模小売業の出店を規制する法律に縛られている国は少ない
    • [148]和田一夫によれば、海外では家賃だけで保証金は不要で、かかるのは内装工事の費用ぐらいである
    • [149]最初の店が呼び水となり、シカゴやバンクーバーなどから出店要請が来た
    • [150]卸売業の売上高が小売業の7倍というシンガポールの現実に着目し、シンガポール政府との合弁で大規模な卸売センターを建設中だった
  • 日経ビジネス 1989年2月13日号
    • [141]フォーブス1988年3月21日号は、和田家が所有する株式は東証で額面の60倍の価値があり1億4,000万ドルに相当すると書いた

1989年〜国際流通グループヤオハンの設立と1990年5月の香港本部移転、12社の買収

持株会社を香港に置き、国内は弟に託す

1989年8月、和田一夫氏は国際流通グループヤオハンを設立して代表に就き、八百半デパートの経営は弟の和田晃昌氏に託した。社長の交代は役員会の席で突然告げられた。新会社は香港に置く資本金5,000万香港ドル(約9億円)の国際事業統括会社で、日本を含むグループの持株会社として戦略を指揮する役目を負った。和田氏は香港返還の1997年を起点に年間売上高1兆円を掲げ、その6割を海外で稼ぐとした。事業の柱も、6割を小売、4割を新たに始めるディベロッパーと飲食に置く計画であった。自社の店が客を集めてショッピングセンターの価値を上げるなら、その開発利益も自ら取るという考えである。

  • 日経ビジネス 1992年3月16日号 編集長インタビュー 和田一夫
    • [151]1989年8月 国際流通グループヤオハンを設立し、和田一夫が代表に就任
  • 日経ビジネス 1992年11月30日号
    • [152]和田一夫は日本の八百半デパートの経営を弟の和田晃昌に託した
    • [153]1989年の社長交代は役員会の席で突然発表された
  • Decide 1989年7巻9号(和田一夫・国際流通グループヤオハン代表)
    • [154]香港に資本金5,000万香港ドル(約9億円)の国際事業統括会社「国際流通グループヤオハン」を設立し、グループの持株会社として日本を含むグループ戦略を指揮する
    • [155]香港返還の1997年を皮切りに年間売上高1兆円を目標とし、うち60%を海外、40%を国内で達成する計画を立てた
    • [156]全体の60%を小売業部門、40%を新しく始めるディベロッパーと飲食事業部門で稼ぐ計画を設定した
    • [157]ヤオハンが出るとショッピングセンター全体の価値が上がるので、その開発利益を自らのものにしたいと和田一夫は述べた
反対を承知で規制のない香港を選ぶ

本拠を香港へ移すと伝えると、大半の人は極めて危険だと反対し、現地の米国人は特に強い言葉で危ぶんだという。1989年6月の天安門事件を境に、香港では住民の海外脱出の動きが強まっていた。それでも和田氏は、規則がなく自由であること、税制が有利で海外の利益をいったん集めて再び外へ出しやすいことを挙げた。日本に近い交通の要衝で、各地の華僑の情報が集まる点も理由に数えた。大店法で縛られた日本とは違い、これまで出た国には規制らしい規制がないとも語っている。後に和田氏は、国内の事情を次のように振り返った。『規制の多い国内でチェーン展開に遅れ、後発の不利はいかんともしがたかった。海外ならばナンバーワンになるチャンスがあると思った』(日本経済新聞 1993年1月10日)国内で負けた条件をそのまま抱えるより、条件ごと土地を替えるほうを選んだのである。

  • Decide 1989年7巻9号(和田一夫・国際流通グループヤオハン代表)
    • [158]和田一夫によれば、本拠地を香港に移すというと大部分の人がきわめて危険なことだと反対し、現地のアメリカ人は特に言葉を強めて危険な選択だと言った
    • [159]1989年6月の天安門事件を境に、香港の人たちの海外脱出志向は一層強くなった
    • [160]和田一夫は香港を選んだ理由に、規則がなく自由なこと、税制面で有利で海外の利益を集結させてまた外に出すのに最も有利なことを挙げた
    • [161]香港は交通の要衝で日本とも近く、アメリカやカナダ、アジア各地から華僑の情報が集まる
    • [162]和田一夫は、大店法でがんじがらめの日本と違い、これまで出店した国では規制らしい規制はほとんどないと述べた
全財産を移し、香港で12社を買う

グループ本部の香港移転は1990年5月に実行された。返還を前に資本と人材の流出が続くなか、ヤオハンは200億円を投じ、銀行などの協調融資枠500億円を確保した。和田氏は全財産と家族を連れて移り住み、湾仔のオフィスタワー49・50階を買い取って事務所と迎賓館に60億円を充てた。売りに出た香港企業を安値で買い、2年で12社を傘下に入れた。買収の総額は600億〜700億円で、日本から持ち込んだ230億円の一部と現地で借りた約3億米ドルを充てた。移住時に大型店3店・従業員1,300人だった香港の陣容は、香港と中国で114店・5,800人に膨らんだ。1991年11月、八百半デパートは商号をヤオハンジャパンへ改めた。

  • 日経ビジネス 1992年3月16日号 編集長インタビュー 和田一夫
    • [163]1990年5月 香港にグループ本部を設置
    • [167]天安門事件以降、企業の買収話が次々持ちかけられ、香港株式相場の低迷で安く買収でき、買収した会社は12社を数えた
    • [168]買収総額は600億〜700億円で、日本からの手持ち資金230億円の一部と現地で借り入れた約3億米ドルを充てた
    • [169]和田一夫の移住時に大型店3店舗・従業員1,300人だった香港のヤオハングループは、香港と中国地域で114店舗・5,800人に拡大した
  • 日経ビジネス 1992年11月30日号
    • [164]天安門事件の直後で資本や人材の流出が続くなか、和田はヤオハンとして200億円を投資したのに加え、銀行などの協調融資枠500億円を確保した
    • [165]和田一夫は自分の全財産と家族を抱えて香港に本拠を移した
  • LA international 1991年「カネがカネを呼ぶ仕掛け――ヤオハン国際戦略の香港・総本山」
    • [166]湾仔のコンベンションプラザ・オフィスタワー49階と50階を買い取り、オフィスと迎賓館に60億円を投入した
  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [170]1991年11月 ヤオハンジャパンに商号変更
参考文献[151]-[170]
  • 日経ビジネス 1992年3月16日号 編集長インタビュー 和田一夫
    • [151]1989年8月 国際流通グループヤオハンを設立し、和田一夫が代表に就任
    • [163]1990年5月 香港にグループ本部を設置
    • [167]天安門事件以降、企業の買収話が次々持ちかけられ、香港株式相場の低迷で安く買収でき、買収した会社は12社を数えた
    • [168]買収総額は600億〜700億円で、日本からの手持ち資金230億円の一部と現地で借り入れた約3億米ドルを充てた
    • [169]和田一夫の移住時に大型店3店舗・従業員1,300人だった香港のヤオハングループは、香港と中国地域で114店舗・5,800人に拡大した
  • 日経ビジネス 1992年11月30日号
    • [152]和田一夫は日本の八百半デパートの経営を弟の和田晃昌に託した
    • [153]1989年の社長交代は役員会の席で突然発表された
    • [164]天安門事件の直後で資本や人材の流出が続くなか、和田はヤオハンとして200億円を投資したのに加え、銀行などの協調融資枠500億円を確保した
    • [165]和田一夫は自分の全財産と家族を抱えて香港に本拠を移した
  • Decide 1989年7巻9号(和田一夫・国際流通グループヤオハン代表)
    • [154]香港に資本金5,000万香港ドル(約9億円)の国際事業統括会社「国際流通グループヤオハン」を設立し、グループの持株会社として日本を含むグループ戦略を指揮する
    • [155]香港返還の1997年を皮切りに年間売上高1兆円を目標とし、うち60%を海外、40%を国内で達成する計画を立てた
    • [156]全体の60%を小売業部門、40%を新しく始めるディベロッパーと飲食事業部門で稼ぐ計画を設定した
    • [157]ヤオハンが出るとショッピングセンター全体の価値が上がるので、その開発利益を自らのものにしたいと和田一夫は述べた
    • [158]和田一夫によれば、本拠地を香港に移すというと大部分の人がきわめて危険なことだと反対し、現地のアメリカ人は特に言葉を強めて危険な選択だと言った
    • [159]1989年6月の天安門事件を境に、香港の人たちの海外脱出志向は一層強くなった
    • [160]和田一夫は香港を選んだ理由に、規則がなく自由なこと、税制面で有利で海外の利益を集結させてまた外に出すのに最も有利なことを挙げた
    • [161]香港は交通の要衝で日本とも近く、アメリカやカナダ、アジア各地から華僑の情報が集まる
    • [162]和田一夫は、大店法でがんじがらめの日本と違い、これまで出店した国では規制らしい規制はほとんどないと述べた
  • LA international 1991年「カネがカネを呼ぶ仕掛け――ヤオハン国際戦略の香港・総本山」
    • [166]湾仔のコンベンションプラザ・オフィスタワー49階と50階を買い取り、オフィスと迎賓館に60億円を投入した
  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [170]1991年11月 ヤオハンジャパンに商号変更

1991年〜深圳出店と中国1000店構想、ネクステージ半田・知立と有利子負債1,200億円

深圳出店と中国1000店構想

中国本土での最初の店は、1991年9月に深圳の経済特区内の中英街に開いた。出稼ぎから帰郷する客が3万〜4万円の背広を買っていく店であった。和田氏は、1人あたりの年間国民所得が1,000ドルを超えた時が流通業の進出の好機で、1,500ドルから1万ドルへ上がる間は店を作れば売れると見ていた。1992年9月29日には、上海の浦東地区で上海第一百貨店と合弁で建てる百貨店の起工式に臨んだ。社内では中国に5年で1,000店を作ると宣言し、1993年1月には中国でスーパーを1,000店展開する構想が報じられた。日本の大手でも300店ほどという流通業界の常識からは、夢のような数字と受け止められた。

  • 日経ビジネス 1992年3月16日号 編集長インタビュー 和田一夫
    • [171]1991年9月に深圳市の経済特区内の中英街に出店した
    • [172]深圳の店では日本円にして3万〜4万円クラスの背広が売れている
    • [173]和田一夫は年間国民所得が1,000ドルを超えた時が流通業の進出の好機で、1,500ドルから1万ドルに上昇していく間は店をつくれば売れる時代だと述べた
  • 日経ビジネス 1992年11月30日号
    • [174]1992年9月29日、和田一夫は上海第一百貨店と合弁で建設する浦東地区の百貨店の起工式に臨んだ
    • [175]和田一夫は中国に5年間で1,000店舗つくると社内に宣言した
  • 日本経済新聞 1993年1月10日
    • [176]ヤオハンは中国でスーパーを1,000店展開する構想を打ち出した
    • [177]流通業界は、チェーンストアで40年の歴史のある日本の大手でさえせいぜい300店で、まるで夢のような話と受け止めた
投資効率の悪い国内に百貨店を建てる

和田氏は1992年の取材で、国内での知名度は気にしていないと語った。『日本は投資効率が悪いですから。とにかく地価が高すぎます。』(日経ビジネス 1992年3月16日号)国内のスーパーや百貨店は開店から3〜5年たたないと利益が出ないという見立てである。ただし従来にない業態の店を開くなら、日本市場にも魅力を感じるとも述べていた。弟の和田晃昌氏は1994年、3年半前に開いたネクステージ半田のノウハウを重ね、同年11月にグループ国内最大のネクステージ知立を開くと明かした。敷地5万7,000平方メートル、営業面積4万平方メートル、駐車場2,170台の規模で、百貨店とディスカウントストアを核に据えた。1990年からの5年間で市場から調達した623億円のうち、240億円がネクステージの2店に投じられた。

  • 日経ビジネス 1992年3月16日号 編集長インタビュー 和田一夫
    • [178]和田一夫は日本での知名度についてはさほど気にしていないと述べた
    • [179]日本のスーパーや百貨店は開店してから3〜5年たたないと利益が上がってこない
    • [180]和田一夫は新しい業態の店舗を開発するなら日本市場にも魅力を感じると述べた
  • ショッピングセンター 1994年3月号「流通展望――ヤオハンの経営理念と国際戦略」(和田晃昌)
    • [181]和田晃昌は、3年半前に造ったネクステージ半田のノウハウに上積みし、本年11月にグループ国内最大の店舗ネクステージ知立をオープンすると述べた
    • [182]ネクステージ知立は敷地面積5万7,000平方メートル、営業面積4万平方メートル、駐車場2,170台で、百貨店とディスカウントストアを核店舗とする
  • 三浦後美『経営破綻企業と社債金融』(ヤオハンジャパン単体業績)
    • [183]1990年からの5年間で市場からの資金調達は623億円に達し、うち240億円をネクステージ2店へ投じた
転換社債で積み上がる有利子負債1,200億円

資金の多くは社債で賄われた。1990年2月に第1回と第2回の無担保転換社債を各100億円発行し、1992年12月には米ドル建てのワラント債を出した。1993年4月には円建て転換社債100億円を、1994年8月には第3回無担保転換社債200億円を重ねている。1993年3月期の連結で見た有利子負債は約1,200億円と、売上高約1,940億円の6割を超えた。一方で減価償却費と利益留保を合わせたキャッシュフローは約18億円にすぎなかった。単体の当期純利益も1991年3月期の41億円から、1994年3月期には15億円まで細った。金融機関からは、経営の不透明さと強気一辺倒の計画に厳しい注文が付いた。返済の期日が決まった社債が、細っていく利益の上に積み上がっていった。

  • 日経ビジネス 1997年1月6日号
    • [184]1990年2月8日に第1回・第2回無担保転換社債を各100億円発行し、1992年12月10日に米ドル建てワラント債を発行した
    • [185]1993年4月8日に98年満期円建て転換社債100億円を発行した
    • [186]1994年8月31日に第3回無担保転換社債200億円を発行した
  • 日経ビジネス 1994年4月11日号
    • [187]1993年3月期、連結決算でみたヤオハンジャパンの有利子負債は約1,200億円で、売上高約1,940億円の60%を超す
    • [188]キャッシュフロー(減価償却費や利益留保など)は約18億円に過ぎなかった
    • [191]金融機関からは経営の不透明さ、強気一辺倒の経営計画に対する厳しい注文もついている
  • ヤオハン烈烈 国境のない企業 世界制覇の野望(1991年・単体業績)
    • [189]1991年3月期の単体当期純利益は41億円
  • 三浦後美『経営破綻企業と社債金融』(ヤオハンジャパン単体業績)
    • [190]1994年3月期の単体当期純利益は15億円
参考文献[171]-[191]
  • 日経ビジネス 1992年3月16日号 編集長インタビュー 和田一夫
    • [171]1991年9月に深圳市の経済特区内の中英街に出店した
    • [172]深圳の店では日本円にして3万〜4万円クラスの背広が売れている
    • [173]和田一夫は年間国民所得が1,000ドルを超えた時が流通業の進出の好機で、1,500ドルから1万ドルに上昇していく間は店をつくれば売れる時代だと述べた
    • [178]和田一夫は日本での知名度についてはさほど気にしていないと述べた
    • [179]日本のスーパーや百貨店は開店してから3〜5年たたないと利益が上がってこない
    • [180]和田一夫は新しい業態の店舗を開発するなら日本市場にも魅力を感じると述べた
  • 日経ビジネス 1992年11月30日号
    • [174]1992年9月29日、和田一夫は上海第一百貨店と合弁で建設する浦東地区の百貨店の起工式に臨んだ
    • [175]和田一夫は中国に5年間で1,000店舗つくると社内に宣言した
  • 日本経済新聞 1993年1月10日
    • [176]ヤオハンは中国でスーパーを1,000店展開する構想を打ち出した
    • [177]流通業界は、チェーンストアで40年の歴史のある日本の大手でさえせいぜい300店で、まるで夢のような話と受け止めた
  • ショッピングセンター 1994年3月号「流通展望――ヤオハンの経営理念と国際戦略」(和田晃昌)
    • [181]和田晃昌は、3年半前に造ったネクステージ半田のノウハウに上積みし、本年11月にグループ国内最大の店舗ネクステージ知立をオープンすると述べた
    • [182]ネクステージ知立は敷地面積5万7,000平方メートル、営業面積4万平方メートル、駐車場2,170台で、百貨店とディスカウントストアを核店舗とする
  • 三浦後美『経営破綻企業と社債金融』(ヤオハンジャパン単体業績)
    • [183]1990年からの5年間で市場からの資金調達は623億円に達し、うち240億円をネクステージ2店へ投じた
    • [190]1994年3月期の単体当期純利益は15億円
  • 日経ビジネス 1997年1月6日号
    • [184]1990年2月8日に第1回・第2回無担保転換社債を各100億円発行し、1992年12月10日に米ドル建てワラント債を発行した
    • [185]1993年4月8日に98年満期円建て転換社債100億円を発行した
    • [186]1994年8月31日に第3回無担保転換社債200億円を発行した
  • 日経ビジネス 1994年4月11日号
    • [187]1993年3月期、連結決算でみたヤオハンジャパンの有利子負債は約1,200億円で、売上高約1,940億円の60%を超す
    • [188]キャッシュフロー(減価償却費や利益留保など)は約18億円に過ぎなかった
    • [191]金融機関からは経営の不透明さ、強気一辺倒の経営計画に対する厳しい注文もついている
  • ヤオハン烈烈 国境のない企業 世界制覇の野望(1991年・単体業績)
    • [189]1991年3月期の単体当期純利益は41億円

第4章 1995年〜 上海第一八佰伴の開店から会社更生法申請とジャスコの支援浦東の百貨店と1,000店構想から主力16店の売却、負債1,689億円での更生法申請へ

筆者考察y.sugiura, author

上海への集中は、ヤオハンジャパンの信用を借りながら、その責任からは切り離すという二重の設計の上に立っていた。和田一夫氏は中国への投資を香港の持株会社から出すことで、日本の株主に負担は及ばないと説明した。ところが香港の中核会社である八佰伴香港は1995年3月期から営業赤字に落ち、上海第一八佰伴の借入にはヤオハンジャパンが4,000万米ドルの保証を付けていた。資本の系列は別でも、資金の出どころをたどれば国内のスーパーに行き着く。中国の店が育つまでの数年を、日本の店の稼ぎと上場会社の信用で持ちこたえる構図であった。

資金の集め方が、この構図を脆くした。ヤオハンは社債と株式市場から資金を得て、主力銀行と深い関係を結ばなかった。社債の償還期が重なったとき、借り換えを引き受ける貸し手はおらず、現金を作るには利益を出している店を売るほかなかった。年20億円の営業利益を生む16店の売却代金は銀行への返済に回り、残った店網では1,689億円の連結有利子負債を支えられない。1997年10月にジャスコが海外事業の切り離しを支援の条件に置いたのは、海外を国内の信用で支えるというヤオハンの組み立てを、そのまま断ち切るものであった。

単体売上高 1992年3月期〜1997年3月期(億円)

1,311 92.3 1,542 93.3 1,526 94.3 1,528 95.3 1,615 96.3 1,568 97.3
  • すべて単体。当期純利益は1993年3月期の25億円から毎期減り、1996年3月期に6億円、1997年3月期には359億円の損失となった。
  • 出所はヤオハンジャパン 単体業績(三浦『経営破綻企業と社債金融』)。

1995年〜上海第一八佰伴の開店とグループ本部の浦東移転

長江下流の消費を見込み浦東に大型店を開く

和田一夫氏が上海に賭けた根拠は、長江下流域の消費の伸びにあった。上海市に江蘇・浙江の両省を加えた地域は人口1億2,000万人で中国のGNPの3割を占め、消費は年20%を超えて伸びていると一夫氏はみていた。中国で最初に上位の中間層が育つのもこの地域だという読みである。1995年12月、浦東新区に売場面積11万3,000平方メートルの百貨店ネクステージ上海が開業し、部分開業の初日には100万人を超える市民が詰めかけた。運営する上海第一八佰伴は、香港の持株会社YIHが36%、ヤオハンジャパンが19%、上海第一百貨店が45%を出す合弁であった。翌1996年6月に一夫氏は住まいを上海へ移し、7月1日にはグループ本部も香港から浦東へ移している。本部とは建物ではなく最高経営責任者の居る場所だというのが、一夫氏の考え方であった。

  • JMAマネジメントレビュー 1996年8月号「ヤオハン和田代表の21世紀戦略 上海を本拠に中国の流通革命に挑む」(和田一夫)
    • [192]上海市・江蘇省・浙江省の1市2省は人口1億2,000万人で中国のGNPの3割を占め、消費は軒並み20%以上伸びていると和田一夫は述べた
    • [193]和田一夫はこの地域が中国で最も早くアッパーミドル層を形成すると考えていた
    • [198]和田一夫は立派なビルのある所ではなく、CEOのいる所が本部だと述べた
  • 日経ビジネス 1997年7月28日号
    • [194]1995年12月、上海・浦東新区に売り場面積11万3,000平方メートルの百貨店「ネクステージ上海」が開店した
  • Decide 1997年15巻5号(白尾芳輝)
    • [195]1995年12月の部分開業初日には100万人を超す上海市民が来店した
    • [197]1996年6月2日に和田一夫は住まいを香港から上海・浦東新区へ移し、7月1日にグループ本部も同新区へ移転した
  • 日経ビジネス 1997年10月20日号
    • [196]上海第一八佰伴の出資比率はヤオハン・インターナショナル・ホールディングス36%、ヤオハンジャパン19%、上海第一百貨店45%
中国投資を香港の持株会社から出す

中国への投資の出し方について、一夫氏はヤオハンジャパンとは別の会社から出していると繰り返した『中国への投資は日本(ヤオハンジャパン)からではなく香港(ヤオハンインターナショナル・ホールディングス)から行っています。この2つの会社はまったく別もので,仮に中国事業が失敗してもヤオハンジャパンの株主の皆さんにご迷惑をかけることはありません。』。百貨店は初年度から償却前の利益を確保できる見込みで、大きな投資はほぼ終えたので5年で回収するという見通しも示している。ただし、切り離しは資本の系列の上にとどまった。ヤオハンジャパンは上海第一八佰伴の借入のうち4,000万米ドル(約45億円)を保証しており、出資比率に照らせばYIHより重い負担を負っていた。1996年3月期末には、ヤオハンジャパンの関連会社への投融資が国内371億円に対し、香港84億円、中国32億円、それ以外の海外345億円に及んでいた。香港の信用だけでは足りない分を、日本の上場会社の信用で埋める構図であった。

  • JMAマネジメントレビュー 1996年8月号「ヤオハン和田代表の21世紀戦略 上海を本拠に中国の流通革命に挑む」(和田一夫)
    • [199]和田一夫は中国への投資はヤオハンジャパンではなく香港のヤオハンインターナショナル・ホールディングスから行っていると説明した
    • [200]和田一夫は上海の百貨店が初年度から償却前利益を確保できそうだとし、大きな投資はほぼ終わったのでほぼ5年で回収したいと述べた
  • 日経ビジネス 1997年7月28日号
    • [201]上海第一八佰伴への金融機関の融資に対し、YIHが4,800万米ドル、ヤオハンジャパンが4,000万米ドル(約45億円)を保証し、出資比率を考えるとヤオハンジャパンの保証が相対的に大きい
  • 日経ビジネス 1997年4月7日号
    • [202]1996年3月期末のヤオハンジャパンの関連会社への投融資は国内371億円、香港84億円、中国32億円、香港・中国を除く海外345億円
スーパー1,000店構想と上海への人材の集中

百貨店と並んで掲げたのが、中国でのスーパー1,000店構想である。2010年に1,000店を目指す計画で、1997年半ばまでに上海と無錫で36店を開いた。構想にはファストフード3,000店も並び、中国事業全体で1999年12月期に売上高1,000億円を目標とした。グループが中国に投じた資金は総額600億円に達し、一時は上海だけで日本から160人の社員が送り込まれている。その間、国内の単体の業績は伸びを失っていた。1996年3月期の売上高は1,615億円と前期の1,528億円を上回ったものの、当期純利益は8億円から6億円へ減った。国内の店を支える人と資金が海を渡った分、足元の利益が細っていった。

  • 日経ビジネス 1997年11月10日号
    • [203]和田一夫は中国で「スーパー1000店構想」を打ち出した
    • [205]大型ショッピングセンター構想、スーパー1000店構想、ファストフード3000店構想などにより、99年12月期に売上高1,000億円を目指す計画を掲げた
    • [207]一時期は上海だけで日本から160人の社員が送り込まれた
  • 日経ビジネス 1997年7月28日号
    • [204]2010年に1,000店を目指して展開を始めたスーパーマーケット事業は、上海と無錫に36店を出店した(1997年7月時点)
    • [206]八佰伴グループがこれまでに中国に投じた資金は総額600億円に達する
  • ヤオハンジャパン 単体業績(三浦『経営破綻企業と社債金融』・1995年3月期〜1997年3月期)
    • [208]単体売上高は1995年3月期1,528億円、1996年3月期1,615億円。当期純利益は8億円から6億円
参考文献[192]-[208]
  • JMAマネジメントレビュー 1996年8月号「ヤオハン和田代表の21世紀戦略 上海を本拠に中国の流通革命に挑む」(和田一夫)
    • [192]上海市・江蘇省・浙江省の1市2省は人口1億2,000万人で中国のGNPの3割を占め、消費は軒並み20%以上伸びていると和田一夫は述べた
    • [193]和田一夫はこの地域が中国で最も早くアッパーミドル層を形成すると考えていた
    • [198]和田一夫は立派なビルのある所ではなく、CEOのいる所が本部だと述べた
    • [199]和田一夫は中国への投資はヤオハンジャパンではなく香港のヤオハンインターナショナル・ホールディングスから行っていると説明した
    • [200]和田一夫は上海の百貨店が初年度から償却前利益を確保できそうだとし、大きな投資はほぼ終わったのでほぼ5年で回収したいと述べた
  • 日経ビジネス 1997年7月28日号
    • [194]1995年12月、上海・浦東新区に売り場面積11万3,000平方メートルの百貨店「ネクステージ上海」が開店した
    • [201]上海第一八佰伴への金融機関の融資に対し、YIHが4,800万米ドル、ヤオハンジャパンが4,000万米ドル(約45億円)を保証し、出資比率を考えるとヤオハンジャパンの保証が相対的に大きい
    • [204]2010年に1,000店を目指して展開を始めたスーパーマーケット事業は、上海と無錫に36店を出店した(1997年7月時点)
    • [206]八佰伴グループがこれまでに中国に投じた資金は総額600億円に達する
  • Decide 1997年15巻5号(白尾芳輝)
    • [195]1995年12月の部分開業初日には100万人を超す上海市民が来店した
    • [197]1996年6月2日に和田一夫は住まいを香港から上海・浦東新区へ移し、7月1日にグループ本部も同新区へ移転した
  • 日経ビジネス 1997年10月20日号
    • [196]上海第一八佰伴の出資比率はヤオハン・インターナショナル・ホールディングス36%、ヤオハンジャパン19%、上海第一百貨店45%
  • 日経ビジネス 1997年4月7日号
    • [202]1996年3月期末のヤオハンジャパンの関連会社への投融資は国内371億円、香港84億円、中国32億円、香港・中国を除く海外345億円
  • 日経ビジネス 1997年11月10日号
    • [203]和田一夫は中国で「スーパー1000店構想」を打ち出した
    • [205]大型ショッピングセンター構想、スーパー1000店構想、ファストフード3000店構想などにより、99年12月期に売上高1,000億円を目指す計画を掲げた
    • [207]一時期は上海だけで日本から160人の社員が送り込まれた
  • ヤオハンジャパン 単体業績(三浦『経営破綻企業と社債金融』・1995年3月期〜1997年3月期)
    • [208]単体売上高は1995年3月期1,528億円、1996年3月期1,615億円。当期純利益は8億円から6億円

1996年〜社債470億円の償還と主力16店のセイフーへの売却

ワラント債の償還で資金繰りが露見する

危機が表に出たのは1996年11月末で、117億円のワラント債の償還を前に資金繰りの悪化が明るみに出た。12月10日の償還は保証先の大和銀行などからの借り換えで乗り切ったが、1996年3月末の時点で社債は約470億円が未償還のまま残り、1997年5月に約100億円、2001年までにさらに400億円弱の償還を控えていた。これに対し、1996年3月期の経常利益は46億5,000万円にすぎない。12月16日のリストラ案の会見で具体策が示されず、11月19日に740円だった株価は12月19日に363円まで落ちた。資金を市場から集めてきたことの裏側を、のちに社長となる和田光正氏は銀行との関係の薄さとして振り返っている『市場から簡単におカネが入るので、どうしても金融機関との十分な関係をつくれなかったのです。』。

  • 日経ビジネス 1997年7月28日号
    • [209]1996年11月末、ワラント債117億円の償還に際してヤオハンジャパンの資金繰りの悪化が明らかになった
  • 日経ビジネス 1997年1月6日号
    • [210]1996年12月10日に償還した米ドル建てワラント債は、保証先の大和銀行などからの借り換えでしのいだ
    • [211]社債の未償還残高は1996年3月末で約470億円。1997年5月に約100億円、2001年までに400億円弱の償還が控える
    • [212]1996年3月期の経常利益は46億5,000万円
    • [213]12月16日のリストラ案発表の会見で具体的な対応策は語られず、11月19日に740円だった株価は12月19日の終値で363円となった
  • 日経ビジネス 1997年4月7日号
    • [214]和田光正は、八佰伴グループが株式市場から直接資金を調達して拡大してきたため、金融機関と十分な関係を築けなかったことを反省点に挙げた
有利子負債を2年で400億円減らす計画

1997年1月、副社長だった和田光正氏が社長に就き、一夫氏から財務の立て直しを任された。2月3日に公表した計画は、1999年3月期に有利子負債を単体で40%減の600億円、連結で45%減の900億円まで落とすものであったが、利益の目標は記者に問われても最後まで出さなかった。光正氏の見立てでは、1996年3月期末の総資産1,789億円に対して営業利益は49億5,000万円で、総資産営業利益率は3%ほどしかない。単体1,018億円の有利子負債を2年で400億円削り、利益を落とさずに資産を縮めることを柱に据えた。中国でも1月初めに、スーパーを含む新規出店を1年間止めると決めている。

  • 日経ビジネス 1997年4月7日号
    • [215]和田光正は1989年に副社長となり、1997年1月にヤオハンジャパン社長に就任した
    • [219]ヤオハンジャパンの総資産は1996年3月期末で1,789億円、営業利益は49億5,000万円で、総資産営業利益率は3%ほど
    • [220]和田光正は1,018億円の有利子負債を2年間で400億円減らし、資産を圧縮しつつ利益を落とさずに利益率を高める目標を示した
  • 日経ビジネス 1997年1月6日号
    • [216]和田一夫代表は新社長の和田光正に財務のリストラを託すとした
  • 日経ビジネス 1997年2月10日号
    • [217]2月3日の記者会見で、1999年3月期に有利子負債を単体で40%減の600億円、連結で45%減の900億円にする目標を示した
    • [218]99年3月期の利益目標について和田光正社長は最後まで具体的な数字を明かさなかった
  • 日経ビジネス 1997年7月28日号
    • [221]八佰伴グループは1997年1月初め、中国でのスーパーマーケットを含む新規出店を1年間凍結すると発表した
黒字の主力16店をダイエー系へ手放す

資産売却の核に据えたのは、国内の主力店の切り離しであった。2月17日、ヤオハンジャパンはダイエー子会社のセイフーへ国内16店を330億円で売ると発表した。仲介に立ったのは主力銀行の東海銀行である。16店は年に20億円の営業利益を上げる店で、売上の4割を担っていた。稼ぐ店をなぜ手放すのかという声に、光正氏は社員の雇用を理由に挙げた『収益性の高いうちに店舗を売却すれば、そこの社員も相手先企業に引き取ってもらいやすいからです。』。ブラジルから完全に撤退した際、現地で雇った社員が職を失った経験が念頭にあった。1997年5月、直営15店が304億円でセイフーへ営業譲渡された。雇用を守る売却は、同時に負債を返す力の源を手放すことでもあった。

  • 日経ビジネス 1997年7月28日号
    • [222]1997年2月17日、ヤオハンジャパンはダイエー子会社のセイフーに国内16店舗を330億円で売却すると発表した
    • [225]売り上げの4割を稼いでいた主力店を一挙に手放した
  • Decide 1997年15巻5号(白尾芳輝)
    • [223]セイフーへの店舗売却を仲介したのは東海銀行
  • 日経ビジネス 1997年4月7日号
    • [224]ダイエーへ売却する16店舗では年間20億円の営業利益を稼いでいた
    • [226]収益性の高い店舗を売ったことについて、和田光正は社員の雇用確保を考えてのことだと説明した
    • [227]ブラジル店の閉鎖は完全撤退で、現地採用の社員は職を失った。和田光正はその二の舞いを避けたかったと述べた
  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [228]1997年5月 直営15店舗をセイフーに営業譲渡(売却代金304億円)
参考文献[209]-[228]
  • 日経ビジネス 1997年7月28日号
    • [209]1996年11月末、ワラント債117億円の償還に際してヤオハンジャパンの資金繰りの悪化が明らかになった
    • [221]八佰伴グループは1997年1月初め、中国でのスーパーマーケットを含む新規出店を1年間凍結すると発表した
    • [222]1997年2月17日、ヤオハンジャパンはダイエー子会社のセイフーに国内16店舗を330億円で売却すると発表した
    • [225]売り上げの4割を稼いでいた主力店を一挙に手放した
  • 日経ビジネス 1997年1月6日号
    • [210]1996年12月10日に償還した米ドル建てワラント債は、保証先の大和銀行などからの借り換えでしのいだ
    • [211]社債の未償還残高は1996年3月末で約470億円。1997年5月に約100億円、2001年までに400億円弱の償還が控える
    • [212]1996年3月期の経常利益は46億5,000万円
    • [213]12月16日のリストラ案発表の会見で具体的な対応策は語られず、11月19日に740円だった株価は12月19日の終値で363円となった
    • [216]和田一夫代表は新社長の和田光正に財務のリストラを託すとした
  • 日経ビジネス 1997年4月7日号
    • [214]和田光正は、八佰伴グループが株式市場から直接資金を調達して拡大してきたため、金融機関と十分な関係を築けなかったことを反省点に挙げた
    • [215]和田光正は1989年に副社長となり、1997年1月にヤオハンジャパン社長に就任した
    • [219]ヤオハンジャパンの総資産は1996年3月期末で1,789億円、営業利益は49億5,000万円で、総資産営業利益率は3%ほど
    • [220]和田光正は1,018億円の有利子負債を2年間で400億円減らし、資産を圧縮しつつ利益を落とさずに利益率を高める目標を示した
    • [224]ダイエーへ売却する16店舗では年間20億円の営業利益を稼いでいた
    • [226]収益性の高い店舗を売ったことについて、和田光正は社員の雇用確保を考えてのことだと説明した
    • [227]ブラジル店の閉鎖は完全撤退で、現地採用の社員は職を失った。和田光正はその二の舞いを避けたかったと述べた
  • 日経ビジネス 1997年2月10日号
    • [217]2月3日の記者会見で、1999年3月期に有利子負債を単体で40%減の600億円、連結で45%減の900億円にする目標を示した
    • [218]99年3月期の利益目標について和田光正社長は最後まで具体的な数字を明かさなかった
  • Decide 1997年15巻5号(白尾芳輝)
    • [223]セイフーへの店舗売却を仲介したのは東海銀行
  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [228]1997年5月 直営15店舗をセイフーに営業譲渡(売却代金304億円)

1997年〜純損失359億円から会社更生法の申請とジャスコの支援へ

売却代金が借入の返済に消える

店の売却は、手元に資金を残さなかった。売却代金はほとんどが銀行への返済に回り、5月には96億円の転換社債の償還が重なって、資金繰りは再び行き詰まった。1997年3月期の単体売上高は1,568億円で、当期純損失は359億円に達した。英国子会社に対する債権の貸倒引当金などを特別損失に積んだためで、日本公社債研究所は既発債の格付けをシングルBへ下げた。7月10日、光正氏は和議申請の報道を打ち消す会見を開き、大手取引先60社と約45億円の買掛金の支払いを一時棚上げすることで合意したと明かした。下期に百貨店の業態を売って約100億円を得る見込みも示している。取引先への支払いを延ばしてしのぐ段階に入った時点で、再建の手立ては店の外に移っていた。

  • Decide 1997年15巻5号(白尾芳輝)
    • [229]セイフーへの店舗売却で得た資金はヤオハンの手元にほとんど残らず、銀行への返却資金となった
  • 日経ビジネス 1997年7月28日号
    • [230]5月の転換社債償還(96億円)で再び資金繰りの悪化が表面化した。店舗売却で得た330億円の大半を銀行借り入れの返済に回さざるを得なかった
    • [232]1996年度決算で英国子会社に対する債権の貸倒引当金などを特別損失に計上し、最終損益は359億円の赤字となった。日本公社債研究所は既発行債券の格付けをシングルBに変更した
    • [233]1997年7月10日、和田光正社長は和議申請の報道を否定する会見を開き、約45億円の買掛金の一時棚上げで大手取引先60社と合意していると述べた
    • [234]和田光正社長は下期に百貨店業態の売却で約100億円の調達を見込んでいるとした
  • ヤオハンジャパン 単体業績(三浦『経営破綻企業と社債金融』・1995年3月期〜1997年3月期)
    • [231]1997年3月期の単体売上高は1,568億円、当期純利益は▲359億円
1997年9月の更生法申請と銀行の離反

1997年9月18日の午後5時、ヤオハンジャパンは東京証券取引所で会社更生法の申請を発表した。主力銀行の東海銀行に連絡が入ったのは、会見のわずか30分前であった。6月末に取引先へ手形の繰り延べを頼んで以降、相談に応じる金融機関は減り、8月には地元の信用金庫や信用組合にまで協力を求めていた。8月下旬、一夫氏が香港の友人から200億円の融資が入ると地元紙に語ると、財務部門が交渉していた金融機関は一斉に手を引いた。銀行との関係は、取引先の反対を押し切って本部を香港へ移した1990年を境に冷えていた。1990年3月期に451億円だった連結の有利子負債は、1997年3月期には1,689億円となり、総資産の73%を占めた。申請は時期だけが問われる段階にあった。

  • 日経ビジネス 1997年9月29日号
    • [235]1997年9月18日午後5時から、ヤオハンは東京証券取引所で会社更生法申請の記者会見を開いた
    • [236]主力銀行の東海銀行に連絡が入ったのは会見のわずか30分前だった
    • [237]6月末に取引先へ手形の繰り延べを依頼した後、相談に乗った金融機関は東京相和銀行だけといわれ、8月には地元の信用金庫や信用組合にまで協力を要請していた
    • [238]和田一夫代表が8月下旬に香港の友人から200億円の融資が入ると地元新聞社に語ったことで、財務部門が交渉を進めていた金融機関が一斉に手を引いた
    • [239]金融機関との関係は1990年の香港への本社移転を境に冷ややかになった。当時の取引先金融機関は揃って香港進出に反対した
    • [240]連結ベースの有利子負債は1990年3月期の451億円から1997年3月期には1,689億円となり、総資産に占める割合は73%に達した
  • Decide 1997年15巻7号(白尾芳輝)
    • [241]ヤオハンジャパンの会社更生法申請は以前から予測されており、問題はいつかという時間だけだった
ジャスコの支援と海外事業の切り離し

再建の支援を表明したのはジャスコであった。ただし支援には海外事業を完全に切り離すという前提が付き、ジャスコの岡田元也社長はその条件をはっきり示した『海外事業の完全な切り離しが前提条件』。一夫氏が日本とは別だと説いてきた香港と中国の事業も、申請の後は急速に弱った。香港・マカオに10店を持つヤオハン香港では有力な納入業者が商品を止め、1997年3月期は9,991万香港ドルの営業赤字で、3期続けての赤字となった。上海第一八佰伴では3月に日本人幹部6人がそろって退社しており、グループは自前で店を回せなくなっていた。1997年12月、会社更生手続の開始が決まり、ヤオハンジャパンは海外事業から手を引いた。海外で市場を取って国内へ持ち帰るという創業期からの順序は、国内の店を他社に委ねる形で終わった。

  • 日経ビジネス 1997年10月20日号
    • [242]ヤオハンジャパンの再建に関してジャスコが支援を発表した
    • [243]ジャスコの支援は海外事業の完全な切り離しが前提条件だと岡田元也社長は述べた
    • [244]香港・マカオに10店舗あるヤオハン香港では、ヤオハンジャパン倒産の後、複数の有力納入業者が商品供給を停止した
    • [245]ヤオハン香港は1997年3月期に9,991万香港ドルの営業赤字を計上し、95年3月期以来3期連続の赤字となった
    • [246]1997年3月に上海第一八佰伴の副総経理を含む日本人幹部6人が集団退社し、ヤオハングループは自前で店舗を運営できない事態に陥った
  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [247]1997年12月 会社更生手続の開始が決定、海外事業から撤退
参考文献[229]-[247]
  • Decide 1997年15巻5号(白尾芳輝)
    • [229]セイフーへの店舗売却で得た資金はヤオハンの手元にほとんど残らず、銀行への返却資金となった
  • 日経ビジネス 1997年7月28日号
    • [230]5月の転換社債償還(96億円)で再び資金繰りの悪化が表面化した。店舗売却で得た330億円の大半を銀行借り入れの返済に回さざるを得なかった
    • [232]1996年度決算で英国子会社に対する債権の貸倒引当金などを特別損失に計上し、最終損益は359億円の赤字となった。日本公社債研究所は既発行債券の格付けをシングルBに変更した
    • [233]1997年7月10日、和田光正社長は和議申請の報道を否定する会見を開き、約45億円の買掛金の一時棚上げで大手取引先60社と合意していると述べた
    • [234]和田光正社長は下期に百貨店業態の売却で約100億円の調達を見込んでいるとした
  • ヤオハンジャパン 単体業績(三浦『経営破綻企業と社債金融』・1995年3月期〜1997年3月期)
    • [231]1997年3月期の単体売上高は1,568億円、当期純利益は▲359億円
  • 日経ビジネス 1997年9月29日号
    • [235]1997年9月18日午後5時から、ヤオハンは東京証券取引所で会社更生法申請の記者会見を開いた
    • [236]主力銀行の東海銀行に連絡が入ったのは会見のわずか30分前だった
    • [237]6月末に取引先へ手形の繰り延べを依頼した後、相談に乗った金融機関は東京相和銀行だけといわれ、8月には地元の信用金庫や信用組合にまで協力を要請していた
    • [238]和田一夫代表が8月下旬に香港の友人から200億円の融資が入ると地元新聞社に語ったことで、財務部門が交渉を進めていた金融機関が一斉に手を引いた
    • [239]金融機関との関係は1990年の香港への本社移転を境に冷ややかになった。当時の取引先金融機関は揃って香港進出に反対した
    • [240]連結ベースの有利子負債は1990年3月期の451億円から1997年3月期には1,689億円となり、総資産に占める割合は73%に達した
  • Decide 1997年15巻7号(白尾芳輝)
    • [241]ヤオハンジャパンの会社更生法申請は以前から予測されており、問題はいつかという時間だけだった
  • 日経ビジネス 1997年10月20日号
    • [242]ヤオハンジャパンの再建に関してジャスコが支援を発表した
    • [243]ジャスコの支援は海外事業の完全な切り離しが前提条件だと岡田元也社長は述べた
    • [244]香港・マカオに10店舗あるヤオハン香港では、ヤオハンジャパン倒産の後、複数の有力納入業者が商品供給を停止した
    • [245]ヤオハン香港は1997年3月期に9,991万香港ドルの営業赤字を計上し、95年3月期以来3期連続の赤字となった
    • [246]1997年3月に上海第一八佰伴の副総経理を含む日本人幹部6人が集団退社し、ヤオハングループは自前で店舗を運営できない事態に陥った
  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [247]1997年12月 会社更生手続の開始が決定、海外事業から撤退

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歴史年表 1930〜2019年

ヤオハンの沿革1930〜2019年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1930〜1961年熱海の八百半の創業から八百半食品デパートと現金正札販売八百半熱海支店を創業★★
八百半商店を設立★
八百半食品デパートに商号変更★
現金正札廉価販売を導入★★
1962〜1982年和田一夫の社長就任と伊豆・静岡への出店、ブラジルヤオハンの破綻と名証上場和田商事を設立★
和田一夫和田一夫氏が社長に就任★★
和田一夫八百半デパートに商号変更★
和田一夫小田原店を新設★
和田一夫伊東店を新設★
和田一夫ピニエーロス店を開店★★
和田一夫グループ年商が100億円を突破★
和田一夫清水店を新設★
和田一夫1号店を開店★★
和田一夫和田商事を吸収合併★
和田一夫ブラジルヤオハンが破綻★★
和田一夫蒲郡店を新設★
和田一夫名古屋証券取引所市場第二部に上場★
1983〜1994年香港進出と東証上場、グループ本社移転と中国1000店構想、有利子負債の膨張和田一夫グループ年商が1000億円を突破★
和田一夫沙田店を開店★★
和田一夫名古屋証券取引所市場第一部に指定替え★
和田一夫東京証券取引所市場第一部に上場★
和田一夫ワラント債・転換社債による資金調達を開始★★
和田一夫杉山商事を吸収合併★
和田晃昌海外店舗が22店に到達★★
和田晃昌国内の出店規制に見切りをつけた海外雄飛

大規模小売店舗法の下で国内出店が伸び悩む後発の不利を早くに見切り、和田一夫会長は1971年のブラジル進出を皮切りにシンガポール・タイ・イギリスへ展開し、1990年にはグループ本部を香港へ移した海外戦略。"世界市民企業グループ 八佰伴"を掲げ、静岡の中堅スーパーから国際流通グループへの転換を志向した、ヤオハンの原点を成す一連の判断であった。

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★★★
和田晃昌百貨店「ネクステージ半田」を開店★
和田晃昌1号店を開店★
和田晃昌ヤオハンジャパンに商号変更★
和田晃昌中国での食品スーパー1000店構想を公表★★
和田晃昌1号店を開店★
和田晃昌経営指導料の架空計上を開始★★
和田晃昌百貨店「ネクステージ知立」を開店★
和田晃昌国内外の600億円の市場調達——1000億円超へ膨らんだ有利子負債

1990年代前半、ヤオハンジャパンは大店法緩和で牙城の静岡へ大手が進出する危機感から、国内で3000平方メートル級の大型食品スーパーを2000年までに100店出す拡大と、中国・タイ・英国への海外展開を同時に進めた。その原資を賄うためワラント債・転換社債で市場から総額約600億円を調達し、有利子負債は1000億円に膨らんだ。

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★★★
和田晃昌本社を移転★
1995〜1997年上海第一八佰伴の開店から会社更生法申請とジャスコの支援和田晃昌食品スーパー1060店構想を掲げ、資金繰り悪化下も崩さなかった中国拡大

1995年12月、上海・浦東にアジアで最大級の百貨店"上海第一八佰伴"(売場約10万平方メートル)を出店し、2005年までに中国沿岸部へ食品スーパー1060店を出す構想を掲げた中国拡大の判断。資金繰りが悪化しても和田一夫会長は中国を"聖域"として拡大を続け、銀行が最も警戒する中国リスクへの執着が主力3行の支援離脱を招いた。

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★★★
和田晃昌ヤマナカの全株式を売却★
和田晃昌中国沿岸部への食品スーパー1060店構想を公表★★
和田晃昌株価が二度のストップ安★★
和田晃昌主力3行から各10億円の融資を受け入れ★
和田光正有利子負債の圧縮計画を主力3行に提出★
和田光正資金繰り危機下で主力16店、熱海の高収益店まで含めた稼ぎ頭の手放し

1997年、資金繰り危機に陥ったヤオハンジャパンが、和田一夫会長の打診でダイエー傘下の食品スーパー・セイフーへ主力16店を約330億円で一括売却した経営判断。熱海の高収益店を含む年商674億円・営業利益23億円の稼ぎ頭を競合へ渡し、得た代金の大半を有利子負債の返済に充てた。

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★★★
和田光正370億円の特別損失を計上★★
和田光正直営15店舗をセイフーに営業譲渡★
和田光正転換社債の自力償還が行き詰まり、1997年9月の会社更生法申請へ——上場大手小売の破綻

1997年9月18日、静岡を地盤とする中堅スーパーのヤオハンジャパンが会社更生法の適用を東京地裁へ申請した経営破綻。転換社債の自力償還が行き詰まり、かつての主力取引銀行だった東海・住友信託・長銀の三行の支援も途絶えた末の申請で、倒産後の修正バランスシートでは900億円を超える債務超過に陥っていた。上場する大手小売の更生法申請は当時としては異例であった。

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★★★
会社更生下で競合を再建スポンサーに迎え、主力店を手放した末の存続策

1997年9月に会社更生法の適用を申請したヤオハンジャパンは、再建のスポンサーを探すなかで、同年10月にジャスコの支援を受け入れた。10月6日にジャスコの岡田卓也会長がヤオハン支援を表明し、当面は資金を投入せず、離反した納入業者への取引再開の呼びかけや商品供給で自力再建を介添えする枠組みとなった。競合ダイエーに主力店を売却した後の更生会社が、本業を存続させるために縋った選択であった。

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★★★
会社更生手続の開始が決定★
東京証券取引所の上場を廃止★
元社長らが粉飾決算で逮捕★★
中国事業から撤退★
和田晃昌氏に有罪判決★★
転換社債の買い取り条件を公表★
更生計画案を提出★
ヤオハンに商号変更★★
イオンによる完全子会社化★★
会社更生手続が終結★
マックスバリュ東海に商号変更★★
創業家の和田一夫氏が逝去★
出典・参考 27件
出典・参考
  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
  • 実業往来 1978年11月号
  • 日経ビジネス 1980年10月6日号
  • Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
  • Decide 1989年7巻9号(和田一夫・国際流通グループヤオハン代表)
  • 日経ビジネス 1989年2月13日号
  • 日経ビジネス 1992年3月16日号 編集長インタビュー 和田一夫
  • 日経ビジネス 1992年11月30日号
  • ショッピングセンター 1994年3月号「流通展望――ヤオハンの経営理念と国際戦略」(和田晃昌)
  • 日経ビジネス 1994年4月11日号
  • JMAマネジメントレビュー 1996年8月号「ヤオハン和田代表の21世紀戦略 上海を本拠に中国の流通革命に挑む」(和田一夫)
  • 日経ビジネス 1997年1月6日号
  • 日経ビジネス 1997年7月28日号
  • Decide 1997年15巻5号(白尾芳輝)
  • 日経ビジネス 1997年10月20日号
  • 日経ビジネス 1997年4月7日号
  • 日経ビジネス 1997年11月10日号
  • 日経ビジネス 1997年2月10日号
  • 日経ビジネス 1997年9月29日号
  • Decide 1997年15巻7号(白尾芳輝)
  • 日本経済新聞 1993年1月10日
  • ヤオハン 単体業績(証券 38(4)(445)・1975年5月期〜1982年5月期)
  • LA international 1991年「カネがカネを呼ぶ仕掛け――ヤオハン国際戦略の香港・総本山」
  • ヤオハン烈烈 国境のない企業 世界制覇の野望(1991年・単体業績)
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
  • ヤオハンジャパン 単体業績(三浦『経営破綻企業と社債金融』・1995年3月期〜1997年3月期)
  • 三浦後美『経営破綻企業と社債金融』(ヤオハンジャパン単体業績)

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