大和証券グループ本社 の歴史

更新:

創業

1902年

創業者

※藤本証券+日本信託銀行

創業地

大阪府

直近売上高(2026/3)

14,680億円

長期業績と転換点(1997/3〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1904年に、米穀商から出た会社の証券業の第一歩が「国際証券取引」になったのか
A 同社は証券会社として生まれたのではなく、大阪有数の米穀商が金融業へ業態を広げる過程で証券を扱い始めた。米相場で磨いた商品流通の感覚があったため、国家的な資金需要が外貨で立ったとき、海外の発行体と国内の投資家をつなぐ仕事へ自然に向かった。1902年に藤本商店5代目の藤本清兵衛氏が大阪でコール市場の担い手として藤本ビルブローカーを開き、1904年の日露戦争開戦に伴い国庫債券を買い入れてロンドンへ輸出した。取扱高1億7000万円のこの取引が、本格的な証券業務の最初であると同時に、日本最初の国際証券取引でもあった
Q なぜ大和は、業界2位として1937年以降「日本初」の金融商品を量産する道を選んだのか
A 首位の野村に体力で劣る2位にとって、全国のリテール網を正面から競って広げるより、海外で見聞きした金融商品を国内向けに翻訳して組成するほうが、少ない資源で差別化を作れた。1937年の日本初の投資信託でこの社風が固まり、戦後も1948年の転換社債、1952年のオープン型投資信託、1954年の累積投資と「日本初」を重ねた。さらに1971年のアジアダラー債、1977年のユーロ円債、1987年のサムライ債と国際商品を先行させ、海外の制度や需要を国内市場へ橋渡しする型を競争優位の核に据えた
Q なぜ2024年に、荻野明彦社長は創業以来の単品売買モデルから資産管理型ビジネスへ転換したのか
A 株や債券といった単品商品を売買して手数料を稼ぐやり方では、相場次第で収益が振れやすく、顧客の資産を長く預かる関係を築きにくい。そこで顧客の資産価値の最大化を経営方針に据え、企業文化・人材・蓄積したノウハウを武器に資産管理型へ転換した。2024年4月に就いた荻野明彦社長は「創業以来のそういうやり方から大きくかじを切った」と語っている。あわせて、銀行グループに属さない独立系であるため不足する銀行機能を補おうと、同年あおぞら銀行・かんぽ生命と相次いで資本業務提携を結び、自前主義から外部連携重視へ運営を改めた

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1902年〜 米穀商の資金力から日本初のビルブローカーへ、そして証券専業への転換

  1. 1902年 藤本ビルブローカー創業
  2. 1906年 藤本ビルブローカーを設立
  3. 1907年 藤本ビルブローカー銀行に商号変更
  4. 1933年 藤本ビルブローカー証券に商号変更
  5. 1937年 日本初の投資信託「藤本有価証券投資組合」を発足
  6. 1942年 藤本証券に商号変更
  7. 1943年 日本信託銀行と合併し大和証券誕生

米相場で得た資金が開いた日本初のコール市場

大和証券の源流は、大阪の米穀商・藤本商店[1]にある。幕末の四代目住吉屋清兵衛氏は明治維新後に藤本姓を名乗って[2]商いを続け、1889年の凶作の際には政府の命を受けて朝鮮・サイゴン・ラングーンから外米を輸入[3]した。1895年12月には養子の藤本清兵衛氏が合資会社藤本銀行を設立[4]している。清兵衛氏は福島紡績や大日本製糖の役員を務めるかたわら藤本銀行を経営[5]しており、一般の銀行が短期の融通資金を調達する市場が国内になかった[6]ところに着目した。1902年5月、ビルブローカー業を開設すべく藤本ビルブローカーを大阪に設立[7]し、これがわが国におけるコール市場形成の第一歩[8]となった。相場師が興した株屋ではなく、コール・マネーの運用と手形の売買を主業務とする会社から出発[9]している。

  • 週刊東洋経済 1999年4月10日号「実録・会社が変わる日 消えた“大和證券” 初の持株会社の成算」
    • [1]大和証券の源流は大阪の米穀商・藤本商店
    • [2]幕末の四代目住吉屋清兵衛が明治維新後に藤本姓を名乗る
    • [3]1889年の凶作で政府の命により朝鮮・サイゴン・ラングーンから外米を輸入
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大和証券」の項
    • [4]1895年12月 養子の藤本清兵衛が合資会社藤本銀行を設立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [5]藤本清兵衛は福島紡績・大日本製糖の役員を務めつつ藤本銀行を経営
    • [6]一般の銀行に融通資金の短期的調達を行う市場がなかった
    • [7]1902年5月 藤本ビルブローカーを大阪に設立
    • [8]藤本ビルブローカーの設立はわが国におけるコール市場形成の第一歩
  • 週刊東洋経済 2000年7月1日号「企業レポート 企業改革 大和証券グループ本社「修正日本経営」で挑む万年2位からの脱却」
    • [9]大和の前身はコール・マネーの運用や手形売買を主業務とし、相場師が築いた株屋とは異なる

開業の翌1903年には神戸・京都・名古屋・東京へ支店を設けた[10]。1904年の日露戦争開戦にあたっては清兵衛氏が国庫債券を買い入れてロンドンへ輸出し、取扱高は1億7000万円に達したとされる[11]。サミュエル・サミュエル商会と業務提携して国庫債券をロンドンへ輸出[12]するなど、当時すでに取引は全国的な規模で行われていた。1906年10月には個人経営を株式会社組織へ改め、資本金20万円の株式会社藤本ビルブローカー[13]とした。1907年1月には、政府がビルブローカー業を銀行条例にもとづくべきものと規定したのに従って藤本ビルブローカー銀行へ改称し、資本金を100万円へ積み増している[14]。コール・銀行業・代弁業の併営を定款に明記し、証券業を事業目的へ加えた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [10]明治36年(1903年)に神戸・京都・名古屋・東京へ支店を設置
    • [12]サミュエル・サミュエル商会と業務提携し国庫債券をロンドンへ輸出、当時の取引は全国的規模
    • [13]1906年10月 個人経営を株式会社組織に改め資本金20万円の株式会社藤本ビルブローカーを設立
    • [14]1907年1月 政府がビルブローカー業を銀行条例にもとづくものと規定、藤本ビルブローカー銀行へ改称し資本金100万円へ増資
  • 日本会社史総覧 1995(東洋経済新報社, 1995)
    • [11]1904年 日露戦争に伴う国庫債券のロンドン輸出取扱高 1億7000万円
  • 週刊東洋経済 1999年4月10日号「実録・会社が変わる日 消えた“大和證券” 初の持株会社の成算」
    • [1]大和証券の源流は大阪の米穀商・藤本商店
    • [2]幕末の四代目住吉屋清兵衛が明治維新後に藤本姓を名乗る
    • [3]1889年の凶作で政府の命により朝鮮・サイゴン・ラングーンから外米を輸入
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大和証券」の項
    • [4]1895年12月 養子の藤本清兵衛が合資会社藤本銀行を設立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [5]藤本清兵衛は福島紡績・大日本製糖の役員を務めつつ藤本銀行を経営
    • [6]一般の銀行に融通資金の短期的調達を行う市場がなかった
    • [7]1902年5月 藤本ビルブローカーを大阪に設立
    • [8]藤本ビルブローカーの設立はわが国におけるコール市場形成の第一歩
    • [10]明治36年(1903年)に神戸・京都・名古屋・東京へ支店を設置
    • [12]サミュエル・サミュエル商会と業務提携し国庫債券をロンドンへ輸出、当時の取引は全国的規模
    • [13]1906年10月 個人経営を株式会社組織に改め資本金20万円の株式会社藤本ビルブローカーを設立
    • [14]1907年1月 政府がビルブローカー業を銀行条例にもとづくものと規定、藤本ビルブローカー銀行へ改称し資本金100万円へ増資
  • 週刊東洋経済 2000年7月1日号「企業レポート 企業改革 大和証券グループ本社「修正日本経営」で挑む万年2位からの脱却」
    • [9]大和の前身はコール・マネーの運用や手形売買を主業務とし、相場師が築いた株屋とは異なる
  • 日本会社史総覧 1995(東洋経済新報社, 1995)
    • [11]1904年 日露戦争に伴う国庫債券のロンドン輸出取扱高 1億7000万円

日糖事件の破綻から公社債引受と在外公債の逆輸入へ

1909年1月13日、主要取引先だった大日本製糖が社長以下の役員の連帯辞職とともに支払を停止[15]した。同社は1906年に日本精製糖と日本精糖が合併して資本金1200万円で発足した当時最大の精糖会社[16]で、藤本清兵衛氏は設立時から監査役として関係していた[17]。砂糖消費税をめぐる投機的な原料の見込輸入と見込生産により1000万円に達する在庫を抱え[18]、経営難を深めていた。藤本ビルブローカー銀行は同社への164万2000円の債権を持つ最大の債権者[19]で、うち62万円は無担保、残る102万2000円の担保もすべて同社の社債[20]であった。前年末の資本金は100万円、運用資金は約2000万円[21]で、この不良債権は少額とはいえなかった。

    • [15]1909年1月13日 大日本製糖が社長以下の役員の連帯辞職と支払停止
    • [16]1906年 日本精製糖と日本精糖が合併し資本金1200万円で発足した当時最大の精糖会社
    • [17]藤本清兵衛 大日本製糖の設立時から監査役
    • [18]砂糖消費税をめぐる投機的な見込輸入と見込生産で在庫1000万円
    • [19]大日本製糖への債権164万2000円で最大の債権者
    • [20]無担保62万円 担保付102万2000円の担保はすべて大日本製糖の社債
    • [21]1908年末 資本金100万円 運用資金約2000万円

1909年3月18日、藤本ビルブローカー銀行は担保の有無にかかわらず債権の回収を猶予してほしいという文書を各債権者へ発送[22]した。債権者は銀行84行と会社・個人31件、債権総額は1600万円弱[23]にのぼり、うち200万円が無担保で、その多くを地方銀行が占めた[24]。整理には、藤本清兵衛氏の年来の友人で三井銀行大阪支店長を務めた平賀敏氏が顧問として加わっている[25]。同年9月27日の臨時株主総会で清兵衛氏は引責辞職[26]し、翌1910年7月18日の定時株主総会で平賀氏が取締役会長に就いた[27]。清兵衛氏の持株の大部分は平賀氏と武藤山治氏へ譲渡され[28]、創業家は経営から離れている。営業再開は同年8月1日[29]で、朝吹英二氏・武藤氏・島徳蔵氏・八木与三郎氏・柳広蔵氏がそれぞれ2万円を預金[30]して再出発を支えた。

    • [22]1909年3月18日 担保の有無を問わず回収猶予を求める文書を各債権者へ発送
    • [23]債権者は銀行84行と会社および個人31件 債権総額1600万円弱
    • [24]無担保200万円 その多くが地方銀行向け
    • [25]平賀敏 藤本清兵衛の年来の友人で三井銀行大阪支店長の経歴 整理の顧問に就任
    • [26]1909年9月27日 臨時株主総会で藤本清兵衛が引責辞職
    • [27]1910年7月18日 定時株主総会で平賀敏が取締役会長に就任
    • [28]藤本清兵衛の持株の大部分を平賀敏・武藤山治へ譲渡し創業家は経営から離脱
    • [29]1910年8月1日 営業再開
    • [30]朝吹英二・武藤山治・島徳蔵・八木与三郎・柳広蔵が各2万円を預金し営業再開を援助

再建の後、1911年には大阪農工債券75万円を単独で引き受けた[31]のを皮切りに、公社債の引受へ積極的に乗り出した。取扱高の増加を受けて1916年には証券部を設け[32]、1918年には業務と資本の両面で銀行部と区分して専任の支配人を置いている[33]。1917年には第1回・第2回英国公債や英仏公債をニューヨーク市場で買い入れて国内の投資家へ提供[34]し、外貨債の輸入に先鞭をつけた[35]。ニューヨーク・ロンドン・アムステルダムには支店および取引店[36]を設けている。1920年には、ニューヨークのボンブライト商会内に事務所を構えた三木純吉氏[37]が、フランスやオランダで保有されていた仏貨四分利公債を買い付け、横浜正金銀行を通じて日本へ送った[38]。同公債は日本国内を元利金の支払場所とし258フランにつき100円の確定換算率を持っていたため、形式は外貨債でありながら実質は内国債と変わらなかった[39]。証券投資の啓蒙運動を行ったのもこの頃[40]である。1924年5月には米国にザ・フヂモトセキュリチーズ・カンパニーを設立し、ニューヨークとロサンゼルスで在外邦人の投資と外債の輸出入を扱った[41]が、両店は1934年と1935年に閉鎖した[42]。昭和の金融恐慌では鈴木商店の倒産と川崎造船の破綻の影響を受けたが、当時頻発した債券償還不能事件に対しては債権者擁護運動を展開[43]し、債券発行の正常化に関わった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [31]明治44年(1911年)大阪農工債券75万円を単独引受、以後公社債引受へ本格進出
    • [32]大正5年(1916年)証券部を設置
    • [36]ニューヨーク・ロンドン・アムステルダムに支店および取引店を設置
    • [40]在外公債の逆輸入と同時期に証券投資の啓蒙運動を実施
    • [43]昭和の金融恐慌で鈴木商店の倒産・川崎造船の破綻の影響を受け、債権者擁護運動を展開して債券発行の正常化に関与
    • [33]大正7年(1918年)証券部を業務・資本の両面で銀行部と区分し専任の支配人を設置
    • [34]大正6年(1917年)第1回・第2回英国公債と英仏公債をニューヨーク市場で買入れ国内投資家へ提供
    • [35]外貨公債の輸入に先鞭をつけた
    • [37]三木純吉 ニューヨークのボンブライト商会内に藤本ビルブローカー銀行の事務所を設置
    • [38]大正9年(1920年)仏貨四分利公債をフランス・オランダで買付け横浜正金銀行を通じて日本へ送付
    • [39]仏貨四分利公債は日本内地が元利金支払場所 258フランにつき100円の確定換算率で形式は外貨債・実質は内国債
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大和証券」の項
    • [41]大正13年(1924年)5月 米国にザ・フヂモトセキュリチーズ・カンパニーを設立、ニューヨーク・ロサンゼルスに店舗を置き在外邦人の投資と外債の輸出入を取扱
  • 週刊東洋経済 1999年4月10日号「実録・会社が変わる日 消えた“大和證券” 初の持株会社の成算」
    • [42]1934年 ニューヨーク支店、1935年 ロサンゼルス支店を閉鎖
    • [15]1909年1月13日 大日本製糖が社長以下の役員の連帯辞職と支払停止
    • [16]1906年 日本精製糖と日本精糖が合併し資本金1200万円で発足した当時最大の精糖会社
    • [17]藤本清兵衛 大日本製糖の設立時から監査役
    • [18]砂糖消費税をめぐる投機的な見込輸入と見込生産で在庫1000万円
    • [19]大日本製糖への債権164万2000円で最大の債権者
    • [20]無担保62万円 担保付102万2000円の担保はすべて大日本製糖の社債
    • [21]1908年末 資本金100万円 運用資金約2000万円
    • [22]1909年3月18日 担保の有無を問わず回収猶予を求める文書を各債権者へ発送
    • [23]債権者は銀行84行と会社および個人31件 債権総額1600万円弱
    • [24]無担保200万円 その多くが地方銀行向け
    • [25]平賀敏 藤本清兵衛の年来の友人で三井銀行大阪支店長の経歴 整理の顧問に就任
    • [26]1909年9月27日 臨時株主総会で藤本清兵衛が引責辞職
    • [27]1910年7月18日 定時株主総会で平賀敏が取締役会長に就任
    • [28]藤本清兵衛の持株の大部分を平賀敏・武藤山治へ譲渡し創業家は経営から離脱
    • [29]1910年8月1日 営業再開
    • [30]朝吹英二・武藤山治・島徳蔵・八木与三郎・柳広蔵が各2万円を預金し営業再開を援助
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [31]明治44年(1911年)大阪農工債券75万円を単独引受、以後公社債引受へ本格進出
    • [32]大正5年(1916年)証券部を設置
    • [36]ニューヨーク・ロンドン・アムステルダムに支店および取引店を設置
    • [40]在外公債の逆輸入と同時期に証券投資の啓蒙運動を実施
    • [43]昭和の金融恐慌で鈴木商店の倒産・川崎造船の破綻の影響を受け、債権者擁護運動を展開して債券発行の正常化に関与
    • [33]大正7年(1918年)証券部を業務・資本の両面で銀行部と区分し専任の支配人を設置
    • [34]大正6年(1917年)第1回・第2回英国公債と英仏公債をニューヨーク市場で買入れ国内投資家へ提供
    • [35]外貨公債の輸入に先鞭をつけた
    • [37]三木純吉 ニューヨークのボンブライト商会内に藤本ビルブローカー銀行の事務所を設置
    • [38]大正9年(1920年)仏貨四分利公債をフランス・オランダで買付け横浜正金銀行を通じて日本へ送付
    • [39]仏貨四分利公債は日本内地が元利金支払場所 258フランにつき100円の確定換算率で形式は外貨債・実質は内国債
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大和証券」の項
    • [41]大正13年(1924年)5月 米国にザ・フヂモトセキュリチーズ・カンパニーを設立、ニューヨーク・ロサンゼルスに店舗を置き在外邦人の投資と外債の輸出入を取扱
  • 週刊東洋経済 1999年4月10日号「実録・会社が変わる日 消えた“大和證券” 初の持株会社の成算」
    • [42]1934年 ニューヨーク支店、1935年 ロサンゼルス支店を閉鎖

銀行業の廃止という二者択一と戦時統合による大和証券の誕生

1927年3月に公布された新銀行法[44]は、預金の受入と手形割引を併せ行うことを銀行業の要件とし、担保付社債信託業を除く兼営を禁じている[45]。資本金300万円を銀行部200万円・証券部100万円に分けていた[46]同行にとって、公社債の売買は明らかな兼業にあたった。コール・マネーも経済的性質は預金に準ずるとして法案の改訂を主張し、民政党代議士の小川郷太郎氏の助けもあって、ビルブローカー銀行を銀行とみなす政府解釈[47]と、兼業廃止の猶予期間の3年から5年への延長は引き出している[48]。それでも猶予の満了が迫った1932年7月の時点で方針は固まらず、川崎造船所をめぐる債権処理の帰趨が定まらないことが障害となっていた[49]。兼営業務を分離して別会社に営ませる案も立てたが、新会社と密接な関係を保つことは新銀行法の精神と相容れないため、預金と為替の業務を廃して[50]ビルブローカーと有価証券売買を主とする会社として存続するほうが利益になると判断している。1932年12月22日の臨時株主総会で定款変更が可決[51]され、翌1933年1月1日、銀行部と証券部を合わせた資本金300万円をそのまま引き継いで藤本ビルブローカー証券として再出発[52]した。もっとも創業以来の本業であるコールの仲介はその後も続き、短資業を手放したのは1948年の証券取引法の施行を待ってから[53]である。

    • [44]昭和2年(1927年)3月 新銀行法を公布
    • [45]新銀行法は預金の受入と手形割引の併営を銀行業の要件とし、担保付社債信託業を除く兼営を禁止
    • [46]資本金300万円を銀行部200万円・証券部100万円に配分しており兼業に該当
    • [47]民政党代議士 小川郷太郎の助けでビルブローカー銀行を銀行とみなす政府解釈を獲得
    • [48]兼業廃止の猶予期間を3年から5年へ延長させた
    • [49]1932年7月時点で方針は未定 川崎造船所をめぐる債権処理が障害
    • [50]兼営業務を分離し別会社に営ませる計画も立てたが新銀行法の精神と相容れないと判断、預金と為替を廃して証券業を主とする道を選択
    • [51]1932年12月22日 臨時株主総会で銀行業廃止に伴う定款変更を可決
    • [52]1933年1月1日 藤本ビルブローカー証券として再出発、資本金は銀行部・証券部を合わせた300万円を継承
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大和証券」の項
    • [53]1948年5月の証券取引法施行にともない短資業を廃止

証券専業となって3年後の1936年には『藤本ビルブローカー證券株式會社30年史』を刊行[54]し、コール市場の担い手として歩んだ歳月を記録している。1937年2月、専務取締役の三輪小十郎氏が英国のユニット・トラストに範をとって考案した「藤本有価証券投資組合」を発表[55]した。投資信託がまだ法律で認められていなかったため、信託関係の発生を避けて民法上の組合とし[56]、1口500円の出資200口・計10万円で1組合を組成する仕組み[57]としている。購入した証券は日本興業銀行大阪支店に保護預けとし、組合の存続期間は成立の日から3年[58]と定めた。日中戦争が始まった直後の同年7月に第1回を組成し、わが国における投資信託の先駆[59]となっている。1941年10月29日の大蔵次官談で投資信託の実行が認められる[60]と、翌1942年、藤本証券は野村証券に次いで投資信託業務を開始した[61]

  • 週刊東洋経済 1999年4月10日号「実録・会社が変わる日 消えた“大和證券” 初の持株会社の成算」
    • [54]1936年発行『藤本ビルブローカー證券株式會社30年史』
    • [55]昭和12年(1937年)2月 藤本ビルブローカー証券が藤本有価証券投資組合を発表
    • [56]投資信託が未公認のため信託関係の発生を避けて民法上の組合とした
    • [57]1口500円の出資200口・計10万円で1組合が成立
    • [58]購入証券は日本興業銀行大阪支店に保護預け、組合の存続期間は成立の日から3年
    • [59]1937年7月 日中戦争の勃発直後に第1回組合を組成、わが国における投資信託の先駆
    • [60]1941年10月29日 大蔵次官談でユニット・トラスト式投資信託の実行を承認
    • [61]昭和17年(1942年)藤本証券が野村証券に次いで投資信託業務を開始

1942年4月の金融統制団体令にもとづいて証券引受会社統制会と短資業統制組合が結成される[62]と藤本ビルブローカー証券は双方へ加わり、会長の三輪小十郎氏が両方の理事に就いた。「ビル・ブローカー」が敵性用語とされたため、同年7月1日には社名を藤本証券へ改めている[63]。1943年3月には日本証券取引所法が公布されて11の取引所が単一の営団組織へ統合[64]され、取引員は476名から1944年6月末の217名へ半減した[65]。この整理統合のなかで、1943年12月27日、藤本証券と日本信託銀行が対等合併し、資本金1875万円の大和証券が設立された[66]。日本信託銀行は1920年3月設立の証券金融を主業務とする関係会社[67]で、大阪の短期清算取引市場向けの株式金融を営んでおり[68]、その銀行業務を除く両社の一切の業務を新会社が継承している。会長には三輪氏、社長には旧日本信託銀行社長の車谷馬太郎氏が就き、同時に本社を大阪から東京へ[69]移した。翌1944年2月には松永定一商店を買収し、同年7月には吉川証券を合併して資本金を1925万円[70]としている。戦時統制下の業界再編で規模を広げたところで、まもなく終戦を迎えた[71]

    • [62]1942年4月 金融統制団体令にもとづき証券引受会社統制会と短資業統制組合が結成、藤本は双方に参加し会長 三輪小十郎が理事に就任
    • [63]1942年7月1日 敵性用語の使用禁止により藤本証券へ改称
    • [64]1943年3月 日本証券取引所法を公布、11の取引所を単一の営団組織へ統合
    • [65]取引員は476名から1944年6月30日の217名へ半減
    • [68]日本信託銀行は大阪の短期清算取引市場向けの株式金融を営んでいた
  • 大和証券グループ本社 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [66]1943年12月27日 藤本証券と日本信託銀行が対等合併し大和証券を設立、資本金1875万円
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大和証券」の項
    • [67]日本信託銀行は大正9年(1920年)3月設立、銀行業務を除く両社の一切の業務を大和証券が継承
    • [69]会長に旧藤本証券会長の三輪小十郎、社長に旧日本信託銀行社長の車谷馬太郎が就任、本社を大阪から東京へ移転
    • [70]1944年2月 松永定一商店を買収、同年7月 吉川証券を合併し資本金1925万円
    • [71]吉川証券の合併ののち、まもなく終戦
    • [44]昭和2年(1927年)3月 新銀行法を公布
    • [45]新銀行法は預金の受入と手形割引の併営を銀行業の要件とし、担保付社債信託業を除く兼営を禁止
    • [46]資本金300万円を銀行部200万円・証券部100万円に配分しており兼業に該当
    • [47]民政党代議士 小川郷太郎の助けでビルブローカー銀行を銀行とみなす政府解釈を獲得
    • [48]兼業廃止の猶予期間を3年から5年へ延長させた
    • [49]1932年7月時点で方針は未定 川崎造船所をめぐる債権処理が障害
    • [50]兼営業務を分離し別会社に営ませる計画も立てたが新銀行法の精神と相容れないと判断、預金と為替を廃して証券業を主とする道を選択
    • [51]1932年12月22日 臨時株主総会で銀行業廃止に伴う定款変更を可決
    • [52]1933年1月1日 藤本ビルブローカー証券として再出発、資本金は銀行部・証券部を合わせた300万円を継承
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大和証券」の項
    • [53]1948年5月の証券取引法施行にともない短資業を廃止
    • [67]日本信託銀行は大正9年(1920年)3月設立、銀行業務を除く両社の一切の業務を大和証券が継承
    • [69]会長に旧藤本証券会長の三輪小十郎、社長に旧日本信託銀行社長の車谷馬太郎が就任、本社を大阪から東京へ移転
    • [70]1944年2月 松永定一商店を買収、同年7月 吉川証券を合併し資本金1925万円
    • [71]吉川証券の合併ののち、まもなく終戦
  • 週刊東洋経済 1999年4月10日号「実録・会社が変わる日 消えた“大和證券” 初の持株会社の成算」
    • [54]1936年発行『藤本ビルブローカー證券株式會社30年史』
    • [55]昭和12年(1937年)2月 藤本ビルブローカー証券が藤本有価証券投資組合を発表
    • [56]投資信託が未公認のため信託関係の発生を避けて民法上の組合とした
    • [57]1口500円の出資200口・計10万円で1組合が成立
    • [58]購入証券は日本興業銀行大阪支店に保護預け、組合の存続期間は成立の日から3年
    • [59]1937年7月 日中戦争の勃発直後に第1回組合を組成、わが国における投資信託の先駆
    • [60]1941年10月29日 大蔵次官談でユニット・トラスト式投資信託の実行を承認
    • [61]昭和17年(1942年)藤本証券が野村証券に次いで投資信託業務を開始
    • [62]1942年4月 金融統制団体令にもとづき証券引受会社統制会と短資業統制組合が結成、藤本は双方に参加し会長 三輪小十郎が理事に就任
    • [63]1942年7月1日 敵性用語の使用禁止により藤本証券へ改称
    • [64]1943年3月 日本証券取引所法を公布、11の取引所を単一の営団組織へ統合
    • [65]取引員は476名から1944年6月30日の217名へ半減
    • [68]日本信託銀行は大阪の短期清算取引市場向けの株式金融を営んでいた
  • 大和証券グループ本社 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [66]1943年12月27日 藤本証券と日本信託銀行が対等合併し大和証券を設立、資本金1875万円

1944年〜 戦後再建と「日本初」を重ねた商品開発、業界2位が選んだ国際業務

大和証券グループ本社の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1948年 日本初の転換社債(私募)を発行
  2. 1948年 証券取引法による証券業者登録
  3. 1949年 東京証券取引所に会員として加入
  4. 1952年 日本初のオープン型投資信託を発足
  5. 1954年 日本初の累積投資制度(積立オープン)を発足
  6. 1959年 ニューヨーク駐在員事務所開設
  7. 1959年 大和証券投資信託委託を設立

減資と増資を重ねた戦後再建と投資信託の委託会社

戦後の再建は資本の整理から始まり、1948年7月には企業再建整備計画により資本金を962万5000円へ減資し、翌8月に5000万円へ増資[72]している。1949年2月に1億5000万円、同年3月に2億円、1952年4月に5億円、1953年3月に10億円[73]と、設備資金と運転資金を調達するため増資を重ねた。1948年5月に証券取引法が施行されると、同法の規定により短資業を廃止[74]している。1949年にはビルブローカー業務を東京投資へ譲渡[75]し、証券投資信託の委託会社としての業務、有価証券の貸借および保護預り、公社債の払込金の受入[76]などを新たに営んだ。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大和証券」の項
    • [72]1948年7月 企業再建整備計画により資本金962万5000円へ減資、同年8月 5000万円へ増資
    • [73]1949年2月 1億5000万円、同年3月 2億円、1952年4月 5億円、1953年3月 10億円へ増資
    • [74]1948年5月 証券取引法施行にともない短資業を廃止
    • [76]証券投資信託の委託会社としての業務、有価証券の貸借および保護預り、公社債の払込金の受入などを営む
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [75]昭和24年(1949年)ビルブローカー業務を東京投資へ譲渡

再建は商品でも進み、1948年8月に発行した転換社債は私募ながらわが国初の転換社債となった。1948年10月には証券取引法による証券業者登録を行い[77]、1949年4月には東京証券取引所へ会員として加入[78]している。1951年に「ヒノマル投信」を設定し、1952年6月にはわが国初のオープン型投資信託を実施[79]した。従来のユニット型が買戻しは可能でも追加設定のできないセミ・クローズド型であったのに対し、オープン型は買戻しと追加設定の双方を認める完全な形態[80]で、信託期間もユニット型の2年に対し10年と長く、信託報酬には実績主義をとっている[81]。他社がこれに続いたのは5年以上あと[82]であった。実施に先立って1950年1月には米国の会社型投資信託を紹介し、1951年2月には英国のユニット・トラストの運営実務をまとめ、1952年2月には参考資料を各部店へ配る[83]など、研究を積み重ねている。1954年6月には、ドル平均法を適用した日本初の累積投資制度「積立オープン」を発足させた。

  • 大和証券グループ本社 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [77]1948年10月 証券取引法による証券業者登録
    • [78]1949年4月 東京証券取引所に会員として加入
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [79]昭和26年(1951年)ヒノマル投信、昭和27年(1952年)わが国初のオープン投信を開発
    • [80]ユニット型は買戻し可能だが追加設定ができないセミ・クローズド型、オープン型は買戻しと追加設定の双方を認める完全なオープン型
    • [81]信託期間はユニット型2年に対しオープン型10年、信託報酬は実績主義
    • [82]他社がオープン型に追随したのは5年以上あと
    • [83]1950年1月に米国の会社型投資信託を紹介、1951年2月に英国ユニット・トラストの運営実務、1952年2月に参考資料を各部店へ頒布

投資信託の委託会社として扱った額は、1955年7月までにセミ・クローズド型が36回で280億5000万円、オープン型が17次設定で19億9475万円と、合計300億円を超えた[84]。同月時点では東京本店のほか全国主要都市に支店24か所、出張所その他の営業所31か所を擁し、従業員は1900名[85]を数えている。1953年10月から翌年9月までの第17期の有価証券総取扱金額は1400億円で、うち株式売買高が59.45%、公社債の引受および募集高が21.24%を占めた[86]。1953年11月には加藤和根社長が取締役会長へ、岡村新市専務取締役が取締役社長へ就き[87]、翌1954年11月には副社長制を新設して福田千里専務取締役がその地位に就いている[88]。1954年1月には本店ビル建設のため大和土地建物を設立[89]し、1959年12月には大和証券投資信託委託を分離設立[90]して投信業務を機能別の子会社へ切り出した。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大和証券」の項
    • [84]1955年7月までの投信取扱額 セミ・クローズド型36回280億5000万円、オープン型17次設定19億9475万円、計300億円超
    • [85]1955年7月現在 東京本店のほか支店24か所・出張所その他営業所31か所、従業員1900名
    • [86]第17期(1953年10月〜1954年9月)の有価証券総取扱金額1400億円、株式売買高59.45%、公社債引受募集高21.24%
    • [89]1954年1月 本店ビル建設のため大和土地建物を設立
    • [87]1953年11月 加藤和根社長が取締役会長へ、岡村新市専務取締役が取締役社長へ就任
    • [88]1954年11月 副社長制を新設し福田千里専務取締役が就任
  • 大和証券グループ本社 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [90]12月 大和証券投資信託委託(現大和アセットマネジメント)設立(沿革は1959年6月の続きで年を省略)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大和証券」の項
    • [72]1948年7月 企業再建整備計画により資本金962万5000円へ減資、同年8月 5000万円へ増資
    • [73]1949年2月 1億5000万円、同年3月 2億円、1952年4月 5億円、1953年3月 10億円へ増資
    • [74]1948年5月 証券取引法施行にともない短資業を廃止
    • [76]証券投資信託の委託会社としての業務、有価証券の貸借および保護預り、公社債の払込金の受入などを営む
    • [84]1955年7月までの投信取扱額 セミ・クローズド型36回280億5000万円、オープン型17次設定19億9475万円、計300億円超
    • [85]1955年7月現在 東京本店のほか支店24か所・出張所その他営業所31か所、従業員1900名
    • [86]第17期(1953年10月〜1954年9月)の有価証券総取扱金額1400億円、株式売買高59.45%、公社債引受募集高21.24%
    • [89]1954年1月 本店ビル建設のため大和土地建物を設立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [75]昭和24年(1949年)ビルブローカー業務を東京投資へ譲渡
    • [79]昭和26年(1951年)ヒノマル投信、昭和27年(1952年)わが国初のオープン投信を開発
  • 大和証券グループ本社 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [77]1948年10月 証券取引法による証券業者登録
    • [78]1949年4月 東京証券取引所に会員として加入
    • [90]12月 大和証券投資信託委託(現大和アセットマネジメント)設立(沿革は1959年6月の続きで年を省略)
    • [80]ユニット型は買戻し可能だが追加設定ができないセミ・クローズド型、オープン型は買戻しと追加設定の双方を認める完全なオープン型
    • [81]信託期間はユニット型2年に対しオープン型10年、信託報酬は実績主義
    • [82]他社がオープン型に追随したのは5年以上あと
    • [83]1950年1月に米国の会社型投資信託を紹介、1951年2月に英国ユニット・トラストの運営実務、1952年2月に参考資料を各部店へ頒布
    • [87]1953年11月 加藤和根社長が取締役会長へ、岡村新市専務取締役が取締役社長へ就任
    • [88]1954年11月 副社長制を新設し福田千里専務取締役が就任

業界2位が選んだ海外拠点の先行配置

海外拠点の設置は1959年6月のニューヨーク駐在員事務所[91]から本格化した。1964年4月にロンドン駐在員事務所を開き、同年12月にはニューヨークへ大和セキュリティーズアメリカInc.を設立[92]している。1968年4月には改正証券取引法による総合証券会社として大蔵大臣の免許を受け[93]、1970年2月には東京・大阪・名古屋の各証券取引所市場第一部へ指定替え[94]となった。1970年12月には香港へ大和証券国際(香港)有限公司を、1972年6月にはシンガポールへDBS・大和セキュリティーズインターナショナルLtd.を設立[95]し、アジアへ拠点を広げた。

  • 大和証券グループ本社 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [91]1959年6月 ニューヨーク駐在員事務所を開設
    • [92]1964年4月 ロンドン駐在員事務所開設、同年12月 ニューヨークに大和セキュリティーズアメリカInc.設立
    • [93]1968年4月 改正証券取引法による総合証券会社として大蔵大臣の免許取得
    • [94]1970年2月 東京・大阪・名古屋の各証券取引所市場第一部に指定替え
    • [95]12月 香港に大和証券国際(香港)有限公司設立(沿革は1970年2月の続きで年を省略)/1972年6月 シンガポールにDBS・大和セキュリティーズインターナショナルLtd.設立

国内では1961年10月に東京・大阪・名古屋の各証券取引所市場第二部へ上場[96]した。1968年時点の資本金は80億円、従業員は5704名で、大手4社の一社として全国に80余の店舗[97]を構えている。海外にはニューヨークの現地法人とロンドンの事務所[98]を置いていた。1965年に至る証券不況期には他社に先んじて合理化を進め、「堅実経営の大和」[99]と呼ばれている。経営効率化の柱としてオンラインシステムを導入し、社員教育では高度の試験によるコンサルタント制度[100]を業界に先んじて整えた。1975年8月には大和コンピューターサービスを設立し、のちの大和総研の母体[101]とした。

  • 大和証券グループ本社 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [96]1961年10月 東京・大阪・名古屋各証券取引所市場第二部に上場
    • [101]1975年8月 大和コンピューターサービス設立(のちの大和総研ホールディングス)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [97]1968年時点の資本金80億円・従業員5704名、大手4社の一社として全国に80余の店舗
    • [98]海外はニューヨークに現地法人、ロンドンに事務所を設置
    • [99]昭和40年(1965年)に至る証券不況期に他社に先駆けて合理化を推進し「堅実経営の大和」と称された
    • [100]経営効率化の柱としてオンラインシステムを導入、高度の試験によるコンサルタント制度は業界の先端
  • 大和証券グループ本社 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [91]1959年6月 ニューヨーク駐在員事務所を開設
    • [92]1964年4月 ロンドン駐在員事務所開設、同年12月 ニューヨークに大和セキュリティーズアメリカInc.設立
    • [93]1968年4月 改正証券取引法による総合証券会社として大蔵大臣の免許取得
    • [94]1970年2月 東京・大阪・名古屋の各証券取引所市場第一部に指定替え
    • [95]12月 香港に大和証券国際(香港)有限公司設立(沿革は1970年2月の続きで年を省略)/1972年6月 シンガポールにDBS・大和セキュリティーズインターナショナルLtd.設立
    • [96]1961年10月 東京・大阪・名古屋各証券取引所市場第二部に上場
    • [101]1975年8月 大和コンピューターサービス設立(のちの大和総研ホールディングス)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [97]1968年時点の資本金80億円・従業員5704名、大手4社の一社として全国に80余の店舗
    • [98]海外はニューヨークに現地法人、ロンドンに事務所を設置
    • [99]昭和40年(1965年)に至る証券不況期に他社に先駆けて合理化を推進し「堅実経営の大和」と称された
    • [100]経営効率化の柱としてオンラインシステムを導入、高度の試験によるコンサルタント制度は業界の先端

アジアダラー債とユーロ円債で先行した商品開発

1971年、初のアジアダラー債であるシンガポール開銀債を代表幹事として引き受けた[102]。1970年代半ばにわが国株式市場が初めて本格的な外人投資を迎えた際には、米国の大手投信ドレイファスから短期間に1億3000万ドルの買い注文を獲得[103]している。1973年にはそのドレイファスファンドを国内で販売し、外国投信の国内販売第1号となった。同年6月には大和投資顧問を設立し、1977年には初のユーロ円債である欧州投資銀行債の発行を手掛けている。1980年には米国でMMF(マネー・マーケット・ファンド)を販売[104]した。

  • 日経ビジネス 1981年12月28日号「ケーススタディ 大和証券 土井体制、営業力強化に確かな手応え」
    • [102]1971年 初のアジアダラー債(シンガポール開銀債)を代表幹事として引受
    • [103]わが国株式市場が初の本格的外人投資を迎えた際、米大手投信ドレイファスから短期間に1億3000万ドルの買い注文を獲得
    • [104]昭和55年(1980年)米国でMMF(マネー・マーケット・ファンド)を販売

主幹事の引受実績にも先行が表れ、アジアダラー債では市場が発足した1971年12月から1981年10月までに大和が37件を引き受け、野村の7件、山一の4件を上回った[105]。ユーロ円債でも1977年4月の発足から1981年10月までに大和が8件、野村が4件、日興と山一が各1件[106]と差がついている。国際機関が発行するユーロ円債や、わが国企業が為替リスクを避ける資金調達をねらうドル建て円リンク債の引受に先鞭をつけたのも大和[107]であった。1980年12月には債券型の外国投信を出し、欧州のドレスナー銀行などと合弁でルクセンブルクに運用委託会社を設立[108]している。

  • 日経ビジネス 1981年12月28日号「ケーススタディ 大和証券 土井体制、営業力強化に確かな手応え」
    • [105]アジアダラー債主幹事引受実績(1971年12月発足〜1981年10月)大和37件・野村7件・山一4件・日興0件
    • [106]ユーロ円債主幹事引受実績(1977年4月発足〜1981年10月)大和8件・野村4件・日興1件・山一1件
    • [107]国際機関発行のユーロ円債やドル建て円リンク債の引受に先鞭をつけたのは大和
    • [108]1980年12月 債券型外国投信を発売、欧州のドレスナー銀行などと合弁でルクセンブルクに運用委託会社を設立
  • 日経ビジネス 1981年12月28日号「ケーススタディ 大和証券 土井体制、営業力強化に確かな手応え」
    • [102]1971年 初のアジアダラー債(シンガポール開銀債)を代表幹事として引受
    • [103]わが国株式市場が初の本格的外人投資を迎えた際、米大手投信ドレイファスから短期間に1億3000万ドルの買い注文を獲得
    • [104]昭和55年(1980年)米国でMMF(マネー・マーケット・ファンド)を販売
    • [105]アジアダラー債主幹事引受実績(1971年12月発足〜1981年10月)大和37件・野村7件・山一4件・日興0件
    • [106]ユーロ円債主幹事引受実績(1977年4月発足〜1981年10月)大和8件・野村4件・日興1件・山一1件
    • [107]国際機関発行のユーロ円債やドル建て円リンク債の引受に先鞭をつけたのは大和
    • [108]1980年12月 債券型外国投信を発売、欧州のドレスナー銀行などと合弁でルクセンブルクに運用委託会社を設立

1981年〜 人事抗争のあとの立て直しから2度の赤字と住友銀行との資本提携へ

大和証券グループ本社の業績推移

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1981年 ロンドンに大和ヨーロッパリミテッド設立
  2. 1982年 大和証券経済研究所を設立
  3. 1987年 世銀の主幹事で大名債を発行
  4. 1989年 大和コンピューターサービス・大和証券経済研究所・大和システムサービスが合併
  5. 1989年 大和総研が発足
  6. 1990年 NYに大和アメリカCorporation設立
  7. 1995年 営業赤字を計上

人事抗争のあとの土井体制と国内営業という弱点

1980年秋、経営トップの人事抗争が表面化し、社長の交代を経て土井定包氏が就任[109]した。土井定包社長は就任から1年余りで国内支店94か所を回り[110]、社員の士気の立て直しに取り組んでいる。営業では「顧客に利益をもたらす営業」を掲げ、売買の回数で稼ぐ従来のやり方を改めた[111]。顧客のニーズが安定度の高い債券購入にあるならば、証券会社にとって採算の良い株式を勧めずにニーズに合った債券を販売せよ[112]、という方針である。就職市場での人気も戻り、1981年11月の内定者は上限としてきた150人を大きく超える235人[113]となった。1981年9月期には過去最高の経常利益[114]を計上した。

  • 日経ビジネス 1981年12月28日号「ケーススタディ 大和証券 土井体制、営業力強化に確かな手応え」
    • [109]1980年秋の人事抗争劇のあと土井定包が社長に就任
    • [110]土井社長は就任1年余りで国内支店94か所を訪問
    • [111]営業姿勢として「顧客に利益をもたらす営業」を掲げ、フロー重視の営業を改めた
    • [112]顧客のニーズが安定度の高い債券購入なら採算の良い株式を勧めずニーズに合った債券を販売せよ、という土井社長の方針
    • [113]1981年11月の内定者は235人で、上限としてきた150人を大きく超えた
    • [114]1981年9月期に過去最高の経常利益を計上

1981年秋に話題となったロクイチ国債ファンドは、表面利率6.1%の国債を中心に組み入れた新型公社債投信[115]である。債券市場で人気がなく値段の安い低利率国債を、アキュミュレーション方式という利息配分方式で年々の利息の割合を高め、機関投資家にも売れる商品へ変えた[116]。もっとも総合力では業界3位にとどまり、株式委託手数料は831億円と日興の905億円を下回っている[117]。従業員1人当たりの株式委託手数料は野村の1657万円、日興の1504万円に対して大和は1294万円で、自己資本にあたる純財産額も1738億円と2位の日興より700億円ほど少なかった[118]

  • 日経ビジネス 1981年12月28日号「ケーススタディ 大和証券 土井体制、営業力強化に確かな手応え」
    • [115]ロクイチ国債ファンドは表面利率6.1%国債を中心に組み入れた新型公社債投信
    • [116]債券市場で人気がなく値段の安い低利率国債をアキュミュレーション方式で年々の利息割合を高め、機関投資家に飛ぶような売れ行きとなった
    • [117]総合力では業界3位、株式委託手数料は大和831億円に対し日興905億円
    • [118]従業員1人当たり株式委託手数料 野村1657万円・日興1504万円・大和1294万円、純財産額1738億円で2位の日興より700億円少ない

国内営業の弱さは店舗の分布に表れており、大手4社が競合する全国40地区の株式売買金額シェアでは、1980年度に4位の支店が18か所あった。1981年度にはこれが10か所へ減り、2位と3位のところが増えている。社内では定年を55歳から60歳へ延長し、昇給停止や減給を伴わない形をとった[120]。新入社員を入社後1年間、証券営業のイロハから教育する第2営業部は、証券業界で大和だけの制度[121]である。大手4社のうち独立した研究所を持たないという弱みに対しては、1982年5月に大和証券経済研究所を設立[122]して応じた。 [119]

  • 日経ビジネス 1981年12月28日号「ケーススタディ 大和証券 土井体制、営業力強化に確かな手応え」
    • [119]全国40地区の株式売買金額シェアで4位の支店が1980年度18か所から1981年度10か所へ減少
    • [120]定年を55歳から60歳へ延長、昇給ストップや減給を伴わない大和方式
    • [121]第2営業部は新入社員を入社後1年間、証券営業のイロハから教育する部門で証券業界で大和だけの制度
  • 大和証券グループ本社 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [122]大手4社で唯一独立した研究所を持たず、1982年5月に大和証券経済研究所を設立
  • 日経ビジネス 1981年12月28日号「ケーススタディ 大和証券 土井体制、営業力強化に確かな手応え」
    • [109]1980年秋の人事抗争劇のあと土井定包が社長に就任
    • [110]土井社長は就任1年余りで国内支店94か所を訪問
    • [111]営業姿勢として「顧客に利益をもたらす営業」を掲げ、フロー重視の営業を改めた
    • [112]顧客のニーズが安定度の高い債券購入なら採算の良い株式を勧めずニーズに合った債券を販売せよ、という土井社長の方針
    • [113]1981年11月の内定者は235人で、上限としてきた150人を大きく超えた
    • [114]1981年9月期に過去最高の経常利益を計上
    • [115]ロクイチ国債ファンドは表面利率6.1%国債を中心に組み入れた新型公社債投信
    • [116]債券市場で人気がなく値段の安い低利率国債をアキュミュレーション方式で年々の利息割合を高め、機関投資家に飛ぶような売れ行きとなった
    • [117]総合力では業界3位、株式委託手数料は大和831億円に対し日興905億円
    • [118]従業員1人当たり株式委託手数料 野村1657万円・日興1504万円・大和1294万円、純財産額1738億円で2位の日興より700億円少ない
    • [119]全国40地区の株式売買金額シェアで4位の支店が1980年度18か所から1981年度10か所へ減少
    • [120]定年を55歳から60歳へ延長、昇給ストップや減給を伴わない大和方式
    • [121]第2営業部は新入社員を入社後1年間、証券営業のイロハから教育する部門で証券業界で大和だけの制度
  • 大和証券グループ本社 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [122]大手4社で唯一独立した研究所を持たず、1982年5月に大和証券経済研究所を設立

住友銀行との提携の始まりと海外での総合金融

1984年11月13日、住友銀行と大和証券の多角提携[123]が表面化した。柱となったのは、大和証券が保護預りしている有価証券を担保に住友銀行が融資する証券担保金融と、住友銀行の関連会社である住友クレジットが発行するクレジットカードと大和証券のIDカードを一枚にする共通カード[124]である。土井定包社長は「住友とは血の繋がりもある。信金、相銀、郵貯と遠回りしてきたのは住友が相手方の最強豪だったからだ」と述べ、対銀行提携では住友を主力とする考えを示した。住友銀行の小松康頭取も、住友と大和の提携が都銀6行と証券4社の提携モデルになる[126]としている。 [125]

  • 日経ビジネス 1984年12月10日号「住銀-大和証券“大提携”の序曲」
    • [123]1984年11月13日 日本経済新聞が朝刊1面で住友銀行・大和証券の多角提携を報道
    • [124]提携内容は証券担保金融(大和証券が保護預りしている有価証券を担保に住友銀行が融資)と共通カード(住友クレジット発行のクレジットカードと大和証券のIDカードの共通化)
    • [125]土井定包社長の発言「住友とは血の繋がりもある。信金、相銀、郵貯と遠回りしてきたのは住友が相手方の最強豪だったからだ」「対銀行提携はあくまでも住友が主力だ」
    • [126]小松康・住友銀行頭取は住友と大和の提携が都銀6行と証券4社の提携モデルになるとした

証券業に銀行・信託の機能を組み合わせる試みは国内より海外で先に進み、1981年3月にロンドンへ大和ヨーロッパリミテッドを設立[127]したのに続いて、1986年には米国で信託会社を、1987年にはイギリスで銀行現地法人を設けている。1987年には世界銀行の主幹事として、円建外債とユーロ債の長所を組み合わせた自社開発の商品である大名債を発行した。1989年8月には大和コンピューターサービス・大和証券経済研究所・大和システムサービスの3社が合併して大和総研が発足[128]し、調査とシステムの機能をグループ内へ置いた。1990年3月にはニューヨークへ大和アメリカCorporationを設立し、同年4月には欧州主要7取引所へ同社株式を一斉上場[129]している。

  • 大和証券グループ本社 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [127]1981年3月 ロンドンに大和ヨーロッパリミテッドを設立
    • [128]1989年8月 大和コンピューターサービス・大和証券経済研究所・大和システムサービスが合併し大和総研が発足
    • [129]1990年3月 ニューヨークに大和アメリカCorporationを設立、同年4月 欧州主要7取引所に同社株式を一斉上場
  • 日経ビジネス 1984年12月10日号「住銀-大和証券“大提携”の序曲」
    • [123]1984年11月13日 日本経済新聞が朝刊1面で住友銀行・大和証券の多角提携を報道
    • [124]提携内容は証券担保金融(大和証券が保護預りしている有価証券を担保に住友銀行が融資)と共通カード(住友クレジット発行のクレジットカードと大和証券のIDカードの共通化)
    • [125]土井定包社長の発言「住友とは血の繋がりもある。信金、相銀、郵貯と遠回りしてきたのは住友が相手方の最強豪だったからだ」「対銀行提携はあくまでも住友が主力だ」
    • [126]小松康・住友銀行頭取は住友と大和の提携が都銀6行と証券4社の提携モデルになるとした
  • 大和証券グループ本社 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [127]1981年3月 ロンドンに大和ヨーロッパリミテッドを設立
    • [128]1989年8月 大和コンピューターサービス・大和証券経済研究所・大和システムサービスが合併し大和総研が発足
    • [129]1990年3月 ニューヨークに大和アメリカCorporationを設立、同年4月 欧州主要7取引所に同社株式を一斉上場

2度の赤字、総会屋事件、そして住友銀行との資本提携

1985年9月期から1991年3月期まで、経常利益1000億円台の好業績が7期[130]続いた。バブル崩壊後はこれが反転し、1992年3月期に当期純損失425億円、1993年3月期に経常損失65億円・当期純損失133億円を計上している。1995年3月期には経常損失387億円・当期純損失445億円と、2度目の赤字を出した。江坂元穂社長は戦後の証券市場を、財閥解体と証券民主化の第1の波、1965年から始まる高度成長と国際化の第2の波に続く「第3の波」[131]のなかにあるとみて、個人の金融資産が入ってこなければ市場は十分に機能しない[132]と述べている。信託業務への参入の準備もこの時期に進め、1993年8月に大和インターナショナル信託銀行を設立[133]した。

  • 週刊東洋経済 1999年4月10日号「実録・会社が変わる日 消えた“大和證券” 初の持株会社の成算」
    • [130]1985年9月期〜1991年3月期まで経常利益1000億円台の好業績が7期継続
  • 日経ビジネス 1992年11月16日号「編集長インタビュー 江坂元穂氏[大和証券社長] 家庭に証券投資根づかせる まだ業界に再編の余裕ない」
    • [131]江坂元穂社長の「第3の波」認識(第1の波=財閥解体と証券民主化、第2の波=1965年から始まる高度成長と国際化)
    • [132]江坂社長は個人の金融資産が入らなければマーケットは十分に機能しないと述べた
    • [133]1993年8月 大和インターナショナル信託銀行を設立

1996年4月には、インターネットによる株式取引を業界に先駆けて開始[134]した。1997年3月期の当期純損失は800億円にのぼっている。同年10月1日、総会屋グループへの利益供与の発覚を受けて、役員序列19位だった原良也氏が急きょ社長に就いた[135]。就任の翌月に山一証券が自主廃業すると、大和証券も簿外損失を抱えているのではないかとの風説が市場に流布され、株価は728円から390円へ半減近く下げている[136]。原社長は就任当初から持株会社制への移行を想定し、ホールセール部門とリテール部門の分社化を前提とした組織変更を早々に実施[137]した。

  • 週刊東洋経済 2000年7月1日号「企業レポート 企業改革 大和証券グループ本社「修正日本経営」で挑む万年2位からの脱却」
    • [134]1996年4月 インターネット取引を業界に先駆けて開始
  • 週刊東洋経済 1999年4月10日号「実録・会社が変わる日 消えた“大和證券” 初の持株会社の成算」
    • [135]1997年10月1日 総会屋グループへの利益供与発覚で役員序列19位の原良也が社長に就任
    • [136]1997年11月 山一証券の自主廃業の余波で風説が流布され株価が728円から390円へ下落
    • [137]原社長は就任当初から持株会社制への移行を想定し、ホールセールとリテールの分社化を前提とした組織変更を実施

1997年12月18日、原社長は住友銀行の西川善文頭取と会食[138]した。住友銀行は3000億円近い資本を投じて国内外で証券業務を営みながら利益を上げられずにおり[139]、両者の現状認識は厳しさで一致している。銀行と証券のファイヤーウォールの撤廃と株式売買委託手数料の完全自由化を控え、1998年明けには準備委員会が発足した[140]。交渉は同年5月から6月に煮詰まったが、外資との提携をあわせて発表するため公表は7月28日まで遅れ、大手3社では最後になっている[141]。1998年3月期の当期純損失は837億円で、外資との提携相手である米T・ロウ・プライス・アソシエイツと英フレミング・グループの発表は1999年1月25日までずれ込んだ[142]

  • 週刊東洋経済 1999年4月10日号「実録・会社が変わる日 消えた“大和證券” 初の持株会社の成算」
    • [138]1997年12月18日 原良也社長が住友銀行の西川善文頭取と会食
    • [139]住友銀行は3000億円近い資本を投下し国内外で証券業務を営んだが実質的に利益を上げられなかった
    • [140]1998年明けに大和証券と住友銀行が準備委員会を発足、交渉は5〜6月に煮詰まり公表は7月28日
    • [141]外資との提携もあわせて発表するため公表が1998年7月28日までずれ込み、大手3社で最後となった
    • [142]外資(米T・ロウ・プライス・アソシエイツ、英フレミング・グループ)との提携発表は1999年1月25日
  • 週刊東洋経済 1999年4月10日号「実録・会社が変わる日 消えた“大和證券” 初の持株会社の成算」
    • [130]1985年9月期〜1991年3月期まで経常利益1000億円台の好業績が7期継続
    • [135]1997年10月1日 総会屋グループへの利益供与発覚で役員序列19位の原良也が社長に就任
    • [136]1997年11月 山一証券の自主廃業の余波で風説が流布され株価が728円から390円へ下落
    • [137]原社長は就任当初から持株会社制への移行を想定し、ホールセールとリテールの分社化を前提とした組織変更を実施
    • [138]1997年12月18日 原良也社長が住友銀行の西川善文頭取と会食
    • [139]住友銀行は3000億円近い資本を投下し国内外で証券業務を営んだが実質的に利益を上げられなかった
    • [140]1998年明けに大和証券と住友銀行が準備委員会を発足、交渉は5〜6月に煮詰まり公表は7月28日
    • [141]外資との提携もあわせて発表するため公表が1998年7月28日までずれ込み、大手3社で最後となった
    • [142]外資(米T・ロウ・プライス・アソシエイツ、英フレミング・グループ)との提携発表は1999年1月25日
  • 日経ビジネス 1992年11月16日号「編集長インタビュー 江坂元穂氏[大和証券社長] 家庭に証券投資根づかせる まだ業界に再編の余裕ない」
    • [131]江坂元穂社長の「第3の波」認識(第1の波=財閥解体と証券民主化、第2の波=1965年から始まる高度成長と国際化)
    • [132]江坂社長は個人の金融資産が入らなければマーケットは十分に機能しないと述べた
    • [133]1993年8月 大和インターナショナル信託銀行を設立
  • 週刊東洋経済 2000年7月1日号「企業レポート 企業改革 大和証券グループ本社「修正日本経営」で挑む万年2位からの脱却」
    • [134]1996年4月 インターネット取引を業界に先駆けて開始

1999年〜 業界初の純粋持株会社化、銀行との合弁と解消、資産管理型への転換

大和証券グループ本社の業績推移

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1999年 住友銀行との資本提携と証券業界初の純粋持株会社化 証券不況とビッグバンのなか、原良也社長は業界2位の生き残りをどんな組織に託したか
  2. 2001年 さくら証券から営業全部を譲受、大和証券エスエムビーシーに商号変更
  3. 2009年 大和証券SMBCの合弁解消と三井住友保有40%株の買取による完全子会社化 銀行の資本に付くか、独立を守るか——業界2位はホールセールの合弁をなぜ10年で解いたか
  4. 2010年 三井住友FGとのホールセール証券事業の合弁を解消
  5. 2011年 親会社株主帰属当期純損失▲373億円で赤字転落
  6. 2011年 大和ネクスト銀行の設立による証券グループの銀行業参入 銀行を持たない証券会社は顧客の余裕資金をどうつなぎ留めるか——独立系に戻った大和が選んだ自前のネット銀行
  7. 2024年 単品売買モデルから顧客の資産価値最大化を掲げる資産管理型ビジネスへの転換 売買仲介で稼ぐ会社か、顧客の資産を預かり育てる会社か——創業以来のやり方からかじを切る転換は何を変えるか

上場会社として初の純粋持株会社化と合弁体制

1999年4月、旧・大和証券はホールセール証券業務を大和証券エスビーキャピタル・マーケッツへ、リテール証券業務を新設の大和証券へそれぞれ譲渡し、グループ会社の支配・管理を目的とする持株会社へ転換[143]した。同時に商号を大和証券グループ本社へ変更[144]している。日本の上場会社として初の純粋持株会社であり、証券業界でも初[145]であった。ホールセール子会社は住友銀行系の住友キャピタル証券と統合した合弁で、出資比率は大和60%・住友銀行40%[146]とした。移行にあたって社員は全員がいったん退職して新会社へ再就職し、ホールセール新会社へ移った社員は1500人[147]であった。

  • 大和証券グループ本社 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [143]4月 ホールセール証券業務を大和証券エスビーキャピタル・マーケッツへ、リテール証券業務を新・大和証券へ譲渡し旧・大和証券を持株会社化(沿革は1999年1月の続きで年を省略)
    • [144]同時に商号を大和証券グループ本社へ変更、証券業界初の純粋持株会社化
  • 週刊東洋経済 1999年4月10日号「実録・会社が変わる日 消えた“大和證券” 初の持株会社の成算」
    • [145]日本の上場会社として初の純粋持株会社
    • [147]移行時に社員は全員退職し新会社へ再就職、ホールセール新会社への移籍は1500人
  • 週刊東洋経済 2000年7月1日号「企業レポート 企業改革 大和証券グループ本社「修正日本経営」で挑む万年2位からの脱却」
    • [146]ホールセール子会社は住友銀行との合弁で出資比率は大和60%・住友銀行40%

移行と同時に人事制度も組み替え、9等級あった職級を4つに減らして、ホールセール新会社では同じ職級でもボーナスで最大5倍、月給で最大2倍の差[148]をつけている。退職金は全社員へ規程どおり満額支給したうえで以後の退職一時金を廃止し、企業年金の積み立て不足を将来へ残さない形[149]とした。一方で60歳定年制は原則として維持し、年功序列型の賃金体系にはメスを入れるが終身雇用は守るという線を引いた[150]。1999年3月期の連結当期純損失は1279億円だったが、翌2000年3月期はIT相場を追い風に当期純利益1054億円へ回復している。

  • 週刊東洋経済 1999年4月10日号「実録・会社が変わる日 消えた“大和證券” 初の持株会社の成算」
    • [148]職級を9等級から4つへ削減、ホールセール新会社では同一職級でもボーナス最大5倍・月給最大2倍の格差
    • [149]退職金を全社員へ規程どおり満額支給し以後の退職一時金を廃止、過去勤務債務をゼロにする形
    • [150]原社長は60歳定年制を固持し「年功序列型の賃金体系にメスを入れるが、終身雇用は守る」と述べた

2001年4月、大和証券エスビーキャピタル・マーケッツはさくら証券から営業の全部を譲り受け、商号を大和証券エスエムビーシーへ変更[151]した。同年10月には100%子会社として大和証券エスエムビーシープリンシパル・インベストメンツを設立[152]し、プリンシパル投資へ参入している。原社長は2000年に3か年の中期経営計画を発表し、リテールの預かり資産を3年で倍の28.3兆円へ増やし、高いROEの安定達成を通じてA格以上の格付けを取得する[153]道筋を描いた。手数料はコールセンターで3割、インターネットで5割の引き下げを予定[154]し、支店・コールセンター・インターネットをつなぐリテール体制を組んでいる。同年5月には役員一歩手前の経営者予備軍を対象とする大和経営アカデミーを開講[155]した。

  • 大和証券グループ本社 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [151]2001年4月 さくら証券から営業全部を譲受し大和証券エスエムビーシーへ商号変更
    • [152]10月 大和証券エスエムビーシーの100%子会社として大和証券エスエムビーシープリンシパル・インベストメンツ(現大和PIパートナーズ)設立(沿革は2001年4月の続きで年を省略)
  • 週刊東洋経済 2000年7月1日号「企業レポート 企業改革 大和証券グループ本社「修正日本経営」で挑む万年2位からの脱却」
    • [153]中期経営計画でリテール預かり資産を3年で倍の28.3兆円へ、高ROEの安定達成でA格以上の格付け取得を目標
    • [154]手数料をコールセンターで3割、インターネットで5割引き下げる予定
    • [155]2000年5月 役員一歩手前の経営者予備軍を対象に大和経営アカデミーを開講
  • 大和証券グループ本社 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [143]4月 ホールセール証券業務を大和証券エスビーキャピタル・マーケッツへ、リテール証券業務を新・大和証券へ譲渡し旧・大和証券を持株会社化(沿革は1999年1月の続きで年を省略)
    • [144]同時に商号を大和証券グループ本社へ変更、証券業界初の純粋持株会社化
    • [151]2001年4月 さくら証券から営業全部を譲受し大和証券エスエムビーシーへ商号変更
    • [152]10月 大和証券エスエムビーシーの100%子会社として大和証券エスエムビーシープリンシパル・インベストメンツ(現大和PIパートナーズ)設立(沿革は2001年4月の続きで年を省略)
  • 週刊東洋経済 1999年4月10日号「実録・会社が変わる日 消えた“大和證券” 初の持株会社の成算」
    • [145]日本の上場会社として初の純粋持株会社
    • [147]移行時に社員は全員退職し新会社へ再就職、ホールセール新会社への移籍は1500人
    • [148]職級を9等級から4つへ削減、ホールセール新会社では同一職級でもボーナス最大5倍・月給最大2倍の格差
    • [149]退職金を全社員へ規程どおり満額支給し以後の退職一時金を廃止、過去勤務債務をゼロにする形
    • [150]原社長は60歳定年制を固持し「年功序列型の賃金体系にメスを入れるが、終身雇用は守る」と述べた
  • 週刊東洋経済 2000年7月1日号「企業レポート 企業改革 大和証券グループ本社「修正日本経営」で挑む万年2位からの脱却」
    • [146]ホールセール子会社は住友銀行との合弁で出資比率は大和60%・住友銀行40%
    • [153]中期経営計画でリテール預かり資産を3年で倍の28.3兆円へ、高ROEの安定達成でA格以上の格付け取得を目標
    • [154]手数料をコールセンターで3割、インターネットで5割引き下げる予定
    • [155]2000年5月 役員一歩手前の経営者予備軍を対象に大和経営アカデミーを開講

三井住友との合弁解消と銀行機能の自前化

2009年5月、三井住友フィナンシャルグループが日興コーディアル証券の買収を決め、自前の証券事業を強化[156]した。合弁の大和証券SMBCでは出資比率の引き上げをめぐって両社が対立し、同年9月10日に合弁解消で合意している[157]。12月31日、大和はSMFGが保有する大和証券SMBC普通株式1520株の全部を当初支払額1739億円で取得して完全子会社[158]とし、2010年1月1日に商号を大和証券キャピタル・マーケッツへ変更した[159]鈴木茂晴社長は合弁解消によってフリーハンドが増したとし[160]、独立系総合証券としての再出発を選んでいる。2007年4月にアジア担当役員を2人体制へ増やす[161]など、合弁下でも海外の法人ビジネスは自前で広げていた。

  • 三井住友銀行 ニュースリリース 2009年9月10日「株式会社大和証券グループ本社との合弁事業の解消」
    • [156]2009年 三井住友FGが日興コーディアル証券を買収し自前の証券事業を強化
    • [157]2009年9月10日 大和証券グループ本社とSMFGが大和証券SMBCの合弁解消で合意
  • 大和証券グループ本社・大和証券エスエムビーシー 適時開示 2009年12月25日「ホールセール証券事業に関する合弁解消についてのお知らせ」
    • [158]2009年12月31日 SMFG保有の大和証券SMBC普通株式1520株(40%)を当初支払額1739億円で取得し完全子会社化
  • 大和証券グループ本社 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [159]2010年1月 三井住友FG・三井住友銀行とのホールセール証券事業の合弁解消に伴い大和証券キャピタル・マーケッツへ商号変更
  • 週刊東洋経済 2010年2月20日号「TOP INTERVIEW 大和証券グループ本社 執行役社長(CEO) 鈴木茂晴 合弁解消のメリット多い。フリーハンドが増した」
    • [160]鈴木茂晴社長は合弁解消でフリーハンドが増したと述べた
  • 週刊東洋経済 2007年4月21日号「ニュース最前線04 証券 アジア事業を強化する大和証券の“対抗心”」
    • [161]2007年4月 大和証券SMBCが1990年代からずっと1人だったアジア担当役員を2人体制へ

銀行機能は自前で持つ道を選び、2009年10月23日には鈴木社長のもとで役員会がインターネット専業銀行の設立方針を公表[162]している。取り扱う商品を資産運用商品としての預金に絞り、証券総合口座と預金口座を自動で結ぶスイープによって顧客の余裕資金をグループ内へ取り込む設計[163]とした。2010年4月に資本金1650億円で大和ネクスト銀行を設立し、2011年4月の開業を経て[164]同年5月に顧客向けサービスを開始[165]している。これに先立つ2009年7月にはダヴィンチ・セレクトの全株式を取得して不動産アセットマネジメントへ参入[166]した。2011年4月には鈴木社長から日比野隆司氏へ社長を交代[167]している。

  • 大和証券グループ本社(2009年10月23日)「インターネット銀行の設立について」
    • [162]2009年10月23日 役員会がインターネット専業銀行の設立方針を公表
    • [163]取扱商品を資産運用商品としての預金に絞り、証券総合口座と預金口座を自動で結ぶスイープで顧客の余裕資金を取り込む設計
    • [164]2010年4月 資本金1650億円で株式会社大和ネクスト銀行を設立、2011年4月開業
  • 大和証券グループ本社 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [165]2011年5月 大和ネクスト銀行がお客さま向けサービスを開始
    • [166]2009年7月 ダヴィンチ・セレクト(現大和リアル・エステート・アセット・マネジメント)の全株式を取得し不動産アセットマネジメントへ参入
  • 大和証券グループ本社 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【役員の状況】
    • [167]2011年4月 日比野隆司が取締役 兼 代表執行役社長 最高経営責任者(CEO)に就任

合弁解消の直後からアジアの拡大に踏み込み、2009年11月以降は香港現地法人を第2本社と位置づけ、アジア関連事業を進めるため海外拠点で1000億円規模の資本増強[168]を実施している。2010年7月にはベルギーの金融大手KBCグループのグローバルCB部門とアジア株式デリバティブ部門を約10億ドルで買収することに合意[169]した。アジアの陣容は2009年9月の750人から2011年4月には1200人へ、海外全体では1900人弱から2440人へ[170]増えている。年俸1億円を超える幹部の引き抜き[171]も相次いだ。

  • 週刊東洋経済 2012年3月6日号「カンパニー&ビジネス 国内証券2位の行方 格下げ阻止へリストラ加速 独立維持できるか大和証券」
    • [168]2009年11月から香港現地法人を第2本社化し海外拠点で1000億円規模の資本増強を実施
    • [169]2010年7月 ベルギーKBCグループのグローバルCB部門とアジア株式デリバティブ部門を約10億ドルで買収合意
    • [170]アジアの人員は2009年9月750人から2011年4月1200人、海外全体は1900人弱から2440人へ増加
    • [171]年俸1億円超の幹部を多数引き抜き
  • 三井住友銀行 ニュースリリース 2009年9月10日「株式会社大和証券グループ本社との合弁事業の解消」
    • [156]2009年 三井住友FGが日興コーディアル証券を買収し自前の証券事業を強化
    • [157]2009年9月10日 大和証券グループ本社とSMFGが大和証券SMBCの合弁解消で合意
  • 大和証券グループ本社・大和証券エスエムビーシー 適時開示 2009年12月25日「ホールセール証券事業に関する合弁解消についてのお知らせ」
    • [158]2009年12月31日 SMFG保有の大和証券SMBC普通株式1520株(40%)を当初支払額1739億円で取得し完全子会社化
  • 大和証券グループ本社 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [159]2010年1月 三井住友FG・三井住友銀行とのホールセール証券事業の合弁解消に伴い大和証券キャピタル・マーケッツへ商号変更
    • [165]2011年5月 大和ネクスト銀行がお客さま向けサービスを開始
    • [166]2009年7月 ダヴィンチ・セレクト(現大和リアル・エステート・アセット・マネジメント)の全株式を取得し不動産アセットマネジメントへ参入
  • 週刊東洋経済 2010年2月20日号「TOP INTERVIEW 大和証券グループ本社 執行役社長(CEO) 鈴木茂晴 合弁解消のメリット多い。フリーハンドが増した」
    • [160]鈴木茂晴社長は合弁解消でフリーハンドが増したと述べた
  • 週刊東洋経済 2007年4月21日号「ニュース最前線04 証券 アジア事業を強化する大和証券の“対抗心”」
    • [161]2007年4月 大和証券SMBCが1990年代からずっと1人だったアジア担当役員を2人体制へ
  • 大和証券グループ本社(2009年10月23日)「インターネット銀行の設立について」
    • [162]2009年10月23日 役員会がインターネット専業銀行の設立方針を公表
    • [163]取扱商品を資産運用商品としての預金に絞り、証券総合口座と預金口座を自動で結ぶスイープで顧客の余裕資金を取り込む設計
    • [164]2010年4月 資本金1650億円で株式会社大和ネクスト銀行を設立、2011年4月開業
  • 大和証券グループ本社 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【役員の状況】
    • [167]2011年4月 日比野隆司が取締役 兼 代表執行役社長 最高経営責任者(CEO)に就任
  • 週刊東洋経済 2012年3月6日号「カンパニー&ビジネス 国内証券2位の行方 格下げ阻止へリストラ加速 独立維持できるか大和証券」
    • [168]2009年11月から香港現地法人を第2本社化し海外拠点で1000億円規模の資本増強を実施
    • [169]2010年7月 ベルギーKBCグループのグローバルCB部門とアジア株式デリバティブ部門を約10億ドルで買収合意
    • [170]アジアの人員は2009年9月750人から2011年4月1200人、海外全体は1900人弱から2440人へ増加
    • [171]年俸1億円超の幹部を多数引き抜き

格下げ寸前からの縮小均衡と資産管理型ビジネスへの転換

アジアの拡大は市況の悪化と重なり、2011年3月期には経常損失326億円・親会社株主に帰属する当期純損失373億円で赤字へ転落した。2012年3月期も当期純損失394億円と2期連続の赤字である。法人部門を担う大和証券キャピタル・マーケッツは2010年度に771億円の最終赤字を計上[172]し、アジア地域の経常損益も2011年度第3四半期までの累計で146億円の赤字[173]となった。日比野隆司社長は拡張のタイミングがよくなかった[174]と述べている。セグメント別ではグローバル・マーケッツ部門が2011年3月期に▲521億円、2012年3月期に▲544億円と、ホールセール側の損失が業績悪化の中心にあった。2011年11月、ムーディーズは格付けを投資不適格の一段上にあたるBaa3へ引き下げ、見通しをネガティブ[175]とした。

  • 週刊東洋経済 2012年3月6日号「カンパニー&ビジネス 国内証券2位の行方 格下げ阻止へリストラ加速 独立維持できるか大和証券」
    • [172]大和証券キャピタル・マーケッツは2010年度に771億円の最終赤字
    • [173]アジア地域の経常損益は2011年度第1〜3四半期累計で146億円の赤字
    • [174]日比野隆司社長は「拡張のタイミングが結果としてよくなかった」と述べた
    • [175]2011年11月 ムーディーズが投資不適格寸前のBaa3(見通しネガティブ)へ格下げ

2012年1月末、販売管理費の削減計画を年400億円から600億円へ積み増した。うち335億円は海外拠点の500人削減で賄い、190億円をシステム関連費、75億円を不動産費の削減で対応する内訳である。欧州では株式引受業務とデリバティブ業務から撤退し、プライムブローカレッジ業務も取りやめ[177]た。同年4月には大和証券キャピタル・マーケッツを大和証券へ吸収合併し、13年ぶりに総合証券として再統合[178]している。大和ネクスト銀行の預金残高は2011年末に1兆2300億円へ増え[179]日比野隆司社長は証券を中核として銀行が間口を広げる証銀連携を掲げた[180]。市況の回復も重なって2014年3月期には経常利益1970億円・親会社株主に帰属する当期純利益1694億円と2010年代で最高水準を記録し、リテール部門の利益も同期に1021億円へ達した。 [176]

  • 週刊東洋経済 2012年3月6日号「カンパニー&ビジネス 国内証券2位の行方 格下げ阻止へリストラ加速 独立維持できるか大和証券」
    • [176]2012年1月末 販管費削減計画を年400億円から600億円へ上積み、内訳は海外500人削減335億円・システム190億円・不動産75億円
    • [177]欧州で株式引受業務とデリバティブ業務から撤退、プライムブローカレッジ業務も中止
    • [179]2011年末の大和ネクスト銀行の預金残高1兆2300億円
    • [180]日比野社長は「証券をコアとして銀行が間口を広げる“証銀連携”のビジネスモデルを確立していく」と述べた
  • 大和証券グループ本社 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [178]4月 大和証券が大和証券キャピタル・マーケッツを吸収合併(沿革は2012年1月の続きで年を省略)、13年ぶりに総合証券として再スタート

2017年4月に中田誠司氏が社長へ就任[181]し、他社が店舗を減らすなかで逆張りの店舗拡大に踏み切った[182]。2017年9月に米Sagent Holdings、10月に米Signal Hill Holdingsを子会社化[183]して海外のM&A助言機能を補強した。営業収益は2020年3月期の6722億円から2021年3月期には5761億円へ落ち込んでいる。2024年4月に社長へ就いた荻野明彦[184]は、同月に始まる中期経営計画「Passion for the Best 2026」で顧客の資産価値最大化を掲げ、創業以来の単品売買モデルから資産管理型ビジネスへの転換を宣言[185]した。2024年5月にあおぞら銀行と資本業務提携契約を結んで持分法適用関連会社[186]とし、2025年3月期の営業収益は1兆3720億円、当期純利益は1543億円である。大和ネクスト銀行の預金残高もその後伸び、2026年1月には5兆円を突破した[187]

  • 週刊東洋経済 2012年3月6日号「カンパニー&ビジネス 国内証券2位の行方 格下げ阻止へリストラ加速 独立維持できるか大和証券」
    • [172]大和証券キャピタル・マーケッツは2010年度に771億円の最終赤字
    • [173]アジア地域の経常損益は2011年度第1〜3四半期累計で146億円の赤字
    • [174]日比野隆司社長は「拡張のタイミングが結果としてよくなかった」と述べた
    • [175]2011年11月 ムーディーズが投資不適格寸前のBaa3(見通しネガティブ)へ格下げ
    • [176]2012年1月末 販管費削減計画を年400億円から600億円へ上積み、内訳は海外500人削減335億円・システム190億円・不動産75億円
    • [177]欧州で株式引受業務とデリバティブ業務から撤退、プライムブローカレッジ業務も中止
    • [179]2011年末の大和ネクスト銀行の預金残高1兆2300億円
    • [180]日比野社長は「証券をコアとして銀行が間口を広げる“証銀連携”のビジネスモデルを確立していく」と述べた
  • 大和証券グループ本社 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [178]4月 大和証券が大和証券キャピタル・マーケッツを吸収合併(沿革は2012年1月の続きで年を省略)、13年ぶりに総合証券として再スタート
    • [183]2017年9月 米Sagent Holdings、10月 米Signal Hill Holdingsの全株式を取得し子会社化
    • [186]2024年5月 あおぞら銀行と資本業務提携契約を締結し持分法適用関連会社化
  • 大和証券グループ本社 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【役員の状況】
    • [181]2017年4月 中田誠司が取締役 兼 代表執行役社長 最高経営責任者(CEO)に就任
    • [184]2024年4月 荻野明彦が取締役 兼 代表執行役社長 最高経営責任者(CEO)に就任
    • [182]中田体制は他社が店舗を減らすなか逆張りの店舗拡大に踏み切り対面の接点を維持
  • 大和証券グループ本社 中期経営計画「Passion for the Best 2026」
    • [185]中期経営計画「Passion for the Best 2026」で顧客資産の価値最大化を掲げ、単品売買から資産管理型への転換を宣言
    • [187]大和ネクスト銀行の預金残高が2026年1月に5兆円を突破

大和証券グループ本社の沿革1902〜2025年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
藤本ビルブローカー創業
藤本ビルブローカーを設立
藤本ビルブローカー銀行に商号変更
藤本ビルブローカー証券に商号変更
日本初の投資信託「藤本有価証券投資組合」を発足★★
藤本証券に商号変更
日本信託銀行と合併し大和証券誕生★★
日本初の転換社債(私募)を発行
証券取引法による証券業者登録
東京証券取引所に会員として加入
日本初のオープン型投資信託を発足★★
日本初の累積投資制度(積立オープン)を発足
福田千里ニューヨーク駐在員事務所開設
福田千里大和証券投資信託委託を設立
福田千里大和証券投資信託販売を設立
福田千里東京・大阪・名古屋各証券取引所市場第二部に上場
安部志雄ロンドン駐在員事務所開設
安部志雄NYに大和セキュリティーズアメリカInc.設立
安部志雄改正証券取引法による総合証券会社として大蔵大臣の免許取得
山内隆博初のアジアダラー債を代表幹事として引受
山内隆博DBS・大和セキュリティーズインターナショナルLtd.をシンガポールに設立
山内隆博ドレイファスファンドを国内販売
山内隆博大和投資顧問を設立
菊一岩夫初のユーロ円債(欧州投資銀行債)を発行
土井定包ロンドンに大和ヨーロッパリミテッド設立
土井定包大和証券経済研究所を設立
土井定包世銀の主幹事で大名債を発行
同前雅弘大和コンピューターサービス・大和証券経済研究所・大和システムサービスが合併
同前雅弘大和総研が発足
同前雅弘NYに大和アメリカCorporation設立
江坂元穂大和インターナショナル信託銀行を設立
江坂元穂営業赤字を計上★★
原良也大和全球証券設立
原良也住友銀行との資本提携と証券業界初の純粋持株会社化証券不況とビッグバンのなか、原良也社長は業界2位の生き残りをどんな組織に託したか 詳細を読む★★★
原良也さくら証券から営業全部を譲受、大和証券エスエムビーシーに商号変更★★
原良也大和証券エスエムビーシープリンシパル・インベストメンツ設立
鈴木茂晴大和総研が会社分割し大和総研HDス体制へ
鈴木茂晴ダヴィンチ・セレクトの全株式を取得
鈴木茂晴大和証券SMBCの合弁解消と三井住友保有40%株の買取による完全子会社化銀行の資本に付くか、独立を守るか——業界2位はホールセールの合弁をなぜ10年で解いたか 詳細を読む★★★
鈴木茂晴三井住友FGとのホールセール証券事業の合弁を解消★★
日比野隆司親会社株主帰属当期純損失▲373億円で赤字転落★★
日比野隆司日比野隆司氏が社長に就任
日比野隆司大和ネクスト銀行の設立による証券グループの銀行業参入銀行を持たない証券会社は顧客の余裕資金をどうつなぎ留めるか——独立系に戻った大和が選んだ自前のネット銀行 詳細を読む★★★
中田誠司中田誠司氏が社長に就任
荻野明彦単品売買モデルから顧客の資産価値最大化を掲げる資産管理型ビジネスへの転換売買仲介で稼ぐ会社か、顧客の資産を預かり育てる会社か——創業以来のやり方からかじを切る転換は何を変えるか 詳細を読む★★★
荻野明彦あおぞら銀行と資本業務提携契約を締結し持分法適用関連会社化★★
荻野明彦かんぽ生命と資産運用分野で資本業務提携、大和アセットマネジメントへ資本受入れ
荻野明彦Airborne Capital Limitedとの合弁会社・大和エアボーンを発足
出典・参考

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