1952年12月、第2次世界大戦で壊滅した日本の定期航空事業を再興する目的で、日本ヘリコプター輸送株式会社が資本金1億5千万円で設立された。ベル47D-1型の小型ヘリコプター2機を購入し、1953年2月に宣伝飛行で営業を開始、同年10月に定期航空運送事業の免許を取得して、12月から東京-大阪間の貨物輸送に参入した。1955年11月にダグラスDC-3型機を導入して固定翼の旅客輸送へ移り、1957年12月には社名を全日本空輸株式会社へ変更した。初期のヘリコプターは送電線のパトロールや農林業の薬剤散布にも用いられ、その稼ぎがD・H・ダブやヘロンによる固定翼旅客輸送の赤字を埋めた。
1958年3月、全日空は極東航空株式会社を合併し、新資本金6億円で東西に分立していた定期航空を一本化した。前身の日本ヘリコプター輸送と極東航空はいずれも復興期に乱立した小資本の航空会社で、狭い国土で2社がこまぎれに運航する非効率は早くから問題視されていた。1954年12月の航空審議会答申で従来の全国2社主義が1社主義に改められ、政府は両社の合併を強く促した。合併後の全日空は東京-大阪を軸とする幹線へ経営資源を集中し、1963年11月には藤田航空株式会社を吸収合併して資本金を46億5千万円へ積み増した。売上高は1958年3月期の7億円から1965年3月期の135億円へ伸びた。
ヘリコプター会社から総合航空会社への転換を駆動したのは、政府資本で先発した日本航空への対抗心だった。前身の2社は力量の差から"日本ヘリクツター""極道航空"と揶揄され、大型機を擁する日本航空に小型機で挑む後発の立場から出発している。美土路昌一初代社長が掲げた『現在窮乏、将来有望』と、社員の間から自然に生まれた『追いつけ、追いこせ』の合言葉が、その劣等感を前進の力に変えた。1957年10月25日の取締役会ではいったん"全日本航空"が新社名に決まったが、"全日本"では日本航空と同格かそれ以上の印象を与え抵触のおそれがあるとして翌11月に差し戻され、極東航空の菅野和太郎社長の意見も容れて"全日本空輸"に落ち着いた。
社名をめぐる難産は英文名にも及び、1957年10月25日の取締役会では"Pan Japan Airlines"と"All Japan Airlines"が候補にのぼって、支持の多かった前者にいったん決まった。ところが報道された途端に米国人のA.C.King氏から『Panというのは南北米州を貫くという意味のものであり全日本という場合はAll Japanが正確である』との意見が寄せられ、明治大学講師の山本釣氏や芸術大学の中村助教授にも判断を仰いだ。結論は、Japanをわざわざ使わずとも世界で通用するNipponを用いることとして"All Nippon Airways"に落ち着いた。現場でも第二京浜国道で前を走る日航バスを思わず追い越したという逸話が語り継がれ、『追いつけ、追いこせ』は掲げられた標語ではなく日々の業務感情として根づいた。
1961年10月、全日空は東京・大阪証券取引所の市場第二部へ上場し、機材導入の資金を株式で調達できるようになった。1960年7月に英国から導入したバイカウント744型機に続き、1961年6月にはフレンドシップF-27型機とバイカウント828型機、1965年3月にはボーイング727型機を投入して、プロペラ機からジェット機への転換に着手した。バイカウントは東京-大阪をはじめ幹線の輸送力を高め、1969年5月にはボーイング737型機も加わった。売上高は1961年3月期の24億円から1970年3月期の394億円へ、10年で16倍に伸びた。
成長は平坦ではなく、1966年2月4日には千歳発羽田行きの全日空60便(ボーイング727)が着陸進入中に東京湾へ墜落し、乗員乗客133名全員が犠牲になった。当時としては世界最悪規模の単独機事故で、同年は日本の航空界で大事故が相次いだ年でもあった。売上高は1966年3月期の170億円から1967年3月期に163億円へ減少し、ジェット化で輸送力を伸ばす途上で信頼の回復が経営の課題となった。事故の前後から経営の立て直しを担ったのが、1969年に運輸事務次官から顧問として迎えられ翌1970年に社長へ就任した若狭得治氏である。
社長の若狭得治氏のもとで、全日本空輸は1971年2月21日に羽田から香港へ国際チャーター第一便をボーイング727-100で飛ばした。根拠は1970年11月20日の閣議了解で、国際航空は原則として日本航空が一元的に運営すると定められた。全日空に認められたのは、日本航空との提携のもとで余裕機材を使う近距離国際チャーターだった。1972年7月1日の運輸大臣通達は国内幹線を5都市に限り、全日空の国際線をチャーター便にとどめた。1975年3月期の売上構成は、定期航空運送事業が97.2%、不定期航空運送事業が1.6%だった。閣議了解と通達による、国際定期線を日本航空1社に限る枠組みは、のちに45・47体制と呼ばれた。
1972年10月30日、全日本空輸の取締役会は大型機にロッキードL-1011トライスターの採用を承認した。東京-大阪はボーイング機で1日15往復に達し、羽田と伊丹の発着回数が逼迫して増便が難しかった。機材を大型化して需要に応じるほかなかった。元社長の大庭哲夫氏は、日本航空が1972年にDC-10を5機導入する予定で、東京-千歳などで対抗する必要があったと振り返っている。社内では技術部門がL-1011、経理部がB747SRを推し、社長の若狭得治氏は技術担当役員の意向を重んじて決めた。全日空は1973年1月12日に6機を正式に発注し、1974年3月10日に東京-沖縄線へ就航させた。
日本近距離航空は1974年3月13日、資本金6億円で発足し、同年5月には副社長の渡辺尚次氏が取締役を兼ねた。1972年5月の横浜航空の事故を受け、航空審議会は同年12月28日に離島・辺地の航空会社の集約を答申した。答申は出資比率を全日空30%、東亜国内航空20%、日本航空10%などとした。日本近距離航空は初年度に3億2千万円の欠損を計上し、全日空は1976年に出資比率を76.8%へ上げた。全日空は1978年3月の東京-大島線と東京-三宅島線から、YS-11の離島路線を順次移管した。大型機を幹線に集める一方、採算の取りにくい生活路線を別会社の費用で運ぶ体制に移したのだろう。
1976年12月17日、全日本空輸の取締役会と臨時株主総会は、若狭得治氏の会長就任と監査役の安西正道氏の社長就任を決めた。発端は同年2月4日の米上院小委員会で、ロッキード社の対日工作費を明かした証言だった。L-1011の選定にも疑惑が及び、若狭得治氏ら6人の役職員が外為法違反などで逮捕・起訴された。若狭得治氏は逮捕の直後に辞意を示したが、役員の慰留で会長として経営陣にとどまった。1982年1月26日の一審は執行猶予付きの有罪とし、控訴した若狭得治氏の刑は1992年9月に懲役3年・執行猶予5年で確定した。後任の安西正道氏は、若狭得治氏と同じ運輸省の出身だった。
1978年9月21日、国際航空貨物の専門会社として日本貨物航空が発足した。出資は全日本空輸と川崎汽船、日本郵船、大阪商船三井船舶、山下新日本汽船の5社で、比率は各20%だった。全日空は1970年11月から川崎汽船などと共同研究を進め、日本郵船が当初構想した日本航空との提携より計画が先行した。運輸省が海運会社の一本化を免許の前提とし、2つのグループは1978年6月に統合した。日本郵船の会長で、日本貨物航空の会長も務めた菊地庄次郎氏は、海上から空へ移る貨物を追うための参入と位置づけ、運航の知見を全日空に求めた。運輸省の免許は約4年棚上げされ、営業開始は1985年にずれ込んだ。
1979年10月1日、全日本空輸はB727とB737の後継にボーイング767を確定25機・オプション15機で導入すると決めた。1970年度に営業費の8.4%だった燃油費は、1980年度に30%を超す見込みだった。社長の安西正道氏は1980年、着陸料などの公租公課の引き上げと1979年度の燃料税倍増を挙げ、年度末の大幅な赤字を見込んだ。安西正道氏は対策として合理化と運賃の値上げを掲げた。1979年10月に総工費72億円で完成した乗員訓練センターは、実機訓練を減らして年間3000キロリットルの燃料を節約できるとした。燃費の低い中型機への更新は、本業の費用構造を立て直す手段だったと推察される。
1983年6月、中村大造氏が全日本空輸の社長に就任した。中村大造氏は1946年に運輸省に入り、1976年に事務次官となり、1978年の退官後は新東京国際空港公団の総裁を務めた。前任の安西正道氏と会長の若狭得治氏も運輸省の出身で、全日空には元運輸官僚が約200人いたとされる。社長就任の年には767の受け入れ準備が進み、1号機は1983年4月25日に受領する予定だった。767は主にローカル線に使う計画で、1,800mの滑走路でも運航でき、成田-香港などの近距離国際線にも使える機材だった。路線と運賃が認可で決まる業界で、官庁の手続きに通じた人材を経営陣に置く判断が続いたと思われる。
1985年4月30日の日米航空暫定協定は、日米双方が新たに3社ずつ太平洋路線に乗り入れると定め、全日本空輸に国際定期線への道を開いた。発端は日本貨物航空の米国乗り入れで、米国は1984年9月の交渉で反対し、12月に見返りの乗り入れを求めた。運輸省と全日空は日本側も複数社を乗り入れさせ、双方の枠を広げる案で応じた。交渉の間、会長の若狭得治氏の自宅には運輸省幹部が意見を聞きに通い、米側の交渉代表も面会を申し出た。運輸省は1985年9月、運輸政策審議会に航空企業の運営のあり方を諮問した。貨物子会社の懸案を、旅客の国際定期線を獲得する機会に結びつけたのは会長の若狭得治氏だったとみられる。
国際定期線への参入が認められた1985年、全日本空輸の国内線シェアは54%で、年間旅客数の上位20路線では58%を占めた。国際線の運航経験は、近距離チャーターと1984年9月からのハワイ・チャーター便に限られた。運輸政策審議会は1985年12月の中間答申を経て、1986年の最終答申で45・47体制は使命を終えたとした。全日空は米国5地点のうち3地点への乗り入れを希望し、その先に中国線を置いた。社長の中村大造氏は1986年、当面の方針を『国内線で稼ぎ、その余力で国際線をやるという状況ですね』と説明した。国内線の利益で国際線の立ち上げを賄う条件のもとで、全日空は次の時代に入ったと考えられる。
全日本空輸は1986年3月、東京-グアム線で初めての国際定期便を開設した。同年7月16日には成田からロサンゼルス線を、26日にはワシントン線を就航させた。ワシントンは日本からの直行便がなかった都市で、開設直後は空席が目立ったものの、1990年には通年の利用率が75%に達した。社長の中村大造氏は1986年12月、国際線は世界全体を対象にすると述べる一方、当分は国内線で稼いだ余力で運営すると説明した。中村大造氏は、国内では日本航空を追う立場から追われる立場に変わったとも述べ、組織の整備を課題に挙げた。近距離のグアムから入り、日本航空の飛んでいない都市を選んだのは、国内線の利益で吸収できる範囲に国際線の赤字を抑える判断だったとみられる。
1987年5月、副社長の近藤秋男氏が社長に就任した。前社長の中村大造氏が急逝したためで、日本ヘリコプター輸送に入社した近藤秋男氏は、全日本空輸で初めての生え抜き社長となった。初代の美土路昌一氏から中村大造氏まで、歴代の社長は社外から迎えた人物だった。近藤秋男氏は1989年10月、国際線進出後の3年間で社員に大企業意識が芽生え、サービスの姿勢が緩むことを警戒していると語った。1988年11月には企業体質改善委員会を設け、社員の意識と業務の改革に着手していた。国際線の後発として実績のある海外の航空会社と競うには、規模の拡大に社内の意識が追いつくことを先に整える必要があったのだろう。
1988年、日本航空と東日本旅客鉄道(JR東日本)は提携することで一致した。国際線中心の日本航空と東京以北の鉄道を営むJR東日本は、互いの市場が重ならない組み合わせだった。JR東日本社長の住田正二氏は、かつて社長含みの顧問として全日本空輸に入り、経営方針の対立から10カ月で退社した経歴を持っていた。国内線では規制緩和を受け、日本航空と日本エアシステムが全日本空輸の路線に参入していた。社長の近藤秋男氏は1989年10月、国内でも守りに回るのではなく、積極的に前へ出る姿勢を社員に求めた。1993年時点でも、全日本空輸は国内線で得た利益を国際線で費やす構図を抜け出せていなかった。
1990年6月、全日本空輸はワールドエアーネットワークを設立した。国際チャーター便を専門に運航する会社で、運航基地を東南アジアに置き、乗員は一部を除いて外国人を採用する方針をとった。チャーター便の運賃は正規の約6割で、日本人乗員を充てると採算割れになるため、取締役の吉川謙三氏は費用削減を最大の動機に挙げた。同じ1990年、全日本空輸は福岡-バンコク線で当面の赤字を問わず単独運航を打ち出し、日本航空との調整の末に路線を得た。全日本空輸は、ワシントン線を2〜3割の利用率から黒字にした実績を根拠に挙げていた。赤字を抱えた国際線を広げ続けるには、乗員の人件費を本体の水準から切り離す仕組みが要ると判断したと思われる。
全日本空輸は1989年7月、オーストリア航空との共同運航で東京-ウィーン線を開設した。直後に東欧の民主化が進み、1990年春にはオーストリア航空への出資比率を3.5%から9%に引き上げた。一方、1990年の日米路線の配分で全日本空輸はニューヨークとホノルルの2路線を求めたが、認められたのはニューヨーク線だけだった。1990年10月、全日本空輸は長期経営計画「2000年ビジョン」を策定した。専務の伊地知尚氏は、3大空港の完成で発着容量が倍近くに増えれば、日本航空の後を追うだけでは存続できないと説明した。1991年1〜2月には、全社員1万2682人から選んだ567人を研修し、職種を越えて課題を議論させる運動を始めた。
1993年6月、専務の普勝清治氏が社長に就任した。就任時には名古屋-ホノルル線の運休や成田-ワシントン線の減便など、国際線の縮小がすでに始まっていた。普勝清治氏は1993年を仕事を見切る年と定め、同年9月に社長直轄の緊急構造改革会議を設けた。1994年1月の構造改革プランでは、間接部門を2割縮め、1995年度末までに約1万5000人の人員を1割減らす目標を掲げた。日本の人件費は米国の1.8〜2倍で、747-400の年間飛行時間は米国の約5000時間に対し約2500時間だった。過去の不況は1年半から2年で回復したが、普勝清治氏は今回の不況は同じ経過をたどらないとみていた。
全日本空輸は1995年12月、ボーイング777型機を導入した。1996年時点で、全日本空輸は国内線の供給力の51%を占めていた。1社だけが運航する独占路線の旅客数は、日本航空の年間71万人に対し全日本空輸は632万人だった。運輸省の研究会がまとめた新運賃制度は、標準原価を上限に25%下までの範囲で各社が運賃を決める仕組みだった。国際線では1994年にビジネスクラスの座席間隔を50インチに広げ、1996年にはファーストクラスへフルフラットシートを入れた。1997年1月の経営者調査では、北米線と欧州線でいずれも日本航空を上回る首位となった。便数と独占路線で差を持つ国内線が、運賃の自由度が広がるほど全日本空輸の収益源として厚みを増す構図だったと考えられる。
1997年6月、専務の野村吉三郎氏が社長に就任した。名誉会長の若狭得治氏は1993年に普勝清治氏を社長に登用した際、3期目に次期社長候補を副社長に置くよう求めていた。普勝清治氏が後継候補を挙げないなか、会長の杉浦喬也氏は野村吉三郎氏と吉川謙三氏を副社長とする案を示した。普勝清治氏は複数副社長制と、若狭得治氏の側近である専務の飯島光雄氏の留任に反対し、社長を退くと伝えた。全日本空輸は5月13日に吉川謙三氏の社長就任を発表したが、29日に野村吉三郎氏の社長就任を発表し直した。若狭得治氏は名誉会長を、杉浦喬也氏は会長を退任し、普勝清治氏を含む3人は相談役に移った。
全日本空輸は1998年3月期に32億円の当期赤字を計上し、30年ぶりに無配となった。それまで航空機の売却益で利益を確保してきたが、売却できる機材は2機しか残っていなかった。社長の野村吉三郎氏は3年間の再建計画で、社員1000人の削減と人件費の年間100億円圧縮を掲げた。乗務の有無にかかわらず月65時間分を保障する手当の見直しをめぐり、乗員組合は1998年4月にストライキに入り、損害は40億円を超えた。国際線は開設以来赤字が続き、黒字の国内線がその負担を負っていた。全日本空輸はユナイテッド航空やルフトハンザと共同運航で提携していた。国内線の利益で国際線を支える構図が限界に近づき、単独で国際線網を維持する前提そのものが問われる段階に入ったと推察される。
全日本空輸(全日空)は1999年10月、ユナイテッド航空とルフトハンザ・ドイツ航空を含む6社の航空連合、スターアライアンスに加盟した。歴代社長は国際線の累積赤字を、路線の拡大と増便で解消しようとしてきた。全日空は新規参入による価格競争で収益を減らし、1998年3月期に30年ぶりの無配に転じた。社長の野村吉三郎氏は加盟を機に、コードシェアで提携先の便を使い、路線網を補う方針へ切り替えた。野村吉三郎氏は2000年、加盟による増収効果を年間100億円程度と見込んだ。自社便を増やし続けるより、提携先の路線網を使うほうが機材と人員への投資を抑えられると判断したのだろう。
全日空は2000年3月期に、連結売上高1兆2096億円に対して152億円の当期純損失を計上した。1999年10月時点で、原油の値上がりは全日空に年間100億円の負担増をもたらすと見込まれていた。機材の購入で有利子負債は1兆1100億円に膨らみ、株価は日本航空と100円を超える差がついた。全日空は赤字の続いた関西国際空港発のフランクフルト線とロンドン線を、2000年10月末に休止すると決めた。関西発のアジア路線は休眠中の子会社を組み替えて移し、本体より3割程度低い費用で運航する計画とした。国際線を縮めても、機材投資の負担と燃料費の上昇が重なり、利益の回復は2001年3月期まで遅れたとみられる。
2001年4月、野村吉三郎氏が会長に就任し、副社長兼販売本部長を務めた大橋洋治氏(61歳)が社長に就任した。前年の2000年2月に国内線の運賃が認可制から届け出制へ移り、1便に設定できる運賃の種類が増えていた。大橋洋治氏の率いる販売本部は1999年7月にディーリング部を設け、季節や曜日ごとの運賃設定を研究した。研究の成果として、販売本部は2000年4月に国内線の全区間を1万円均一とする割引運賃「超割」を投入した。全日空の2001年3月期は連結売上高1兆2796億円、経常利益635億円、当期純利益403億円に回復した。会長の野村吉三郎氏は、1995年から2年間のニューヨーク駐在も後継者を選ぶ理由の1つだったと認めた。
2001年11月、日本航空と日本エアシステムが経営統合を発表し、全日空は翌12月に反対の上申書を公正取引委員会に提出した。両社は2002年10月に日本航空システムを発足させ、国内線の便数で全日空とほぼ並んだ。社長の大橋洋治氏は2002年1月、アジアでの全日空の規模が日本航空の4分の1から5分の1にとどまると認めた。大橋洋治氏は国際線の赤字の原因を北米から先の接続が弱い路線網に求め、『今後は選択と集中で経営資源をアジアにシフトさせる』と述べた。2002年4月の成田空港の暫定滑走路の供用に合わせ、シンガポール線を1日1便、香港線と上海線を1日2便とする計画を示した。全日空は2003年3月期に、連結当期純損失283億円を計上した。
全日空は2003年2月、2005年度までに固定費を300億円削減する計画を発表し、うち200億円を管理職の給与と退職金の減額で賄うとした。2004年4月からはエアーニッポンとエアーニッポンネットワークの運航便もANA便名とし、国内線の便数で日本航空システムを下回らないようにした。大橋洋治氏は、日本航空システムと国内線の便数が並んだことを受け、『当社は量的な競争から質的な競争に経営の軸を改めなくてはならない』と述べた。大橋洋治氏は就任後、2004年3月期の復配を公約に掲げていた。同期の全日空の連結当期純利益は248億円となり、前期の純損失283億円から黒字に転じた。便数の拡大で競うのをやめ、顧客単価と費用で差を広げる方針へ切り替えたと推察される。
山元峯生氏は2005年4月、大橋洋治氏の後任として全日空の代表取締役社長に就任した。全日空は2006〜09年度中期経営戦略で国際線旅客と貨物郵便に経営資源を集中するとし、2007年6月にホテル事業を売却した。全日空は2008年3月期に、連結営業利益844億円、当期純利益641億円を計上した。ホテル事業資産の売却益で十分な利益を確保できたとして、同期の配当は1株5円とした。山元峯生氏は2007年10月のトップメッセージで、『アジアでクオリティ、顧客満足、価値創造でNo.1のエアラインになる』との目標を示した。航空と関係の薄い資産を現金に換え、2010年の発着枠拡大に向けた機材投資の余力を確保したと思われる。
全日空は2008年2月1日、2008〜2011年度の中期経営戦略を発表した。2011年度の目標には、連結営業利益1,200億円以上、売上高営業利益率7%以上、顧客満足度指標でのアジアNo.1を掲げた。成田空港の拡張は2010年3月、羽田空港の拡張は2010年10月に予定され、全日空は増える発着枠で増便する計画とした。2008〜2009年度は先行投資の期間とし、B787を含む省燃費機材59機の導入に航空機投資6,300億円を充てる計画とした。2008年5月には、B787初号機の受領が2009年7〜9月期にずれ込むと説明し、2008年度の配当予定を5円から3円に下げた。全日空は『2010 年の飛躍的な成長のための多額の先行投資が、中期経営戦略において肝要な点であることに変わりはありません』と説明した。
全日空は2009年1月30日、2009年3月期の当期純利益の予想を170億円から90億円の損失に改めた。下期の緊急コスト削減策に加え、役員報酬の削減やムンバイ線と成田-上海線の減便を含む第4四半期の追加策を実施した。2009年3月期は連結営業利益76億円にとどまり、2003年3月期以来6期ぶりに当期純損失42億円を計上した。2009年4月、山元峯生氏の後任として伊東信一郎氏が社長に就任した。同月の決算説明会で全日空は、国際線のビジネスクラス旅客数が前年比30%程度減少していると説明した。需要が戻らなければ、全日空は『変動費もカバーできない路線は休止するなど、大胆な路線の見直しなども実施をせざるをえない』と説明した。
全日本空輸は2010年3月期に57,387百万円の連結当期純損失を計上した。社長の伊東信一郎氏は同年3月の2010-11経営戦略で、羽田・成田の拡張を国際線拡大の機会に位置づけた。羽田・成田発着の国際旅客便数は、2011年度に2007年度の1.5倍の規模とする計画であった。一方で、公的資金を受けて再建に入った日本航空の路線見直しは、未決定を理由に計画へ織り込まなかった。提携ではユナイテッド航空・コンチネンタル航空と3社で独占禁止法の適用除外を申請し、2011年度夏ダイヤからの共同事業を目指した。費用削減は2012年度以降も続け、その狙いを『国際線のボラティリティに耐えられるようにすることがコンセプトです』と答えた。競合の縮小を計画の前提とせず、首都圏空港の増枠と提携で国際線を拡大する計画を立てたとみられる。
全日本空輸は2010年9月に格安航空への参入を発表し、2011年2月に関西空港を拠点とする新会社(後のピーチ・アビエーション)を設立した。同年8月にはマレーシアのエアアジアとの合弁で、成田を拠点とするエアアジア・ジャパンも設けた。新会社は全日空ブランドと切り離し、運賃を既存大手の半額程度に抑える設計とした。2011年3月の2か年計画では、資本参加するLCCの影響をまだ収支に織り込まなかった。2012年3月には欧州でLCCのシェアが30%に達している例を挙げ、首都圏で新規需要を掘り起こせると見込んだ。割引運賃の客の一部がLCCへ移ることも認め、グループ全体での増収を目標に置いた。拠点は『ネットワークキャリアとしての ANA は羽田と伊丹を中心に、LCC は成田と関空を中心に』と分けた。
全日本空輸は2011年8月にボーイング787型機を導入した。2011年3月の計画では2011年度に14機を受領し、乗員養成のため国内線で使い始めてから短距離・長距離の国際線へ広げるとした。787は戦略機材と位置づけ、導入を遅らせず原則として自社で保有する方針を示した。2010年3月の時点で、787と777-300ERを今後の主力機とし、可能な限り自社で保有する考えを示していた。2012年3月時点では5機が就航し、うち1機は羽田=フランクフルト線に入っていた。787は中型機でも長距離を飛べるため、大型機では需要の足りない路線にも就航できた。2012年度に計画したシアトル線とサンノゼ線がその例であった。
全日本空輸は2012年2月の中期経営計画で持株会社制への移行を発表し、2013年4月に商号をANAホールディングスへ変更した。持株会社の下には事業会社の全日本空輸、連結子会社のエアアジア・ジャパン、持分法適用のピーチ・アビエーションを並べた。伊東信一郎氏は持株会社の社長へ移り、全日本空輸の社長には副社長の篠辺修氏が就任した。移行にあわせてシェアードサービスセンターの設置を検討し、間接コストの削減効果は2014年度頃から出ると見込んだ。2013年5月には、エアアジア・ジャパンの2012年度実績が収入・利益とも計画を下回ったと説明した。原因を『日本マーケットへの適合という点で不十分な点があった』とし、2013年度に収支均衡とする目標を置いた。
ANAホールディングスは2014年2月の中期経営戦略で、国際線の生産量を大きく広げる計画を示した。拡大の最大の要因は羽田の国際線枠の増加であった。2010年度以降に座席キロを約60%増やしてきたが、それまでの路線は成田発と羽田の深夜・早朝便が中心だった。今後は『極めて競争力の高い羽田の昼間時間帯を利用して国際線ネットワークを拡大できる』とした。羽田発のドイツ線やジャカルタ・マニラ・ハノイ線は本邦航空会社でANAだけが運航し、昼間の便には国内線からほぼすべて乗り継げるダイヤを組んだ。2015年4〜6月の国際線の国内販売旅客数は前年比約4%増え、羽田発着を中心に広げた路線網の浸透を要因に挙げた。2016年10月には羽田=ニューヨーク線・シカゴ線も開設した。
ANAホールディングスは2015年9月、民事再生手続中のスカイマークの株式を取得した。スカイマークは同年1月に東京地方裁判所へ民事再生手続の開始を申し立て、3月に東証一部の上場を廃止していた。9月には再生計画の認可決定が確定し、資本金の全額減資と180億円の再生増資が行われた。ANAホールディングスは取得の目的を、航空関連事業の受委託の提携関係で増収等の相乗効果を見込めるためとした。再建の主軸は投資ファンドのインテグラル系が担い、ANAの出資は連結にも持分法にも含めない規模にとどまった。社長の片野坂真哉氏は2016年2月、首都圏空港の発着枠の再拡張を事業機会と捉える一方、競合の増便で競争が厳しくなると見ていた。羽田に発着枠を持つ独立系との提携関係を残し、再建の負担は投資ファンドに委ねたのだろう。
ANAホールディングスは2017年4月13日、ピーチ・アビエーションの株式28.3%を30,458百万円で追加取得した。議決権比率は38.7%から67.0%へ上がり、ピーチは子会社となった。取得原価は既保有分の時価を含めて72,025百万円、のれんは58,334百万円であった。ANAホールディングスは企業結合の理由を、事業ポートフォリオの最適化とデュアルマーケティングの推進とした。2018年2月の中期経営戦略では、バニラ・エアとピーチの2社で国内のローカル路線を拡大し、小型機でアジアの中距離路線にも就航する方針を示した。2社は2019年10月にピーチへ統合された。統合を前に、運航乗務員の確保が課題となり、2020年度のLCCの生産量を2017年度比約1.5倍から約1.3倍へ下げた。
ANAホールディングスは2016年2月の中期経営戦略で、エアバスA380型機を3機調達し、首都圏発のホノルル線に投入する計画を示した。それまでリゾート路線には注力しきれておらず、ホノルル線は中型機B767で1日3便を運航していた。ホノルル線の需要は10年以上高い水準で安定し、季節による変動もほぼなかった。A380は座席数が現行機の約2.5倍で、1機の運航費は上がるが1座席あたりの費用は下がると試算した。追加調達の予定はなく、部品のリースや重整備の外注で3機を運用するとした。2019年2月には787のエンジン問題で一部機材の稼働を抑えつつ、2019年度の国際旅客の生産量を8%増やす計画を示した。国際線の座席を積み増す計画が、787の稼働制約と並行して進んだと思われる。
ANAホールディングスの2019年3月期の連結売上高は2,058,312百万円、営業利益は165,019百万円であった。2018年2月の中期経営戦略では、2018〜20年度の合計フリーキャッシュフローを約500億円にとどめ、成長投資を先に進める計画とした。整備費と人件費も、安全と人への投資として増やす考えを示した。2019年5月には、2019年度の機材関連費用が約250億円、人材関連費用が約350億円増えると説明した。増加分について『2020 年度以降のネットワーク拡⼤に備えた前倒しの費⽤も含んでいます』と付け加えた。自社便と自前の機材で国際線を拡大したANAホールディングスは、固定費の重い事業構造のまま2020年を迎えたと推察される。
航空券の払い戻しが増え、2020年3月末の手元流動性は約2,400億円に減った。社長の片野坂真哉氏のもとで、ANAホールディングスは手元資金の確保を最優先に置いた。民間金融機関からの借入とコミットメントラインの増額を実施し、政府系金融機関とも融資の調整に入った。これらで9,500億円を確保できる見通しを5月に示した。航空事業の費用は固定費が約6割を占め、便を減らしても費用はすぐには縮まなかった。このため機材の受領を後ろ倒しし、一時帰休と役員報酬・管理職賃金の減額で年間人件費の約9%を抑える策を並べた。直前の2020年3月期の連結営業利益は60,806百万円だった。
2020年10月、ANAホールディングスは需要の回復が見通せないとして事業構造改革を打ち出した。機材を309機から276機へ減らし、2021年入社の新卒採用を中止し、社員の年収を前年比3割減とした。11月には最大1億4,000万株の新株を公募で発行し、約3,321億円を調達すると発表した。発行済株式の約4割にあたる規模で、財務の健全性を保ったまま構造改革を進める原資と位置づけた。あわせて劣後ローン4,000億円も借り入れていた。2021年2月には、年度の固定費削減額の見通しを10月の計画を上回る1,580億円とした。1日あたりの資金流出も、第1四半期の約19億円から第3四半期の約5億円へ縮んだ。それでも2021年3月期の連結営業損失は464,774百万円と過去最大になった。
2022年4月、代表取締役専務執行役員の芝田浩二氏が社長に就任し、片野坂真哉氏は代表取締役会長に移った。芝田浩二氏は1982年に入社し、2005年から提携を担うアライアンス室長を務めた経歴を持つ。交代時点の2022年3月期も連結営業損失は173,127百万円で、赤字は2期続いた。5月の説明会では、コスト構造改革で削減した固定費2,500億円のうち1,300億円は恒久的に効くと説明した。そのうえで、中期的に売上高2兆円・営業利益2,000億円の実現を目指すと掲げた。構造改革を設計した片野坂真哉氏が会長に残り、回復期の実行を芝田浩二氏に委ねる分担だったと思われる。
2023年2月、ANAホールディングスは2023〜2025年度の中期経営戦略を公表した。航空事業はANA・Peach・AirJapanの3ブランドを並べる構成とした。3ブランドの路線・ダイヤ・便数を機動的に配分し、市場シェアと利益を拡大する狙いである。前年5月の説明会では、国内線の出張客について『業務渡航を目的とする利用者がコロナ前の水準まで回復しない前提としています』と説明していた。中計もビジネス需要の回復は従来より緩やかとみて、レジャーと訪日客を伸びの中心に置いた。目標は2025年度に連結売上高23,200億円、営業利益2,000億円以上である。直前の2023年3月期は連結営業利益120,030百万円で、3期ぶりに黒字化していた。
中期経営戦略は、3本目のAirJapanを2023年度下期中に成田から中距離の国際線へ就航させると定めた。国際旅客の新たな収益源に育てる計画である。Peachは関西・成田を拠点に近・中距離路線に特化し、ANAは羽田・成田発の幹線を中心に運航を再開する割り振りである。国際旅客の生産量に占めるAirJapanの比率は、2023年度の0%から2025年度に5%へ上げる計画だった。2022年5月の説明会では、レジャー需要の強い目的地ならANA便をPeach便へ移管できると説明していた。出張需要の戻りが鈍いなか、AirJapanはANAとPeachの間に残る中距離のレジャー・訪日需要を受け持つ位置づけとみられる。
2024年3月期の連結売上高は2,055,928百万円、営業利益は207,911百万円となった。営業利益はコロナ後で初めて2,000億円を上回った。2023年度第3四半期の国際旅客の実質イールドはコロナ前比47%高く、訪日需要と日本発の出張需要が単価を支えた。国内線も6月に一部運賃を値上げし、その効果が第3四半期まで続いた。ただ2024年2月の説明会では、『今年度の好業績は、政府支援や国際線の需給の逼迫などの一時的な要因にも支えられた』と説明した。翌期に今期を上回る利益を目指すのは容易でないとの認識も示した。2023年5月には復配の時期を未定としていた。2024年5月、2024年3月期の配当を予定の1株当たり30円から50円へ増やした。
2025年4月、株主のLIM Japan Event Master Fundが定款変更2件を定時株主総会に付議するよう求めた。1件はグループで5年以上勤めた者を候補とする上場関連会社の取締役選任議案に、賛成票を投じることを禁じる条文である。提案の理由は、日本航空と合わせて約42%を持つ空港施設のPBRが約0.5倍にとどまる点を挙げた。もう1件は、他の株主との議決権の共同行使の合意を開示させる条文である。社長の芝田浩二氏が率いる取締役会は5月22日に2件とも反対を決議した。議決権の行使は取締役の業務執行に属し、定款で一律に縛るのは機動的な執行に適さないとした。6月27日の総会で2件は賛成8.4%と8.9%で否決された。
ANAは2026年5月19日搭乗分から、国内線の予約・搭乗ルールを国際線とそろえた。旅客サービスシステムの統合は2023年2月に、国内線運賃の刷新は2025年5月に公表済みだった。オンラインチェックインの画面と操作を共通にし、幼児の対象年齢と無料手荷物のルールも改めた。2026年5月には、新運賃体系と『直前の高単価需要を確実に獲得する精緻なレベニューマネジメント』で国内線の単価が前年を上回る見通しを示した。2026年3月期の連結営業利益は217,437百万円、売上高は2,539,233百万円だった。一方で中東情勢に伴う燃油価格の高騰を2026年度の利益計画に織り込み、緊急のコスト削減を決めた。運賃設計で国内線の単価を支えながら、燃油の振れを吸収できるかが現在の課題と推察される。
https://the-shashi.com/api/companies.json https://the-shashi.com/api/decisions.json https://the-shashi.com/api/api-manifest.json https://the-shashi.com/api/9202/company.json https://the-shashi.com/api/9202/history.json https://the-shashi.com/api/9202/ceo.json https://the-shashi.com/api/9202/financials.json https://the-shashi.com/api/9202/financials/segment.json https://the-shashi.com/api/9202/financials/pl.json https://the-shashi.com/api/9202/financials/cf.json https://the-shashi.com/api/9202/financials/bs.json https://the-shashi.com/api/9202/financials/employee.json https://the-shashi.com/api/9202/financials/stock.json https://the-shashi.com/api/9202/financials.csv https://the-shashi.com/api/9202/financials_history.csv | 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1952〜1970年ヘリコプター2機からの出発と国内総合航空会社化 | 美土路昌一 | 日本ヘリコプター輸送を設立 | ★★ | |
| 美土路昌一 | ヘリコプターで営業開始、定期航空運送事業免許を取得 | ★ | ||
| 美土路昌一 | 社名を全日本空輸に変更 | ★ | ||
| 美土路昌一 | 極東航空と合併 | ★★ | ||
| 美土路昌一 | バイカウント744型機を導入 | ★ | ||
| 岡崎嘉平太 | 東京・大阪証券取引所市場第二部に上場 | ★ | ||
| 岡崎嘉平太 | 藤田航空を吸収合併 | ★ | ||
| 岡崎嘉平太 | ボーイング727型機を導入 | ★ | ||
| 大庭哲夫 | ボーイング737型機を導入 | ★ | ||
| 1971〜1985年国際線不定期便とトライスター導入、日本近距離航空と日本貨物航空の設立 | 若狭得治 | 国際線不定期便の運航を開始(東京-香港) | ★ | |
| 若狭得治 | 東京証券取引所・大阪証券取引所の市場第一部に昇格 | ★ | ||
| 若狭得治 | ロッキードL-1011型機を導入 | ★ | ||
| 若狭得治 | 日本近距離航空(後のエアーニッポン)を設立 | ★ | ||
| 安西正道 | 日本貨物航空を設立、ボーイング747型機を導入 | ★ | ||
| 中村大造 | ボーイング767型機を導入 | ★ | ||
| 1986〜1998年国際定期便への参入とワールドエアーネットワーク、ボーイング777の導入 | 中村大造 | 国際定期便の運航を開始(東京-グアム) | ★★ | |
| 近藤秋男 | 全日空ビルディングが大阪証券取引所第2部に上場 | ★ | ||
| 近藤秋男 | ワールドエアーネットワーク(後のエアージャパン)を設立 | ★ | ||
| 普勝清治 | ボーイング777型機を導入 | ★ | ||
| 1999〜2009年スターアライアンス加盟と地域子会社の再編、6期ぶりの純損失 | 野村吉三郎 | 世界最大の航空連合への参加と「選択と集中」による経営再建 1999年10月、全日本空輸(全日空)が世界最大規模の航空企業連合スターアライアンスに加盟した経営判断。野村吉三郎社長が同年6月に発表した2002年度までの中期経営計画"選択と集中"の柱で、ルフトハンザ・ユナイテッドとのコードシェアで国際線を伸ばす一方、不採算路線と海外ホテルを整理して航空事業へ集約した。 詳細を読む | ★★★ | |
| 大橋洋治 | エアーニッポンネットワーク(後のANAウイングス)を設立 | ★ | ||
| 大橋洋治 | エアーネクスト設立、中日本エアラインサービスを子会社化 | ★ | ||
| 山元峯生 | 6期ぶりの純損失を計上 | ★★ | ||
| 伊東信一郎 | 伊東信一郎氏が社長に就任 | ★ | ||
| 2010〜2019年JAL破綻後の国際線拡大とANAホールディングス化、スカイマーク支援とPeach子会社化 | 伊東信一郎 | 競合の破綻を機とした、国内線中心の収益構造からの転換と路線網の組み替え 2010年1月の日本航空(JAL)破綻と日米オープンスカイ協定を機に、伊東信一郎社長のもとで全日本空輸(ANA)が国際線を主力事業に据えた経営判断。JALが撤退した路線の引き継ぎ、羽田空港の国際化、米ユナイテッド航空などとの共同事業、B787の投入で国際線を拡大し、国内線に偏った事業構造の転換を進めた。 詳細を読む | ★★★ | |
| 伊東信一郎 | 格安航空(LCC)への参入と二ブランド体制の構築 2010年9月9日、全日本空輸(ANA)が格安航空(LCC)への参入を発表した経営判断。伊東信一郎社長のもと、ANAブランドと切り離した別会社として、関西空港を拠点に運賃を大手の半額程度に抑える格安航空(後のピーチ・アビエーション)を立ち上げると決めた。翌2011年にはマレーシアのエアアジアとの合弁でエアアジア・ジャパン(後のバニラ・エア)も設立し、二つの格安ブランドで市場に参入した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 伊東信一郎 | 持株会社体制への移行とマルチブランド体制の構築 2013年4月1日、ANAが持株会社ANAホールディングスへ移行し、全日本空輸とLCC2社(エアアジア・ジャパンとピーチ・アビエーション)を傘下に並べるマルチブランド体制へ転換した経営判断。伊東信一郎社長が主導した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 片野坂真哉 | 片野坂真哉氏が社長に就任 | ★ | ||
| 片野坂真哉 | 経営破綻した独立系への少数出資と、連結に取り込まない距離の置き方 2015年9月、ANAホールディングスが、民事再生手続中のスカイマークの株式を取得した経営判断。再生計画の認可決定が確定し、資本金の全額減資と180億円の再生増資が行われたのと同じ月の取得であった。投資ファンドのインテグラル系のファンドが主軸となる再建の枠組みに加わりながら、ANA側の出資は連結にも持分法にも含めない規模にとどめられた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 片野坂真哉 | 独立系LCCの傘下入れによる低運賃市場への本格参入 2017年2月に発表し、同年4月13日に株式を取得して連結子会社とした経営判断。片野坂真哉社長のもとで、First Eastern Aviation Holdings Limitedと産業革新機構が持つピーチ・アビエーションの株式の一部を買い取り、議決権比率を38.7%から67.0%へ引き上げた。追加取得に支出した現金は304億58百万円、既に保有していた持分の時価を含めた取得原価は720億25百万円であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 2020〜2026年コロナ禍の過去最大の赤字と公募増資、芝田浩二体制での回復 | 片野坂真哉 | 過去最大級の資本調達と事業構造改革による自力再建の選択 2020年11月27日、ANAホールディングスが、公募増資などで最大約3,321億円を調達すると発表した経営判断。片野坂真哉社長のもとで、新型コロナウイルスによる旅客需要の蒸発を受け、発行済株式総数の約4割にあたる最大1億4,000万株を新規発行した。これに先立つ10月には劣後ローン4,000億円を借り入れ、事業構造改革と希望退職の募集にも着手した。 詳細を読む | ★★★ | |
| 片野坂真哉 | コロナ禍で過去最大の営業赤字 | ★★ | ||
| 芝田浩二 | 芝田浩二氏が社長に就任 | ★ | ||
| 芝田浩二 | コロナ後初の営業利益2,000億円超を達成 | ★ | ||
| 芝田浩二 | 上場関連会社への役員派遣と共同保有の開示を定款で縛る提案の否決と、議決権行使の裁量の維持 2025年4月11日付の書面で、株主であるLIM Japan Event Master Fundが、第80回定時株主総会の議題として定款一部変更2件の付議を求めた。上場子会社又は上場関連会社への天下りの禁止と、共同保有の開示である。 5月22日の取締役会は2件いずれにも反対することを決議し、6月27日の総会で第5号議案は賛成8.4%、第6号議案は賛成8.9%で否決された。可決には出席議決権の3分の2以上の賛成が要る。会社提案の第1号から第4号議案はすべて可決されている。 詳細を読む |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(ANAホールディングス)