1917年〜 戦前軍需光学の到達点と戦後の民需カメラへの転身
- 1917年日本光学工業株式会社を設立
- 1917年光学機器国産化へ東京計器製作所光学計器部門と岩城硝子製造所反射鏡部門を統合、三菱合資岩崎小彌太の出資で日本光学工業を設立(直後に藤井レンズ製造所も合併)
- 1918年大井第一工場(現・本社/イノベーションセンター)を新設
- 1933年軍需生産のため増産投資を本格化
- 1945年2万名を整理解雇・軍需から民需転換へ
- 1953年米国にNikon Sales Inc.(現・Nikon Inc.)を設立
- 1963年国内で生産拠点を拡充
ニコンの業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
軍需依存から始まった光学ガラス国産化の10年
日本光学工業の前史は、明治末に芽生えた国内光学工業の黎明にさかのぼる。当時の光学機械は軍需民需を問わず外国からの輸入に頼っており、国内では陸海軍の兵器廠に加え、東京計器製作所の光学計器部門や藤井レンズ製造所といった少数の民間事業者が、光学兵器を中心に研究と試作を重ねていた段階にすぎなかった。望遠鏡や測距儀に欠かせない光学ガラスの自給はまだ遠く、これら民間の技術が散在したまま、まとまった量産基盤を欠いていた。第一次世界大戦が国産化の必要を一気に押し上げるまで、日本の光学工業は輸入品に依存する試作の域を出ていなかった。 [1][2]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [1]明治末に国内の光学工業が始まり、光学機械は軍需民需を問わず外国から輸入していた
- [2]前史で光学兵器を研究試作した民間の担い手に東京計器製作所(光学計器部門)と藤井レンズ製造所が含まれる
第一次世界大戦の勃発によって、日本海軍が依存していたドイツ製光学機器の輸入ルートが全面的に途絶した。軍艦の測距儀や双眼鏡、潜望鏡といった装備に不可欠な光学部品を自前で賄えない以上、戦力の維持そのものが危うくなる状況に置かれた。海軍からの強い要請を受けた三菱財閥の岩崎小弥太は、民間の光学技術者を糾合して1917年に日本光学工業を設立することを決断した。創業直後に藤井レンズ製造所を買収して既存の技術基盤を確保し、1918年には大井工場を新設して本格的な生産体制の構築に着手した。ガラスの溶融炉を安定させ、均質なブロックを反復して得るまでには試作と失敗の10年近くを要し、1927年にようやく光学ガラスの安定量産に到達した。軍需用の高精度要求が、その後の民需進出を支える光学技術の底を深めた。 [3][4][5][6]
- ニコン 有価証券報告書【沿革】
- [3]1917年7月 三菱合資会社社長 岩崎小彌太の出資をもって日本光学工業株式会社を設立
- [4]設立直後に藤井レンズ製造所を統合(有報は『合併』)
- [5]1918年1月 大井第一工場を新設
- [6]1927年 光学ガラスの量産に成功
量産成功後の日本光学は軍需依存を強めながら規模を拡大した。関東大震災ののちには陸海軍の光学関係事業と技術人材を一手に引き継ぎ、国内の光学兵器製造をほぼ一社で担う立場となった。1933年以降は設備投資を積極化し、平塚や溝の口に軍需工場を相次いで新設する。測距儀、双眼鏡、照準器、潜望鏡といった海軍向け光学機器を主軸に、陸軍向け軍需品の生産量も太平洋戦争中期から急増した。1945年の終戦時点で従業員は約2万5000名、国内に20工場を擁する巨大な軍需コングロマリットに成長していたが、この規模拡大はそのまま単一顧客・単一需要への極度の依存を意味した。軍需100パーセントという事業構造そのものが終戦と同時に全需要を一夜で失うリスクを内包しており、戦後の縮小とそこからの民需転換劇を予告していた。 [7][8][9][10][11]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [7]関東大震災後に陸海軍の光学関係事業と技術人材を引き継ぎ、光学兵器製造をほぼ一社で担った
- ニコン 有価証券報告書
- [8]1933年から軍需生産のため増産投資を本格化
- [9]首都圏(平塚・溝の口)に軍需工場を新設
- [10]1945年終戦時点の従業員 約2万5000名(一次資料=有報の値を採用)
- [11]終戦時点で国内に20工場を擁する
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [1]明治末に国内の光学工業が始まり、光学機械は軍需民需を問わず外国から輸入していた
- [2]前史で光学兵器を研究試作した民間の担い手に東京計器製作所(光学計器部門)と藤井レンズ製造所が含まれる
- [7]関東大震災後に陸海軍の光学関係事業と技術人材を引き継ぎ、光学兵器製造をほぼ一社で担った
- ニコン 有価証券報告書【沿革】
- [3]1917年7月 三菱合資会社社長 岩崎小彌太の出資をもって日本光学工業株式会社を設立
- [4]設立直後に藤井レンズ製造所を統合(有報は『合併』)
- [5]1918年1月 大井第一工場を新設
- [6]1927年 光学ガラスの量産に成功
- ニコン 有価証券報告書
- [8]1933年から軍需生産のため増産投資を本格化
- [9]首都圏(平塚・溝の口)に軍需工場を新設
- [10]1945年終戦時点の従業員 約2万5000名(一次資料=有報の値を採用)
- [11]終戦時点で国内に20工場を擁する
2万名整理解雇を経た民需カメラへの突破
1945年の終戦にともなって、日本光学は大井工場を除く19工場の即時閉鎖を決め、約2万名の従業員を整理解雇して僅か1724名の態勢で再起を図った。戦時中のニコンは光学機器すなわちレンズや測距儀の製造が事業の中心であり、完成品としてのカメラボディを自社で量産した経験はほとんど無いに等しかった。それでも民需転換のためには完成品への進出が不可欠と判断し、1946年からカメラボディ本体の開発が本格化する。戦時中に培ったレンズ設計力と高精度加工技術を民需用の小型カメラへ再適用する試みで、国内にまだ本格的な高級カメラメーカーが育っていない状況のもと、輸出を前提にした高級機路線に賭ける経営判断だった。 [12][13]
- ニコン 有価証券報告書
- [12]1945年終戦で大井工場を除く19工場を閉鎖、約2万名を整理解雇、1724名で再起
- [13]戦時中は光学機器(レンズ)製造が中心でカメラボディ量産経験はほぼ無く、カメラ参入は初
終戦後に日本に駐留した進駐軍の将兵が、日本光学製レンズの解像度と色再現の質を現場で認め、米国本国へ持ち帰ったレンズを通じて口コミで評判が広がった。1950年12月のNew York Timesは、「ライフ誌専属写真技師が朝鮮戦争の取材でニッコールレンズを使用し、ドイツ製小型カメラレンズよりはるかに高度の正確さを有すると評価した」(New York Times 1950/12/10)と紹介された。1961年9月のダイヤモンド臨時増刊は「日本光学が、最高製品の生産を第一目標としたのに対し、キヤノンは売れる物、もうかるものを追ってきた」(ダイヤモンド臨時増刊 1961/09/10)と両社の対比を描き、ニコンが品質第一主義で輸出市場を開いた経緯を記した。1948年にカメラとレンズの量産を正式に開始し、翌年から輸出を本格化させて高級カメラメーカーとしての国際評価を確立する。軍需の巨大企業から民需の高級光学ブランドへの非連続な転換は、戦後産業史でも異例である。 [14][15][16]
- New York Times(1950年12月10日)
- [14]1950年12月のNew York Times(1950/12/10)がニッコールレンズの評価を紹介
- ダイヤモンド臨時増刊(1961年9月10日, ダイヤモンド社)
- [15]1961年9月のダイヤモンド臨時増刊(1961/09/10)が日本光学とキヤノンの対比を記載
- ニコン 有価証券報告書
- [16]1948年にカメラ及びレンズの量産を正式開始
- ニコン 有価証券報告書
- [12]1945年終戦で大井工場を除く19工場を閉鎖、約2万名を整理解雇、1724名で再起
- [13]戦時中は光学機器(レンズ)製造が中心でカメラボディ量産経験はほぼ無く、カメラ参入は初
- [16]1948年にカメラ及びレンズの量産を正式開始
- New York Times(1950年12月10日)
- [14]1950年12月のNew York Times(1950/12/10)がニッコールレンズの評価を紹介
- ダイヤモンド臨時増刊(1961年9月10日, ダイヤモンド社)
- [15]1961年9月のダイヤモンド臨時増刊(1961/09/10)が日本光学とキヤノンの対比を記載