結果

住友重機械工業の長期業績

1950年〜2023年
売上高
■単体 | ■連結 (単位:億円)
10,815億円
売上高:2023/12
売上高_当期純利益率
○単体 | ○連結
3%
利益率:2023/12
CF

キャッシュフローの長期推移

連結優先
営業CF
単位:億円
投資CF
単位:億円
財務CF
単位:億円
PL

売上高の長期推移

売上高・売上収益ベース(連結優先)| 単位:億円
PL

税引後利益の長期推移

税引後利益・当期純利益・当期利益ベース(連結優先)| 単位:億円
1934

住友機械製作所株式会社を設立

別子銅山向け鉱山機械が祖業

明治時代を通じて住友家は、主力鉱山である「別子銅山」において機械化投資を志向し、その一環として機械設備の内製化のために1888年に「住友別子鉱業所工作方」を発足した。このため工作方の設置が、住友重機械工業における創業とされる。

三菱財閥が重工業への投資を積極化したのに対して、住友財閥は鉱工業が中心であり、機械部門は鉱山向けの機械を主体とした。そのため事業展開においては出遅れたが、1934年に住友機械製作所株式会社を設立。産業機械を中心に本格的な事業展開に乗り出した。

新居浜1拠点体制で失敗

住友機械は、会社発足後も新居浜の1拠点による生産体制を志向。住友本社を経由して住友各社から受注した機械の生産に従事しており、鉱山機械に加えて、電線機械、化学機械、プレス機など「産業機械であれば何でも製造する」方針で販売を拡大した。

このため、住友グループにおける産業機械の供給部門であったが、サイクロ変速機の展開を除けば、産業機械の請負業に徹しており、能動的に事業を拡大する意思に乏しい企業であった。このため、住友グループ以外への外販努力がなされず、販売力に弱い機械メーカーとなった。

1888年
住友別子鉱業所工作方を発足
1928年
住友別子鉱山株式会社新居浜製作所に改称
1934年
住友機械製作所株式会社を設立
1940年
住友機械工業株式会社に商号変更
1945年
四国機械工業株式会社に商号変更
1952年
住友機械工業株式会社に商号変更(社名復元)
証言
関係者の証言(光島光三郎氏・1963年当時住友機械常務取締役)

おっしゃる通り、生まれと生い立ちは(注:競合の日立と)非常に似ていますから、やりようによってはもっと大きくなることも可能だったでしょう。

とにかく対外的に発展を阻害したというか、伸び悩んだ大きな原因は、第一に本拠が新居浜にあったということだと思いますね。第二にはちょうど住友機械として一本立ちになり出した頃は、戦争準備に入った時期でしたので、幸か不幸か海軍系統の仕事で手一杯で、民需を負わなくても経営が成り立つということがあったため、一般民需の注文をとって行こうという方針が積極的ではなかったというか、薄かったからでしょう。

所感
開発者コメント

同じ鉱山機械からスタートした日立製作所は、財閥の後ろ盾が弱いために、必死に外販することで大手電機メーカー・大手重工メーカーの一角に成長した。この結果、日立と住友機械(住友重機械)には埋め難い差が生じた。

とどのつまり「苦労して外販できるか」「グループ内の商売に安住するか」で明暗が分かれた観がある。

1935年
減速機に参入・独サイクロ社と提携

住友重機械では機械事業における遅れを挽回するために、戦前を通じて海外メーカーとのアライアンスによる産業機械の事業展開を志向した。

1938年にはドイツのサイクロ社と提携して、サイクロ減速機に参入。通常の原則きは「小さい歯車」と「大きい歯車」によって減速を実現するが、サイクロ減速機では「歯車」を活用せずに減速を可能にする点に特色があった。主に軽量小型かつ耐久性に優れる特色があったという。先発参入によって、サイクロ減速機は戦後の住友重機械における収益事業に育った。

1935年
独サイクロ社と提携
1937年
サイクロ減速機の生産開始
1974年
独サイクロ社を買収
出所
参考文献
経済時代 28(3), 1963年
1949年5月
東京証券取引所に株式上場
1954

社員30%を解雇・鮫島社長が引責辞任

総合化の志向で原価低減に失敗

戦前から住友機械(鮫島竜雄・当時社長)は住友グループ向けに販売してきたが、外販に注力せず、グループ外企業への販売に弱かった。決定打は終戦による財閥解体で、住友グループ企業から住友機械に発注する理由がなくなり、住友機械は市場競争に晒される形となった。

ところが、住友機械はコスト構造に課題があった。1952年時点で、愛媛県の新居浜工場の1拠点体制であり、約2,300名の従業員が製造に従事。生産品目の面では総合化を志向し「プレス機・輸送機械・運搬機械・鉱山機械・電線機械・化学機械・精錬機械・木工機械・減速機・変速機・耐酸ポンプ・ロール」など幅広く展開。合理化された専門工場を新設しなかったため、結果としてコスト改善に至らなかった。

この結果、材料費と労務費が高止まりし、競合の専業メーカーに受注を奪われ、住友機械は売上拡大が難しい状況に陥った。

自己資本比率4%台に低迷・資産再評価で債務超過を回避へ

住友機械は販売不振により、1954年3月期および1955年3月期の2期連続で赤字に転落した。特に、1955年3月期には最終赤字6.9億円を計上した。当時の住友機械の資本金は2.7億円であり、会社規模からして巨額赤字を計上した。

BSの面においては、1954年9月末時点で資産合計29.4億円に対して、負債合計28.0億円・資本合計1.3億円。住友機械の自己資本比率は4%に低迷し、債務超過寸前の状態に陥った。このため、大手財閥企業の経営危機として当時は注目を浴びた。

緊急対応として、住友機械は「再評価積立金(7.3億円)」の計上によって資本調達した上で、「再評価積立金取崩(6.9億円)」によって欠損を補填し、債務超過を逃れている。再評価した資産は非開示だが、保有する土地と推定される。

従業員30%を整理解雇・取締役のほぼ全員が引責辞任

合理化のために1954年に住友機械は従業員の30%に相当する約850名の解雇を発表。これを受けて労働組合が反発し、労働争議が発生するなど経営状態は混迷を極めた。なお、コスト高の最大の要因であった人員の削減によって、リストラ後の住友機械の業績が浮上する布石となっている。

ただし、経営責任を明確化するために、住友機械の鮫島社長をはじめとする取締役は、ほぼ全員が引責辞任した。以後、住友化学などの住友グループ企業の重役によって、住友機械の経営再建に乗り出した。

証言
実業の世界

住友機械は従来主として住友系事業会社からの受注によって経営を行ってきた。ところが戦後、住友系事業会社はいずれも一人歩きになった。戦前は住友系事業の一環として、住友本社の司令によって比較的高価に安易に各社から受注していた。戦後はそうはいかない。各社はいずれも一人歩きになったのだから、少しでも安い、優良品を制作する機械会社に発注する。背に腹は変えられぬからである。

ここで住友機械ははたと行き詰まった。今まで安易な生活に慣れ、社内の合理化が徹底せず、あらゆる方向に動脈硬化が起こっていた。同じ機械を製作しながら他社より原価が高くつく始末であった。慌てて従業員1000名を首切ってみたが、やはりうまくいかない。(略)

昨年3月期以来、赤字益々激増、任意積立金から第三次再評価積立金まで全部食い潰してしまったわけである。

所感
開発者コメント

ある種、必然的な経営危機であり、並の企業であれば存続できない財務状況。とはいえ、住友グループから手厚い経営支援を受けられた点で、この辺りはさすが大手財閥企業という感がある。

決算
住友重機械工業の業績
1955年3月期(単体)
売上高
26
億円
当期純利益
-6.97
億円
出所
参考文献
労働経済四季報 第5集, 1954年
株式会社年鑑 昭和31年版, 1956年
1961年
名古屋製造所を新設・生産合理化へ

工場新設による合理化を志向

1961年に愛知県大府市に名古屋製作所を新設し、新居浜工場で生産していた「サイクロ減速機」の生産を開始。生産設備に積極投資を行い、合理化を志向。住友機械にとっては、名古屋製造所の新設が新居浜における1拠点生産から脱する契機となった。

専門工場による合理化を志向

以後、1960年代を通じて住友機械は国内工場の新設を志向。新工場では合理化を志向することにより、業績改善のドライバーとなった。

1961年
名古屋製造所を新設(大府)
投資額(1期) 6 億円
1962年
平塚研究所を新設
1965年
千葉製造所を新設
証言
光島光三郎氏・住友機械常務取締役)

大府工場は2つの部門に分かれています。1つは(略)サイクロ減速機です。これは新居浜で作っていたものを、そのまま移転して、それにかなりの新鋭機械を加えて、生産規模をうんと大きくしたものです。もう一つは一般産業機械です。

決算
住友重機械工業の業績
1962年3月期(単体)
売上高
180
億円
当期純利益
9.4
億円
出所
参考文献
日証 (12). 1960年
経済時代 28(3), 1963年
1966年
射出成形機に参入・ネスタール社と提携
1965年
千葉製造所の操業開始
1966年
射出成形機に参入・ネスタール社と提携
1983年
DISK専用機を発売
1990年
SEシリーズの展開を開始
1992年
ネスタール社との提携解消
2000年
モダンマシナリー社を買収
2008年
独Demag社を買収
2011年
SE-EVシリーズを発売
1969
6月

住友機械工業と浦賀重工業が合併・住友重機械工業を発足

住友機械・浦賀重工業の合併(造船進出)

1969年6月に住友機械工業は、大手造船メーカーの浦賀重工業(従業員数約6,000名)と合併し、住友重機械工業を発足した。合併後の従業員数は合計約1万名であり、規模において大手機械メーカーの1社となった。

産業機械が専業の住友機械の狙いは、造船への進出を足がかりとして、売上規模を拡大することにあった。合併前の住友機械の主力事業は「製鉄関係機械・クレーン・コンベア・プレス機・減速機・建機」といった産業機械であったが、浦賀重工業の主力事業である「造船」が加わることで売上拡大が期待できた。

すなわち造船メーカーの合併によって、住友機械は「重工業」を目指した。

大型ドッグの建造を意図

造船メーカーの浦賀重工業が住友機械との合併を決めた理由は、大型化する造船ニーズに対応するためであった。

特に、普及しつつあった大型タンカーの製造には、大型ドッグの新設が不可欠であったものの、浦賀重工業の業績は低迷しており資金的な余力が存在しなかった。合併時点において、浦賀重工業の累積赤字は30億円であり、大手造船会社であったが財務基盤が脆弱でもあった。

そこで、住友グループである住友機械と合併することで金融面におけるボトルネックを解消し、大型船建造のための造船ドッグの新設によって、造船業界で生き残りを図る狙いがあった。

追浜造船所を新設

1972年に住友重機械工業は追浜造船所を新設。50万トンドッグを備えたことにより、大型タンカーの受注対応を可能にした。

1969年
6月
住友機械工業と浦賀重工業が合併・住友重機械工業を発足
1972年
5月
横須賀製造所を新設(旧追浜造船所)
証言
市川恒雄(住友重工業・社長)

さて当社、住友重機械工業は、去る6月30日に当時の資本金54億円の住友機械工業が浦賀重工業を10対5.5の比率で吸収合併し発足した。浦賀重厚から引き継いだ資本金は17億6000万円、したがって合併後の資本金は71億6000万円である。従業員は住友機械4000人、浦賀重工6000人を合わせて1万人をわずかに超える陣容となっている。

生産品目は、住友機械の製鉄関連機械、運搬機(クレーン、コンベア)、プレス機かい、化学機械等受注生産品に減速機、建設機械等の繰返生産品、これらに合併後は造船が加わっている。(略)

浦賀重工合併後に加わった船舶部門であるが、造船所は浦賀と横須賀に持っている。ただ、いずれも10万トンクラスまでの船舶しか建造できない造船所であるので、船舶の大型化に対処し、追浜に13万坪の埋立地を造成し、そこに30万トンの新造船ドックを建設する計画を立てた。

所感
開発者コメント

1970年代を通じて円高ドル安が進行し、国内の造船各社の業績が悪化。住友重機械も例外ではなく、1000名規模の人員削減を繰り返す事態に直面し、造船事業の縮小に至った。造船からの完全撤退は2024年であり、この間、住友重機械における問題事業であり続けた。

このため、浦賀重工業の合併は、長期スパンでは住友機械が「浦賀重工業の造船事業」という不採算事業を約半世紀にわたって背負う形となり、旧住友機械の利益が、旧浦賀重工業の赤字(すなわち造船業における雇用維持)に吸収される図式となった。

よって、浦賀重工業の合併に関しては、住友重機械の歴史における「最大の失策」と言えるかもしれない。

決算
住友重機械工業の業績
1970年3月期(単体)
売上高
904
億円
当期純利益
28
億円
出所
参考文献
週刊日本経済, 1968/4
日経ビジネス, 1974/5/13
1973年2月
愛媛製造所西条工場を新設
1978年
造船事業の人員削減を開始
1983年4月
米Eaton社と合弁設立・半導体製造装置に参入
1983年
高電流イオン注入装置NV-10の生産開始
1994年
愛媛事業所にクリーンルームを竣工
1997年
高電流イオン注入装置NV-GSD-HC3を開発(300mmウエハー対応)
2009年
合弁解消により住友重機械がSENを完全子会社化
1984年
長期ビジョンSHI'93を策定
1987年3月
希望退職者を募集

1985年のプラザ合意による円高ドル安の進行によって、国内における造船業の採算が一層悪化。1987年に住友重機械は造船部門を中心に大規模な人員削減を決定し、合計1,000名の希望退職者を募集した。

証言
合田茂(住友重機械・会長)

あんな経験は2度としたくない

1993/2/15 日経ビジネス
決算
住友重機械工業の業績
1987年3月期(単体)
売上高
2697
億円
当期純利益
-110
億円
1999年5月
大阪製鎖造機を買収
2002年1月
人員1000名削減・年収15%カットを実施
2003年4月
新日本造機を完全子会社化
1959年
廣造機に資本参加(新日本造機)
1982年
12月
新日本造機:東証2部に株式上場
2003年
4月
新日本造機を完全子会社化
2008年3月
独Demag Erfotech社を買収
2009年
SEN-SHIを完全子会社化

半導体製造装置の合弁会社SEN-SHI・アクセリスカンパニーについて、株式50%を取得して完全子会社化を決定。取得額は114億円

決算
住友重機械工業の業績
2010年3月期(連結)
売上高
5161
億円
当期純利益
132
億円
従業員数
15463
営業CF
575
億円
投資CF
-139
億円
財務CF
-266
億円
2011年3月
ベルギーHansen Industrial Transmissionsを買収
2013年4月
物流システムと機械式駐車場事業を子会社分離
2017年6月
オランダ・FW Energie社を買収
2018年6月
Lafert社を買収

イタリアの産業用モーターである製造販売会社Lafert社を買収。住友重機械が展開しているギア製品との相乗効果を意図した。

決算
住友重機械工業の業績
2019年3月期(連結)
売上高
9030
億円
当期純利益
456
億円
従業員数
22543
営業CF
551
億円
投資CF
-549
億円
財務CF
-133
億円
2019年11月
英Invertek Drivers社を買収
2021年
セグメント区分を変更

開示セグメントの区分変更を実施。事業の共通性に基づく区分に移行し、2010年代に採用していたセグメント開示を停止

決算
住友重機械工業の業績
2022年3月期(連結)
売上高
9439
億円
当期純利益
440
億円
従業員数
24584
営業CF
616
億円
投資CF
-496
億円
財務CF
-281
億円
2022年12月
住友重機械建機クレーンを完全子会社化
1986年
6月
建機事業を子会社分離(住友建機)
2001年
4月
クレーン事業を住友重機械建機クレーンに分離
2002年
7月
日立建機と合弁・日立住友重機械建機クレーンを設立
出資比率 50 %
2015年
10月
三菱重工マシナリーから産業用クレーン事業を取得
取得原価 50 億円
2017年
3月
日立住友重機械建機クレーンを子会社化
取得原価 50.2 億円
2022年
12月
住友重機械建機クレーンを完全子会社化
取得原価 73.2 億円
2024年2月
船舶事業から完全撤退
2002年
4月
造船部門を子会社に分離
2002年
4月
横須賀造船所(追浜)で新規受注を停止
2024年4月
半導体製造装置に投資積極化
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