東京電力は1951年5月1日、関東配電の資産・負債の全部と日本発送電の一部を引き継ぎ、資本金14億6,000万円で発足した。供給区域は栃木から神奈川までの1都6県と山梨県、静岡県の富士川以東とした。発足の根拠は、ポツダム政令として出された電気事業再編成令と公益事業令であった。両令により、国家管理の発送電を地域別の民営9社に分ける体制が定まった。9地域に1社ずつ置く構想は、公益事業委員会の委員長代理を務めた松永安左エ門氏が1928年7月に示した案とほぼ同じ形であった。関東配電の常務だった木川田一隆氏も、発電から配電までを一社で担う地域別の私企業案を同僚と練っていた。首脳人事は旧2社の間で最後までもつれ、会長に元日本銀行総裁の新木栄吉氏、社長に元日本発送電副総裁の安蔵彌輔氏を置いた。
発足直後の東京電力は、1949年から据え置かれた電気料金のもとで、電源開発も事業運営も賄えない収支に置かれた。1951年8月の改定は世論の批判を受け、認可された値上げ率は業界申請の半分以下にとどまった。1952年5月29日の定時株主総会では、旧日本発送電側の累積投票の要求を機に議場が混乱した。議長を務めた社長の安蔵彌輔氏は、その場で流会を宣言した。元三菱銀行頭取の加藤武男氏の裁定を経て、同年9月20日の取締役会で高井亮太郎氏が社長に選ばれた。1952年4月の2度目の料金改定と全社の合理化で収支は好転し、1952年度上期に年15%の初配当を実施した。3月と9月の年2回決算で数えると、発足から3期目の決算であった。
発足時の発電設備は水力144万1,000kW、火力34万5,000kWで、水力が電源の80%を占めた。水力の大半は川の流れをそのまま使う自流式で、貯水池式は26万5,000kWにとどまった。このため夏と冬の渇水期には供給力が大きく減少し、1951・1952年度は全国で電力割当制の法的制限を敷いた。1953年2月5日には川の流量が平年の81%に下がり、通商産業省は各地の電力制限を強化した。東京電力は渇水のたびに福島県と用水組合の了解を得て、猪苗代湖の水を定められた水位より下まで発電に使った。1954年12月には保持水位を引き下げる許可を得て、猪苗代湖の貯水池としての能力を恒久的に強めた。料金を改めても、自流式の水力に偏った設備構成が供給を雨量に縛り続けたのだろう。
1955年8月、東京電力は水主火従を原則としてきた電力設備の増強計画を、火主水従に改める方針を示した。背景には、開発に適した大規模な水力地点が少なくなったことがあった。火力は技術の進歩で大容量化して経済性が高まり、水力より建設期間が短く、必要な資金も少なかった。東京電力は新鋭火力を常時運転に回し、千住のような効率の低い火力は渇水期以外は止めて、コストと料金を安定させる考えであった。1959年には火力の認可出力が194万5,000kWとなって水力の177万5,000kWを上回り、九電力合計より2年早く火主水従に移った。1951年に引き継いだ約180万kWの設備は、1962年に約480万kWへ拡大した。設備の主力を火力に移したことで、供給の制約は雨量から燃料の調達へ移ったとみられる。
東京電力はまず既設の潮田・鶴見火力にボイラを増設し、1953年6月に鶴見第二火力、1954年3月に新東京火力を着工した。両火力は需給の逼迫から完成を急ぎ、国産機を採用した。日本の火力技術は戦中・戦後の空白で世界の水準から遅れ、国内で製造できるのは7万5,000kW級までであった。そこで1954年6月着工の千葉火力1号機では、機器を米国のGE社から輸入し、発電所の設計をギルバート社に委託した。主要機器の購入資金には、東京電力として初めて外資借款を充当した。12万5,000kWの1号機は1957年4月に運転を始め、熱効率は在来の新鋭火力の32.3%に対し37.2%であった。初号機を輸入して2号機から国産化する方式を続け、1962年には東京湾岸の火力発電所が10か所に達した。
1958年10月14日、鶴見火力の分析係員が、石炭業者から多額の金品を受け取り炭質の分析に手心を加えた疑いで逮捕された。事件は火力発電所の所長を含む8名と本店資材部石炭課の2名の起訴に広がり、役員1名にも及んだ。会長の菅礼之助氏は常勤取締役全員の辞表を預かり、処置を社外取締役の石坂泰三氏に一任した。12月9日の緊急取締役会で、社長の高井亮太郎氏と常務の岡次郎氏は監督責任をとって辞任した。副社長の木川田一隆氏は自ら常務に降格し、社長には非常勤取締役の青木均一氏が就任した。青木均一氏は品川白煉瓦の社長で、1951年に公益事業委員の松本烝治氏と松永安左エ門氏の要望で取締役に加わっていた。旧2社の出身者ではない社外の人物を選んだ人事は、社内の均衡より信用の回復を優先したものと推察される。
青木均一氏は社長就任の翌日、全職員に自粛自戒と、進取と廉潔の社風を求める告示を出した。12月15日には自ら委員長となる再建委員会を設け、社風と人事、職制の運用、取引業務と内部監査の3部会で見直しを進めた。1959年2月には答申に沿って職制を改め、役職員270名を含む1,500名の人事異動を実施した。改革の焦点は内部監査の強化に置き、火力発電所を社長直属とし、燃料の発熱量を二重に確かめる中央分析所を新設した。同年4月には長期企画委員会を設け、12月に1975年までの17年間を見通す超長期計画を公表した。会長の菅礼之助氏は1961年の退任時の社報で、青木均一氏が手がけた仕事を長期計画とトップマネジメントの確立と振り返った。
1961年7月27日、東京電力は青木均一氏を会長に、副社長の木川田一隆氏を社長に選んだ。同月の料金改定で経営安定の足がかりは得たものの、1961年度上期の支払利息は前年同期比33.5%増の105億円に膨らんだ。1961年度の長期計画は1970年度の需要を1960年度の約3.2倍と見込み、それまでの工事資金を1兆6,000億円と見積もった。木川田一隆氏は就任後の談話で、公益事業を担う者としての誠実さと社員の人格の尊重を掲げた。1962年2月には、企業の体質改善、投資効率・資金効率の向上、サービスの向上の三大方針を打ち出した。木川田一隆氏は関東配電時代から、民有民営の自由企業が人の創意を引き出すという考えを持っていた。三大方針は、借入金に依存した設備拡張に歯止めをかける狙いを持っていたと思われる。
1950年代後半から燃料は石炭から石油へ移り、東京電力は石炭火力にも重油専焼の設備を備えた。1960年度着工の横浜・五井両火力は、重油ボイラー規制法の緩和を受けた東京電力初の屋外式重油専焼火力であった。1963・1964年度には五井火力の新設と横須賀・川崎両火力の増設を進め、1965年度には1機60万kWの姉崎火力に着工した。1965年時点の東京電力は、急増する需要を大容量の重油専焼火力で賄い、ピークを水力に受け持たせる計画を示した。原子力では1955年11月に社長室へ原子力発電課を置き、1956年6月に東芝・日立の両グループと協同研究会を組織した。1964年には立地を福島県大熊地区に決め、双葉郡で用地の取得を終えて現地に調査所を置いた。
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| 1951〜1965年東京電力の発足と火主水従への電源転換 | 安蔵彌輔 | 東京電力設立 | ★ | |
| 安蔵彌輔 | 東京・大阪両証券取引所市場第一部に上場 | ★ | ||
| 高井亮太郎 | 水力中心の電源構成を改め、火力を基幹に据えた供給体制の組み替え 1955年8月、東京電力が従来の"水主火従"原則による電力設備増強計画を"火主水従"へ改め、天候に左右されにくい火力を供給の基幹電源に据える転換に踏み切った経営判断。戦後の需要膨張と渇水による供給危機がその引き金となった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 木川田一隆 | 名古屋証券取引所市場第一部に上場 | ★ | ||
| 木川田一隆 | 姫川電力を子会社化 | ★ | ||
| 1966〜2001年福島第一原子力発電所の着工と柏崎刈羽原発、海外電力事業の開始 | 木川田一隆 | 原子力を主力電源に据える選択と、その第一号機の実現 1966年、東京電力が福島県双葉郡に福島第一原子力発電所1号機を着工し、1971年3月に営業運転を開始した経営判断。米ゼネラル・エレクトリック社が設計した沸騰水型軽水炉を採用し、出力46万kWは日本の40万kW級商用原発の先駆けとなった。木川田一隆社長のもとで原子力を基幹電源に据えた。 詳細を読む | ★★★ | |
| 水野久男 | 福島第一原子力発電所1号機営業運転開始 | ★★ | ||
| 那須翔 | 柏崎刈羽原子力発電所1号機営業運転開始 | ★ | ||
| 那須翔 | テプコケーブルテレビを設立 | ★ | ||
| 荒木浩 | テプコ・リソーシズ社設立 | ★ | ||
| 南直哉 | 海外電力事業の統括会社TEPCインターナショナルを設立 | ★ | ||
| 2002〜2010年原発検査データ改ざんと通信事業の参入・撤退、中越沖地震と初の赤字 | 南直哉 | 原発検査データ改ざん問題の発覚 | ★★ | |
| 勝俣恒久 | パワードコムを子会社化し通信事業へ参入 | ★ | ||
| 勝俣恒久 | パワードコムをKDDIと合併し通信事業から撤退 | ★★ | ||
| 勝俣恒久 | 新潟県中越沖地震により柏崎刈羽原発が全基停止 | ★ | ||
| 勝俣恒久 | 初の純損失を計上 | ★ | ||
| 2011〜2026年福島第一原発事故と実質国有化、JERA設立と持株会社体制 | 清水正孝 | 東日本大震災・福島第一原子力発電所事故 | ★★ | |
| 清水正孝 | FY10に純損失1兆2473億円を計上 | ★ | ||
| 廣瀬直己 | 1兆円の公的資金の受け入れと、議決権の過半の政府への移転 2012年7月31日、政府が原子力損害賠償支援機構を通じて東京電力へ1兆円を出資し、議決権の50.11%を取得した。同年5月に総合特別事業計画を発表し、6月末には委員会設置会社へ移行して廣瀬直己氏が社長、下河辺和彦氏が会長に就任している。民間電力会社が国の管理下で経営を続ける枠組みがここで成立した。 詳細を読む | ★★ | ||
| 廣瀬直己 | 燃料調達まで含めて中部電力との合弁へ委ねた発電資産の切り出し 2015年4月に燃料・火力発電、送配電、小売電気の3つの分割準備会社を設立し、同年10月には中部電力との合弁会社JERAが燃料輸送事業と燃料トレーディング事業を承継した。2016年7月に既存の燃料上流・調達事業と海外火力IPP事業、2019年4月には既存火力発電事業が移り、東京電力は自社の火力発電所を持たない電力会社になった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 廣瀬直己 | 東京電力HDに商号変更、HDス体制に移行 | ★★ | ||
| 小早川智明 | 小早川智明氏が代表執行役社長に就任 | ★ | ||
| 小早川智明 | リニューアブルパワーに再エネ事業を承継 | ★ | ||
| 小早川智明 | ユーラスエナジーHDの株式を全数譲渡 | ★ | ||
| 小早川智明 | FY22に経常損失2853億円、純損失1236億円を計上 | ★ | ||
| 小早川智明 | FY23に経常利益4255億円、純利益2678億円に回復 | ★ |
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事実根拠:出所(東京電力ホールディングス)