この会社の資本は、市場ではなく法律が作った。1951年に集めた1億円は国内線の機材代にも足りず、ダグラスDC-4型6機の代金だけで約17億円を要した。1952年の倍額増資でも資本金は2億円にしか届かず、委託運航の時期には9000万円近い赤字が積み上がっている。不足を埋めたのは民間の増資ではなく、1953年8月に施行された日本航空株式会社法だった。同年10月、政府出資10億円と旧会社の営業評価額10億円を合わせた資本金20億円で新会社が発足する。国際定期航空運送事業の免許を1社だけに与える設計は、同時に資本の出し手を国家に定めた。免許と出資は別の話ではなく、一つの制度の表と裏だった。
制度に支えられた需要は、売る力を鈍らせる方向にも働いた。DC-8の就航を目前にした社内で営業対策は何もやっていないという声が出たのは、太平洋線の客が自然に集まる状態が続いていたからである。1965年のジャルパックと、ホテルの客室をみずから押さえる方針は、この受け身を内側から壊す試みだった。旅行そのものを組み立てて初めて、座席は自社の努力で埋まる。1966年に決めた1機66.6億円のボーイング747も、その延長にある。需要が倍増するという予測と、免許を1社に集める制度、この二つが同時に成り立つ限りで正しい投資だった。
日本航空の創立を準備したのは、戦前の日本航空輸送と大日本航空に関わった人々だった。1951年1月30日、占領軍司令部は飛行機の製作・所有・運航・組み立てを除く航空事業を日本資本に許可する覚書を日本政府に手交し、2月23日には国内航空運送事業令が改定されて、航空会社の営業部門を日本人が担当することが承認された。準備はこの覚書に先立って始まっており、1月17日には東京都中央区日本橋室町に創立準備仮事務所が置かれている。3月15日の発起人会は、日本商工会議所会頭で戦前の大日本航空の非常勤取締役でもあった藤山愛一郎氏を発起人総代に選び、石川一郎氏、小林中氏ら9人を設立委員に選任した。準備委員会が計画の重点に据えたのは株式調達を中心とする財務上の安定性の確保であり、発起人79人による縁故募集は順調な成果をおさめた。
1951年8月1日に資本金1億円で発足した会社は、自らの手で飛ぶことを許されていなかった。役員を除く従業員は設立時に43人、会長に藤山愛一郎氏、社長に日本銀行副総裁出身の柳田誠二郎氏、専務取締役に松尾静磨氏が就いた。同年10月にノースウエスト航空と運航契約を結び、終戦以来初めてとなるわが国唯一の航空運送営業を始めたが、操縦は委託であった。1952年4月の講和条約発効と7月の航空法施行で道が開け、ノースウエストとの契約満了を機に10月25日から自主運航に移った。難路は資金だった。国内線用に購入を決めたダグラスDC-4型6機の価格は部品代を含めて467万5000ドル、当時の約17億円にのぼり、国際線用の機材まで含めれば1952年から53年にかけて60億円以上が要るといわれていた。
自己資本では機材代を賄えなかった。1952年5月の倍額増資でも資本金は2億円に達したにすぎず、委託運航の時期には9000万円近い赤字が積み上がっていた。最初のDC-4型4機は日本銀行が保有する外貨の別口貸付、次の2機は日本開発銀行の融資でようやく手当てされている。この状況に対し、1952年11月の航空審議会は運輸大臣へ、激烈な国際競争下に進出する民間航空は政府の集中的育成措置による強力な経営基礎を持たねばならないと答申した。政府はこれに基づいて日本航空株式会社法案を第十六回特別国会に提出し、1953年8月に施行された。同月、旧会社には営業の全部を新会社へ出資することを条件に、東京・サンフランシスコ間と東京・沖縄間の定期航空運送事業の免許が下付された。
旧会社の権利義務を一切引き継いだ新会社は、国内幹線を運営しつつ、日本でただ一つ、国際線の定期航空運送を営む事業者として出発した。設立は1953年10月で、政府出資10億円と旧会社の営業評価額10億円を合わせた資本金20億円であった。待ち望まれた国際定期便は1954年2月、ダグラスDC-6B型3機でサンフランシスコ線と沖縄線を週2往復する形で始まり、同年8月には増便と路線拡張に向けて政府出資10億円と民間出資3億円が加わって、資本金は33億円に増えた。2億円の増資にすら苦心していた会社は、法律の制定から1年で資本を十数倍にした。
国際線の採算を支えたのは国内線だった。過去一ヵ年の国内線平均利用率は75%で、諸外国の国内線平均利用率60%をはるかに上回っていた。1958年には国内線を分離して全日本空輸と合併させ新会社を作るという説が流布し、常務会が対策を協議している。会社は政府当局への要望事項の原案を修正してまで国内線と国際線の関連を強調し、社内誌は両線を未来永久に変わらぬ車の両輪と書いた。もっとも、兼営は国内線を劣勢な機材と経験の少ない乗員に委ねる誘因としても働き、松尾静磨社長自身がこの点を自戒して国内航空事業の合理化を論じていた。1963年の日本企業要覧も、わが国唯一の半官半民の国際航空会社と紹介したうえで、国内線では全日空の新鋭機バイカウントに対する使用機の劣勢を課題に挙げている。
1960年8月、初のジェット旅客機DC-8の運航が始まった。1958年9月と1959年9月の増資による手取り資金の大部分は、DC-8の機体と機材、乗員訓練用のシミュレーターの購入に充てられている。翌1961年10月には証券取引所に上場した。ただし株式が市場で売買されるようになっても資本の所在は動かず、1961年4月時点の筆頭株主は持株比率59.6%の大蔵大臣で、過半を国が握っていた。同じ1961年、社長は金融出身の柳田誠二郎氏から、設立時から専務として技術面を担ってきた松尾静磨氏へ移っている。資本を集める局面から、機材を選び路線を設計する局面へ会社が入ったことを示す交代であった。
ジェット化は供給を一気に増やしたが、それを売る体制は追いついていなかった。DC-8の導入を月余の後に控えた当時の業務部長は、『DC-8の営業対策は会社としては何もやっていないと思う。太平洋の客については、お客は自然に乗ってくれるんだという感じを持っているのではないか』と語っている。営業部は1958年7月8日付で「JET対策としてのOFF-LINE OFFICE設置基本方針(案)」を常務会へ提出し、1959年7月までにアメリカ、ヨーロッパ、東南アジア各地域へ合計24か所の営業所を増設しようとした。設置スケジュールは大幅に後退したものの、1958年7月から1960年度末までにシカゴ、シアトル、ワシントン、メキシコシティなどの営業所が開かれている。1959年2月1日の機構改革では従来の営業部が廃止され、販売部と業務部が生まれた。
パンアメリカンは早くも1946年に全額出資でインターコンチネンタル・ホテルズ社を設け、1968年末には50ホテル・1万5200室を抱えていた。座席を売るために旅行そのものを作る必要が生じ、1965年1月から同社は包括旅行商品ジャルパックの販売に乗り出したが、航空券とあわせて行き先の宿も押さえなければならず、一般のホテルと契約して部屋を予約するには保証料を払う必要があった。日本人に人気のホノルルでは、1969年度の保証料が予算8万ドルのところ実際には23万4000ドルにふくらみ、予算を追加した。日本万国博のときは、外国人客向けに東京と大阪で1日2500室を予約金付きで確保することにもなった。松尾社長は1967年10月、ホテル問題は国際旅客販売力の強化の見地から非常に重要だと述べ、翌1968年4月に自社でホテルの客室を確保する方針が定まった。
1966年6月16日、重役会は490人乗りのボーイング747型機の購入を正式に決定した。1970年ごろには旅客が当時の2倍、貨物が3倍になると予測される一方、羽田空港には増便の余地がなく、施設も機数も一挙に2.5倍にはできなかった。1機66.6億円・全長70mの機体を1970年から羽田発の太平洋路線へ投入する計画で、経済性と混雑の解決を同時に狙ったものである。1967年3月期の売上高が671.54億円であることを思えば、数機を並べれば年商に迫る買い物だった。同じ1966年8月、松尾社長は米国の不定期便の増便に反対し、国際線免許の独占を守る方針を示している。輸送力を増やす一方で参入を抑える二つの手は、一体の策として打たれた。
1967年3月には西回りの世界一周路線が開設され、1970年7月にボーイング747の運航が始まった。この間の業績の伸びは急であった。単体の売上高は1966年3月期の525.76億円から1970年3月期の1374.68億円へ、経常利益は33.25億円から228.34億円へ拡大している。資本金1億円・従業員43人で委託運航から出発した会社が、20年を経ずに到達した規模だった。設備は需要の予測に沿って積まれ、その需要は国際線の免許を1社に集める制度に支えられていた。
独占は資産であると同時に負債だった。航空憲法と呼ばれた1970年の閣議了解と1972年の運輸大臣示達は、国際線の免許を日本航空へ与える代わりに、国内幹線を地名で縛った。朝田静夫社長が1973年に既存路線の堅持を掲げ、国際航空は1国1社であるべきだと述べたのは、路線が制度から与えられるものだったからである。しかし与える側は取り上げることもできる。社長を務めた1971年からの10年が路線割譲の時代となり、退任の会見で毎日が針のムシロだったと述べた言葉に、この非対称が表れている。守るべき既得権が、そのまま弱みでもあった。
半官半民を終わらせたのは制度の設計ではなく、事故だった。1983年にIATA統計で輸送実績世界一となり、1985年度からの中期計画は1988年度の売上高1兆円を掲げていた。その計画を消したのが同じ1985年8月の520人の死である。後任社長を誰にするかという問いは、そのまま完全民営化を誰に担わせるかという問いへ変わり、官僚では民営化が形だけになるという理屈で運輸省出身の副社長が退けられた。1987年11月に34年の半官半民が終わる。ただし外国人操縦士の待遇差と四つの労働組合という社内の段差は、資本の形が変わっても残った。
1970年の閣議了解と1972年の運輸大臣の示達は、のちに航空憲法と呼ばれた。これによって日本航空の路線は国際線と国内幹線に限られ、経営は手足を縛られた形になった。とくに国内幹線は地名を挙げて規定されたため、その後の航空旅客事情の変化への対応が難しくなり、国内でシェアを落とす大きな要因となった。1971年5月には東亜国内航空が設立されている。同じ1971年、運輸省事務次官を経て1963年に日本航空の専務へ入った朝田静夫氏が社長に就いた。国際線の免許を独占する会社は、同時に路線を制度で縛られる会社でもあった。
全日本空輸は中国や東南アジアへ定期便を飛ばしたがっていたが、日本航空は自社の路線を譲らない姿勢を崩さなかった。何社もが強引に参入すれば協定上の便数の枠を互いに食い合うことになる、というのが反対の根拠である。朝田社長の立場は制度の決めた役割分担を守ることにあり、1973年12月のインタビューでは、国際線は世界のほとんどの国で1国1社が原則であって、国営と民間の航空会社に同じ業務を担わせる行政はほかにないと語っている。国内線は他社に委ねてはどうかと問われると、パンアメリカンの大赤字は国内線がないことに原因があると返し、集約や合併については『合併も一つの考え方ですが、現実には創立の精神も違いますしね。輸送分野、機能を画然と分けてやるべきだと思うんです』と述べた。制度の線引きを動かす考えは、会社の側にもなかった。
国際線では海外の航空会社と、国内線では追い上げる全日空と、競争が同時に進んでいた。そこへ石油危機が二度、収支を揺さぶった。1974年3月期の経常利益は前期の132.89億円から11億円へ落ち込み、1976年3月期には98.05億円の経常赤字となった。第2次石油危機では、1978年度に746億円だった燃油費が1979年度には1,500億円に届く勢いとなり、1979年11月末の経常利益は前年同期の半分にとどまった。朝田社長は1980年の年頭、運賃の値上げと石油の量の制約がある以上、従来並みの高い成長は期待できないとし、1月から3月までの残りを正念場と位置づけた。
路線は割譲されていった。朝田氏が社長を務めた1971年から1981年までの10年は、日本航空にとって路線の割譲の時代であった。割譲を迫ったのは出身母体の運輸省であり、その割譲先は主として全日空だった。社長交代の会見では前任者が後任を持ち上げるのが通例であり、1981年6月30日に東京・丸の内の本社で開かれた交代会見で朝田氏が『この10年間、楽しいことは何一つなかった。毎日が針のムシロであった』と語ったことは、異例の発言として記憶された。路線を命綱とする航空会社で、運輸官僚だった社長がもとの役所に路線を削られ続けるという構図があった。
社内には別の段差が残っていた。戦後の空白でジェット機の操縦士養成が追いつかず、機材の稼働率を上げるために外国人操縦士を大量に採用したことが、一般職員と運航乗務員の待遇に大きな格差を生んだ。格差は、乗務員を自宅から空港までハイヤーで送り迎えするまでに広がっている。生え抜きの社長は1981年6月の高木養根氏が初めてで、同氏は1940年に大日本航空に入社し、1951年に旧日本航空へ転じた経歴を持つ。社内に待望論があるなかでの就任であり、当時は労働組合が四つに割れ、幹部どうしの不和と並んで経営の根本を揺るがす問題になっていた。就任直後に高木氏が社内へ求めたのはサービス精神で、飛行機は20年前、30年前とは違って一部の客が使うものではなくなり、国民全体の足になったと説いた。
1982年2月、羽田沖で墜落事故が起き、逆噴射という言葉が流行語になった。機長が心身症にかかっていたのを見抜けなかったことで、人事・労務対策の不備が明るみに出て、寄せられた期待は8か月しかもたなかった。事故の処理も重なり、1983年3月期は経常損益で270.93億円、当期純損益で38.15億円の赤字となった。翌1984年3月期は経常利益が40.28億円まで戻ったが、当期純損益では64.24億円の赤字が残った。高木社長は2年をかけて経営を立て直し、1985年から再び攻勢に転じる構想を持っていた。
輸送の量では世界の首位に立った。1983年1月、IATA統計で旅客・貨物の輸送実績が世界一となる。首位は1987年まで5年にわたって保たれた。1985年3月期の単体売上高は8272.22億円、経常利益は225.14億円で、前期からの立て直しは数字にも表れていた。高木社長は1985年1月4日、羽田空港内で開かれた年始式で約800人の幹部職員を前に、業績が向上して明るい気持ちで正月を迎えられたと挨拶している。1985年度を初年度とする4か年の中期計画は、最終年度の1988年度に売上高1兆円、売上高経常利益率4%すなわち経常利益400億円を目標として掲げた。制度に守られた独占のもとで、規模の拡大を続ける計画であった。
高木社長が引責して退き、後任選びは政治の舞台へ移った。退任の原因は、1985年8月12日に日航123便が御巣鷹山に墜落し、520人が死亡した事故である。運輸省出身の副社長である町田直氏の昇格が順当な線だったが、日本航空と国鉄の完全民営化を行政改革の柱とした中曽根康弘総理は、民営化を担うのは官僚であってはならないという考えを譲らず、町田氏を推す自民党の運輸族議員と運輸省に対し、総理の周辺は民間から経営者を求めた。落ち着いた先は、運輸官僚の出身ながら総務庁事務次官として行政改革を推し進めた山地進氏を社長に据え、労使と人事に通じたカネボウ会長の伊藤淳二氏を副社長に迎える布陣だった。
1987年11月、完全民営化が実現した。日本航空株式会社法に基づいて1953年に組み直された半官半民の体制は、34年で終わった。事故の前から社内には、航空憲法のもとで手枷足枷をかけられて行動の自由を奪われるくらいならいっそ民営化して自由に動こうという空気があった。国際線では既に全日空がチャーター便を飛ばし、独占の座にかげりが出ていた。民営化によって民間航空業界に自由競争原理が導入されれば、全日空との国際線での競争が激化すると見られていた。独占を守り続けた経営は、事故と行政改革によって外側から終わらされた。
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|---|---|---|---|---|
| 1951〜1970年国が国際線の免許を1社に集めて始まった半官半民の20年 | 柳田誠二郎 | 日本航空設立 | ★★ | |
| 柳田誠二郎 | 日本航空株式会社法に基づく新会社設立 | ★ | ||
| 柳田誠二郎 | 東京〜ホノルル〜サンフランシスコ線開設 | ★★ | ||
| 柳田誠二郎 | 初のジェット旅客機DC-8運航開始 | ★ | ||
| 松尾静磨 | 証券取引所に上場 | ★ | ||
| 松尾静磨 | ジャルパック販売開始 | ★ | ||
| 松尾静磨 | ジャンボ機の導入に踏み切った大量輸送体制への転換 1966年6月16日、日本航空は重役会で490人乗りのボーイング747型機の購入を正式決定し、1機66.6億円の大型機を1970年から羽田〜太平洋路線へ投入する計画を発表した経営判断である。半官半民の国策会社として国際線を独占していた時期の、大量輸送時代への先行投資であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 松尾静磨 | 世界一周路線(西回り)開設 | ★ | ||
| 松尾静磨 | ボーイング747(ジャンボジェット)運航開始 | ★ | ||
| 1971〜1987年輸送実績世界一と、独占の維持を選び続けた経営 | 朝田静夫 | 東亜国内航空設立 | ★ | |
| 高木養根 | IATA統計で旅客・貨物輸送実績世界一 | ★ | ||
| 高木養根 | 日航123便が御巣鷹山に墜落し520人が死亡、高木養根社長が引責退任 | ★★★ | ||
| 山地進 | 山地進氏が社長に就任 | ★ | ||
| 山地進 | 完全民営化 | ★★ | ||
| 1988〜2009年民営化後も残った高コスト体質と、統合が重ねた赤字 | 山地進 | 東亜国内航空が日本エアシステム(JAS)に商号変更 | ★ | |
| 利光松男 | マイレージプログラム導入 | ★ | ||
| 利光松男 | 民営化後初の大幅赤字を受けて着手したコスト構造の全面的な見直し 1993年3月期に完全民営化後初の大幅赤字を計上した日本航空が、利光松男社長のもとで賞与抑制・機材償却の見直し・人員合理化などのコスト構造改革に着手し、利益重視への転換と"親方日の丸"体質との決別を掲げた経営判断である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 兼子勲 | 株式移転による日本航空システム設立に伴い上場廃止 | ★ | ||
| 兼子勲 | 同業大手との経営統合による国内事業基盤の再編 2002年、国内大手3社のうち日本航空と日本エアシステムが共同持株会社を設立して経営統合し、全日本空輸とほぼ拮抗する規模の航空グループが誕生した案件。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 兼子勲 | 事業再編 | ★ | ||
| 新町敏行 | 経常赤字494億円 | ★ | ||
| 西松遙 | ワンワールドに加盟 | ★ | ||
| 西松遙 | 経常赤字857億円 | ★★ | ||
| 2010〜2026年破綻から作り直した採算と、航空の外へ広げる収益 | 西松遙 | 会社更生法下での稲盛和夫氏の招聘と、フィロソフィによる意識の作り替え 2010年1月、日本航空は負債総額2兆3,200億円で会社更生法の適用を申請し、戦後最大の事業会社の破綻となった。政府の要請を受けた京セラ創業者の稲盛和夫氏が同年2月に無報酬で会長に就任し、アメーバ経営とJALフィロソフィを軸に再建を主導した経営判断である。 詳細を読む | ★★★ | |
| 大西賢 | 稲盛和夫がJAL会長に就任 | ★★ | ||
| 大西賢 | 大西賢氏が社長に就任 | ★ | ||
| 大西賢 | 会社更生手続の申立に伴い上場廃止 | ★★ | ||
| 大西賢 | 会社更生手続の終結 | ★ | ||
| 大西賢 | 商号を日本航空インターナショナルから日本航空に変更 | ★ | ||
| 植木義晴 | 植木義晴氏が社長に就任 | ★ | ||
| 植木義晴 | 東京証券取引所市場第一部に再上場 | ★ | ||
| 赤坂祐二 | 赤坂祐二氏が社長に就任 | ★ | ||
| 赤坂祐二 | 春秋航空日本を子会社化 | ★ | ||
| 赤坂祐二 | コロナ禍で売上収益が前年比65%減 | ★★ | ||
| 鳥取三津子 | 新体制の発足と、空を運ぶだけの会社から離れる構造改革の始動 2024年4月にJAL初の女性社長に就任した鳥取三津子氏が、顧客視点で利益も最大化する方針のもと、非航空事業の利益比率を50%まで引き上げる構造改革を掲げた経営判断である。航空一本足からの脱却を狙い、本稿の時点では進行中の取り組みである。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 鳥取三津子 | 対話の途絶えた上場関連会社の株主提案による非公開化と、同じ年に自社が受けた二つの提案 2025年4月25日、持分法適用関連会社である株式会社エージーピーに対し、同社の第60期定時株主総会へ株式併合、単元株式数の定めの廃止その他の定款の一部変更、および取締役選任を付議するよう求める株主提案の書面を提出した。狙いはエージーピー株式の非公開化である。 日本空港ビルデングとANAホールディングスが提案に賛同して賛成の議決権行使に同意し、2025年6月の総会で提案は可決された。提案時に29.6%だった議決権所有比率は、非公開化を経て2026年3月末に46.6%となっている。 詳細を読む | |||
| 鳥取三津子 | コロナ後初の本格回復 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(日本航空)