ニコン の歴史

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創業 1917年
母体 三菱財閥
創業地 東京都
創業 1917年7月、三菱合資社長の岩崎小彌太氏の出資により、東京計器製作所の光学計器
1917年7月、三菱合資社長の岩崎小彌太氏の出資により、東京計器製作所の光学計器部門と岩城硝子製造所の反射鏡部門を統合して日本光学工業が設立された。第一次世界大戦でドイツ製光学機器の輸入が途絶し、軍艦の測距儀や潜望鏡を自前で賄えなくなった海軍の要請が発端である。設立直後に藤井レンズ製造所を合併し、1918年に大井工場を新設した。ただし光学ガラスの安定量産に達したのは10年後の1927年で、それまでの試作と失敗は海軍という単一の需要家に支えられて初めて続けられた。1945年の終戦時には従業員約2万5,000名・20工場を擁したが、その需要は一夜で消えた。
決断 同じレンズの技術を、需要が消えるたびに別の顧客産業へ差し向けてきた。1945年に
同じレンズの技術を、需要が消えるたびに別の顧客産業へ差し向けてきた。1945年に軍需を失うと大井工場を除く19工場を閉鎖して約2万名を整理し、1,724名の態勢で高級カメラの量産へ転じた。1976年発足の超LSI技術研究組合に参画し、ルーリングエンジンなど傍流の精密光学を扱ってきた特機部門の吉田庄一郎氏らが1980年に初号機NSR-1010Gを完成、翌年からNEC・東芝への納入が始まる。1983年には露光装置で世界シェア首位に立ち、FY1984の半導体関連機器の売上高は567億円へ拡大した。三度の転用を続けられたのは、光学ガラスの溶融から研磨までを社内に残したためである。
現況 現在の利益を作っているのは、半導体露光装置ではなくカメラである。2026年3月期
現在の利益を作っているのは、半導体露光装置ではなくカメラである。2026年3月期の売上高6,771億円の内訳は映像2,900億円・精機1,672億円・ヘルスケア1,119億円・コンポーネント761億円で、営業利益167億円を出した映像に対し、精機は45億円の営業損失を計上した。2016年に1,143名の希望退職で採算を戻したあとも、二つの主力が同時に伸びる局面は戻っていない。次の成長軸として2023年に完全子会社化した金属3DプリンターのSLMソリューションズも中国勢の台頭で計画見直しを迫られ、2026年3月期に906億円の減損損失を計上したことが、全社を1,124億円の営業損失へ沈めた。
競合 顧客の居場所が動いたとき、動かなかった側である。1990年代後半にサムスン電子や
顧客の居場所が動いたとき、動かなかった側である。1990年代後半にサムスン電子やTSMCが台頭すると、オランダのASMLは新興顧客との協業体制とサービス網を先に整え、ニコンのシェアを侵食した。同じ装置業界の東京エレクトロンが1994年に代理店を切って海外へ直販に転じたのに対し、ニコンはNEC東芝日立製作所との共同開発を軸に据え続けた。シェアの縮小が研究開発費の原資を細らせ、次世代機で劣後する循環を生んだ。現在ASMLが露光装置の世界シェアの約8割を占め、カメラでもソニーキヤノンがミラーレスで先行している。2025年、ニコンは前工程での正面からの競争を退き、FPD露光を転用したマスクレス装置で後工程へ回った。装置の世代交代より先に顧客が地理的に入れ替わったことが、首位の交代を決めた。
長期業績の推移 1949〜2026年
ニコン:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

第1章 1917年〜 戦前軍需光学の到達点と戦後の民需カメラへの転身

1917年〜軍需依存から始まった光学ガラス国産化の10年

日本光学工業の前史は、明治末に芽生えた国内光学工業の黎明にさかのぼる。当時の光学機械は軍需民需を問わず外国からの輸入に頼っており、国内では陸海軍の兵器廠に加え、東京計器製作所の光学計器部門や藤井レンズ製造所といった少数の民間事業者が、光学兵器を中心に研究と試作を重ねていた段階にすぎなかった。望遠鏡や測距儀に欠かせない光学ガラスの自給はまだ遠く、これら民間の技術が散在したまま、まとまった量産基盤を欠いていた。第一次世界大戦が国産化の必要を一気に押し上げるまで、日本の光学工業は輸入品に依存する試作の域を出ていなかった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [1]明治末に国内の光学工業が始まり、光学機械は軍需民需を問わず外国から輸入していた
    • [2]前史で光学兵器を研究試作した民間の担い手に東京計器製作所(光学計器部門)と藤井レンズ製造所が含まれる

第一次世界大戦の勃発によって、日本海軍が依存していたドイツ製光学機器の輸入ルートが全面的に途絶した。軍艦の測距儀や双眼鏡、潜望鏡といった装備に不可欠な光学部品を自前で賄えない以上、戦力の維持そのものが危うくなる状況に置かれた。海軍からの強い要請を受けた三菱財閥の岩崎小弥太は、民間の光学技術者を糾合して1917年に日本光学工業を設立することを決断した。創業直後に藤井レンズ製造所を買収して既存の技術基盤を確保し、1918年には大井工場を新設して本格的な生産体制の構築に着手した。ガラスの溶融炉を安定させ、均質なブロックを反復して得るまでには試作と失敗の10年近くを要し、1927年にようやく光学ガラスの安定量産に到達した。軍需用の高精度要求が、その後の民需進出を支える光学技術の底を深めた。

  • ニコン 有価証券報告書【沿革】
    • [3]1917年7月 三菱合資会社社長 岩崎小彌太の出資をもって日本光学工業株式会社を設立
    • [4]設立直後に藤井レンズ製造所を統合(有報は『合併』)
    • [5]1918年1月 大井第一工場を新設
    • [6]1927年 光学ガラスの量産に成功

量産成功後の日本光学は軍需依存を強めながら規模を拡大した。関東大震災ののちには陸海軍の光学関係事業と技術人材を一手に引き継ぎ、国内の光学兵器製造をほぼ一社で担う立場となった。1933年以降は設備投資を積極化し、平塚や溝の口に軍需工場を相次いで新設する。測距儀、双眼鏡、照準器、潜望鏡といった海軍向け光学機器を主軸に、陸軍向け軍需品の生産量も太平洋戦争中期から急増した。1945年の終戦時点で従業員は約2万5000名、国内に20工場を擁する巨大な軍需コングロマリットに成長していたが、この規模拡大はそのまま単一顧客・単一需要への極度の依存を意味した。軍需100パーセントという事業構造そのものが終戦と同時に全需要を一夜で失うリスクを内包しており、戦後の縮小とそこからの民需転換劇を予告していた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [7]関東大震災後に陸海軍の光学関係事業と技術人材を引き継ぎ、光学兵器製造をほぼ一社で担った
  • ニコン 有価証券報告書
    • [8]1933年から軍需生産のため増産投資を本格化
    • [9]首都圏(平塚・溝の口)に軍需工場を新設
    • [10]1945年終戦時点の従業員 約2万5000名(一次資料=有報の値を採用)
    • [11]終戦時点で国内に20工場を擁する
参考文献[1]-[11]
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [1]明治末に国内の光学工業が始まり、光学機械は軍需民需を問わず外国から輸入していた
    • [2]前史で光学兵器を研究試作した民間の担い手に東京計器製作所(光学計器部門)と藤井レンズ製造所が含まれる
    • [7]関東大震災後に陸海軍の光学関係事業と技術人材を引き継ぎ、光学兵器製造をほぼ一社で担った
  • ニコン 有価証券報告書【沿革】
    • [3]1917年7月 三菱合資会社社長 岩崎小彌太の出資をもって日本光学工業株式会社を設立
    • [4]設立直後に藤井レンズ製造所を統合(有報は『合併』)
    • [5]1918年1月 大井第一工場を新設
    • [6]1927年 光学ガラスの量産に成功
  • ニコン 有価証券報告書
    • [8]1933年から軍需生産のため増産投資を本格化
    • [9]首都圏(平塚・溝の口)に軍需工場を新設
    • [10]1945年終戦時点の従業員 約2万5000名(一次資料=有報の値を採用)
    • [11]終戦時点で国内に20工場を擁する

1945年〜2万名整理解雇を経た民需カメラへの突破

1945年の終戦にともなって、日本光学は大井工場を除く19工場の即時閉鎖を決め、約2万名の従業員を整理解雇して僅か1724名の態勢で再起を図った。戦時中のニコンは光学機器すなわちレンズや測距儀の製造が事業の中心であり、完成品としてのカメラボディを自社で量産した経験はほとんど無いに等しかった。それでも民需転換のためには完成品への進出が不可欠と判断し、1946年からカメラボディ本体の開発が本格化する。戦時中に培ったレンズ設計力と高精度加工技術を民需用の小型カメラへ再適用する試みで、国内にまだ本格的な高級カメラメーカーが育っていない状況のもと、輸出を前提にした高級機路線に賭ける経営判断だった。

  • ニコン 有価証券報告書
    • [12]1945年終戦で大井工場を除く19工場を閉鎖、約2万名を整理解雇、1724名で再起
    • [13]戦時中は光学機器(レンズ)製造が中心でカメラボディ量産経験はほぼ無く、カメラ参入は初

終戦後に日本に駐留した進駐軍の将兵が、日本光学製レンズの解像度と色再現の質を現場で認め、米国本国へ持ち帰ったレンズを通じて口コミで評判が広がった。1950年12月10日のNew York Timesが、朝鮮戦争を取材するライフ誌の写真技師による日本製カメラとレンズの評価を載せる。ドイツ製を上回るという評価で、ニコンの付属レンズであるニッコールへの評は『付属レンズはニッコールと称し、各種焦点距離のものを含み、ドイツ製小型カメラレンズよりはるかに高度の正確さを有するものと、アメリカ専門家によって査定された』。1961年9月のダイヤモンド臨時増刊は『日本光学が、最高製品の生産を第一目標としたのに対し、キヤノンは売れる物、もうかるものを追ってきた』と両社の対比を描き、ニコンが品質第一主義で輸出市場を開拓した経緯を記した。1948年にカメラとレンズの量産を正式に開始し、翌年から輸出を本格化させて高級カメラメーカーとしての国際評価を確立する。軍需の巨大企業から民需の高級光学ブランドへの非連続な転換は、戦後産業史でも異例である。

  • New York Times(1950年12月10日)
    • [14]1950年12月のNew York Times(1950/12/10)がニッコールレンズの評価を紹介
  • ダイヤモンド臨時増刊(1961年9月10日, ダイヤモンド社)
    • [15]1961年9月のダイヤモンド臨時増刊(1961/09/10)が日本光学とキヤノンの対比を記載
  • ニコン 有価証券報告書
    • [16]1948年にカメラ及びレンズの量産を正式開始
参考文献[12]-[16]
  • ニコン 有価証券報告書
    • [12]1945年終戦で大井工場を除く19工場を閉鎖、約2万名を整理解雇、1724名で再起
    • [13]戦時中は光学機器(レンズ)製造が中心でカメラボディ量産経験はほぼ無く、カメラ参入は初
    • [16]1948年にカメラ及びレンズの量産を正式開始
  • New York Times(1950年12月10日)
    • [14]1950年12月のNew York Times(1950/12/10)がニッコールレンズの評価を紹介
  • ダイヤモンド臨時増刊(1961年9月10日, ダイヤモンド社)
    • [15]1961年9月のダイヤモンド臨時増刊(1961/09/10)が日本光学とキヤノンの対比を記載

第2章 1980-1998 (気が向いたら執筆します!) ステッパー参入と量産、ニコンへの改称とタイへのカメラ生産移管

第3章 1999-2015 (気が向いたら執筆します!) ステッパーの顧客転換失敗と赤字、Metris買収とインテルとの提携・オプトス買収

第4章 2016-2026 (気が向いたら執筆します!) 1000名削減の構造改革からSLM・RED買収、後工程向けデジタル露光装置DSP-100

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歴史年表 1917〜2025年

ニコンの沿革1917〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1917〜1979年戦前軍需光学の到達点と戦後の民需カメラへの転身東京計器製作所光学計器部門と岩城硝子製造所反射鏡部門を統合
三菱合資岩崎小彌太氏の出資で日本光学工業を設立
藤井レンズ製造所を合併
大井第一工場を新設
光学ガラスの量産に成功
軍需生産のため増産投資を本格化
2万名を整理解雇・軍需から民需転換へ★★
長岡正男カメラ・レンズの量産開始
長岡正男東京証券取引所に株式上場
長岡正男東京証券取引所に株式上場
長岡正男Nikon Sales Inc.を設立
浜島昇国内で生産拠点を拡充
桜電子工業に経営参加
高級カメラを重視
大井製作所大船工場 を新設
Nikon Europe N.V.を設立
杉豊大井製作所相模原工場 を新設
彌永恭二郎カメラ輸出の低迷・業績低迷へ
1980〜1998年ステッパー参入と量産、ニコンへの改称とタイへのカメラ生産移管小秋元隆輝半導体製造装置(ステッパー)に参入★★
小秋元隆輝Nikon Precision Inc. を設立
福岡成忠半導体露光装置を軸にした光学・半導体の二本柱の確立

1980年、日本光学工業がカメラで培った光学ガラスと精密位置決めの技術を半導体露光装置(ステッパー)へ転用し、傍流の精機事業部から半導体製造装置に参入した経営判断。1984年に熊谷へ量産拠点を開設し、半導体関連機器がカメラと並ぶ第二の柱に育った。

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★★★
福岡成忠熊谷製作所を新設
福岡成忠商号を日本光学工業から、ニコンに変更
荘孝次カメラ生産をタイに移管
荘孝次Nikon (Thailand) Co., Ltd. を設立
荘孝次水戸製作所を新設
小野茂夫Nikon Singapore Pte. Ltd.を設立
1999〜2015年ステッパーの顧客転換失敗と赤字、Metris買収とインテルとの提携・オプトス買収吉田庄一郎ステッパーの顧客転換に失敗・最終赤字に転落★★
嶋村輝郎カメラの現地生産を開始
嶋村輝郎横浜製作所横須賀分室を新設
嶋村輝郎Nikon Imaging (China) Sales Co., Ltd. を設立
苅谷道郎単元株式数を100株に変更
苅谷道郎ベルギーのMetris NVを完全子会社化
苅谷道郎最終赤字に転落
木村眞琴インテルと半導体製造装置で提携★★
牛田一雄オプトスを買収(眼底カメラ)★★
2016〜2026年1000名削減の構造改革からSLM・RED買収、後工程向けデジタル露光装置DSP-100牛田一雄監査役会を廃して監査等委員5名を取締役会に置き、重要な業務執行の一部を執行側へ委ねた機関設計の組み替え

2016年6月29日、第152期定時株主総会の決議に基づき、同総会の終結の時をもって監査役会設置会社から監査等委員会設置会社へ移行した。掲げたのは、取締役会が実効性の高い監督を行うとともに、重要な業務執行の一部を業務執行取締役に委任することを可能とする体制である。 移行前は取締役10名(うち社外2名)と監査役4名(うち社外2名)に分かれていたが、移行後は取締役14名に一本化され、うち5名が監査等委員、社外取締役は4名となった。監査等委員会は定款に定める5名以内の範囲で員数を維持し、過半数を独立性を有する社外取締役で構成する。

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牛田一雄Mark Roberts Motion Control Limitedを完全子会社化
牛田一雄二本柱同時不振と1,143人の希望退職──2016年の全社構造改革

2016年、半導体露光装置と映像の二つの主力事業が同時に不振へ沈んだニコンは、牛田一雄社長のもと、三菱銀行から迎えた岡昌志氏を代表取締役兼副社長執行役員兼CFOに据えて全社の構造改革に着手した。既存事業に成長事業を加えた事業ポートフォリオを掲げた「中期経営計画2015年度版」の継続を断念し、売上成長を志向する戦略から収益力強化を志向する戦略へ方針を転換した。 国内で希望退職を募集して1,143人が退職し、2017年3月期の構造改革関連費用は533億70百万円に達した。半導体装置事業の黒字化と映像事業の選択と集中で短期の採算は戻したが、二本柱を縮める手当てにとどまった。

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★★★
馬立稔和最終赤字に転落★★
馬立稔和Morf3D Inc.に出資、子会社化
馬立稔和SLM Solutionsを買収(3Dプリンター)
德成旨亮RED.com, LLCを完全子会社化★★
大村泰弘前工程で失った首位の、後工程のデジタル露光での立て直し

半導体露光装置(ステッパー)で1980年代に世界首位を握ったニコンが、ArF液浸を経てオランダのASMLに逆転され、EUVの開発からも退いた。前工程での正面決戦を事実上手放した会社が、次の収益源に据えたのが、精機事業の新規分野である半導体アドバンストパッケージング分野である。 2025年7月、高解像度かつ大型基板に対応したデジタル露光装置「DSP-100」の受注を開始した。ニコン初の半導体製造の後工程向け露光装置であり、上市は2026年度を予定する。

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★★★
出典・参考 5件
出典・参考
  • ニコン 有価証券報告書【沿革】
  • ニコン 有価証券報告書
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • ダイヤモンド臨時増刊(1961年9月10日, ダイヤモンド社)
  • New York Times(1950年12月10日)

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