【筆者所感】 1872年に大阪・農人橋詰町で両替商を開いた野村家は、1919年に大阪野村銀行を設立し、1925年12月にその証券部を資本金500万円で分離独立させて野村證券を創設した。社長には大阪野村銀行取締役兼支配人の片岡音二郎が就いた。1926年に『財界研究』を創刊し、1927年にはニューヨーク駐在員事務所を開設している。調査と海外という二本柱を業界他社に先駆けて整備した姿勢が、後年の総合証券化を支える基盤となった。戦後は1947〜48年の配電株公募で業界最大の販売成果を上げ、1951年に戦後第1回投信を募集、1961年10月には自社株を東京・大阪・名古屋の3取引所に上場して業界首位の座を固めた。証券業は規制と市場サイクルに左右される産業だが、調査力と販売網の蓄積が長期の優位を生む構造を持つ。
1981年7月にNSIが邦証券として初めてNYSE会員権を取得し、1986年3月にはNILがロンドン証券取引所会員資格を得て、グローバル投資銀行への入口に立った。だが1991年の損失補塡問題、リーマン承継後の2009年3月期に計上した▲7,082億円の純損失、2019年3月期の▲1,004億円が示したのは、海外で稼ぐ野村と国内リテールで安定収益を上げる野村の二律背反だった。2024年4月に営業部門を「ウェルス・マネジメント部門」に改称してマーチャント・バンキング部門を新設し、2025年4月にはマッコーリー・グループのアセットマネジメント事業買収とバンキング部門新設を発表した。グローバル投資銀行としての野心と国内基盤の折り合いは、創業から100年を経てなお未解決の課題である。
歴史概略
1872年〜1980年両替商から戦後リーディングカンパニーへ
大阪の両替商が「証券会社」になった日
1872年、初代野村徳七が大阪・農人橋詰町で両替商「野村徳七商店」を開いた。これが野村家による金融業の出発点である。2代目徳七(信之助)の代で証券業への比重を高め、1919年6月に資本金1,000万円の株式会社大阪野村銀行(現りそな銀行の前身の一つ)を設立、翌1920年に証券部を置いて債券の募集と売買を始めた。だが銀行業務と証券業務は本来性質が異なる。1925年12月、徳七は証券部を切り出し、資本金500万円の野村證券株式会社を設立した。社長には大阪野村銀行で取締役兼支配人を務めた片岡音二郎が就任し、本店は大阪府大阪市に置かれた。公社債専門業者としての営業開始は翌1926年1月からだった。
1926年6月に調査部主導で『財界研究』(現『財界観測』)を創刊し、1927年3月にニューヨーク駐在員事務所を開設した(1936年閉鎖)。両替商を起源とする商家ながら、設立直後から調査と海外という二分野で他社に先んじた点が、後年の総合証券会社への転身を支える独自の地歩となる。1938年6月に株式業務の認可を取得して公社債専門業者の枠組みを脱し、1941年11月にはわが国初の投資信託業務の認可を取得した。債券・株式・投信の3商品を扱う総合証券会社の骨格は、太平洋戦争開戦前にすでに整った。戦後業界内での先行者利益の土台は、この戦前期に重ねた認可取得が生んだものだった。
- 有価証券報告書
- 日本会社史総覧 1995/11/1
配電株公募 ── 戦後証券民主化の主役
1945年10月の財閥指定で野村は制限会社となり、役員4人が連合国軍総司令部により公職追放の処分を受けた。1946年12月には創業の地である大阪から東京へ本店を移し、戦後の再出発を切った。業界全体の最大課題は「証券民主化」であり、その試金石が1947〜48年の配電株(電力株)公募である。野村はここで業界最大の販売実績を上げ、戦後株式市場で確たる地歩を築いた。1948年11月に証券取引法に基づく証券業者として正式登録し、翌1949年4月には東京証券取引所の正会員に加わって、戦後証券市場の中心として再出発を果たした。制限会社指定という戦後最大の逆風を、わずか数年で跳ね返した。販売力で証券民主化を担うという戦後野村の性格は、ここで決まった。
GHQの要請を受け、1951年6月に戦後第1回投資信託の募集を開始した。戦前の業界初投信認可からつながる「証券貯蓄」の思想を、商品の形で社会に根付かせた取り組みである。1948年には有力百貨店に投資相談所を開設し、1953年には「百万両貯金箱」の配布を始めて、一般家庭までリテール接点を広げた。1953年3月にニューヨーク支店を開き、1959年12月には三和・神戸両銀行との東洋信託銀行共同設立にこぎつけ、戦後の10年あまりで国内外の証券インフラを再構築した。1961年10月には自社株を東京・大阪・名古屋の3取引所に上場し、翌1962年2月には東証1部へ指定替えした。証券会社自身が資本市場の表舞台に立つ転機となった。
- 有価証券報告書
- 日本会社史総覧 1995/11/1
「総合金融会社」を最初に口にした証券会社
1959年2月、野村は米国市場で戦後初のドル建て国債発行に際し、日本の証券会社として初めて引受団に参加した。1961年6月のソニーADR第1号の幹事会社、1962年の新三菱重工ドル建て転換社債と、日本企業の海外資本調達ルートを開いた。1964年3月にロンドン駐在員事務所を置き、1967年3月にはホンコン・インターナショナル・セキュリティーズの株式を51%取得してアジア展開の橋頭堡を構えた。1965年4月には調査部を分離独立させて野村総合研究所を設立している。日本初のシンクタンクと評されたこの分社化は、情報・調査事業を独立産業として位置づける業界初の試みで、以後のグループ知識産業の出発点となった。
1968年4月の総合証券会社免許取得後、1969年9月に米国でノムラ・セキュリティーズ・インターナショナル、1981年3月には英国でノムラ・インターナショナルを設立し、米英の2大金融市場で自社現地法人を整えた。1979年末の組織改正では、世界に通用する総合金融会社を経営目標として公然と掲げた。業界内での位置づけは四大証券の一角だったが、野村が描いた絵図は銀行・信託・投資顧問・海外現地法人を束ねたグループ総合戦略である。銀行業と証券業の境界が法律で厳しく分けられた時代に、業態の枠を越えた構想を先取りした。1981年7月の野村投資顧問設立は、その第一歩である。
- 有価証券報告書
- 日本会社史総覧 1995/11/1
1981年〜2007年海外資本市場という夢、国内不祥事という現実
NYSE会員の重みと損失補塡の影
1981年7月、ノムラ・セキュリティーズ・インターナショナル(NSI)が邦証券として初めてニューヨーク証券取引所の会員権を取得した。1986年3月にはノムラ・インターナショナル(NIL)がロンドン証券取引所会員資格を得て、1989年4月にはNomura International PLCへ商号変更した。1986年は英国金融ビッグバンの直前にあたる。欧米資本市場の中心地に自社の引受席を置いた野村は、邦銀勢を離してアジア発のグローバル投資銀行候補と内外から認識された。1989年4月に米州持株会社、翌1990年2月にはオランダ・アムステルダムにアジア持株会社を据え、地域統括機能を整えた。グローバル拠点網の骨格が、ほぼここで揃った。
1989年末の日経平均38,915円をピークに株価は下げに転じ、1991年9月頃には損失補塡を中心とする証券不祥事が業界全体の問題として表面化した。野村も例外ではなく、首脳陣の交代を含む体制見直しに迫られ、社会的信頼の回復が急務となった。「顧客と共に栄える」という創業の理念に立ち返るとして打ち出した「新生・野村」改革は、海外での攻めと国内ガバナンスの不均衡という経営課題を、初めて公然と俎上に乗せた。1993年8月には銀証相互乗り入れ解禁を受け野村信託銀行を設立し、金融制度改革の波に乗って業態拡張を再開した。1997年4月に野村総研のリサーチ部門を本体へ移管して金融研究所を設立するなど、守りと攻めの両面で再編の手を止めなかった。
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- 日本会社史総覧 1995/11/1
持株会社化とNYSE上場 ── 「外資系投資銀行」への接近
1998年3月に欧州持株会社ノムラ・ヨーロッパ・ホールディングズを設立し、2000年3月には野村アセットマネジメントを連結子会社化するなど、持株会社化へ向けた助走を進めた。2001年10月、野村は会社分割で証券業を野村證券分割準備(旧野村證券)に承継させ、自らは野村ホールディングスと改称した。邦証券初の本格的な金融持株会社への移行である。同年12月にはニューヨーク証券取引所に上場し、邦証券として初のNYSE上場会社となった。2003年6月には国内子会社14社とともに指名委員会等設置会社へ移行し、欧米型ガバナンスの先行導入に踏み切って、日本の上場企業における先進事例として注目を集めた。器の整備は完了したが、中身の整合は次の課題に残った。
持株会社化と同時に氏家純一が初代社長に就任し、2003年6月には古賀信行が2代目社長にバトンを継いだ。野村は以後「外資系投資銀行モデル」と「国内リテール証券モデル」を併せ持つ二重構造の道に入る。米欧の投資銀行と同じ土俵で勝負する器を整える同時期、国内では四大証券の一角として代々続く支店網を抱える業界最大手証券会社という性格を保った。この二つを一つの組織で運営する難しさは、以降の経営に常につきまとう。2004年8月の野村ファシリティーズ業務承継、2006年3月のネット証券子会社ジョインベスト証券の設立と、非中核領域でも組織再編の手を緩めなかった。
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インスティネット買収とサブプライム前夜の脆さ
2007年2月、野村は米国の電子取引プラットフォーム大手インスティネット社を連結子会社化した。アルゴリズム取引の本格化と欧州MiFID施行を目前に控えた機関投資家ビジネスで、電子取引基盤の取り込みは取引フローを呼び込む手段になるはずだった。同じ時期に米サブプライム住宅ローン問題の深刻化で証券化商品市場が崩れ始め、2008年3月期(FY07・USGAAPベース)には税前損益▲649億円、親会社株主帰属当期純損失▲678億円を計上している。邦証券ながら海外で稼ぐという姿勢が、サブプライム危機の最初の波をまともに受けた瞬間であり、以後の海外損失発生の先触れとなった事案である。
国内営業部門が業績を支える同時期、海外ホールセールは構造的な高損益分岐点ビジネスへ変質しつつあった。2006年3月期の収益合計1兆1,456億円・純利益3,043億円という持株会社化後の最高業績が、サブプライム前夜の好市況に支えられた一時的なものでしかないと、やがて判明する。インスティネット買収は海外戦略の本気度を示す案件だったが、その直後にサブプライム危機の直撃を受け、海外攻勢の足元の脆弱さも同時に露呈した。電子取引基盤を手にした途端にその基盤自体が試される事態となり、買収の成否評価は後のリーマン承継と合わせて長く問われ続ける。
- 有価証券報告書
- 日本会社史総覧 1995/11/1
2008年〜2019年リーマン承継 ── 10年で2度の年度赤字
雇用1万人の引き継ぎ ── 世界金融危機の最中の決断
2008年4月、渡部賢一が3代目グループCEOに就任し、野村は世界金融危機への全面対応を任される体制となった。その半年後の2008年9月15日、米リーマン・ブラザーズが破綻し、直後の10月に野村はリーマンのアジア・パシフィックおよび欧州・中東地域部門の雇用等の承継を発表する。バークレイズが北米部門を引き取った後の残り、約8,000名の人員と現地ネットワークを格安で引き取った案件である。邦証券のグローバル投資銀行転身を後押しする案件として国際金融界の注目を集めた。買収条件には旧リーマン社員への保証ボーナス維持も含み、人材流出の防止を最優先する踏み込んだ決断だった。野村の海外展開を決定づける案件である。
だが2009年3月期(FY08・USGAAPベース)の親会社株主帰属当期純損失は▲7,082億円に達し、日本企業として史上最高水準を更新した。リーマン統合費用と世界金融危機の二重打撃に加え、保証ボーナスを含む高水準の人件費が損益分岐点を恒常的に押し上げ、危機後の収益回復を阻む構造要因として長く残る。2009年11月には野村證券がジョインベスト証券を吸収合併してネット証券事業を本体統合し、2011年5月には野村土地建物の連結子会社化で不動産事業を取り込むなど、国内側での組織再編も並行して進めた。買収は規模としては成立したが、損益分岐点という重い形で以後長く経営の重荷となり続けた。
- 有価証券報告書
- 日本会社史総覧 1995/11/1
- Bloomberg 2019/12/27
- ニュースイッチ 2022/9
渡部体制のPMIと海外ホールセールの慢性赤字
渡部賢一はリーマン統合のPMI(買収後経営統合)を現場の先頭で主導した。買収によって野村のグローバル人員は一時約26,000名規模まで膨張し、株式・投資銀行ビジネスではアジア首位、欧州でも上位に食い込むだけの陣容を手にした。だが2010年代前半の世界的な金利低下とフィクスト・インカム市況の停滞で、海外ホールセールは慢性的な赤字構造を抱えたままになる。旧リーマン出身者と日本本社の意思決定速度のギャップ、報酬体系をめぐる摩擦に加え、内部告発を端緒にしたインサイダー取引疑惑も表面化した。外資型投資銀行を日本企業が経営するモデルそのものの難しさが、繰り返し厳しく問われた。
2012年4月、永井浩二が4代目グループCEOに就任した。リテール出身の永井は、海外ホールセールの拡大路線を見直し、欧州・アジアの一部からの撤退とコスト削減を軸とする再構築へ舵を切った。リスク資産の削減と不採算プロダクトからの撤退、本社費用の圧縮を同時に進め、2013年3月期には連結税引前利益2,377億円、翌2014年3月期には3,616億円と、買収後初の持続的黒字を回復した。海外で稼ぐ野望を一旦棚上げし、国内の厚みで地力を取り戻すリテール回帰が、以後10年の経営基調となる。永井は後年、「リーダーは自利利他の精神を持たなければならない」(ニュースイッチ 2022/9)と語り、海外損失を国内基盤で吸収する自社の収益体質を、リテール優先の経営哲学として総括した。
- 有価証券報告書
- 日本会社史総覧 1995/11/1
- Bloomberg 2019/12/27
- ニュースイッチ 2022/9
永井体制10年 ── コスト削減を繰り返した経営
リテール中心へと重心を戻した永井体制下でも、海外発の収益変動が業績を絶えず揺らした。国内リテールで稼いでも海外の一時損失で吹き飛ぶ構図である。2018年に欧州・米州ホールセールの不振が再び深刻化し、2019年3月期(FY18・USGAAPベース)には親会社株主帰属当期純損失▲1,004億円を計上した。リーマン承継から10年で2度目の年度赤字で、海外戦略が依然として根本的な構造問題を抱える姿を社内外に示す結果だった。永井は2019年12月のインタビューで、コスト削減について「何年かに1回か、恐らくやらざるを得ない」(Bloomberg 2019/12/27)と語り、構造改革を繰り返す前提の経営体質を、トップ自ら半ば認める発言となった。
野村は2019年4月にホールセール部門を中心とする構造改革プログラムを発表し、2022年3月期までに約14億ドル規模のコスト削減目標を掲げた。リーマン承継時の人員規模は順次絞り込まれ、海外プロダクト・地域の選択と集中が地道に進んだ。営業部門ではパートナー再配置で富裕層への接触強化を図り、海外で稼げない代わりに国内リテールで稼ぐという1991年以前の収益構造への回帰が進む。FY18の赤字は、次の経営者にウェルス・マネジメント部門の比重を高める宿題を残した。2020年4月、奥田健太郎が5代目グループCEOに就任し、構造改革とウェルス・マネジメント強化を並行して進める体制が動き出した。
- 有価証券報告書
- 日本会社史総覧 1995/11/1
- Bloomberg 2019/12/27
- ニュースイッチ 2022/9
直近の動向と展望
ウェルス・マネジメントへの軸足戻しと「アドバイザリー」への転換
奥田体制は構造改革委員会の主導のもと、ホールセール部門500億円・ウェルス・マネジメント部門200億円のコスト削減を並行して進めた。2024年4月に営業部門を「ウェルス・マネジメント部門」に改称し、マーチャント・バンキング部門を新設、さらにアセット・マネジメント部門と統合してインベストメント・マネジメント部門を設立する組織再編を実施した。連結子会社1,537社、持分法適用14社の大所帯を抱えた上で、営業現場ではパートナー一人当たりの担当顧客数を絞り込み、富裕層へのアドバイザリー深化に転じる方針へ切り替えた。奥田は「社会課題の解決を通じた持続的成長の実現」(現代ビジネス 2022/4)を経営の北極星として掲げ、リテール戦略を量から質へ振り替える転機とした。
新体制の下、ウェルス・マネジメント部門のストック資産月末平均は2024年3月期第1四半期の19.5兆円から第2四半期の20.3兆円へ伸び、2025年3月期のストック資産純増は約1兆4,000億円と、KPI目標の8,000億円を超過した。LINE証券事業承継に伴う口座引き継ぎもリテール基盤の拡大に寄与し、2025年3月期の連結収益合計は1兆8,925億円、純利益3,407億円と過去最高水準に達している。1925年の創業以来、業界最大手であり続けた野村が、リテール基盤を再評価して収益の柱を組み替えつつある姿を、この一連の数字が示す。長年の海外志向から、いったん国内の強みを磨き直す段階に入った野村にとって、量から質へのリテール戦略転換が次の業界首位の根拠となるかが、当面の試金石である。
- 有価証券報告書
- 決算説明会 FY23
- 決算説明会 FY23-2Q
- 決算説明会 FY24-2Q
- 決算説明会 FY24
- 現代ビジネス 2022/4
「金利のある世界」── マッコーリー買収とバンキング部門新設
2025年4月、野村はマッコーリー・グループのアセットマネジメント事業の買収を正式発表し、CET1比率1.5%弱の低下を許容してパブリック運用のフランチャイズ獲得に踏み切った。同時にバンキング部門を新設し、日銀の政策金利引き上げを受けた「金利のある世界」の到来を見据えた業態拡張である。北村巧CFOは「ホールセール部門の業績が上がっており、短期的にホールセール部門に資本配分することも考えています」(決算説明会 FY24-2Q)と語り、買収・自社株取得・部門資本配分のバランスを取りつつ、総還元性向50%以上方針の下で600億円規模の自己株式取得を決定した。資本政策の柔軟性を優先する姿勢で、株主還元と買収投資を両立する局面に入った。
海外発のリスクイベントも、なお続く。2024年2月には英国子会社で現地ブローカーの決済不履行による貸倒引当約140億円を計上し、2021年3月期のアルケゴス事案に続いて海外信用リスクが再び顕在化した。北村CFOは「業者によるフェイルが清算によって解消されるべき事態になることは、かなりレアケース」(決算説明会 FY23)と事案の異常性を強調したが、海外ホールセールがリスクの源泉となりやすい構造そのものは、リーマン承継以来変わっていない。奥田は「世界にフランチャイズを有するグローバル企業」(現代ビジネス 2022/4)を到達点に据えるが、グローバル投資銀行への積年の野心と国内リテール基盤との折り合いは、創業から100年を経てなお未解決の命題として残る。
- 有価証券報告書
- 決算説明会 FY23
- 決算説明会 FY23-2Q
- 決算説明会 FY24-2Q
- 決算説明会 FY24
- 現代ビジネス 2022/4