歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1918年、東京で尚工舎時計研究所が設立され、1930年に新宿区高田馬場で改組してシチズン時計が発足した。社名は「市民に親しまれる時計」に由来し、創業時から大衆が買える腕時計を量産する道を選んだ。価格を下げるほど客が増え、客が増えるほど数量で原価が下がる。この数量と価格の循環を収益の軸に据えた会社である。1941年には日東精機を合併して工作機械を取り込み、時計の精密加工技術を隣接領域へ広げる二事業体制を初期に作った。
決断クオーツ時計の商品化では1969年のセイコーに三年遅れ、後発に回った。そこでシチズンは1976年、腕時計の動力部であるムーブメントだけを他社に売る外販へ踏み切る。心臓部を売れば買い手が同じ市場で競合に変わるため社内は紛糾したが、生産数量を一気に増やして原価を下げる側を取った。香港などで組み立てられた十ドル級の腕時計が欧米に広がり、1986年度には腕時計の生産量でセイコーを抜いて世界首位に立った。技術で先行した相手を、数量で逆転した。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1918年〜1989年 創業から世界腕時計シェア1位獲得までの道のり
尚工舎時計研究所からシチズン時計株式会社への改組
シチズン時計の前身は、1918年に設立された尚工舎時計研究所である[1]。1930年5月、尚工舎を母体として東京都新宿区高田馬場にシチズン時計株式会社が設立され、腕時計の製造・販売を開始した[2]。社名は「市民に親しまれる時計」という思想に由来し、創業時点から大衆向けの腕時計メーカーとしての位置づけを打ち出していた。1938年12月には戦時統制下で大日本時計株式会社に改称し[3]、1941年9月には日東精機を合併して工作機械の生産を新たに開始した[4]。戦後の1948年2月に現社名に復帰し[5]、1949年5月には東京証券取引所へ株式を上場して[6]戦後復興期の主要な時計メーカーとしての地位を築いていった。以後の事業展開の方向性をこのとき経営陣が強く意識していたことは、後年の動きからも読み取れる。
工作機械事業が加わったことは、後年のシチズンの事業構造を決定づける重要な転換点であった[7]。時計一本足の経営ではなく、精密加工の派生産業を自前で抱える体制ができたため、1970年代以降の自動旋盤事業や電子デバイス事業へと広がる事業基盤が整えられた。ただし1970年代までのシチズンの主力事業はあくまで時計であり、工作機械は時計製造で培った精密加工技術を隣接領域へ転用したものという位置づけにとどまった。時計製造の量産化と輸出拡大が収益の中心であり、クオーツ時計時代を前にしたシチズンは後発メーカーとして巻き返しを図らねばならない立場に直面した。
1976年ムーブメント外販という時計業界の禁じ手
1970年代を通じて水晶振動子の軽量小型化が進み、腕時計へと組み込めるクオーツ時計の時代が到来した。クオーツでは1969年の世界初商品化を果たしたセイコーが先行しており、シチズンは後発の立場にあった。シチズンは1976年に「時計用シリンダー型音叉水晶振動子」などを開発してクオーツへの参入を整えた後、同年から思い切った戦略に踏み切った[8]。完成品時計ではなく、腕時計のムーブメント、つまり動力部分だけを他の時計メーカーに売る外販という戦略である[9]。この決定は時計業界の常識を根底から覆すものであり、社内でも激しい議論を呼んだ。同社の事業構造の転換期にあたる象徴的な決断として社史に記録されている。
この判断は社内で紛糾した。時計メーカーにとってムーブメントは商品の心臓部であり、外販すればそれを買った側がシチズンと同じ市場で競合するという根本的な問題を抱えていた。それでも大量生産のコストメリットを取るために外販を決定し、1979年には国内量産のための増産投資に踏み切った。生産されたムーブメントは香港などへ輸出され、現地で組み立てられた10ドル級の低価格腕時計として欧米市場に広がった。後年、春田博社長は「時計屋としては清水の舞台から飛び降りるような決断でしたが、これが一つの転機となって、当社の腕時計を世界的な規模で事実上のスタンダードとすることができた」(春田博 日経ビジネス 1998/08/24)と回顧している[10]。長い歴史のなかでも当時の判断は、後年まで議論される重要な岐路として振り返られている。
1986年度セイコーを抜いて世界シェア首位への到達
ムーブメント外販によって生産規模は跳ね上がり、1986年度にシチズンは腕時計の生産量で世界シェア1位を獲得した[11]。それまで長年にわたって業界首位の地位にいたセイコーを、技術開発ではなく量産戦略によって抜いた格好であり、時計業界の歴史における転換点として記録された。春田社長は同じインタビューで「生産の規模が増え、貴重品だった時計の値段が大幅に下がって大衆のものとなり、品質面でも『どんな環境で使われようとも、どんなに安い品であろうとも止まらない』ものになった」(春田博 日経ビジネス 1998/08/24)と語り[12]、外販戦略の本質的な意味を端的に表現した。経営の重心の置き方が少しずつ動いていたことを示す動きが連続した時期でもあった。
この1970〜1980年代の外販戦略は、シチズンを日本製腕時計の代名詞から世界の低価格帯時計産業の素材供給元へと変える転換をもたらした。米国に1975年のシチズン・ウオッチ・カンパニー・オブ・アメリカ[13]、香港に1970年の新星工業[14]および1976年の星辰表香港[15]、ドイツに1979年のシチズン・ウオッチ・ヨーロッパ[16]といった海外販売会社を矢継ぎ早に設立し、ムーブメント輸出と完成品販売の二面で世界規模の事業展開を完成させた。シチズンブランドの地位は、量産メーカーとしての経営判断の積み重ねによって築かれた。当時の経営判断こそが、後の会社のかたちを決定づけた時期であった。
1990年〜2015年 電子デバイス多角化の膨張と段階的な清算期
電子デバイス事業という第二の柱の構築と頓挫
1990年代から2000年代にかけてのシチズンは、時計で得た精密加工技術を電子部品領域へと投入した。携帯電話向けカメラモジュール、小型液晶パネル、液晶バックライト、フロッピーディスク駆動機構、HDD用サブストレートなど、当時の日本の電子機器産業の裾野を構成する部品群を幅広く手がけた。2005年10月には株式交換によってシチズン電子・ミヨタ・シメオ精密・狭山精密工業・河口湖精密の5社を完全子会社化し[17]、グループ統合による多角化体制を整えた。2007年4月には持株会社シチズンホールディングスに移行し[18]、時計・工作機械・電子デバイスという複数事業を抱える体制が形式的に完成した。シチズンは多角化路線の下で次の時代に向けた事業基盤を増設した。
ただし2006年3月期の売上高3359億円・営業利益305億円をピークに業績は頭打ちとなり、2007年3月期には当期純利益が71億円へと半減する急落を経験した。組織だけが複雑化する一方で、収益構造は弱り、電子デバイス事業における技術的な優位性が韓台メーカーの台頭によって失われたという現実が経営の表面に浮かび上がった。シチズン時計本体の時計事業が堅調に推移する一方、多角化によって抱え込んだ電子デバイス事業は構造的な赤字に向かって進むという事業ポートフォリオ全体の歪みが、2007年3月期に経営課題として表面化した。会社の性格そのものが2000年代を通じて変化した時代の空気を、よく映している動きであった。
「選択と集中」とリーマン後の258億円純損失
2007年3月、シチズンは中期経営計画で電子デバイス事業の「選択と集中」を掲げ、携帯電話向けカメラ部品および小型液晶パネル事業からの撤退を決めた[19]。背景には、韓台メーカーとの激しい価格競争によって日本の電子部品が収益性を失ったという産業構造の変化があった。2008年1月には米Bulova Corporationの株式を取得し[20]、北米時計ブランドの補強に動くという戦略転換も並行して実施した。時計事業への資源集中と、電子デバイス事業からの撤退を同時並行で進める判断である。新たな経営課題に向き合いながら事業のあり方を問い直していた苦しい時期にあたり、長期にわたる事業構造の組み替えのなかでも特に象徴的な意味を持つ節目であった。
しかしリーマンショックが重なった2009年3月期は、電子デバイス不採算3事業の撤退に伴う特別損失358億円を計上し[21]、当期純損失258億円という過去最大級の赤字に沈んだ[22]。多角化期の清算の始まりである。2013年3月期にも電子デバイス事業の減損で特別損失257億円、純損失89億円を計上しており[23]、2000年代に広げた電子デバイス事業は2009年・2013年の二度の減損を経て売上規模が5年で4割減った。シチズンが電子デバイスという第二の柱の構築に失敗したという事実は、10年以上の清算期間を経て決算書の上で確認された形である。重ねられた決断が、会社の将来像をかたちづくる重要な布石となった。同社の歴史を語るうえでこの節目の動きは、後の世代にも参照されている。
工作機械事業とスイス高級機械式時計への資本配分
多角化事業が清算されていくなかで、残す事業と伸ばす事業の選別が進んだ。2008年10月に公開買付けで株式会社ミヤノを取得(現シチズンマシナリー)し[24]、工作機械事業を強化する方針を公表した。2012年4月にはスイスのProthor Holding S.A.(Manufacture La Joux-Perret)を取得して高級機械式ムーブメントの自社製造能力を獲得し[25]、2016年7月には同じくスイスの高級機械式時計ブランドFrederique Constantを取得した[26]。低価格帯のムーブメント外販で伸びた会社が、スイス高級機械式時計の製造元を自前で抱えるという、ビジネスモデルの二層化が進んだ。以後の時代の経営課題を先取りする形で、さまざまな布石が打たれていた時期であった。当時の状況のなかで経営陣がどう考え動いたかは、後年の再評価を通じて明らかになっていく。
2016年10月には持株会社体制を解消し、シチズン時計とシチズンビジネスエキスパートを合併して商号をシチズン時計に戻すという組織改革を実施した[27]。持株会社化から9年での事業会社への回帰は[28]、電子デバイス多角化の時代が終わったことを示していた。時計事業と工作機械事業という二つの事業に資本を集中させる方針が、組織構造の面でも正式に確認された形である。シチズンは、2000年代の多角化時代の総括を終え、時計事業を中心とした新たな事業ポートフォリオの再構築段階に入った。次の時代を見据えた事業選別の姿勢が、2010年代後半を通じて少しずつかたちを取りはじめていた。
2016年〜2025年 時計事業への回帰と大治良高体制への移行
スマートウォッチ時代の到来と時計事業の減損
2018年6月に佐藤敏彦氏が社長に就任した前後から[29]、時計産業はスマートウォッチの普及による構造変化を迎えていた。アップルウォッチをはじめとするスマートウォッチは低価格帯の機械式・クオーツ時計市場を浸食し始め、シチズンの中核市場である大衆向け腕時計領域を構造的に圧迫する要因となった。2019年3月期の売上高3216億円・営業利益224億円という水準から、2020年3月期には売上2785億円・営業利益61億円へと減速した。スマートウォッチの普及は時計産業全体の構造を根本から揺るがす外部環境の変化であった。会社全体の意思決定の重心が、2010年代後半を境に時計事業から再構築フェーズへ動き始めた。長く続く会社の歴史を俯瞰すると、この時期は構造的な転換点にあたる。
2020年3月期は時計事業ののれん・在庫等の見直しによって特別損失246億円を計上し、当期純損失167億円を計上した[30]。コロナ禍の前段階において、すでに構造的な減損を吸収しており、スマートウォッチ時代への適応のためのコスト整理が先行して進められていた時期であった。中核事業であった時計事業の帳簿価額を切り下げる作業は、シチズンにとって1976年のムーブメント外販以来の意味を持つ構造調整であった[31]。時計というカテゴリーそのものの市場価値が再定義されていくなかでの対応である。事業の輪郭を組み替えていく判断が連続した時期として、同社の年譜に刻まれている。当時の諸判断は、後の経営の基礎となり続ける重要な意味合いを帯びていた。
コロナ禍による上場後最大級の赤字と翌期の急回復
2021年3月期はコロナ禍が全事業を直撃し、売上高2066億円・営業損失96億円・当期純損失252億円という上場後最大級の赤字を計上した[32]。特に時計事業はセグメント利益▲82億円となり[33]、世界的な店舗閉鎖と旅行需要消失の影響をまともに受けた形である。工作機械・デバイス事業も需要後退で苦戦する状況が続き、シチズンの全事業が同時に収益性を失う状況に追い込まれた。2020年3月期の減損処理があったからこそ、2021年3月期の純損失額は会計的にある程度吸収されていた。当時の経営が先を見据えてどう動いたかは、後年の事業成果として姿を現していく。会社が長い時間をかけて変化を遂げていく流れのひとつの節目となった時期であった。
ただし2022年3月期にはV字回復し、売上高2814億円・営業利益223億円へと業績を戻した[34]。回復の中心は工作機械事業であり、中国のEV・精密加工設備投資を捉えてセグメント売上810億円・利益126億円とコロナ前を上回る水準を達成した[35]。時計事業も1311億円・103億円まで戻し、2020年前後の減損が効いた身軽な財務体質のもとで立ち上がれた格好である。この急回復は、シチズンが2020年3月期に先行して減損処理を進めていたことの経営判断の正しさを示す結果となり、財務的な身軽さが回復場面での柔軟性を生んだと評価できる。同社の経営基盤を支える諸条件が、この時期を通じて組み替えられていった。その動きのなかに、同社が次に向かおうとしていた方向性が色濃く表れている。
BULOVAと高級ブランドが牽引する北米・欧州事業
2024年3月期は売上高3128億円・営業利益251億円、2025年3月期は売上高3169億円・営業利益206億円と高水準を維持した。セグメント別では時計事業が2023年3月期1500億円→2024年3月期1662億円→2025年3月期1771億円と3期連続で伸びている。牽引役は北米と欧州で、『アテッサ』『BULOVA』『Frederique Constant』の3ブランドが主要流通網と自社ECを通じて売り上げを伸ばす状況が続いた。2008年のBulova買収、2012年のLa Joux-Perret取得、2016年のFrederique Constant取得という一連の買収が[36]、10年を経て収益として実を結ぶ段階に入った。長期の経営を支える骨格が整えられていく様子を、はっきりとたどることができる。同社がこの時期に積み重ねた選択の数々は、後年まで高く評価されていく。会社の外形が変わっていく過程のなかで、内側からの変革も進んでいた時期であった。
この時計事業の回復基調を受けて、2025年6月に佐藤敏彦氏は社長を退き、時計事業担当であった大治良高氏が新社長に就任した[37]。佐藤氏は中期経営計画2027の開始にあたり、グループ成長の核となる時計事業の成長戦略をより強力に推し進めることを交代理由として説明した[38]。2000年代の電子デバイス多角化を清算し、時計事業に資本と経営人材を集中的に配置するという再収束のフェーズに入ったことを示す人事である。持株会社解消以降の10年間を経て、時計事業中心の経営体制が名実ともに整った段階に達した。以後の事業展開のあり方を規定する重要な判断が、連続して下されていく時期である。