1917年〜 三井物産造船部からの出発と戦前造船重工の確立
- 1917年 三井物産造船部として宇野仮工場で創業
- 1919年 玉工場で操業開始
- 1926年 デンマークBurmeister & WainとB&W型舶用ディーゼル機関で業務提携
- 1937年 三井物産造船部の分離独立と株式会社玉造船所の設立 20年赤字を重ねた造船部を、三井物産はなぜ畳まず別会社として立てたか
- 1938年 化工機部門創設
- 1942年 三井造船に商号変更
- 1949年 東京・大阪証券取引所に株式上場
三井物産造船部の創立と玉野での造船所建設
三井造船は、三井物産の船舶部が自前の造船・修繕拠点を求めたことに始まる。船舶部長の川村は1916年から造船業の兼営を建議し、1917年10月に社長へ陳情書を提出した。用地は宇野湾に臨む岡山県児島郡日比町の玉・和田一帯に求められ、塩田・田畑・山林・宅地など合計18万6,000坪、地主145名におよぶ買収交渉を重ねた。地元は工場誘致のため期成同盟会を組織して世論を喚起し、玉・宇野ほかの漁業組合には賠償金を交付して、大正6年7月に漁業補償をまとめた。 [1][2][3]
- 三井造船株式会社50年史(1968)
- [1]玉野の造船所用地は塩田・田畑・山林・宅地など合計18万6,000坪、地主145名におよぶ買収だった
- [2]三井物産船舶部長の川村が大正5年から造船業兼営を建議し大正6年10月に陳情書を提出した
- [3]玉・宇野ほかの漁業組合へ賠償金を交付し大正6年7月に漁業補償をまとめた
用地取得を受け、大正6年11月2日の取締役会で造船部設置が可決され、同月14日の臨時株主総会で定款の営業目的に造船業を加えて、造船部が正式に発足した。事業所の所在地には岡山県児島郡宇野村が登録され、三井造船はこの11月14日を創業記念日としている。建設は大正6年に宇野仮工場と玉工場へ着手し、同年12月には早くも第一船の木船海正丸を宇野仮工場で進水させ、翌大正7年3月には鋼船第一船の三天丸を進水、玉工場の工事中だった同年10月には建造第一船の三仁丸を起工した。1919年5月には玉工場(現・玉野事業所)が操業を始め、瀬戸内海沿岸の造船拠点として規模を広げた。第一次世界大戦下の戦時造船需要が、三井物産に自前の造船拠点を持たせる背景にあった。 [4][5][6]
- 三井造船株式会社50年史(1968)
- [4]大正6年11月2日取締役会で造船部設置を可決、同月14日臨時株主総会で正式発足、11月14日を創業記念日とする
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [5]大正6年12月に宇野仮工場で第一船の木船海正丸を進水、大正7年3月に鋼船第一船三天丸を進水、同年10月に建造第一船三仁丸を起工した
- 三井E&S 有価証券報告書
- [6]1919年5月に玉工場(現・玉野事業所)が操業を開始した
- 三井造船株式会社50年史(1968)
- [1]玉野の造船所用地は塩田・田畑・山林・宅地など合計18万6,000坪、地主145名におよぶ買収だった
- [2]三井物産船舶部長の川村が大正5年から造船業兼営を建議し大正6年10月に陳情書を提出した
- [3]玉・宇野ほかの漁業組合へ賠償金を交付し大正6年7月に漁業補償をまとめた
- [4]大正6年11月2日取締役会で造船部設置を可決、同月14日臨時株主総会で正式発足、11月14日を創業記念日とする
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [5]大正6年12月に宇野仮工場で第一船の木船海正丸を進水、大正7年3月に鋼船第一船三天丸を進水、同年10月に建造第一船三仁丸を起工した
- 三井E&S 有価証券報告書
- [6]1919年5月に玉工場(現・玉野事業所)が操業を開始した
震災特需とディーゼル化、戦前の法人確立
1923年の関東大震災は、皮肉にも造船部の存続を後押しした。関東の造船所が壊滅して関西へ修繕船が殺到し、救援・復興物資の輸送で船腹需要が急増したため、造船部は輸入古船の修繕28隻と、震災で焼失した船の代替建造114隻を受注した。それまで毎期の欠損が続き、三井物産の首脳部には造船部廃止論が強かったが、この震災特需による活況で廃止論は立ち消えとなった。船舶部は古船輸入の方針をあらため、経済的な優秀船の建造へ転換して、赤城山丸(4,631総トン)ほか5隻の建造を決めた。 [7][8][9]
- 三井造船株式会社50年史(1968)
- [7]関東大震災後、造船部は輸入古船の修繕28隻と震災で焼失した船の代替建造114隻を受注した
- [8]毎期欠損で造船部廃止論が強かったが震災特需の活況で廃止論は立ち消えとなった
- [9]古船輸入の方針をあらため優秀船の赤城山丸(4,631総トン)ほか5隻の建造を決めた
優秀船建造の核となったのがディーゼル化である。造機設計課長の岡本泰氏と船舶部の川合菊平氏を欧州へ派遣して機関方式を研究させ、1923年に起工した赤城山丸へデンマークのBurmeister & Wain(B&W、現Everllence SE)社製ディーゼル機関を搭載した。これがわが国初の外航ディーゼル船であり、その優れた航海成績が国内に大型ディーゼル船建造の気運を生んだ。1926年8月、三井造船はB&Wとディーゼル機関の製造販売実施権契約を締結し、これが以後の舶用エンジン事業の技術基盤となった。 [10][11][12]
- 三井造船株式会社50年史(1968)
- [10]赤城山丸はB&W社製ディーゼル機関を搭載したわが国初の外航ディーゼル船である
- [11]造機設計課長の岡本泰氏と船舶部の川合菊平氏を欧州へ派遣して機関方式を研究させた
- 三井E&S 有価証券報告書
- [12]1926年8月にBurmeister & Wainとディーゼル機関の製造販売実施権契約を締結した
法人としての歩みも戦前に固まった。1937年7月、三井物産から分離独立して株式会社玉造船所を設立し、操業から20年を経て独立した造船会社となった。その後は1937年に艦艇課(のち艦艇部)を、1938年には人造石油事業に関連して化工課を設け、軍需と陸上プラントへ広げて1940年3月に海軍管理工場の指定を受けた。1942年1月6日に三井造船株式会社へ商号を変更し、同年6月に資本金を3,000万円へ増やして、戦標船や潜水艦を量産する戦時態勢を整えた。敗戦後は内外地の五工場を閉鎖して玉野造船所一本に集約し、1947年に始まった計画造船で再建の糸口をつかんだ。同年には播磨造船所とともにノルウェーから400総トン型捕鯨船を受注し、これが戦後日本の鋼製輸出船の第一号となった。1949年5月には東京・大阪の証券取引所へ株式を上場し、戦前から戦後への過渡期に法人独立・商号確立・株式公開を相次いで終えた。 [13][14][15][16][17]
- 三井E&S 有価証券報告書
- [13]1937年7月に三井物産から分離独立して株式会社玉造船所を設立した
- [17]1949年5月に東京・大阪の証券取引所へ株式を上場した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [14]1937年に艦艇課(のち艦艇部)、1938年に人造石油事業に関連して化工課を設け、1940年3月に海軍管理工場の指定を受けた
- [15]1942年1月6日に三井造船株式会社へ商号を変更し、同年6月に資本金を3,000万円へ増やした
- [16]敗戦後に内外地五工場を閉鎖して玉野造船所へ集約し、1947年の計画造船で再建、同年播磨造船所とともにノルウェーから400総トン型捕鯨船を受注した(戦後日本の鋼製輸出船第一号)
- 三井造船株式会社50年史(1968)
- [7]関東大震災後、造船部は輸入古船の修繕28隻と震災で焼失した船の代替建造114隻を受注した
- [8]毎期欠損で造船部廃止論が強かったが震災特需の活況で廃止論は立ち消えとなった
- [9]古船輸入の方針をあらため優秀船の赤城山丸(4,631総トン)ほか5隻の建造を決めた
- [10]赤城山丸はB&W社製ディーゼル機関を搭載したわが国初の外航ディーゼル船である
- [11]造機設計課長の岡本泰氏と船舶部の川合菊平氏を欧州へ派遣して機関方式を研究させた
- 三井E&S 有価証券報告書
- [12]1926年8月にBurmeister & Wainとディーゼル機関の製造販売実施権契約を締結した
- [13]1937年7月に三井物産から分離独立して株式会社玉造船所を設立した
- [17]1949年5月に東京・大阪の証券取引所へ株式を上場した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [14]1937年に艦艇課(のち艦艇部)、1938年に人造石油事業に関連して化工課を設け、1940年3月に海軍管理工場の指定を受けた
- [15]1942年1月6日に三井造船株式会社へ商号を変更し、同年6月に資本金を3,000万円へ増やした
- [16]敗戦後に内外地五工場を閉鎖して玉野造船所へ集約し、1947年の計画造船で再建、同年播磨造船所とともにノルウェーから400総トン型捕鯨船を受注した(戦後日本の鋼製輸出船第一号)