三井E&S の歴史

創業

1917年

創業者

※三井物産造船部

創業地

岡山県玉野市

直近売上高(2025/3)

3,151億円

長期業績と転換点(1997/3〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ、毎期の欠損で廃止寸前だった三井物産の造船部が、戦前の有力造船会社として生き残れたのか
A 1923年の関東大震災が転機となった。関東の造船所が壊滅して関西へ修繕船が殺到し、救援・復興物資の輸送で船腹需要も急増したため、造船部は輸入古船の修繕28隻と震災で焼失した船の代替建造114隻を受注した。それまで毎期の欠損が続き、三井物産の首脳部には造船部廃止論が強かったが、この震災特需による活況で廃止論は立ち消えとなった。船舶部はこれを機に古船輸入の方針をあらため、経済的な優秀船の建造へ転換し、赤城山丸にデンマークB&W社のディーゼル機関を積んでわが国初の外航ディーゼル船とした。1926年8月に結んだB&Wとの製造販売実施権契約は、以後100年続く舶用エンジン事業の技術基盤となった
Q なぜ三井E&Sは、1917年から100年あまり続けた本業の造船から撤退したのか
A 1990年代以降、円高と中国・韓国の造船所の台頭で商船建造の採算が構造的に崩れ、そこへ2010年代に広げた海外プラント案件の工事損失が重なった。インドネシアの石炭火力をはじめとする海外プラントの工事損失引当金が表面化し、持株会社へ移行した直後の2019年3月期に、連結営業損失597億円・親会社株主帰属純利益696億円の赤字という創業以来最大の損失を計上、連結純資産は2018年3月期の2,394億円から2020年3月期の646億円へ約4分の1まで毀損した。市況に振られる商船を自力で続けるのは難しいと判断し、2021年10月に三井E&S造船株式49%を常石造船へ譲渡、艦艇事業を三菱重工業へ移し、2022年10月の追加譲渡で持分法適用会社として連結から外した。
Q なぜ造船という本業を手放した三井E&Sが、むしろ高収益の会社へ変われたのか
A 手元に残した事業が、舶用エンジンと物流システムだったからである。舶用エンジンは1926年のB&W技術提携以来の本流で、2023年4月にIHI原動機の舶用2ストロークディーゼル機関事業を承継(三井E&S DU)して世界市場での位置を強めた。物流システムは1988年に米国へ設けたPACECOのコンテナクレーン事業を源流とし、海洋FPSO(モデック)とともに商船が衰退するなかでも連結利益を支えてきた。造船の持分法適用化で連結売上は2022年3月期の5,794億円から2023年3月期の2,623億円へ半減したが、市況に振られる商船を外したことで本業の収益力はむしろ改善し、連結営業利益は2023年3月期94億円・2024年3月期196億円・2025年3月期231億円と3期続けて増え、連結純資産も2020年3月期の646億円から2025年3月期の1,699億円へ約2.6倍に回復した

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1917年〜 三井物産造船部からの出発と戦前造船重工の確立

  1. 1917年 三井物産造船部として宇野仮工場で創業
  2. 1919年 玉工場で操業開始
  3. 1926年 デンマークBurmeister & WainとB&W型舶用ディーゼル機関で業務提携
  4. 1937年 三井物産造船部の分離独立と株式会社玉造船所の設立 20年赤字を重ねた造船部を、三井物産はなぜ畳まず別会社として立てたか
  5. 1938年 化工機部門創設
  6. 1942年 三井造船に商号変更
  7. 1949年 東京・大阪証券取引所に株式上場

三井物産造船部の創立と玉野での造船所建設

三井造船は、三井物産の船舶部が自前の造船・修繕拠点を求めたことに始まる。船舶部長の川村は1916年から造船業の兼営を建議し、1917年10月に社長へ陳情書を提出した。用地は宇野湾に臨む岡山県児島郡日比町の玉・和田一帯に求められ、塩田・田畑・山林・宅地など合計18万6,000坪、地主145名におよぶ買収交渉を重ねた。地元は工場誘致のため期成同盟会を組織して世論を喚起し、玉・宇野ほかの漁業組合には賠償金を交付して、大正6年7月に漁業補償をまとめた。 [1][2][3]

  • 三井造船株式会社50年史(1968)
    • [1]玉野の造船所用地は塩田・田畑・山林・宅地など合計18万6,000坪、地主145名におよぶ買収だった
    • [2]三井物産船舶部長の川村が大正5年から造船業兼営を建議し大正6年10月に陳情書を提出した
    • [3]玉・宇野ほかの漁業組合へ賠償金を交付し大正6年7月に漁業補償をまとめた

用地取得を受け、大正6年11月2日の取締役会で造船部設置が可決され、同月14日の臨時株主総会で定款の営業目的に造船業を加えて、造船部が正式に発足した。事業所の所在地には岡山県児島郡宇野村が登録され、三井造船はこの11月14日を創業記念日としている。建設は大正6年に宇野仮工場と玉工場へ着手し、同年12月には早くも第一船の木船海正丸を宇野仮工場で進水させ、翌大正7年3月には鋼船第一船の三天丸を進水、玉工場の工事中だった同年10月には建造第一船の三仁丸を起工した。1919年5月には玉工場(現・玉野事業所)が操業を始め、瀬戸内海沿岸の造船拠点として規模を広げた。第一次世界大戦下の戦時造船需要が、三井物産に自前の造船拠点を持たせる背景にあった。 [4][5][6]

  • 三井造船株式会社50年史(1968)
    • [4]大正6年11月2日取締役会で造船部設置を可決、同月14日臨時株主総会で正式発足、11月14日を創業記念日とする
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [5]大正6年12月に宇野仮工場で第一船の木船海正丸を進水、大正7年3月に鋼船第一船三天丸を進水、同年10月に建造第一船三仁丸を起工した
  • 三井E&S 有価証券報告書
    • [6]1919年5月に玉工場(現・玉野事業所)が操業を開始した
  • 三井造船株式会社50年史(1968)
    • [1]玉野の造船所用地は塩田・田畑・山林・宅地など合計18万6,000坪、地主145名におよぶ買収だった
    • [2]三井物産船舶部長の川村が大正5年から造船業兼営を建議し大正6年10月に陳情書を提出した
    • [3]玉・宇野ほかの漁業組合へ賠償金を交付し大正6年7月に漁業補償をまとめた
    • [4]大正6年11月2日取締役会で造船部設置を可決、同月14日臨時株主総会で正式発足、11月14日を創業記念日とする
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [5]大正6年12月に宇野仮工場で第一船の木船海正丸を進水、大正7年3月に鋼船第一船三天丸を進水、同年10月に建造第一船三仁丸を起工した
  • 三井E&S 有価証券報告書
    • [6]1919年5月に玉工場(現・玉野事業所)が操業を開始した

震災特需とディーゼル化、戦前の法人確立

1923年の関東大震災は、皮肉にも造船部の存続を後押しした。関東の造船所が壊滅して関西へ修繕船が殺到し、救援・復興物資の輸送で船腹需要が急増したため、造船部は輸入古船の修繕28隻と、震災で焼失した船の代替建造114隻を受注した。それまで毎期の欠損が続き、三井物産の首脳部には造船部廃止論が強かったが、この震災特需による活況で廃止論は立ち消えとなった。船舶部は古船輸入の方針をあらため、経済的な優秀船の建造へ転換して、赤城山丸(4,631総トン)ほか5隻の建造を決めた。 [7][8][9]

  • 三井造船株式会社50年史(1968)
    • [7]関東大震災後、造船部は輸入古船の修繕28隻と震災で焼失した船の代替建造114隻を受注した
    • [8]毎期欠損で造船部廃止論が強かったが震災特需の活況で廃止論は立ち消えとなった
    • [9]古船輸入の方針をあらため優秀船の赤城山丸(4,631総トン)ほか5隻の建造を決めた

優秀船建造の核となったのがディーゼル化である。造機設計課長の岡本泰氏と船舶部の川合菊平氏を欧州へ派遣して機関方式を研究させ、1923年に起工した赤城山丸へデンマークのBurmeister & Wain(B&W、現Everllence SE)社製ディーゼル機関を搭載した。これがわが国初の外航ディーゼル船であり、その優れた航海成績が国内に大型ディーゼル船建造の気運を生んだ。1926年8月、三井造船はB&Wとディーゼル機関の製造販売実施権契約を締結し、これが以後の舶用エンジン事業の技術基盤となった。 [10][11][12]

  • 三井造船株式会社50年史(1968)
    • [10]赤城山丸はB&W社製ディーゼル機関を搭載したわが国初の外航ディーゼル船である
    • [11]造機設計課長の岡本泰氏と船舶部の川合菊平氏を欧州へ派遣して機関方式を研究させた
  • 三井E&S 有価証券報告書
    • [12]1926年8月にBurmeister & Wainとディーゼル機関の製造販売実施権契約を締結した

法人としての歩みも戦前に固まった。1937年7月、三井物産から分離独立して株式会社玉造船所を設立し、操業から20年を経て独立した造船会社となった。その後は1937年に艦艇課(のち艦艇部)を、1938年には人造石油事業に関連して化工課を設け、軍需と陸上プラントへ広げて1940年3月に海軍管理工場の指定を受けた。1942年1月6日に三井造船株式会社へ商号を変更し、同年6月に資本金を3,000万円へ増やして、戦標船や潜水艦を量産する戦時態勢を整えた。敗戦後は内外地の五工場を閉鎖して玉野造船所一本に集約し、1947年に始まった計画造船で再建の糸口をつかんだ。同年には播磨造船所とともにノルウェーから400総トン型捕鯨船を受注し、これが戦後日本の鋼製輸出船の第一号となった。1949年5月には東京・大阪の証券取引所へ株式を上場し、戦前から戦後への過渡期に法人独立・商号確立・株式公開を相次いで終えた。 [13][14][15][16][17]

  • 三井E&S 有価証券報告書
    • [13]1937年7月に三井物産から分離独立して株式会社玉造船所を設立した
    • [17]1949年5月に東京・大阪の証券取引所へ株式を上場した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [14]1937年に艦艇課(のち艦艇部)、1938年に人造石油事業に関連して化工課を設け、1940年3月に海軍管理工場の指定を受けた
    • [15]1942年1月6日に三井造船株式会社へ商号を変更し、同年6月に資本金を3,000万円へ増やした
    • [16]敗戦後に内外地五工場を閉鎖して玉野造船所へ集約し、1947年の計画造船で再建、同年播磨造船所とともにノルウェーから400総トン型捕鯨船を受注した(戦後日本の鋼製輸出船第一号)
  • 三井造船株式会社50年史(1968)
    • [7]関東大震災後、造船部は輸入古船の修繕28隻と震災で焼失した船の代替建造114隻を受注した
    • [8]毎期欠損で造船部廃止論が強かったが震災特需の活況で廃止論は立ち消えとなった
    • [9]古船輸入の方針をあらため優秀船の赤城山丸(4,631総トン)ほか5隻の建造を決めた
    • [10]赤城山丸はB&W社製ディーゼル機関を搭載したわが国初の外航ディーゼル船である
    • [11]造機設計課長の岡本泰氏と船舶部の川合菊平氏を欧州へ派遣して機関方式を研究させた
  • 三井E&S 有価証券報告書
    • [12]1926年8月にBurmeister & Wainとディーゼル機関の製造販売実施権契約を締結した
    • [13]1937年7月に三井物産から分離独立して株式会社玉造船所を設立した
    • [17]1949年5月に東京・大阪の証券取引所へ株式を上場した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [14]1937年に艦艇課(のち艦艇部)、1938年に人造石油事業に関連して化工課を設け、1940年3月に海軍管理工場の指定を受けた
    • [15]1942年1月6日に三井造船株式会社へ商号を変更し、同年6月に資本金を3,000万円へ増やした
    • [16]敗戦後に内外地五工場を閉鎖して玉野造船所へ集約し、1947年の計画造船で再建、同年播磨造船所とともにノルウェーから400総トン型捕鯨船を受注した(戦後日本の鋼製輸出船第一号)

1950年〜 戦後復興・高度成長と多拠点造船重工の完成

三井E&Sの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1958年 三友不動産を設立
  2. 1962年 千葉工場操業開始
  3. 1962年 日本開発機製造と合併
  4. 1964年 四国ドックに経営参加
  5. 1967年 藤永田造船所の吸収合併と合併比率5対4での株式交換 元禄創業の名門をどう取り込むか——開放経済下で三井造船が選んだ規模の作り方
  6. 1968年 千葉造船所50万重量屯建造ドック完成
  7. 1973年 由良工場操業開始

玉野一工場の集約経営から千葉への進出

戦後しばらく、三井造船は玉野造船所を唯一の工場とする一工場の集約経営で安定と成長を確保した。混乱から復興へ向かう時代に、一社一工場の方式は集約経営としての強みを発揮した。だが玉野は阪神地区より西に偏り、修繕需要の取り込みに限りがあったため、適地にサービスドックを設けることが戦前からの懸案であった。高度成長と海上貿易の拡大で船舶の専用船化・大型化が進み、いわゆる造船ブームのなかで、玉野だけの規模では発展力・競争力に限りが見えてきた。 [18][19]

  • 三井造船株式会社50年史(1968)
    • [18]戦後の三井造船は玉野造船所を唯一の工場とする一社一工場の集約経営を行った
    • [19]玉野は阪神地区より西に偏り、適地にサービスドックを設けることが戦前からの懸案だった

三井造船は首都経済圏に近い新工場を求め、1956年ごろから東京湾岸を調査した。川崎・大森は所要面積が得られず、本牧は地盤と風向きに難点があり、いずれも見送った。そのころ千葉県が五井・市原地区の公有水面を埋め立てて工場用地を造成する計画を進めており、埋立による土地造成を新規事業としていた三井不動産の江戸英雄社長からも市原地区の推薦を受けた。三井造船は1957年3月、千葉県の京葉地帯に165万平方メートル(50万坪)の用地割当を申請した。 [20][21]

  • 三井造船株式会社50年史(1968)
    • [20]三井不動産の江戸英雄社長から市原地区を工場用地として推薦された
    • [21]1957年3月に千葉県の京葉地帯へ165万平方メートル(50万坪)の用地割当を申請した

1962年5月に千葉工場が操業を始め、当初の5万7,000総トン建造ドックを軸に、「10万トン時代」の到来へ合わせてドックの大型化を進めた。1965年3月、千葉工場は「千葉造船所」へ改称して玉野造船所と並ぶ二大拠点となった。同年10月に15万重量屯ドック、1968年6月には50万重量屯ドックを完成させて、VLCC(大型原油タンカー)の建造能力を獲得した。瀬戸内の玉野に加え、首都圏に大型船建造の拠点を構えた意味は大きい。 [22][23][24]

  • 三井E&S 有価証券報告書
    • [22]1962年5月に千葉工場が操業を開始した
    • [24]1965年10月に15万重量屯ドック、1968年6月に50万重量屯ドックを完成しVLCC建造能力を獲得した
  • 三井造船株式会社50年史(1968)
    • [23]1965年3月に千葉工場を「千葉造船所」へ改称し玉野造船所と並ぶ二大拠点とした
  • 三井造船株式会社50年史(1968)
    • [18]戦後の三井造船は玉野造船所を唯一の工場とする一社一工場の集約経営を行った
    • [19]玉野は阪神地区より西に偏り、適地にサービスドックを設けることが戦前からの懸案だった
    • [20]三井不動産の江戸英雄社長から市原地区を工場用地として推薦された
    • [21]1957年3月に千葉県の京葉地帯へ165万平方メートル(50万坪)の用地割当を申請した
    • [23]1965年3月に千葉工場を「千葉造船所」へ改称し玉野造船所と並ぶ二大拠点とした
  • 三井E&S 有価証券報告書
    • [22]1962年5月に千葉工場が操業を開始した
    • [24]1965年10月に15万重量屯ドック、1968年6月に50万重量屯ドックを完成しVLCC建造能力を獲得した

藤永田造船所の合併と多角化の本格化

1967年10月、三井造船は株式会社藤永田造船所を合併した。藤永田は元禄2年(1689年)創業で、戦前は「駆逐艦の藤永田」とうたわれた名門であり、合併時の資本金19億4,900万円、従業員約2,000名を擁した。藤永田株5株につき三井造船株4株の比率で、大阪・木津川河口の本社工場と船町工場を承継した。約280年におよぶ独立企業の歴史を閉じた同社の化工機・鉄構技術も取り込み、三井造船は商船・タンカーを中心とする造船重工としての基本構造を1960年代までに整えた。以後も1973年4月の由良工場、1975年2月の玉野造船所海洋構造物建造ドック、1981年10月の大分事業所と拠点を広げた。 [25][26][27]

  • 三井造船株式会社50年史(1968)
    • [25]1967年10月に合併した藤永田造船所は元禄2年(1689年)創業で戦前は「駆逐艦の藤永田」とうたわれた
  • 三井E&S 有価証券報告書
    • [26]藤永田は合併時の資本金19億4,900万円・従業員約2,000名、合併比率は藤永田5株に三井造船4株だった
    • [27]1973年4月の由良工場、1975年2月の玉野造船所海洋構造物建造ドック、1981年10月の大分事業所と拠点を広げた

1970年代後半から1980年代にかけて、三井造船は本業の造船で培った技術と現場経験を周辺領域へ広げた。1978年6月に昭島研究所を開設し(1986年に三井造船昭島研究所として子会社化)、流体・構造解析の研究拠点を整えた。1985年10月に三造環境サービスを設立して環境エンジニアリングへ進み、1987年6月には三井造船プラント工事を設立してプラントエンジニアリングの母体を作った。造船の周りに研究・環境・プラントの事業を並べ、単一の造船会社から複合事業体へ広がる下地を整えた。 [28][29]

  • 三井E&S 有価証券報告書
    • [28]1978年6月に昭島研究所を開設(1986年に三井造船昭島研究所として子会社化)した
    • [29]1985年10月に三造環境サービス、1987年6月に三井造船プラント工事を設立した
  • 三井造船株式会社50年史(1968)
    • [25]1967年10月に合併した藤永田造船所は元禄2年(1689年)創業で戦前は「駆逐艦の藤永田」とうたわれた
  • 三井E&S 有価証券報告書
    • [26]藤永田は合併時の資本金19億4,900万円・従業員約2,000名、合併比率は藤永田5株に三井造船4株だった
    • [27]1973年4月の由良工場、1975年2月の玉野造船所海洋構造物建造ドック、1981年10月の大分事業所と拠点を広げた
    • [28]1978年6月に昭島研究所を開設(1986年に三井造船昭島研究所として子会社化)した
    • [29]1985年10月に三造環境サービス、1987年6月に三井造船プラント工事を設立した

1988年〜 周辺事業への多角化と海外プラントの蹉跌、構造不況下の経営危機

三井E&Sの業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1988年 大分・由良両子会社化、三井物産と共同でPACECO CORP.設立
  2. 1988年 モデックに経営参加
  3. 1989年 Burmeister & Wain Scandinavian Contractor A/Sを買収
  4. 1990年 MES Engineering Inc.を設立
  5. 2013年 川崎重工と三井造船の経営統合と白紙撤回(2013年破談) なぜ大手造船会社における経営統合が破談に至り、川崎重工の社長が解任されたのか?
  6. 2014年 昭和飛行機工業を公開買付けで子会社化
  7. 2018年 持株会社体制に移行し商号を三井E&SHDに変更

周辺事業への多角化と商船市況の悪化

1988年、三井造船は二つの多角化に踏み込んだ。10月に三井物産と共同で米国にPACECO CORP.を設立してコンテナクレーン事業へ乗り出し、12月には株式会社モデック(2003年に三井海洋開発へ改称)へ経営参加して海洋FPSO(浮体式生産貯蔵積出設備)事業へ加わった。この二つは、のちに商船建造が衰退するなかで連結利益を支える事業へ育つ。1989年12月にBurmeister & Wain Scandinavian Contractor A/Sを、1995年9月に英国Babcock Energy Limitedを買収(Mitsui Babcock Energy)して、プラントとボイラの欧州展開にも広げた。 [30][31][32]

  • 三井E&S 有価証券報告書
    • [30]1988年10月に三井物産と共同で米国PACECO CORP.を設立しコンテナクレーン事業へ進んだ
    • [31]1988年12月に株式会社モデック(2003年に三井海洋開発へ改称)へ経営参加し海洋FPSO事業へ加わった
    • [32]1989年12月にBWSC、1995年9月に英国Babcock Energy Limitedを買収(Mitsui Babcock Energy)した

一方で1990年代以降、円高と中国・韓国の造船所の台頭により、商船の競争環境は厳しくなった。三井造船の連結売上は2002年3月期の4,573億円から2010年3月期の7,659億円まで増え、同期に経常利益420億円・親会社株主帰属純利益197億円のピークを記録した。だがその裏で、商船セグメントは損益分岐点の維持が構造的に難しくなった。リーマンショック後の海運不況とコンテナ船・バルク船の発注減が、商船建造の採算を継続的に押し下げた。

  • 三井E&S 有価証券報告書
    • [30]1988年10月に三井物産と共同で米国PACECO CORP.を設立しコンテナクレーン事業へ進んだ
    • [31]1988年12月に株式会社モデック(2003年に三井海洋開発へ改称)へ経営参加し海洋FPSO事業へ加わった
    • [32]1989年12月にBWSC、1995年9月に英国Babcock Energy Limitedを買収(Mitsui Babcock Energy)した

再拡張したM&Aとインドネシア火力の工事損失

2010年代、三井造船はM&Aで再び事業領域を広げた。2014年3月に昭和飛行機工業を公開買付けで連結子会社化し、2015年10月にドイツのTGE Marine AG、2017年3月に加地テックを取り込んで、機械・システム事業の周辺へ手を伸ばした。だが本業の商船建造は2010年代半ばまでに恒常的な赤字基調へ転落し、連結営業利益は2017年3月期の83億円から、2018年3月期には▲52億円・親会社株主帰属純利益▲101億円と、連結ベースで初めての通期赤字を記録した。広げた事業領域と、沈む本業の差が開いた。 [33]

  • 三井E&S 有価証券報告書
    • [33]2014年3月に昭和飛行機工業を公開買付けで連結子会社化、2015年10月にTGE Marine AG、2017年3月に加地テックを取り込んだ

2018年4月、三井造船は不採算の商船を本体から切り離して各事業会社の収益責任を明確にするため、持株会社体制へ移行し、商号を三井E&Sホールディングスへ変更した。ところがその直後、海外プラント・EPC案件、なかでもインドネシアの石炭火力PT Tanjung Jati Bを含む案件の工事損失引当金が表面化した。エンジニアリングセグメントの営業損失は2019年3月期に▲797億円、連結は同期に営業損失▲597億円・親会社株主帰属純利益▲696億円という創業以来最大の赤字を計上した。2020年3月期も連結営業損失▲621億円・純損失▲862億円と赤字が続き、連結純資産は2018年3月期の2,394億円から2020年3月期の646億円へ、約4分の1まで毀損した。手を広げすぎた多角化のつけが、持株会社移行の直後に経営危機として噴き出した。 [34][35]

  • 三井E&S 有価証券報告書
    • [34]2018年4月に持株会社体制へ移行し商号を三井E&Sホールディングスへ変更した
    • [35]連結純資産は2018年3月期2,394億円から2020年3月期646億円へ約4分の1まで毀損した
  • 三井E&S 有価証券報告書
    • [33]2014年3月に昭和飛行機工業を公開買付けで連結子会社化、2015年10月にTGE Marine AG、2017年3月に加地テックを取り込んだ
    • [34]2018年4月に持株会社体制へ移行し商号を三井E&Sホールディングスへ変更した
    • [35]連結純資産は2018年3月期2,394億円から2020年3月期646億円へ約4分の1まで毀損した

2019年〜 造船からの撤退と舶用エンジン・物流システムへの特化

三井E&Sの業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 2019年 Engineers and Constructors International全株式売却
  2. 2021年 造船事業からの撤退と、舶用エンジン・港湾クレーンへの集約 創業事業を手放して何を残すか——インドネシア案件の損失が迫った事業再生
  3. 2021年 艦艇事業を三菱重工へ譲渡
  4. 2023年 IHI原動機の舶用大型エンジン事業を承継した新会社を取得
  5. 2023年 三井E&Sマシナリー・三井E&Sビジネスサービスを吸収合併し商号を三井E&Sに変更

赤字事業からの撤退と海外プラントの整理

経営危機の構造原因は、商船セグメントの恒常的な損失と、海外プラント案件の工事損失にあった。本体の資本毀損を止めるには、赤字事業からの撤退と海外事業の整理を同時に進めるほかなかった。三井E&Sは2019年12月にEngineers and Constructors Internationalの全株式を売却して米国EPC事業を整理し、2020年3月に昭和飛行機工業の全株を売却した。これは2014年の連結子会社化からわずか6年での撤退であり、同時に三井E&Sプラントエンジニアリングも手放した。2020年10月には三井E&S鉄構エンジニアリング株式70%を譲渡して鉄構事業をグループ外へ出し、2010年代のM&Aで広げた事業領域を一気に絞り込んだ。 [36][37]

  • 三井E&S 有価証券報告書
    • [36]2019年12月にEngineers and Constructors International全株式を売却して米国EPC事業を整理した
    • [37]2020年3月に昭和飛行機工業の全株を売却(2014年連結子会社化から6年)、2020年10月に鉄構エンジ株式70%を譲渡した

撤退は本業の造船にまで及んだ。岡良一社長のもとで2021年3月に千葉事業所の新造船事業を終え、2021年10月には三井E&S造船株式49%を常石造船へ譲渡すると同時に、艦艇事業を三菱重工業へ譲渡し、玉野事業所の新造船も終えた。船舶部門は1917年の創業から100年あまり続いた本業だったが、商船市況の構造的な悪化と海外造船所との競争のなかで、自力での継続は難しいと判断された。2022年10月に三井E&S造船株式17%を追加譲渡して持分法適用会社とし、後任の高橋岳之社長のもとで2025年4月には常石造船と株式譲渡合意書を締結して、造船事業からの完全撤退へ進んだ。連結セグメントからは「船舶」「海洋開発」「エンジニアリング」が消え、2023年3月期以降は「舶用推進システム」「物流システム」「成長事業推進」「周辺サービス」の4区分へ再編された。 [38][39][40][41][42]

  • 三井E&S 有価証券報告書
    • [38]2021年10月の三井E&S造船譲渡・艦艇事業譲渡は岡良一社長期
    • [39]2021年10月に三井E&S造船株式49%を常石造船へ譲渡し艦艇事業を三菱重工業へ譲渡、玉野の新造船を終えた
    • [40]2025年4月の常石造船との株式譲渡合意書締結は高橋岳之社長期(2022年4月就任)
    • [41]2022年10月に三井E&S造船株式17%を追加譲渡して持分法適用会社化、2025年4月に常石造船と株式譲渡合意書を締結した
    • [42]2023年3月期以降は舶用推進システム・物流システム・成長事業推進・周辺サービスの4区分へ再編された
  • 三井E&S 有価証券報告書
    • [36]2019年12月にEngineers and Constructors International全株式を売却して米国EPC事業を整理した
    • [37]2020年3月に昭和飛行機工業の全株を売却(2014年連結子会社化から6年)、2020年10月に鉄構エンジ株式70%を譲渡した
    • [38]2021年10月の三井E&S造船譲渡・艦艇事業譲渡は岡良一社長期
    • [39]2021年10月に三井E&S造船株式49%を常石造船へ譲渡し艦艇事業を三菱重工業へ譲渡、玉野の新造船を終えた
    • [40]2025年4月の常石造船との株式譲渡合意書締結は高橋岳之社長期(2022年4月就任)
    • [41]2022年10月に三井E&S造船株式17%を追加譲渡して持分法適用会社化、2025年4月に常石造船と株式譲渡合意書を締結した
    • [42]2023年3月期以降は舶用推進システム・物流システム・成長事業推進・周辺サービスの4区分へ再編された

舶用エンジン・物流中心の高収益事業体への再生

再生の軸となったのは、創業期から続く舶用エンジンと、PACECO以来の物流システム(コンテナクレーン・港湾荷役機械)である。2023年4月、三井E&SはIHI原動機の舶用2ストロークディーゼル機関事業を承継した新会社を取得して三井E&S DUへ改称し、1926年のB&W技術提携から続く舶用エンジンの基盤を世界市場で強めた。同月、グループ内の三井E&Sマシナリー・三井E&Sビジネスサービスを吸収合併して商号を三井E&Sへ戻し、「ホールディングス」を外した。2023年6月には監査役会設置会社から監査等委員会設置会社へ移行して、ガバナンスを改めた。 [43][44]

  • 三井E&S 有価証券報告書
    • [43]2023年4月にIHI原動機の舶用2ストロークディーゼル機関事業を承継した新会社を取得し三井E&S DUへ改称した
    • [44]2023年4月に三井E&Sマシナリー等を吸収合併し商号を三井E&Sへ戻し、2023年6月に監査等委員会設置会社へ移行した

舶用エンジンと物流システムへの集中は、財務の数字に表れた。連結売上は2022年3月期の5,794億円から2023年3月期の2,623億円へ半減したが、これは造船セグメントの持分法適用化に伴う連結除外が主因で、本業の収益力はむしろ改善した。連結営業利益は2023年3月期94億円・2024年3月期196億円・2025年3月期231億円と3期続けて増え、営業利益率も3.6%・6.5%・7.3%へ上がった。2025年3月期の親会社株主帰属純利益は391億円となり、連結純資産は2020年3月期の646億円から2025年3月期の1,699億円へ約2.6倍に回復した。 [45]

  • 三井E&S 有価証券報告書
    • [45]2025年3月期の親会社株主帰属純利益391億円、連結純資産は2020年3月期646億円から2025年3月期1,699億円へ約2.6倍に回復

三井E&Sの100年あまりの歴史は、商船造船で売上1兆円規模の主軸を担った時代・周辺への多角化・構造不況・2019年3月期の赤字転落・コア事業への特化という弧を描いてきた。1980年代後半に踏み込んだ米国コンテナクレーン(PACECO)と海洋FPSO(モデック)は、本業の商船が衰退するなかで連結利益を支える事業へ育った。逆に2014年の昭和飛行機買収を含む2010年代のM&Aで広げた領域は、赤字転落を境に大半が売却・撤退の対象となった。1917年の創業から続いた船舶部門を切り離し、舶用エンジンと物流システムへ特化した現在の事業構造は、本業を手放して周辺事業を主役へ据えた、日本の造船重工史のなかでも例の少ない経営転換である。 [46][47]

  • 三井E&S 有価証券報告書
    • [46]1980年代後半のPACECO(コンテナクレーン)とモデック(海洋FPSO)が商船衰退期に連結利益を支える事業へ育った
    • [47]1917年創業から続いた船舶部門を切り離し舶用エンジンと物流システムへ特化した
  • 三井E&S 有価証券報告書
    • [43]2023年4月にIHI原動機の舶用2ストロークディーゼル機関事業を承継した新会社を取得し三井E&S DUへ改称した
    • [44]2023年4月に三井E&Sマシナリー等を吸収合併し商号を三井E&Sへ戻し、2023年6月に監査等委員会設置会社へ移行した
    • [45]2025年3月期の親会社株主帰属純利益391億円、連結純資産は2020年3月期646億円から2025年3月期1,699億円へ約2.6倍に回復
    • [46]1980年代後半のPACECO(コンテナクレーン)とモデック(海洋FPSO)が商船衰退期に連結利益を支える事業へ育った
    • [47]1917年創業から続いた船舶部門を切り離し舶用エンジンと物流システムへ特化した

三井E&Sの沿革1917〜2023年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
三井物産造船部として宇野仮工場で創業★★
玉工場で操業開始
デンマークBurmeister & WainとB&W型舶用ディーゼル機関で業務提携★★
三井物産造船部の分離独立と株式会社玉造船所の設立20年赤字を重ねた造船部を、三井物産はなぜ畳まず別会社として立てたか 詳細を読む★★★
化工機部門創設★★
三井造船に商号変更
東京・大阪証券取引所に株式上場
加藤五一三友不動産を設立
田中繁松千葉工場操業開始
田中繁松日本開発機製造と合併
田中繁松四国ドックに経営参加
田中繁松藤永田造船所の吸収合併と合併比率5対4での株式交換元禄創業の名門をどう取り込むか——開放経済下で三井造船が選んだ規模の作り方 詳細を読む★★★
田中繁松千葉造船所50万重量屯建造ドック完成
山下勇由良工場操業開始
山下勇播磨工事を設立
山下勇伊達製鋼に経営参加
山下勇玉野造船所海洋構造物建造ドック完成
前田和雄昭島研究所を新設
前田和雄大分事業所操業開始
石井泰之助三井造船プラント工事設立
石井泰之助大分・由良両子会社化、三井物産と共同でPACECO CORP.設立
石井泰之助モデックに経営参加
石井泰之助Burmeister & Wain Scandinavian Contractor A/Sを買収
石井泰之助MES Engineering Inc.を設立
石井泰之助三幸実業出資で三幸物流を設立
星野二郎三幸実業と合併
星野二郎エム・ディー特機を設立
星野二郎Babcock Energy Limitedを買収
元山登雄三井造船鉄構工事が三造リフレ・運搬機エンジニアリング2社と合併
元山登雄新潟造船が新潟鐵工所から造船事業を譲受
元山登雄三井鉱山から資源循環事業・水環境事業を譲受
元山登雄ドーピー建設工業の株式取得し経営参加
加藤泰彦Mitsui Babcock Energy売却
田中孝雄川崎重工と三井造船の経営統合と白紙撤回(2013年破談)なぜ大手造船会社における経営統合が破談に至り、川崎重工の社長が解任されたのか? 詳細を読む★★★
田中孝雄昭和飛行機工業を公開買付けで子会社化★★
田中孝雄加地テックを公開買付けで子会社化
岡良一持株会社体制に移行し商号を三井E&SHDに変更★★
岡良一Engineers and Constructors International全株式売却
高橋岳之造船事業からの撤退と、舶用エンジン・港湾クレーンへの集約創業事業を手放して何を残すか——インドネシア案件の損失が迫った事業再生 詳細を読む★★★
高橋岳之艦艇事業を三菱重工へ譲渡★★
高橋岳之三井E&Sマシナリー・三井E&Sビジネスサービスを吸収合併し商号を三井E&Sに変更
高橋岳之IHI原動機の舶用大型エンジン事業を承継した新会社を取得★★
出典・参考
  • 三井造船株式会社50年史(1968)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 三井E&S 有価証券報告書

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