1951年〜 9電力体制の一社としての発足と火主水従への転換
東京電力ホールディングスの業績推移:単体
- 1951年 東京電力設立
- 1951年 東京・大阪両証券取引所市場第一部に上場
- 1955年 水主火従から火主水従へ──火力を基幹電源に据えた電源構成の転換 渇水のたびに揺らぐ水力偏重の供給を、東京電力はどう作り替えたか
- 1961年 名古屋証券取引所市場第一部に上場
- 1963年 姫川電力を子会社化
関東配電と日本発送電を継いで発足する
1951年5月、関東配電と日本発送電から設備の出資および譲渡を受け[1]、東京電力株式会社が発足した。電気事業法のもとで地域独占と総括原価方式を認められた9電力会社の一社[2]であり、首都圏という国内最大の需要地を単独で受け持つ立場に置かれた。同年8月には東京・大阪の両証券取引所市場第一部へ上場[3]した。発足後は関連会社の設立が相次ぎ、1953年3月に尾瀬林業観光を子会社化[4]し、1954年4月に東興業、1955年4月に東電不動産、同年11月に東電フライアッシュ工業を設立した[5]。1961年10月には名古屋証券取引所市場第一部にも株式を上場[6]した。
- 東京電力ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [1]1951年5月 関東配電・日本発送電から設備の出資および譲渡を受け東京電力株式会社設立
- [3]1951年8月 東京・大阪両証券取引所市場第一部に上場
- [4]1953年3月 尾瀬林業観光の株式を取得し子会社化
- [5]1954年4月 東興業設立/1955年4月 東電不動産設立/1955年11月 東電フライアッシュ工業設立
- [6]1961年10月 名古屋証券取引所市場第一部に上場
- 週刊東洋経済 1998年8月22日号「トップ企業の断面 東京電力「普通の会社」へのジレンマ」
- [2]電気事業法により地域独占と原価の積み上げを認める総括原価方式を許された9電力の一社
発足直後の東京電力は、水力に依存する電源構成[7]が生む供給の不安定さに直面した。1953年2月の渇水では電力事情がドン底に追い込まれ、猪苗代湖の貯水は残り28日分[8]と伝えられた。流量は平年の81%まで落ち、10年来の渇水記録[9]となった。通商産業省公益事業局は官報で各地の電力制限を強化したものの、大口工場の陳情に押されて法的制限は早くも乱れ[10]、豊水期までの1か月を凌ぐ策が課題となった。翌1954年1月には「東電だけでも400億からの金を使っているのに[11]、ちょっと雨がふらないとモーターの回転が遅くなるという状況では心細い、電力会社は何をしているのか」と需要家の不満が紙面に載った。
- 読売新聞(1958年7月12日)「火力発電の時代へ」
- [7]戦後初期は水主火従が電気事業の常識で火力は補助的な役割にとどまった
- 読売新聞(1953年2月5日)「電力ついにドン底・猪苗代湖もあと28日分」
- [8]1953年2月 渇水で電力事情が逼迫・猪苗代湖の貯水は残り28日分
- [9]1953年2月 流量は平年の81%・10年来の渇水記録
- [10]通商産業省公益事業局が官報で各地の電力制限を強化・大口工場の陳情で法的制限は乱れた
- 読売新聞(1954年1月20日)「電力まず大丈夫」
- [11]1954年1月 水力頼みの供給の不安定さへ需要家が不満
- 東京電力ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [1]1951年5月 関東配電・日本発送電から設備の出資および譲渡を受け東京電力株式会社設立
- [3]1951年8月 東京・大阪両証券取引所市場第一部に上場
- [4]1953年3月 尾瀬林業観光の株式を取得し子会社化
- [5]1954年4月 東興業設立/1955年4月 東電不動産設立/1955年11月 東電フライアッシュ工業設立
- [6]1961年10月 名古屋証券取引所市場第一部に上場
- 週刊東洋経済 1998年8月22日号「トップ企業の断面 東京電力「普通の会社」へのジレンマ」
- [2]電気事業法により地域独占と原価の積み上げを認める総括原価方式を許された9電力の一社
- 読売新聞(1958年7月12日)「火力発電の時代へ」
- [7]戦後初期は水主火従が電気事業の常識で火力は補助的な役割にとどまった
- 読売新聞(1953年2月5日)「電力ついにドン底・猪苗代湖もあと28日分」
- [8]1953年2月 渇水で電力事情が逼迫・猪苗代湖の貯水は残り28日分
- [9]1953年2月 流量は平年の81%・10年来の渇水記録
- [10]通商産業省公益事業局が官報で各地の電力制限を強化・大口工場の陳情で法的制限は乱れた
- 読売新聞(1954年1月20日)「電力まず大丈夫」
- [11]1954年1月 水力頼みの供給の不安定さへ需要家が不満
渇水を機とした火主水従への電源構成の転換
1955年8月、東京電力は従来の水主火従の原則による電力設備増強計画を火主水従へ改める[12]方針を打ち出した。戦後に海外から導入された技術で熱効率が従来の2倍近い高性能機器[13]が現れ、火力の経済性が一変したことがその前提にあった。先駆けとなった新東京火力発電所は、東京の需要の4分の1と栃木・群馬両県の全需要をまかなう規模[14]を備えた。同社は千住のような非能率火力を渇水期以外は停止し、新鋭火力を常時運転させる[15]ことでコストの切り下げと料金の安定を図る意向を示した。ひとむかし前まで発電といえばほとんど水力を指し、火力は補助にすぎなかった常識[16]が、ここで入れ替わった。
- 読売新聞(1955年8月13日)「最新鋭火力誇る」
- [12]1955年8月 水主火従の電力設備増強計画を火主水従へ改める方針
- [14]新東京火力発電所は東京の需要の4分の1と栃木・群馬両県の全需要に相当する規模
- [15]千住など非能率火力を渇水期以外は停止し新鋭火力を常時運転させコスト切り下げと料金安定を図る方針
- 読売新聞(1958年7月12日)「火力発電の時代へ」
- [13]戦後導入の新技術により火力発電機器の熱効率が従来の2倍近くへ向上
- [16]従来は発電といえば水力を指し火力は補助的な役割にとどまった
火主水従への転換と並行して東京電力は関係会社と発電資産を広げ、1957年6月に東京礦油、同年12月にスター礦油と南明興産を相次いで傘下へ加え[17]て、燃料の調達と輸送を担う会社を自前で抱えた。1960年12月には東電建設設計事務所を設け[18]、1963年8月に姫川電力の株式を取得[19]して水力発電の子会社とした。一方で立地の制約は1960年代半ばから重みを増し、1965年12月の京浜地区は一日中スモッグに覆われ[20]、公害対策上、石炭火力の建設は見合わせるべきだという主張[21]が紙面に現れた。新鋭火力の運転は自動制御へ移り、1959年6月にはイスに座って計器とにらめっこする運転作業員[22]の姿が紙面に載っている。
- 東京電力ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [17]1957年6月 東京礦油設立/1957年12月 スター礦油・南明興産の株式を取得し子会社化
- [18]1960年12月 東電建設設計事務所設立
- [19]1963年8月 姫川電力の株式を取得し子会社化
- 読売新聞(1965年12月11日)「気球で公害調査」
- [20]1965年12月 京浜地区が終日スモッグに覆われた
- [21]1965年12月 公害対策上の石炭火力建設の見合わせが論じられ立地規制が前提条件となった
- 読売新聞(1959年6月24日)「消えゆく男らしさ」
- [22]1959年6月 火力発電所の運転が自動制御化し運転作業員は計器監視の作業へ変わった
- 読売新聞(1955年8月13日)「最新鋭火力誇る」
- [12]1955年8月 水主火従の電力設備増強計画を火主水従へ改める方針
- [14]新東京火力発電所は東京の需要の4分の1と栃木・群馬両県の全需要に相当する規模
- [15]千住など非能率火力を渇水期以外は停止し新鋭火力を常時運転させコスト切り下げと料金安定を図る方針
- 読売新聞(1958年7月12日)「火力発電の時代へ」
- [13]戦後導入の新技術により火力発電機器の熱効率が従来の2倍近くへ向上
- [16]従来は発電といえば水力を指し火力は補助的な役割にとどまった
- 東京電力ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [17]1957年6月 東京礦油設立/1957年12月 スター礦油・南明興産の株式を取得し子会社化
- [18]1960年12月 東電建設設計事務所設立
- [19]1963年8月 姫川電力の株式を取得し子会社化
- 読売新聞(1965年12月11日)「気球で公害調査」
- [20]1965年12月 京浜地区が終日スモッグに覆われた
- [21]1965年12月 公害対策上の石炭火力建設の見合わせが論じられ立地規制が前提条件となった
- 読売新聞(1959年6月24日)「消えゆく男らしさ」
- [22]1959年6月 火力発電所の運転が自動制御化し運転作業員は計器監視の作業へ変わった