CRP(リストラプログラム)の発表
レーザープリンターとカラー複写機での決定的な出遅れ
1980年代後半、リコーはキヤノンと売上高でほぼ肩を並べる「良きライバル」だった。1989年3月期のリコーの経常利益は219億円に達し、PPC複写機の成長市場と三層構造の販売網がかみ合って過去最高の収益を記録していた。しかし1990年代に入ると、両社の格差は急速に拡大する。最大の要因は、レーザービームプリンター(LBP)とカラー複写機という2大成長分野での出遅れだった。
LBPでは、キヤノンが1984年からヒューレット・パッカード向けにパソコン用プリンターのOEM供給を開始し、「レーザーショット」として爆発的にヒットさせた。リコーは1年早い1983年にディジタル・イクイップメントへの供給を開始していたが、ワークステーション用に狙いを定めたため、パソコン用という巨大市場を逃した。しかもキヤノンのカートリッジ交換技術の特許に阻まれ、対抗製品の開発に数年を要した。技術的には先行しながら市場の読み違いで後手に回るという、イマジオと同じパターンが繰り返されていた。
カラー複写機でも、キヤノンの1979年発売に対しリコーは1983年と4年遅れた。さらに「新製品は出るのだが、とにかく色調が悪かった」と販売会社幹部が証言するように(日経ビジネス 1994年12月12日号)、製品の完成度とユーザーニーズとの乖離が解消されなかった。加えて、多角化路線のもとパソコン、LAN、電子ファイルなどに経営資源が分散し、いずれも収益化に至らないまま本業の収益力をむしろ悪化させていた。
不採算事業の見直しと重点事業への集中投下を宣言
1991年11月、浜田広社長は事業部長会議の席上でCRP(コーポレート・リストラクチャリング・プログラム)を発表した。不採算事業の見直しと重点事業への経営資源の集中投下を柱とする構造改革であり、リコー創業以来最大規模の自己変革だった。実はその数週間前の役員会で、数人の役員が浜田社長にリストラの断行を迫っていた。「緩い統制」を信条とする浜田は最初ためらったが、事態の深刻さを認識して踏み切った。
まず約370億円のコストダウンを目標に掲げた。内訳は経費削減で約200億円、製品の値上げで約70億円、製品原価の削減で約100億円である。さらに1992年2月末には、社長と常任監査役を除く役員23人に辞表の提出を要求するというショック療法を断行した。世間からは「ワンマン」「辞めるべきは社長」と批判を浴びたが、「仲よしクラブ的な経営」と自ら評していた社内の空気を一変させ、全社の危機意識を一気に高める効果があった。
並行して、開発・製造体制の抜本改革にも着手した。複写機、ファクシミリ、プリンター等の事業部を画像事業本部に統合し、TSS(統合的設計生産方式)を導入した。超高速機に集中していた開発要員をカラー機やレーザープリンターに振り向けるとともに、企画から製造まで一貫して責任を持つプロダクトマネジャー制度を導入した。開発リソースの再配分は、「技術のリコー」を掲げた大植・浜田路線の軌道修正であり、市場が求める製品を優先する方針への転換だった。
3年で営業利益を実質過去最高水準に回復
CRPの成果は数字に如実に表れた。1992年3月期に17億円の営業損失に転落した後、翌1993年3月期には86億円の営業黒字に復帰し、約370億円のコストダウン目標をほぼ達成した。特にTSS方式で開発した普及型複写機「スピリオ」は、開発費を従来の4分の1に圧縮し、開発期間も半分に短縮するという成果を生んだ。従来のリコーでは考えられなかった開発効率の飛躍であり、CRPの象徴的な成功事例となった。
事業面では、コンピューター事業を大幅に縮小し、複写機・ファクシミリという本業への回帰を明確にした。パソコン、LAN、電子ファイルなど多角化路線のもとで広がった事業を整理し、「多角化は善」という従来の前提を180度転換するものだった。浜田社長はこの転換を「天動説から地動説へ」と表現し、自社の技術シーズではなく市場の需要を起点に事業を組み立て直す姿勢を打ち出した。
1995年3月期には営業利益185億円を計上し、円高による利益の目減りを考慮すれば実質的に過去最高水準に達した。しかし浜田社長は外部からの講演依頼をすべて断り、「リストラは前半2年プラス後半3年の4年計画。前半が終わっただけ」と手綱を緩めなかった。1965年の市村清が復配後に再び「泰平ムード」を許した前例を意識し、リコー特有の「仲よしクラブ的な経営」を改めて数字で議論する文化を根づかせることが、真の課題だと認識していたからである。