日本航空 の歴史

更新:

創業

1951年

創業者

藤山愛一郎

創業地

東京都

直近売上高(2026/3)

20,125億円

長期業績と転換点(1997/3〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1953年に半官半民の国策会社として再編され、世界一の座を得ながら原価管理は弱いままだったのか
A 国が株式の半分を持ち、本邦唯一の国際線免許を1社に集中させれば、海外勢の参入を排して需要を独占でき、戦後復興期に乏しかった外貨と航空主権を国の管理下で守れた。1953年10月、日本航空株式会社法により旧会社と政府の折半出資で資本金20億円の新会社が設立され、本邦唯一の国際線定期免許会社として発足した。守られた独占のもとで1983年にはIATA統計の旅客・貨物輸送実績が世界一となり1987年まで5年首位を保ったが、競争で勝ち取った地位ではないため、原価管理を磨く圧力は弱いままだった
Q なぜ2010年の経営破綻で、航空の経験がない稲盛和夫氏を無報酬で会長に迎えたのか
A 2兆円超の負債を抱えた再建で要ったのは航空の専門知識ではなく、官製時代に染みついた採算を顧みない組織の行動原理を書き換える力だった。そこで政府は、京セラとKDDIで部門別採算の仕組みを築いた稲盛和夫氏に白羽の矢を立てた。2010年1月に負債総額2兆3,200億円で会社更生法の適用を申請、同年2月に稲盛氏が78歳・無報酬で会長へ就いた。組織を小集団に分け採算を可視化するアメーバ経営と、全社員で価値観を共有するJALフィロソフィを携え、約16,000人の人員削減と45路線の廃止を断行して官製体質を壊した
Q なぜ2024年に鳥取三津子社長が、非航空事業の利益比率を5割へ引き上げる構造改革を掲げたのか
A コロナ禍で売上収益が7割近く消し飛んだ経験は、収益を航空一本に頼る構造の脆さを突きつけた。航空は燃料価格や感染症・景気で需要が激しく振れるため、その市況変動を非航空事業の利益で和らげれば、二度目の破綻を避けて経営を安定させられる。2024年4月にJAL初の女性社長へ就いた客室乗務員出身の鳥取三津子氏は、顧客視点で利益も最大化する方針のもと、非航空事業の利益比率を50%へ引き上げる構造改革に取り組み、マイル経済圏の拡大やデジタルサービスを具体策として据えた

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

1951年〜 国が国際線の免許を1社に集めて始まった半官半民の20年

日本航空の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1951年 日本航空設立
  2. 1953年 日本航空法に基づく新会社設立
  3. 1954年 東京〜ホノルル〜サンフランシスコ線開設
  4. 1960年 初のジェット旅客機DC-8運航開始
  5. 1961年 証券取引所に上場
  6. 1965年 ジャルパック販売開始
  7. 1966年 ボーイング747(ジャンボ)導入の決定と大量輸送体制への転換 増便できない過密のなか、1機66.6億円の巨人機に輸送力を賭けたのはなぜか

日航法が与えた本邦唯一の国際線免許

1951年8月[1]、資本金1億円[2]で日本航空株式会社が設立された。連合国軍最高司令官総司令部が日本人による航空機の運航禁止を解いた直後で、自社の乗員も機体も持たないまま、運航を米ノースウエスト航空に委託して営業を始めた[3]。1952年10月からは自主運航[4]による国内線の定期航空輸送事業に移った。同年4月には伊豆大島の三原山で委託運航中の旅客機が墜落[5]しており、国内の航空法制を整える必要が生じていた。1953年10月[6]、日本航空株式会社法に基づき、旧会社と政府の折半出資による資本金20億円の新会社[7]が設立される。新会社は旧会社の権利義務の一切を継承し、本邦唯一の国際線定期航空運送事業の免許会社[8]として発足した。1954年2月[9]には東京〜ホノルル〜サンフランシスコ線を開設した。

  • 日本航空 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1951年8月1日に旧会社が資本金1億円をもって設立された
    • [2]設立時の資本金は1億円
    • [6]1953年10月1日に日本航空株式会社法に基づく新会社が設立された
    • [7]旧会社と政府の折半出資による20億円の資本金をもって設立された
    • [8]旧会社の権利義務の一切を継承し、本邦唯一の国際線定期航空運送事業の免許会社として発足した
    • [9]1954年2月に東京〜ホノルル〜サンフランシスコ線を開設し本邦企業初の国際線定期輸送を開始した
  • 週刊東洋経済 2010/2/13
    • [3]GHQによる航空機の運航禁止解除を受けて発足し、当初は米ノースウエスト航空に運航委託していた
    • [5]1952年に伊豆大島三原山で墜落死亡事故が発生し、日本独自の航空法整備の必要に迫られた
  • 日本航空 有価証券報告書
    • [4]翌年10月から自主運航による国内線定期航空輸送事業を開始した

日航法は、国際線の免許を1社に集める代わりに、経営の手続きも国に握らせた。日本航空は毎年、事業計画と収支予算を政府に提出して認可を受け、その範囲で運営した。伍堂輝雄副社長は1964年の講演[11]で、この認可予算は最低限度の責任にすぎず[12]、収入では予算以上、経費では節減を積まなければならないと説明した。役員の選任にも運輸大臣の認可を要し[13]、経営の自由度は法律で縛られていた。国費による海外出張で日航機を使う比率は、次官会議の通達を受けて1961年前半の39%から1964年初めには60%[14]まで上がったが、日本人全体では42%[15]にとどまっていた。伍堂副社長は講演の場でも、日本人が日本航空を利用するムードを作ってほしいと聴衆に求めた[16][10]

  • 証券アナリストジャーナル 1964年10月号 伍堂輝雄「航空業界の現状と日本航空の将来」
    • [10]日航法により毎年政府に事業計画・収支予算の認可申請を行い、認可を得て運営していた
    • [11]伍堂輝雄は1964年当時の日本航空副社長
    • [12]認可予算は最低限度の責任であり、実際にはこれを上回る実績を上げなければならないと述べた
    • [14]国費による外国旅行での日航機利用率は1961年前半39%から1964年1〜2月に60%へ上昇した
    • [15]日本人全体での日航機利用率は42%にとどまっていた
    • [16]日本人は日本航空を利用するというムード作りを聴衆に求めた
  • 日経ビジネス 1979/12/17
    • [13]日本航空は役員の選任に運輸大臣の認可を必要とし、法律・行政にがんじがらめになっていた
  • 日本航空 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1951年8月1日に旧会社が資本金1億円をもって設立された
    • [2]設立時の資本金は1億円
    • [6]1953年10月1日に日本航空株式会社法に基づく新会社が設立された
    • [7]旧会社と政府の折半出資による20億円の資本金をもって設立された
    • [8]旧会社の権利義務の一切を継承し、本邦唯一の国際線定期航空運送事業の免許会社として発足した
    • [9]1954年2月に東京〜ホノルル〜サンフランシスコ線を開設し本邦企業初の国際線定期輸送を開始した
  • 週刊東洋経済 2010/2/13
    • [3]GHQによる航空機の運航禁止解除を受けて発足し、当初は米ノースウエスト航空に運航委託していた
    • [5]1952年に伊豆大島三原山で墜落死亡事故が発生し、日本独自の航空法整備の必要に迫られた
  • 日本航空 有価証券報告書
    • [4]翌年10月から自主運航による国内線定期航空輸送事業を開始した
  • 証券アナリストジャーナル 1964年10月号 伍堂輝雄「航空業界の現状と日本航空の将来」
    • [10]日航法により毎年政府に事業計画・収支予算の認可申請を行い、認可を得て運営していた
    • [11]伍堂輝雄は1964年当時の日本航空副社長
    • [12]認可予算は最低限度の責任であり、実際にはこれを上回る実績を上げなければならないと述べた
    • [14]国費による外国旅行での日航機利用率は1961年前半39%から1964年1〜2月に60%へ上昇した
    • [15]日本人全体での日航機利用率は42%にとどまっていた
    • [16]日本人は日本航空を利用するというムード作りを聴衆に求めた
  • 日経ビジネス 1979/12/17
    • [13]日本航空は役員の選任に運輸大臣の認可を必要とし、法律・行政にがんじがらめになっていた

ジェット化がもたらした赤字と政府認可下の経営

国際航空は1958年にピストン機からジェット機への転換が始まり[17]、各社が機材を償却しきらないまま買い替えに走った[18]。輸送力は一挙に増え、需給が崩れて1962年には各国の航空会社が軒並み赤字に落ちた[19]。日本航空はジェット機への切替が1年遅れたため影響も1年遅れて現れ、1962年度に28億円の赤字[20]を出した。南回り欧州線の開設とシンガポール線の延長[21]が重なり、路線の拡張が経営の負担になっていた。1963年度は既存路線の拡充と合理化に絞り、太平洋線を週11便に増やす[22]一方、パンアメリカン航空のジェット貨物便に対抗できなくなった太平洋の貨物専用便は運航を止めた[23]。整備会社との合併とジェット燃料の国内自給体制[24]も、この年に整えた。

  • 証券アナリストジャーナル 1964年10月号 伍堂輝雄「航空業界の現状と日本航空の将来」
    • [17]1958年にピストン機からジェット機への切替えが始まった
    • [18]従来機を充分償却しないまま新しいジェット機を購入する必要が生じた
    • [19]1962年には世界各国の航空会社の業績が底に達しほとんどが赤字経営となった
    • [20]日本航空はジェット機への切替えが1年遅れ、昭和37年度に28億円の赤字を出した
    • [21]シンガポール線のジャカルタ延長と南回りヨーロッパ線開設が経営上の負担になった
    • [22]昭和38年度に太平洋線を週11便に増便した
    • [23]パンアメリカン航空のジェット貨物専用便に対抗できず太平洋の貨物専用便の運航を中止した
    • [24]合理化の一環として整備会社と合併し、ジェット燃料の国内自給体制を整えた

1963年度の営業収益は387億6,300万円と前年比37%増[25]となり、乗員訓練費の未償却残のうち約5億円を特別償却したうえで15億2,600万円の利益[26]を計上した。繰越欠損金13億円を全て消せる見通しが立ったのは翌1964年度[27]である。日本航空は運航開始当初のパイロットを全て外国人に頼っており[28]、1964年の時点でも国内線のレシプロ機に30余名の外国人パイロット[29]が残っていた。国際線の機長を1人育てるには10年から12年と1人当たり3,500万円[30]を要し、この10年間の乗員訓練費は約63億円、1964年度だけで年間約20億円[31]に達した。商法改正で1964年度からは当該年度の経費として落とすことになり、政府から3億5,000万円の補助金[32]を受けて処理した。

  • 証券アナリストジャーナル 1964年10月号 伍堂輝雄「航空業界の現状と日本航空の将来」
    • [25]昭和38年度の営業収益は387億6,300万円で対前年比37%増
    • [26]乗員訓練費の未償却残のうち当初の部分約5億円の特別償却を行い15億2,600万円の利益計上にとどまった
    • [27]昭和39年度は繰越欠損金13億円を全部消してなお相当の利益が見込まれた
    • [28]日航が運航を開始した当初は全部外国人パイロットに依存していた
    • [29]1964年時点で国内線のレシプロ機に30余名の外国人パイロットが残っていた
    • [30]1人前の国際線機長に育てるには10〜12年と1人当たり3,500万円を要した
    • [31]この10年間に約63億円の乗員訓練費を支出し、1964年度だけで年間約20億円になった
    • [32]昭和39年度の予算で政府から3億5,000万円の補助金を受けた
  • 証券アナリストジャーナル 1964年10月号 伍堂輝雄「航空業界の現状と日本航空の将来」
    • [17]1958年にピストン機からジェット機への切替えが始まった
    • [18]従来機を充分償却しないまま新しいジェット機を購入する必要が生じた
    • [19]1962年には世界各国の航空会社の業績が底に達しほとんどが赤字経営となった
    • [20]日本航空はジェット機への切替えが1年遅れ、昭和37年度に28億円の赤字を出した
    • [21]シンガポール線のジャカルタ延長と南回りヨーロッパ線開設が経営上の負担になった
    • [22]昭和38年度に太平洋線を週11便に増便した
    • [23]パンアメリカン航空のジェット貨物専用便に対抗できず太平洋の貨物専用便の運航を中止した
    • [24]合理化の一環として整備会社と合併し、ジェット燃料の国内自給体制を整えた
    • [25]昭和38年度の営業収益は387億6,300万円で対前年比37%増
    • [26]乗員訓練費の未償却残のうち当初の部分約5億円の特別償却を行い15億2,600万円の利益計上にとどまった
    • [27]昭和39年度は繰越欠損金13億円を全部消してなお相当の利益が見込まれた
    • [28]日航が運航を開始した当初は全部外国人パイロットに依存していた
    • [29]1964年時点で国内線のレシプロ機に30余名の外国人パイロットが残っていた
    • [30]1人前の国際線機長に育てるには10〜12年と1人当たり3,500万円を要した
    • [31]この10年間に約63億円の乗員訓練費を支出し、1964年度だけで年間約20億円になった
    • [32]昭和39年度の予算で政府から3億5,000万円の補助金を受けた

高い利益率の内訳と、ジャンボ機導入の決定

半官半民の日本航空は、他国の主要航空会社と比べても速く伸びた。1958年から1967年までの営業収入の年平均増加率は24.9%で、北米10社の11.9%、欧州10社の12.8%を上回る。売上営業利益率も18%と北米10社の10%、欧州10社の6%[34]を超えた。ただし田中鎮雄常務は1969年の講演[35]で、利益率が高いのは収入レートが欧米より低い代わりに利用率が高いためで、有効トンキロ当たりの原価は北米10社の8セントに対し日本航空は18セント[36]と、原価水準は必ずしも低いといえない[37]と断った。IATA加盟社中の順位は1963年の14位から1967年に8位[38]へ上がり、田中常務は1973年ごろのビッグ5入りを目標[39]に掲げた。 [33]

  • 証券アナリストジャーナル 1969年7月号 田中鎮雄「航空業界と日本航空」
    • [33]1958〜67年の営業収入の対前年増加率平均は当社24.9%、北米10社11.9%、欧州10社12.8%
    • [34]売上営業利益率は当社18%、北米10社10%、欧州10社6%
    • [35]田中鎮雄は1969年当時の日本航空常務取締役
    • [36]有効トンキロ当たり原価は北米10社8セント、欧州10社21セント、当社18セントだった
    • [37]営業利益率が高いのは収入レートが低いものの利用率が比較的高いためで、原価水準は必ずしも低いとはいえないと述べた
    • [38]IATAランクは1963年の第14位から1967年に第8位へ躍進した
    • [39]1973年頃にはIATA加盟国のビッグ5入りを目標にしていた

1968年に策定した中期5カ年計画は、1969年度に1,280億円の売上を1973年度に2,690億円[40]へ、航空機の保有を50機から77機[41]へ増やす内容だった。1970年ごろには旅客が当時の2倍、貨物が3倍[42]になると見込まれ、便数を増やさずに需要をさばく手段が要る。1966年6月16日[43]、日本航空は重役会でボーイング747型機の購入を決め、1機66.6億円の490人乗り[44]を1970年から羽田〜太平洋路線に投入する計画を発表した。従来機の2倍から3倍の座席を1機に積む[45]選択である。同年8月、松尾静磨社長[46]は米国航空会社の不定期便増便に反対[47]し、国際線免許の独占を守る方針を示した。株式は1961年10月に証券取引所の市場第二部へ上場し、1970年2月に第一部へ指定[48]された。

  • 証券アナリストジャーナル 1969年7月号 田中鎮雄「航空業界と日本航空」
    • [40]中期5カ年計画の売上は44年度1,280億円から48年度2,690億円
    • [41]航空機保有数は44年度50機から48年度77機とする計画だった
  • 読売新聞 1966/6/16
    • [42]1970年ごろには旅客が当時の2倍、貨物が3倍になると予測された
    • [43]1966年6月16日に重役会でボーイング747型機の購入を正式決定した
    • [44]1機66.6億円の490人乗りを1970年から羽田〜太平洋路線へ投入する計画だった
    • [45]従来機の2〜3倍の座席を持つジャンボ機を導入する判断だった
  • 読売新聞 1966/8/9
    • [46]松尾静磨は当時の日本航空社長
    • [47]定期航空に与える影響も大きいので米国不定期便の増便は認めるべきではないと述べ、国際線免許の独占を守る方針を示した
  • 日本航空 有価証券報告書【沿革】
    • [48]1961年10月に証券取引所(東京、大阪、名古屋)市場第二部に上場し、1970年2月に市場第一部へ指定された

ボーイング747の運航は1970年7月に始まった[49]。当時の羽田空港は発着能力の限界に近づき、成田の新空港はまだ建設中[50]で、1機で2倍から3倍を運ぶ大型機に輸送力を託すほかない状況だった。路線と商品はこの間に厚みを増した。1960年8月に初のジェット旅客機ダグラスDC-8が運航を始め、1961年6月に北回り欧州線[52]、1965年1月にはジャルパックの販売[53]も始まった。1966年11月にニューヨーク線[54]を開き、1967年3月には世界一周路線[55]も開設した。国際線を1社で担う体制のもとで路線網は広がり、1971年5月には日本国内航空と東亜航空の合併で東亜国内航空[56]が生まれ、国内線は3社体制となった。 [51]

  • 日本航空 有価証券報告書【沿革】
    • [49]1970年7月にボーイング747型航空機(ジャンボジェット)が運航開始した
    • [51]1960年8月に初のジェット旅客機ダグラスDC-8型航空機が運航開始した
    • [52]1961年6月に北回り欧州線を開設した
    • [53]1965年1月にジャルパックの販売を開始した
    • [54]1966年11月にニューヨーク線を開設した
    • [55]1967年3月に世界一周路線(西回り)を開設した
    • [56]1971年5月に日本国内航空と東亜航空の合併により東亜国内航空が設立された
  • 読売新聞 1970/7/2
    • [50]羽田はもうギリギリいっぱいで、成田に新空港の建設が急がれていた
  • 証券アナリストジャーナル 1969年7月号 田中鎮雄「航空業界と日本航空」
    • [33]1958〜67年の営業収入の対前年増加率平均は当社24.9%、北米10社11.9%、欧州10社12.8%
    • [34]売上営業利益率は当社18%、北米10社10%、欧州10社6%
    • [35]田中鎮雄は1969年当時の日本航空常務取締役
    • [36]有効トンキロ当たり原価は北米10社8セント、欧州10社21セント、当社18セントだった
    • [37]営業利益率が高いのは収入レートが低いものの利用率が比較的高いためで、原価水準は必ずしも低いとはいえないと述べた
    • [38]IATAランクは1963年の第14位から1967年に第8位へ躍進した
    • [39]1973年頃にはIATA加盟国のビッグ5入りを目標にしていた
    • [40]中期5カ年計画の売上は44年度1,280億円から48年度2,690億円
    • [41]航空機保有数は44年度50機から48年度77機とする計画だった
  • 読売新聞 1966/6/16
    • [42]1970年ごろには旅客が当時の2倍、貨物が3倍になると予測された
    • [43]1966年6月16日に重役会でボーイング747型機の購入を正式決定した
    • [44]1機66.6億円の490人乗りを1970年から羽田〜太平洋路線へ投入する計画だった
    • [45]従来機の2〜3倍の座席を持つジャンボ機を導入する判断だった
  • 読売新聞 1966/8/9
    • [46]松尾静磨は当時の日本航空社長
    • [47]定期航空に与える影響も大きいので米国不定期便の増便は認めるべきではないと述べ、国際線免許の独占を守る方針を示した
  • 日本航空 有価証券報告書【沿革】
    • [48]1961年10月に証券取引所(東京、大阪、名古屋)市場第二部に上場し、1970年2月に市場第一部へ指定された
    • [49]1970年7月にボーイング747型航空機(ジャンボジェット)が運航開始した
    • [51]1960年8月に初のジェット旅客機ダグラスDC-8型航空機が運航開始した
    • [52]1961年6月に北回り欧州線を開設した
    • [53]1965年1月にジャルパックの販売を開始した
    • [54]1966年11月にニューヨーク線を開設した
    • [55]1967年3月に世界一周路線(西回り)を開設した
    • [56]1971年5月に日本国内航空と東亜航空の合併により東亜国内航空が設立された
  • 読売新聞 1970/7/2
    • [50]羽田はもうギリギリいっぱいで、成田に新空港の建設が急がれていた

1971年〜 輸送実績世界一と、独占の維持を選び続けた経営

日本航空の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1971年 東亜国内航空設立
  2. 1983年 IATA統計で旅客・貨物輸送実績世界一
  3. 1987年 完全民営化

石油危機下の合理化と全日空に開いた生産性の差

石油危機は、大型機を積み増した直後の日本航空を直撃した。1974年度と1975年度は経常赤字に落ち、1976年3月期の経常損失は98億円[58]に達した。同社は地上部門の合理化で立て直しにかかり、1976年度と1977年度は大卒男子の採用を止め、退職者を補充しない方針と合わせて3年間で地上部門の間接人員を20%、直接人員を10%減らした[59]。1977年度までの3年間は航空機を1機も購入していない[60]。冬の北海道と夏の沖縄[61]という季節はずれの時期にパックツアーを設けて空席を埋め、1978年度の国内線座席利用率は66.6%[62]まで戻った。3年間で販売管理費の増加を13.2%に抑え、売上高は30.7%、税引き利益は2.63倍[63]に伸びた。 [57]

  • 日経ビジネス 1979/12/17
    • [57]49・50年度に経常赤字に転落しながら自力で経営を立て直した
    • [59]51・52年度の大卒男子の採用中止と退職者不補充で3年間に地上部門の間接人員20%・直接人員10%を削減した
    • [60]52年度までの3年間は航空機を1機も買わなかった
    • [61]冬の北海道・夏の沖縄というシーズンオフにパックツアーを開発して需要を創造した
    • [62]53年度の国内線座席利用率は66.6%に達した
    • [63]3年間で一般管理販売費の増加は13.2%、売上は30.7%増、利益は税引きで2.63倍になった
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [58]1976年3月期の経常損失は98億500万円

それでも生産性では全日本空輸に離されていた。1978年度の従業員1人当たり売上高は日本航空の2,334万円に対し全日空が2,790万円、労働生産性は1,001万円に対し1,197万円[65]だった。差は仕事の抱え方にあり、全日空が地方空港の発券や貨物の扱いを地元の運輸会社へ委ねて宮崎では社員約10人で運営していた[66]のに対し、日本航空はこれを自社で抱えた[67]。客室乗務員の1人当たり座席キロはパンアメリカン航空の6割に届かず[68]、国際線ジャンボの標準編成を1979年春に17人から15人[69]へ減らしてもなお、KLMの13人やノースウエスト航空の最大11人[70]には及ばなかった。ストライキは年3回が恒例となり、1979年までの4年間[71]はいずれも年間1週間を超えた。 [64]

  • 日経ビジネス 1979/12/17
    • [64]53年度の1人当たり売上は日本航空2,334万円、全日空2,790万円
    • [65]労働生産性は日本航空1,001万円、全日空1,197万円
    • [66]全日空は宮崎で発券や貨物の取り扱いを宮崎交通に委託し社員約10人で運営していた
    • [67]すべて自分でしようという日本航空と、地元の運輸会社に委託する全日空の考え方の差だった
    • [68]客室乗務員の生産性はパンナムの60%にも満たなかった
    • [69]国際線ジャンボの標準編成を1979年春に17人から15人にした
    • [70]KLMは13人、ノースウエストは最大11人が標準編成だった
    • [71]ストは年3回が恒例化し、この4年間はいずれも合計1週間以上に及んだ
  • 日経ビジネス 1979/12/17
    • [57]49・50年度に経常赤字に転落しながら自力で経営を立て直した
    • [59]51・52年度の大卒男子の採用中止と退職者不補充で3年間に地上部門の間接人員20%・直接人員10%を削減した
    • [60]52年度までの3年間は航空機を1機も買わなかった
    • [61]冬の北海道・夏の沖縄というシーズンオフにパックツアーを開発して需要を創造した
    • [62]53年度の国内線座席利用率は66.6%に達した
    • [63]3年間で一般管理販売費の増加は13.2%、売上は30.7%増、利益は税引きで2.63倍になった
    • [64]53年度の1人当たり売上は日本航空2,334万円、全日空2,790万円
    • [65]労働生産性は日本航空1,001万円、全日空1,197万円
    • [66]全日空は宮崎で発券や貨物の取り扱いを宮崎交通に委託し社員約10人で運営していた
    • [67]すべて自分でしようという日本航空と、地元の運輸会社に委託する全日空の考え方の差だった
    • [68]客室乗務員の生産性はパンナムの60%にも満たなかった
    • [69]国際線ジャンボの標準編成を1979年春に17人から15人にした
    • [70]KLMは13人、ノースウエストは最大11人が標準編成だった
    • [71]ストは年3回が恒例化し、この4年間はいずれも合計1週間以上に及んだ
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [58]1976年3月期の経常損失は98億500万円

日航法の存続を前提に求めた経営の自由度

運輸事務次官から1963年に専務として入社した朝田静夫氏は、1969年に副社長、1971年に社長[72]へ進んだ。全日空が中国線や東南アジア線を求めた1973年、朝田社長は国際航空では1国1社が世界の大多数の方針[73]だと述べ、複数社で乗り入れれば協定で決まった便数を食い合う[74]と反対した。国策会社が作られたのはそうならないためだ[75]、というのが理由である。1979年に日本航空が運輸省へ求めたのも、日航法の廃止ではなく取締役の定数を18人から30人へ増やす[76]ことと、資本金の2倍にとどまる社債発行枠の拡大[77]だった。免許と保護を残したまま経営の自由度だけを広げる要求であり、日航法そのものは要らないとは考えていない[78]、と朝田社長は明言した。

  • 日経ビジネス 1973/12/24
    • [72]朝田静夫は運輸省事務次官を経て1963年日本航空専務、1969年副社長、1971年社長
    • [73]国際航空は世界の大多数の国が1国1社の基本方針をとっていると述べた
    • [74]航空協定で決まった便数をめぐって共食いをすることになると反対した
    • [75]そうならないよう国策会社がつくられたと述べた
  • 日経ビジネス 1979/12/17
    • [76]日航法改正の要望は取締役を18人から30人へ増やすことだった
    • [77]社債発行枠は資本金の2倍までで、これを3倍か4倍に増やすことを求めた
    • [78]日航法はいらない、完全なプライベートカンパニーになるという考えは持っていないと述べた

1979年、日本航空は国内線運賃の平均27.4%の値上げ[79]を運輸省に申請した。国内線の燃料代金と公租公課の合計が1978年度の475億円から1979年度に760億円[80]へ膨らむためである。収入の70%を国際線が占める[81]構造のまま、為替レートは1ドル296円に据え置いていた[82]。この結果、日本で買う東京〜米国の航空券は韓国で買う韓国〜米国より27%割高[83]となり、パンアメリカン航空などは韓国や香港への直行便を増やした[84]。日本航空はこの動きを一時のことで、いずれ元へ戻ると説明した[85]。1983年、IATA統計で旅客・貨物の輸送実績が世界一となり、1987年まで5年間その座を保つ[86]。同じ1983年3月期の経常損失は270億9,300万円[87]だった。

  • 日経ビジネス 1979/12/17
    • [79]1979年に国内線運賃を平均27.4%値上げする申請を運輸省に行った
    • [80]国内線の燃料代金と公租公課の合計は1978年度475億円、1979年度760億円
    • [81]日本航空の収入構造は70%が国際線からだった
    • [82]為替レートは1ドル296円のまま動かさなかった
    • [83]日本で買う東京〜米国の切符は韓国で買う韓国〜米国より27%割高だった
    • [84]米国のパンナムなどは韓国や香港への直行便を増やし続けた
    • [85]韓国・香港へのラッシュは一時のことでいずれ元へ戻ると説明した
  • 日本航空 有価証券報告書【沿革】
    • [86]1983年にIATA統計で旅客・貨物輸送実績世界一となり、1987年まで5年間世界一を維持した
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [87]1983年3月期の経常損失は270億9,300万円
  • 日経ビジネス 1973/12/24
    • [72]朝田静夫は運輸省事務次官を経て1963年日本航空専務、1969年副社長、1971年社長
    • [73]国際航空は世界の大多数の国が1国1社の基本方針をとっていると述べた
    • [74]航空協定で決まった便数をめぐって共食いをすることになると反対した
    • [75]そうならないよう国策会社がつくられたと述べた
  • 日経ビジネス 1979/12/17
    • [76]日航法改正の要望は取締役を18人から30人へ増やすことだった
    • [77]社債発行枠は資本金の2倍までで、これを3倍か4倍に増やすことを求めた
    • [78]日航法はいらない、完全なプライベートカンパニーになるという考えは持っていないと述べた
    • [79]1979年に国内線運賃を平均27.4%値上げする申請を運輸省に行った
    • [80]国内線の燃料代金と公租公課の合計は1978年度475億円、1979年度760億円
    • [81]日本航空の収入構造は70%が国際線からだった
    • [82]為替レートは1ドル296円のまま動かさなかった
    • [83]日本で買う東京〜米国の切符は韓国で買う韓国〜米国より27%割高だった
    • [84]米国のパンナムなどは韓国や香港への直行便を増やし続けた
    • [85]韓国・香港へのラッシュは一時のことでいずれ元へ戻ると説明した
  • 日本航空 有価証券報告書【沿革】
    • [86]1983年にIATA統計で旅客・貨物輸送実績世界一となり、1987年まで5年間世界一を維持した
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [87]1983年3月期の経常損失は270億9,300万円

四五・四七体制の終焉と、日航維新の挫折

1981年6月、生え抜きの高木養根[88]が10年務めた朝田社長の後を継いだ[89]。1940年に大日本航空へ入り、敗戦による解散で退社したのち1951年8月に日本航空へ入社[90]した経歴を持つ。独占の根拠は、この時期に外から崩れ始めた。1985年4月の日米航空暫定協定で日米それぞれ3社ずつが新たに太平洋路線へ乗り入れる[92]ことが決まり、国際定期線は日本航空1社と定めた四五・四七体制に正面から抵触[93]する。運輸省は同年9月に運輸政策審議会へ諮問し、1986年の最終答申[94]は四五・四七体制がその使命を終えたとして、航空企業間の競争を通じたサービス向上と国際競争力の強化[95]を掲げた。 [91]

  • 日経ビジネス 1981/9/7
    • [88]高木養根は1981年6月に日本航空社長へ就任した生え抜き
    • [89]10年間コンビを組んだ朝田静夫前社長のあとを受けて社長に就任した
    • [90]1940年4月に大日本航空へ入社し、1945年の解散で退社、1951年8月に日本航空へ入社した
  • 日本産業史 第4巻 運輸・物流(日本経済新聞社、1994年)「四五・四七体制の終焉」
    • [91]四五・四七体制を決定的に揺るがしたのは1985年4月の日米航空暫定協定であった
    • [92]暫定協定で日米両国がそれぞれ新たに3社ずつ太平洋路線に乗り入れることが決まった
    • [93]国際定期線は日本航空一社と決めた四五・四七体制に明らかに抵触するものであった
    • [94]運輸省は1985年9月に運輸政策審議会へ諮問し、1986年に最終答申を得た
    • [95]答申は四五・四七体制はその使命を終えたとして競争を通じたサービス向上・国際競争力の強化を目指すべきとした

1985年8月12日、日本航空は役員会で完全民営化の方針を決めた[96]。その直後の夕方、東京から大阪へ向かった123便が御巣鷹山に墜落し、520人が死亡する[97]。事故の原因は機内の与圧用後部隔壁の破壊で、数年前のしりもち事故の際にボーイング社の修理に手抜かりがあった[98]ことが判明した。高木社長と町田直副社長は責任をとって退任[99]し、同年12月に鐘紡会長の伊藤淳二氏が副会長として送り込まれ、社長には山地進氏、副社長には日航商事社長の利光松男[100]が就いた。伊藤氏は3人の専務を退陣させ、部長級管理職1,000人を一度に異動[101]させた。

  • 日本産業史 第4巻 運輸・物流(日本経済新聞社、1994年)「四五・四七体制の終焉」
    • [96]1985年8月12日に役員会で完全民営化の方針を決めた
    • [97]123便が御巣鷹山に墜落し520人の命が奪われた
    • [98]事故の原因は機内の与圧用の後部隔壁の破壊で、しりもち事故の際のボーイング社の修理に手抜かりがあった
    • [99]事故後、高木養根社長と町田直副社長は事故の責任をとって退任した
    • [100]1985年12月に鐘紡会長の伊藤淳二が副会長として送り込まれ、社長に山地進、副社長に利光松男が就任した
  • 週刊東洋経済 2010/2/13
    • [101]伊藤淳二は3専務を退陣させたうえ1,000人の部長級管理職を一度に異動させた

伊藤氏が会長として独裁体制を敷くと、山地社長・利光副社長との間に不和が生じた[102]。鐘紡が伊藤氏を批判する本を買い占めた事件や、利光副社長に忠誠を誓わせる念書事件[103]が発覚し、4つだった労働組合は伊藤氏の支援で6つに増えて労使問題は複雑化[104]する。政府は1987年3月に伊藤氏を更迭した[105]。辞任の前には日航開発の経営問題と、11年間で36億ドルを超える為替予約[106]も明るみに出た。予約レートは183円で当時の実勢は130円台[107]、このドル先物取引は1986年以降に2,200億円の為替差損[108]を生む。ともに辞表を出した田中茂信取締役[109]は、会社の失敗を外に漏らさないことが美徳とされ、事故の真相を究明しようとする人間が遠ざけられてきた[110]と語った。

  • 日本産業史 第4巻 運輸・物流(日本経済新聞社、1994年)「四五・四七体制の終焉」
    • [102]伊藤氏が会長となって独裁体制を敷きはじめ、伊藤氏と山地・利光氏との間にすき間風が吹くようになった
    • [103]鐘紡が伊藤氏を批判する本を買い占め出版を妨害する事件や、利光副社長に忠誠を誓わせる念書事件が発覚した
    • [104]伊藤氏が当時4組合だったのを2つの組合の結成を支援して6つにしたことから労使・労労問題が複雑化した
    • [105]政府は伊藤氏を更迭し、山地社長−利光副社長体制が確立した
  • 日経ビジネス 1987/5/25
    • [106]11年間にわたって36億ドル以上の為替予約をしていた問題が明らかになった
    • [107]予約レートは183円で当時の実勢は1ドル130円台だった
    • [109]田中茂信は1986年6月に取締役就任、1987年3月辞任
    • [110]会社の失敗を外に漏らさないことが美徳で、真相を究明し正論を吐く人間は遠ざけられたと語った
  • 週刊東洋経済 1998/8/29
    • [108]86年以降、2,200億円に上る為替差損を出したドル先物取引だった
  • 日経ビジネス 1981/9/7
    • [88]高木養根は1981年6月に日本航空社長へ就任した生え抜き
    • [89]10年間コンビを組んだ朝田静夫前社長のあとを受けて社長に就任した
    • [90]1940年4月に大日本航空へ入社し、1945年の解散で退社、1951年8月に日本航空へ入社した
  • 日本産業史 第4巻 運輸・物流(日本経済新聞社、1994年)「四五・四七体制の終焉」
    • [91]四五・四七体制を決定的に揺るがしたのは1985年4月の日米航空暫定協定であった
    • [92]暫定協定で日米両国がそれぞれ新たに3社ずつ太平洋路線に乗り入れることが決まった
    • [93]国際定期線は日本航空一社と決めた四五・四七体制に明らかに抵触するものであった
    • [94]運輸省は1985年9月に運輸政策審議会へ諮問し、1986年に最終答申を得た
    • [95]答申は四五・四七体制はその使命を終えたとして競争を通じたサービス向上・国際競争力の強化を目指すべきとした
    • [96]1985年8月12日に役員会で完全民営化の方針を決めた
    • [97]123便が御巣鷹山に墜落し520人の命が奪われた
    • [98]事故の原因は機内の与圧用の後部隔壁の破壊で、しりもち事故の際のボーイング社の修理に手抜かりがあった
    • [99]事故後、高木養根社長と町田直副社長は事故の責任をとって退任した
    • [100]1985年12月に鐘紡会長の伊藤淳二が副会長として送り込まれ、社長に山地進、副社長に利光松男が就任した
    • [102]伊藤氏が会長となって独裁体制を敷きはじめ、伊藤氏と山地・利光氏との間にすき間風が吹くようになった
    • [103]鐘紡が伊藤氏を批判する本を買い占め出版を妨害する事件や、利光副社長に忠誠を誓わせる念書事件が発覚した
    • [104]伊藤氏が当時4組合だったのを2つの組合の結成を支援して6つにしたことから労使・労労問題が複雑化した
    • [105]政府は伊藤氏を更迭し、山地社長−利光副社長体制が確立した
  • 週刊東洋経済 2010/2/13
    • [101]伊藤淳二は3専務を退陣させたうえ1,000人の部長級管理職を一度に異動させた
  • 日経ビジネス 1987/5/25
    • [106]11年間にわたって36億ドル以上の為替予約をしていた問題が明らかになった
    • [107]予約レートは183円で当時の実勢は1ドル130円台だった
    • [109]田中茂信は1986年6月に取締役就任、1987年3月辞任
    • [110]会社の失敗を外に漏らさないことが美徳で、真相を究明し正論を吐く人間は遠ざけられたと語った
  • 週刊東洋経済 1998/8/29
    • [108]86年以降、2,200億円に上る為替差損を出したドル先物取引だった

1988年〜 民営化後も残った高コスト体質と、統合が重ねた赤字

日本航空の業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1988年 東亜国内航空が日本エアシステム(JAS)に商号変更
  2. 1993年 マイレージプログラム導入
  3. 1993年 民営化後初の大幅赤字を受けた「親方日の丸」との決別とコスト構造改革 好景気に改善を先送りした高コスト体質に、危機のなかで手術は届いたのか
  4. 2002年 日本航空と日本エアシステムの経営統合(2002年成立) 国内2社の統合はなぜ実現し、国際線と国内線の補完で何を狙ったのか?
  5. 2004年 事業再編
  6. 2006年 経常赤字494億円
  7. 2009年 経常赤字857億円

完全民営化と、民営化後初の大幅赤字

1987年9月に完全民営化関連法案が成立し、日本航空は同年11月から完全民営化[111]した。それまでは株式の3分の1を政府が保有する特殊法人[112]だったが、四五・四七体制が崩れて特殊法人である意味がなくなったこと、日本航空自体が政府の手からの独立を望んでいた[113]ことが理由である。国際線の複数社体制は1986年3月に全日本空輸へ東京〜グアム線を免許したところから始まり、東京〜ワシントン線や東京〜北京線[114]などが続いた。1988年4月に日本エアシステムへ社名を変えた東亜国内航空にも東京〜ソウル線[115]が認められる。日本航空は1988年に旅客・貨物の輸送実績世界一を明け渡した[116]

  • 日本産業史 第4巻 運輸・物流(日本経済新聞社、1994年)「四五・四七体制の終焉」
    • [111]1987年9月に日航の完全民営化関連法案が成立し、11月から完全民営化した
    • [112]それまで日航は株式の3分の1を政府が保有する特殊法人だった
    • [113]四五・四七体制が崩れて特殊法人である意味がなくなったこと、日航自体が政府の手から経営の独立を欲していたことから民営化した
    • [114]国際線複数社体制については1986年3月に全日本空輸へ東京〜グアム線を免許したのをはじめ、東京〜ワシントン線・東京〜大連〜北京線などを認めた
    • [115]1988年4月に東亜国内航空から社名を変更した日本エアシステムに東京〜ソウル線の免許を与えた
  • 日本航空 有価証券報告書【沿革】
    • [116]IATA統計での旅客・貨物輸送実績世界一は1983年から1987年までの5年間だった

業績が崩れたのは民営化の4年後である。1992年3月期に連結経常損失69億円を出すと、翌1993年3月期は連結経常損失557億円、当期純損失479億円[118]まで拡大した。1992年9月から国際線の旅客数が減り始め[119]、国際線収入の約6割を稼いでいたファーストクラスとエグゼクティブクラスの利用者が前年同期比で10%以上減っている[120]。長岡聡夫専務[121]は不振の一因に日米航空協定を挙げ、日米の座席供給量の比率が3対7[122]で、米国側は座席を増やしてから事後に報告すれば済む[123]と説明した。運賃はIATAで決まり日本では運輸省などが妥当性を判断する建前だった[124]が、値崩れを起こす会社が出れば対抗して下げるほかなかった。 [117]

  • 会社年鑑
    • [117]1992年3月期の連結経常損失は69億円
    • [118]1993年3月期の連結経常損失は557億円、当期純損失は479億円
  • 日経ビジネス 1993/1/25
    • [119]1992年9月になって国際線の旅客数が減少に転じた
    • [120]ファーストクラスとエグゼクティブクラスで国際線収入の約6割を稼ぎ、利用者が前年同期比10%以上減った
    • [121]長岡聡夫は1984年常務として日本航空に入社、1989年専務
    • [122]日本と米国の航空会社の座席供給量の比率は3対7だった
    • [123]米国側は座席供給量を勝手に増やして事後に報告すれば済んだ
    • [124]運賃水準はIATAで決まり運輸省や経済企画庁が合理性を判断するが、運賃水準を大幅に崩す会社が出れば対抗上ほかも下げざるを得なかった

外部要因だけではなく、1989年度から1990年度にかけては円高が定着[125]し、人件費の上昇と機材の相次ぐ導入で固定費が膨らんでいる。1970年と1991年を比べると輸送力は年率8.1%増えたのに対し機材は年率2.2%[126]しか増えておらず、大型化で固定費を吸収する手は既に使い切っていた。利益の出る座席利用率は65%前後が健全とされるところ、1993年当時は70%を大きく超える[127]。長岡専務は、好景気で利用率が高い間はコスト高でも利益が出たため、なりふり構わず削る気になれなかった[128]と振り返った。1990年6月に社長へ就いた利光松男[129]のもとで構造改革委員会が置かれたのは1992年2月[130]、赤字が表に出る直前である。

  • 日経ビジネス 1993/1/25
    • [125]89〜90年度ごろから円高が定着し、人件費の上昇や機材の相次ぐ導入で固定費が大幅に増加した
    • [126]70年と91年を比較すると輸送力は年率8.1%、機材は年率2.2%の増加だった
    • [127]ブレーク・イーブン・ポイントは65%前後が健全とされるが、当時は70%を大きく超えていた
    • [128]好景気で利用率が高くコスト高でも利益が上がったため、なりふり構わずコスト削減を進める気になれなかった
    • [129]利光松男は1990年6月に日本航空取締役社長へ就任した
  • 証券アナリストジャーナル 1993年3月号 近藤晃「93-97年度中期計画で更なる構造改革」
    • [130]1992年2月から構造改革委員会を中心に収支改善施策を策定・実施した
  • 日本産業史 第4巻 運輸・物流(日本経済新聞社、1994年)「四五・四七体制の終焉」
    • [111]1987年9月に日航の完全民営化関連法案が成立し、11月から完全民営化した
    • [112]それまで日航は株式の3分の1を政府が保有する特殊法人だった
    • [113]四五・四七体制が崩れて特殊法人である意味がなくなったこと、日航自体が政府の手から経営の独立を欲していたことから民営化した
    • [114]国際線複数社体制については1986年3月に全日本空輸へ東京〜グアム線を免許したのをはじめ、東京〜ワシントン線・東京〜大連〜北京線などを認めた
    • [115]1988年4月に東亜国内航空から社名を変更した日本エアシステムに東京〜ソウル線の免許を与えた
  • 日本航空 有価証券報告書【沿革】
    • [116]IATA統計での旅客・貨物輸送実績世界一は1983年から1987年までの5年間だった
  • 会社年鑑
    • [117]1992年3月期の連結経常損失は69億円
    • [118]1993年3月期の連結経常損失は557億円、当期純損失は479億円
  • 日経ビジネス 1993/1/25
    • [119]1992年9月になって国際線の旅客数が減少に転じた
    • [120]ファーストクラスとエグゼクティブクラスで国際線収入の約6割を稼ぎ、利用者が前年同期比10%以上減った
    • [121]長岡聡夫は1984年常務として日本航空に入社、1989年専務
    • [122]日本と米国の航空会社の座席供給量の比率は3対7だった
    • [123]米国側は座席供給量を勝手に増やして事後に報告すれば済んだ
    • [124]運賃水準はIATAで決まり運輸省や経済企画庁が合理性を判断するが、運賃水準を大幅に崩す会社が出れば対抗上ほかも下げざるを得なかった
    • [125]89〜90年度ごろから円高が定着し、人件費の上昇や機材の相次ぐ導入で固定費が大幅に増加した
    • [126]70年と91年を比較すると輸送力は年率8.1%、機材は年率2.2%の増加だった
    • [127]ブレーク・イーブン・ポイントは65%前後が健全とされるが、当時は70%を大きく超えていた
    • [128]好景気で利用率が高くコスト高でも利益が上がったため、なりふり構わずコスト削減を進める気になれなかった
    • [129]利光松男は1990年6月に日本航空取締役社長へ就任した
  • 証券アナリストジャーナル 1993年3月号 近藤晃「93-97年度中期計画で更なる構造改革」
    • [130]1992年2月から構造改革委員会を中心に収支改善施策を策定・実施した

投資6,000億円削減の中期計画と、連結6期の赤字

利光社長がまず打ったのは単年度の止血だった。賞与を抑え、投資と費用を圧縮し、1992年度には国際線のボーイング747-400型機の償却年限を10年から15年へ変えて償却費を86億円減らした[132]。続く1993年2月、近藤晃常務[133]が「93-97年度中期計画」を示した。1993年度と1994年度をサバイバルのための最重要期間[134]と位置づけ、5カ年で投資を6,000億円削減して総額1兆円[135]に抑え、1993年度中に費用を1,000億円削る[136]内容である。人件費では本社業務と整備作業の一部をシンガポールやロサンゼルスへ移し[137]、外国人客室乗務員の編成比率を約7%から30%程度へ引き上げ[138]、ハイヤーによる送迎を廃止[139]するとした。 [131]

  • 日経ビジネス 1993/1/25
    • [131]例年に比べて賞与を低く抑え、投資と費用の圧縮に着手した
  • 証券アナリストジャーナル 1993年6月号 西松遙「日本航空」
    • [132]国際線のボーイング747-400型機の償却年限を従来の10年から15年に変更し償却費が86億円減った
  • 証券アナリストジャーナル 1993年3月号 近藤晃「93-97年度中期計画で更なる構造改革」
    • [133]近藤晃は1993年当時の日本航空常務取締役
    • [134]93〜94年度をサバイバルのための最重要期間とする93-97年度中期計画を策定した
    • [135]5カ年で投資を計6,000億円削減して投資総額を1兆円とする計画だった
    • [136]1993年度中に費用1,000億円の削減を目標とした
    • [137]本社業務・整備作業の一部をシンガポール、ロサンゼルス等に移転させる方針だった
    • [138]外国人客室乗務員の編成比率を約7%から30%程度まで高める計画だった
    • [139]人事賃金諸制度と勤務制度の見直しとしてハイヤー送迎を廃止した

事業では国内線の供給シェアを4分の1弱から3分の1以上へ上げ、国際線と国内線の収入比率を7対3から6対4[140]へ動かす目標を置いた。機材は大型機から小型機へのダウンサイジング[141]へ転じ、1993年1月にはマイレージプログラムを導入[142]した。単体では1995年3月期に営業収益1兆354億円と4年ぶりに増収[143]へ転じ、経常利益28億円[144]を計上した。営業損益は98億円の損失[145]で、黒字は機材売却益などの営業外収益によるものである。国際線の座席利用率は68.0%から70.6%[146]へ上がり、1994年4月の新運賃制度[147]が需要を押し上げた。五十嵐修常務[148]は、1994年9月開港の関西国際空港と1993年9月の羽田新旅客ターミナルでターミナルコストが120億円増えた[149]なかで、営業費用の増加を3.3%に抑えられた[150]のはリストラの効果だと述べた。

  • 証券アナリストジャーナル 1993年3月号 近藤晃「93-97年度中期計画で更なる構造改革」
    • [140]国内線の供給シェアを4分の1弱から3分の1以上へ、国際線と国内線の収入比率を7対3から6対4へ動かす目標だった
    • [141]ダウンサイジングによって需要に見合った機種構成の適正化を図る方針だった
  • 日本航空 有価証券報告書【沿革】
    • [142]1993年1月にマイレージプログラムを導入した
  • 証券アナリストジャーナル 1995年7月号 五十嵐修「4年ぶりの増収、経常黒字を達成」
    • [143]単体の平成7年3月期の営業収益は1兆354億円で対前期比5.4%増、4年ぶりの増収となった
    • [144]経常利益段階では28億円の黒字と4年ぶりの黒転となった
    • [145]営業損益段階では98億円の損失で、機材売却益等の営業外収益により経常黒字となった
    • [146]国際線の座席利用率は前期の68.0%から当期70.6%へ2.6ポイント改善した
    • [147]1994年4月に導入した新運賃制度が需要喚起に大きな影響を与えた
    • [148]五十嵐修は1995年当時の日本航空常務取締役
    • [149]関西空港と羽田新旅客ターミナルでターミナルコストが120億円増加した
    • [150]営業費用全体は前期比3.3%増にとどまり、リストラ効果が表れたとした

単体の黒字は連結には届かなかった。連結の経常損益は1992年3月期の69億円の損失から1997年3月期の240億円の損失まで6期続けて赤字で、1994年3月期は386億円、1995年3月期は105億円、1996年3月期は63億円の損失[152]である。売上は1995年3月期に1兆3,484億円、1997年3月期に1兆5,671億円[153]と伸びており、規模が拡大しながら利益が出ない状態が民営化後の10年間続いた。中期計画が掲げた投資と費用の削減は単年度の収支を支えたが、路線網と労使の構造には届かなかった[154][151]

  • 会社年鑑
    • [151]連結経常損益は1992年3月期△69億円から1997年3月期△240億円まで6期連続の赤字だった
    • [152]連結経常損失は1994年3月期386億円、1995年3月期105億円、1996年3月期63億円
    • [153]連結売上高は1995年3月期1兆3,484億円、1997年3月期1兆5,671億円
  • 日経ビジネス 1993/1/25
    • [154]単年度の止血策は打たれたが路線網や労使の構造には踏み込めなかった
  • 日経ビジネス 1993/1/25
    • [131]例年に比べて賞与を低く抑え、投資と費用の圧縮に着手した
    • [154]単年度の止血策は打たれたが路線網や労使の構造には踏み込めなかった
  • 証券アナリストジャーナル 1993年6月号 西松遙「日本航空」
    • [132]国際線のボーイング747-400型機の償却年限を従来の10年から15年に変更し償却費が86億円減った
  • 証券アナリストジャーナル 1993年3月号 近藤晃「93-97年度中期計画で更なる構造改革」
    • [133]近藤晃は1993年当時の日本航空常務取締役
    • [134]93〜94年度をサバイバルのための最重要期間とする93-97年度中期計画を策定した
    • [135]5カ年で投資を計6,000億円削減して投資総額を1兆円とする計画だった
    • [136]1993年度中に費用1,000億円の削減を目標とした
    • [137]本社業務・整備作業の一部をシンガポール、ロサンゼルス等に移転させる方針だった
    • [138]外国人客室乗務員の編成比率を約7%から30%程度まで高める計画だった
    • [139]人事賃金諸制度と勤務制度の見直しとしてハイヤー送迎を廃止した
    • [140]国内線の供給シェアを4分の1弱から3分の1以上へ、国際線と国内線の収入比率を7対3から6対4へ動かす目標だった
    • [141]ダウンサイジングによって需要に見合った機種構成の適正化を図る方針だった
  • 日本航空 有価証券報告書【沿革】
    • [142]1993年1月にマイレージプログラムを導入した
  • 証券アナリストジャーナル 1995年7月号 五十嵐修「4年ぶりの増収、経常黒字を達成」
    • [143]単体の平成7年3月期の営業収益は1兆354億円で対前期比5.4%増、4年ぶりの増収となった
    • [144]経常利益段階では28億円の黒字と4年ぶりの黒転となった
    • [145]営業損益段階では98億円の損失で、機材売却益等の営業外収益により経常黒字となった
    • [146]国際線の座席利用率は前期の68.0%から当期70.6%へ2.6ポイント改善した
    • [147]1994年4月に導入した新運賃制度が需要喚起に大きな影響を与えた
    • [148]五十嵐修は1995年当時の日本航空常務取締役
    • [149]関西空港と羽田新旅客ターミナルでターミナルコストが120億円増加した
    • [150]営業費用全体は前期比3.3%増にとどまり、リストラ効果が表れたとした
  • 会社年鑑
    • [151]連結経常損益は1992年3月期△69億円から1997年3月期△240億円まで6期連続の赤字だった
    • [152]連結経常損失は1994年3月期386億円、1995年3月期105億円、1996年3月期63億円
    • [153]連結売上高は1995年3月期1兆3,484億円、1997年3月期1兆5,671億円

民営化直後の投資が招いた損失と、日本エアシステムとの統合

1995年7月に社長へ就いた近藤晃[155]の在任中に、民営化直後の投資の帳尻が回ってきた。1987年の完全民営化を機に進めた海外ホテルへの投資[156]と、500億円以上を投じて1996年に完成した東京・天王洲アイルの新本社ビル[157]である。1997年9月中間決算では機材の償却期間を延長して利益をかさ上げした[158]と報じられ、1998年3月期はホテル事業の清算で連結当期純損失629億円[159]を計上した。単体では941億円の赤字となり、1,300億円の資本準備金を取り崩した[160]山地進会長と近藤社長は辞任し[161]、1998年6月に兼子勲専務が社長へ昇格[162]した。

  • 週刊東洋経済 1998/8/22
    • [155]近藤晃は1995年7月に日本航空取締役社長へ就任した
    • [162]兼子勲は1998年6月に日本航空取締役社長へ就任した
  • 週刊東洋経済 1998/8/29
    • [156]87年の完全民営化を機に海外ホテルへのバブル投資の指揮を取った
    • [157]500億円以上を投じて東京・天王洲アイルの新本社ビルを建設し1996年に完成した
    • [160]ホテル清算のために前98年3月期に941億円の赤字に転落し、1,300億円の資本準備金を取り崩した
  • 週刊東洋経済 1997/11/15
    • [158]97年9月中間決算は償却期間延長で利益をかさ上げしたと報じられた
  • 会社年鑑
    • [159]1998年3月期の連結当期純損失は629億円
  • 週刊東洋経済 1998/3/28
    • [161]山地進会長と近藤晃社長は辞任し、後任社長には兼子勲専務が昇格した

1998年8月には子会社の植木リース取引をめぐる総会屋への利益供与[163]が明らかになり、1999年には退職給付債務の積立不足がグループで約2,000億円[164]にのぼることも表に出た。兼子社長は1999年4月から取締役と執行役員に1年任期制[165]を敷き、業績を厳しく問う体制へ改める。1999年3月期は経常利益373億円、2001年3月期は経常利益533億円[166]まで戻した。2001年11月[167]、日本航空と日本エアシステムは共同持株会社方式による経営統合を発表する。公正取引委員会が競争制限を懸念したため、羽田の発着枠9便の返上と国内普通運賃の一律10%引き下げ[168]を講じて2002年4月に承認され、同年10月2日に株式会社日本航空システムが発足[169]した。

  • 週刊東洋経済 1998/8/29
    • [163]植木リース取引での総会屋利益供与が明らかになった
  • 週刊東洋経済 1999/4/17
    • [164]退職給付債務に対する積立不足額はグループで総額約2,000億円だった
  • 日経ビジネス 1999/8/30
    • [165]1999年4月1日から取締役と執行役員に1年任期制を採用し、厳しく業績を問う体制へ改めた
  • 会社年鑑
    • [166]1999年3月期の経常利益は373億円、2001年3月期は533億円
  • 日本航空 有価証券報告書
    • [167]2001年11月に共同持株会社方式の統合を発表した
  • 公正取引委員会 審査結果(2002年)
    • [168]公正取引委員会が競争制限の懸念を示し、羽田発着枠9便の返上や国内普通運賃の一律10%引き下げを講じた
  • 日本航空 有価証券報告書【沿革】
    • [169]2002年10月2日に株式会社日本航空システムが発足した

2004年4月、両社は株式会社日本航空インターナショナルと株式会社日本航空ジャパンへ商号を変え[170]、国際旅客・貨物と国内旅客に事業を分けた。統合効果より先にコストが出て、2006年3月期は経常損失495億円、当期純損失409億円[171]となる。2005年に運航トラブルが相次いで新町敏行氏が社長兼CEO[172]に就いたが、2006年3月には経営陣の内紛が相打ちの形で決着[173]した。2006年6月に社長へ就いた西松遙[174]のもとで2007年4月にワンワールドへ加盟[175]し、2008年3月期は経常利益628億円[176]まで戻す。続く2009年3月期はリーマン・ショックと燃料価格の高騰で経常損失857億円、当期純損失656億円[177]に転落した。

  • 日本航空 有価証券報告書【沿革】
    • [170]2004年4月に当社と日本エアシステムがそれぞれ日本航空インターナショナルおよび日本航空ジャパンへ商号変更し事業再編した
    • [175]2007年4月にワンワールドへ加盟した
  • 日本航空 有価証券報告書
    • [171]2006年3月期の経常損失は495億円、当期純損失は409億円
    • [176]2008年3月期の経常利益は628億円
    • [177]2009年3月期の経常損失は857億円、当期純損失は656億円
  • 週刊東洋経済 2006/3/11
    • [172]新町敏行は2005年4月に社長兼CEOへ就任した
    • [173]2006年3月に経営陣の内紛が相打ちのかたちで決着した
  • 週刊東洋経済 2010/2/13
    • [174]西松遙は2006年6月に代表取締役社長へ就任した
  • 週刊東洋経済 1998/8/22
    • [155]近藤晃は1995年7月に日本航空取締役社長へ就任した
    • [162]兼子勲は1998年6月に日本航空取締役社長へ就任した
  • 週刊東洋経済 1998/8/29
    • [156]87年の完全民営化を機に海外ホテルへのバブル投資の指揮を取った
    • [157]500億円以上を投じて東京・天王洲アイルの新本社ビルを建設し1996年に完成した
    • [160]ホテル清算のために前98年3月期に941億円の赤字に転落し、1,300億円の資本準備金を取り崩した
    • [163]植木リース取引での総会屋利益供与が明らかになった
  • 週刊東洋経済 1997/11/15
    • [158]97年9月中間決算は償却期間延長で利益をかさ上げしたと報じられた
  • 会社年鑑
    • [159]1998年3月期の連結当期純損失は629億円
    • [166]1999年3月期の経常利益は373億円、2001年3月期は533億円
  • 週刊東洋経済 1998/3/28
    • [161]山地進会長と近藤晃社長は辞任し、後任社長には兼子勲専務が昇格した
  • 週刊東洋経済 1999/4/17
    • [164]退職給付債務に対する積立不足額はグループで総額約2,000億円だった
  • 日経ビジネス 1999/8/30
    • [165]1999年4月1日から取締役と執行役員に1年任期制を採用し、厳しく業績を問う体制へ改めた
  • 日本航空 有価証券報告書
    • [167]2001年11月に共同持株会社方式の統合を発表した
    • [171]2006年3月期の経常損失は495億円、当期純損失は409億円
    • [176]2008年3月期の経常利益は628億円
    • [177]2009年3月期の経常損失は857億円、当期純損失は656億円
  • 公正取引委員会 審査結果(2002年)
    • [168]公正取引委員会が競争制限の懸念を示し、羽田発着枠9便の返上や国内普通運賃の一律10%引き下げを講じた
  • 日本航空 有価証券報告書【沿革】
    • [169]2002年10月2日に株式会社日本航空システムが発足した
    • [170]2004年4月に当社と日本エアシステムがそれぞれ日本航空インターナショナルおよび日本航空ジャパンへ商号変更し事業再編した
    • [175]2007年4月にワンワールドへ加盟した
  • 週刊東洋経済 2006/3/11
    • [172]新町敏行は2005年4月に社長兼CEOへ就任した
    • [173]2006年3月に経営陣の内紛が相打ちのかたちで決着した
  • 週刊東洋経済 2010/2/13
    • [174]西松遙は2006年6月に代表取締役社長へ就任した

2010年〜 破綻から作り直した採算と、航空の外へ広げる収益

日本航空の業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 2010年 会社更生法下での稲盛和夫氏の招聘と、アメーバ経営・JALフィロソフィによる再建 航空未経験の経営者を無報酬で会長に迎えたのはなぜか、そして何が高コスト体質を変えたのか
  2. 2010年 稲盛和夫がJAL会長に就任
  3. 2011年 日本航空を吸収合併
  4. 2012年 植木義晴氏が社長に就任
  5. 2012年 東京証券取引所市場第一部に再上場
  6. 2021年 コロナ禍で売上収益が前年比65%減
  7. 2024年 鳥取三津子氏体制の発足と「非航空事業5割」への構造改革 航空需要がコロナ前を超えたいま、なぜ非航空事業の拡大に踏み込むのか

負債2兆3,200億円の更生手続きと部門別採算の導入

2010年1月19日[178]、日本航空は企業再生支援機構の支援のもとで会社更生法の適用を申請した。負債総額は2兆3,200億円[179]と戦後の事業会社では最大で、翌2月に上場は廃止され[180]、100%減資により株主の出資は消滅[181]する。同じ2月、京セラ創業者の稲盛和夫氏が78歳で、無報酬の会長として就任した[182]。社長には大西賢[183]が就いた。更生計画に基づいて約16,000人の人員を削減し、45の不採算路線を廃止[184]し、ボーイング747など大型機を退役させ、年金も減額した。1,500人の希望退職はパイロットで130人、客室乗務員で140人が集まらず、募集は11月9日まで延長[185]され、整理解雇に踏み切れば法廷闘争になるとみられていた[186]

  • 日本航空 有価証券報告書
    • [178]2010年1月19日に会社更生法の適用を申請した
    • [181]100%減資により株主の出資は消滅した
  • 日本航空 会社更生計画(2010年)
    • [179]負債総額は2兆3,200億円で戦後最大の事業会社の破綻となった
    • [184]更生計画に基づき約16,000人の人員削減、45の不採算路線の廃止、大型機の退役、年金の減額を実行した
  • 日本航空 有価証券報告書【沿革】
    • [180]2010年2月に会社更生手続の申立に伴い市場第一部から上場廃止となった
  • 週刊東洋経済 2013/5/25
    • [182]稲盛和夫は1932年生まれ、京セラ創業者。2010年2月に日本航空会長へ無報酬で就任した
  • 週刊東洋経済 2010/11/6
    • [183]大西賢は2010年2月に代表取締役社長へ就任した
    • [185]1,500人の希望退職でパイロット130人、客室乗務員140人が未達となり11月9日まで募集を延長した
    • [186]仮に整理解雇実施となれば労使対立は法廷に持ち込まれるとみられていた

稲盛氏が着手したのは採算を測る単位の作り替えである。当時のグループは子会社三十数社、従業員5万人を抱えながら、経営をグループ全体の損益計算書だけで見ていた[188]。着任して先月の数値を尋ねると、3カ月前のものならあるという答え[189]が返ってきた。稲盛氏は路線ごとに月次と日次で採算を管理するよう経理を組み替え[190]、完成まで約1年をかけて[191]部門別の管理会計制度を敷いた。並行して、全社員が共有する行動指針としてJALフィロソフィを定め[192]、幹部に対しては同じ話を50回ほど繰り返した[193]という。稲盛氏は着任前の4、5年は全日本空輸にしか乗っていなかった[194]と述べ、着任後は自ら現場へ足を運んで顧客への向き合い方を説いた。 [187]

  • 週刊東洋経済 2013/5/25
    • [187]当時のJALは航空運輸事業だけで子会社三十数社、従業員5万人の大会社だった
    • [188]経営をグループ全体の損益計算書だけで見ていた
    • [189]先月の数値を聞くと3カ月前の数値ならあるという答えが返ってきた
    • [190]路線ごとに月次・日次で採算を管理するよう経理システムを変え、部門別管理会計制度を導入した
    • [191]部門別管理会計制度の完成には約1年かかった
    • [193]幹部が本当に納得するまで50回くらい同じ話を続けた
    • [194]着任前の4〜5年は全日本空輸にしか乗らず、着任後は自ら現場に何度も足を運んで顧客への思いを説いた
  • 日本航空 有価証券報告書
    • [192]全社員が共有するJALフィロソフィを定めた
  • 日本航空 有価証券報告書
    • [178]2010年1月19日に会社更生法の適用を申請した
    • [181]100%減資により株主の出資は消滅した
    • [192]全社員が共有するJALフィロソフィを定めた
  • 日本航空 会社更生計画(2010年)
    • [179]負債総額は2兆3,200億円で戦後最大の事業会社の破綻となった
    • [184]更生計画に基づき約16,000人の人員削減、45の不採算路線の廃止、大型機の退役、年金の減額を実行した
  • 日本航空 有価証券報告書【沿革】
    • [180]2010年2月に会社更生手続の申立に伴い市場第一部から上場廃止となった
  • 週刊東洋経済 2013/5/25
    • [182]稲盛和夫は1932年生まれ、京セラ創業者。2010年2月に日本航空会長へ無報酬で就任した
    • [187]当時のJALは航空運輸事業だけで子会社三十数社、従業員5万人の大会社だった
    • [188]経営をグループ全体の損益計算書だけで見ていた
    • [189]先月の数値を聞くと3カ月前の数値ならあるという答えが返ってきた
    • [190]路線ごとに月次・日次で採算を管理するよう経理システムを変え、部門別管理会計制度を導入した
    • [191]部門別管理会計制度の完成には約1年かかった
    • [193]幹部が本当に納得するまで50回くらい同じ話を続けた
    • [194]着任前の4〜5年は全日本空輸にしか乗らず、着任後は自ら現場に何度も足を運んで顧客への思いを説いた
  • 週刊東洋経済 2010/11/6
    • [183]大西賢は2010年2月に代表取締役社長へ就任した
    • [185]1,500人の希望退職でパイロット130人、客室乗務員140人が未達となり11月9日まで募集を延長した
    • [186]仮に整理解雇実施となれば労使対立は法廷に持ち込まれるとみられていた

2年8か月での再上場と、コロナ禍で試された財務規律

2012年3月期の営業収益は1兆2,048億円、営業利益2,049億円、経常利益1,977億円[195]となった。破綻前の2008年3月期と比べると売上は約45%減った一方、経常利益は628億円から3倍を超えた[196]。同年2月にパイロット出身の植木義晴氏が社長へ就き[197]、9月19日には、破綻の申請から2年8か月で東京証券取引所市場第一部へ再上場した[198]。会社更生手続は2011年3月に終結[199]した。営業利益はその後も2013年3月期の1,952億円から2019年3月期の1,762億円まで、7期にわたり1,600億円台から2,000億円台[200]で推移した。2018年4月には赤坂祐二[201]が社長に就いた。

  • 日本航空 有価証券報告書
    • [195]2012年3月期の営業収益は1兆2,048億円、営業利益2,049億円、経常利益1,977億円
    • [196]2008年3月期の経常利益628億円に対し2012年3月期は3倍を超えた
    • [197]植木義晴はパイロット出身で2012年2月に代表取締役社長へ就任した
    • [200]営業利益は2013年3月期1,952億円、2014年3月期1,668億円、2016年3月期2,092億円、2019年3月期1,762億円で推移した
  • 日本航空 有価証券報告書【沿革】
    • [198]2012年9月に東京証券取引所市場第一部へ株式を上場した
    • [199]2011年3月に会社更生手続が終結した
  • 日本経済新聞 2023/3/25
    • [201]赤坂祐二は2018年4月から2024年3月まで社長を務めた

2020年、新型コロナウイルスの流行で国際線の旅客はほぼ消えた。2021年3月期の売上高は4,812億円と前期の1兆3,859億円から65%減り、当期純損失は3,019億円[203]に達した。2022年3月期も売上高6,827億円、当期純損失1,775億円[204]と2期連続の赤字となる。破綻後に積み上げた自己資本と、政府保証付き融資を含む調達で流動性を確保し[205]、2度目の法的整理には至らなかった。2023年3月期に売上高1兆3,755億円、当期純利益344億円[206]で黒字へ戻し、2025年3月期は売上高1兆8,440億円[207]、2026年3月期は売上高2兆125億円、営業利益2,073億円、当期純利益1,376億円[208]を計上した。 [202]

  • 日本航空 有価証券報告書
    • [202]2021年3月期の売上高は4,812億円、前期は1兆3,859億円
    • [203]2021年3月期の当期純損失は3,019億円
    • [204]2022年3月期の売上高は6,827億円、当期純損失は1,775億円
    • [205]政府保証付き融資や資本市場からの調達で流動性を確保し、2度目の経営危機を回避した
    • [206]2023年3月期の売上高は1兆3,755億円、当期純利益は344億円
    • [207]2025年3月期の売上高は1兆8,440億円
    • [208]2026年3月期の売上高は2兆125億円、営業利益2,073億円、当期純利益1,376億円
  • 日本航空 有価証券報告書
    • [195]2012年3月期の営業収益は1兆2,048億円、営業利益2,049億円、経常利益1,977億円
    • [196]2008年3月期の経常利益628億円に対し2012年3月期は3倍を超えた
    • [197]植木義晴はパイロット出身で2012年2月に代表取締役社長へ就任した
    • [200]営業利益は2013年3月期1,952億円、2014年3月期1,668億円、2016年3月期2,092億円、2019年3月期1,762億円で推移した
    • [202]2021年3月期の売上高は4,812億円、前期は1兆3,859億円
    • [203]2021年3月期の当期純損失は3,019億円
    • [204]2022年3月期の売上高は6,827億円、当期純損失は1,775億円
    • [205]政府保証付き融資や資本市場からの調達で流動性を確保し、2度目の経営危機を回避した
    • [206]2023年3月期の売上高は1兆3,755億円、当期純利益は344億円
    • [207]2025年3月期の売上高は1兆8,440億円
    • [208]2026年3月期の売上高は2兆125億円、営業利益2,073億円、当期純利益1,376億円
  • 日本航空 有価証券報告書【沿革】
    • [198]2012年9月に東京証券取引所市場第一部へ株式を上場した
    • [199]2011年3月に会社更生手続が終結した
  • 日本経済新聞 2023/3/25
    • [201]赤坂祐二は2018年4月から2024年3月まで社長を務めた

ZIPAIRとマイル ── 航空一本足からの離脱

コロナ禍の直前に立ち上げた中長距離LCCが、回復期の主役になった。2018年に準備会社を設けたZIPAIRは、2020年10月の初旅客便で乗客が2人[210]にとどまったが、競合の少ない北米長距離路線に格安のフルフラットシートと無料Wi-Fi[211]を組み合わせて需要をつかんだ。2023年3月期に黒字転換し、2025年3月期は売上高768億円、営業利益127億円、営業利益率16.5%[212]とグループ全体の2倍の水準に達した。日本航空は国際線の機材を88機から2030年度末に99機[213]へ増やす計画のうち、増加分11機の8機をZIPAIRに割り当て、保有8機を倍増[214]させる方針を示した。 [209]

  • 日本航空 有価証券報告書
    • [209]2018年に国際線中長距離LCCの準備会社を設立し、2019年にZIPAIR Tokyoへ社名変更した
  • 週刊東洋経済 2026/7/4
    • [210]2020年10月にZIPが初めて旅客便を飛ばした際の乗客はわずか2人だった
    • [211]アジアなど短距離LCCと違い競合が少なく、格安のフルフラットシートや無料Wi-Fiが人気を博した
    • [212]2023年3月期に黒字転換し、2025年3月期は売上高768億円、営業利益127億円、営業利益率16.5%だった
    • [213]現在88機ある国際線の機数を2030年度末に99機とし、増加分11機のうち8機をZIPAIRに割り当てる
    • [214]ZIPAIRの現保有機数は8機で、一気に倍増させる計画である

2024年4月、鳥取三津子氏が社長に就任[215]した。1985年に東亜国内航空へ入り[216]、客室乗務員を経て日本エアシステムとの統合時には安全マニュアルの一本化を担当し、2020年4月から客室本部長を務めた経歴を持つ。鳥取社長は非航空事業の利益比率を50%まで引き上げる構造改革[217]を掲げ、2035年までの経営ビジョン[218]を示した。マイル・ライフ事業を唯一無二の事業と位置づけ、2030年度にJALカードの決済高を2025年度比1.5倍、発行マイル数を2倍[219]とする計画で、投資枠は800億円を超える[220]。2025年8月にマネースクエアホールディングスへ出資し、2026年度にはライフネット生命保険への294億円の出資を決めた[221]。3月の会見では就任からの2年間を30点くらいだと評価し、5月には客室乗務員の飲酒に関する不祥事[222]も起きた。

  • 日本航空 有価証券報告書
    • [215]2024年4月に鳥取三津子が社長へ就任した
  • 週刊東洋経済 2026/7/4
    • [216]1985年活水女子短期大学卒、東亜国内航空入社。客室乗務員を経てJAL・JAS統合時は安全マニュアルの一本化を担当し、2020年4月客室本部長
    • [217]非航空事業の利益比率を50%まで引き上げる構造改革を掲げた
    • [218]2035年までの経営ビジョンを発表した
    • [219]2030年度にJALカードの決済高を2025年度対比1.5倍、発行マイル数を2倍にする計画である
    • [220]計画達成へ期間中に800億円以上の戦略投資をする
    • [221]2025年8月にマネースクエアHDへ出資し、2026年度にライフネット生命保険への294億円の出資を決めた
    • [222]3月の会見でトップ就任からの2年間を30点くらいと厳しく評価し、その後の5月に客室乗務員による飲酒不祥事があった
  • 日本航空 有価証券報告書
    • [209]2018年に国際線中長距離LCCの準備会社を設立し、2019年にZIPAIR Tokyoへ社名変更した
    • [215]2024年4月に鳥取三津子が社長へ就任した
  • 週刊東洋経済 2026/7/4
    • [210]2020年10月にZIPが初めて旅客便を飛ばした際の乗客はわずか2人だった
    • [211]アジアなど短距離LCCと違い競合が少なく、格安のフルフラットシートや無料Wi-Fiが人気を博した
    • [212]2023年3月期に黒字転換し、2025年3月期は売上高768億円、営業利益127億円、営業利益率16.5%だった
    • [213]現在88機ある国際線の機数を2030年度末に99機とし、増加分11機のうち8機をZIPAIRに割り当てる
    • [214]ZIPAIRの現保有機数は8機で、一気に倍増させる計画である
    • [216]1985年活水女子短期大学卒、東亜国内航空入社。客室乗務員を経てJAL・JAS統合時は安全マニュアルの一本化を担当し、2020年4月客室本部長
    • [217]非航空事業の利益比率を50%まで引き上げる構造改革を掲げた
    • [218]2035年までの経営ビジョンを発表した
    • [219]2030年度にJALカードの決済高を2025年度対比1.5倍、発行マイル数を2倍にする計画である
    • [220]計画達成へ期間中に800億円以上の戦略投資をする
    • [221]2025年8月にマネースクエアHDへ出資し、2026年度にライフネット生命保険への294億円の出資を決めた
    • [222]3月の会見でトップ就任からの2年間を30点くらいと厳しく評価し、その後の5月に客室乗務員による飲酒不祥事があった

日本航空の沿革1951〜2025年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
日本航空設立★★
日本航空法に基づく新会社設立
東京〜ホノルル〜サンフランシスコ線開設★★
初のジェット旅客機DC-8運航開始
証券取引所に上場
ジャルパック販売開始
ボーイング747(ジャンボ)導入の決定と大量輸送体制への転換増便できない過密のなか、1機66.6億円の巨人機に輸送力を賭けたのはなぜか 詳細を読む★★★
世界一周路線(西回り)開設
ボーイング747(ジャンボジェット)運航開始
朝田静夫東亜国内航空設立
高木養根IATA統計で旅客・貨物輸送実績世界一
山地進完全民営化★★
山地進東亜国内航空が日本エアシステム(JAS)に商号変更
利光松男マイレージプログラム導入
利光松男民営化後初の大幅赤字を受けた「親方日の丸」との決別とコスト構造改革好景気に改善を先送りした高コスト体質に、危機のなかで手術は届いたのか 詳細を読む★★★
兼子勲日本航空と日本エアシステムの経営統合(2002年成立)国内2社の統合はなぜ実現し、国際線と国内線の補完で何を狙ったのか? 詳細を読む★★★
兼子勲事業再編
西松遙経常赤字494億円
西松遙ワンワールドに加盟
西松遙経常赤字857億円★★
大西賢会社更生法下での稲盛和夫氏の招聘と、アメーバ経営・JALフィロソフィによる再建航空未経験の経営者を無報酬で会長に迎えたのはなぜか、そして何が高コスト体質を変えたのか 詳細を読む★★★
大西賢稲盛和夫がJAL会長に就任★★
大西賢日本航空を吸収合併
植木義晴植木義晴氏が社長に就任
植木義晴東京証券取引所市場第一部に再上場
赤坂祐二春秋航空日本を子会社化
赤坂祐二コロナ禍で売上収益が前年比65%減★★
鳥取三津子鳥取三津子氏体制の発足と「非航空事業5割」への構造改革航空需要がコロナ前を超えたいま、なぜ非航空事業の拡大に踏み込むのか 詳細を読む★★★
鳥取三津子コロナ後初の本格回復
出典・参考
  • 日本航空 有価証券報告書【沿革】
  • 週刊東洋経済 2010/2/13
  • 日本航空 有価証券報告書
  • 証券アナリストジャーナル 1964年10月号 伍堂輝雄「航空業界の現状と日本航空の将来」
  • 日経ビジネス 1979/12/17
  • 証券アナリストジャーナル 1969年7月号 田中鎮雄「航空業界と日本航空」
  • 読売新聞 1966/6/16
  • 読売新聞 1966/8/9
  • 読売新聞 1970/7/2
  • 会社年鑑(1986年版)
  • 日経ビジネス 1973/12/24
  • 日経ビジネス 1981/9/7
  • 日本産業史 第4巻 運輸・物流(日本経済新聞社、1994年)「四五・四七体制の終焉」
  • 日経ビジネス 1987/5/25
  • 週刊東洋経済 1998/8/29
  • 会社年鑑
  • 日経ビジネス 1993/1/25
  • 証券アナリストジャーナル 1993年3月号 近藤晃「93-97年度中期計画で更なる構造改革」
  • 証券アナリストジャーナル 1993年6月号 西松遙「日本航空」
  • 証券アナリストジャーナル 1995年7月号 五十嵐修「4年ぶりの増収、経常黒字を達成」
  • 週刊東洋経済 1998/8/22
  • 週刊東洋経済 1997/11/15
  • 週刊東洋経済 1998/3/28
  • 週刊東洋経済 1999/4/17
  • 日経ビジネス 1999/8/30
  • 公正取引委員会 審査結果(2002年)
  • 週刊東洋経済 2006/3/11
  • 日本航空 会社更生計画(2010年)
  • 週刊東洋経済 2013/5/25
  • 週刊東洋経済 2010/11/6
  • 日本経済新聞 2023/3/25
  • 週刊東洋経済 2026/7/4

免責事項およびポリシー