【筆者所感】 ニコンの源流は第一次世界大戦下で日本海軍がドイツ製光学機器の輸入途絶に直面したことにあり、岩崎小弥太率いる三菱財閥が海軍の要請に応えて1917年に日本光学工業を設立した点から始まる。藤井レンズ製造所を買収し大井工場を新設して光学ガラスの国産化に取り組んだが、安定量産に10年を要し、その間も軍需依存の体質は一貫した。1945年の終戦で従業員約2万5000名を抱える巨大軍需企業はほぼ全需要を一夜で失い、約2万名を整理解雇したうえで進駐軍将兵に評価されたレンズ品質を突破口に民需カメラへ転じ、輸出を通じて戦後の高級光学メーカーとして再出発した。戦前の軍需集中と戦後の民需転換という非連続な経営転換が、この会社の出発点に刻まれた原体験である。
1980年のステッパー開発成功で半導体露光装置という新たな柱を確立し、国内半導体産業の急成長に乗って世界シェア首位を長く維持した。カメラと露光装置の二本柱により1990年代初頭まで高収益を享受する。しかし半導体産業の重心が台湾・韓国へ移る過程でオランダASMLに顧客対応で後れを取り、2000年代半ば以降にシェアを失った。カメラ事業もミラーレスへの移行で追撃される側に回り、主力二事業の同時不振という局面を迎える。直近では業務用動画機や次世代露光装置など重点領域への投資再配置を進めつつ、デジタルマニュファクチャリング事業で925億円の減損を計上するなど過去の買収の再検討も並行した。2027年3月期から始まる次期中計でどこまで再成長の道筋を示せるかが、経営の焦点となっている。
歴史概略
1917年〜1979年戦前軍需光学の頂点と戦後の民需カメラへの転身
軍需依存から始まった光学ガラス国産化の10年
第一次世界大戦の勃発によって、日本海軍が依存していたドイツ製光学機器の輸入ルートが全面的に途絶した。軍艦の測距儀や双眼鏡、潜望鏡といった装備に不可欠な光学部品を自前で賄えない以上、戦力の維持そのものが危うくなる状況に置かれた。海軍からの強い要請を受けた三菱財閥の岩崎小弥太は、民間の光学技術者を糾合して1917年に日本光学工業を設立することを決断した。創業直後に藤井レンズ製造所を買収して既存の技術基盤を確保し、1918年には大井工場を新設して本格的な生産体制の構築に着手した。ガラスの溶融炉を安定させ、均質なブロックを反復して得るまでには試作と失敗の10年近くを要し、1927年にようやく光学ガラスの安定量産が実現した。軍需用の高精度要求が、その後の民需進出を支える光学技術の底を深めた。
量産成功後の日本光学は軍需依存を強めながら規模を拡大した。1933年以降は設備投資を積極化し、平塚や溝の口に大規模な軍需工場を相次いで新設する。測距儀、双眼鏡、照準器、潜望鏡といった海軍向け光学機器を主軸に、陸軍向け軍需品の生産量も太平洋戦争中期から急増した。1945年の終戦時点で従業員は約2万5000名、国内に20工場を擁する巨大な軍需コングロマリットに成長していたが、この規模拡大はそのまま単一顧客・単一需要への極度の依存を意味した。軍需100パーセントという事業構造そのものが終戦と同時に全需要を一夜で失うリスクを内包しており、戦後の縮小とそこからの民需転換劇を予告していた。
- 有価証券報告書
- New York Times 1950/12/10
- ダイヤモンド臨時増刊 1961/9/10
- ニコン50年史 1967
2万名整理解雇を経た民需カメラへの突破
1945年の終戦にともなって、日本光学は大井工場を除く19工場の即時閉鎖を決め、約2万名の従業員を整理解雇して僅か1724名の態勢で再起を図った。戦時中のニコンは光学機器すなわちレンズや測距儀の製造が事業の中心であり、完成品としてのカメラボディを自社で量産した経験はほとんど無いに等しかった。それでも民需転換のためには完成品への進出が不可欠と判断し、1946年からカメラボディ本体の開発が本格化する。戦時中に培ったレンズ設計力と高精度加工技術を民需用の小型カメラへ再適用する試みで、国内にまだ本格的な高級カメラメーカーが育っていない状況のもと、輸出を前提にした高級機路線に賭ける経営判断だった。
終戦後に日本に駐留した進駐軍の将兵が、日本光学製レンズの解像度と色再現の質を現場で認め、米国本国へ持ち帰ったレンズを通じて口コミで評判が広がった。1950年12月のNew York Timesは、ライフ誌専属写真技師が朝鮮戦争の取材でニッコールレンズを「ドイツ製小型カメラレンズよりはるかに高度の正確さを有する」(New York Times 1950/12/10)と評価したと報じた。1961年9月のダイヤモンド臨時増刊は「日本光学が、最高製品の生産を第一目標としたのに対し、キヤノンは売れる物、もうかるものを追ってきた」(ダイヤモンド臨時増刊 1961/09/10)と両社の対比を描き、ニコンが品質第一主義で輸出市場を開いた経緯を記した。1948年にカメラとレンズの量産を正式に開始し、翌年から輸出を本格化させて高級カメラメーカーとしての国際評価を確立する。軍需の巨大企業から民需の高級光学ブランドへの非連続な転換は、戦後産業史でも異例である。
- 有価証券報告書
- New York Times 1950/12/10
- ダイヤモンド臨時増刊 1961/9/10
- ニコン50年史 1967
1980年〜1998年ステッパー参入と光学・半導体の二本柱確立
傍流技術から突破口を開いた露光装置の誕生
1964年9月のダイヤモンドはカメラ業界の過剰淘汰を取り上げ、「1954年、1955年の2年間に約30社が倒産、1956年から1958年の3年間では約20社が姿を消している」(ダイヤモンド 1964/09/28)と書いた。同記事は「カメラ偏重をさけるため、兼業部門に力を入れる企業が多くなっている」(ダイヤモンド 1964/09/28)とも指摘し、リコーやミノルタの事務機進出、キヤノンの卓上電子計算機開発などカメラ専業からの脱皮が業界共通の課題であると伝えた。ニコンの露光装置事業への展開も、この業界構造からの要請を背景に持つ。1976年に通産省主導で発足した超LSI技術研究組合にニコンも参画し、半導体製造装置の国産化という国家プロジェクトの一翼を担うこととなった。米系ステッパー供給元への依存を脱したいという国内半導体メーカー各社の要望が、研究組合結成の推進力だった。
ニコン社内でこのプロジェクトの中心を担ったのは、カメラ事業ではなく、ルーリングエンジンやマイクロニッコールレンズといった傍流の精密光学技術を扱ってきた特機部門の吉田庄一郎だった。1972年に彼らがレーザー干渉計を組み込んだ座標測定器を開発していたことが、後のステッパー開発における位置決め精度の技術的基盤となる。1980年に初号機NSR-1010Gの開発に成功し、翌1981年からNEC・東芝への実機納入が始まる。日本の半導体メーカーが必要とする精度と生産性を米系競合より早く提供できた結果、1983年にはステッパーで世界シェア首位を確保した。1984年12月の日経ビジネスは「高級カメラのニコンから、半導体製造装置のニコンとでも呼ばれそうな勢い」(日経ビジネス 1984/12/24)と書き、純利益最高水準を伝えた。FY1984には半導体関連機器の売上高が567億円へ拡大し、カメラと並ぶ第二の収益柱として台頭した。
- 有価証券報告書
- ダイヤモンド 1964/9/28
- 日経ビジネス 1984/3/5
- 日経ビジネス 1984/12/24
国内顧客密着が生んだ成功と脆弱性の同居
1985年のプラザ合意後に進行した急激な円高はカメラ輸出の採算を深く蝕み、国内生産の維持が経済的に困難となった。ニコンは1990年にタイに現地法人を設立してカメラ生産の海外移管を本格化させ、その後の30年をかけて国内カメラ生産のほぼ全量をタイ工場へと集約した。タイ工場の従業員は2007年時点で7964名に達し、為替変動と人件費格差に対する防御線として機能した。カメラ事業は円高の逆風下でも輸出採算を確保し、ブランド力を維持したまま海外市場で拡大を続けた。国内雇用の縮小と海外拠点の巨大化という相反する動きは、戦後復興期の民需転換に続くもう一つの非連続な経営判断だった。
一方でステッパー事業は、日本の半導体メーカーとの緊密な協業関係を背景に世界シェア30から50パーセントを安定的に維持した。NEC、東芝、日立、富士通、三菱電機といった国内顧客との共同開発型のビジネスモデルは、高い技術要求を糧にして装置の性能を磨き上げる仕組みとして機能した。しかしこの国内顧客密着という成功要因そのものが、顧客基盤の地理的偏在という構造的な脆弱性を同時に内包していた点は、後年まで表に出なかった。1990年代後半から半導体産業の重心が台湾・韓国の新興メーカーへ移行していく過程でも、ニコンは既存顧客との関係を軸に事業を運営し続け、新興顧客への転換に後れを取る原因を内在させた。ステッパー収益の潤沢さが社内の危機感を鈍らせた面は、後に経営陣自身が振り返ることになる。
- 有価証券報告書
- ダイヤモンド 1964/9/28
- 日経ビジネス 1984/3/5
- 日経ビジネス 1984/12/24
1999年〜2023年ASML寡占下での二本柱同時不振と構造改革の断行
顧客転換の遅れが招いた露光装置シェアの喪失
1990年代後半を通じて半導体産業の地理的構造は劇的に変化し、サムスン電子やTSMCといった台湾・韓国の新興メーカーが急成長を遂げ、業界の勢力図を塗り替えた。オランダのASMLは早い段階からこれら新興顧客との協業関係構築に踏み込み、顧客の要求に即応する開発体制とサービス網を整備し、ニコンのシェアを侵食した。FY1998に182億円、FY2001に60億円、FY2002に81億円と、連続する最終赤字をニコンは計上した。2007年6月の日経は液浸ArFについて「1本の髪の毛の断面に40本の線を焼き付けるようなレンズ」(日経 2007/06/20)と書き、技術競争が極微細領域へ進んだ状況を伝えた。同時期にニコンは2006年5月の日経産業新聞が伝えた通り「ASML社などからの特許訴訟和解金158億円を特別利益に計上した」(日経産業新聞 2006/05/16)など、競合との直接対立も抱えた。
同じ半導体製造装置メーカーの東京エレクトロンがこの時期に海外顧客への営業軸足の転換を実行したのに対し、ニコンは国内顧客との既存の協業関係に経営の重心を置き続けた。シェアを失ったことで研究開発費の原資そのものが縮小し、次世代機開発で資金的に劣後するという悪循環に陥る。2012年にはインテルと戦略的な業務提携を発表したが、ASMLが世界シェアの約8割を確保する寡占構造を覆すには至らなかった。液浸ArFからEUVへと露光装置の主戦場が移るなか、ニコンは主流から外れた位置でかつての首位の記憶を背負いながら戦う立場に変わり、露光装置事業はもはや単独で会社全体の浮沈を左右する規模ではなくなった。国内顧客密着という1980年代の成功方程式が、新興顧客地図の前で桎梏となった経緯がここに示される。
- 有価証券報告書
- 日経産業新聞 2006/5/16
- 日経 2007/6/20
- プレジデント 2014/12
- ニュースイッチ 2017
- 日本経済新聞 2019/2/7
- Bloomberg 2022/4/13
二本柱の同時失速と中期構造改革という帰着
2010年代半ば以降、カメラ事業もスマートフォンの普及によって入門機市場を一気に失い、さらにソニーやキヤノンが先行したミラーレス化の波にも追撃される側に回った。報道用・プロ用高級機という戦後のニコンの代名詞の領域でも、像面位相差オートフォーカスと電子ファインダーを組み合わせた新世代機に対応するための開発資源を確保する難度が上がり、収益は後退した。半導体露光装置とカメラという二つの主力事業が同時に不振に陥る状況は、戦後の二本柱モデルが根本から揺らいでいるシグナルだった。構造改革の必要性は社内で広く共有され、希望退職の実施と拠点再編が連続して行われた。牛田一雄社長はこの時期の方針を「シェア奪回を目指す」(プレジデント 2014/12)と表現し、「光学と精密技術はなくせない」(ニュースイッチ 2017)と祖業の光学・精密技術を継続する意思を示した。
FY2020にはコロナ禍の影響も加わって売上が大きく落ち込み、その後の業績回復局面でも二本柱の同時再成長という絵は描きにくい。馬立稔和は2019年の就任時に「次の成長の柱を育成する」(日本経済新聞 2019/02/07)と述べ、「M&Aに最大3000億円枠を準備する」(Bloomberg 2022/04/13)とも語って非有機的成長を前面に掲げた。2017年に買収したドイツのSLMソリューションズを中核とするデジタルマニュファクチャリング事業も、金属3Dプリンターの一般産業領域での普及鈍化と中国勢の台頭に直面し、将来計画の見直しを迫られた。2026年3月期第3四半期には同事業で925億円の減損損失を計上することを決め、過去に期待された成長ストーリーを具体的な数字で再評価する作業が実施された。映像・精機・ヘルスケア・コンポーネントという四事業への再編を通じて、ニコンは新しい成長軸の探索と不採算事業の整理を同時並行で進めている。
- 有価証券報告書
- 日経産業新聞 2006/5/16
- 日経 2007/6/20
- プレジデント 2014/12
- ニュースイッチ 2017
- 日本経済新聞 2019/2/7
- Bloomberg 2022/4/13
直近の動向と展望
925億円減損を織り込んだ中計前夜の経営姿勢
2026年3月期第3四半期決算で、ニコンはデジタルマニュファクチャリング事業に関して925億円の減損損失を計上することを正式発表した。金属3Dプリンターの市場全体の成長率が当初想定を下回って推移し、中国メーカーが急速に台頭して市場シェアの約3割を既に掌握しているという競争環境の悪化が、この判断の直接的な背景にある。買収当時に描かれた宇宙・防衛向け市場での成長シナリオ自体は維持されるものの、大手競合の動きも活発化しており、組織のスリム化と費用削減による損益分岐点引き下げを前提として事業の継続性を確保していく方針が取締役会から示された。過去の買収案件を具体的な数字で誠実に再評価するこの姿勢は、銀行出身の徳成旨亮社長が掲げる「投資家との対話が会社を変える」(日経ビジネス電子版 2024/06/13)という経営スタンスの表れでもある。
次期中期経営計画は2026年4月から2031年3月までの5年間を計画期間とする構想で検討が進んでおり、具体的な数値目標を含む詳細は2026年5月に正式公表される予定である。業務用動画機や次世代露光装置といった重点強化領域の収益貢献が本格化するのは2027年度以降と位置づけられ、中計初年度にあたる2027年3月期はスロースタートになると経営陣は率直に説明している。映像事業は為替、中国市場の減速、米国市場の落ち込みという3点の逆風を抱え、精機事業では今期ArF液浸露光装置の販売台数が0台となる見込みで、2030年代前半までの数年間は投資先行の時期として位置づけられる見通しである。5年計画の前半を投資回収ではなく種まきに充てる姿勢は、過去の成功体験との決別を経営が選び取ったことを示している。
- 決算説明会 FY25-3Q
- 日経ビジネス電子版 2024/6/13
- マンスリーみつびし 2024/10/17
プラットフォーム再編と次世代領域への投資前倒し
ヘルスケア事業の中核であるOptosを含めて全社ののれん残高は減損処理後でも約300億円に及び、識別可能無形資産と合わせて毎期一定の償却負担が収益を抑制する構造は当面変わらない。横浜製作所の売却プロセスも進行中で、生産拠点の再配置を通じた固定費削減と、映像・精機・ヘルスケア・コンポーネントの4事業セグメント間での資源再配分が並行して進められている。映像事業では、メモリー価格の上昇が来期のマイナス要因として既に認識されており、米国関税影響約70億円の6割程度がこの事業に帰着する構造も重石となっている。為替・地政学・半導体市況という3つの外部変数に対して、事業ポートフォリオ全体としての感応度をどこまで低減できるかが問われている。徳成は「CFO経験を活かし、ニコンを1兆円企業にする」(マンスリーみつびし 2024/10/17)と財務規律と成長の両立を掲げる。
一方で半導体製造装置では、競合メーカーと互換性のある次世代ArF液浸露光装置の開発が継続されており、市場投入は2028年度以降となる見通しである。AI関連データセンター需要に連動して拡大が期待されるチップレット向けの後工程向けデジタル露光装置も2026年度の発売を予定しており、FPD露光装置事業が引き続きシェア50パーセント超を維持している点と合わせると、精機事業は厳しい時期を耐えながらも中長期的な反転の種を幾つか並行して育てている。カメラ事業もZ5IIを筆頭にボリュームゾーン機種を軸とした販売数量の維持と、業務用動画機という新しい用途領域への展開を並行して進めており、戦後70年以上続いた高級光学ブランドとしての位置づけを崩さずに変化への適応を図る構えである。1917年の海軍要請による創業から110年、ニコンは再び単一依存から離れる方法を模索している。
- 決算説明会 FY25-3Q
- 日経ビジネス電子版 2024/6/13
- マンスリーみつびし 2024/10/17