歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1917年、第一次大戦の戦時造船需要を受けて三井物産が宇野仮工場で造船部を立ち上げ、1937年に株式会社玉造船所として独立、1942年に三井造船へ改めた。1926年にデンマークのBurmeister & Wainと結んだB&W型舶用ディーゼル機関の技術提携は、船を建てる本業とは別系統で、以後100年続く舶用エンジン事業の始まりになった。
決断戦後、千葉造船所の50万重量トンドックでVLCC建造に進み、藤永田造船所を合併して商船重工を拡大した。だが1990年代以降、円高と中国・韓国勢の台頭で商船建造の採算が崩れ、2010年代に広げた海外プラント案件の工事損失も重なって、FY18には連結営業損失597億円・純損失696億円、純資産は2,394億円から646億円へ毀損した。100年続いた本業の造船を、常石造船への株式譲渡で手放した。
現況三井E&Sは近年、配当を連続で引き上げ、危機対応から株主還元へ経営の力点を移した。2010年代末の連続赤字で傷んだ財務を立て直したうえで、艦艇・防衛と舶用機関の受注増を原資に増配を重ねている。2023年には中期経営計画を毎年更新するローリング方式へ改め、株主に1〜3年先の配当・投資目標を細かく開示した。市況に左右される商船建造を外したことが、純粋持株会社として安定した株主配分を掲げられる前提を作った。
決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く
- Q なぜ、毎期の欠損で廃止寸前だった三井物産の造船部が、戦前の有力造船会社として生き残れたのか
- A 1923年の関東大震災が転機となった。関東の造船所が壊滅して関西へ修繕船が殺到し、救援・復興物資の輸送で船腹需要も急増したため、造船部は輸入古船の修繕28隻と震災で焼失した船の代替建造114隻を受注した。それまで毎期の欠損が続き、三井物産の首脳部には造船部廃止論が強かったが、この震災特需による活況で廃止論は立ち消えとなった。船舶部はこれを機に古船輸入の方針をあらため、経済的な優秀船の建造へ転換し、赤城山丸にデンマークB&W社のディーゼル機関を積んでわが国初の外航ディーゼル船とした。1926年8月に結んだB&Wとの製造販売実施権契約は、以後100年続く舶用エンジン事業の技術基盤となった。
- Q なぜ三井E&Sは、1917年から100年あまり続けた本業の造船から撤退したのか
- A 1990年代以降、円高と中国・韓国の造船所の台頭で商船建造の採算が構造的に崩れ、そこへ2010年代に広げた海外プラント案件の工事損失が重なった。インドネシアの石炭火力をはじめとする海外プラントの工事損失引当金が表面化し、持株会社へ移行した直後の2019年3月期に、連結営業損失597億円・親会社株主帰属純利益696億円の赤字という創業以来最大の損失を計上、連結純資産は2018年3月期の2,394億円から2020年3月期の646億円へ約4分の1まで毀損した。市況に振られる商船を自力で続けるのは難しいと判断し、2021年10月に三井E&S造船株式49%を常石造船へ譲渡、艦艇事業を三菱重工業へ移し、2022年10月の追加譲渡で持分法適用会社として連結から外した。
- Q なぜ造船という本業を手放した三井E&Sが、むしろ高収益の会社へ変われたのか
- A 手元に残した事業が、舶用エンジンと物流システムだったからである。舶用エンジンは1926年のB&W技術提携以来の本流で、2023年4月にIHI原動機の舶用2ストロークディーゼル機関事業を承継(三井E&S DU)して世界市場での位置を強めた。物流システムは1988年に米国へ設けたPACECOのコンテナクレーン事業を源流とし、海洋FPSO(モデック)とともに商船が衰退するなかでも連結利益を支えてきた。造船の持分法適用化で連結売上は2022年3月期の5,794億円から2023年3月期の2,623億円へ半減したが、市況に振られる商船を外したことで本業の収益力はむしろ改善し、連結営業利益は2023年3月期94億円・2024年3月期196億円・2025年3月期231億円と3期続けて増え、連結純資産も2020年3月期の646億円から2025年3月期の1,699億円へ約2.6倍に回復した。
歴史詳細 - 4つの時代区分で読み解く
1917年〜1949年 三井物産造船部からの出発と戦前造船重工の確立
三井物産造船部の創立と玉野での造船所建設
三井造船は、三井物産の船舶部が自前の造船・修繕拠点を求めたことに始まる。船舶部長の川村は大正5年(1916年)から造船業の兼営を建議し、大正6年(1917年)10月に社長へ陳情書を提出した[2]。用地は宇野湾に臨む岡山県児島郡日比町の玉・和田一帯に求められ、塩田・田畑・山林・宅地など合計18万6,000坪、地主145名におよぶ買収交渉を重ねた[1]。地元は工場誘致のため期成同盟会を組織して世論を喚起し、玉・宇野ほかの漁業組合には賠償金を交付して、大正6年7月に漁業補償をまとめた[3]。
用地取得を受け、大正6年11月2日の取締役会で造船部設置が可決され、同月14日の臨時株主総会で定款の営業目的に造船業を加えて、造船部が正式に発足した[4]。事業所の所在地には岡山県児島郡宇野村が登録され、三井造船はこの11月14日を創業記念日としている。1919年5月には玉工場(現・玉野事業所)が操業を始め[5]、瀬戸内海沿岸の造船拠点として規模を広げた。第一次世界大戦下の戦時造船需要が、三井物産に自前の造船拠点を持たせる背景にあった。
震災特需とディーゼル化、戦前の法人確立
1923年の関東大震災は、皮肉にも造船部の存続を後押しした。関東の造船所が壊滅して関西へ修繕船が殺到し、救援・復興物資の輸送で船腹需要が急増したため、造船部は輸入古船の修繕28隻と、震災で焼失した船の代替建造114隻を受注した[6]。それまで毎期の欠損が続き、三井物産の首脳部には造船部廃止論が強かったが、この震災特需による活況で廃止論は立ち消えとなった[7]。船舶部は古船輸入の方針をあらため、経済的な優秀船の建造へ転換して、赤城山丸(4,631総トン)ほか5隻の建造を決めた[8]。
優秀船建造の核となったのがディーゼル化である。造機設計課長の岡本泰氏と船舶部の川合菊平氏を欧州へ派遣して機関方式を研究させ[10]、1923年に起工した赤城山丸へデンマークのBurmeister & Wain(B&W、現Everllence SE)社製ディーゼル機関を搭載した。これがわが国初の外航ディーゼル船であり、その優れた航海成績が国内に大型ディーゼル船建造の気運を生んだ[9]。1926年8月、三井造船はB&Wとディーゼル機関の製造販売実施権契約を締結し[11]、これが以後の舶用エンジン事業の技術基盤となった。
法人としての歩みも戦前に固まった。1937年7月、三井物産から分離独立して株式会社玉造船所を設立し[12]、操業から20年を経て独立した造船会社となった。1942年1月には三井造船株式会社へ商号を変更し[13]、社名に三井の名を冠した。1949年5月、東京・大阪の証券取引所へ株式を上場して資本市場へ参入し[14]、戦前から戦後への過渡期に法人独立・商号確立・株式公開を相次いで終えた。B&W提携で得た舶用エンジンの技術は、この独立後も玉造船所の競争力を支えた。
1950年〜1987年 戦後復興・高度成長と多拠点造船重工の完成
玉野一工場の集約経営から千葉への進出
戦後しばらく、三井造船は玉野造船所を唯一の工場とする一工場の集約経営で安定と成長を確保した[15]。混乱から復興へ向かう時代に、一社一工場の方式は集約経営としての強みを発揮した。だが玉野は阪神地区より西に偏り、修繕需要の取り込みに限りがあったため、適地にサービスドックを設けることが戦前からの懸案であった[16]。高度成長と海上貿易の拡大で船舶の専用船化・大型化が進み、いわゆる造船ブームのなかで、玉野だけの規模では発展力・競争力に限りが見えてきた。
三井造船は首都経済圏に近い新工場を求め、昭和31年(1956年)ごろから東京湾岸を調査した。川崎・大森は所要面積が得られず、本牧は地盤と風向きに難点があり、いずれも見送った。そのころ千葉県が五井・市原地区の公有水面を埋め立てて工場用地を造成する計画を進めており、埋立による土地造成を新規事業としていた三井不動産の江戸英雄社長からも市原地区の推薦を受けた[17]。三井造船は1957年3月、千葉県の京葉地帯に165万平方メートル(50万坪)の用地割当を申請した[18]。
1962年5月に千葉工場が操業を始め[19]、当初の5万7,000総トン建造ドックを軸に、「10万トン時代」の到来へ合わせてドックの大型化を進めた。1965年3月、千葉工場は「千葉造船所」へ改称して玉野造船所と並ぶ二大拠点となった[20]。同年10月に15万重量屯ドック、1968年6月には50万重量屯ドックを完成させて、VLCC(大型原油タンカー)の建造能力を獲得した[21]。瀬戸内の玉野に加え、首都圏に大型船建造の拠点を構えた意味は大きい。
藤永田造船所の合併と多角化の本格化
1967年10月、三井造船は株式会社藤永田造船所を合併した。藤永田は元禄2年(1689年)創業で、戦前は「駆逐艦の藤永田」とうたわれた名門であり[22]、合併時の資本金19億4,900万円、従業員約2,000名を擁した。藤永田株5株につき三井造船株4株の比率で[23]、大阪・木津川河口の本社工場と船町工場を承継した。約280年におよぶ独立企業の歴史を閉じた同社の化工機・鉄構技術も取り込み、三井造船は商船・タンカーを中心とする造船重工としての基本構造を1960年代までに整えた。以後も1973年4月の由良工場、1975年2月の玉野造船所海洋構造物建造ドック、1981年10月の大分事業所と拠点を広げた[24]。
1970年代後半から1980年代にかけて、三井造船は本業の造船で培った技術と現場経験を周辺領域へ広げた。1978年6月に昭島研究所を開設し(1986年に三井造船昭島研究所として子会社化)[25]、流体・構造解析の研究拠点を整えた。1985年10月に三造環境サービスを設立して環境エンジニアリングへ進み、1987年6月には三井造船プラント工事を設立して[26]プラントエンジニアリングの母体を作った。造船の周りに研究・環境・プラントの事業を並べ、単一の造船会社から複合事業体へ広がる下地を整えた。
1988年〜2018年 周辺事業への多角化と海外プラントの蹉跌、構造不況下の経営危機
周辺事業への多角化と商船市況の悪化
1988年、三井造船は二つの多角化に踏み込んだ。10月に三井物産と共同で米国にPACECO CORP.を設立してコンテナクレーン事業へ乗り出し[27]、12月には株式会社モデック(2003年に三井海洋開発へ改称)へ経営参加して海洋FPSO(浮体式生産貯蔵積出設備)事業へ加わった[28]。この二つは、のちに商船建造が衰退するなかで連結利益を支える事業へ育つ。1989年12月にBurmeister & Wain Scandinavian Contractor A/Sを、1995年9月に英国Babcock Energy Limitedを買収(Mitsui Babcock Energy)して[29]、プラントとボイラの欧州展開にも広げた。
一方で1990年代以降、円高と中国・韓国の造船所の台頭により、商船の競争環境は厳しくなった。三井造船の連結売上は2002年3月期の4,573億円から2010年3月期の7,659億円まで増え、同期に経常利益420億円・親会社株主帰属純利益197億円のピークを記録した。だがその裏で、商船セグメントは損益分岐点の維持が構造的に難しくなった。リーマンショック後の海運不況とコンテナ船・バルク船の発注減が、商船建造の採算を継続的に押し下げた。
再拡張したM&Aとインドネシア火力の工事損失
2010年代、三井造船はM&Aで再び事業領域を広げた。2014年3月に昭和飛行機工業を公開買付けで連結子会社化し、2015年10月にドイツのTGE Marine AG、2017年3月に加地テックを取り込んで[30]、機械・システム事業の周辺へ手を伸ばした。だが本業の商船建造は2010年代半ばまでに恒常的な赤字基調へ転落し、連結営業利益は2017年3月期の83億円から、2018年3月期には▲52億円・親会社株主帰属純利益▲101億円と、連結ベースで初めての通期赤字を記録した。広げた事業領域と、沈む本業の差が開いていった。
2018年4月、三井造船は不採算の商船を本体から切り離して各事業会社の収益責任を明確にするため、持株会社体制へ移行し、商号を三井E&Sホールディングスへ変更した[31]。ところがその直後、海外プラント・EPC案件、なかでもインドネシアの石炭火力PT Tanjung Jati Bを含む案件の工事損失引当金が表面化した。エンジニアリングセグメントの営業損失は2019年3月期に▲797億円、連結は同期に営業損失▲597億円・親会社株主帰属純利益▲696億円という創業以来最大の赤字を計上した。2020年3月期も連結営業損失▲621億円・純損失▲862億円と赤字が続き、連結純資産は2018年3月期の2,394億円から2020年3月期の646億円へ、約4分の1まで毀損した[32]。手を広げすぎた多角化のつけが、持株会社移行の直後に経営危機として噴き出した。
2019年〜2025年 造船からの撤退と舶用エンジン・物流システムへの特化
赤字事業からの撤退と海外プラントの整理
経営危機の構造原因は、商船セグメントの恒常的な損失と、海外プラント案件の工事損失にあった。本体の資本毀損を止めるには、赤字事業からの撤退と海外事業の整理を同時に進めるほかなかった。三井E&Sは2019年12月にEngineers and Constructors Internationalの全株式を売却して米国EPC事業を整理し[33]、2020年3月に昭和飛行機工業の全株を売却した。これは2014年の連結子会社化からわずか6年での撤退であり、同時に三井E&Sプラントエンジニアリングも手放した。2020年10月には三井E&S鉄構エンジニアリング株式70%を譲渡して鉄構事業をグループ外へ出し[34]、2010年代のM&Aで広げた事業領域を一気に絞り込んだ。
撤退は本業の造船にまで及んだ。2021年3月に千葉事業所の新造船事業を終え、2021年10月には三井E&S造船株式49%を常石造船へ譲渡すると同時に、艦艇事業を三菱重工業へ譲渡し、玉野事業所の新造船も終えた[35]。船舶部門は1917年の創業から100年あまり続いた本業だったが、商船市況の構造的な悪化と海外造船所との競争のなかで、自力での継続は難しいと判断された。2022年10月に三井E&S造船株式17%を追加譲渡して持分法適用会社とし、2025年4月には常石造船と株式譲渡合意書を締結して[36]、造船事業からの完全撤退へ進んだ。連結セグメントからは「船舶」「海洋開発」「エンジニアリング」が消え、2023年3月期以降は「舶用推進システム」「物流システム」「成長事業推進」「周辺サービス」の4区分へ再編された[37]。
舶用エンジン・物流中心の高収益事業体への再生
再生の軸となったのは、創業期から続く舶用エンジンと、PACECO以来の物流システム(コンテナクレーン・港湾荷役機械)である。2023年4月、三井E&SはIHI原動機の舶用2ストロークディーゼル機関事業を承継した新会社を取得して三井E&S DUへ改称し[38]、1926年のB&W技術提携から続く舶用エンジンの基盤を世界市場で強めた。同月、グループ内の三井E&Sマシナリー・三井E&Sビジネスサービスを吸収合併して商号を三井E&Sへ戻し、「ホールディングス」を外した。2023年6月には監査役会設置会社から監査等委員会設置会社へ移行して[39]、ガバナンスを改めた。
舶用エンジンと物流システムへの集中は、財務の数字に表れた。連結売上は2022年3月期の5,794億円から2023年3月期の2,623億円へ半減したが、これは造船セグメントの持分法適用化に伴う連結除外が主因で、本業の収益力はむしろ改善した。連結営業利益は2023年3月期94億円・2024年3月期196億円・2025年3月期231億円と3期続けて増え、営業利益率も3.6%・6.5%・7.3%へ上がった。2025年3月期の親会社株主帰属純利益は391億円となり、連結純資産は2020年3月期の646億円から2025年3月期の1,699億円へ約2.6倍に回復した[40]。
三井E&Sの100年あまりの歴史は、商船造船で売上1兆円規模の主軸を担った時代・周辺への多角化・構造不況・2019年3月期の赤字転落・コア事業への特化という弧を描いてきた。1980年代後半に踏み込んだ米国コンテナクレーン(PACECO)と海洋FPSO(モデック)は、本業の商船が衰退するなかで連結利益を支える事業へ育った[41]。逆に2014年の昭和飛行機買収を含む2010年代のM&Aで広げた領域は、赤字転落を境に大半が売却・撤退の対象となった。1917年の創業から続いた船舶部門を切り離し、舶用エンジンと物流システムへ特化した現在の事業構造は[42]、本業を手放して周辺事業を主役へ据えた、日本の造船重工史のなかでも例の少ない経営転換である。