1902年〜 米穀商の資金力から日本初のビルブローカーへ、そして証券専業への転換
- 1902年 藤本ビルブローカー創業
- 1906年 藤本ビルブローカーを設立
- 1907年 藤本ビルブローカー銀行に商号変更
- 1933年 藤本ビルブローカー証券に商号変更
- 1937年 日本初の投資信託「藤本有価証券投資組合」を発足
- 1942年 藤本証券に商号変更
- 1943年 日本信託銀行と合併し大和証券誕生
米相場で得た資金が開いた日本初のコール市場
大和証券の源流は、大阪の米穀商・藤本商店[1]にある。幕末の四代目住吉屋清兵衛氏は明治維新後に藤本姓を名乗って[2]商いを続け、1889年の凶作の際には政府の命を受けて朝鮮・サイゴン・ラングーンから外米を輸入[3]した。1895年12月には養子の藤本清兵衛氏が合資会社藤本銀行を設立[4]している。清兵衛氏は福島紡績や大日本製糖の役員を務めるかたわら藤本銀行を経営[5]しており、一般の銀行が短期の融通資金を調達する市場が国内になかった[6]ところに着目した。1902年5月、ビルブローカー業を開設すべく藤本ビルブローカーを大阪に設立[7]し、これがわが国におけるコール市場形成の第一歩[8]となった。相場師が興した株屋ではなく、コール・マネーの運用と手形の売買を主業務とする会社から出発[9]している。
- 週刊東洋経済 1999年4月10日号「実録・会社が変わる日 消えた“大和證券” 初の持株会社の成算」
- [1]大和証券の源流は大阪の米穀商・藤本商店
- [2]幕末の四代目住吉屋清兵衛が明治維新後に藤本姓を名乗る
- [3]1889年の凶作で政府の命により朝鮮・サイゴン・ラングーンから外米を輸入
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大和証券」の項
- [4]1895年12月 養子の藤本清兵衛が合資会社藤本銀行を設立
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [5]藤本清兵衛は福島紡績・大日本製糖の役員を務めつつ藤本銀行を経営
- [6]一般の銀行に融通資金の短期的調達を行う市場がなかった
- [7]1902年5月 藤本ビルブローカーを大阪に設立
- [8]藤本ビルブローカーの設立はわが国におけるコール市場形成の第一歩
- 週刊東洋経済 2000年7月1日号「企業レポート 企業改革 大和証券グループ本社「修正日本経営」で挑む万年2位からの脱却」
- [9]大和の前身はコール・マネーの運用や手形売買を主業務とし、相場師が築いた株屋とは異なる
開業の翌1903年には神戸・京都・名古屋・東京へ支店を設けた[10]。1904年の日露戦争開戦にあたっては清兵衛氏が国庫債券を買い入れてロンドンへ輸出し、取扱高は1億7000万円に達したとされる[11]。サミュエル・サミュエル商会と業務提携して国庫債券をロンドンへ輸出[12]するなど、当時すでに取引は全国的な規模で行われていた。1906年10月には個人経営を株式会社組織へ改め、資本金20万円の株式会社藤本ビルブローカー[13]とした。1907年1月には、政府がビルブローカー業を銀行条例にもとづくべきものと規定したのに従って藤本ビルブローカー銀行へ改称し、資本金を100万円へ積み増している[14]。コール・銀行業・代弁業の併営を定款に明記し、証券業を事業目的へ加えた。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [10]明治36年(1903年)に神戸・京都・名古屋・東京へ支店を設置
- [12]サミュエル・サミュエル商会と業務提携し国庫債券をロンドンへ輸出、当時の取引は全国的規模
- [13]1906年10月 個人経営を株式会社組織に改め資本金20万円の株式会社藤本ビルブローカーを設立
- [14]1907年1月 政府がビルブローカー業を銀行条例にもとづくものと規定、藤本ビルブローカー銀行へ改称し資本金100万円へ増資
- 日本会社史総覧 1995(東洋経済新報社, 1995)
- [11]1904年 日露戦争に伴う国庫債券のロンドン輸出取扱高 1億7000万円
- 週刊東洋経済 1999年4月10日号「実録・会社が変わる日 消えた“大和證券” 初の持株会社の成算」
- [1]大和証券の源流は大阪の米穀商・藤本商店
- [2]幕末の四代目住吉屋清兵衛が明治維新後に藤本姓を名乗る
- [3]1889年の凶作で政府の命により朝鮮・サイゴン・ラングーンから外米を輸入
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大和証券」の項
- [4]1895年12月 養子の藤本清兵衛が合資会社藤本銀行を設立
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [5]藤本清兵衛は福島紡績・大日本製糖の役員を務めつつ藤本銀行を経営
- [6]一般の銀行に融通資金の短期的調達を行う市場がなかった
- [7]1902年5月 藤本ビルブローカーを大阪に設立
- [8]藤本ビルブローカーの設立はわが国におけるコール市場形成の第一歩
- [10]明治36年(1903年)に神戸・京都・名古屋・東京へ支店を設置
- [12]サミュエル・サミュエル商会と業務提携し国庫債券をロンドンへ輸出、当時の取引は全国的規模
- [13]1906年10月 個人経営を株式会社組織に改め資本金20万円の株式会社藤本ビルブローカーを設立
- [14]1907年1月 政府がビルブローカー業を銀行条例にもとづくものと規定、藤本ビルブローカー銀行へ改称し資本金100万円へ増資
- 週刊東洋経済 2000年7月1日号「企業レポート 企業改革 大和証券グループ本社「修正日本経営」で挑む万年2位からの脱却」
- [9]大和の前身はコール・マネーの運用や手形売買を主業務とし、相場師が築いた株屋とは異なる
- 日本会社史総覧 1995(東洋経済新報社, 1995)
- [11]1904年 日露戦争に伴う国庫債券のロンドン輸出取扱高 1億7000万円
日糖事件の破綻から公社債引受と在外公債の逆輸入へ
1909年1月13日、主要取引先だった大日本製糖が社長以下の役員の連帯辞職とともに支払を停止[15]した。同社は1906年に日本精製糖と日本精糖が合併して資本金1200万円で発足した当時最大の精糖会社[16]で、藤本清兵衛氏は設立時から監査役として関係していた[17]。砂糖消費税をめぐる投機的な原料の見込輸入と見込生産により1000万円に達する在庫を抱え[18]、経営難を深めていた。藤本ビルブローカー銀行は同社への164万2000円の債権を持つ最大の債権者[19]で、うち62万円は無担保、残る102万2000円の担保もすべて同社の社債[20]であった。前年末の資本金は100万円、運用資金は約2000万円[21]で、この不良債権は少額とはいえなかった。
- [15]1909年1月13日 大日本製糖が社長以下の役員の連帯辞職と支払停止
- [16]1906年 日本精製糖と日本精糖が合併し資本金1200万円で発足した当時最大の精糖会社
- [17]藤本清兵衛 大日本製糖の設立時から監査役
- [18]砂糖消費税をめぐる投機的な見込輸入と見込生産で在庫1000万円
- [19]大日本製糖への債権164万2000円で最大の債権者
- [20]無担保62万円 担保付102万2000円の担保はすべて大日本製糖の社債
- [21]1908年末 資本金100万円 運用資金約2000万円
1909年3月18日、藤本ビルブローカー銀行は担保の有無にかかわらず債権の回収を猶予してほしいという文書を各債権者へ発送[22]した。債権者は銀行84行と会社・個人31件、債権総額は1600万円弱[23]にのぼり、うち200万円が無担保で、その多くを地方銀行が占めた[24]。整理には、藤本清兵衛氏の年来の友人で三井銀行大阪支店長を務めた平賀敏氏が顧問として加わっている[25]。同年9月27日の臨時株主総会で清兵衛氏は引責辞職[26]し、翌1910年7月18日の定時株主総会で平賀氏が取締役会長に就いた[27]。清兵衛氏の持株の大部分は平賀氏と武藤山治氏へ譲渡され[28]、創業家は経営から離れている。営業再開は同年8月1日[29]で、朝吹英二氏・武藤氏・島徳蔵氏・八木与三郎氏・柳広蔵氏がそれぞれ2万円を預金[30]して再出発を支えた。
- [22]1909年3月18日 担保の有無を問わず回収猶予を求める文書を各債権者へ発送
- [23]債権者は銀行84行と会社および個人31件 債権総額1600万円弱
- [24]無担保200万円 その多くが地方銀行向け
- [25]平賀敏 藤本清兵衛の年来の友人で三井銀行大阪支店長の経歴 整理の顧問に就任
- [26]1909年9月27日 臨時株主総会で藤本清兵衛が引責辞職
- [27]1910年7月18日 定時株主総会で平賀敏が取締役会長に就任
- [28]藤本清兵衛の持株の大部分を平賀敏・武藤山治へ譲渡し創業家は経営から離脱
- [29]1910年8月1日 営業再開
- [30]朝吹英二・武藤山治・島徳蔵・八木与三郎・柳広蔵が各2万円を預金し営業再開を援助
再建の後、1911年には大阪農工債券75万円を単独で引き受けた[31]のを皮切りに、公社債の引受へ積極的に乗り出した。取扱高の増加を受けて1916年には証券部を設け[32]、1918年には業務と資本の両面で銀行部と区分して専任の支配人を置いている[33]。1917年には第1回・第2回英国公債や英仏公債をニューヨーク市場で買い入れて国内の投資家へ提供[34]し、外貨債の輸入に先鞭をつけた[35]。ニューヨーク・ロンドン・アムステルダムには支店および取引店[36]を設けている。1920年には、ニューヨークのボンブライト商会内に事務所を構えた三木純吉氏[37]が、フランスやオランダで保有されていた仏貨四分利公債を買い付け、横浜正金銀行を通じて日本へ送った[38]。同公債は日本国内を元利金の支払場所とし258フランにつき100円の確定換算率を持っていたため、形式は外貨債でありながら実質は内国債と変わらなかった[39]。証券投資の啓蒙運動を行ったのもこの頃[40]である。1924年5月には米国にザ・フヂモトセキュリチーズ・カンパニーを設立し、ニューヨークとロサンゼルスで在外邦人の投資と外債の輸出入を扱った[41]が、両店は1934年と1935年に閉鎖した[42]。昭和の金融恐慌では鈴木商店の倒産と川崎造船の破綻の影響を受けたが、当時頻発した債券償還不能事件に対しては債権者擁護運動を展開[43]し、債券発行の正常化に関わった。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [31]明治44年(1911年)大阪農工債券75万円を単独引受、以後公社債引受へ本格進出
- [32]大正5年(1916年)証券部を設置
- [36]ニューヨーク・ロンドン・アムステルダムに支店および取引店を設置
- [40]在外公債の逆輸入と同時期に証券投資の啓蒙運動を実施
- [43]昭和の金融恐慌で鈴木商店の倒産・川崎造船の破綻の影響を受け、債権者擁護運動を展開して債券発行の正常化に関与
- [33]大正7年(1918年)証券部を業務・資本の両面で銀行部と区分し専任の支配人を設置
- [34]大正6年(1917年)第1回・第2回英国公債と英仏公債をニューヨーク市場で買入れ国内投資家へ提供
- [35]外貨公債の輸入に先鞭をつけた
- [37]三木純吉 ニューヨークのボンブライト商会内に藤本ビルブローカー銀行の事務所を設置
- [38]大正9年(1920年)仏貨四分利公債をフランス・オランダで買付け横浜正金銀行を通じて日本へ送付
- [39]仏貨四分利公債は日本内地が元利金支払場所 258フランにつき100円の確定換算率で形式は外貨債・実質は内国債
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大和証券」の項
- [41]大正13年(1924年)5月 米国にザ・フヂモトセキュリチーズ・カンパニーを設立、ニューヨーク・ロサンゼルスに店舗を置き在外邦人の投資と外債の輸出入を取扱
- 週刊東洋経済 1999年4月10日号「実録・会社が変わる日 消えた“大和證券” 初の持株会社の成算」
- [42]1934年 ニューヨーク支店、1935年 ロサンゼルス支店を閉鎖
- [15]1909年1月13日 大日本製糖が社長以下の役員の連帯辞職と支払停止
- [16]1906年 日本精製糖と日本精糖が合併し資本金1200万円で発足した当時最大の精糖会社
- [17]藤本清兵衛 大日本製糖の設立時から監査役
- [18]砂糖消費税をめぐる投機的な見込輸入と見込生産で在庫1000万円
- [19]大日本製糖への債権164万2000円で最大の債権者
- [20]無担保62万円 担保付102万2000円の担保はすべて大日本製糖の社債
- [21]1908年末 資本金100万円 運用資金約2000万円
- [22]1909年3月18日 担保の有無を問わず回収猶予を求める文書を各債権者へ発送
- [23]債権者は銀行84行と会社および個人31件 債権総額1600万円弱
- [24]無担保200万円 その多くが地方銀行向け
- [25]平賀敏 藤本清兵衛の年来の友人で三井銀行大阪支店長の経歴 整理の顧問に就任
- [26]1909年9月27日 臨時株主総会で藤本清兵衛が引責辞職
- [27]1910年7月18日 定時株主総会で平賀敏が取締役会長に就任
- [28]藤本清兵衛の持株の大部分を平賀敏・武藤山治へ譲渡し創業家は経営から離脱
- [29]1910年8月1日 営業再開
- [30]朝吹英二・武藤山治・島徳蔵・八木与三郎・柳広蔵が各2万円を預金し営業再開を援助
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [31]明治44年(1911年)大阪農工債券75万円を単独引受、以後公社債引受へ本格進出
- [32]大正5年(1916年)証券部を設置
- [36]ニューヨーク・ロンドン・アムステルダムに支店および取引店を設置
- [40]在外公債の逆輸入と同時期に証券投資の啓蒙運動を実施
- [43]昭和の金融恐慌で鈴木商店の倒産・川崎造船の破綻の影響を受け、債権者擁護運動を展開して債券発行の正常化に関与
- [33]大正7年(1918年)証券部を業務・資本の両面で銀行部と区分し専任の支配人を設置
- [34]大正6年(1917年)第1回・第2回英国公債と英仏公債をニューヨーク市場で買入れ国内投資家へ提供
- [35]外貨公債の輸入に先鞭をつけた
- [37]三木純吉 ニューヨークのボンブライト商会内に藤本ビルブローカー銀行の事務所を設置
- [38]大正9年(1920年)仏貨四分利公債をフランス・オランダで買付け横浜正金銀行を通じて日本へ送付
- [39]仏貨四分利公債は日本内地が元利金支払場所 258フランにつき100円の確定換算率で形式は外貨債・実質は内国債
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大和証券」の項
- [41]大正13年(1924年)5月 米国にザ・フヂモトセキュリチーズ・カンパニーを設立、ニューヨーク・ロサンゼルスに店舗を置き在外邦人の投資と外債の輸出入を取扱
- 週刊東洋経済 1999年4月10日号「実録・会社が変わる日 消えた“大和證券” 初の持株会社の成算」
- [42]1934年 ニューヨーク支店、1935年 ロサンゼルス支店を閉鎖
銀行業の廃止という二者択一と戦時統合による大和証券の誕生
1927年3月に公布された新銀行法[44]は、預金の受入と手形割引を併せ行うことを銀行業の要件とし、担保付社債信託業を除く兼営を禁じている[45]。資本金300万円を銀行部200万円・証券部100万円に分けていた[46]同行にとって、公社債の売買は明らかな兼業にあたった。コール・マネーも経済的性質は預金に準ずるとして法案の改訂を主張し、民政党代議士の小川郷太郎氏の助けもあって、ビルブローカー銀行を銀行とみなす政府解釈[47]と、兼業廃止の猶予期間の3年から5年への延長は引き出している[48]。それでも猶予の満了が迫った1932年7月の時点で方針は固まらず、川崎造船所をめぐる債権処理の帰趨が定まらないことが障害となっていた[49]。兼営業務を分離して別会社に営ませる案も立てたが、新会社と密接な関係を保つことは新銀行法の精神と相容れないため、預金と為替の業務を廃して[50]ビルブローカーと有価証券売買を主とする会社として存続するほうが利益になると判断している。1932年12月22日の臨時株主総会で定款変更が可決[51]され、翌1933年1月1日、銀行部と証券部を合わせた資本金300万円をそのまま引き継いで藤本ビルブローカー証券として再出発[52]した。もっとも創業以来の本業であるコールの仲介はその後も続き、短資業を手放したのは1948年の証券取引法の施行を待ってから[53]である。
- [44]昭和2年(1927年)3月 新銀行法を公布
- [45]新銀行法は預金の受入と手形割引の併営を銀行業の要件とし、担保付社債信託業を除く兼営を禁止
- [46]資本金300万円を銀行部200万円・証券部100万円に配分しており兼業に該当
- [47]民政党代議士 小川郷太郎の助けでビルブローカー銀行を銀行とみなす政府解釈を獲得
- [48]兼業廃止の猶予期間を3年から5年へ延長させた
- [49]1932年7月時点で方針は未定 川崎造船所をめぐる債権処理が障害
- [50]兼営業務を分離し別会社に営ませる計画も立てたが新銀行法の精神と相容れないと判断、預金と為替を廃して証券業を主とする道を選択
- [51]1932年12月22日 臨時株主総会で銀行業廃止に伴う定款変更を可決
- [52]1933年1月1日 藤本ビルブローカー証券として再出発、資本金は銀行部・証券部を合わせた300万円を継承
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大和証券」の項
- [53]1948年5月の証券取引法施行にともない短資業を廃止
証券専業となって3年後の1936年には『藤本ビルブローカー證券株式會社30年史』を刊行[54]し、コール市場の担い手として歩んだ歳月を記録している。1937年2月、専務取締役の三輪小十郎氏が英国のユニット・トラストに範をとって考案した「藤本有価証券投資組合」を発表[55]した。投資信託がまだ法律で認められていなかったため、信託関係の発生を避けて民法上の組合とし[56]、1口500円の出資200口・計10万円で1組合を組成する仕組み[57]としている。購入した証券は日本興業銀行大阪支店に保護預けとし、組合の存続期間は成立の日から3年[58]と定めた。日中戦争が始まった直後の同年7月に第1回を組成し、わが国における投資信託の先駆[59]となっている。1941年10月29日の大蔵次官談で投資信託の実行が認められる[60]と、翌1942年、藤本証券は野村証券に次いで投資信託業務を開始した[61]。
- 週刊東洋経済 1999年4月10日号「実録・会社が変わる日 消えた“大和證券” 初の持株会社の成算」
- [54]1936年発行『藤本ビルブローカー證券株式會社30年史』
- [55]昭和12年(1937年)2月 藤本ビルブローカー証券が藤本有価証券投資組合を発表
- [56]投資信託が未公認のため信託関係の発生を避けて民法上の組合とした
- [57]1口500円の出資200口・計10万円で1組合が成立
- [58]購入証券は日本興業銀行大阪支店に保護預け、組合の存続期間は成立の日から3年
- [59]1937年7月 日中戦争の勃発直後に第1回組合を組成、わが国における投資信託の先駆
- [60]1941年10月29日 大蔵次官談でユニット・トラスト式投資信託の実行を承認
- [61]昭和17年(1942年)藤本証券が野村証券に次いで投資信託業務を開始
1942年4月の金融統制団体令にもとづいて証券引受会社統制会と短資業統制組合が結成される[62]と藤本ビルブローカー証券は双方へ加わり、会長の三輪小十郎氏が両方の理事に就いた。「ビル・ブローカー」が敵性用語とされたため、同年7月1日には社名を藤本証券へ改めている[63]。1943年3月には日本証券取引所法が公布されて11の取引所が単一の営団組織へ統合[64]され、取引員は476名から1944年6月末の217名へ半減した[65]。この整理統合のなかで、1943年12月27日、藤本証券と日本信託銀行が対等合併し、資本金1875万円の大和証券が設立された[66]。日本信託銀行は1920年3月設立の証券金融を主業務とする関係会社[67]で、大阪の短期清算取引市場向けの株式金融を営んでおり[68]、その銀行業務を除く両社の一切の業務を新会社が継承している。会長には三輪氏、社長には旧日本信託銀行社長の車谷馬太郎氏が就き、同時に本社を大阪から東京へ[69]移した。翌1944年2月には松永定一商店を買収し、同年7月には吉川証券を合併して資本金を1925万円[70]としている。戦時統制下の業界再編で規模を広げたところで、まもなく終戦を迎えた[71]。
- [62]1942年4月 金融統制団体令にもとづき証券引受会社統制会と短資業統制組合が結成、藤本は双方に参加し会長 三輪小十郎が理事に就任
- [63]1942年7月1日 敵性用語の使用禁止により藤本証券へ改称
- [64]1943年3月 日本証券取引所法を公布、11の取引所を単一の営団組織へ統合
- [65]取引員は476名から1944年6月30日の217名へ半減
- [68]日本信託銀行は大阪の短期清算取引市場向けの株式金融を営んでいた
- 大和証券グループ本社 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
- [66]1943年12月27日 藤本証券と日本信託銀行が対等合併し大和証券を設立、資本金1875万円
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大和証券」の項
- [67]日本信託銀行は大正9年(1920年)3月設立、銀行業務を除く両社の一切の業務を大和証券が継承
- [69]会長に旧藤本証券会長の三輪小十郎、社長に旧日本信託銀行社長の車谷馬太郎が就任、本社を大阪から東京へ移転
- [70]1944年2月 松永定一商店を買収、同年7月 吉川証券を合併し資本金1925万円
- [71]吉川証券の合併ののち、まもなく終戦
- [44]昭和2年(1927年)3月 新銀行法を公布
- [45]新銀行法は預金の受入と手形割引の併営を銀行業の要件とし、担保付社債信託業を除く兼営を禁止
- [46]資本金300万円を銀行部200万円・証券部100万円に配分しており兼業に該当
- [47]民政党代議士 小川郷太郎の助けでビルブローカー銀行を銀行とみなす政府解釈を獲得
- [48]兼業廃止の猶予期間を3年から5年へ延長させた
- [49]1932年7月時点で方針は未定 川崎造船所をめぐる債権処理が障害
- [50]兼営業務を分離し別会社に営ませる計画も立てたが新銀行法の精神と相容れないと判断、預金と為替を廃して証券業を主とする道を選択
- [51]1932年12月22日 臨時株主総会で銀行業廃止に伴う定款変更を可決
- [52]1933年1月1日 藤本ビルブローカー証券として再出発、資本金は銀行部・証券部を合わせた300万円を継承
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大和証券」の項
- [53]1948年5月の証券取引法施行にともない短資業を廃止
- [67]日本信託銀行は大正9年(1920年)3月設立、銀行業務を除く両社の一切の業務を大和証券が継承
- [69]会長に旧藤本証券会長の三輪小十郎、社長に旧日本信託銀行社長の車谷馬太郎が就任、本社を大阪から東京へ移転
- [70]1944年2月 松永定一商店を買収、同年7月 吉川証券を合併し資本金1925万円
- [71]吉川証券の合併ののち、まもなく終戦
- 週刊東洋経済 1999年4月10日号「実録・会社が変わる日 消えた“大和證券” 初の持株会社の成算」
- [54]1936年発行『藤本ビルブローカー證券株式會社30年史』
- [55]昭和12年(1937年)2月 藤本ビルブローカー証券が藤本有価証券投資組合を発表
- [56]投資信託が未公認のため信託関係の発生を避けて民法上の組合とした
- [57]1口500円の出資200口・計10万円で1組合が成立
- [58]購入証券は日本興業銀行大阪支店に保護預け、組合の存続期間は成立の日から3年
- [59]1937年7月 日中戦争の勃発直後に第1回組合を組成、わが国における投資信託の先駆
- [60]1941年10月29日 大蔵次官談でユニット・トラスト式投資信託の実行を承認
- [61]昭和17年(1942年)藤本証券が野村証券に次いで投資信託業務を開始
- [62]1942年4月 金融統制団体令にもとづき証券引受会社統制会と短資業統制組合が結成、藤本は双方に参加し会長 三輪小十郎が理事に就任
- [63]1942年7月1日 敵性用語の使用禁止により藤本証券へ改称
- [64]1943年3月 日本証券取引所法を公布、11の取引所を単一の営団組織へ統合
- [65]取引員は476名から1944年6月30日の217名へ半減
- [68]日本信託銀行は大阪の短期清算取引市場向けの株式金融を営んでいた
- 大和証券グループ本社 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
- [66]1943年12月27日 藤本証券と日本信託銀行が対等合併し大和証券を設立、資本金1875万円