1977〜2022
売上高: 億円
■単体 | ■連結
16953億円
2022.3 | 売上高
売上高_当期純利益率: %
○単体 | ○連結
4776億円
2022.3 | 当期純利益
1889
創業

山内任天堂を創業し、花札の製造を開始

任天堂の歴史は明治時代に花札の製造を行うために山内任天堂が創業されたことに始まる。創業者である山内房治郎は、明治時代に京都の鴨川付近に本社工場を構えて花札の製造を開始した。

1900

たばこ販路を活用して花札を販売

山内任天堂の主力製品は花札であったが、明治時代後期から大正時代における日本は物流網が貧弱であり、自前で販売網を構築することが困難であった。

そこで、山内房治郎は「花札」の顧客と客層が同じ「たばこ」に着目し、当時日本有数の民間たばこ会社(現在のJT)の村井兄弟商会と手を結ぶことで花札の販路拡大に成功した。

1902

トランプの製造を開始

1933

本店を新築

1933
会社設立

合名会社山内任天堂を設立(現在の任天堂)

1947
会社設立

株式会社丸福を設立

1949
創業

創業者が急逝。孫の山内溥氏(当時22歳)が社長就任

1949年時点の山内任天堂は二代目の山内積良が経営を担っていたが突如として急逝。終戦直後の混乱期という時代も重なり、任天堂は存亡の危機を迎える。

このため、積良の孫であり早稲田大学の学生であった山内溥(当時22歳)が突如として後継者となり、山内任天堂の経営を担う。なお、山内溥の父親は経営者としての素質がなく遊び人であったことから、後継者とはならなかった。

以後、山内溥は2002年に社長を退任するまで、任天堂の経営をトップダウンで運営した。

1951
商号変更

任天堂骨牌株式会社に商号変更

1952

製造拠点を京都市東山区福稲上高松町に集約

1953

国産初のプラスチック製トランプを発売

創業時代からの主力である「花札」と決別するために、山内溥は西洋の遊び道具であるトランプに着目。加えて当時最先端の素材であったプラスチックによりトランプを製造することで、業容の拡大を試みた。

1955

労働組合と衝突

労働組合は、山内溥氏を未熟な経営者と考えてストライキを実行。経営陣と社員が深刻な対立へ

1956

米国視察を通じて「脱トランプ」を決意

山内溥氏は任天堂を「花札・かるた」の会社から「トランプ」の会社へと順調に変貌させつつあり、1956年に渡米視察した。だが、そこで全米シェアトップのトランプ会社の工場を訪問して「こんなものか・・・」という感想を抱き、任天堂をトランプに限らない会社に発展させることを心に決める。

以後、任天堂は山内溥社長のトップダウンによってトランプの利益を原資として、経営の多角化を推進する。

1959

ディスニートランプを発売

山内溥氏はディズニー社との交渉を経て、ディズニートランプへの使用許諾を獲得。発売と同時にテレビCMなど、積極的な広告宣伝を実施

1960
会社設立

ダイヤ交通株式会社を設立

経営の多角化を開始。タクシー事業に参入

1960
会社設立

三旺食品株式会社を設立

任天堂と近江絹糸の合弁で食品会社を設立。ディズニーキャラクターのふりかけや、インスタントラーメン、カレーなどを手掛けた

1961

東京支店を新設

1962
株式上場

大阪証券取引所第2部に株式上場

1950年代を通じて山地溥は日本的な「かるた・花札」ではなく、西洋の「トランプ」に注力することで任天堂を発展させた。特に、ディズニーと提携して「ディズニートランプ」をテレビCMを打つことで販売を拡大し、任天堂は国内トランプ業界のトップメーカーへと変貌を遂げた。

この結果、1962年に任天堂は株式上場を果たす。ただし、このころの任天堂は京都の中堅企業に過ぎず「京都のちっぽけなトランプ屋」と揶揄される存在であった。

まとめ
祖業は花札の製造。その後、かるた・トランプへの主力事業を転換
1849〜1962
売上不明
■単体 | ■連結
利益率不明
○単体 | ○連結
1963
商号変更

任天堂株式会社に商号変更

商号から「骨牌(=かるた)」を取り去って、経営の多角化を志向

1963

大卒採用を開始

1965年には技術者として横井軍平氏が入社(その後の任天堂の新製品開発の中心人物)

1965
業績低迷

トランプの需要一巡と多角事業の不振。1度目の倒産危機へ

1960年代を通じて任天堂は脱トランプを志向してインスタント食品など、本業以外の分野に積極投資をしたが販売は芳しくなかった。

この結果、大量の在庫を積み上げる形となり、1965年に日本経済を襲った一時的な不況も相まって、任天堂は過大な在庫を抱えて倒産の危機に陥る。

この時、任天堂を支援したのが、同社の大株主(当時10.0%保有)の京都銀行・栗林四郎(のちの京都銀行頭取)である。ちなみに、1962年の任天堂の有価証券報告書を調査した結果、京都銀行による任天堂への株式投資の実施(10.0%取得)は上場前後(1962年ごろ)と推察される。

1966

おもちゃ「ウルトラバハンド」を発売

1966

「光線銃SP」を発売

エレクトロニクスを用いた本格的なおもちゃ。以後、コンピュータとおもちゃの融合を目指す

1968

家庭用ピッチングマシン「ウルトラマシン」の発売

TVCMの放映によって一時的にヒット。ただし持続せず

1969

ダイヤ交通株式会社を譲渡

多角化事業の整理へ。名鉄グループに株式譲渡

1970
株式上場

大阪証券取引所第1部に株式上場

1971

事務機事業部を設置

多角化を再始動。簡易コピー機の開発を開始

1972

事務機「コピラス」を発売

主力製品として育たず

1973

レーザークレー射撃システムを開発

1975

売上高42億円に対して在庫20億円。2度目の経営危機へ

1970年代を通じて任天堂は屋外ゲーム機市場に参入し、当時最先端のエレクトロニクスを活用したおもちゃ「レーザー銃」の大量生産に乗り出した。

だが、オイルショック後の不況により販売が低迷し、1975年2月期(半期実績)の売上高42億円に対して、売上債権31億円および棚卸し資産20億円を抱え込み、またしても在庫の倒産の危機に陥る。

この時も、任天堂を経営危機から救ったのが大株主の京都銀行であった。京都銀行は任天堂が新しい分野にチャレンジすることを高く評価し、メインバンクとして緊急融資を決断した。(なお、京都銀行は今日に至るまで任天堂の大株主として莫大な含み益を獲得している)

1977

「テレビゲーム15」「テレビゲーム6」を発売

1978

アーケードゲームに進出

社会現象になっていた業務用ゲーム機「スペースインベーダ」に触発され、任天堂もアーケードゲームに参入

1978
事業損失

ポパイの版権取得に失敗

アーケードゲームを拡大するために、人気キャラクター「ポパイ」の版権取得を目論むが失敗。これが1985年に任天堂が「マリオ」という独自キャラクターを生む原動力となった

1980
会社設立

Nintendo of America Inc.を設立(ニューヨーク州)

1980

携帯ゲーム機「ゲームウォッチ」を発売

山内溥氏は当時高性能化が進みつつあったマイクロプロセッサーに着目。コンピュータを携帯ゲームに応用した「ゲームウォッチ」を発売。ヒットを記録した

1981

業務用ゲーム機「ドンキーコング」を発売

入社2年目の宮本茂氏は、独自キャラクタ「ドンキーコング」を創造。北米向けに業務用ゲーム機として展開してヒット。模倣品に対して法的手段で対抗したため、現在の任天堂における法務部門の強さにつながった

1982
会社設立

Nintendo of America Inc.を設立(ワシントン州)

まとめ
タクシーや加工食品などの多角事業が失敗。経営危機へ
1963〜1982
売上高: 億円
■単体 | ■連結
575億円
1982.8 | 売上高
売上高_当期純利益率: %
○単体 | ○連結
77.6億円
1982.8 | 当期純利益
1983
株式上場

東京証券取引所第1部に株式上場

国内ではゲームウォッチ、北米ではドンキーコングのヒットによって業容を拡大。東証1部に株式上場した。

1983

家庭用TVゲーム機「ファミリーコンピュータ」を発売

1980年代を通じてテレビゲーム市場が急拡大し、任天堂もこの分野への参入を決断。同業他社を圧倒するために、ファミリーコンピューターを発売前に100万台製造することで、ハードウェア(特にゲーム機の心臓部である半導体(MPU)・製造はリコー池田工場が担当)のコストダウンによって市場を切り開くことに賭けた。

売れ行きが全く予想できない新製品の100万台発注という前代未聞の決断は、バンダイなどの同業他社の度肝を抜かせて「任天堂コンプレックス」を抱かせ、テレビゲーム機市場からライバルを撤退させることに繋がった。

任天堂の100万台発注について、バンダイの山科誠社長は1995年に「でも、当時、市場はなかったんですよ。数万台しか売れていなかった。その時に100万のロットで部品を注文するというのは、僕にはとても・・・。ギャンブラーにはかなわない、僕は降りようと思いました。だから、負けたとか、屈辱感とかはないですよ」(1995/10/09日経ビジネス)と吐露している。

1983

宇治工場を新設

1984

ファミコンが社会現象へ

100万台の発注によって15,000円という低価格を実現したファミリーコンピューターは日本の子供達にすぐに受け入れられ、社会現象を巻き起こした。ファミコン発売前の任天堂の売上高は1981年時点で239億円(純利益率6.8%)に過ぎなかったが、ファミコン発売後の1989年には売上高2912億円(純利益率11.8%)という驚異的な水準を叩き出した。

1985

ファミコン向け「スーパーマリオブラザーズ」を発売

1987

任天堂レジャーシステム株式会社を解散

アーケードゲームから撤退。事業責任者の駒井徳造氏は、同業のセガに転職

1989

携帯ゲーム機「ゲームボーイ」を発売

1990

家庭用TVゲーム機「スーパーファミコン」を発売

1990
会社設立

Nintendo of Europe GmbH.を設立(ドイツ)

1993
会社設立

Nintendo France S.A.R.L.を設立(フランス)

1996

テレビゲーム機NINTENDO64を発売

1990年代にソニーがプレーステーションを発売したのに対抗し、任天堂も64bitのテレビゲーム機「Nintendo64」を発売。この頃から任天堂とソニーの2社での激しい競争が火蓋を切った。

1997
業績好調

ポケモンのヒットでゲームボーイの売上好調

2000

本社を京都市南区上鳥羽鉾立町11-1に移転

2001

家庭用TVゲーム機「ゲームキューブ」を発売

2001

携帯ゲーム機「ゲームボーイアドバンス」を発売

まとめ
山内溥氏がファミコンに巨額投資を決断。グローバル企業に発展
1983〜2001
売上高: 億円
■単体 | ■連結
4625億円
2001.3 | 売上高
売上高_当期純利益率: %
○単体 | ○連結
966億円
2001.3 | 当期純利益
2002

山内溥氏が社長退任

1949年から任天堂の社長を歴任した山内溥氏は、高齢であることを受けて社長を退任した。後任には叩き上げの岩田聡氏を指名し、任天堂は3代にわたって続いた同族経営に終止符を打った。

2002

岩田聡が任天堂社長に就任

2006

家庭用TVゲーム機「Wii」を発売

ソニーは高性能なグラフィックチップ(GPU)を搭載したプレーステーションによってゲーム市場を拡大する中、任天堂は「家族で楽しめる」という方針に則り「テレビゲーム機Wii」を発売した。ファミリー層に受け入れられ、任天堂の業績回復に大きく寄与した。

2008

携帯ゲーム機「ニンテンドーDSi」を発売

2011

携帯ゲーム機「ニンテンドー3DS」を発売

2012

家庭用TVゲーム機「Wii U」を発売

2015

DeNAと業務資本提携を締結

2015

岩田聡氏(55歳)が急逝

Wiiによって任天堂を増収増益に導いた岩田聡は2015年にガンにより逝去。スマホによるゲーム市場が急拡大する中で、テレビゲーム市場を主戦場とする任天堂は求心力のある社長を失うという非常事態に陥る。

2016

監査委員会設置会社に移行。執行役員制度を導入

2017

併用型ゲーム機「Nintendo Switch」を発売

2017年に任天堂はファミリー層でも楽しめるテレビゲーム機「Nintendo Switch」を発売。インターネットによるコンテンツの販売や、Youtubeによる配信動画の許容などのマーケティングによりヒット商品に育ち、任天堂の増収増益に大きく寄与した。

2017
会社設立

任天堂販売株式会社を設立

2018

古川俊太郎氏が社長就任

2018

オンラインサービス「Nintendo Switch Online」を開始

2020

バリューアクトの株式保有が判明

バリューアクト・キャピタル・マネジメントは、任天堂の株式11億ドル相当の保有を公表した。バリューアクトは、任天堂をデジタル企業として将来性評価するとともに、任天堂に対してガバナンスの改善や、外国人取締役の起用を促したと推察される

2020

指名等諮問委員会を設置

2020

「あつまれ どうぶつの森」を発売

2021

有機ELモデルの「Nintendo Switch」を発売

2022

ダイナモピクチャーズを買収

映像制作を強化

まとめ
娯楽に原点回帰。家庭用ゲームで業績持続
2002〜2023
売上高: 億円
■単体 | ■連結
売上高_当期純利益率: %
○単体 | ○連結