任天堂の歴史は明治時代に花札の製造を行うために山内任天堂が創業されたことに始まる。創業者である山内房治郎は、明治時代に京都の鴨川付近に本社工場を構えて花札の製造を開始した。

任天堂の歴史は明治時代に花札の製造を行うために山内任天堂が創業されたことに始まる。創業者である山内房治郎は、明治時代に京都の鴨川付近に本社工場を構えて花札の製造を開始した。
山内任天堂の主力製品は花札であったが、明治時代後期から大正時代における日本は物流網が貧弱であり、自前で販売網を構築することが困難であった。
そこで、山内房治郎は「花札」の顧客と客層が同じ「たばこ」に着目し、当時日本有数の民間たばこ会社(現在のJT)の村井兄弟商会と手を結ぶことで花札の販路拡大に成功した。
1949年時点の山内任天堂は二代目の山内積良が経営を担っていたが突如として急逝。終戦直後の混乱期という時代も重なり、任天堂は存亡の危機を迎える。
このため、積良の孫であり早稲田大学の学生であった山内溥(当時22歳)が突如として後継者となり、山内任天堂の経営を担う。なお、山内溥の父親は経営者としての素質がなく遊び人であったことから、後継者とはならなかった。
以後、山内溥は2002年に社長を退任するまで、任天堂の経営をトップダウンで運営した。
創業時代からの主力である「花札」と決別するために、山内溥は西洋の遊び道具であるトランプに着目。加えて当時最先端の素材であったプラスチックによりトランプを製造することで、業容の拡大を試みた。
労働組合は、山内溥氏を未熟な経営者と考えてストライキを実行。経営陣と社員が深刻な対立へ
山内溥氏は任天堂を「花札・かるた」の会社から「トランプ」の会社へと順調に変貌させつつあり、1956年に渡米視察した。だが、そこで全米シェアトップのトランプ会社の工場を訪問して「こんなものか・・・」という感想を抱き、任天堂をトランプに限らない会社に発展させることを心に決める。
以後、任天堂は山内溥社長のトップダウンによってトランプの利益を原資として、経営の多角化を推進する。
山内溥氏はディズニー社との交渉を経て、ディズニートランプへの使用許諾を獲得。発売と同時にテレビCMなど、積極的な広告宣伝を実施
経営の多角化を開始。タクシー事業に参入
任天堂と近江絹糸の合弁で食品会社を設立。ディズニーキャラクターのふりかけや、インスタントラーメン、カレーなどを手掛けた
1950年代を通じて山地溥は日本的な「かるた・花札」ではなく、西洋の「トランプ」に注力することで任天堂を発展させた。特に、ディズニーと提携して「ディズニートランプ」をテレビCMを打つことで販売を拡大し、任天堂は国内トランプ業界のトップメーカーへと変貌を遂げた。
この結果、1962年に任天堂は株式上場を果たす。ただし、このころの任天堂は京都の中堅企業に過ぎず「京都のちっぽけなトランプ屋」と揶揄される存在であった。
商号から「骨牌(=かるた)」を取り去って、経営の多角化を志向
1965年には技術者として横井軍平氏が入社(その後の任天堂の新製品開発の中心人物)
1960年代を通じて任天堂は脱トランプを志向してインスタント食品など、本業以外の分野に積極投資をしたが販売は芳しくなかった。
この結果、大量の在庫を積み上げる形となり、1965年に日本経済を襲った一時的な不況も相まって、任天堂は過大な在庫を抱えて倒産の危機に陥る。
この時、任天堂を支援したのが、同社の大株主(当時10.0%保有)の京都銀行・栗林四郎(のちの京都銀行頭取)である。ちなみに、1962年の任天堂の有価証券報告書を調査した結果、京都銀行による任天堂への株式投資の実施(10.0%取得)は上場前後(1962年ごろ)と推察される。
エレクトロニクスを用いた本格的なおもちゃ。以後、コンピュータとおもちゃの融合を目指す
TVCMの放映によって一時的にヒット。ただし持続せず
多角化事業の整理へ。名鉄グループに株式譲渡
多角化を再始動。簡易コピー機の開発を開始
主力製品として育たず
1970年代を通じて任天堂は屋外ゲーム機市場に参入し、当時最先端のエレクトロニクスを活用したおもちゃ「レーザー銃」の大量生産に乗り出した。
だが、オイルショック後の不況により販売が低迷し、1975年2月期(半期実績)の売上高42億円に対して、売上債権31億円および棚卸し資産20億円を抱え込み、またしても在庫の倒産の危機に陥る。
この時も、任天堂を経営危機から救ったのが大株主の京都銀行であった。京都銀行は任天堂が新しい分野にチャレンジすることを高く評価し、メインバンクとして緊急融資を決断した。(なお、京都銀行は今日に至るまで任天堂の大株主として莫大な含み益を獲得している)
社会現象になっていた業務用ゲーム機「スペースインベーダ」に触発され、任天堂もアーケードゲームに参入
アーケードゲームを拡大するために、人気キャラクター「ポパイ」の版権取得を目論むが失敗。これが1985年に任天堂が「マリオ」という独自キャラクターを生む原動力となった
山内溥氏は当時高性能化が進みつつあったマイクロプロセッサーに着目。コンピュータを携帯ゲームに応用した「ゲームウォッチ」を発売。ヒットを記録した
入社2年目の宮本茂氏は、独自キャラクタ「ドンキーコング」を創造。北米向けに業務用ゲーム機として展開してヒット。模倣品に対して法的手段で対抗したため、現在の任天堂における法務部門の強さにつながった
国内ではゲームウォッチ、北米ではドンキーコングのヒットによって業容を拡大。東証1部に株式上場した。
1980年代を通じてテレビゲーム市場が急拡大し、任天堂もこの分野への参入を決断。同業他社を圧倒するために、ファミリーコンピューターを発売前に100万台製造することで、ハードウェア(特にゲーム機の心臓部である半導体(MPU)・製造はリコー池田工場が担当)のコストダウンによって市場を切り開くことに賭けた。
売れ行きが全く予想できない新製品の100万台発注という前代未聞の決断は、バンダイなどの同業他社の度肝を抜かせて「任天堂コンプレックス」を抱かせ、テレビゲーム機市場からライバルを撤退させることに繋がった。
任天堂の100万台発注について、バンダイの山科誠社長は1995年に「でも、当時、市場はなかったんですよ。数万台しか売れていなかった。その時に100万のロットで部品を注文するというのは、僕にはとても・・・。ギャンブラーにはかなわない、僕は降りようと思いました。だから、負けたとか、屈辱感とかはないですよ」(1995/10/09日経ビジネス)と吐露している。
100万台の発注によって15,000円という低価格を実現したファミリーコンピューターは日本の子供達にすぐに受け入れられ、社会現象を巻き起こした。ファミコン発売前の任天堂の売上高は1981年時点で239億円(純利益率6.8%)に過ぎなかったが、ファミコン発売後の1989年には売上高2912億円(純利益率11.8%)という驚異的な水準を叩き出した。
アーケードゲームから撤退。事業責任者の駒井徳造氏は、同業のセガに転職
1990年代にソニーがプレーステーションを発売したのに対抗し、任天堂も64bitのテレビゲーム機「Nintendo64」を発売。この頃から任天堂とソニーの2社での激しい競争が火蓋を切った。
1949年から任天堂の社長を歴任した山内溥氏は、高齢であることを受けて社長を退任した。後任には叩き上げの岩田聡氏を指名し、任天堂は3代にわたって続いた同族経営に終止符を打った。
ソニーは高性能なグラフィックチップ(GPU)を搭載したプレーステーションによってゲーム市場を拡大する中、任天堂は「家族で楽しめる」という方針に則り「テレビゲーム機Wii」を発売した。ファミリー層に受け入れられ、任天堂の業績回復に大きく寄与した。
Wiiによって任天堂を増収増益に導いた岩田聡は2015年にガンにより逝去。スマホによるゲーム市場が急拡大する中で、テレビゲーム市場を主戦場とする任天堂は求心力のある社長を失うという非常事態に陥る。
2017年に任天堂はファミリー層でも楽しめるテレビゲーム機「Nintendo Switch」を発売。インターネットによるコンテンツの販売や、Youtubeによる配信動画の許容などのマーケティングによりヒット商品に育ち、任天堂の増収増益に大きく寄与した。
バリューアクト・キャピタル・マネジメントは、任天堂の株式11億ドル相当の保有を公表した。バリューアクトは、任天堂をデジタル企業として将来性評価するとともに、任天堂に対してガバナンスの改善や、外国人取締役の起用を促したと推察される
映像制作を強化