任天堂の歴史

1983年のファミコンの発売で飛躍的な発展を遂げた。創業地である京都のトランプ屋から、グローバルなゲーム企業に変貌

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Author: @yusugiura
1849〜1983 - 創業経緯
祖業は花札の製造。その後、かるた・トランプへの主力事業を転換
1889
個人創業
山内任天堂を創業し、花札の製造を開始
任天堂の歴史は明治時代に花札の製造を行うために山内任天堂が創業されたことに始まる。創業者である山内房治郎は、明治時代に京都の鴨川付近に本社工場を構えて花札の製造を開始した。
1900
販売政策
たばこ販路を活用して花札を販売
山内任天堂の主力製品は花札であったが、明治時代後期から大正時代における日本は物流網が貧弱であり、自前で販売網を構築することが困難であった。 そこで、山内房治郎は「花札」の顧客と客層が同じ「たばこ」に着目し、当時日本有数の民間たばこ会社(現在のJT)の村井兄弟商会と手を結ぶことで花札の販路拡大に成功した。
1902
新規参入
トランプの製造を開始
1933
本社
本店を新築
1933
会社設立
合名会社山内任天堂を設立(現在の任天堂)
1947
会社設立
株式会社丸福を設立
1949
社長交代
創業者が急逝。孫の山内溥氏(当時22歳)が社長就任
1949年時点の山内任天堂は二代目の山内積良が経営を担っていたが突如として急逝。終戦直後の混乱期という時代も重なり、任天堂は存亡の危機を迎える。 このため、積良の孫であ...
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1951
商号変更
任天堂骨牌株式会社に商号変更
1952
設備投資
製造拠点を京都市東山区福稲上高松町に集約
1953
技術開発
国産初のプラスチック製トランプを発売
創業時代からの主力である「花札」と決別するために、山内溥は西洋の遊び道具であるトランプに着目。加えて当時最先端の素材であったプラスチックによりトランプを製造することで、業容の拡大を試みた。
1955
労働政策
労働組合と衝突
労働組合は、山内溥氏を未熟な経営者と考えてストライキを実行。経営陣と社員が深刻な対立へ
1956
米国視察を通じて「脱トランプ」を決意
山内溥氏は任天堂を「花札・かるた」の会社から「トランプ」の会社へと順調に変貌させつつあり、1956年に渡米視察した。だが、そこで全米シェアトップのトランプ会社の工場を訪...
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1959
新製品
ディスニートランプを発売
山内溥氏はディズニー社との交渉を経て、ディズニートランプへの使用許諾を獲得。発売と同時にテレビCMなど、積極的な広告宣伝を実施
1960
新規事業
ダイヤ交通株式会社を設立
経営の多角化を開始。タクシー事業に参入
1960
新規事業
三旺食品株式会社を設立
任天堂と近江絹糸の合弁で食品会社を設立。ディズニーキャラクターのふりかけや、インスタントラーメン、カレーなどを手掛けた
1961
販売政策
東京支店を新設
1962
株式上場
大阪証券取引所第2部に株式上場
1950年代を通じて山地溥は日本的な「かるた・花札」ではなく、西洋の「トランプ」に注力することで任天堂を発展させた。特に、ディズニーと提携して「ディズニートランプ」をテ...
詳細なレポートを読む ( 207文字)
1963〜1983 - 経営危機
タクシーや加工食品などの多角事業が失敗。経営危機へ
1963
商号変更
任天堂株式会社に商号変更
商号から「骨牌(=かるた)」を取り去って、経営の多角化を志向
1963
労働政策
大卒採用を開始
1965年には技術者として横井軍平氏が入社(その後の任天堂の新製品開発の中心人物)
1965
経営危機
トランプの需要一巡と多角事業の不振。1度目の倒産危機へ
1960年代を通じて任天堂は脱トランプを志向してインスタント食品など、本業以外の分野に積極投資をしたが販売は芳しくなかった。 この結果、大量の在庫を積み上げる形となり、...
詳細なレポートを読む ( 269文字)
1966
新製品
おもちゃ「ウルトラバハンド」を発売
1968
新製品
家庭用ピッチングマシン「ウルトラマシン」の発売
TVCMの放映によって一時的にヒット。ただし持続せず
1969
事業撤退
ダイヤ交通株式会社を譲渡
多角化事業の整理へ。名鉄グループに株式譲渡
1970
株式上場
大阪証券取引所第1部に株式上場
1966
新製品
「光線銃SP」を発売
エレクトロニクスを用いた本格的なおもちゃ。以後、コンピュータとおもちゃの融合を目指す
1971
新規事業
事務機事業部を設置
多角化を再始動。簡易コピー機の開発を開始
1972
新製品
事務機「コピラス」を発売
主力製品として育たず
1973
新製品
レーザークレー射撃システムを開発
1975
経営危機
売上高42億円に対して在庫20億円。2度目の経営危機へ
1970年代を通じて任天堂は屋外ゲーム機市場に参入し、当時最先端のエレクトロニクスを活用したおもちゃ「レーザー銃」の大量生産に乗り出した。 だが、オイルショック後の不況...
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1977
新製品
「テレビゲーム15」「テレビゲーム6」を発売
1978
新製品
アーケードゲームに進出
社会現象になっていた業務用ゲーム機「スペースインベーダ」に触発され、任天堂もアーケードゲームに参入
1978
失敗
ポパイの版権取得に失敗
アーケードゲームを拡大するために、人気キャラクター「ポパイ」の版権取得を目論むが失敗。これが1985年に任天堂が「マリオ」という独自キャラクターを生む原動力となった
1980
海外販売
Nintendo of America Inc.を設立(ニューヨーク州)
1980
新製品
携帯ゲーム機「ゲームウォッチ」を発売
山内溥氏は当時高性能化が進みつつあったマイクロプロセッサーに着目。コンピュータを携帯ゲームに応用した「ゲームウォッチ」を発売。ヒットを記録した
1981
新製品
業務用ゲーム機「ドンキーコング」を発売
入社2年目の宮本茂氏は、独自キャラクタ「ドンキーコング」を創造。北米向けに業務用ゲーム機として展開してヒット。模倣品に対して法的手段で対抗したため、現在の任天堂における法務部門の強さにつながった
1982
海外販売
Nintendo of America Inc.を設立(ワシントン州)
1983〜2002 - 爆速成長
山内溥氏がファミコンに巨額投資を決断。グローバル企業に発展
1983
株式上場
東京証券取引所第1部に株式上場
国内ではゲームウォッチ、北米ではドンキーコングのヒットによって業容を拡大。東証1部に株式上場した。
1983
設備投資
宇治工場を新設
1983
家庭用TVゲーム機「ファミリーコンピュータ」を発売
1980年代を通じてテレビゲーム市場が急拡大し、任天堂もこの分野への参入を決断。同業他社を圧倒するために、ファミリーコンピューターを発売前に100万台製造することで、ハ...
詳細なレポートを読む ( 431文字)
1984
業績好調
ファミコンが社会現象へ
100万台の発注によって15,000円という低価格を実現したファミリーコンピューターは日本の子供達にすぐに受け入れられ、社会現象を巻き起こした。ファミコン発売前の任天堂の売上高は1981年時点で239億円(純利益率6.8%)に過ぎなかったが、ファミコン発売後の1989年には売上高2912億円(純利益率11.8%)という驚異的な水準を叩き出した。
1985
新製品
ファミコン向け「スーパーマリオブラザーズ」を発売
1987
事業撤退
任天堂レジャーシステム株式会社を解散
アーケードゲームから撤退。事業責任者の駒井徳造氏は、同業のセガに転職
1989
新製品
携帯ゲーム機「ゲームボーイ」を発売
1990
新製品
家庭用TVゲーム機「スーパーファミコン」を発売
1990
海外販売
Nintendo of Europe GmbH.を設立(ドイツ)
1993
海外販売
Nintendo France S.A.R.L.を設立(フランス)
1996
テレビゲーム機NINTENDO64を発売
1990年代にソニーがプレーステーションを発売したのに対抗し、任天堂も64bitのテレビゲーム機「Nintendo64」を発売。この頃から任天堂とソニーの2社での激しい競争が火蓋を切った。
1997
業績好調
ポケモンのヒットでゲームボーイの売上好調
2000
本社移転
本社を京都市南区上鳥羽鉾立町11-1に移転
2001
新製品
家庭用TVゲーム機「ゲームキューブ」を発売
2001
新製品
携帯ゲーム機「ゲームボーイアドバンス」を発売
2002
社長交代
山内溥氏が社長退任
1949年から任天堂の社長を歴任した山内溥氏は、高齢であることを受けて社長を退任した。後任には叩き上げの岩田聡氏を指名し、任天堂は3代にわたって続いた同族経営に終止符を打った。
2002〜2022 - 業績変動
娯楽に原点回帰。家庭用ゲームで業績持続
2002
社長就任
岩田聡が任天堂社長に就任
2006
新製品
家庭用TVゲーム機「Wii」を発売
ソニーは高性能なグラフィックチップ(GPU)を搭載したプレーステーションによってゲーム市場を拡大する中、任天堂は「家族で楽しめる」という方針に則り「テレビゲーム機Wii」を発売した。ファミリー層に受け入れられ、任天堂の業績回復に大きく寄与した。
2008
新製品
携帯ゲーム機「ニンテンドーDSi」を発売
2011
新製品
携帯ゲーム機「ニンテンドー3DS」を発売
2012
新製品
家庭用TVゲーム機「Wii U」を発売
2015
業務提携
DeNAと業務資本提携を締結
2015
社長交代
岩田聡氏(55歳)が急逝
Wiiによって任天堂を増収増益に導いた岩田聡は2015年にガンにより逝去。スマホによるゲーム市場が急拡大する中で、テレビゲーム市場を主戦場とする任天堂は求心力のある社長を失うという非常事態に陥る。
2016
ガバナンス
監査委員会設置会社に移行。執行役員制度を導入
2017
新製品
併用型ゲーム機「Nintendo Switch」を発売
2017年に任天堂はファミリー層でも楽しめるテレビゲーム機「Nintendo Switch」を発売。インターネットによるコンテンツの販売や、Youtubeによる配信動画の許容などのマーケティングによりヒット商品に育ち、任天堂の増収増益に大きく寄与した。
2017
販売政策
任天堂販売株式会社を設立
2018
社長交代
古川俊太郎氏が社長就任
2018
新サービス
オンラインサービス「Nintendo Switch Online」を開始
2020
ガバナンス
バリューアクトの株式保有が判明
バリューアクト・キャピタル・マネジメントは、任天堂の株式11億ドル相当の保有を公表した。バリューアクトは、任天堂をデジタル企業として将来性評価するとともに、任天堂に対してガバナンスの改善や、外国人取締役の起用を促したと推察される
2020
ガバナンス
指名等諮問委員会を設置
2020
新製品
「あつまれ どうぶつの森」を発売
2021
新製品
有機ELモデルの「Nintendo Switch」を発売
2022
企業買収
ダイナモピクチャーズを買収
映像制作を強化
1949
Report

創業者が急逝。孫の山内溥氏(当時22歳)が社長就任

社長交代

1949年時点の山内任天堂は二代目の山内積良が経営を担っていたが突如として急逝。終戦直後の混乱期という時代も重なり、任天堂は存亡の危機を迎える。

このため、積良の孫であり早稲田大学の学生であった山内溥(当時22歳)が突如として後継者となり、山内任天堂の経営を担う。なお、山内溥の父親は経営者としての素質がなく遊び人であったことから、後継者とはならなかった。

以後、山内溥は2002年に社長を退任するまで、任天堂の経営をトップダウンで運営した。

1956
Report

米国視察を通じて「脱トランプ」を決意

山内溥氏は任天堂を「花札・かるた」の会社から「トランプ」の会社へと順調に変貌させつつあり、1956年に渡米視察した。だが、そこで全米シェアトップのトランプ会社の工場を訪問して「こんなものか・・・」という感想を抱き、任天堂をトランプに限らない会社に発展させることを心に決める。

以後、任天堂は山内溥社長のトップダウンによってトランプの利益を原資として、経営の多角化を推進する。

1962
Report

大阪証券取引所第2部に株式上場

株式上場

1950年代を通じて山地溥は日本的な「かるた・花札」ではなく、西洋の「トランプ」に注力することで任天堂を発展させた。特に、ディズニーと提携して「ディズニートランプ」をテレビCMを打つことで販売を拡大し、任天堂は国内トランプ業界のトップメーカーへと変貌を遂げた。

この結果、1962年に任天堂は株式上場を果たす。ただし、このころの任天堂は京都の中堅企業に過ぎず「京都のちっぽけなトランプ屋」と揶揄される存在であった。

1965
Report

トランプの需要一巡と多角事業の不振。1度目の倒産危機へ

経営危機

1960年代を通じて任天堂は脱トランプを志向してインスタント食品など、本業以外の分野に積極投資をしたが販売は芳しくなかった。

この結果、大量の在庫を積み上げる形となり、1965年に日本経済を襲った一時的な不況も相まって、任天堂は過大な在庫を抱えて倒産の危機に陥る。

この時、任天堂を支援したのが、同社の大株主(当時10.0%保有)の京都銀行・栗林四郎(のちの京都銀行頭取)である。ちなみに、1962年の任天堂の有価証券報告書を調査した結果、京都銀行による任天堂への株式投資の実施(10.0%取得)は上場前後(1962年ごろ)と推察される。

1975
Report

売上高42億円に対して在庫20億円。2度目の経営危機へ

経営危機

1970年代を通じて任天堂は屋外ゲーム機市場に参入し、当時最先端のエレクトロニクスを活用したおもちゃ「レーザー銃」の大量生産に乗り出した。

だが、オイルショック後の不況により販売が低迷し、1975年2月期(半期実績)の売上高42億円に対して、売上債権31億円および棚卸し資産20億円を抱え込み、またしても在庫の倒産の危機に陥る。

この時も、任天堂を経営危機から救ったのが大株主の京都銀行であった。京都銀行は任天堂が新しい分野にチャレンジすることを高く評価し、メインバンクとして緊急融資を決断した。(なお、京都銀行は今日に至るまで任天堂の大株主として莫大な含み益を獲得している)

1983
Report

家庭用TVゲーム機「ファミリーコンピュータ」を発売

1980年代を通じてテレビゲーム市場が急拡大し、任天堂もこの分野への参入を決断。同業他社を圧倒するために、ファミリーコンピューターを発売前に100万台製造することで、ハードウェア(特にゲーム機の心臓部である半導体(MPU)・製造はリコー池田工場が担当)のコストダウンによって市場を切り開くことに賭けた。

売れ行きが全く予想できない新製品の100万台発注という前代未聞の決断は、バンダイなどの同業他社の度肝を抜かせて「任天堂コンプレックス」を抱かせ、テレビゲーム機市場からライバルを撤退させることに繋がった。

任天堂の100万台発注について、バンダイの山科誠社長は1995年に「でも、当時、市場はなかったんですよ。数万台しか売れていなかった。その時に100万のロットで部品を注文するというのは、僕にはとても・・・。ギャンブラーにはかなわない、僕は降りようと思いました。だから、負けたとか、屈辱感とかはないですよ」(1995/10/09日経ビジネス)と吐露している。

参考文献・出所

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