1952年〜 ヘリコプター2機からの出発と国内総合航空会社化
ANAホールディングスの業績推移:単体
- 1952年 日本ヘリコプター輸送を設立
- 1953年 ヘリコプターで営業開始、定期航空運送事業免許を取得
- 1957年 社名を全日本空輸に変更
- 1958年 極東航空と合併
- 1960年 バイカウント744型機を導入
- 1961年 東京・大阪証券取引所市場第二部に上場
- 1963年 藤田航空を吸収合併
戦後航空の再出発 ── ヘリ2機から総合航空会社へ
1952年12月、第2次世界大戦で壊滅した日本の定期航空事業を再興する目的で、日本ヘリコプター輸送株式会社が資本金1億5千万円で設立された[1]。ベル47D-1型の小型ヘリコプター2機を購入し[2]、1953年2月に宣伝飛行で営業を開始、同年10月に定期航空運送事業の免許を取得[3]して、12月から東京-大阪間の貨物輸送に乗り出した。1955年11月にダグラスDC-3型機を導入[4]して固定翼の旅客輸送へ移り、1957年12月には社名を全日本空輸株式会社へ変更した[5]。初期のヘリコプターは送電線のパトロールや農林業の薬剤散布にも用いられ[6]、その稼ぎがD・H・ダブやヘロンによる固定翼旅客輸送の赤字を埋めた。
- ANAホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [1]1952年12月 日本ヘリコプター輸送株式会社を資本金1億5千万円で設立
- [3]1953年 ヘリコプターで営業開始、定期航空運送事業免許を取得、東京-大阪間の貨物輸送を開始
- [4]1955年11月 ダグラスDC-3型機を導入
- [5]1957年12月 社名を全日本空輸株式会社へ変更
- 大空へ二十年(全日本空輸、1972)
- [2]ベル47D-1型の小型ヘリコプター2機を購入し宣伝飛行で営業開始
- [6]ヘリコプターは送電線のパトロール・農林業の薬剤散布に利用され、固定翼旅客輸送(D・H・ダブ、ヘロン)の赤字を補った
1958年3月、全日空は極東航空株式会社を合併し、新資本金6億円[7]で東西に分立していた定期航空を一本化した。前身の日本ヘリコプター輸送と極東航空はいずれも復興期に乱立した小資本の航空会社で、狭い国土で2社がこまぎれに運航する非効率[8]は早くから問題視されていた。1954年12月の航空審議会答申で従来の全国2社主義が1社主義に改められ[9]、政府は両社の合併を強く促した。合併後の全日空は東京-大阪を軸とする幹線へ経営資源を集め、1963年11月には藤田航空株式会社を吸収合併して資本金を46億5千万円へ積み増した[10]。売上高は1958年3月期の7億円から1965年3月期の135億円へ伸びた[11]。
- ANAホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [7]1958年3月 極東航空株式会社を合併(新資本金6億円)
- [10]1963年11月 藤田航空株式会社を吸収合併(新資本金46億5千万円)
- 大空へ二十年(全日本空輸、1972)
- [8]日本ヘリコプター輸送・極東航空は小資本で、狭い国土での2社こまぎれ運航の非効率が問題視されていた
- [9]1954年12月の航空審議会答申で全国2社主義を1社主義に改定、政府が両社の合併を慫慂
- [11]売上高 1958年3月期7億円→1965年3月期135億円
- ANAホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [1]1952年12月 日本ヘリコプター輸送株式会社を資本金1億5千万円で設立
- [3]1953年 ヘリコプターで営業開始、定期航空運送事業免許を取得、東京-大阪間の貨物輸送を開始
- [4]1955年11月 ダグラスDC-3型機を導入
- [5]1957年12月 社名を全日本空輸株式会社へ変更
- [7]1958年3月 極東航空株式会社を合併(新資本金6億円)
- [10]1963年11月 藤田航空株式会社を吸収合併(新資本金46億5千万円)
- 大空へ二十年(全日本空輸、1972)
- [2]ベル47D-1型の小型ヘリコプター2機を購入し宣伝飛行で営業開始
- [6]ヘリコプターは送電線のパトロール・農林業の薬剤散布に利用され、固定翼旅客輸送(D・H・ダブ、ヘロン)の赤字を補った
- [8]日本ヘリコプター輸送・極東航空は小資本で、狭い国土での2社こまぎれ運航の非効率が問題視されていた
- [9]1954年12月の航空審議会答申で全国2社主義を1社主義に改定、政府が両社の合併を慫慂
- [11]売上高 1958年3月期7億円→1965年3月期135億円
「追いつけ、追いこせ」── 後発の対JAL対抗心
ヘリコプター会社から総合航空会社への転換を駆動したのは、政府資本で先発した日本航空への対抗心[12]だった。前身の2社は力量の差から「日本ヘリクツター」「極道航空」と揶揄され[13]、大型機を擁する日本航空に小型機で挑む後発の立場から出発している。美土路昌一初代社長が掲げた「現在窮乏、将来有望」と、社員の間から自然に生まれた「追いつけ、追いこせ」の合言葉[14]が、その劣等感を前進の力に変えた。1957年10月25日の取締役会ではいったん「全日本航空」が新社名に決まった[15]が、「全日本」では日本航空と同格かそれ以上の印象を与え抵触のおそれがあるとして翌11月に差し戻され、極東航空の菅野和太郎社長の意見も容れて「全日本空輸」に落ち着いた[16]。
- 大空へ二十年(全日本空輸、1972)
- [12]後発の全日空は政府資本で先発した日本航空への対抗心を出発点とした
- [13]前身2社が日本航空との力量差から「日本ヘリクツター」「極道航空」と揶揄された
- [14]美土路昌一初代社長「現在窮乏、将来有望」・社員発の合言葉「追いつけ、追いこせ」
- [15]1957年10月25日の取締役会で新社名を「全日本航空」に決定
- [16]「全日本」は日本航空との抵触懸念で差し戻され、極東航空の菅野和太郎社長の意見を経て「全日本空輸」に決定
社名をめぐる難産は英文名にも及び、1957年10月25日の取締役会では「Pan Japan Airlines」と「All Japan Airlines」が候補にのぼって[17]、支持の多かった前者にいったん決まった。ところが報道された途端に米国人のA.C.King氏から「Panというのは南北米州を貫くという意味のものであり全日本という場合はAll Japanが正確である」[18]との意見が寄せられ、明治大学講師の山本釣氏や芸術大学の中村助教授にも判断を仰いだ。結論は、Japanをわざわざ使わずとも世界で通用するNipponを用いることとして「All Nippon Airways」に落ち着いた[19]。現場でも第二京浜国道で前を走る日航バスを思わず追い越したという逸話[20]が語り継がれ、「追いつけ、追いこせ」は掲げられた標語ではなく日々の業務感情として根づいた。
- 大空へ二十年(全日本空輸、1972)
- [17]1957年10月25日の取締役会で英文社名候補「Pan Japan Airlines」「All Japan Airlines」を審議し前者に決定
- [18]米国人A.C.Kingの指摘「Panは南北米州を貫く意味であり全日本ならAll Japanが正確」、明治大学講師の山本釣・芸術大学中村助教授にも意見を照会
- [19]Japanではなく世界で通用するNipponを採り、語呂から英文社名を「All Nippon Airways」に決定
- [20]第二京浜国道で日航バスを追い越した逸話に表れる「追いつけ、追いこせ」の現場文化
- 大空へ二十年(全日本空輸、1972)
- [12]後発の全日空は政府資本で先発した日本航空への対抗心を出発点とした
- [13]前身2社が日本航空との力量差から「日本ヘリクツター」「極道航空」と揶揄された
- [14]美土路昌一初代社長「現在窮乏、将来有望」・社員発の合言葉「追いつけ、追いこせ」
- [15]1957年10月25日の取締役会で新社名を「全日本航空」に決定
- [16]「全日本」は日本航空との抵触懸念で差し戻され、極東航空の菅野和太郎社長の意見を経て「全日本空輸」に決定
- [17]1957年10月25日の取締役会で英文社名候補「Pan Japan Airlines」「All Japan Airlines」を審議し前者に決定
- [18]米国人A.C.Kingの指摘「Panは南北米州を貫く意味であり全日本ならAll Japanが正確」、明治大学講師の山本釣・芸術大学中村助教授にも意見を照会
- [19]Japanではなく世界で通用するNipponを採り、語呂から英文社名を「All Nippon Airways」に決定
- [20]第二京浜国道で日航バスを追い越した逸話に表れる「追いつけ、追いこせ」の現場文化
ジェット化への着手と1966年の試練
1961年10月、全日空は東京・大阪証券取引所の市場第二部へ上場[21]し、機材導入の原資を資本市場から得る道を開いた。1960年7月に英国から導入したバイカウント744型機[22]に続き、1961年6月にはフレンドシップF-27型機とバイカウント828型機[23]、1965年3月にはボーイング727型機を投入[24]して、プロペラ機からジェット機への転換に着手した。バイカウントは東京-大阪をはじめ幹線の輸送力を高め、1969年5月にはボーイング737型機も加わった[25]。売上高は1961年3月期の24億円から1970年3月期の394億円へ[26]、10年で16倍に伸びた。
- ANAホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [21]1961年 東京・大阪証券取引所市場第二部に上場
- [22]1960年7月 バイカウント744型機を導入(英国から)
- [23]1961年6月 フレンドシップF-27型機・バイカウント828型機を導入
- [24]1965年3月 ボーイング727型機を導入
- [25]1969年5月 ボーイング737型機を導入
- 大空へ二十年(全日本空輸、1972)
- [26]売上高 1961年3月期24億円→1970年3月期394億円
成長は平坦ではなく、1966年2月4日には千歳発羽田行きの全日空60便(ボーイング727)が着陸進入中に東京湾へ墜落し、乗員乗客133名全員が犠牲になった[27]。当時としては世界最悪規模の単独機事故[28]で、同年は日本の航空界で大事故が相次いだ年でもあった。売上高は1966年3月期の170億円から1967年3月期に163億円へ落ち込み[29]、ジェット化で輸送力を伸ばす途上で信頼の回復が経営の課題となった。事故の前後から経営の立て直しを担ったのが、1969年に運輸事務次官から顧問として迎えられ翌1970年に社長へ就いた若狭得治氏[30]である。
- 大空へ二十年(全日本空輸、1972)
- [27]1966年2月4日 全日空60便(ボーイング727)が羽田沖に墜落、乗員乗客133名全員が死亡
- [28]当時世界最悪規模の単独機事故、1966年は日本の航空界で大事故が相次いだ年
- 全日本空輸 会社年鑑(1976年版)
- [29]売上高 1966年3月期170億円→1967年3月期163億円
- 日経ビジネス(1985年7月8日)
- [30]若狭得治 1969年に運輸事務次官から顧問として全日空入り、1970年に社長就任
- ANAホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [21]1961年 東京・大阪証券取引所市場第二部に上場
- [22]1960年7月 バイカウント744型機を導入(英国から)
- [23]1961年6月 フレンドシップF-27型機・バイカウント828型機を導入
- [24]1965年3月 ボーイング727型機を導入
- [25]1969年5月 ボーイング737型機を導入
- 大空へ二十年(全日本空輸、1972)
- [26]売上高 1961年3月期24億円→1970年3月期394億円
- [27]1966年2月4日 全日空60便(ボーイング727)が羽田沖に墜落、乗員乗客133名全員が死亡
- [28]当時世界最悪規模の単独機事故、1966年は日本の航空界で大事故が相次いだ年
- 全日本空輸 会社年鑑(1976年版)
- [29]売上高 1966年3月期170億円→1967年3月期163億円
- 日経ビジネス(1985年7月8日)
- [30]若狭得治 1969年に運輸事務次官から顧問として全日空入り、1970年に社長就任