野村ホールディングス の歴史

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創業

1872年

創業者

※大阪野村銀行

創業地

大阪府大阪市

直近売上高(2026/3)

47,585億円

長期業績と転換点(1997/3〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ両替商を起源とする野村は、1920年代に「調査と海外」で他社に先んじたのか
A 公社債を売る商売は、金利と景気の読みが当たらなければ成り立たない。相場観を支える経済分析と、外債を扱う海外の窓口こそが、店頭での売買力以上に効く差別化だった。現にこの会社は、1925年に大阪野村銀行から証券部を切り出して資本金500万円で発足すると、翌1926年6月に調査誌『財界研究』を創刊し、1927年3月にはニューヨーク駐在員事務所を開いた。同業が国内の店頭売買に専念していた時期に、調査と海外という二分野で動いたところに、この会社の出発点がある
Q なぜ野村は2008年、世界金融危機の最中に約8,000名のリーマン人員を引き継いだのか
A 邦銀勢を離して欧米と同じ土俵に立つグローバル投資銀行へ飛ぶには、人材と現地網をまとめて手に入れる機会が要る。それは平時には買えず、破綻直後にしか開かない。2008年9月のリーマン・ブラザーズ破綻の直後、柴田拓美グループCOOが管財人との交渉を即座に進め、バークレイズが北米を取った残りのアジア・欧州・中東部門、約8,000名と現地ネットワークを承継した。人材流出を防ぐ保証ボーナスを条件に含めたため、高水準の人件費が損益分岐点を恒常的に押し上げた
Q なぜ野村は2025年、海外で稼ぐ対象をホールセールから資産運用へ入れ替えたのか
A リーマン承継で抱えた損益分岐点の高い海外ホールセールは相場の変動をまともに受け、国内リテールで稼いでも海外の一時損失で吹き飛ぶ構図を繰り返した。市況に左右されず預かり資産に応じた手数料が積み上がる事業へ移せば、この振れを抑えられる。野村は2025年4月、マッコーリー・グループの米国・欧州のパブリック運用事業を約18億ドルで買収すると発表した。運用資産約1,800億ドルを取り込み、人を抱えて相場に賭ける海外から、預かり資産で稼ぐ海外へと買う対象を入れ替えた

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1872年〜 両替商から「売りの野村」へ——調査を売り物にした証券業者の出発

  1. 1872年 初代野村徳七が大阪・農人橋詰町で両替商を開業

両替店の廃業と、資金2万円からの再出発

野村家の商いは、1872年に初代野村徳七氏が大阪で開いた両替店[1]「野村徳七商店」に始まる。当時の商売は銭両替や古金銀の売買にすぎず[2]、株式や公社債もかたわら扱ってはいたが、初代の安全第一主義の方針からその扱高はわずか[3]にとどまった。転機は1904年初頭、二代野村徳七氏が父の業を継いだ[4]ときに訪れる。二代は業務の一大発展を期して両替業を廃棄し、資金2万円をもって本格的な証券業者として新発足した。祖業を捨てて証券に絞る判断であり、その経営方針は積極的かつ近代的で、わずか数年の間に大阪における第一の実力者[6]となった。 [5]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「大阪屋証券」の項
    • [1]1872年 初代野村徳七氏が両替店「野村徳七商店」を創業
    • [2]初代の扱いは銭両替・古金銀が主で株式・公社債の扱高はわずか
    • [3]初代の安全第一主義により有価証券の扱高は少額
    • [4]1904年初頭 二代野村徳七氏が家業を継承
    • [5]両替業を廃棄し資金二万円で証券業者として新発足
    • [6]経営方針は積極的かつ近代的で数年で大阪第一の実力者へ

二代が最初に手をつけたのは相場そのものではなく相場を読むための仕組みで、1906年4月に人事機構を整えると同時に調査部を設置し、あわせて「大阪野村商報」を発刊[7]して業界に先鞭をつけている。商報は顧客に前日の市況や経済情勢の分析を届ける[8]もので、その百号記念号は「自己の利益よりお客の利益を優先する」という主義[9]を掲げ、各株式会社の組織はいかに、営業成績はいかに、将来の発展はいかにと研究するほか、海外の経済事情と国家の財政まで細大もらさず調査して読者に報ずる責務[10]を果たしている、と自らの立場を記した。のちに「調査の野村」と呼ばれる社風[11]は、すでにこの時点で形をとっていた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「大阪屋証券」の項
    • [7]1906年4月 人事機構整備と調査部設置、「大阪野村商報」発刊
  • 私の証券昭和史(瀬川美能留著, 日本経済新聞社, 1986年)
    • [8]商報は前日の市況・経済情勢の分析を掲載
    • [9]商報百号記念号「自己の利益よりお客の利益を優先する」
    • [10]商報百号記念号が掲げた調査の責務
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [11]創立当初からの調査重視が「調査の野村」の伝統を培った
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「大阪屋証券」の項
    • [1]1872年 初代野村徳七氏が両替店「野村徳七商店」を創業
    • [2]初代の扱いは銭両替・古金銀が主で株式・公社債の扱高はわずか
    • [3]初代の安全第一主義により有価証券の扱高は少額
    • [4]1904年初頭 二代野村徳七氏が家業を継承
    • [5]両替業を廃棄し資金二万円で証券業者として新発足
    • [6]経営方針は積極的かつ近代的で数年で大阪第一の実力者へ
    • [7]1906年4月 人事機構整備と調査部設置、「大阪野村商報」発刊
  • 私の証券昭和史(瀬川美能留著, 日本経済新聞社, 1986年)
    • [8]商報は前日の市況・経済情勢の分析を掲載
    • [9]商報百号記念号「自己の利益よりお客の利益を優先する」
    • [10]商報百号記念号が掲げた調査の責務
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [11]創立当初からの調査重視が「調査の野村」の伝統を培った

反動相場での「売り」と、株式組織への改組

調査に裏づけられた読みが試されたのは日露戦争の前後で、戦後の株式ブームに活躍し、続く反動期には売りに回って「売りの野村」として業績を躍進させて[12]いる。第一次大戦のときは逆に積極方針へ転換して、巨額の富を蓄積[13]している。強気と弱気を相場ごとに切り替えたこの動き方を支えたのは、調査部が集めた情報[14]だった。1910年には現物団を結成して株式や公債の引受にも活躍[15]し、二代自身も海外視察で新知識を吸収して、調査部の拡充、外国との取り引き、公社債の引受業務への進出[16]と、量だけでなく質の面でも商いを充実させた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「大阪屋証券」の項
    • [12]日露戦争後の株式ブームで活躍し反動期を「売りの野村」として躍進
    • [15]1910年 現物団を結成し株式・公債の引受に活躍
  • 私の証券昭和史(瀬川美能留著, 日本経済新聞社, 1986年)
    • [13]第一次大戦時は積極方針へ転換して巨額の富を蓄積
    • [14]強弱の転換を支えたのは調査部の情報
    • [16]二代徳七氏は海外視察で新知識を吸収し調査部拡充・外国取引・公社債引受へ進出

事業の拡大は会社組織の作り替えを求め、1917年12月、野村徳七商店は株式組織に改組されて資本金500万円の野村商店として新発足[17]した。個人商店から会社組織への移行であり、以後この商店は野村家の中心事業として活躍して[18]いる。もっともこの会社は、のちの野村證券の直接の母体ではない[19]。野村商店は1923年7月に大阪屋商店と改称[20]し、1930年12月には金融恐慌のため50万円へ減資したうえで野村家との資本的連携を断ち[21]、当時の役員と従業員が全株式を所有する会社[22]として野村家から離れた。証券業の本流は、二代が並行して興したもう一つの会社から生まれて[23]いる。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「大阪屋証券」の項
    • [17]1917年12月 野村徳七商店を株式組織に改組し資本金500万円の野村商店として新発足
    • [18]野村商店は野村家の中心事業として活躍
    • [19]大阪屋商店は野村證券の母体ではなく別系統
    • [20]1923年7月 野村商店が大阪屋商店へ改称
    • [21]1930年12月 金融恐慌で50万円へ減資し野村家との資本的連携を解消
    • [22]減資後は当時の役員・従業員が全株式を所有
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「野村証券」の項
    • [23]野村證券は大阪野村銀行の証券部から生まれた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「大阪屋証券」の項
    • [12]日露戦争後の株式ブームで活躍し反動期を「売りの野村」として躍進
    • [15]1910年 現物団を結成し株式・公債の引受に活躍
    • [17]1917年12月 野村徳七商店を株式組織に改組し資本金500万円の野村商店として新発足
    • [18]野村商店は野村家の中心事業として活躍
    • [19]大阪屋商店は野村證券の母体ではなく別系統
    • [20]1923年7月 野村商店が大阪屋商店へ改称
    • [21]1930年12月 金融恐慌で50万円へ減資し野村家との資本的連携を解消
    • [22]減資後は当時の役員・従業員が全株式を所有
  • 私の証券昭和史(瀬川美能留著, 日本経済新聞社, 1986年)
    • [13]第一次大戦時は積極方針へ転換して巨額の富を蓄積
    • [14]強弱の転換を支えたのは調査部の情報
    • [16]二代徳七氏は海外視察で新知識を吸収し調査部拡充・外国取引・公社債引受へ進出
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「野村証券」の項
    • [23]野村證券は大阪野村銀行の証券部から生まれた

1918年〜 銀行の証券部からの独立と、公社債専業という選択

  1. 1919年 大阪野村銀行を設立
  2. 1925年 野村證券を設立
  3. 1926年 公社債専門業者として営業開始
  4. 1938年 株式業務の認可を取得
  5. 1941年 わが国最初の投資信託業務の認可を取得
  6. 1945年 財閥指定による制限会社に
  7. 1946年 本店を大阪から東京へ移転

「株屋あがり」の銀行と、独立採算の証券部

二代野村徳七氏は1918年、大阪野村銀行を設立して銀行業務に手を染めた[24]。株屋あがりの野村が銀行を始めるというので世間には冷やかに見る風潮[25]もあったが、野村にふさわしい特色をもった銀行にすれば意義があるとして設立へ歩を進めている。その特色として、一般の銀行業務のほかに証券金融、引受業務、中小企業金融へ力を入れる方針[26]を掲げ、そのために日本興業銀行の貸付課長であった片岡音吾氏を招いた[27]。片岡氏はのちに野村證券の初代社長となる人物[28]で、銀行の設立時点で証券の担い手が確保されていたことになる。

  • 私の証券昭和史(瀬川美能留著, 日本経済新聞社, 1986年)
    • [24]1918年 二代野村徳七氏が大阪野村銀行を設立
    • [25]「株屋あがり」の野村の銀行業進出を世間は冷やかに見た
    • [26]一般銀行業務のほか証券金融・引受業務・中小企業金融に注力する方針
    • [27]日本興業銀行貸付課長の片岡音吾氏を招聘
    • [28]片岡音吾氏はのちの野村證券初代社長

1920年、東京と大阪の両株式取引所に国債市場が新たに開設[29]された。それまで上場銘柄の一部にすぎなかった国債・地方債・社債の取り引きが株式から切り離され[30]、大阪野村銀行は他の有力金融機関に混じって国債仲買人の資格を得て[31]いる。そこで銀行は社内に公社債専門の証券部を新設[32]した。この証券部は、はじめから独立採算制をとり、いつでも独立できる体制[33]になっていた点に特徴がある。業容は国債市場開設という時流に乗って順調に拡大し、1922年には第四回大同電力社債と広島電気社債の募集に成功[34]した。独立にあたっては、米国における証券業務の実態を調査研究したうえで踏み切って[35]いる。

  • 私の証券昭和史(瀬川美能留著, 日本経済新聞社, 1986年)
    • [29]1920年 東京・大阪の両株式取引所に国債市場が開設
    • [30]国債・地方債・社債の取り引きが株式から分離
    • [31]大阪野村銀行が国債仲買人の資格を取得
    • [32]銀行内に公社債専門の証券部を新設
    • [33]証券部は当初から独立採算制でいつでも独立できる体制
    • [34]1922年 第四回大同電力社債・広島電気社債の募集に成功
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「野村証券」の項
    • [35]独立前に米国の証券業務の実態を調査研究した

証券部の独立は1925年12月に実現[36]し、翌1926年1月から公社債専門業者として営業を開始[37]した。資本金は500万円、うち払込は250万円[38]で、社長には大阪野村銀行の取締役証券部長であった片岡音吾氏が就いて[39]いる。本社は大阪市東区安土町に置き、東京をはじめ四カ所の銀行支店証券部を出張所へ改編[40]して船出した。創立当初の陣容は社員35名、見習30名、女子事務員13名、傭員を含めて総勢84名[41]で、売買・金融・外国・信託・受渡・出納・計理・庶務の八係と調査部・検査課[42]だけの小さな世帯であった。重役以下みな若く、自分たちの手で新しい仕事を始めようという独立の意気に燃えて[43]いた。

  • 野村ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [36]1925年12月 大阪野村銀行の証券部を分離して野村證券を設立
    • [37]1926年1月 公社債専門業者として営業開始(本店:大阪府大阪市)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「野村証券」の項
    • [38]資本金500万円・払込250万円
    • [39]初代社長は大阪野村銀行取締役証券部長の片岡音吾氏
    • [40]本社は大阪市東区安土町、銀行支店証券部四カ所を出張所へ改編
  • 私の証券昭和史(瀬川美能留著, 日本経済新聞社, 1986年)
    • [41]創立時は社員35名・見習30名・女子事務員13名で総勢84名
    • [42]八係と調査部・検査課の構成
    • [43]重役以下が若く独立の意気に燃えていた
  • 私の証券昭和史(瀬川美能留著, 日本経済新聞社, 1986年)
    • [24]1918年 二代野村徳七氏が大阪野村銀行を設立
    • [25]「株屋あがり」の野村の銀行業進出を世間は冷やかに見た
    • [26]一般銀行業務のほか証券金融・引受業務・中小企業金融に注力する方針
    • [27]日本興業銀行貸付課長の片岡音吾氏を招聘
    • [28]片岡音吾氏はのちの野村證券初代社長
    • [29]1920年 東京・大阪の両株式取引所に国債市場が開設
    • [30]国債・地方債・社債の取り引きが株式から分離
    • [31]大阪野村銀行が国債仲買人の資格を取得
    • [32]銀行内に公社債専門の証券部を新設
    • [33]証券部は当初から独立採算制でいつでも独立できる体制
    • [34]1922年 第四回大同電力社債・広島電気社債の募集に成功
    • [41]創立時は社員35名・見習30名・女子事務員13名で総勢84名
    • [42]八係と調査部・検査課の構成
    • [43]重役以下が若く独立の意気に燃えていた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「野村証券」の項
    • [35]独立前に米国の証券業務の実態を調査研究した
    • [38]資本金500万円・払込250万円
    • [39]初代社長は大阪野村銀行取締役証券部長の片岡音吾氏
    • [40]本社は大阪市東区安土町、銀行支店証券部四カ所を出張所へ改編
  • 野村ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [36]1925年12月 大阪野村銀行の証券部を分離して野村證券を設立
    • [37]1926年1月 公社債専門業者として営業開始(本店:大阪府大阪市)

公社債一本足の限界と、株式・投資信託への拡張

独立にあたって社名を「野村ボンド・ハウス」としようとの案が有力[44]だったほど、公社債専業に徹する方針は明確だった。片岡社長が公社債市場の中に将来の証券会社のあるべき姿を求めていた[45]ことが、独立の大きな理由でもある。1927年3月にはニューヨーク駐在員事務所[46]を設けた。金輸出再禁止の前後に外貨債の売買が膨張し、この出張所は開設後わずか三年で利益を計上[47]している。1931年12月の金輸出再禁止から1934年に至る低金利時代には、外債取引で公債市場の王座[48]を占めた。ただし金再禁止後は資本逃避防止法と外国為替管理法によって自由な商売ができなくなり、1936年末に閉鎖[49]のやむなきにいたった。

  • 私の証券昭和史(瀬川美能留著, 日本経済新聞社, 1986年)
    • [44]社名を「野村ボンド・ハウス」とする案が有力なほど公社債専業の方針は明確
    • [45]片岡社長は公社債市場に将来の証券会社の姿を求めた
    • [47]外貨債売買の膨張でニューヨーク出張所は開設三年で利益計上
    • [49]資本逃避防止法・外国為替管理法により1936年末に閉鎖
  • 野村ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [46]1927年3月 ニューヨーク駐在員事務所を設立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [48]1931年12月の金輸出再禁止から1934年の低金利時代に外債取引で公債市場の王座を占めた

公社債一本足の危うさは、1937年に数字となって表れた[50]。日華事変を契機とする本格的インフレの進展で株式市場が活況を呈する一方、公社債市場は極度の沈滞期に入り、野村の公社債募集取扱高と売買高は創業以来初めてという最悪の事態[51]に陥っている。社内では若手を中心に株式業務へ進出すべきだとの意見が強まって[52]いた。決め手は片岡社長自身の一言で、静岡を訪れた席上「私は株式をやって悪いとはいっていないよ」[53]と語ったという。公社債業務に証券会社としての使命感をもって当たってきた社長からの発言[54]だけに、社内の空気は一挙に動いた。

  • 私の証券昭和史(瀬川美能留著, 日本経済新聞社, 1986年)
    • [50]1937年 公社債募集取扱高・売買高が創業以来最悪
    • [51]日華事変を契機とするインフレ進展で株式は活況、公社債は極度の沈滞
    • [52]若手社員を中心に株式業務進出を求める声が強まった
    • [53]片岡音吾社長「私は株式をやって悪いとはいっていないよ」
    • [54]公社債に使命感をもつ社長の発言が社内の空気を動かした

1937年8月に本社証券部へ株式課が設けられ[55]、高橋要次長のもとに奥村綱雄氏、北裏喜一郎氏、瀬川美能留氏が加わった[56]。のちに社長を務める三名がこの新設課に揃って[57]いる。1938年6月には株式業務の認可を受け[58]、株式課は部へ昇格した。参入にあたって選んだのは、当時の主流であった清算取引ではなく実物取引であり、手持ちの株式を持たず売買手数料だけで商うノーストック主義[59]でもあった。すでに株式で実績のある藤本・山一・日興は「せめてなりたや玉塚様」[60]と口に出るほど遙か雲の上の存在で、後発は堅実さで差をつけるほかなかった。

  • 私の証券昭和史(瀬川美能留著, 日本経済新聞社, 1986年)
    • [55]1937年8月 本社証券部に株式課を設置
    • [56]株式課の陣容は高橋要次長・奥村綱雄氏・北裏喜一郎氏・瀬川美能留氏
    • [57]奥村綱雄氏・北裏喜一郎氏・瀬川美能留氏はいずれも後年の社長
    • [59]清算取引ではなく実物取引に限定し、ノーストック主義を採用
    • [60]後発の劣位を示す社内の言葉「せめてなりたや玉塚様」
  • 野村ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [58]1938年6月 株式業務の認可を取得
  • 私の証券昭和史(瀬川美能留著, 日本経済新聞社, 1986年)
    • [44]社名を「野村ボンド・ハウス」とする案が有力なほど公社債専業の方針は明確
    • [45]片岡社長は公社債市場に将来の証券会社の姿を求めた
    • [47]外貨債売買の膨張でニューヨーク出張所は開設三年で利益計上
    • [49]資本逃避防止法・外国為替管理法により1936年末に閉鎖
    • [50]1937年 公社債募集取扱高・売買高が創業以来最悪
    • [51]日華事変を契機とするインフレ進展で株式は活況、公社債は極度の沈滞
    • [52]若手社員を中心に株式業務進出を求める声が強まった
    • [53]片岡音吾社長「私は株式をやって悪いとはいっていないよ」
    • [54]公社債に使命感をもつ社長の発言が社内の空気を動かした
    • [55]1937年8月 本社証券部に株式課を設置
    • [56]株式課の陣容は高橋要次長・奥村綱雄氏・北裏喜一郎氏・瀬川美能留氏
    • [57]奥村綱雄氏・北裏喜一郎氏・瀬川美能留氏はいずれも後年の社長
    • [59]清算取引ではなく実物取引に限定し、ノーストック主義を採用
    • [60]後発の劣位を示す社内の言葉「せめてなりたや玉塚様」
  • 野村ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [46]1927年3月 ニューヨーク駐在員事務所を設立
    • [58]1938年6月 株式業務の認可を取得
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [48]1931年12月の金輸出再禁止から1934年の低金利時代に外債取引で公債市場の王座を占めた

投資信託の難産、そして敗戦と社長空席の九カ月

1941年11月、わが国最初の投資信託[61]が難産の末に生まれた。発端は飯田清三専務が大蔵省で受けた諮問[62]で、戦争気構えで株価が下がって困る、戦費調達で国民に渡ったカネの購買力を吸収してインフレ防止と株価安定を図る方法はないか[63]、という相談であった。調査部がイギリスのユニット・トラストを研究していた[64]こともあり、野村は取り組むと決めている。難題は元本保証のない商品を確定利子に慣れた投資家へ売る点にあり、償還時に当初元本一口500円に損失が生じたときは損失額の二割を証券会社が補償し、利益が出れば一割をもらう[65]という案に落ち着いた。この補償案は私企業にとって大問題で、野村財閥の統括機関である野村合名会社の理事会に諮ったところ、十人の理事のうち八人が反対し、賛成はわずか二人で否決[66]された。

  • 野村ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [61]1941年11月 わが国最初の投資信託業務の認可を取得
  • 私の証券昭和史(瀬川美能留著, 日本経済新聞社, 1986年)
    • [62]飯田清三専務が大蔵省で投資信託の諮問を受けた
    • [63]大蔵省の諮問内容(株価下落と購買力吸収)
    • [64]調査部がイギリスのユニット・トラストを研究していた
    • [65]当初元本一口500円、損失の二割を証券会社が補償し利益の一割を受け取る
    • [66]野村合名会社の理事会で十人中八人が反対し否決

同系の銀行・保険・信託を抱える財閥にとって、証券会社が補償を払い切れなくなれば銀行の取付けを招きかねないという懸念[67]である。それでも強い国家的要請を背景に実施は促進され[68]、戦時中を通じて投信は順調に伸び、1944年8月までの野村の設定額は2億5000万円[69]、業界全設定額5億2850万円[70]の約半分を占めた。国民から資金を吸い上げると同時に株価の安定にもなる、一石二鳥の策[71]と見なされていた。戦時統制のもとで証券界の再編も進み、野村は1943年から1944年にかけて第一証券と久保田証券を吸収合併[72]し、1944年8月に資本金1200万円となって清算取引業務も開始[73]した。敗戦の打撃は深く、1945年9月期は創業以来初の赤字決算[74]となり、満州野村や京城支店など在外資産をすべて失い[75]、東京・神戸・門司・福岡・静岡・岡山・高松・広島と全店舗の半分以上が焼失[76]した。

  • 私の証券昭和史(瀬川美能留著, 日本経済新聞社, 1986年)
    • [67]銀行・保険・信託を抱える財閥として取付けの懸念があった
    • [68]投信は企業判断より国家的要請によって実施が促進された
    • [71]投信は資金吸収と株価安定を兼ねる一石二鳥の策と見なされた
    • [74]1945年9月期 創業以来初の赤字決算
    • [75]満州野村・京城支店など在外資産を全喪失
    • [76]全店舗の半分以上が焼失
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「野村証券」の項
    • [69]1944年8月までの野村の投信設定額2億5000万円
    • [70]業界全設定額5億2850万円
    • [72]1943〜1944年 第一証券・久保田証券を吸収合併
    • [73]1944年8月 資本金1200万円となり清算取引業務を開始

仕事らしい仕事のない時期には社員が街角に机を置いて宝くじを売り、この街頭販売の経験がのちの証券民主化運動と配電株営業の成功へつながって[77]いる。占領下では経営陣そのものが入れ替わり、野村は1945年11月に制限会社へ指定され[78]、1947年1月には公職追放令による指定会社となり[79]、同年8月に飯田社長以下四役員の退任を余儀なくされて[80]いる。以後1948年4月に奥村綱雄氏が社長へ就くまで、約九カ月にわたって社長席は空いたまま[81]であった。市場の再開はGHQの覚書によって無期延期となり、店頭取引が自然発生的に広がる[82]なかで制度の立て直しが進んだ。本店は1946年12月に大阪から東京へ移り[83]、1948年11月には証券取引法に基づく証券業者として登録[84]し、1949年4月に東京証券取引所の正会員[85]となった。

  • 私の証券昭和史(瀬川美能留著, 日本経済新聞社, 1986年)
    • [77]宝くじの街頭販売の経験が証券民主化運動と配電株営業へつながった
    • [82]GHQの覚書で市場再開が無期延期となり店頭取引が自然発生的に広がった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「野村証券」の項
    • [78]1945年11月 制限会社に指定
    • [79]1947年1月 公職追放令による指定会社となる
    • [80]1947年8月 飯田社長以下四役員が退任
    • [81]1948年4月の奥村綱雄氏就任まで約九カ月間社長席が空席
  • 野村ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [83]1946年12月 本店を東京都へ移転
    • [84]1948年11月 証券取引法に基づく証券業者として登録
    • [85]1949年4月 東京証券取引所正会員となる
  • 野村ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [61]1941年11月 わが国最初の投資信託業務の認可を取得
    • [83]1946年12月 本店を東京都へ移転
    • [84]1948年11月 証券取引法に基づく証券業者として登録
    • [85]1949年4月 東京証券取引所正会員となる
  • 私の証券昭和史(瀬川美能留著, 日本経済新聞社, 1986年)
    • [62]飯田清三専務が大蔵省で投資信託の諮問を受けた
    • [63]大蔵省の諮問内容(株価下落と購買力吸収)
    • [64]調査部がイギリスのユニット・トラストを研究していた
    • [65]当初元本一口500円、損失の二割を証券会社が補償し利益の一割を受け取る
    • [66]野村合名会社の理事会で十人中八人が反対し否決
    • [67]銀行・保険・信託を抱える財閥として取付けの懸念があった
    • [68]投信は企業判断より国家的要請によって実施が促進された
    • [71]投信は資金吸収と株価安定を兼ねる一石二鳥の策と見なされた
    • [74]1945年9月期 創業以来初の赤字決算
    • [75]満州野村・京城支店など在外資産を全喪失
    • [76]全店舗の半分以上が焼失
    • [77]宝くじの街頭販売の経験が証券民主化運動と配電株営業へつながった
    • [82]GHQの覚書で市場再開が無期延期となり店頭取引が自然発生的に広がった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「野村証券」の項
    • [69]1944年8月までの野村の投信設定額2億5000万円
    • [70]業界全設定額5億2850万円
    • [72]1943〜1944年 第一証券・久保田証券を吸収合併
    • [73]1944年8月 資本金1200万円となり清算取引業務を開始
    • [78]1945年11月 制限会社に指定
    • [79]1947年1月 公職追放令による指定会社となる
    • [80]1947年8月 飯田社長以下四役員が退任
    • [81]1948年4月の奥村綱雄氏就任まで約九カ月間社長席が空席

1950年〜 証券民主化という営業と、四〇年不況が残した規律

野村ホールディングスの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1951年 戦後再開第1回投資信託を募集
  2. 1953年 ニューヨーク支店を開設
  3. 1959年 日本証券会社初の海外引受団参加
  4. 1959年 東洋信託銀行を三和・神戸両銀行と共同設立
  5. 1960年 投信委託業務を営業譲渡
  6. 1961年 東京・大阪・名古屋証券取引所に株式上場
  7. 1965年 野村総合研究所を設立

貯金箱と討論会——大衆を顧客にする仕掛け

戦後の野村が掲げたのは、広くどの家でも株を持てる世の中にしよう、株のある生活を[86]、という証券民主化の運動であった。創立時に公社債から始め、株式では清算取引より現物に力を入れ、投資信託を先行させた[87]同社にとって、国民大衆へ証券貯蓄の思想を広げる仕事は社風に合っていた。とはいえ武器となる支店網は戦災で焼かれ、人手も足りない[88]。そこで1947年、各社がまだ過剰人員に悩んでいた時期に大学・専門学校・高校卒を大量に採用[89]し、店舗も人の集まる場所へ出すという方針で、百貨店の売り場のなかに自社のコーナーを開設[90]させてもらった。1951年6月には証券投資信託法に基づく委託会社の免許を受け[91]、GHQの要請を受けた戦後第1回の投資信託の募集を開始[92]している。

  • 私の証券昭和史(瀬川美能留著, 日本経済新聞社, 1986年)
    • [86]証券民主化運動の標語
    • [87]公社債から出発し現物株を重視、投信を先行させた社風が民主化に合致
    • [88]支店網は戦災で焼失し人手も不足していた
    • [89]1947年 各社が過剰人員に悩む時期に大学・専門学校・高校卒を大量採用
    • [90]百貨店の売り場内に自社コーナーを開設
  • 野村ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [91]1951年6月 証券投資信託法に基づく委託会社の免許を取得
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [92]GHQの要請を受けて戦後第1回の投資信託募集を開始

販路と並んで用意したのが投資を教える場と貯める道具で、全国19カ所に投資相談所を開き[93]、婦人貯蓄投資講座には延べ1万人以上が参加[94]し、投資信託サービス・ステーションは全国620カ所[95]に及んだ。宣伝部長の遠藤健一氏が考案した「百万両貯金箱」[96]は江戸期の千両箱を思わせる形で人気を呼び、1953年5月の初回配布はわずか934個[97]だったものが、1955年9月には10万個、1958年11月には20万5000個を突破して総集金額は110億円[98]に達している。1962年の配布完了時点では100万個[99]を超えた。

  • 私の証券昭和史(瀬川美能留著, 日本経済新聞社, 1986年)
    • [93]投資相談所は全国19カ所
    • [94]婦人貯蓄投資講座の受講者は延べ1万人以上
    • [95]投資信託サービス・ステーションは全国620カ所
    • [96]「百万両貯金箱」は宣伝部長の遠藤健一氏が考案
    • [97]1953年5月の初回配布は934個
    • [98]1955年9月に10万個、1958年11月に20万5000個・総集金額110億円
    • [99]1962年の配布完了時点で100万個超

調査を売り物にする社風は株式討論会にも表れ[100]、1955年1月に第1回を開き[101]、調査部と株式部が日ごろの研究成果を一般へ公開する場[102]としている。このとき示した「上期横這い、下期より好転」という予測[103]はそのとおりに推移し、参加者から好評を得た。海外へ出る足がかりも同じ時期に固めており、メリルリンチ社との提携交渉は進まず、日本銀行ニューヨーク駐在員事務所の松本重雄氏らから「一流の会社は一流の会社と組むようにしなさい」[104]と助言を受けたことも踏まえ、提携より独自出店が良いとの判断[105]で、1953年3月13日にニューヨーク支店を開設した[106]。戦前の出張所閉鎖から16年ぶり[107]のことである。同じ1953年には資本金を10億円へ増やし、5月には本店を東京・日本橋一ノ一へ移すとともに会計機を輸入[108]している。

  • 私の証券昭和史(瀬川美能留著, 日本経済新聞社, 1986年)
    • [100]調査重視の社風が株式討論会に表れた
    • [101]1955年1月 第1回株式討論会を開催
    • [102]調査部と株式部が研究成果を一般公開する場として実施
    • [103]第1回討論会の予測「上期横這い、下期より好転」
    • [104]日銀ニューヨーク駐在員事務所の松本重雄氏らの助言
    • [105]提携より独自出店を選択
    • [106]1953年3月13日 ニューヨーク支店を開設
    • [107]戦前のニューヨーク出張所閉鎖から16年ぶりの再進出
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [108]1953年 資本金を10億円へ増資し5月に本店を東京・日本橋一ノ一へ移転、会計機を輸入
  • 私の証券昭和史(瀬川美能留著, 日本経済新聞社, 1986年)
    • [86]証券民主化運動の標語
    • [87]公社債から出発し現物株を重視、投信を先行させた社風が民主化に合致
    • [88]支店網は戦災で焼失し人手も不足していた
    • [89]1947年 各社が過剰人員に悩む時期に大学・専門学校・高校卒を大量採用
    • [90]百貨店の売り場内に自社コーナーを開設
    • [93]投資相談所は全国19カ所
    • [94]婦人貯蓄投資講座の受講者は延べ1万人以上
    • [95]投資信託サービス・ステーションは全国620カ所
    • [96]「百万両貯金箱」は宣伝部長の遠藤健一氏が考案
    • [97]1953年5月の初回配布は934個
    • [98]1955年9月に10万個、1958年11月に20万5000個・総集金額110億円
    • [99]1962年の配布完了時点で100万個超
    • [100]調査重視の社風が株式討論会に表れた
    • [101]1955年1月 第1回株式討論会を開催
    • [102]調査部と株式部が研究成果を一般公開する場として実施
    • [103]第1回討論会の予測「上期横這い、下期より好転」
    • [104]日銀ニューヨーク駐在員事務所の松本重雄氏らの助言
    • [105]提携より独自出店を選択
    • [106]1953年3月13日 ニューヨーク支店を開設
    • [107]戦前のニューヨーク出張所閉鎖から16年ぶりの再進出
  • 野村ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [91]1951年6月 証券投資信託法に基づく委託会社の免許を取得
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [92]GHQの要請を受けて戦後第1回の投資信託募集を開始
    • [108]1953年 資本金を10億円へ増資し5月に本店を東京・日本橋一ノ一へ移転、会計機を輸入

ソニーADRという突破口と、四〇年不況

1959年2月、野村は米国市場での戦後初のドル建て国債発行にあたり、日本の証券会社として初めて引受団に参加[109]した。同年12月には三和・神戸両銀行とともに東洋信託銀行を共同設立[110]している。1960年5月、会長となっていた奥村綱雄氏はアメリカの有力引受業者・機関投資家18名からなる米国証券投資視察団を招いた[111]。一行が帰国する際、川島章司取締役がスミス・バーニー社のシュワーゼンバック外国部長へ[112]、いますぐ米国市場で資金調達できる日本企業はあったかと尋ねている。返答は「ノー、残念ながらあの財務内容、経営状態では、全部駄目だと思う。しかし一つだけあるが、会社が小さすぎる」であった。その小さすぎる会社がソニーであり、報告を受けた瀬川美能留氏はただちに前へ進める判断[114]を下した。 [113]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [109]1959年2月 米国市場の戦後初ドル建て国債発行で日本の証券会社として初めて引受団に参加
  • 私の証券昭和史(瀬川美能留著, 日本経済新聞社, 1986年)
    • [110]1959年12月 三和・神戸両銀行と東洋信託銀行を共同設立
    • [111]1960年5月 奥村綱雄会長が米国証券投資視察団18名を招請
    • [112]川島章司取締役がスミス・バーニー社の外国部長へ質問
    • [113]シュワーゼンバック氏の返答
    • [114]その企業がソニーで、瀬川美能留氏が推進を決めた

1961年6月、ソニーはアメリカ預託証券の日本第1号として米国市場に登場[115]した。1ADRを原株10株単位とし、公募価格は17ドル50セント、野村とスミス・バーニー社を共同幹事とする31社の引受で、発行総額350万ドル[116]の外資導入に成功している。証券取引委員会へ提出する連結財務諸表の作成は初めてのことで、アメリカから専門家を招いて一から学ぶ多難な作業[117]となり、盛田昭夫氏はのちに「この半年間は、本当に死ぬ思いであった」[118]と語った。国内では1961年10月に自社株を東京・大阪・名古屋の三取引所へ上場[119]し、1964年3月にはロンドン駐在員事務所を設けた[120]

  • 私の証券昭和史(瀬川美能留著, 日本経済新聞社, 1986年)
    • [115]1961年6月 ソニーADR第1号が米国市場に登場
    • [116]1ADR=原株10株、公募価格17ドル50セント、引受31社、発行総額350万ドル
    • [117]SEC提出の連結財務諸表作成は初めてで米国の専門家を招いた
    • [118]盛田昭夫氏「この半年間は、本当に死ぬ思いであった」
  • 野村ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [119]1961年10月 東京・大阪・名古屋の3取引所に株式を上場
    • [120]1964年3月 ロンドン駐在員事務所を設立

公開ブームの反動と投資信託の運用不振が重なり[121]、市況は1961年以降じりじりと崩れた。1965年に入ると負債総額460億円を抱えた山陽特殊製鋼が事実上倒産[122]し、東証ダウ平均は3月8日に1190円98銭、4月3日には1115円[123]まで下げている。自己売買益への依存が大きく、幹事会社として買い支えを迫られ、借入金が四社中最多だった山一證券[124]の経営が行き詰まった。大蔵省と主力新聞社の間では報道自粛協定が結ばれていたが、協定に加わっていなかった西日本新聞が独自取材で核心に迫り、5月21日朝刊に山一の経営実態と再建策の進行を報じた[125]

  • 私の証券昭和史(瀬川美能留著, 日本経済新聞社, 1986年)
    • [121]公開ブームの反動と投信の運用不振で市況が崩れた
    • [122]1965年 山陽特殊製鋼が負債総額460億円で事実上倒産
    • [123]東証ダウ平均は1965年3月8日に1190円98銭、4月3日に1115円
    • [124]山一證券は自己売買益依存・買い支え・借入金最多で行き詰まった
    • [125]大蔵省と主力新聞社の報道自粛協定を西日本新聞が破りスクープ
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [109]1959年2月 米国市場の戦後初ドル建て国債発行で日本の証券会社として初めて引受団に参加
  • 私の証券昭和史(瀬川美能留著, 日本経済新聞社, 1986年)
    • [110]1959年12月 三和・神戸両銀行と東洋信託銀行を共同設立
    • [111]1960年5月 奥村綱雄会長が米国証券投資視察団18名を招請
    • [112]川島章司取締役がスミス・バーニー社の外国部長へ質問
    • [113]シュワーゼンバック氏の返答
    • [114]その企業がソニーで、瀬川美能留氏が推進を決めた
    • [115]1961年6月 ソニーADR第1号が米国市場に登場
    • [116]1ADR=原株10株、公募価格17ドル50セント、引受31社、発行総額350万ドル
    • [117]SEC提出の連結財務諸表作成は初めてで米国の専門家を招いた
    • [118]盛田昭夫氏「この半年間は、本当に死ぬ思いであった」
    • [121]公開ブームの反動と投信の運用不振で市況が崩れた
    • [122]1965年 山陽特殊製鋼が負債総額460億円で事実上倒産
    • [123]東証ダウ平均は1965年3月8日に1190円98銭、4月3日に1115円
    • [124]山一證券は自己売買益依存・買い支え・借入金最多で行き詰まった
    • [125]大蔵省と主力新聞社の報道自粛協定を西日本新聞が破りスクープ
  • 野村ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [119]1961年10月 東京・大阪・名古屋の3取引所に株式を上場
    • [120]1964年3月 ロンドン駐在員事務所を設立

日銀特融のあとに残ったもの、そして国債大量発行時代

報道を受けて投資家は山一の窓口へ殺到し、来店客は5月24日に1万7000人、日銀特融が決まった5月28日には2万人を超え、解約総額は280億円[126]に達している。日本銀行は同日、日銀法第25条にもとづき主取引銀行を通じて事実上無担保無制限に融資する特別融資[127]へ踏み切った。融資額は240億円で、一民間企業に対して行われるのは初めて[128]のことであった。この不安が他社へも波及しかけたところで特融は効果を発揮し、大井證券にも同様の措置がとられて危機は回避[129]された。株価は7月に1000円台すれすれまで落ち込んだのち、7月27日の国債発行方針の決定を好感して反発し、わずか四カ月で半値を戻して[130]いる。同じ不況下で野村の損益は他社と分かれ、手数料収入は1961年9月期の192億円から期を追って増え、1965年9月期でも1961年9月期を上回る198億円[131]をあげている。

  • 私の証券昭和史(瀬川美能留著, 日本経済新聞社, 1986年)
    • [126]来店客は5月24日1万7000人、5月28日に2万人超、解約総額280億円
    • [127]日銀法第25条にもとづく事実上無担保無制限の特別融資
    • [128]日銀特融の融資額240億円、一民間企業への実施は初
    • [129]大井證券にも日銀特融が実施され危機を回避
    • [130]株価は7月に1000円台すれすれまで下げ、国債発行方針の決定を好感して四カ月で半値戻し
    • [131]手数料収入は1961年9月期192億円、1965年9月期198億円

有価証券利息と受取配当金を含むディーラー部門の収益が有価証券の評価損を下回ることはなく、金利負担も1963年9月期には早くも減少へ転じた[132]。この収入の安定と金利負担の減少により、野村はこの苦難期にも利益を計上して赤字を免れて[133]いる。引受審査委員会の厳重なチェックにパスしない案件は遠慮なく落とす[134]という、公社債で育った堅実さがここで差となって表れた。不況の後始末として設けられた日本共同証券と保有組合は、総額2327億円の株式肩代わりを実施[135]した。保有組合は1969年1月11日に解散し、計上利益は税込みで490億円[136]、剰余金の半分をもとに資本市場振興財団が設立[137]されている。制度の側では1968年4月に免許制へ移行し、野村は改正証券取引法にもとづく総合証券会社の免許を受けた[138]

  • 私の証券昭和史(瀬川美能留著, 日本経済新聞社, 1986年)
    • [132]ディーラー部門の収益が有価証券評価損を下回らず、金利負担も減少
    • [133]野村は四〇年不況下でも利益を計上し赤字を免れた
    • [134]引受審査委員会の審査を通らない案件は落とす方針
    • [135]日本共同証券と保有組合による株式肩代わりは総額2327億円
    • [136]保有組合は1969年1月11日に解散、計上利益は税込490億円
    • [137]剰余金の半分で資本市場振興財団を設立
  • 野村ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [138]1968年4月 改正証券取引法に基づく総合証券会社の免許を取得

組織の分社化も進み、1965年4月には調査部を分離独立させて野村総合研究所を設立[139]し、1966年1月には電子計算部を分離して野村電子計算センターを設けて[140]いる。1967年3月には香港でホンコン・インターナショナル・セキュリティーズの株式51%を取得[141]した。1975年度は国債をはじめとする公共債の大増発が始まった年[142]で、市中公募額は前年度の1兆7900億円から4兆5100億円へ一挙に2.5倍強[143]へ膨れ上がった。野村は1975年末に国債特別委員会を発足させ[144]、「国債で特優生かす貯め上手」[145]を掲げて全社で個人消化に取り組み、1976年度には証券会社引受高に占めるシェアが40%台へ乗せて[146]いる。公社債の店頭取引高も1970年の8兆8154億円から1975年には55兆6986億円へと五年で約6.3倍[147]に伸び、金融機関が債券を保有するものから運用するものへ扱いを変えた[148]ことが、流通市場の厚みをつくった。

  • 野村ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [139]1965年4月 調査部を分離独立させて野村総合研究所を設立
    • [140]1966年1月 電子計算部を分離して野村電子計算センターを設立
    • [141]1967年3月 ホンコン・インターナショナル・セキュリティーズの株式51%を取得
  • 私の証券昭和史(瀬川美能留著, 日本経済新聞社, 1986年)
    • [142]1975年度は公共債の大増発が始まった年
    • [143]1975年度の国債市中公募額は4兆5100億円(前年度1兆7900億円の2.5倍強)
    • [144]1975年末 国債特別委員会を発足
    • [145]個人消化のキャッチフレーズ「国債で特優生かす貯め上手」
    • [146]1976年度 証券会社引受高に占める野村のシェアが40%台
    • [147]公社債店頭取引高は1970年8兆8154億円から1975年55兆6986億円へ約6.3倍
    • [148]金融機関が債券を「保有するもの」から「運用するもの」へ扱いを転換
  • 私の証券昭和史(瀬川美能留著, 日本経済新聞社, 1986年)
    • [126]来店客は5月24日1万7000人、5月28日に2万人超、解約総額280億円
    • [127]日銀法第25条にもとづく事実上無担保無制限の特別融資
    • [128]日銀特融の融資額240億円、一民間企業への実施は初
    • [129]大井證券にも日銀特融が実施され危機を回避
    • [130]株価は7月に1000円台すれすれまで下げ、国債発行方針の決定を好感して四カ月で半値戻し
    • [131]手数料収入は1961年9月期192億円、1965年9月期198億円
    • [132]ディーラー部門の収益が有価証券評価損を下回らず、金利負担も減少
    • [133]野村は四〇年不況下でも利益を計上し赤字を免れた
    • [134]引受審査委員会の審査を通らない案件は落とす方針
    • [135]日本共同証券と保有組合による株式肩代わりは総額2327億円
    • [136]保有組合は1969年1月11日に解散、計上利益は税込490億円
    • [137]剰余金の半分で資本市場振興財団を設立
    • [142]1975年度は公共債の大増発が始まった年
    • [143]1975年度の国債市中公募額は4兆5100億円(前年度1兆7900億円の2.5倍強)
    • [144]1975年末 国債特別委員会を発足
    • [145]個人消化のキャッチフレーズ「国債で特優生かす貯め上手」
    • [146]1976年度 証券会社引受高に占める野村のシェアが40%台
    • [147]公社債店頭取引高は1970年8兆8154億円から1975年55兆6986億円へ約6.3倍
    • [148]金融機関が債券を「保有するもの」から「運用するもの」へ扱いを転換
  • 野村ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [138]1968年4月 改正証券取引法に基づく総合証券会社の免許を取得
    • [139]1965年4月 調査部を分離独立させて野村総合研究所を設立
    • [140]1966年1月 電子計算部を分離して野村電子計算センターを設立
    • [141]1967年3月 ホンコン・インターナショナル・セキュリティーズの株式51%を取得

1980年〜 三極体制という野心と、二度の不祥事、リーマン承継

野村ホールディングスの業績推移

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1981年 NSIがニューヨーク証券取引所会員権を取得
  2. 1991年 損失補填の証券不祥事を受けた田淵義久社長の引責辞任と「新生・野村」への機構改革 顧客の利益か、自社の利益至上か——損失補填で失った信頼を、経営陣の刷新でどう取り戻すか
  3. 1997年 総会屋への利益供与の再発と、氏家純一氏社長による二度目の企業統治改革 1991年の不祥事から6年、なぜ野村は再び躓いたのか——「過去を断つ」再生に何を賭けたか
  4. 2001年 持株会社体制に移行し野村HDに商号変更
  5. 2008年 リーマン・ブラザーズのアジア太平洋・欧州中東部門の承継によるグローバル投資銀行への転身 世界金融危機のさなか、破綻した米名門の人材約8,000名を引き受けた賭けは何を残したか
  6. 2009年 金融危機とリーマン統合費用で巨額純損失
  7. 2019年 「猛烈営業」モデルの転換と国内店舗2割削減 ── ウェルス・マネジメントへの構造改革 手数料自由化とネット証券の台頭のなか、「猛烈営業」で築いたリテールの巨艦は資産管理型へ転換しきれるか

海外現地法人の整備と、バブル崩壊後に噴き出した二つの事件

1980年代の野村は海外を駐在員事務所から現地法人へ組み替え、1981年3月にイギリス・ロンドン市でノムラ・インターナショナルを証券業現地法人として設立[149]し、同年7月にはノムラ・セキュリティーズ・インターナショナルがニューヨーク証券取引所の会員[150]となっている。1989年4月にはアメリカ・ニューヨーク市に米州持株会社ノムラ・ホールディング・アメリカ[151]を、1990年2月にはオランダ・アムステルダム市にアジア持株会社ノムラ・アジア・ホールディングN.V.を設けた[152]。日米欧それぞれに統括会社を置く体制[153]が、この時期に整っている。

  • 野村ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [149]1981年3月 イギリス・ロンドン市でノムラ・インターナショナルを証券業現地法人として設立
    • [150]1981年7月 ノムラ・セキュリティーズ・インターナショナルがニューヨーク証券取引所会員となる
    • [151]1989年4月 アメリカ・ニューヨーク市に米州持株会社ノムラ・ホールディング・アメリカを設立
    • [152]1990年2月 オランダ・アムステルダム市にアジア持株会社ノムラ・アジア・ホールディングN.V.を設立
    • [153]日米欧それぞれに統括会社を置く体制が整った

1989年末の日経平均38,915円をピーク[154]に株価が下落へ転じると、証券各社が大口顧客の損失を事後に補填していた慣行が1991年に表面化[155]した。最大手の野村はその震源となり、田淵義久社長と田淵節也会長が引責辞任[156]している。後任の酒巻英雄社長は「顧客と共に栄える」という創業以来の理念への回帰と機構改革を「新生・野村」と称して掲げ[157]、ノーと言える証券会社への転換を打ち出した。制度の側でも1991年の証券取引法改正で事後の損失補填が禁じられ[158]、1992年7月には証券取引等監視委員会が発足[159]して、事後監視型の証券行政へ切り替わった。1993年8月には銀行と証券の相互乗り入れ解禁を受けて野村信託銀行を設立[160]している。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [154]1989年末の日経平均ピークは38,915円
    • [155]1991年に大口顧客への損失補填が表面化し野村が震源となった
    • [156]田淵義久社長と田淵節也会長が引責辞任
    • [158]1991年 証券取引法改正で事後の損失補填を禁止
  • 日経ビジネス 1992年4月20日号「信頼回復へ新しい営業模索『ノー』と言える証券会社に」
    • [157]酒巻英雄社長が掲げた「新生・野村」
  • 金融庁 証券取引等監視委員会「証券取引等監視委員会」(https://www.fsa.go.jp/sesc/aboutsesc/pamphlet.pdf)
    • [159]1992年7月 証券取引等監視委員会が発足
  • 野村ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [160]1993年8月 野村信託銀行を設立

再生の宣言から六年後、野村は同じ場所[161]でつまずく。1997年3月25日に東京地検と証券取引等監視委員会が合同で強制調査に入り[162]、代表取締役社長を含む四名の役職員が関与した損失補填と利益追加、総会屋への現金3億2000万円の供与[163]が明らかになった。酒巻英雄氏は引責辞任し、常務から昇格した氏家純一氏[164]が「不祥事がまた起きたら会社は潰れる」[165]という危機感のもとで内部管理体制の立て直しに着手した。同年8月には株式関連業務の停止や社長ら三名の外務員登録取消などの行政処分[166]が科され、1997年3月期の連結当期純損失は2427億円[167]に達している。

  • 週刊東洋経済 1997年8月23日号「特集 山一・野村・一勧事件 総会屋事件が広げる証券危機の構図」
    • [161]1991年の損失補填から六年後に再び不祥事を起こした
    • [162]1997年3月25日 東京地検と証券取引等監視委員会が合同で強制調査
    • [163]代表取締役社長を含む四名の関与、総会屋への現金3億2000万円の供与
    • [166]1997年8月 株式関連業務の停止と社長ら三名の外務員登録取消の行政処分
  • 週刊東洋経済 1997年5月24日号「野村証券首脳・緊急インタビュー 経営のジャッジはすべて私がする 氏家純一社長」
    • [164]酒巻英雄氏が引責辞任し氏家純一氏が常務から社長へ昇格
  • 日経ビジネス 1997年7月21日号「編集長インタビュー 氏家純一氏[野村証券社長]不祥事また起きたら会社潰れる」
    • [165]氏家純一氏「不祥事がまた起きたら会社は潰れる」
  • 野村ホールディングス 有価証券報告書(連結・米国会計基準)
    • [167]1997年3月期 連結当期純損失2427億円
  • 野村ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [149]1981年3月 イギリス・ロンドン市でノムラ・インターナショナルを証券業現地法人として設立
    • [150]1981年7月 ノムラ・セキュリティーズ・インターナショナルがニューヨーク証券取引所会員となる
    • [151]1989年4月 アメリカ・ニューヨーク市に米州持株会社ノムラ・ホールディング・アメリカを設立
    • [152]1990年2月 オランダ・アムステルダム市にアジア持株会社ノムラ・アジア・ホールディングN.V.を設立
    • [153]日米欧それぞれに統括会社を置く体制が整った
    • [160]1993年8月 野村信託銀行を設立
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [154]1989年末の日経平均ピークは38,915円
    • [155]1991年に大口顧客への損失補填が表面化し野村が震源となった
    • [156]田淵義久社長と田淵節也会長が引責辞任
    • [158]1991年 証券取引法改正で事後の損失補填を禁止
  • 日経ビジネス 1992年4月20日号「信頼回復へ新しい営業模索『ノー』と言える証券会社に」
    • [157]酒巻英雄社長が掲げた「新生・野村」
  • 金融庁 証券取引等監視委員会「証券取引等監視委員会」(https://www.fsa.go.jp/sesc/aboutsesc/pamphlet.pdf)
    • [159]1992年7月 証券取引等監視委員会が発足
  • 週刊東洋経済 1997年8月23日号「特集 山一・野村・一勧事件 総会屋事件が広げる証券危機の構図」
    • [161]1991年の損失補填から六年後に再び不祥事を起こした
    • [162]1997年3月25日 東京地検と証券取引等監視委員会が合同で強制調査
    • [163]代表取締役社長を含む四名の関与、総会屋への現金3億2000万円の供与
    • [166]1997年8月 株式関連業務の停止と社長ら三名の外務員登録取消の行政処分
  • 週刊東洋経済 1997年5月24日号「野村証券首脳・緊急インタビュー 経営のジャッジはすべて私がする 氏家純一社長」
    • [164]酒巻英雄氏が引責辞任し氏家純一氏が常務から社長へ昇格
  • 日経ビジネス 1997年7月21日号「編集長インタビュー 氏家純一氏[野村証券社長]不祥事また起きたら会社潰れる」
    • [165]氏家純一氏「不祥事がまた起きたら会社は潰れる」
  • 野村ホールディングス 有価証券報告書(連結・米国会計基準)
    • [167]1997年3月期 連結当期純損失2427億円

持株会社化とガリバーの終わり、そしてリーマン承継

二度目の刷新は統治の形そのものを変える方向へ向かい、1998年3月にイギリス・ロンドン市で欧州持株会社ノムラ・ヨーロッパ・ホールディングズを設立[168]したのに続き、2000年3月には野村アセット・マネジメント投信を連結子会社とし[169]、2001年10月には会社分割によって証券業を野村證券分割準備株式会社へ承継させ、持株会社体制へ移行して社名を野村ホールディングス株式会社に改めた。同年12月にはニューヨーク証券取引所へ上場[171]している。2003年6月には野村ホールディングスと国内子会社14社が指名委員会等設置会社へ移行[172]し、氏家純一氏から古賀信行氏へ社長が引き継がれた[173][170]

  • 野村ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [168]1998年3月 イギリス・ロンドン市に欧州持株会社ノムラ・ヨーロッパ・ホールディングズを設立
    • [169]2000年3月 野村アセット・マネジメント投信を連結子会社化
    • [170]2001年10月 会社分割により持株会社体制へ移行し野村ホールディングスへ社名変更
    • [171]2001年12月 ニューヨーク証券取引所に上場
    • [172]2003年6月 国内子会社14社とともに指名委員会等設置会社へ移行
  • 週刊東洋経済 2010年9月11日号「会社が変わる! 企業戦略シリーズ5 第4回 野村ホールディングス リーマン買収から2年 真の国際化阻むハードル」
    • [173]氏家純一氏から古賀信行氏へ社長が交代

国内の地位は制度改革とともに[174]揺らぐ。2004年6月、東芝が1989年以来15年ぶりのエクイティファイナンスを発表[175]した際、主幹事の野村證券と並んでみずほ証券が指名された[176]。大手三社以外の日系証券が共同主幹事に並んだことは業界に衝撃[177]を与えた。1998年に解禁された投資信託の銀行窓販は開始わずか五年で株式投信残高の約半分[178]を占めるまでになり、個人の株式売買代金に占めるネット専業大手のシェアは約六割[179]に達していた。証券取引法第65条は事実上形骸化した[180]と評されるほど、銀行と証券の垣根は低くなった。

  • 週刊東洋経済 2004年10月30日号「特集 金融グループ大競争 野村ホールディングス 自主独立路線を貫くガリバー」
    • [174]制度改革により国内での地位が揺らいだ
    • [175]2004年6月 東芝が1989年以来15年ぶりのエクイティファイナンスを発表
    • [176]主幹事の野村證券と並んでみずほ証券が指名された
    • [177]大手三社以外の日系証券が共同主幹事に並んだ
    • [178]1998年解禁の銀行窓販は五年で株式投信残高の約半分を占めた
    • [179]個人の株式売買代金に占めるネット専業大手のシェアは約六割
    • [180]証券取引法第65条は事実上形骸化したとの評

2006年3月期には収益合計1兆1456億円・親会社株主帰属当期純利益3043億円[181]と持株会社化後の最高益を記録したが、その好況はサブプライム前夜の市況に支えられたもの[182]だった。2007年2月には米国の電子取引基盤大手インスティネット社を連結子会社とした[183]が、2008年3月期には税前損益649億円の損失[184]と親会社株主帰属当期純損失678億円を計上[185]している。同年4月、1997年の総退陣以来11年ぶりとなる首脳刷新で渡部賢一氏が3代目グループCEOに就いた[186]。守りを優先して組織の硬直化が進んだ氏家純一氏と古賀信行氏の時代[187]を打破すべく、バランス重視を自認する古賀氏が決断力を評価して禅譲を決めた[188]ものであった。渡部氏自身も就任にあたって、変化を自ら作り出すという抱負[189]を掲げている。

  • 野村ホールディングス 有価証券報告書(連結・米国会計基準)
    • [181]2006年3月期 収益合計1兆1456億円・親会社株主帰属当期純利益3043億円
    • [184]2008年3月期 税前損益649億円の損失
    • [185]2008年3月期 親会社株主帰属当期純損失678億円
  • 週刊東洋経済 2010年9月11日号「会社が変わる! 企業戦略シリーズ5 第4回 野村ホールディングス リーマン買収から2年 真の国際化阻むハードル」
    • [182]好況はサブプライム前夜の市況に支えられていた
    • [186]1997年の総退陣以来11年ぶりの首脳刷新で渡部賢一氏が3代目グループCEOに就任
    • [187]氏家純一氏・古賀信行氏の時代は守りを優先して組織が硬直化していた
    • [188]古賀氏が渡部氏の決断力を評価して禅譲を決めた
    • [189]渡部賢一氏の就任時の抱負「変化を自ら作り出す」
  • 野村ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [183]2007年2月 インスティネット社を連結子会社化
  • 野村ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [168]1998年3月 イギリス・ロンドン市に欧州持株会社ノムラ・ヨーロッパ・ホールディングズを設立
    • [169]2000年3月 野村アセット・マネジメント投信を連結子会社化
    • [170]2001年10月 会社分割により持株会社体制へ移行し野村ホールディングスへ社名変更
    • [171]2001年12月 ニューヨーク証券取引所に上場
    • [172]2003年6月 国内子会社14社とともに指名委員会等設置会社へ移行
    • [183]2007年2月 インスティネット社を連結子会社化
  • 週刊東洋経済 2010年9月11日号「会社が変わる! 企業戦略シリーズ5 第4回 野村ホールディングス リーマン買収から2年 真の国際化阻むハードル」
    • [173]氏家純一氏から古賀信行氏へ社長が交代
    • [182]好況はサブプライム前夜の市況に支えられていた
    • [186]1997年の総退陣以来11年ぶりの首脳刷新で渡部賢一氏が3代目グループCEOに就任
    • [187]氏家純一氏・古賀信行氏の時代は守りを優先して組織が硬直化していた
    • [188]古賀氏が渡部氏の決断力を評価して禅譲を決めた
    • [189]渡部賢一氏の就任時の抱負「変化を自ら作り出す」
  • 週刊東洋経済 2004年10月30日号「特集 金融グループ大競争 野村ホールディングス 自主独立路線を貫くガリバー」
    • [174]制度改革により国内での地位が揺らいだ
    • [175]2004年6月 東芝が1989年以来15年ぶりのエクイティファイナンスを発表
    • [176]主幹事の野村證券と並んでみずほ証券が指名された
    • [177]大手三社以外の日系証券が共同主幹事に並んだ
    • [178]1998年解禁の銀行窓販は五年で株式投信残高の約半分を占めた
    • [179]個人の株式売買代金に占めるネット専業大手のシェアは約六割
    • [180]証券取引法第65条は事実上形骸化したとの評
  • 野村ホールディングス 有価証券報告書(連結・米国会計基準)
    • [181]2006年3月期 収益合計1兆1456億円・親会社株主帰属当期純利益3043億円
    • [184]2008年3月期 税前損益649億円の損失
    • [185]2008年3月期 親会社株主帰属当期純損失678億円

8,000人の継承が残した損益分岐点と、最高益の更新

2008年9月15日にリーマン・ブラザーズが破綻[190]すると、野村は破綻からわずか一週間で動いた。9月22日にアジア・パシフィック部門、翌23日に欧州・中東部門の取得を発表[191]し、10月に雇用等の承継を完了[192]している。債権債務を引き継いだわけではなく、設備機器やIT・決済子会社の買収で数百億円を支払った以外の買収価格は実質ゼロ[193]で、実態は旧リーマンの人員8150人の継承[194]に近い。北米部門はバークレイズが先に引き取ったため、野村は投資銀行最大の資産である人材に絞って手を挙げた[195]形であった。旧リーマンはウォール街トップ5に名を連ねた代表的投資銀行で、その欧州・アジア部門は証券引き受けなどで当時の野村の実力を大きくしのいで[196]いた。代償は財務と組織の両面に出て、2009年3月期の親会社株主帰属当期純損失は7082億円[197]に達し、旧リーマン社員への高い報酬保証が損益分岐点を押し上げて危機後も長く残った[198]。社内会議で外国人が一人でもいれば英語を使い[199]、部門間異動がなく実績次第で報酬が変動するグローバル型社員の職種を導入[200]するなど、制度は外資へ寄せている。

  • 週刊東洋経済 2010年9月11日号「会社が変わる! 企業戦略シリーズ5 第4回 野村ホールディングス リーマン買収から2年 真の国際化阻むハードル」
    • [190]2008年9月15日 リーマン・ブラザーズが破綻
    • [191]9月22日にアジア・パシフィック部門、23日に欧州・中東部門の取得を発表
    • [193]設備機器やIT・決済子会社の買収で数百億円、それ以外の買収価格は実質ゼロ
    • [194]旧リーマンの人員8150人を継承
    • [195]北米部門はバークレイズが引き取り、野村は人材に絞って手を挙げた
    • [196]旧リーマンはウォール街トップ5の代表的投資銀行で欧州・アジア部門は野村の実力を大きく上回っていた
    • [198]旧リーマン社員への報酬保証が損益分岐点を押し上げた
    • [199]社内会議で外国人が一人でもいれば英語を使う運用
    • [200]部門間異動がなく実績連動で報酬が変わるグローバル型社員を導入
  • 野村ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [192]2008年10月 リーマンのアジア・パシフィックおよび欧州・中東地域部門の雇用等を承継
  • 野村ホールディングス 有価証券報告書(連結・米国会計基準)
    • [197]2009年3月期 親会社株主帰属当期純損失7082億円

それでもグループの実質的な最高意思決定機関である経営会議のメンバーは11人中10人が野村プロパー[201]で、ホールセール部門の現場ヘッドのほとんどが旧リーマン中心の外国人へ代わった[202]のとは対照的であった。国内側の再編も並行し、2009年11月に野村證券がジョインベスト証券を吸収合併してネット証券事業を本体へ統合[203]し、2011年5月には野村土地建物を連結子会社として[204]いる。2012年4月にリテール出身の永井浩二氏が4代目グループCEOに就く[205]と、連結税引前利益は2013年3月期に2377億円、2014年3月期に3616億円へ回復[206]した。それでも海外発の損益変動は続き、2019年3月期には親会社株主帰属当期純損失1004億円と、承継から10年で二度目の年度赤字[207]を計上した。2019年4月4日、野村證券は全156店舗の約二割にあたる30店強を首都圏中心に統廃合し、三年で1400億円のコストを削減[208]すると発表した。

  • 週刊東洋経済 2010年9月11日号「会社が変わる! 企業戦略シリーズ5 第4回 野村ホールディングス リーマン買収から2年 真の国際化阻むハードル」
    • [201]経営会議は11人中10人が野村プロパー
    • [202]ホールセール部門の現場ヘッドの多くが旧リーマン中心の外国人へ交代
    • [205]2012年4月 リテール出身の永井浩二氏が4代目グループCEOに就任
  • 野村ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [203]2009年11月 野村證券がジョインベスト証券を吸収合併
    • [204]2011年5月 野村土地建物を連結子会社化
  • 野村ホールディングス 有価証券報告書(連結・米国会計基準)
    • [206]連結税引前利益は2013年3月期2377億円・2014年3月期3616億円へ回復
    • [207]2019年3月期 親会社株主帰属当期純損失1004億円(承継から10年で二度目の年度赤字)
  • 日本経済新聞(2019年4月4日)「野村、国内店舗を2割減 デジタル化で営業戦略転換」
    • [208]2019年4月4日 全156店舗の約2割にあたる30店強を統廃合し3年で1400億円削減

戸別訪問や電話勧誘で猛烈と称された営業モデルを富裕層・資産管理型へ転換[209]する判断であり、2020年4月に就いた奥田健太郎[210]が改革を継いで、2024年4月には営業部門をウェルス・マネジメント部門へ改称[211]した。海外については、奥田氏が「米国の大手金融機関と競争してすべての分野で勝てるとは思っていない」[212]と述べ、株式デリバティブや不動産担保証券の組成・販売など得意分野へ資源を集中[213]する方針を示した。業績はその後回復し、2025年3月期の親会社株主帰属当期純利益は3407億円[214]と、2006年3月期の3043億円を上回って持株会社化後の最高益を更新[215]した。2026年3月期はさらに3621億円[216]へ伸びている。2021年4月にはアセット・マネジメント部門とマーチャント・バンキング部門を廃してインベストメント・マネジメント部門を設け[217]、2025年4月にはバンキング部門を新設[218]した。同じ2025年4月、マッコーリー・グループの米国・欧州のパブリック運用事業を約18億ドルで買収すると発表[219]し、運用資産残高約1,800億ドルを取り込んで[220]いる。

  • 日本経済新聞(2019年4月4日)「野村、国内店舗を2割減 デジタル化で営業戦略転換」
    • [209]猛烈と称された営業モデルを富裕層・資産管理型へ転換
  • 週刊東洋経済 2022年12月24日号「2023年大予測 Interview 野村ホールディングスグループCEO 奥田健太郎」
    • [210]2020年4月 奥田健太郎氏がグループCEOに就任
    • [212]奥田健太郎氏「米国の大手金融機関と競争してすべての分野で勝てるとは思っていない」
    • [213]株式デリバティブや不動産担保証券の組成・販売など得意分野へ資源を集中
  • 野村ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [211]2024年4月 営業部門をウェルス・マネジメント部門に改称
    • [217]2021年4月 アセット・マネジメント部門とマーチャント・バンキング部門を廃止しインベストメント・マネジメント部門を設立
    • [218]2025年4月 バンキング部門を新設
  • 野村ホールディングス 有価証券報告書(連結・米国会計基準)
    • [214]2025年3月期 親会社株主帰属当期純利益3407億円(持株会社化後の最高益を更新)
    • [215]2006年3月期の3043億円を上回った
    • [216]2026年3月期 親会社株主帰属当期純利益3621億円
  • 野村ホールディングス ニュースリリース「マッコーリー・グループの米国資産運用会社の全株式取得で合意」(2025年4月22日)
    • [219]2025年4月 マッコーリー・グループの米国・欧州パブリック運用事業を約18億ドルで買収すると発表
    • [220]運用資産残高約1,800億ドルを取り込んだ
  • 週刊東洋経済 2010年9月11日号「会社が変わる! 企業戦略シリーズ5 第4回 野村ホールディングス リーマン買収から2年 真の国際化阻むハードル」
    • [190]2008年9月15日 リーマン・ブラザーズが破綻
    • [191]9月22日にアジア・パシフィック部門、23日に欧州・中東部門の取得を発表
    • [193]設備機器やIT・決済子会社の買収で数百億円、それ以外の買収価格は実質ゼロ
    • [194]旧リーマンの人員8150人を継承
    • [195]北米部門はバークレイズが引き取り、野村は人材に絞って手を挙げた
    • [196]旧リーマンはウォール街トップ5の代表的投資銀行で欧州・アジア部門は野村の実力を大きく上回っていた
    • [198]旧リーマン社員への報酬保証が損益分岐点を押し上げた
    • [199]社内会議で外国人が一人でもいれば英語を使う運用
    • [200]部門間異動がなく実績連動で報酬が変わるグローバル型社員を導入
    • [201]経営会議は11人中10人が野村プロパー
    • [202]ホールセール部門の現場ヘッドの多くが旧リーマン中心の外国人へ交代
    • [205]2012年4月 リテール出身の永井浩二氏が4代目グループCEOに就任
  • 野村ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [192]2008年10月 リーマンのアジア・パシフィックおよび欧州・中東地域部門の雇用等を承継
    • [203]2009年11月 野村證券がジョインベスト証券を吸収合併
    • [204]2011年5月 野村土地建物を連結子会社化
    • [211]2024年4月 営業部門をウェルス・マネジメント部門に改称
    • [217]2021年4月 アセット・マネジメント部門とマーチャント・バンキング部門を廃止しインベストメント・マネジメント部門を設立
    • [218]2025年4月 バンキング部門を新設
  • 野村ホールディングス 有価証券報告書(連結・米国会計基準)
    • [197]2009年3月期 親会社株主帰属当期純損失7082億円
    • [206]連結税引前利益は2013年3月期2377億円・2014年3月期3616億円へ回復
    • [207]2019年3月期 親会社株主帰属当期純損失1004億円(承継から10年で二度目の年度赤字)
    • [214]2025年3月期 親会社株主帰属当期純利益3407億円(持株会社化後の最高益を更新)
    • [215]2006年3月期の3043億円を上回った
    • [216]2026年3月期 親会社株主帰属当期純利益3621億円
  • 日本経済新聞(2019年4月4日)「野村、国内店舗を2割減 デジタル化で営業戦略転換」
    • [208]2019年4月4日 全156店舗の約2割にあたる30店強を統廃合し3年で1400億円削減
    • [209]猛烈と称された営業モデルを富裕層・資産管理型へ転換
  • 週刊東洋経済 2022年12月24日号「2023年大予測 Interview 野村ホールディングスグループCEO 奥田健太郎」
    • [210]2020年4月 奥田健太郎氏がグループCEOに就任
    • [212]奥田健太郎氏「米国の大手金融機関と競争してすべての分野で勝てるとは思っていない」
    • [213]株式デリバティブや不動産担保証券の組成・販売など得意分野へ資源を集中
  • 野村ホールディングス ニュースリリース「マッコーリー・グループの米国資産運用会社の全株式取得で合意」(2025年4月22日)
    • [219]2025年4月 マッコーリー・グループの米国・欧州パブリック運用事業を約18億ドルで買収すると発表
    • [220]運用資産残高約1,800億ドルを取り込んだ

野村ホールディングスの沿革1872〜2025年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
初代野村徳七が大阪・農人橋詰町で両替商を開業
大阪野村銀行を設立
野村證券を設立
公社債専門業者として営業開始
株式業務の認可を取得
わが国最初の投資信託業務の認可を取得★★
財閥指定による制限会社に
本店を大阪から東京へ移転
配電株(電力株)公募で業界最大の成果
東京証券取引所正会員に
戦後再開第1回投資信託を募集
ニューヨーク支店を開設
日本証券会社初の海外引受団参加
東洋信託銀行を三和・神戸両銀行と共同設立
投信委託業務を営業譲渡
東京・大阪・名古屋証券取引所に株式上場
野村総合研究所を設立
改正証券取引法に基づく総合証券会社の免許を取得
ノムラ・セキュリティーズ・インターナショナルを設立
ノムラ・インターナショナルを設立
NSIがニューヨーク証券取引所会員権を取得★★
NILがロンドン証券取引所会員資格を取得
米州持株会社ノムラ・HD・アメリカを設立
損失補填の証券不祥事を受けた田淵義久社長の引責辞任と「新生・野村」への機構改革顧客の利益か、自社の利益至上か——損失補填で失った信頼を、経営陣の刷新でどう取り戻すか 詳細を読む★★★
野村信託銀行を設立
総会屋への利益供与の再発と、氏家純一氏社長による二度目の企業統治改革1991年の不祥事から6年、なぜ野村は再び躓いたのか——「過去を断つ」再生に何を賭けたか 詳細を読む★★★
金融研究所を設立
改正証券取引法に基づく総合証券会社として登録
持株会社体制に移行し野村HDに商号変更★★
氏家純一が初代社長に就任
渡部賢一サブプライム問題で純損失計上
渡部賢一リーマン・ブラザーズのアジア太平洋・欧州中東部門の承継によるグローバル投資銀行への転身世界金融危機のさなか、破綻した米名門の人材約8,000名を引き受けた賭けは何を残したか 詳細を読む★★★
渡部賢一金融危機とリーマン統合費用で巨額純損失★★
渡部賢一野村土地建物を子会社化
永井浩二永井浩二氏が社長に就任
永井浩二海外ホールセール不振で純損失計上★★
永井浩二「猛烈営業」モデルの転換と国内店舗2割削減 ── ウェルス・マネジメントへの構造改革手数料自由化とネット証券の台頭のなか、「猛烈営業」で築いたリテールの巨艦は資産管理型へ転換しきれるか 詳細を読む★★★
奥田健太郎奥田健太郎氏が社長に就任
奥田健太郎子会社で決済不履行による貸倒引当を計上
奥田健太郎バンキング部門を新設
奥田健太郎マッコーリー・グループのアセットマネジメント事業を買収発表★★
出典・参考
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「大阪屋証券」の項
  • 私の証券昭和史(瀬川美能留著, 日本経済新聞社, 1986年)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「野村証券」の項
  • 野村ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
  • 日経ビジネス 1992年4月20日号「信頼回復へ新しい営業模索『ノー』と言える証券会社に」
  • 金融庁 証券取引等監視委員会「証券取引等監視委員会」(https://www.fsa.go.jp/sesc/aboutsesc/pamphlet.pdf)
  • 週刊東洋経済 1997年8月23日号「特集 山一・野村・一勧事件 総会屋事件が広げる証券危機の構図」
  • 週刊東洋経済 1997年5月24日号「野村証券首脳・緊急インタビュー 経営のジャッジはすべて私がする 氏家純一社長」
  • 日経ビジネス 1997年7月21日号「編集長インタビュー 氏家純一氏[野村証券社長]不祥事また起きたら会社潰れる」
  • 野村ホールディングス 有価証券報告書(連結・米国会計基準)
  • 週刊東洋経済 2010年9月11日号「会社が変わる! 企業戦略シリーズ5 第4回 野村ホールディングス リーマン買収から2年 真の国際化阻むハードル」
  • 週刊東洋経済 2004年10月30日号「特集 金融グループ大競争 野村ホールディングス 自主独立路線を貫くガリバー」
  • 日本経済新聞(2019年4月4日)「野村、国内店舗を2割減 デジタル化で営業戦略転換」
  • 週刊東洋経済 2022年12月24日号「2023年大予測 Interview 野村ホールディングスグループCEO 奥田健太郎」
  • 野村ホールディングス ニュースリリース「マッコーリー・グループの米国資産運用会社の全株式取得で合意」(2025年4月22日)

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