歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1973年7月、35歳での独立を計画していた27歳の永守重信氏が、列島改造ブームの混乱を好機と捉え7年前倒しで京都市西京区に資本金200万円の日本電産を設立した。自信作の精密小型モータを国内メーカーに売り込んだが「若すぎる、信用がない」と門前払いされ、永守氏は渡米して電話帳で3Mを探し当て、製品を半分の大きさにできると売り込んで5億円の注文を取った。米国での採用実績が国内の信用となり、門前払いした取引先からの受注が続いた。
決断HDD向けスピンドルモータで1989年に世界シェア72.2%、同年の信濃特機買収で約88.7%の独占を握り、その独占収益が次の事業を買う原資となった。だが1995年3月期、売上の約8割を占めたHDD需要が急減して25億円の最終赤字に陥ると、永守氏は「競争相手が1ヶ月でやるなら15日でやる」として自社開発からM&A主軸の多角化へ転じた。工場が汚く収支トントンの企業を規律改善で高収益に変えるやり方を繰り返し、累計60社超で車載・家電・産業機械へ広げた。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1973年〜1990年 精密小型モータの創業とHDD市場独占の時代
創業期の米国経由による信用獲得と営業戦略
1973年7月、27歳の永守重信は京都市西京区で資本金200万円の日本電産を設立した。もともと35歳での独立を計画していたが、列島改造ブームによる経済の混乱を「チャンスの多い時期」と捉え、7年前倒しで起業した。自信作の精密小型モータを国内メーカーに片っ端から売り込んだが「若すぎる、信用がない」(国内メーカー取引担当者、日経ビジネス 1997/11/17)とほぼ全ての訪問先で門前払いとなった。永守は国内営業を見切って渡米し、電話帳で3Mを探し当てて訪ねた。同社製品のモータを半分の大きさにできる、と売り込むと、3Mはサンプル品を発注し、出来上がりを見て「ワンダフル」と繰り返したうえ5億円の注文を出した[4]。海外実績を国内信用の梃子とする営業の型が、創業直後から固まった[1][2][3]。
米国での採用実績が信用として働き、かつて門前払いにあった国内メーカーからも受注が次々と決まった。1974年にはオムロン創業者・立石一真が主宰するベンチャーキャピタルKEDから500万円の出資を得たが、永守にとっては金額そのものより「KEDが出資した」という事実自体が金融機関からの融資を引き出す梃子となった。1975年2月に京都府亀岡市に亀岡工場、1976年4月に米国セントポール市に米国日本電産(現ニデックアメリカ)、1984年2月に米国トリントン市にニデック・トリンコーポレーションを設立し、海外拠点網を早期に整えた。日経ビジネスが「日本の輸出の"軽薄短小"化は確実に進んでいる」(日経ビジネス 1982/8/23)と伝えた通り、モータの小型化・高精度化は日本製造業全体の追い風だった。創業から15年後の1988年11月に京都証券取引所と大阪証券取引所市場第二部へ上場し、資金調達基盤を固めた[5][6][7][8][9]。
HDD用スピンドルモータによる世界独占体制の確立
1979年に8インチ型ハードディスクドライブ向けスピンドルモータの開発に着手し、数年の集中的な開発期間を経て小型精密モータの量産に成功した。1984年10月には滋賀県愛知郡愛知川町(現愛荘町)に滋賀工場(現滋賀技術開発センター)を開設して国内生産の中核拠点を置き、米国のHDDメーカー向け供給体制を整えた。1985年には「日本電産は危ない」という根拠のない噂が業界に流れるなか、永守は大手企業からの引き合いの強さを根拠に45億円を投じて滋賀県に第3工場を新設し、増産に踏み切った。この判断が後のシェア拡大の起点となり、周囲の懐疑的な見方を裏返す結果へつながった。関西の中小メーカーから世界最大級のモータメーカーへの転換の始まりである[10][11]。
1989年時点でHDD向けスピンドルモータの世界シェアは72.2%に達し、2位の信濃特機の16.5%以下を引き離す態勢を築いた。同年3月、永守は経営難に陥っていた信濃特機をティアックから買収し、合併後のシェアは約88.7%へ上昇した。日経産業新聞は「日本電産の市場シェアはほぼ9割に達し、小さな市場の"巨人企業"が誕生する」(日経産業新聞 1989/5/22)と報じ、独占禁止法の審査では「従業員の雇用を維持する」(永守重信、小型ハードディスクに関する市場調査 1990)という永守の確約が認可の決め手となった。HDD向けモータの独占体制が固まり、1990年8月にタイ日本電産、1992年2月に中国大連、10月に台湾、1993年4月にドイツ、10月に香港へと生産・販売拠点の展開が続いた。出荷量はパソコン需要の膨張とともに伸び、この収益基盤が1990年代以降のM&A戦略を支える資金源となった[12][13]。
1991年〜2016年 M&Aによる事業多角化で収益構造を変える時代
HDD依存からの脱却とM&A戦略の確立
1995年3月期に、パソコン需要の一時的な減速でHDD向けモータの受注が急減し、日本電産は25億円の最終赤字に転落した。当時HDD関連は売上全体の約80%を占め、単一市場への集中リスクが顕在化した。永守は同年の新春全国経営者セミナーで「時間をうまく使う以外に勝つ方法はない」「Aという競争相手が1ヶ月でやるなら、わが社は15日でやる」(1995新春全国経営者セミナー)と語り、自社開発では時間がかかりすぎるとしてM&Aを主軸に据えた事業多角化へ方針を変えた。1997年頃にはHDD向け売上比率を全体の3分の1以下へ引き下げる方針を対外的に示した。1998年9月に東京証券取引所市場第一部へ上場し、大阪証券取引所市場第一部へも指定替え、2001年9月にはニューヨーク証券取引所へも上場し、米国での資金調達の道を開いた。買収を続けるための制度的な土台が整った[14][15]。
買収先の選定基準は業界の常識からはずれていた。永守は「工場が汚い、社員の勤務態度が悪い、仕入れコストが高い」(永守重信、日経ビジネス 1997/11/17)の三条件を満たし、かつ収支がトントンの企業を好んで買収対象に選んだ。是正可能な非効率が多い企業ほど、規律改善だけで高収益化が見込めるためである。買収後は従業員を解雇しない契約を労働組合と結んだうえで、工場の清掃徹底・勤務規律の再構築・仕入れ先見直しの三点セットで収益改善を行った。1995年2月に共立マシナリとシンポ工業、1997年3月にトーソク、1998年2月にコパルおよびコパル電子、同年10月に芝浦製作所と東芝との3社共同出資で芝浦電産を設立するなど、年2社超のペースで買収を重ねた[16][17][18][19][20]。
技術変化への対応と海外買収の本格加速
2000年前後、HDD軸受けは従来のボールベアリングから流体動圧軸受(FDB)への技術転換期に入った。1999年6月の日経産業新聞はFDB普及の攻防について、決着のカギを握るのはユーザーである家電・パソコンメーカーや消費者だと伝えた。永守は後年、このままでは会社が潰れるという危機感のもとで当該技術を持つ会社を探し、業績の悪い候補先を買収することで流体動圧軸受の技術革新に乗り、世界シェア首位へ駆け上がった経緯を振り返った。2003年10月に競合の三協精機製作所(現ニデックインスツルメンツ)を買収し、2009年時点でもHDD向けモータの世界シェア70%水準を保った。三協精機の小口雄三は同年7月の打診時に体力があるうちに買収してもらう判断へ転じたと明かした[21][22][23]。
2000年代以降は海外での買収を加速した。2006年12月にフランスのヴァレオ社からモータ&アクチュエータ事業を買収してNidec Motors & Actuatorsを設立し、2007年4月に日本サーボ(現ニデックアドバンスドモータ)に資本参加した。2010年1月にイタリアの家電モータ事業を買収、同年9月に米国エマソンエレクトリックのモータ・コントロール事業を買収して日本電産モータ(現ニデックモータ)を設立した。2012年にイタリアのアンサルドシステミ・インダストリアリや米国のカイネテック・グループなど買収を連発し、2014年3月にホンダエレシスを買収して車載向けの技術基盤を広げた。累計60社を超える買収で、日本電産はHDD向け一本足の事業構造から自動車・家電・産業機器向けを含む総合モータメーカーへ転じた[24][25][26][27][28]。
世界的M&Aによる総合モータメーカーへの変貌
2015年以降は欧州・北米・アジアでの買収を積極化した。2015年2月にドイツのGeräte- und Pumpenbau、5月にイタリアのMotortecnica、7月に中国のChina TexのSRモータ・ドライブ事業、8月にスペインのアリサと米国のKBエレクトロニクスを立て続けに取得した。2016年5月にイタリアのE.C.E社やルーマニアのANA IMEP、12月に米国のCanton Elevator社を買収してエレベータ事業へも進出した。2017年1月にエマソンエレクトリックのモータ・ドライブ事業および発電機事業を追加買収し、同年3月にグループ会社のコーポレートブランドロゴをNidecへ統一するリブランディングに踏み込んだ。統一されたNidecブランドのもとに世界中の買収先を束ねる体制が整った。永守は2006年10月の日経新聞で、2010年は無理でも2014〜2015年には車載用が最大コア事業となり、HDD用モータの日本電産から車載の日本電産へ変質する見通しを明言しており、車載を次の柱に据える姿勢を早くから示していた[29][30][31][32]。
2013年3月期にはデジタル家電需要の一巡と2011年のタイ洪水によるHDDメーカーの供給停滞が重なり、減益を経験した。日本電産の戦略は、M&Aによる事業ポートフォリオの組み替えを絶えず繰り返すことで、特定の市場への依存度を下げる設計だった。2017年10月にサンキョー傘下で東京丸善工業の事業を承継し、日本電産リード株式会社(現ニデックアドバンステクノロジー)がシンガポールのSVプローブを買収するなど、既存の子会社を経由した追加買収も多層的に行った。車載モータ技術者を日本国内だけで集めるのは無理だ、という永守の指摘どおり、買収は技術者の囲い込みを伴うチャネル構築でもあった。永守が掲げた「10年で売上を10倍にする」目標は、こうしたM&Aの積み重ねで現実のものとなりつつあった[33]。
2017年〜2026年 車載・産業用への本格転換と事業承継の時代
車載・家電向け買収とトラクションモータへの参入
2018年2月に京都府相楽郡精華町に生産技術研究所を設立して研究開発機能を強化し、同年4月に米国のジェンマークオートメーションを買収した。2018年5月にフランスのグループPSA社とトラクションモータに関する合弁会社Nidec PSA emotorsを設立し、電動車両向け駆動モータ事業へ本格参入した。2019年7月に米国のワールプール社からコンプレッサ事業のエンブラコを1224億円で買収して家電向けモータ事業を強化し、同年10月にオムロンからオートモーティブエレクトロニクス事業を譲受けて日本電産モビリティを設立し、車載向けの事業基盤を拡充した。永守は車載参入の狙いとして、ビジネスチャネル確保が最大の目的であること、自動車業界はIT業界と異なり技術や製品の品質だけでは取引が始まらず過去の取引実績を要すること、加えて人材確保もM&Aの重要な目的であることを語っていた[34][35][36][37]。
2020年6月にオーストリアのセコップ社からデルタ型コンプレッサー事業を取得し、2021年1月にセルビアにニデックエレクトリックモータ・セルビアおよびNidec Elesys Europeを設立するなど、欧州での現地生産網を強化した。2021年8月に三菱重工工作機械を譲受けて日本電産マシンツール(現ニデックマシンツール)を設立し、同年から2022年にかけてOKK(現ニデックオーケーケー)へ資本参加し工作機械分野へ本格参入した。2022年12月にノルウェーのFREYR BATTERY社と合弁でNidec Energyを設立し、2023年6月にブラジルの航空機メーカー・エンブラエル社と合弁でNidec Aerospaceを設立するなど、エネルギー貯蔵と航空宇宙の分野にも事業領域を広げた。モータを軸に垂直・水平の両方向で事業領域を伸ばし続けた[38][39][40][41]。
後継者問題の枠組みと事業承継の進行
永守重信は創業以来50年にわたって日本電産の経営の中心に居続け、企業文化と意思決定は永守個人と不可分に結びついた。過去には複数の外部招聘社長を登用したが、いずれも永守との関係のなかで短期間で退任となり、後継者問題は市場から繰り返し指摘される経営上の最大の懸念材料であった。2023年4月、日本電産㈱からニデック㈱へ商号変更し、国内連結子会社もニデックを冠した商号へ一斉に切り替えた。同年11月にはTAKISAWAを公開買付けで買収するなど、商号変更後もM&Aの攻勢は止まなかった。2023年には副社長複数名体制を敷き、銀行出身者・技術責任者・元ソニー出身者・子会社社長など出自の異なる候補による競争を通じた後継者選定の枠組みが固まった[42][43][44]。
2024年2月に元ソニー出身の岸田光哉が代表取締役社長に就任し、永守は代表取締役グローバルグループ代表として経営に残る併存体制が発足した[45]。創業者が代表権を維持したまま後継の社長を置く設計で、権限移譲を進めつつ企業文化の連続性も担保となった。2024年3月期の連結売上高は2兆3471億円に達し、営業利益は2400億円規模を計上した。精密小型モータの零細企業から半世紀で売上2兆円超の総合モータメーカーへ転じ、自動車・家電・産業機械・機器装置・電子光学部品の広範な事業領域を束ねる会社となった。2024年10月にはカナダのLinear Transfer Automationおよび関連会社2社を追加買収するなど、ニデックとしての成長路線は社名変更後も続いている[46]。