1951年〜 国が国際線の免許を1社に集めて始まった半官半民の20年
日本航空の業績推移:単体
- 1951年 日本航空設立
- 1953年 日本航空法に基づく新会社設立
- 1954年 東京〜ホノルル〜サンフランシスコ線開設
- 1960年 初のジェット旅客機DC-8運航開始
- 1961年 証券取引所に上場
- 1965年 ジャルパック販売開始
- 1966年 ボーイング747(ジャンボ)導入の決定と大量輸送体制への転換 増便できない過密のなか、1機66.6億円の巨人機に輸送力を賭けたのはなぜか
日航法が与えた本邦唯一の国際線免許
1951年8月[1]、資本金1億円[2]で日本航空株式会社が設立された。連合国軍最高司令官総司令部が日本人による航空機の運航禁止を解いた直後で、自社の乗員も機体も持たないまま、運航を米ノースウエスト航空に委託して営業を始めた[3]。1952年10月からは自主運航[4]による国内線の定期航空輸送事業に移った。同年4月には伊豆大島の三原山で委託運航中の旅客機が墜落[5]しており、国内の航空法制を整える必要が生じていた。1953年10月[6]、日本航空株式会社法に基づき、旧会社と政府の折半出資による資本金20億円の新会社[7]が設立される。新会社は旧会社の権利義務の一切を継承し、本邦唯一の国際線定期航空運送事業の免許会社[8]として発足した。1954年2月[9]には東京〜ホノルル〜サンフランシスコ線を開設した。
- 日本航空 有価証券報告書【沿革】
- [1]1951年8月1日に旧会社が資本金1億円をもって設立された
- [2]設立時の資本金は1億円
- [6]1953年10月1日に日本航空株式会社法に基づく新会社が設立された
- [7]旧会社と政府の折半出資による20億円の資本金をもって設立された
- [8]旧会社の権利義務の一切を継承し、本邦唯一の国際線定期航空運送事業の免許会社として発足した
- [9]1954年2月に東京〜ホノルル〜サンフランシスコ線を開設し本邦企業初の国際線定期輸送を開始した
- 週刊東洋経済 2010/2/13
- [3]GHQによる航空機の運航禁止解除を受けて発足し、当初は米ノースウエスト航空に運航委託していた
- [5]1952年に伊豆大島三原山で墜落死亡事故が発生し、日本独自の航空法整備の必要に迫られた
- 日本航空 有価証券報告書
- [4]翌年10月から自主運航による国内線定期航空輸送事業を開始した
日航法は、国際線の免許を1社に集める代わりに、経営の手続きも国に握らせた。日本航空は毎年、事業計画と収支予算を政府に提出して認可を受け、その範囲で運営した。伍堂輝雄副社長は1964年の講演[11]で、この認可予算は最低限度の責任にすぎず[12]、収入では予算以上、経費では節減を積まなければならないと説明した。役員の選任にも運輸大臣の認可を要し[13]、経営の自由度は法律で縛られていた。国費による海外出張で日航機を使う比率は、次官会議の通達を受けて1961年前半の39%から1964年初めには60%[14]まで上がったが、日本人全体では42%[15]にとどまっていた。伍堂副社長は講演の場でも、日本人が日本航空を利用するムードを作ってほしいと聴衆に求めた[16]。 [10]
- 証券アナリストジャーナル 1964年10月号 伍堂輝雄「航空業界の現状と日本航空の将来」
- [10]日航法により毎年政府に事業計画・収支予算の認可申請を行い、認可を得て運営していた
- [11]伍堂輝雄は1964年当時の日本航空副社長
- [12]認可予算は最低限度の責任であり、実際にはこれを上回る実績を上げなければならないと述べた
- [14]国費による外国旅行での日航機利用率は1961年前半39%から1964年1〜2月に60%へ上昇した
- [15]日本人全体での日航機利用率は42%にとどまっていた
- [16]日本人は日本航空を利用するというムード作りを聴衆に求めた
- 日経ビジネス 1979/12/17
- [13]日本航空は役員の選任に運輸大臣の認可を必要とし、法律・行政にがんじがらめになっていた
- 日本航空 有価証券報告書【沿革】
- [1]1951年8月1日に旧会社が資本金1億円をもって設立された
- [2]設立時の資本金は1億円
- [6]1953年10月1日に日本航空株式会社法に基づく新会社が設立された
- [7]旧会社と政府の折半出資による20億円の資本金をもって設立された
- [8]旧会社の権利義務の一切を継承し、本邦唯一の国際線定期航空運送事業の免許会社として発足した
- [9]1954年2月に東京〜ホノルル〜サンフランシスコ線を開設し本邦企業初の国際線定期輸送を開始した
- 週刊東洋経済 2010/2/13
- [3]GHQによる航空機の運航禁止解除を受けて発足し、当初は米ノースウエスト航空に運航委託していた
- [5]1952年に伊豆大島三原山で墜落死亡事故が発生し、日本独自の航空法整備の必要に迫られた
- 日本航空 有価証券報告書
- [4]翌年10月から自主運航による国内線定期航空輸送事業を開始した
- 証券アナリストジャーナル 1964年10月号 伍堂輝雄「航空業界の現状と日本航空の将来」
- [10]日航法により毎年政府に事業計画・収支予算の認可申請を行い、認可を得て運営していた
- [11]伍堂輝雄は1964年当時の日本航空副社長
- [12]認可予算は最低限度の責任であり、実際にはこれを上回る実績を上げなければならないと述べた
- [14]国費による外国旅行での日航機利用率は1961年前半39%から1964年1〜2月に60%へ上昇した
- [15]日本人全体での日航機利用率は42%にとどまっていた
- [16]日本人は日本航空を利用するというムード作りを聴衆に求めた
- 日経ビジネス 1979/12/17
- [13]日本航空は役員の選任に運輸大臣の認可を必要とし、法律・行政にがんじがらめになっていた
ジェット化がもたらした赤字と政府認可下の経営
国際航空は1958年にピストン機からジェット機への転換が始まり[17]、各社が機材を償却しきらないまま買い替えに走った[18]。輸送力は一挙に増え、需給が崩れて1962年には各国の航空会社が軒並み赤字に落ちた[19]。日本航空はジェット機への切替が1年遅れたため影響も1年遅れて現れ、1962年度に28億円の赤字[20]を出した。南回り欧州線の開設とシンガポール線の延長[21]が重なり、路線の拡張が経営の負担になっていた。1963年度は既存路線の拡充と合理化に絞り、太平洋線を週11便に増やす[22]一方、パンアメリカン航空のジェット貨物便に対抗できなくなった太平洋の貨物専用便は運航を止めた[23]。整備会社との合併とジェット燃料の国内自給体制[24]も、この年に整えた。
- 証券アナリストジャーナル 1964年10月号 伍堂輝雄「航空業界の現状と日本航空の将来」
- [17]1958年にピストン機からジェット機への切替えが始まった
- [18]従来機を充分償却しないまま新しいジェット機を購入する必要が生じた
- [19]1962年には世界各国の航空会社の業績が底に達しほとんどが赤字経営となった
- [20]日本航空はジェット機への切替えが1年遅れ、昭和37年度に28億円の赤字を出した
- [21]シンガポール線のジャカルタ延長と南回りヨーロッパ線開設が経営上の負担になった
- [22]昭和38年度に太平洋線を週11便に増便した
- [23]パンアメリカン航空のジェット貨物専用便に対抗できず太平洋の貨物専用便の運航を中止した
- [24]合理化の一環として整備会社と合併し、ジェット燃料の国内自給体制を整えた
1963年度の営業収益は387億6,300万円と前年比37%増[25]となり、乗員訓練費の未償却残のうち約5億円を特別償却したうえで15億2,600万円の利益[26]を計上した。繰越欠損金13億円を全て消せる見通しが立ったのは翌1964年度[27]である。日本航空は運航開始当初のパイロットを全て外国人に頼っており[28]、1964年の時点でも国内線のレシプロ機に30余名の外国人パイロット[29]が残っていた。国際線の機長を1人育てるには10年から12年と1人当たり3,500万円[30]を要し、この10年間の乗員訓練費は約63億円、1964年度だけで年間約20億円[31]に達した。商法改正で1964年度からは当該年度の経費として落とすことになり、政府から3億5,000万円の補助金[32]を受けて処理した。
- 証券アナリストジャーナル 1964年10月号 伍堂輝雄「航空業界の現状と日本航空の将来」
- [25]昭和38年度の営業収益は387億6,300万円で対前年比37%増
- [26]乗員訓練費の未償却残のうち当初の部分約5億円の特別償却を行い15億2,600万円の利益計上にとどまった
- [27]昭和39年度は繰越欠損金13億円を全部消してなお相当の利益が見込まれた
- [28]日航が運航を開始した当初は全部外国人パイロットに依存していた
- [29]1964年時点で国内線のレシプロ機に30余名の外国人パイロットが残っていた
- [30]1人前の国際線機長に育てるには10〜12年と1人当たり3,500万円を要した
- [31]この10年間に約63億円の乗員訓練費を支出し、1964年度だけで年間約20億円になった
- [32]昭和39年度の予算で政府から3億5,000万円の補助金を受けた
- 証券アナリストジャーナル 1964年10月号 伍堂輝雄「航空業界の現状と日本航空の将来」
- [17]1958年にピストン機からジェット機への切替えが始まった
- [18]従来機を充分償却しないまま新しいジェット機を購入する必要が生じた
- [19]1962年には世界各国の航空会社の業績が底に達しほとんどが赤字経営となった
- [20]日本航空はジェット機への切替えが1年遅れ、昭和37年度に28億円の赤字を出した
- [21]シンガポール線のジャカルタ延長と南回りヨーロッパ線開設が経営上の負担になった
- [22]昭和38年度に太平洋線を週11便に増便した
- [23]パンアメリカン航空のジェット貨物専用便に対抗できず太平洋の貨物専用便の運航を中止した
- [24]合理化の一環として整備会社と合併し、ジェット燃料の国内自給体制を整えた
- [25]昭和38年度の営業収益は387億6,300万円で対前年比37%増
- [26]乗員訓練費の未償却残のうち当初の部分約5億円の特別償却を行い15億2,600万円の利益計上にとどまった
- [27]昭和39年度は繰越欠損金13億円を全部消してなお相当の利益が見込まれた
- [28]日航が運航を開始した当初は全部外国人パイロットに依存していた
- [29]1964年時点で国内線のレシプロ機に30余名の外国人パイロットが残っていた
- [30]1人前の国際線機長に育てるには10〜12年と1人当たり3,500万円を要した
- [31]この10年間に約63億円の乗員訓練費を支出し、1964年度だけで年間約20億円になった
- [32]昭和39年度の予算で政府から3億5,000万円の補助金を受けた
高い利益率の内訳と、ジャンボ機導入の決定
半官半民の日本航空は、他国の主要航空会社と比べても速く伸びた。1958年から1967年までの営業収入の年平均増加率は24.9%で、北米10社の11.9%、欧州10社の12.8%を上回る。売上営業利益率も18%と北米10社の10%、欧州10社の6%[34]を超えた。ただし田中鎮雄常務は1969年の講演[35]で、利益率が高いのは収入レートが欧米より低い代わりに利用率が高いためで、有効トンキロ当たりの原価は北米10社の8セントに対し日本航空は18セント[36]と、原価水準は必ずしも低いといえない[37]と断った。IATA加盟社中の順位は1963年の14位から1967年に8位[38]へ上がり、田中常務は1973年ごろのビッグ5入りを目標[39]に掲げた。 [33]
- 証券アナリストジャーナル 1969年7月号 田中鎮雄「航空業界と日本航空」
- [33]1958〜67年の営業収入の対前年増加率平均は当社24.9%、北米10社11.9%、欧州10社12.8%
- [34]売上営業利益率は当社18%、北米10社10%、欧州10社6%
- [35]田中鎮雄は1969年当時の日本航空常務取締役
- [36]有効トンキロ当たり原価は北米10社8セント、欧州10社21セント、当社18セントだった
- [37]営業利益率が高いのは収入レートが低いものの利用率が比較的高いためで、原価水準は必ずしも低いとはいえないと述べた
- [38]IATAランクは1963年の第14位から1967年に第8位へ躍進した
- [39]1973年頃にはIATA加盟国のビッグ5入りを目標にしていた
1968年に策定した中期5カ年計画は、1969年度に1,280億円の売上を1973年度に2,690億円[40]へ、航空機の保有を50機から77機[41]へ増やす内容だった。1970年ごろには旅客が当時の2倍、貨物が3倍[42]になると見込まれ、便数を増やさずに需要をさばく手段が要る。1966年6月16日[43]、日本航空は重役会でボーイング747型機の購入を決め、1機66.6億円の490人乗り[44]を1970年から羽田〜太平洋路線に投入する計画を発表した。従来機の2倍から3倍の座席を1機に積む[45]選択である。同年8月、松尾静磨社長[46]は米国航空会社の不定期便増便に反対[47]し、国際線免許の独占を守る方針を示した。株式は1961年10月に証券取引所の市場第二部へ上場し、1970年2月に第一部へ指定[48]された。
- 証券アナリストジャーナル 1969年7月号 田中鎮雄「航空業界と日本航空」
- [40]中期5カ年計画の売上は44年度1,280億円から48年度2,690億円
- [41]航空機保有数は44年度50機から48年度77機とする計画だった
- 読売新聞 1966/6/16
- [42]1970年ごろには旅客が当時の2倍、貨物が3倍になると予測された
- [43]1966年6月16日に重役会でボーイング747型機の購入を正式決定した
- [44]1機66.6億円の490人乗りを1970年から羽田〜太平洋路線へ投入する計画だった
- [45]従来機の2〜3倍の座席を持つジャンボ機を導入する判断だった
- 読売新聞 1966/8/9
- [46]松尾静磨は当時の日本航空社長
- [47]定期航空に与える影響も大きいので米国不定期便の増便は認めるべきではないと述べ、国際線免許の独占を守る方針を示した
- 日本航空 有価証券報告書【沿革】
- [48]1961年10月に証券取引所(東京、大阪、名古屋)市場第二部に上場し、1970年2月に市場第一部へ指定された
ボーイング747の運航は1970年7月に始まった[49]。当時の羽田空港は発着能力の限界に近づき、成田の新空港はまだ建設中[50]で、1機で2倍から3倍を運ぶ大型機に輸送力を託すほかない状況だった。路線と商品はこの間に厚みを増した。1960年8月に初のジェット旅客機ダグラスDC-8が運航を始め、1961年6月に北回り欧州線[52]、1965年1月にはジャルパックの販売[53]も始まった。1966年11月にニューヨーク線[54]を開き、1967年3月には世界一周路線[55]も開設した。国際線を1社で担う体制のもとで路線網は広がり、1971年5月には日本国内航空と東亜航空の合併で東亜国内航空[56]が生まれ、国内線は3社体制となった。 [51]
- 日本航空 有価証券報告書【沿革】
- [49]1970年7月にボーイング747型航空機(ジャンボジェット)が運航開始した
- [51]1960年8月に初のジェット旅客機ダグラスDC-8型航空機が運航開始した
- [52]1961年6月に北回り欧州線を開設した
- [53]1965年1月にジャルパックの販売を開始した
- [54]1966年11月にニューヨーク線を開設した
- [55]1967年3月に世界一周路線(西回り)を開設した
- [56]1971年5月に日本国内航空と東亜航空の合併により東亜国内航空が設立された
- 読売新聞 1970/7/2
- [50]羽田はもうギリギリいっぱいで、成田に新空港の建設が急がれていた
- 証券アナリストジャーナル 1969年7月号 田中鎮雄「航空業界と日本航空」
- [33]1958〜67年の営業収入の対前年増加率平均は当社24.9%、北米10社11.9%、欧州10社12.8%
- [34]売上営業利益率は当社18%、北米10社10%、欧州10社6%
- [35]田中鎮雄は1969年当時の日本航空常務取締役
- [36]有効トンキロ当たり原価は北米10社8セント、欧州10社21セント、当社18セントだった
- [37]営業利益率が高いのは収入レートが低いものの利用率が比較的高いためで、原価水準は必ずしも低いとはいえないと述べた
- [38]IATAランクは1963年の第14位から1967年に第8位へ躍進した
- [39]1973年頃にはIATA加盟国のビッグ5入りを目標にしていた
- [40]中期5カ年計画の売上は44年度1,280億円から48年度2,690億円
- [41]航空機保有数は44年度50機から48年度77機とする計画だった
- 読売新聞 1966/6/16
- [42]1970年ごろには旅客が当時の2倍、貨物が3倍になると予測された
- [43]1966年6月16日に重役会でボーイング747型機の購入を正式決定した
- [44]1機66.6億円の490人乗りを1970年から羽田〜太平洋路線へ投入する計画だった
- [45]従来機の2〜3倍の座席を持つジャンボ機を導入する判断だった
- 読売新聞 1966/8/9
- [46]松尾静磨は当時の日本航空社長
- [47]定期航空に与える影響も大きいので米国不定期便の増便は認めるべきではないと述べ、国際線免許の独占を守る方針を示した
- 日本航空 有価証券報告書【沿革】
- [48]1961年10月に証券取引所(東京、大阪、名古屋)市場第二部に上場し、1970年2月に市場第一部へ指定された
- [49]1970年7月にボーイング747型航空機(ジャンボジェット)が運航開始した
- [51]1960年8月に初のジェット旅客機ダグラスDC-8型航空機が運航開始した
- [52]1961年6月に北回り欧州線を開設した
- [53]1965年1月にジャルパックの販売を開始した
- [54]1966年11月にニューヨーク線を開設した
- [55]1967年3月に世界一周路線(西回り)を開設した
- [56]1971年5月に日本国内航空と東亜航空の合併により東亜国内航空が設立された
- 読売新聞 1970/7/2
- [50]羽田はもうギリギリいっぱいで、成田に新空港の建設が急がれていた