八百半が1956年11月に手放したのは、年商3,000万円の売上ではなく、価格を自分で決められない立場である。熱海の旅館の板場を得意先にする商いでは、代金がいつ入るかも、取引が成立するかどうかも、買う側の都合で決まった。掛け売りは信用の供与に見えて、実際には売り手が資金繰りを肩代わりする仕組みであり、板前への付け届けはその上に乗る費用であった。熱海が日本一物価の高い町といわれたのは、その費用が末端の値段へ乗った結果である。現金と正札に替えれば、回収の不確実さも値決めの交渉も無くなる。和田一夫氏が父・良平氏に迫ったのは商道徳の話ではなく、誰が値段を決めるのかという話であった。
切替の成果は、そのまま次の制約になった。1957年に日商10万円だった熱海店は、1961年には日商100万円へ伸びる。ただし伸びたのは売場170坪の一店舗であって、店の数ではない。安く売る仕組みで客を集めた店は、客が増えるほど一店舗の器に収まらなくなる。和田一夫氏が1961年の視察でツアーのあとも3カ月残り、米国の家庭の買い物に同行したのは、売り方ではなく買い方の構造を確かめるためであった。そこで選んだローカル・チェーンは、生鮮食品が仕入れから販売まで時間に縛られるという制約から逆算した答えである。全国へ広げる力が足りなかったのではなく、広げてはいけない商材を扱っていた。
ヤオハンの起点は、1930年12月に和田良平氏が静岡県熱海市で開いた八百半熱海支店である。屋号は八百半からの暖簾分けで、良平氏と妻のカツ氏は旅館の蔵の軒下を借り、天秤棒をかついで旅館を回る行商から商いを起こした。元手は千円だった。得意先は熱海の旅館の板場であり、青果を納める八百屋として土地に根を下ろした。良平氏とカツ氏はともに篤実な人柄だったという。長男の一夫氏が生まれたのは1929年3月で、一夫氏が大学に通うころの店はそれなりの大店となり、熱海では知られた存在になっていた。もっとも一夫氏自身は、八百屋の長男として育ちながら、商いに割り切れないうしろめたさを覚えていた。旅館という固定客を先に押さえた商いは、店舗も在庫も持たずに始められる点で、元手の小ささと釣り合っていた。
物価の高さで日本一といわれた当時の熱海で、その最大の原因とされたのが掛売制度である。旅館相手の商いは掛けで回り、板前への付け届けがあって初めて取引がまとまる慣行さえあったが、掛売制度そのものは熱海に限らず全国の温泉町に共通する商習慣であった。長男の一夫氏はこうした商いをまともなものと見ず、八百屋という職業自体を嫌って、両親を守銭奴とののしったこともある。横浜市立商業、東京外事専門学校を経て日本大学経済学部に入ると、社会主義研究会で学園民主化運動に加わり、反ファッショ闘争委員会の副委員長に選ばれた。日本共産党にも入党し、自由法曹団に属する弁護士を目指して司法試験の勉強を進めた。商いとは汚いものだという先入観への反発が、その左傾化の背景にあった。
1950年、熱海市の大火で八百半の店と住居は全焼した。当時の一夫氏が将来に描いていたのは外交官か弁護士であって、家業を継ぐ姿ではなかった。大学の卒業を目前にしたこの一件は、一夫氏にとって思想の面での転回点になった。両親を中心に家族全員が再建へ力を結集しなければならないときに、イデオロギーを論じてはいられなかったからである。母カツ氏から頼まれていた火災保険の加入手続きを、一夫氏はうっかりして済ませていなかった。過ちへの責任感と父母への償いの気持ちが、家業を手伝う動機になった。母カツ氏が入信していた宗教は父母への孝を説き、逆らい続けてきた自分を見守ってきた父母の苦労を、一夫氏は直視する気になった。もっともそれは孝と償いにとどまり、商いそのものに没頭したわけではなかった。
転機は1956年、一夫氏が27歳のときに訪れた。母カツ氏のすすめで和歌山県白浜の商業界ゼミナールに出席した一夫氏は、当時商業界の副社長でJ・C・ペニーの伝記翻訳でも知られた新保民八氏の言葉に衝撃を受けた。『正しきにより滅ぶ店あらば滅びてもよし。断じて滅びず』という一節である。十字屋の創業者・山藤捷七氏の講演がこれを補い、大衆のために奉仕に明けて奉仕に暮れることこそ商いだと説いた。奉仕の中身は、良い商品をより安く売ること、現金取引として掛け売りをしないこと、正札販売を徹底することであった。一夫氏はここで商いが善であることを初めて確信した。それまでうっ積していたものが爆発するように、商いへ取り組む気になったという。両親の仕事を継ぐと決め、日本一の八百屋づくりを目標に掲げたのはこのときである。
一夫氏が父・良平氏に迫ったのは、掛け売りと付け届けに依存する旅館取引の廃止であり、正札販売で市民を相手にする方針への転換であった。当時あった年商約3,000万円をふいにしかねない要求である。現金販売に踏み切って売掛金を回収できるのか、大口消費者である旅館がこれまで通り買ってくれるのかという不安もあった。日本一高い物価は商人の恥であり、八百半がここまで伸びたのは客のおかげである。客が一円でも安く買えるなら危険は覚悟すべきだ、というのが一夫氏の立てた理屈だった。それでも良平氏がその正しさに同意したのは、『1930年に千円で始めた商いだから、千円残れば元々だ』という理由からである。1956年11月1日、八百半は現金・掛け売りなし・正札販売へ商法を切り換えた。長年の商習慣だっただけに一部の旅館からは注文を断られたが、ヤオハンはこの月日を創業の時としている。
切替からの3年間が八百半の生死の境目であった。店仕舞いのあと、良平氏とカツ氏、一夫氏とのちにヤオハンジャパンの社長となる弟の晃昌氏、1953年に結婚した一夫氏の妻きみ子氏が額を寄せ合う経営会議が常だった。薄利多売と正札販売という初心に取り組む戦場であり、商いは善であることの実証に家族の全員が燃えていた。家族の心が一つになっていなければこの時期の八百半は潰れていたはずだと、一夫氏はのちに振り返っている。旅館の側にしても、長期的に見れば安く買えるほうが得であった。断られた取引が戻る余地はそこにあり、商法の切替は大口客を切り捨てる策ではなく、価格の決まり方を店の側へ引き取る策であった。
商法の切替は数字に表れた。1957年に日商10万円だった売上は、1961年には日商100万円まで伸びている。1960年から1961年にかけて、売場面積約170坪の熱海店は軌道に乗っていた。だが時代は高度成長期へ向かい、流通業界では大資本による連鎖店展開の兆しが出ていた。連鎖店とは当時の呼び方で、スーパーチェーンを指す。八百半は1948年10月に八百半商店として法人へ改組され、1955年7月には八百半食品デパートへ商号を改めていたが、熱海一店舗の八百屋としてこれからどうするかという問いは残った。一夫氏は1961年7月、米国スーパー業界の視察ツアーに参加した。商いの作法を入れ替えて伸びた一店舗は、伸びたがゆえに次の形を決めなければならなくなっていた。
ハワイと米国西海岸を回る2週間のツアーが終わったあとも、一夫氏は独り現地に残った。業界に手づるがあるわけではなく、入信していた宗教の信者の家庭に世話になり、人々の買い物に同行して客の立場から店を見て回っている。約3カ月をかけてサンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨーク、ワシントン、ソルトレークシティーを歩き、国民所得の構造、車社会というライフスタイル、大量廉価販売のチェーン・システム、科学的経営法を確かめた。日本一の八百屋を目指していた目標は、スーパー・チェーンで日本一になることへ移っていた。生鮮食品の商いは、仕入れから配送、販売まで時間との勝負になる。チェーンにはナショナル・チェーンとローカル・チェーンの別があり、そうした商いには後者が向くと一夫氏は判断した。引退を決めたのは良平氏で、帰国して報告を受けたうえでのことだった。事業は一夫氏へ任された。
ヤオハンの海外進出は、世界を目指した結果ではなく、国内で競争の焦点から外れた結果である。1968年度のダイエーの年商1,000億円に対し、八百半は30億円であった。日本一のスーパー・チェーンを掲げる以上は東京と大阪へ出るしかないが、その市場には資本の桁が二つ違う先行者がいる。和田一夫氏が書物で知ったソニーのすき間理論は、国内をいったん諦めて海外で市場を取り、その成功を国内へ持ち帰るという順序であった。1969年のサンパウロで一夫氏が測ったのは、市場の大きさよりも競争相手の水準である。靴下1足の客に素気ない店しかない場所であれば、30億円の会社でも優位に立てる。
ただし競争相手の弱い市場は、ほかの条件も弱い。ブラジルヤオハンは1971年9月のピニエーロス店から6年で破綻したが、要因は店の売り方ではなく、1975年にブラジル政府が金融を引き締めたことにあった。コスタリカでも似たことが起きている。1979年に開いた中米ヤオハンは1日4,000人の客を集めながら、国際収支の悪化と金融の逼迫で中米各地への展開を諦めた。国内であれば資金の調達条件は全店に共通するが、海外では店ごとに別の国の金融政策がつく。1982年12月の名証二部上場は、静岡と神奈川の店が生む720億円の売上を足場に、条件の揃わない海外を抱え続けるための資金の口であった。
組織の改組は知人の提案を受けたもので、根本から手が入った。まず1962年6月に八百半が和田商事を設立し、翌7月には一夫氏が父・良平氏の後を継いで社長となり、年齢は33歳であった。社長就任に合わせて社名を八百半デパートとし、日用の衣料品の品目を広げて、総合スーパーへの転換とチェーン展開に踏み出した。青果中心の食品店から、衣料まで扱う総合的な店へ間口を広げる方向であった。新会社の資本金は1,000万円、1株の額面は50円とした。米国で見たチェーンの仕組みを熱海へ持ち込むには、店の形より先に会社の形を変える必要があった。
それまでの八百半は何から何まで同族会社で、社員が参加する余地がなかった。一夫氏は従来の八百半を和田保善へ社名変更して資産管理会社の性格を与え、そこから資産を借り受ける形で八百半デパートを設立している。新会社は和田商事から営業権を譲り受けて発足した。あわせて社員持株制度を導入し、社員の経営参加の意識を高めた。持株比率は和田家が約60%、社員など和田家以外が40%となり、社長になった一夫氏は自らの持株を10%限度と定めた。企業を私物化しない意思表示である。正しく働く者が正しく報われる待遇の仕組みを公開することで、若い社員の意欲と知恵を引き出す狙いであった。
スーパー展開を決めた1962年から、本格的な第2号店の開店までには4年を要した。その間に一夫氏が注いだのは、熱海店の体質強化と人材育成である。新規店が軌道に乗る前に既存店が傾けば元も子もなかった。世間から見れば当時の八百半はたかが熱海の八百屋であり、社員を募集しても高卒の採用さえ思うようにいかず、中卒が中心だった。一夫氏は人間は学歴ではないとして、仕事を終えると社員の寮に出向き、米国の現状と日本のスーパーチェーンの未来を語った。損益計算書の見方に加え、1個50円のかしわ餅を5,000個売るにはどうするかといった問いを出す試験制度も設けている。利益目標を達成すれば3分の1を社員の待遇へ還元すると公言し、実行した。チェーン化の第1店である小田原店が神奈川県小田原市に開いたのは、1965年11月であった。
第2号店にあたる伊東店が静岡県伊東市に開いたのは1966年5月である。2年後の1968年には下田店が開き、この空白の2年もまた体質強化と人材育成に充てられた。スーパー業では出店のたびに優秀な人材を投入せざるを得ず、そのためには次の人材が育っていなければならない。マニュアルがあっても、その成否は人の心にかかるというのが一夫氏の考えであった。人の心が商いに燃えるのは、自らの商いが善だと信じられ、それを実証できるときだとも述べている。1970年までに伊豆・富士一帯で8店が置かれて店舗拡大の布石となり、1973年11月には静岡県清水市に清水店が加わった。出店の速度を決めたのは資金ではなく、店を任せられる人の数であった。
1968年度の年間売上高で、ダイエーが1,000億円を上回っていたとき、八百半は30億円にとどまっていた。日本一のスーパー・チェーンを目指す以上、東京と大阪へ出ることは避けられなかったが、本格的なチェーン化で競えば勝負にならない差である。グループ年商が100億円を上回るのは1972年まで待たねばならず、ダイエーの1,000億円突破から4年遅れた。ソニーのすき間理論を一夫氏が本で知ったのは、このころである。戦後の井深大氏らが国内の販売網を大手電機メーカーに固められていたため、一時的に国内市場を捨てて海外へ出て市場を確立し、その成功を国内へ持ち帰ったという筋書きであった。競争の焦点を国内から外す発想を、一夫氏は流通業へ当てはめた。
サンパウロには当時、日系人が70万人を数えたが、日本の百貨店は1店も出ていなかった。一夫氏がブラジルの土を初めて踏んだのは1969年6月で、入信していた宗教団体の先輩からの招きによる。国土は日本の23倍、人口は1億に達し、メーカーの成長が一巡したこの国は、大量販売で流通を変える段階に差しかかっていた。サンパウロの有名百貨店で試しに靴下を1足だけ買おうとすると、店員はもっと買わないかと返し、日本の百貨店ならありえない素っ気なさだった。この応対が一夫氏に進出を決心させた。海外1号店のピニエーロス店がサンパウロで開業したのは1971年9月である。
国内では1974年5月に和田商事を吸収合併し、事業の器を一つにまとめている。だがブラジルでは1975年に政府が金融引き締めへ転じ、これが契機となって1977年にブラジルヤオハンは破綻した。海外1号店は開店から6年で失われたことになる。同じ1977年5月期には、単体の当期純利益も前期の3.9億円から1.1億円へ落ち込んだ。一夫氏はのちに、失敗もしたとしてブラジル店の撤退を挙げている。国内の大手チェーングループに吸収合併されることを考えた時期もあったという。海外で先に市場を取るという筋書きは、進出先の金融政策ひとつで折れる脆さを抱えていた。
出店の先はブラジルだけではない。1974年にシンガポールのオーチャード・ロードへ1号店を開き、1979年3月にはコスタリカの首府サンホセで中米ヤオハンが開店した。出資比率は八百半デパートが70%、現地資本のコメルシアル・サテリチが30%、売場面積は4,000平方メートル、従業員は230人である。昼休み2時間、土曜は正午まで、日曜は閉店という商習慣の国で、国定の祭日を除く年中無休、朝8時から夜10時までの営業に踏み切った。真空パックや冷凍食品、惣菜コーナー、自家製パン工場など日本の売り方をそのまま持ち込み、レジの通過客は1日平均4,000人に達した。開店3年目には期間利益の黒字転換を見込んでいる。ただし当初描いた中米各地へのチェーン展開は、同国の国際収支悪化と金融の逼迫で断念せざるを得なくなった。
国内では1981年11月に愛知県蒲郡市へ蒲郡店を開き、1982年12月に名古屋証券取引所市場第二部へ株式を上場した。1930年12月の創業から52年、現金正札販売への切替から26年を経ての上場である。単体の売上高は1975年5月期の295億円から1982年5月期には720億円となり、7期で2.4倍に伸びた。1980年5月期の531億円、1981年5月期の632億円と、上場前の数年は二桁の伸びが続いた。当期純利益は同じ期間に2.1億円から7.5億円となっている。上場先が東京でも大阪でもなく名古屋だったことに、静岡と神奈川に店を置く地域チェーンとしての立ち位置が表れている。
1980年代後半のヤオハンは、国内で得た信用を国外で使う仕組みを組み上げた。静岡の地域チェーンのままでは全国チェーンとの規模の差は埋まらないが、東証一部の上場企業という看板があれば、全国の大手と同じ市場から資金を集められる。1986年12月に始めたワラント債・転換社債の調達がそれにあたり、和田一夫氏は資金は日本で調えると明言した。1990年5月のグループ本部の香港移転は、その資金を大店法も保証金もない土地へ持ち出す判断であった。天安門事件の後で売りに出た香港企業を安く買えた時期とも重なり、2年で12社を傘下に入れている。
1990年代に入ると、同じ仕組みが二つの方向へ同時に資金を送り出した。一方は中国の1,000店構想と上海の百貨店で、もう一方は和田氏自身が投資効率が悪いと語った国内での百貨店ネクステージである。国内を見切る論理と国内に大型店を建てる投資が並び、その双方を転換社債が支えた。1993年3月期の連結の有利子負債は約1,200億円に達したが、キャッシュフローは約18億円にとどまり、単体の純利益は1991年3月期の41億円から1994年3月期の15億円へ細った。利益が減っても社債の償還期日は動かないという条件を、1994年のヤオハンはすでに抱えていた。
1986年の八百半デパートは、国内の89店を静岡県中心に置き、一部を神奈川県に広げた地域チェーンで、1店あたりの平均売場面積は約1,000平方メートルであった。同じころ海外ではロサンゼルスやフレスノなど米国西海岸、コスタリカ、シンガポールに店を持ち、1987年から翌年にかけて香港の2・3号店、ブルネイ、マレーシアへの出店を控えていた。香港の足場は、1984年に自前で設けた百貨店会社の八佰伴香港である。同じ1984年11月には株式が名古屋証券取引所の第一部へ指定替えとなり、1986年3月には東京証券取引所の第一部にも上場した。店の網は静岡から動かないまま、株式を売買する市場だけが全国区に広がったのである。
東証上場の9か月後にあたる1986年12月、八百半デパートはワラント債と転換社債による資金調達を始めた。1988年9月には香港でも株式を上場し、同年11月には杉山商事を吸収合併している。1988年3月の米経済誌フォーブスは、和田家の持つ株式が東証で額面の60倍に評価され、1億4,000万ドルに相当すると書いた。和田一夫氏は1989年の取材で、上場企業であるため資金調達は順調で、借入金はほとんどないと答えた。そのうえで新規の投資に充てる1,000億円をすでに用意したと明かし、資金の出どころについてはこう述べている。『とにかく資金は日本が一番力がありますから、ファイナンスは日本で、と決めています』(Decide 1989年7巻9号)株式市場の評価が、そのまま海外へ出る資金の厚みを決める形であった。
1989年には、海外の店は北米7店、東南アジア14店にコスタリカを加えた22店に達した。国内は静岡を中心に神奈川・愛知へ広がる90店で、主力店の平均売場面積は約3,000平方メートルになっていたが、ダイエーやイトーヨーカ堂、西友といった全国チェーンに並ぶ規模ではなかった。和田氏が海外を選び続けた理由は、出店の条件の差にある。大店法のように大型店の出店を縛る法律を持つ国は少なく、借りた建物に出るなら保証金も建築協力金も要らず、内装の費用ほどで済んだ。1店が評判を取ると、別の都市から出店を頼まれる循環も生まれた。シンガポールでは卸売の売上高が小売の7倍ある点に目を付け、政府と合弁で卸売センターを建て始めた。
1989年8月、和田一夫氏は国際流通グループヤオハンを設立して代表に就き、八百半デパートの経営は弟の和田晃昌氏に託した。社長の交代は役員会の席で突然告げられた。新会社は香港に置く資本金5,000万香港ドル(約9億円)の国際事業統括会社で、日本を含むグループの持株会社として戦略を指揮する役目を負った。和田氏は香港返還の1997年を起点に年間売上高1兆円を掲げ、その6割を海外で稼ぐとした。事業の柱も、6割を小売、4割を新たに始めるディベロッパーと飲食に置く計画であった。自社の店が客を集めてショッピングセンターの価値を上げるなら、その開発利益も自ら取るという考えである。
本拠を香港へ移すと伝えると、大半の人は極めて危険だと反対し、現地の米国人は特に強い言葉で危ぶんだという。1989年6月の天安門事件を境に、香港では住民の海外脱出の動きが強まっていた。それでも和田氏は、規則がなく自由であること、税制が有利で海外の利益をいったん集めて再び外へ出しやすいことを挙げた。日本に近い交通の要衝で、各地の華僑の情報が集まる点も理由に数えた。大店法で縛られた日本とは違い、これまで出た国には規制らしい規制がないとも語っている。後に和田氏は、国内の事情を次のように振り返った。『規制の多い国内でチェーン展開に遅れ、後発の不利はいかんともしがたかった。海外ならばナンバーワンになるチャンスがあると思った』(日本経済新聞 1993年1月10日)国内で負けた条件をそのまま抱えるより、条件ごと土地を替えるほうを選んだのである。
グループ本部の香港移転は1990年5月に実行された。返還を前に資本と人材の流出が続くなか、ヤオハンは200億円を投じ、銀行などの協調融資枠500億円を確保した。和田氏は全財産と家族を連れて移り住み、湾仔のオフィスタワー49・50階を買い取って事務所と迎賓館に60億円を充てた。売りに出た香港企業を安値で買い、2年で12社を傘下に入れた。買収の総額は600億〜700億円で、日本から持ち込んだ230億円の一部と現地で借りた約3億米ドルを充てた。移住時に大型店3店・従業員1,300人だった香港の陣容は、香港と中国で114店・5,800人に膨らんだ。1991年11月、八百半デパートは商号をヤオハンジャパンへ改めた。
中国本土での最初の店は、1991年9月に深圳の経済特区内の中英街に開いた。出稼ぎから帰郷する客が3万〜4万円の背広を買っていく店であった。和田氏は、1人あたりの年間国民所得が1,000ドルを超えた時が流通業の進出の好機で、1,500ドルから1万ドルへ上がる間は店を作れば売れると見ていた。1992年9月29日には、上海の浦東地区で上海第一百貨店と合弁で建てる百貨店の起工式に臨んだ。社内では中国に5年で1,000店を作ると宣言し、1993年1月には中国でスーパーを1,000店展開する構想が報じられた。日本の大手でも300店ほどという流通業界の常識からは、夢のような数字と受け止められた。
和田氏は1992年の取材で、国内での知名度は気にしていないと語った。『日本は投資効率が悪いですから。とにかく地価が高すぎます。』(日経ビジネス 1992年3月16日号)国内のスーパーや百貨店は開店から3〜5年たたないと利益が出ないという見立てである。ただし従来にない業態の店を開くなら、日本市場にも魅力を感じるとも述べていた。弟の和田晃昌氏は1994年、3年半前に開いたネクステージ半田のノウハウを重ね、同年11月にグループ国内最大のネクステージ知立を開くと明かした。敷地5万7,000平方メートル、営業面積4万平方メートル、駐車場2,170台の規模で、百貨店とディスカウントストアを核に据えた。1990年からの5年間で市場から調達した623億円のうち、240億円がネクステージの2店に投じられた。
資金の多くは社債で賄われた。1990年2月に第1回と第2回の無担保転換社債を各100億円発行し、1992年12月には米ドル建てのワラント債を出した。1993年4月には円建て転換社債100億円を、1994年8月には第3回無担保転換社債200億円を重ねている。1993年3月期の連結で見た有利子負債は約1,200億円と、売上高約1,940億円の6割を超えた。一方で減価償却費と利益留保を合わせたキャッシュフローは約18億円にすぎなかった。単体の当期純利益も1991年3月期の41億円から、1994年3月期には15億円まで細った。金融機関からは、経営の不透明さと強気一辺倒の計画に厳しい注文が付いた。返済の期日が決まった社債が、細っていく利益の上に積み上がっていった。
上海への集中は、ヤオハンジャパンの信用を借りながら、その責任からは切り離すという二重の設計の上に立っていた。和田一夫氏は中国への投資を香港の持株会社から出すことで、日本の株主に負担は及ばないと説明した。ところが香港の中核会社である八佰伴香港は1995年3月期から営業赤字に落ち、上海第一八佰伴の借入にはヤオハンジャパンが4,000万米ドルの保証を付けていた。資本の系列は別でも、資金の出どころをたどれば国内のスーパーに行き着く。中国の店が育つまでの数年を、日本の店の稼ぎと上場会社の信用で持ちこたえる構図であった。
資金の集め方が、この構図を脆くした。ヤオハンは社債と株式市場から資金を得て、主力銀行と深い関係を結ばなかった。社債の償還期が重なったとき、借り換えを引き受ける貸し手はおらず、現金を作るには利益を出している店を売るほかなかった。年20億円の営業利益を生む16店の売却代金は銀行への返済に回り、残った店網では1,689億円の連結有利子負債を支えられない。1997年10月にジャスコが海外事業の切り離しを支援の条件に置いたのは、海外を国内の信用で支えるというヤオハンの組み立てを、そのまま断ち切るものであった。
和田一夫氏が上海に賭けた根拠は、長江下流域の消費の伸びにあった。上海市に江蘇・浙江の両省を加えた地域は人口1億2,000万人で中国のGNPの3割を占め、消費は年20%を超えて伸びていると一夫氏はみていた。中国で最初に上位の中間層が育つのもこの地域だという読みである。1995年12月、浦東新区に売場面積11万3,000平方メートルの百貨店ネクステージ上海が開業し、部分開業の初日には100万人を超える市民が詰めかけた。運営する上海第一八佰伴は、香港の持株会社YIHが36%、ヤオハンジャパンが19%、上海第一百貨店が45%を出す合弁であった。翌1996年6月に一夫氏は住まいを上海へ移し、7月1日にはグループ本部も香港から浦東へ移している。本部とは建物ではなく最高経営責任者の居る場所だというのが、一夫氏の考え方であった。
中国への投資の出し方について、一夫氏はヤオハンジャパンとは別の会社から出していると繰り返した『中国への投資は日本(ヤオハンジャパン)からではなく香港(ヤオハンインターナショナル・ホールディングス)から行っています。この2つの会社はまったく別もので,仮に中国事業が失敗してもヤオハンジャパンの株主の皆さんにご迷惑をかけることはありません。』。百貨店は初年度から償却前の利益を確保できる見込みで、大きな投資はほぼ終えたので5年で回収するという見通しも示している。ただし、切り離しは資本の系列の上にとどまった。ヤオハンジャパンは上海第一八佰伴の借入のうち4,000万米ドル(約45億円)を保証しており、出資比率に照らせばYIHより重い負担を負っていた。1996年3月期末には、ヤオハンジャパンの関連会社への投融資が国内371億円に対し、香港84億円、中国32億円、それ以外の海外345億円に及んでいた。香港の信用だけでは足りない分を、日本の上場会社の信用で埋める構図であった。
百貨店と並んで掲げたのが、中国でのスーパー1,000店構想である。2010年に1,000店を目指す計画で、1997年半ばまでに上海と無錫で36店を開いた。構想にはファストフード3,000店も並び、中国事業全体で1999年12月期に売上高1,000億円を目標とした。グループが中国に投じた資金は総額600億円に達し、一時は上海だけで日本から160人の社員が送り込まれている。その間、国内の単体の業績は伸びを失っていた。1996年3月期の売上高は1,615億円と前期の1,528億円を上回ったものの、当期純利益は8億円から6億円へ減った。国内の店を支える人と資金が海を渡った分、足元の利益が細っていった。
危機が表に出たのは1996年11月末で、117億円のワラント債の償還を前に資金繰りの悪化が明るみに出た。12月10日の償還は保証先の大和銀行などからの借り換えで乗り切ったが、1996年3月末の時点で社債は約470億円が未償還のまま残り、1997年5月に約100億円、2001年までにさらに400億円弱の償還を控えていた。これに対し、1996年3月期の経常利益は46億5,000万円にすぎない。12月16日のリストラ案の会見で具体策が示されず、11月19日に740円だった株価は12月19日に363円まで落ちた。資金を市場から集めてきたことの裏側を、のちに社長となる和田光正氏は銀行との関係の薄さとして振り返っている『市場から簡単におカネが入るので、どうしても金融機関との十分な関係をつくれなかったのです。』。
1997年1月、副社長だった和田光正氏が社長に就き、一夫氏から財務の立て直しを任された。2月3日に公表した計画は、1999年3月期に有利子負債を単体で40%減の600億円、連結で45%減の900億円まで落とすものであったが、利益の目標は記者に問われても最後まで出さなかった。光正氏の見立てでは、1996年3月期末の総資産1,789億円に対して営業利益は49億5,000万円で、総資産営業利益率は3%ほどしかない。単体1,018億円の有利子負債を2年で400億円削り、利益を落とさずに資産を縮めることを柱に据えた。中国でも1月初めに、スーパーを含む新規出店を1年間止めると決めている。
資産売却の核に据えたのは、国内の主力店の切り離しであった。2月17日、ヤオハンジャパンはダイエー子会社のセイフーへ国内16店を330億円で売ると発表した。仲介に立ったのは主力銀行の東海銀行である。16店は年に20億円の営業利益を上げる店で、売上の4割を担っていた。稼ぐ店をなぜ手放すのかという声に、光正氏は社員の雇用を理由に挙げた『収益性の高いうちに店舗を売却すれば、そこの社員も相手先企業に引き取ってもらいやすいからです。』。ブラジルから完全に撤退した際、現地で雇った社員が職を失った経験が念頭にあった。1997年5月、直営15店が304億円でセイフーへ営業譲渡された。雇用を守る売却は、同時に負債を返す力の源を手放すことでもあった。
店の売却は、手元に資金を残さなかった。売却代金はほとんどが銀行への返済に回り、5月には96億円の転換社債の償還が重なって、資金繰りは再び行き詰まった。1997年3月期の単体売上高は1,568億円で、当期純損失は359億円に達した。英国子会社に対する債権の貸倒引当金などを特別損失に積んだためで、日本公社債研究所は既発債の格付けをシングルBへ下げた。7月10日、光正氏は和議申請の報道を打ち消す会見を開き、大手取引先60社と約45億円の買掛金の支払いを一時棚上げすることで合意したと明かした。下期に百貨店の業態を売って約100億円を得る見込みも示している。取引先への支払いを延ばしてしのぐ段階に入った時点で、再建の手立ては店の外に移っていた。
1997年9月18日の午後5時、ヤオハンジャパンは東京証券取引所で会社更生法の申請を発表した。主力銀行の東海銀行に連絡が入ったのは、会見のわずか30分前であった。6月末に取引先へ手形の繰り延べを頼んで以降、相談に応じる金融機関は減り、8月には地元の信用金庫や信用組合にまで協力を求めていた。8月下旬、一夫氏が香港の友人から200億円の融資が入ると地元紙に語ると、財務部門が交渉していた金融機関は一斉に手を引いた。銀行との関係は、取引先の反対を押し切って本部を香港へ移した1990年を境に冷えていた。1990年3月期に451億円だった連結の有利子負債は、1997年3月期には1,689億円となり、総資産の73%を占めた。申請は時期だけが問われる段階にあった。
再建の支援を表明したのはジャスコであった。ただし支援には海外事業を完全に切り離すという前提が付き、ジャスコの岡田元也社長はその条件をはっきり示した『海外事業の完全な切り離しが前提条件』。一夫氏が日本とは別だと説いてきた香港と中国の事業も、申請の後は急速に弱った。香港・マカオに10店を持つヤオハン香港では有力な納入業者が商品を止め、1997年3月期は9,991万香港ドルの営業赤字で、3期続けての赤字となった。上海第一八佰伴では3月に日本人幹部6人がそろって退社しており、グループは自前で店を回せなくなっていた。1997年12月、会社更生手続の開始が決まり、ヤオハンジャパンは海外事業から手を引いた。海外で市場を取って国内へ持ち帰るという創業期からの順序は、国内の店を他社に委ねる形で終わった。
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|---|---|---|---|---|
| 1930〜1961年熱海の八百半の創業から八百半食品デパートと現金正札販売 | 八百半熱海支店を創業 | ★★ | ||
| 八百半商店を設立 | ★ | |||
| 八百半食品デパートに商号変更 | ★ | |||
| 現金正札廉価販売を導入 | ★★ | |||
| 1962〜1982年和田一夫の社長就任と伊豆・静岡への出店、ブラジルヤオハンの破綻と名証上場 | 和田商事を設立 | ★ | ||
| 和田一夫 | 和田一夫氏が社長に就任 | ★★ | ||
| 和田一夫 | 八百半デパートに商号変更 | ★ | ||
| 和田一夫 | 小田原店を新設 | ★ | ||
| 和田一夫 | 伊東店を新設 | ★ | ||
| 和田一夫 | ピニエーロス店を開店 | ★★ | ||
| 和田一夫 | グループ年商が100億円を突破 | ★ | ||
| 和田一夫 | 清水店を新設 | ★ | ||
| 和田一夫 | 1号店を開店 | ★★ | ||
| 和田一夫 | 和田商事を吸収合併 | ★ | ||
| 和田一夫 | ブラジルヤオハンが破綻 | ★★ | ||
| 和田一夫 | 蒲郡店を新設 | ★ | ||
| 和田一夫 | 名古屋証券取引所市場第二部に上場 | ★ | ||
| 1983〜1994年香港進出と東証上場、グループ本社移転と中国1000店構想、有利子負債の膨張 | 和田一夫 | グループ年商が1000億円を突破 | ★ | |
| 和田一夫 | 沙田店を開店 | ★★ | ||
| 和田一夫 | 名古屋証券取引所市場第一部に指定替え | ★ | ||
| 和田一夫 | 東京証券取引所市場第一部に上場 | ★ | ||
| 和田一夫 | ワラント債・転換社債による資金調達を開始 | ★★ | ||
| 和田一夫 | 杉山商事を吸収合併 | ★ | ||
| 和田晃昌 | 海外店舗が22店に到達 | ★★ | ||
| 和田晃昌 | 国内の出店規制に見切りをつけた海外雄飛 大規模小売店舗法の下で国内出店が伸び悩む後発の不利を早くに見切り、和田一夫会長は1971年のブラジル進出を皮切りにシンガポール・タイ・イギリスへ展開し、1990年にはグループ本部を香港へ移した海外戦略。"世界市民企業グループ 八佰伴"を掲げ、静岡の中堅スーパーから国際流通グループへの転換を志向した、ヤオハンの原点を成す一連の判断であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 和田晃昌 | 百貨店「ネクステージ半田」を開店 | ★ | ||
| 和田晃昌 | 1号店を開店 | ★ | ||
| 和田晃昌 | ヤオハンジャパンに商号変更 | ★ | ||
| 和田晃昌 | 中国での食品スーパー1000店構想を公表 | ★★ | ||
| 和田晃昌 | 1号店を開店 | ★ | ||
| 和田晃昌 | 経営指導料の架空計上を開始 | ★★ | ||
| 和田晃昌 | 百貨店「ネクステージ知立」を開店 | ★ | ||
| 和田晃昌 | 国内外の600億円の市場調達——1000億円超へ膨らんだ有利子負債 1990年代前半、ヤオハンジャパンは大店法緩和で牙城の静岡へ大手が進出する危機感から、国内で3000平方メートル級の大型食品スーパーを2000年までに100店出す拡大と、中国・タイ・英国への海外展開を同時に進めた。その原資を賄うためワラント債・転換社債で市場から総額約600億円を調達し、有利子負債は1000億円に膨らんだ。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 和田晃昌 | 本社を移転 | ★ | ||
| 1995〜1997年上海第一八佰伴の開店から会社更生法申請とジャスコの支援 | 和田晃昌 | 食品スーパー1060店構想を掲げ、資金繰り悪化下も崩さなかった中国拡大 1995年12月、上海・浦東にアジアで最大級の百貨店"上海第一八佰伴"(売場約10万平方メートル)を出店し、2005年までに中国沿岸部へ食品スーパー1060店を出す構想を掲げた中国拡大の判断。資金繰りが悪化しても和田一夫会長は中国を"聖域"として拡大を続け、銀行が最も警戒する中国リスクへの執着が主力3行の支援離脱を招いた。 詳細を読む | ★★★ | |
| 和田晃昌 | ヤマナカの全株式を売却 | ★ | ||
| 和田晃昌 | 中国沿岸部への食品スーパー1060店構想を公表 | ★★ | ||
| 和田晃昌 | 株価が二度のストップ安 | ★★ | ||
| 和田晃昌 | 主力3行から各10億円の融資を受け入れ | ★ | ||
| 和田光正 | 有利子負債の圧縮計画を主力3行に提出 | ★ | ||
| 和田光正 | 資金繰り危機下で主力16店、熱海の高収益店まで含めた稼ぎ頭の手放し 1997年、資金繰り危機に陥ったヤオハンジャパンが、和田一夫会長の打診でダイエー傘下の食品スーパー・セイフーへ主力16店を約330億円で一括売却した経営判断。熱海の高収益店を含む年商674億円・営業利益23億円の稼ぎ頭を競合へ渡し、得た代金の大半を有利子負債の返済に充てた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 和田光正 | 370億円の特別損失を計上 | ★★ | ||
| 和田光正 | 直営15店舗をセイフーに営業譲渡 | ★ | ||
| 和田光正 | 転換社債の自力償還が行き詰まり、1997年9月の会社更生法申請へ——上場大手小売の破綻 1997年9月18日、静岡を地盤とする中堅スーパーのヤオハンジャパンが会社更生法の適用を東京地裁へ申請した経営破綻。転換社債の自力償還が行き詰まり、かつての主力取引銀行だった東海・住友信託・長銀の三行の支援も途絶えた末の申請で、倒産後の修正バランスシートでは900億円を超える債務超過に陥っていた。上場する大手小売の更生法申請は当時としては異例であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 会社更生下で競合を再建スポンサーに迎え、主力店を手放した末の存続策 1997年9月に会社更生法の適用を申請したヤオハンジャパンは、再建のスポンサーを探すなかで、同年10月にジャスコの支援を受け入れた。10月6日にジャスコの岡田卓也会長がヤオハン支援を表明し、当面は資金を投入せず、離反した納入業者への取引再開の呼びかけや商品供給で自力再建を介添えする枠組みとなった。競合ダイエーに主力店を売却した後の更生会社が、本業を存続させるために縋った選択であった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 会社更生手続の開始が決定 | ★ | |||
| 東京証券取引所の上場を廃止 | ★ | |||
| 元社長らが粉飾決算で逮捕 | ★★ | |||
| 中国事業から撤退 | ★ | |||
| 和田晃昌氏に有罪判決 | ★★ | |||
| 転換社債の買い取り条件を公表 | ★ | |||
| 更生計画案を提出 | ★ | |||
| ヤオハンに商号変更 | ★★ | |||
| イオンによる完全子会社化 | ★★ | |||
| 会社更生手続が終結 | ★ | |||
| マックスバリュ東海に商号変更 | ★★ | |||
| 創業家の和田一夫氏が逝去 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(ヤオハン)