山内房治郎氏が1889年に花札の製造を行うために、京都市内の鴨川近く(五条楽園)にて「任天堂骨牌」を創業した。任天堂としての創業は1889年だが、4年先立つ1885年に山内房治郎氏は「任天堂骨牌」の他に「灰孝本店」というセメント販売業(問屋)を創業していた。つまり、山内家としては「セメント販売業」と「花札製造業」の2つの事業展開を行ったのが、任天堂の創業経緯である。
セメント販売業の事業は好調であり、1918年に小野田セメントと契約を締結。京都市内のコンクリート建築が増加する追い風によって事業を拡大した。
花札製造業についても、国内トップのタバコ会社だった村井兄弟商会と取引を行うことで業容を拡大。花札とタバコの顧客の親和性が高いことが功を奏した。1902年には「かるた」の製造に参入することで、娯楽メーカーとしての道を鮮明にした。
1927年に山内家は事業継承のために「任天堂骨牌」と「灰孝本店」の分離を決定。山内家は女性家系であったため、長女の「山内君(夫は山内積良)」に対しては任天堂骨牌、次女の「山内孝」に対しては灰孝本店を継承した。これによって、花札製造業とセメント販売業は分離され、任天堂は「娯楽専業」のビジネスを担う形となった。
1933年に山内家は花札の製造販売を行う合名会社「山内任天堂」を発足した。その後、終戦後の1947年11月20日に株式会社丸福(現在の任天堂)を新しく株式会社として設立し、合名会社山内任天堂から販売部門を継承。1950年に同じく製造部門を継承することで、任天堂の事業主体は「合名会社山内任天堂」から「株式会社丸福(現任天堂)」に移った。その後、丸福は1951年に商号を「任天堂骨牌」、1963年に同じく商号を「任天堂」に変更し、現在に至る。このため、任天堂の会社設立は、1947年の丸福の設立年が該当する。
なお、1933年に発足した合名会社山内任天堂は「販売製造部門を譲渡」したことによって、その後も山内家の資産管理会社として運営された。このため、任天堂(旧丸副)の株式上場時点において、最大の大株主は合名会社山内任天堂である(ややこしいが自己株式の保有による大株主ではない)。
1949年に山内積良(任天堂・取締役社長)が66歳で急逝。婿養子の山内鹿之丞氏は、浪費癖が強い問題人物であったため、任天堂の継承者として相応しくなかった。
このため、積良の孫であり早稲田大学の学生であった山内溥(当時22歳)が突如として後継者となり、山内任天堂の経営を担うことになった。以後、山内溥は2002年に社長を退任するまで、任天堂の経営をトップダウンで運営した。
日本経済の一時的な不況を受けて需要が低迷。シェアは確保していたが工場稼働率が低迷。新規事業も足かせとなり、既存事業と新規事業の両方で課題を抱える「八方塞がり」へ
国内ではゲームウォッチ、北米ではドンキーコングのヒットによって業容を拡大。東証1部に株式上場した。
アーケードゲームから撤退。事業責任者の駒井徳造氏は、同業のセガに転職
1990年代にソニーがプレーステーションを発売したのに対抗し、任天堂も64bitのテレビゲーム機「Nintendo64」を発売。この頃から任天堂とソニーの2社での激しい競争が火蓋を切った。
1949年から任天堂の社長を歴任した山内溥氏は、高齢であることを受けて社長を退任した。後任には叩き上げの岩田聡氏を指名し、任天堂は3代にわたって続いた同族経営に終止符を打った。
ソニーは高性能なグラフィックチップ(GPU)を搭載したプレーステーションによってゲーム市場を拡大する中、任天堂は「家族で楽しめる」という方針に則り「テレビゲーム機Wii」を発売した。ファミリー層に受け入れられ、任天堂の業績回復に大きく寄与した。
Wiiによって任天堂を増収増益に導いた岩田聡は2015年にガンにより逝去。スマホによるゲーム市場が急拡大する中で、テレビゲーム市場を主戦場とする任天堂は求心力のある社長を失うという非常事態に陥る。
2017年に任天堂はファミリー層でも楽しめるテレビゲーム機「Nintendo Switch」を発売。インターネットによるコンテンツの販売や、Youtubeによる配信動画の許容などのマーケティングによりヒット商品に育ち、任天堂の増収増益に大きく寄与した。