永守重信(当時27歳)は勤務していた山科精機(モーター製造会社)を退職し、日本電産を設立して起業家に転身した。本社は出身地である京都に設置し、オムロンの創業者が主宰するベンチャーキャピタル「京都エンタープライズでベロプメント(KED)」からの出資を受けた。なお、永守重信氏の母は企業に反対したが、「人の倍働けるなら成功する」と言って最後は後押ししたという。

永守重信(当時27歳)は勤務していた山科精機(モーター製造会社)を退職し、日本電産を設立して起業家に転身した。本社は出身地である京都に設置し、オムロンの創業者が主宰するベンチャーキャピタル「京都エンタープライズでベロプメント(KED)」からの出資を受けた。なお、永守重信氏の母は企業に反対したが、「人の倍働けるなら成功する」と言って最後は後押ししたという。
米国の大企業であるスリーエムから、ビデオテープのダンピング機械に使用する小型モーターの受注に成功。スリーエムは日本電産がベンチャー企業である事を気にせず、性能と価格の良さでモーターの発注を決めた。
コンピューターの記憶装置であるハードディスク向けのモーター(8インチ型HDD向けスピンドルモータ)の開発を開始した。だが、極めて高い精度が要求されたため、数年間の開発期間を経て、小型精密モーターの開発に成功する。以後、ハードディスク向けの小型モーターは、日本電産の主力製品の一つに育った。
1985年に経済不況に陥り「日本電産は危ない」という噂が流れた。だが、永守重信は顧客である大企業からのモーターの引き合いが強いことを根拠として増産を決定。日本電産はハードディスク向けモーターを大量生産するために、45億円を投資して滋賀県に第3工場を新設した。
1988年3月期に日本電産は売上高258億円、経常利益26億円の高業績を達成し、大阪証券取引所に株式を上場を果たす。創業者の永守重信は日本電産の株式上場によって、時価250億円の資産家になるとともに株式売却益40億円を獲得した。これにより、永守重信は、抵当に入れた家、10億円の借金(増資のたびに借金により株を購入)、というリスクを負った生活と決別する。
1980年代を通じてハードディスク向けモータでは、日本電産がトップシェア60%、信濃特機がシェア30%となり、日本電産の優位が確定しつつあった。なお、両者は1980年代を通じてシェアを争っていたが、信濃精機は商社経由の販売により顧客対応が遅れた一方、日本電産は迅速な顧客対応によってシェア争いに勝利した。そこで、日本電産は国内シェアを確保するために、信濃特機の資本参加を決めた。だが、シェア90%のために独占禁止法に抵触する恐れがあったが、日本電産は信濃特機(長野県)の雇用を守るることを約束し、買収が認められたという経緯がある。
HDD向けスピンドルモーターの世界シェア80%を確保
1990年代を通じてハードディスクがコンピューターの記憶装置として定着すると、大容量かのニーズが顕著となった。このため、HDD向けモーターはさらなる高精度が要求されるようになり、従来のボールベアリング方式ではなく、流体動圧による技術方式が注目されるようになった。だが、日本電産の技術はモーターの組み立てが中心であり、流体動圧軸受に必要な部品加工技術がなかったため、企業買収による加工技術の確保を急いだ。1995年にシンポ工業と共立マシナリ、1997年にトーソクとリードエレクトロニクスと京利工業、1998年にコパルと子パル電子と芝浦電産、1999年にネミコンに資本参加し、流体動圧軸受の開発に必要な精密加工の技術を取り込んだ。
流体動圧軸受けモーターの競合であった三協精機を買収し、海外生産拠点と国内の開発拠点を強化
2002年ごろから流体動圧軸受によるHDDが普及し始め、すでに加工技術を習得していた日本電産は増産で対応。この結果、ベアリングから流体動圧という技術変化にも対応することに成功し、引き続きHDD向けの小型精密モーターで世界シェア70%(2009年時点)を確保し続けた。