1937年4月9日に首都圏に拠点を置く自動車メーカー2社(東京瓦斯電気(自動車部門)およびダット自動車製造)が合同し、東京自動車工業株式会社(現いすゞ自動車)を発足した。合併に至った背景は、戦時下において自動車の生産を合理化するため、日本政府が首都圏の自動車製造事業の合同を促したことにあった。
東京自動車工業における技術面での特色は、自動車工業株式会社(旧石川島造船所)を通じてディーゼルエンジンの技術開発に注力した点にあった。合併直前の1934年には「ディーゼル機関研究委員会」を設置するなど、ガソリンではなくディーゼルに関する技術蓄積を志向していた。この経緯により、戦時中のいすゞ自動車は「戦車製造(のちの日野自動車)」に注力し、戦後も乗用車の開発にあたってはディーゼルエンジンの搭載を志向した。
東京瓦斯電気の工場建設予定地であった川崎工場について、いすゞ自動車の工場として活用する方針を決定。1938年7月にいすゞは川崎工場(敷地面積4万坪)として自動車量産のための工場を新設した。
工場新設の翌月(1938年8月31日)には、トラック「TX40型」をラインオフし、四輪トラックの生産工場として稼働を開始した。
戦時体制において、日本政府はディーゼル車を量産するために、これらの技術をいすゞ自動車に集約する方針を決定。商号を「東京自動車工業」から「ヂーゼル自動車工業」に変更した。
陸軍からの要請を受けて、1938年9月にいすゞでは戦車量産のための工場新設を決定。東京都日野市に20万坪の敷地を確保し、1941年から日野製造所として稼働した。
ところが、日野製造所における問題となったのが、政府からの補助金の扱いであった。東京自動車工業は「商工省」からの補助を受けた一方で、日野製造所は陸軍が大口顧客であり、陸軍からの補助を受けた方が良いという判断に至った。
このため、1942年にいすゞ自動車(東京自動車工業)は、日野製造所の会社分離を決定。いすゞの完全子会社として日野重工業(のちの日野自動車)を発足した。
なお、戦後の財閥解体によりいすゞ自動車は日野自動車の株式売却を決定し、敗戦によって「いすゞ」と「日野自動車」は資本面における親子関係を解消するに至った。
1953年2月に英ルーツ社と提携し、乗用車「ヒルマン」の国内生産(組立生産)を開始。いすゞとしては、トラックおよびバスの量産から、乗用車の生産に進出する足掛かりとして。外国メーカーとの提携によるノックダウン生産を選択した。
1958年には乗用車「ヒルマン」の量産のために、川崎工場の拡張(5.9万坪の取得)を実施。商用車に続く事業展開として、乗用車の量産を志向した。
1957年にいすゞはタイ向けにトラックの輸出を開始。輸出および販売面では三菱商事と協業し、1963年には三菱商事がタイに組立工場を新設。1966年に組立工場を譲り受ける形で、いすゞ自動車は「泰国いすゞ自動車」を発足してタイにおける現地生産を開始した。
1976年時点の泰国いすゞ自動車の出資比率は、いすゞ自動車42.5%、泰国三菱商事6.5%、トリペッチいすゞセールス36.0%、そのほか15.0%であった。このうち、トリペッチいすゞセールスへの出資比率は、三菱商事33.0%、泰国三菱商事16.0%、タイの現地資本(Jortee Tin Dredging等)51%であった。
すなわち、生産面では日本企業が主導する一方、販売面では三菱商事とタイの現地資本が協同する座組を敷いた。また、歴史的に三菱商事がタイ進出を主導したことから、いすゞ自動車としてはタイの現地法人は子会社ではなく、関係会社の扱いであった(2004年にいすゞはタイの現地法人を子会社化)。
タイへの進出にあたって、三菱商事は現地におけるアフターサービスの充実に投資。補修用部品などのストックを十分に確保し、修理依頼に対して迅速に対応することで、現地における信頼を確保した。1970年代までに販売網は「トリペッチいすゞセールス」に継承され、タイで90ヶ所の販売拠点・24ヶ所のアフターサービスの拠点を確保するに至った。
泰いすゞ自動車との関係は、泰国三菱商事がトラックの販売を始めた時から続いているから、もう20年もの付き合いになる。泰いすゞ自動車と、トリペッチいすゞセールス両社を通じて言えることは、トップ(日本人役員)と一般社員(タイ人)との意思疎通が非常にうまくいっているということ。われわれ関連会社のものが、仕事の打ち合わせなどで、誰か一人に連絡しただけで、いつも支障なく仕事が進められるのは本当に助かる。
また両社ともユーザーの意見をよく聞いてくれるのにも感心させられる。たとえば「ホイールを止めるネジを2段締めにしてほしい」といった苦情が出ると、すぐに改良した部品を用意してくれるといった具合で、無理なクレーム以外はたいてい聞き入れてもらっている。
1960年代を通じていすゞは乗用車への量産投資を優先し、トラックなどの商用車に対する投資が抑制された。この結果、トラックの国内シェアが徐々に低下して1969年にはシェア25%以下に低迷した。
1960年代前半までのいすゞ自動車では、トラック事業の高収益によって、乗用車の赤字を補填する構造であったが、1960年代後半にはトラックおよび乗用車の両方で業績が悪化した。新事業であった乗用車については、商用車が中心のいすゞ自動車では国内販路がの整備が不十分だったことや、日産やトヨタが乗用車の量産投資を志向してシェアを確保したことで、いすゞは劣勢となった。
1971年7月にいすゞ自動車(荒牧寅雄・社長)は、当時世界最大の自動車メーカーであった米GM(ゼネラルーモーターズ)との全面的な提携を決定。GMがいすゞ自動車の株式34.2%を取得(最大49%を取得)し、技術供与やOEM生産の委託などの協業を発表した。提携にあたって仲介にあたったのは伊藤忠商事であった。第三者割当増資によってGMがいすゞの株式を取得したことで、いすゞの大株主(筆頭株主)はGMとなった。
提携に伴って、いすゞとしては、国内向けの乗用車の共同開発(ジェミニ)や、工場稼働率改善のために北米輸出向けのピックアップのOEM生産を開始した。
GMとしては日本進出のためにいすゞと提携し、GMグループとしてはディーゼルエンジン車両の開発については、いすゞに一任した。
トラック量産のために栃木工場を新設。将来の拡張可能性を考慮した敷地面積は30万坪であった。
ところが、主力の藤沢工場や川崎工場からは離れた立地条件であり、従業員が配置転換を拒んだため、機能移転が遅れたという。
1971年にいすゞはGMと提携したが、当初の想定とは異なり、1980年までにGMがいすゞとの協業を縮小する方向に舵を切った。特に小型トラックについて、GMはいすゞからのOEM供与ではなく、米国における自社生産に切り替えたため、いすゞにとっては北米輸出が縮小されることが予想された。
1980年6月に米国販売会社として米国いすゞ自動車を設立。いすゞ自動車が80%、伊藤忠が20%出資し、伊藤忠とともに北米での販売拡大を意図した。伊藤忠をパートナーとして選定した理由は、GMとのアライアンスにあたって、伊藤忠が仲介したことが契機になったと推定される。
米国いすゞ自動車は設立から1年で、全米22州に200け件のディーラーを確保。GMとの提携によって、いすゞのブランドが米国現地に浸透していたため、迅速な販売網の確保に成功した。
1981年にいすゞはGMと協同して「Rカー」の開発計画を策定。いすゞ自動車は700億円を投資し、新設する北海道工場においてRカーを年間20万台生産する計画を策定。うち10万台を国内向けとし、10万台を北米輸出とし、米国ではGMシボレーの販路を通じて販売する計画を策定した。
1981年の時点で日米貿易摩擦を通じて自動車の輸出台数が制限されていたが、当初は3ヵ年の制約であたっため、いすゞとしては輸出台数の制限が1984年に緩和されると判断した。
GM向けの乗用車「Rカー」の量産(北米輸出)を念頭に置き、1984年8月に北海道工場を苫小牧市に新設。乗用車を年産20万台生産する工場として稼働することを予定した。
ところが、1980年代を通じて日米貿易摩擦が深刻化し、日本から米国への自動車の輸出台数が制限(年間160万台まで)された。いすゞとしては北米輸出の実績が他社比較で小さかったことや、GMと協業している国内メーカーという特殊性から、輸出割当台数として1.6万台(約1%)だけが付与された。
この結果、いすゞ自動車としては北海道工場における自動車の量産が厳しい状況となった。進出先の苫小牧市からは「大ききな失意」を表明され、いすゞが確保した広大な工場用の土地は空き地となったという。
いすゞは業績不振の原因であった乗用車事業の縮小を決定。主力車種である「ジェミニ」の後継車種の開発を中止した。生産面では、1992年12月にホンダと提携し、北米ではRVをホンダにOEMで供与し、国内ではホンダがいすゞに小型車を供与することで合意した。
この結果、販売面ではいすゞブランドの乗用車は存続するものの、生産・開発面では乗用車事業から撤退。いすゞとしては長年継続してきた乗用車から撤退し、トラックなどの商用社に注力する体制をとった。
本社人員700名に対して希望退職者の募集を実施。対象者は32歳以上で、勤続10年以上の社員。募集開始から2時間で740名の応募があり、発表当日に受付を終了した。
2010年にボルボ社との協業を発表し、UDトラックスの株式100%を取得。株式の取得原価は587億円であった。また、UDトラックス社によるボルボ社への借入金2615億円についてもいすゞ自動車が弁済をしため、いすゞによるUDトラックスの取得価額合計(ボルボ社への支払額)は3203億円に及んだ。
UDトラックスは旧日産ディーゼルであり、2007年にボルボ社が日産ディーゼルの株式を取得。2010年に商号をUDトラックスに変更し、国内における大型トラック・トレーラの生産に従事していた。国内の製造拠点は、埼玉県上尾市の上尾工場であり、2018年12月期の業績は売上高2565億円・営業利益11億円。ボルボとしては業績不振のUDトラックスの売却を意図した。