1936年〜 感光紙・カメラから複写機メーカーへの転換
リコーの業績推移:単体
- 1936年 理研感光紙の分離独立と市村清への経営一任 装置をハンマーで壊した外部出身者に、大河内正敏はなぜ一社を任せたか
- 1938年 商号を理研光学工業に変更、カメラ製造開始
- 1949年 東京証券取引所に株式上場
- 1950年 リコーフレックス(二眼レフカメラ)発売
- 1955年 リコピー101による事務機市場への本格参入 感光紙とカメラの会社は、いかにして複写機メーカーへ移ったか
- 1959年 国産初の電子複写機「リコーファックス」開発
- 1965年 無配転落と不良資産の一括処理
理研コンツェルンからの分離独立という特異な起点
分離独立した感光紙部門が扱っていたのは、理化学研究所が発明し当時は日・独・米・カナダで特許化されていた理研陽画感光紙で、その製造販売権は理研コンツェルンの中核会社・理化学興業(1941年8月解散)が持っていた[1]。市村清氏は佐賀県出身で、富国生命の保険セールスマンとしての実績をもって理研コンツェルンの感光紙部門長に抜擢された異色の経歴の経営者だった。外部から招かれた人材に対する古参社員の反発は激しく、両者の対立は感光紙製造装置を市村氏自らハンマーで破壊するという極端な形にまで発展する。理研コンツェルン総帥の大河内正敏博士は市村氏を処分せず、1936年2月に感光紙部門を分離して資本金35万円・従業員33名の理研感光紙株式会社を設立し[2][3]、大河内博士自ら会長に就いて経営の一切を市村氏に一任した。[4]この分離独立は大河内博士の慧眼を示すエピソードとして語り継がれている。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [1]分離前の製品は理化学研究所発明の理研陽画感光紙で、製造販売権は理化学興業(1941年8月解散)が保有し、特許は日・独・米・カナダで取得
- [4]理研コンツェルン総帥は大河内正敏で、設立時の理研感光紙では自ら会長に就いた
- 有価証券報告書
- [2]1936年2月 感光紙部門を分離し理研感光紙株式会社を設立
- [3]設立時 資本金35万円・従業員33名
独立後の市村氏は感光紙事業を軌道に乗せ、1938年には理研光学工業へ商号を改称してカメラ製造へ進出した。[5]戦時下にはカメラの製造をほとんど中止し、光学部門は軍用双眼鏡の生産に切り替えた。戦後は外地事業場を失ったが国内の主要設備はほとんど戦災を免れ、感光紙は統制撤廃を機に順調に成長した。[6]1950年発売のリコーフレックスは朝鮮戦争特需で月産1万台を輸出し、ソニー・本田技研と並ぶ戦後日本の『花形三羽烏』と呼ばれるまでになる。1955年発売の卓上型複写機『リコピー101』は感光紙技術を応用した製品で、事務機市場への本格参入を象徴する一台だった。当時の業界観察誌は『カメラ重点から総合事務機メーカーへの転身で発展。リコピーを中心に新製品への期待は無限大』と評し、一つの製品カテゴリに固執せず次の成長領域へ経営資源を機動的に付け替える市村氏の経営スタイルが会社の性格を形成した。
- 有価証券報告書
- [5]1938年 理研光学工業へ商号変更しカメラ製造へ進出
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [6]戦時下はカメラ製造をほぼ中止し光学部門を軍用双眼鏡の生産へ転換、戦後は外地事業場を失うも国内主要設備は戦災を免れ、感光紙は統制撤廃を機に成長した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [1]分離前の製品は理化学研究所発明の理研陽画感光紙で、製造販売権は理化学興業(1941年8月解散)が保有し、特許は日・独・米・カナダで取得
- [4]理研コンツェルン総帥は大河内正敏で、設立時の理研感光紙では自ら会長に就いた
- [6]戦時下はカメラ製造をほぼ中止し光学部門を軍用双眼鏡の生産へ転換、戦後は外地事業場を失うも国内主要設備は戦災を免れ、感光紙は統制撤廃を機に成長した
- 有価証券報告書
- [2]1936年2月 感光紙部門を分離し理研感光紙株式会社を設立
- [3]設立時 資本金35万円・従業員33名
- [5]1938年 理研光学工業へ商号変更しカメラ製造へ進出
経営の神様の泰平ムードと無配転落からの再建
1960年代前半、『経営の神様』と称された市村清氏のもとでリコーは成長したが、社内には成功企業に生じがちな泰平ムードが蔓延した。1962年の『実業の世界』は『理研光学の経営ぶりにはいろいろな特色があるが、そのうちの一つは多角化だ。しかも時流に先鞭をつけたものであり、異例の大成功を収めているモデルケース』と書いた。[7]しかし1964年の東京五輪後の不況で経営は悪化し、1965年3月期には不良資産8億4000万円を一括処理して無配転落となり[8]、戦後初の本格的な経営危機に直面した。『経済展望』は翌年の時計事業再建をめぐり『かつて『経営の神様』とまでうたわれた市村清氏は、とうとう金利の全面タナ上げの要請という『泣き』を銀行にいれた』(経済展望 1967/10)と伝えた。4000人中800人を関連会社へ出向させる合理化で再建の道筋を描き、以後繰り返される過去の負担の一括処理パターンを作った。
- 実業の世界(1962年9月)
- [7]1962年『実業の世界』が理研光学の多角化を成功モデルケースと評した
- 有価証券報告書
- [8]1964年の東京五輪後の不況、1965年3月期に不良資産8億4000万円を一括処理し無配転落
再建の起死回生となったのは1965年発売の静電複写機『電子リコピーBS2』だった。事務合理化を求める社会の需要と製品投入のタイミングが合致し、わずか2年半で復配を果たす。複写機が会社の顔へと入れ替わる過程を『ダイヤモンド』は『リコピーの成功は、リコーフレックスのそれをはるかにしのぐものであった。かくてリコーのなはあまねく知れわたった』と記録している。市村氏は1968年に68歳で急逝するが、感光紙からカメラへ、カメラから複写機へという連続的な事業転換を主導した手法は、既存技術を新しい応用領域で商品化し販売力でシェアを取るやり方として社内に刻み込まれた。保険セールスマン時代に培われた市場感覚と営業規律が経営の底流に一貫して流れ、以後の『販売のリコー』の基礎になった。
- 実業の世界(1962年9月)
- [7]1962年『実業の世界』が理研光学の多角化を成功モデルケースと評した
- 有価証券報告書
- [8]1964年の東京五輪後の不況、1965年3月期に不良資産8億4000万円を一括処理し無配転落