三井E&S の歴史

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創業 1917年
母体 三井物産造船部
創業地 岡山県玉野市
創業 1917年11月、三井物産が造船部を設け、岡山県玉野の宇野仮工場で操業を開始した
1917年11月、三井物産が造船部を設け、岡山県玉野の宇野仮工場で操業を開始した。1919年5月に玉工場が動き出し、1923年の関東大震災では関西へ修繕船と代替建造が集中して、廃止論の出ていた造船部は活況へ転じた。1926年8月にデンマークのB&Wと舶用ディーゼル機関の技術提携を締結し、1937年7月には三井物産から分離独立して株式会社玉造船所となった。1942年1月に三井造船へ商号を変更し、2018年4月の持株会社移行と2023年4月の再編を経て、社名から造船の語が消えた。
決断 祖業を守る順ではなく、採算の残る順に事業を落としてきた。1967年2月には業務提
祖業を守る順ではなく、採算の残る順に事業を落としてきた。1967年2月には業務提携先の藤永田造船所を吸収合併し、造船の規模で国内上位に並んだ。しかし1990年代以降の円高と中国・韓国の台頭で商船の採算が崩れ、2010年代に受注したインドネシアの石炭火力などで巨額の工事損失を計上した。2019年3月期の営業損失597億円・最終赤字696億円は創業以来最大で、連結純資産は2018年3月期の2,394億円から2020年3月期の646億円へ4分の1に減った。そこで2021年3月に造船からの撤退を決めて舶用エンジンと港湾クレーンへ集約し、1926年の技術提携から続く機関事業を手元に残した。
現況 造船を手放した後に残ったのは、船のエンジンと港のクレーンだった。2026年3月期
造船を手放した後に残ったのは、船のエンジンと港のクレーンだった。2026年3月期の売上高3,532億円は、舶用推進システム1,497億円、周辺サービス943億円、物流システム652億円、成長事業推進438億円で構成される。営業利益376億円のうち舶用推進システムが145億円、物流システムが139億円を占め、売上で2割に満たない港湾クレーンが利益では舶用エンジンとほぼ並ぶ。連結売上は2023年3月期に2,623億円へ半減したが、営業利益は94億円から4期続けて増え、連結純資産も646億円から1,699億円へ2.6倍になった。
競合 造船から降りるか残るかで、国内重工の並びは入れ替わった。三井造船は2013年に川
造船から降りるか残るかで、国内重工の並びは入れ替わった。三井造船は2013年に川崎重工業との経営統合を協議したが、条件が折り合わず不成立に終わり、構造不況を単独で抱えた。三菱重工業大型客船で巨額の損失を計上したのち商船から距離を取り、名村造船所佐世保重工業を傘下に収めたうえで2022年に新造船を止めている。舶用低速エンジンでは2023年4月にIHI原動機の2ストローク機関事業を引き継ぎ、国内の同業が数社に絞られるなかで生産量を積み増した。港湾クレーンでは中国勢の低価格に対し、米国子会社PACECOを通じた供給と保守で受注をつないでいる。
長期業績の推移 1938〜2026年
三井E&S:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2026年3月期

第1章 1917年〜 三井物産造船部からの出発と戦前造船重工の確立

1917年〜三井物産造船部の創立と玉野での造船所建設

三井造船は、三井物産の船舶部が自前の造船・修繕拠点を求めたことに始まる。創業当時の三井の中枢機構は持株会社の三井合名会社で、三井物産以下の傘下会社を統轄して財界に大きな支配力を持っていた。船舶部長の川村は1916年から造船業の兼営を建議し、1917年10月に社長へ陳情書を提出した。用地は宇野湾に臨む岡山県児島郡日比町の玉・和田一帯に求められ、塩田・田畑・山林・宅地など合計18万6,000坪、地主145名におよぶ買収交渉を重ねた。地元は工場誘致のため期成同盟会を組織して世論を喚起し、玉・宇野ほかの漁業組合には賠償金を交付して、大正6年7月に漁業補償をまとめた。

  • 三井造船三十五年史(1953)
    • [1]創業当時の三井の中枢機構は持株会社の三井合名会社で、三井物産以下の全傘下会社を統轄していた
  • 三井造船株式会社50年史(1968)
    • [2]三井物産船舶部長の川村が大正5年から造船業兼営を建議し大正6年10月に陳情書を提出した
    • [3]玉野の造船所用地は塩田・田畑・山林・宅地など合計18万6,000坪、地主145名におよぶ買収だった
    • [4]玉・宇野ほかの漁業組合へ賠償金を交付し大正6年7月に漁業補償をまとめた

用地取得を受け、大正6年11月2日の取締役会で造船部設置が可決され、同月14日の臨時株主総会で定款の営業目的に造船業を加えて、造船部が正式に発足した。事業所の所在地には岡山県児島郡宇野村が登録され、三井造船はこの11月14日を創業記念日としている。建設は大正6年に宇野仮工場と玉工場へ着手し、同年12月には早くも第一船の木船海正丸を宇野仮工場で進水させ、翌大正7年3月には鋼船第一船の三天丸を進水、玉工場の工事中だった同年10月には建造第一船の三仁丸を起工した。1919年5月には玉工場(現・玉野事業所)が操業を始め、瀬戸内海沿岸の造船拠点として規模を拡大した。第一次世界大戦下の戦時造船需要が、三井物産に自前の造船拠点を持たせる背景にあった。

  • 三井造船株式会社50年史(1968)
    • [5]大正6年11月2日取締役会で造船部設置を可決、同月14日臨時株主総会で正式発足、11月14日を創業記念日とする
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [6]大正6年12月に宇野仮工場で第一船の木船海正丸を進水、大正7年3月に鋼船第一船三天丸を進水、同年10月に建造第一船三仁丸を起工した
  • 三井E&S 有価証券報告書
    • [7]1919年5月に玉工場(現・玉野事業所)が操業を開始した

造船部の出発点は蒸気の機関であった。玉造船所の造機部門は蒸気レシプロ機関やボイラー、艤装部品を作る目的で置かれ、溶解能力が月40トンの鋳物工場から、120台の工作機械を備えた旋盤工場、2,600平方メートルの仕上組立工場までを構えた。現場の技能者養成も創業まもない1918年に始まり、実技と学習を重ねて、のちにディーゼル機関の製造を担う約280名の技能集団が形づくられた。しかし第一次世界大戦後の不況のなかで、海運界の関心は運航費の少ないディーゼル船へ移りつつあった。1920年に船鉄交換船の引渡しで渡米した造船設計課長の北郷七次は、欧米の造船界が総じて不況にあるなかデンマークのB&W社だけが盛況で、それは在来の蒸気機関では運航費の面でディーゼル機関に追随できないためだと報告した。

  • 三井造船のディーゼル50年(1976)
    • [8]玉造船所の造機部門は蒸気レシプロ機関・ボイラー・艤装部品を製造する目的で、溶解能力40トン/月の鋳物工場、120台の工作機械を持つ旋盤工場、2,600平方メートルの仕上組立工場などを備えて建設された
    • [9]現場技能者の養成は1918年に始まり、各工場職長以下約280名の技能集団体制が形成された
    • [10]1920年に渡米した造船設計課長・北郷七次は、欧米の造船界が不況のなかB&W社だけが盛況で、蒸気機関では運航費でディーゼル機関に追従しえないためと報告した
参考文献[1]-[10]
  • 三井造船三十五年史(1953)
    • [1]創業当時の三井の中枢機構は持株会社の三井合名会社で、三井物産以下の全傘下会社を統轄していた
  • 三井造船株式会社50年史(1968)
    • [2]三井物産船舶部長の川村が大正5年から造船業兼営を建議し大正6年10月に陳情書を提出した
    • [3]玉野の造船所用地は塩田・田畑・山林・宅地など合計18万6,000坪、地主145名におよぶ買収だった
    • [4]玉・宇野ほかの漁業組合へ賠償金を交付し大正6年7月に漁業補償をまとめた
    • [5]大正6年11月2日取締役会で造船部設置を可決、同月14日臨時株主総会で正式発足、11月14日を創業記念日とする
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [6]大正6年12月に宇野仮工場で第一船の木船海正丸を進水、大正7年3月に鋼船第一船三天丸を進水、同年10月に建造第一船三仁丸を起工した
  • 三井E&S 有価証券報告書
    • [7]1919年5月に玉工場(現・玉野事業所)が操業を開始した
  • 三井造船のディーゼル50年(1976)
    • [8]玉造船所の造機部門は蒸気レシプロ機関・ボイラー・艤装部品を製造する目的で、溶解能力40トン/月の鋳物工場、120台の工作機械を持つ旋盤工場、2,600平方メートルの仕上組立工場などを備えて建設された
    • [9]現場技能者の養成は1918年に始まり、各工場職長以下約280名の技能集団体制が形成された
    • [10]1920年に渡米した造船設計課長・北郷七次は、欧米の造船界が不況のなかB&W社だけが盛況で、蒸気機関では運航費でディーゼル機関に追従しえないためと報告した

1923年〜震災特需とB&W提携によるディーゼル化

1923年の関東大震災は、皮肉にも造船部の存続を後押しした。関東の造船所が壊滅して関西へ修繕船が殺到し、救援・復興物資の輸送で船腹需要が急増したため、造船部は輸入古船の修繕28隻と、震災で焼失した船の代替建造114隻を受注した。三井物産の首脳部では、毎期の欠損を理由に造船部を廃止すべきだとの声が強かった。その議論は、震災特需がもたらした活況のなかで消えていった。船舶部も古船を輸入する方針を捨て、採算に優れた船を自ら建造する道を選んだ。こうして建造が決まったのが赤城山丸(4,631総トン)ほか5隻で、建造は大正13年から翌14年にわたった。とりわけ赤城山丸は、のちに同社が栄える契機を生んだ商船とされている

  • 三井造船株式会社50年史(1968)
    • [11]関東大震災後、造船部は輸入古船の修繕28隻と震災で焼失した船の代替建造114隻を受注した
    • [12]毎期欠損で造船部廃止論が強かったが震災特需の活況で廃止論は立ち消えとなった
    • [13]古船輸入の方針をあらため優秀船の赤城山丸(4,631総トン)ほか5隻の建造を決めた

優秀船建造の核となったのがディーゼル化である。造機設計課長の岡本泰氏と船舶部の川合菊平氏を欧州へ派遣して機関方式を研究させ、1923年に起工した赤城山丸へデンマークのBurmeister & Wain(B&W、現Everllence SE)社製ディーゼル機関を搭載した。これがわが国初の外航ディーゼル船であり、その優れた航海成績が国内に大型ディーゼル船建造の気運を生んだ。調査は英国のヴィッカース社やドクスフォード社、オランダのウエルクスポール社、スイスのスルザー社にもおよんだが、最も優秀な機関を持つB&Wと1926年8月13日に製造販売実施権契約を締結し、三井造船はこの年を自社のディーゼル元年とした。

  • 三井造船株式会社50年史(1968)
    • [14]造機設計課長の岡本泰氏と船舶部の川合菊平氏を欧州へ派遣して機関方式を研究させた
    • [15]赤城山丸はB&W社製ディーゼル機関を搭載したわが国初の外航ディーゼル船である
  • 三井E&S 有価証券報告書
    • [16]1926年8月にBurmeister & Wainとディーゼル機関の製造販売実施権契約を締結した
  • 三井造船のディーゼル50年(1976)
    • [17]英国Vickers・Doxford、オランダWerkspoor、スイスSulzerなども調査した末にB&W機関が最も優秀と確認し、1926年8月13日に製造販売実施権を締結、同年を当社のディーゼル元年としている

図面を受け取るだけで機関が作れるわけではなかった。1926年、造機工作課長の斉藤実理以下、技師と鋳造・木型・機械・組立の職長ら7名をB&Wへ送り、とくに主要部材である大形高級鋳物の製造技術には技師1名を専念させた。契約前で工場内のスケッチを禁じられていたため、派遣者はポケットのなかで手さぐりに図を写し、わからない点は現地職長の自宅を訪ねて辞書を引きながら質したという。帰国後の1927年に鋳物研究室を置き、総面積1,100平方メートルのディーゼル機関組立工場を建設して7,000BHPの水制動機を据え、1928年に自社製第1号機となる高見山丸主機6125M(950BHP)を完成させた。燃料ポンプの調整には難渋し、輸入補機を分解して見よう見まねで合わせたと、担当者は後年に回想している。

  • 三井造船のディーゼル50年(1976)
    • [18]1926年に造機工作課長の斉藤実理ら7名をB&W社へ派遣し、大形高級鋳物の製造技術には技師1名を専念させた
    • [19]契約前でスケッチを禁じられ、ポケットの中で手さぐりに図を写し現地職長宅で質した。帰国後の第1番機では燃料ポンプの調節に苦労し輸入補機を分解して調節した
    • [20]1927年に鋳物研究室を設置し、総面積1,100平方メートルの第1ディーゼル工場を建設して7,000BHP水制動機を設置した
    • [21]1928年完成の高見山丸主機6125M(950BHP×160rpm)が当社ディーゼル機関の1番機である
    • [22]契約前でスケッチを禁じられ、ポケットの中で手さぐりに図を写し現地職長宅で質した。帰国後の第1番機では燃料ポンプの調節に苦労し輸入補機を分解して調節した
参考文献[11]-[22]
  • 三井造船株式会社50年史(1968)
    • [11]関東大震災後、造船部は輸入古船の修繕28隻と震災で焼失した船の代替建造114隻を受注した
    • [12]毎期欠損で造船部廃止論が強かったが震災特需の活況で廃止論は立ち消えとなった
    • [13]古船輸入の方針をあらため優秀船の赤城山丸(4,631総トン)ほか5隻の建造を決めた
    • [14]造機設計課長の岡本泰氏と船舶部の川合菊平氏を欧州へ派遣して機関方式を研究させた
    • [15]赤城山丸はB&W社製ディーゼル機関を搭載したわが国初の外航ディーゼル船である
  • 三井E&S 有価証券報告書
    • [16]1926年8月にBurmeister & Wainとディーゼル機関の製造販売実施権契約を締結した
  • 三井造船のディーゼル50年(1976)
    • [17]英国Vickers・Doxford、オランダWerkspoor、スイスSulzerなども調査した末にB&W機関が最も優秀と確認し、1926年8月13日に製造販売実施権を締結、同年を当社のディーゼル元年としている
    • [18]1926年に造機工作課長の斉藤実理ら7名をB&W社へ派遣し、大形高級鋳物の製造技術には技師1名を専念させた
    • [19]契約前でスケッチを禁じられ、ポケットの中で手さぐりに図を写し現地職長宅で質した。帰国後の第1番機では燃料ポンプの調節に苦労し輸入補機を分解して調節した
    • [20]1927年に鋳物研究室を設置し、総面積1,100平方メートルの第1ディーゼル工場を建設して7,000BHP水制動機を設置した
    • [21]1928年完成の高見山丸主機6125M(950BHP×160rpm)が当社ディーゼル機関の1番機である
    • [22]契約前でスケッチを禁じられ、ポケットの中で手さぐりに図を写し現地職長宅で質した。帰国後の第1番機では燃料ポンプの調節に苦労し輸入補機を分解して調節した

1930年〜三井物産からの分離独立と戦時下の拡張

1930年代の海運不況は、機関の販路を陸へ広げさせた。1932年にB&Wとのライセンス契約へ陸用機関と機関車用機関を加え、同年に日本製粉神戸工場へ納めた533MTS60(450BHP)が陸上進出の第1号機となった。輸入に頼っていたローラーチェンを椿本チェンとの共同研究で国産に切り替えるなど内作化も進み、1937年の年産は36基54,740BHPと戦前最高を記録した。規模が親会社の一部門に収まらなくなるなか、1937年7月に三井物産から分離独立して株式会社玉造船所を設立し、公称資本金1,000万円(うち払込500万円)で発足した。株式20万株のうち19万9,300株は三井物産が持ち、残りは発起人である役員7名が各100株を持つ役株にすぎなかった。

  • 三井造船のディーゼル50年(1976)
    • [23]1932年にB&Wとのライセンス契約へ陸用機関と機関車用機関を追加し、同年の日本製粉神戸工場向け533MTS60(450BHP)が陸上進出の1番機となった
    • [24]輸入ローラーチェンを椿本チェンとの協同研究で国産化するなど内作化を進め、1937年の年産実績は戦前最高の36基54,740BHPを記録した
  • 三井E&S 有価証券報告書
    • [25]1937年7月に三井物産から分離独立して株式会社玉造船所を設立した
  • 三井造船三十五年史(1953)
    • [26]独立時の資本金は1,000万円(うち払込500万円)、株式20万株のうち19万9,300株を三井物産が所有し、役員7名が各100株の役株を持った

独立後の拡張は軍需に沿って進んだ。1937年に艦艇課(のち艦艇部)を、1938年には人造石油事業に関連して化工課を設け、コッパース式瓦斯発生炉やメタン分解装置、常圧・加圧の石油合成器といった設備を手がけた。1940年3月に海軍管理工場の指定を受け、2サイクル単動トランク型の5,000BHP機関が戦時標準商船の標準機関に採用されると、これを年60基・約30万馬力で量産する岡山機械製作所の建設に着手したが、終戦とともに閉鎖された。1942年1月6日に三井造船株式会社へ商号を変更し、同年6月に資本金を3,000万円へ、1944年3月にはさらに6,000万円へ増やした。もっとも戦時標準船の多くがタービン主機を積んだため、機関事業は量的拡大のないまま終戦を迎えている。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [27]1937年に艦艇課(のち艦艇部)、1938年に人造石油事業に関連して化工課を設け、1940年3月に海軍管理工場の指定を受けた
    • [30]1942年1月6日に三井造船株式会社へ商号を変更し、同年6月に資本金を3,000万円へ増やした
  • 三井造船三十五年史(1953)
    • [28]化工機工事はコッパース式瓦斯発生炉・メタン分解装置・常圧および加圧の石油合成器・潤滑油製造装置などにおよんだ
    • [31]1944年1月に未払込株金を徴収して3,000万円全額払込済とし、同年3月の増資で資本金を6,000万円とした
  • 三井造船のディーゼル50年(1976)
    • [29]1940年に海軍指定工場となり、5,000BHP機関が戦時標準商船の標準機関に採用され、年60基約30万馬力を量産する岡山機械製作所の建設に着工したが終戦とともに閉鎖され、戦標船のタービン搭載などで量的拡大のないまま終戦となった
    • [32]1940年に海軍指定工場となり、5,000BHP機関が戦時標準商船の標準機関に採用され、年60基約30万馬力を量産する岡山機械製作所の建設に着工したが終戦とともに閉鎖され、戦標船のタービン搭載などで量的拡大のないまま終戦となった

敗戦は法人の姿を作り替えた。内外地の五工場を閉鎖して玉野造船所へ集約し、1947年の計画造船で再建の糸口をつかんだ。同年、播磨造船所とともにノルウェーから受注した400総トン型捕鯨船は、戦後日本の鋼製輸出船第一号となった。財閥解体で三井本社が1946年に解散すると株式は持株会社整理委員会へ移り、1947年7月末には同委員会が78%にあたる945,800株の議決権を握った。証券処理調整協議会を通じて放出された株式は当時の株式総数の93.55%にのぼり、株主構成は一変した。戦時補償の打切りで約6,700万円の損失を負って特別経理会社となり、1949年3月認可の企業再建整備計画で1,500万円の形式減資と9,500万円の増資を行って資本金を1億4,000万円とした。同年5月に東京・大阪の証券取引所へ上場し三井物産の一部門から公開会社へ移り終えた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [33]敗戦後に内外地五工場を閉鎖して玉野造船所へ集約し、1947年の計画造船で再建、同年播磨造船所とともにノルウェーから400総トン型捕鯨船を受注した(戦後日本の鋼製輸出船第一号)
  • 三井造船三十五年史(1953)
    • [34]三井本社は1946年9月に解散して所有株式を持株会社整理委員会へ譲渡し、1947年7月末に同委員会が当社株式945,800株(78%)の議決権を持った
    • [35]証券処理調整協議会の放出対象となった当社株式は1,122,700株で、減増資前の株式総数120万株の93.55%にあたり、株主構成は画期的に変化した
    • [36]戦時補償特別税により約6,700万円の損失を生じ、会社経理応急措置法にもとづく特別経理会社として1946年8月10日に新旧勘定を分離した
    • [37]1949年3月認可の企業再建整備計画により1,500万円の形式減資と9,500万円の増資を行い、資本金を1億4,000万円(全額払込280万株)とした
  • 三井E&S 有価証券報告書
    • [38]1949年5月に東京・大阪の証券取引所へ株式を上場した
参考文献[23]-[38]
  • 三井造船のディーゼル50年(1976)
    • [23]1932年にB&Wとのライセンス契約へ陸用機関と機関車用機関を追加し、同年の日本製粉神戸工場向け533MTS60(450BHP)が陸上進出の1番機となった
    • [24]輸入ローラーチェンを椿本チェンとの協同研究で国産化するなど内作化を進め、1937年の年産実績は戦前最高の36基54,740BHPを記録した
    • [29]1940年に海軍指定工場となり、5,000BHP機関が戦時標準商船の標準機関に採用され、年60基約30万馬力を量産する岡山機械製作所の建設に着工したが終戦とともに閉鎖され、戦標船のタービン搭載などで量的拡大のないまま終戦となった
    • [32]1940年に海軍指定工場となり、5,000BHP機関が戦時標準商船の標準機関に採用され、年60基約30万馬力を量産する岡山機械製作所の建設に着工したが終戦とともに閉鎖され、戦標船のタービン搭載などで量的拡大のないまま終戦となった
  • 三井E&S 有価証券報告書
    • [25]1937年7月に三井物産から分離独立して株式会社玉造船所を設立した
    • [38]1949年5月に東京・大阪の証券取引所へ株式を上場した
  • 三井造船三十五年史(1953)
    • [26]独立時の資本金は1,000万円(うち払込500万円)、株式20万株のうち19万9,300株を三井物産が所有し、役員7名が各100株の役株を持った
    • [28]化工機工事はコッパース式瓦斯発生炉・メタン分解装置・常圧および加圧の石油合成器・潤滑油製造装置などにおよんだ
    • [31]1944年1月に未払込株金を徴収して3,000万円全額払込済とし、同年3月の増資で資本金を6,000万円とした
    • [34]三井本社は1946年9月に解散して所有株式を持株会社整理委員会へ譲渡し、1947年7月末に同委員会が当社株式945,800株(78%)の議決権を持った
    • [35]証券処理調整協議会の放出対象となった当社株式は1,122,700株で、減増資前の株式総数120万株の93.55%にあたり、株主構成は画期的に変化した
    • [36]戦時補償特別税により約6,700万円の損失を生じ、会社経理応急措置法にもとづく特別経理会社として1946年8月10日に新旧勘定を分離した
    • [37]1949年3月認可の企業再建整備計画により1,500万円の形式減資と9,500万円の増資を行い、資本金を1億4,000万円(全額払込280万株)とした
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [27]1937年に艦艇課(のち艦艇部)、1938年に人造石油事業に関連して化工課を設け、1940年3月に海軍管理工場の指定を受けた
    • [30]1942年1月6日に三井造船株式会社へ商号を変更し、同年6月に資本金を3,000万円へ増やした
    • [33]敗戦後に内外地五工場を閉鎖して玉野造船所へ集約し、1947年の計画造船で再建、同年播磨造船所とともにノルウェーから400総トン型捕鯨船を受注した(戦後日本の鋼製輸出船第一号)

第2章 1950-1987 (気が向いたら執筆します!) 千葉造船所と藤永田造船所の合併、玉野の海洋構造物ドックと大分事業所

第3章 1988-2012 (気が向いたら執筆します!) PACECOとモデックへの参加、B&W・Babcockの買収と資源循環事業の譲受

第4章 2013-2026 (気が向いたら執筆します!) 川崎重工との統合の白紙撤回から持株会社化、造船・艦艇事業の譲渡と三井E&Sへの改称

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歴史年表 1917〜2023年

三井E&Sの沿革1917〜2023年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1917〜1949年三井物産造船部からの出発と戦前造船重工の確立三井物産造船部として宇野仮工場で創業★★
玉工場で操業開始
デンマークBurmeister & WainとB&W型舶用ディーゼル機関で業務提携★★
商社の一部門からの独立と、造船専業会社としての新たな出発

1937年7月31日、三井物産は1917年に設けた造船部を分離独立させ、株式会社玉造船所を設立した。登記は同年8月2日。岡山県児島郡の玉工場を拠点に、商社の一部門であった造船事業が独立の資本と決算を持つ会社になった。1942年1月に社名を三井造船へ改め、現在の三井E&Sにつながる。

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化工機部門創設★★
三井造船に商号変更
加藤五一東京・大阪証券取引所に株式上場
1950〜1987年千葉造船所と藤永田造船所の合併、玉野の海洋構造物ドックと大分事業所加藤五一三友不動産を設立
田中繁松千葉工場操業開始
田中繁松日本開発機製造と合併
田中繁松四国ドックに経営参加
田中繁松合併比率5対4の株式交換による同業造船所の取り込み

1967年2月28日、三井造船は株式会社藤永田造船所と合併契約に調印した。三井造船を存続会社、藤永田造船所を解散会社とし、藤永田株5株に対し三井造船株4株の割合で株式を交換する内容で、同年5月末の両社株主総会の承認を経て10月1日に合併が実現した。1965年3月の業務提携を一段進めた再編であった。

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田中繁松千葉造船所50万重量屯建造ドック完成
山下勇由良工場操業開始
山下勇播磨工事を設立
山下勇伊達製鋼に経営参加
山下勇玉野造船所海洋構造物建造ドック完成
山下勇昭島研究所を新設
前田和雄大分事業所操業開始
末長一志三井造船プラント工事設立
1988〜2012年PACECOとモデックへの参加、B&W・Babcockの買収と資源循環事業の譲受石井泰之助大分・由良両子会社化、三井物産と共同でPACECO CORP.設立
石井泰之助モデックに経営参加
石井泰之助Burmeister & Wain Scandinavian Contractor A/Sを買収
石井泰之助MES Engineering Inc.を設立
石井泰之助三幸実業出資で三幸物流を設立
石井泰之助三幸実業と合併
星野二郎エム・ディー特機を設立
星野二郎Babcock Energy Limitedを買収
元山登雄三井造船鉄構工事が三造リフレ・運搬機エンジニアリング2社と合併
元山登雄新潟造船が新潟鐵工所から造船事業を譲受
元山登雄三井鉱山から資源循環事業・水環境事業を譲受
元山登雄ドーピー建設工業の株式取得し経営参加
元山登雄Mitsui Babcock Energy売却
加藤泰彦公共工事をめぐる三件の独占禁止法違反と、45日間の営業停止を経た体制の立て直し

2007年3月、水門工事の入札に関して公正取引委員会から排除措置命令及び課徴金納付命令を受けた。し尿処理施設建設工事の入札談合でも排除措置命令を受け、会社と関係者1名が大阪地方検察庁により起訴されて2007年4月23日に有罪判決(罰金刑)を受けている。 先行していた鋼橋上部工事の入札談合では2006年11月に東京高等裁判所から有罪判決(罰金刑)を受け、それに伴い2007年2月から3月にかけて、鋼構造物工事業に関し45日間の営業停止処分を受けた。

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2013〜2026年川崎重工との統合の白紙撤回から持株会社化、造船・艦艇事業の譲渡と三井E&Sへの改称田中孝雄経営統合構想の白紙撤回と、単独での造船事業の継続

2013年、造船再編をにらんで川崎重工と三井造船が経営統合を交渉したが、約3か月で破談した案件。

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田中孝雄昭和飛行機工業を公開買付けで子会社化★★
田中孝雄加地テックを公開買付けで子会社化
田中孝雄持株会社体制に移行し商号を三井E&SHDに変更★★
岡良一Engineers and Constructors International全株式売却
岡良一造船事業からの撤退と、舶用エンジン・港湾クレーンへの集約

2019年5月に策定した三井E&Sグループ事業再生計画のもと、2021年3月29日の取締役会で三井E&S造船の艦艇事業等を吸収分割で新会社へ承継したうえ、その全株式を三菱重工業へ譲渡することを決議した。 2021年10月1日、艦艇事業の譲渡と同時に、商船事業を主な事業とする三井E&S造船の株式49%を常石造船へ譲渡した。2022年10月3日には17%を追加譲渡して持分は34%となり、同社と新潟造船・MES由良ドックは連結の範囲から外れて持分法適用関連会社となった。

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岡良一艦艇事業を三菱重工へ譲渡★★
高橋岳之事業持株会社体制への転換と同じ年に進めた、コンパクトな経営体制への組み替え

2023年6月28日、第120回定時株主総会における定款一部変更の決議を経て、監査役会設置会社から監査等委員会設置会社へ移行した。目的として掲げたのは、組織集約・再編に沿ったコンパクトな経営体制への移行を図ること、事業戦略及びリスクのある案件に関しより深い議論を行う環境を整えることの二つである。 移行時の取締役会は、監査等委員である取締役を除く取締役4名と監査等委員である取締役3名の計7名で構成された。うち社外取締役は3名で、そのうち2名が監査等委員である。

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高橋岳之三井E&Sマシナリー・三井E&Sビジネスサービスを吸収合併し商号を三井E&Sに変更
高橋岳之IHI原動機の舶用大型エンジン事業を承継した新会社を取得★★
出典・参考 5件
出典・参考
  • 三井E&S 有価証券報告書
  • 三井造船三十五年史(1953)
  • 三井造船株式会社50年史(1968)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 三井造船のディーゼル50年(1976)

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