東京電力HD の歴史

更新:

創業 1951年
母体 関東配電+日本発送電
創業地 東京都
創業 1951年5月1日、関東配電の全資産・負債と日本発送電の設備の一部を継いで、資本
1951年5月1日、関東配電の全資産・負債と日本発送電の設備の一部を継いで、資本金14億6,000万円の東京電力が発足した。電気事業再編成令と公益事業令が国家管理の発送電を地域別の民営9社へ割った結果で、供給区域は1都6県と山梨県、静岡県の富士川以東とされた。会長には元日本銀行総裁の新木栄吉氏、社長には元日本発送電副総裁の安蔵彌輔氏が就任した。一方で、引き継いだ発電設備の8割は水力で、その多くを占める自流式は渇水期ごとに供給力を落とした。据え置かれた料金と雨量の2つが、発足直後の収支を左右した。
決断 供給を雨量に預けず、燃料で発電する会社へ早くから組み替えた。1955年8月に設備
供給を雨量に預けず、燃料で発電する会社へ早くから組み替えた。1955年8月に設備増強の原則を水主火従から火主水従へ改め、効率の高い新鋭機を基幹に据えた。大規模な水力の適地が減る一方、大容量化した火力は建設期間も資金も水力より小さく済んだ。1957年4月に動いた千葉火力1号機の熱効率は、在来の新鋭機の32.3%に対し37.2%に達した。その結果、1959年には火力の認可出力が水力を上回った。1958年の石炭事件で高井亮太郎社長が退任した後も、青木均一社長と木川田一隆社長は重油専焼の大容量火力へ投資を続けた。
現況 小売と送配電で稼いだ利益を、事故の後始末に充当し続ける会社である。原子力損害賠償
小売と送配電で稼いだ利益を、事故の後始末に充当し続ける会社である。原子力損害賠償・廃炉等支援機構が議決権の過半を握っているため、設備投資も料金も総合特別事業計画の認可を前提に決まる。2026年3月期の連結売上高は6兆3,285億円、営業利益は3,377億円で、小売のエナジーパートナーが利益2,550億円を占めた。しかし特別損失9,967億円を計上し、最終損益は4,542億円の赤字に転じた。第五次総合特別事業計画は賠償に年約2,000億円、廃炉に年約3,000億円を見込み、利益はまずその支払いに充てられる。
競合 電力大手で、国を最大の株主に置いたまま競うのは東京電力だけである。火力発電と燃料
電力大手で、国を最大の株主に置いたまま競うのは東京電力だけである。火力発電と燃料調達は折半出資のJERAへ移しており、相手の中部電力とは発電の規模で対等に並ぶ。ただし中部電力が自社の判断で送配電と小売を分社して持株会社となったのに対し、東京電力の再編は計画の認可を経なければ動かない。関西電力が原子力の再稼働で収益を立て直す一方、国内最大の柏崎刈羽は地元同意の条件が重く、2025年度にようやく試運転へ入った。その結果、競う軸は電源の多寡から、国の管理下で自力の利益をどこまで積めるかへ移った。
長期業績の推移 1951〜2026年
東京電力ホールディングス:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
2006年3月期〜2026年3月期

第1章 1951年〜 東京電力の発足と火主水従への電源転換

1951年〜関東配電と日本発送電の設備を継いだ発足と、年15%の初配当

東京電力は1951年5月1日、関東配電の資産・負債の全部と日本発送電の一部を引き継ぎ、資本金14億6,000万円で発足した。供給区域は栃木から神奈川までの1都6県と山梨県、静岡県の富士川以東とした。発足の根拠は、ポツダム政令として出された電気事業再編成令と公益事業令であった。両令により、国家管理の発送電を地域別の民営9社に分ける体制が定まった。9地域に1社ずつ置く構想は、公益事業委員会の委員長代理を務めた松永安左エ門氏が1928年7月に示した案とほぼ同じ形であった。関東配電の常務だった木川田一隆氏も、発電から配電までを一社で担う地域別の私企業案を同僚と練っていた。首脳人事は旧2社の間で最後までもつれ、会長に元日本銀行総裁の新木栄吉氏、社長に元日本発送電副総裁の安蔵彌輔氏を置いた。

  • 東京電力三十年史(1983) 一章 第一節「新木会長、安藏社長の和の経営」
    • [1]1951年5月1日設立、旧関東配電の全部と旧日本発送電の一部の資産・負債を承継、資本金14億6,000万円、会長新木栄吉・社長安蔵彌輔
    • [2]1951年5月1日設立、旧関東配電の全部と旧日本発送電の一部の資産・負債を承継、資本金14億6,000万円、会長新木栄吉・社長安蔵彌輔
    • [7]1951年5月1日設立、旧関東配電の全部と旧日本発送電の一部の資産・負債を承継、資本金14億6,000万円、会長新木栄吉・社長安蔵彌輔
  • 私の履歴書 木川田一隆
    • [3]電気事業再編成令・公益事業令で9電力体制が確立、木川田一隆らは関東配電で民有民営・発送配電一貫・地域分割の案を立案、公益事業委員会の委員長代理は松永安左エ門
    • [4]電気事業再編成令・公益事業令で9電力体制が確立、木川田一隆らは関東配電で民有民営・発送配電一貫・地域分割の案を立案、公益事業委員会の委員長代理は松永安左エ門
    • [6]電気事業再編成令・公益事業令で9電力体制が確立、木川田一隆らは関東配電で民有民営・発送配電一貫・地域分割の案を立案、公益事業委員会の委員長代理は松永安左エ門
  • 私の履歴書 松永安左エ門
    • [5]松永安左エ門は1928年7月に全国9地域1社・公益事業委員会設置の案を提唱

発足直後の東京電力は、1949年から据え置かれた電気料金のもとで、電源開発も事業運営も賄えない収支に置かれた。1951年8月の改定は世論の批判を受け、認可された値上げ率は業界申請の半分以下にとどまった。1952年5月29日の定時株主総会では、旧日本発送電側の累積投票の要求を機に議場が混乱した。議長を務めた社長の安蔵彌輔氏は、その場で流会を宣言した。元三菱銀行頭取の加藤武男氏の裁定を経て、同年9月20日の取締役会で高井亮太郎氏が社長に選ばれた。1952年4月の2度目の料金改定と全社の合理化で収支は好転し、1952年度上期に年15%の初配当を実施した。3月と9月の年2回決算で数えると、発足から3期目の決算であった。

  • 東京電力三十年史(1983) 一章 第一節「高井社長、菅会長の就任」「資本費の高騰と料金改定」
    • [8]電気料金は1949年来据え置き、1951年8月改定は申請の半分以下、1952年5月29日流会総会、加藤武男の裁定、1952年9月20日高井亮太郎社長、1952年4月再改定と合理化で1952年度上期に年15%の初配当
    • [9]電気料金は1949年来据え置き、1951年8月改定は申請の半分以下、1952年5月29日流会総会、加藤武男の裁定、1952年9月20日高井亮太郎社長、1952年4月再改定と合理化で1952年度上期に年15%の初配当
    • [10]電気料金は1949年来据え置き、1951年8月改定は申請の半分以下、1952年5月29日流会総会、加藤武男の裁定、1952年9月20日高井亮太郎社長、1952年4月再改定と合理化で1952年度上期に年15%の初配当
    • [11]電気料金は1949年来据え置き、1951年8月改定は申請の半分以下、1952年5月29日流会総会、加藤武男の裁定、1952年9月20日高井亮太郎社長、1952年4月再改定と合理化で1952年度上期に年15%の初配当
    • [12]電気料金は1949年来据え置き、1951年8月改定は申請の半分以下、1952年5月29日流会総会、加藤武男の裁定、1952年9月20日高井亮太郎社長、1952年4月再改定と合理化で1952年度上期に年15%の初配当
    • [13]電気料金は1949年来据え置き、1951年8月改定は申請の半分以下、1952年5月29日流会総会、加藤武男の裁定、1952年9月20日高井亮太郎社長、1952年4月再改定と合理化で1952年度上期に年15%の初配当
  • 株式会社年鑑 1953年版 東京電力
    • [14]東京電力の設立は1951年5月1日、決算期は3月・9月

発足時の発電設備は水力144万1,000kW、火力34万5,000kWで、水力が電源の80%を占めた。水力の大半は川の流れをそのまま使う自流式で、貯水池式は26万5,000kWにとどまった。このため夏と冬の渇水期には供給力が大きく減少し、1951・1952年度は全国で電力割当制の法的制限を敷いた。1953年2月5日には川の流量が平年の81%に下がり、通商産業省は各地の電力制限を強化した。東京電力は渇水のたびに福島県と用水組合の了解を得て、猪苗代湖の水を定められた水位より下まで発電に使った。1954年12月には保持水位を引き下げる許可を得て、猪苗代湖の貯水池としての能力を恒久的に強めた。料金を改めても、自流式の水力に偏った設備構成が供給を雨量に縛り続けたのだろう。

  • 東京電力三十年史(1983) 一章 第二節「臨時湖面低下」
    • [15]発足時の認可出力は水力144万1,000kW・火力34万5,000kWで水力が80%、貯水池式は26万5,000kW、1951・1952年度は電力割当制、猪苗代湖は渇水時に福島県・用水組合の協力で水位を超えて利用、1954年12月28日に保持水位引き下げの許可
    • [16]発足時の認可出力は水力144万1,000kW・火力34万5,000kWで水力が80%、貯水池式は26万5,000kW、1951・1952年度は電力割当制、猪苗代湖は渇水時に福島県・用水組合の協力で水位を超えて利用、1954年12月28日に保持水位引き下げの許可
    • [17]発足時の認可出力は水力144万1,000kW・火力34万5,000kWで水力が80%、貯水池式は26万5,000kW、1951・1952年度は電力割当制、猪苗代湖は渇水時に福島県・用水組合の協力で水位を超えて利用、1954年12月28日に保持水位引き下げの許可
    • [19]発足時の認可出力は水力144万1,000kW・火力34万5,000kWで水力が80%、貯水池式は26万5,000kW、1951・1952年度は電力割当制、猪苗代湖は渇水時に福島県・用水組合の協力で水位を超えて利用、1954年12月28日に保持水位引き下げの許可
    • [20]発足時の認可出力は水力144万1,000kW・火力34万5,000kWで水力が80%、貯水池式は26万5,000kW、1951・1952年度は電力割当制、猪苗代湖は渇水時に福島県・用水組合の協力で水位を超えて利用、1954年12月28日に保持水位引き下げの許可
  • 読売新聞(1953年2月5日)
    • [18]1953年2月5日の流量は平年の81%で10年来の渇水、通産省公益事業局が電力制限を強化
参考文献[1]-[20]
  • 東京電力三十年史(1983) 一章 第一節「新木会長、安藏社長の和の経営」
    • [1]1951年5月1日設立、旧関東配電の全部と旧日本発送電の一部の資産・負債を承継、資本金14億6,000万円、会長新木栄吉・社長安蔵彌輔
    • [2]1951年5月1日設立、旧関東配電の全部と旧日本発送電の一部の資産・負債を承継、資本金14億6,000万円、会長新木栄吉・社長安蔵彌輔
    • [7]1951年5月1日設立、旧関東配電の全部と旧日本発送電の一部の資産・負債を承継、資本金14億6,000万円、会長新木栄吉・社長安蔵彌輔
  • 私の履歴書 木川田一隆
    • [3]電気事業再編成令・公益事業令で9電力体制が確立、木川田一隆らは関東配電で民有民営・発送配電一貫・地域分割の案を立案、公益事業委員会の委員長代理は松永安左エ門
    • [4]電気事業再編成令・公益事業令で9電力体制が確立、木川田一隆らは関東配電で民有民営・発送配電一貫・地域分割の案を立案、公益事業委員会の委員長代理は松永安左エ門
    • [6]電気事業再編成令・公益事業令で9電力体制が確立、木川田一隆らは関東配電で民有民営・発送配電一貫・地域分割の案を立案、公益事業委員会の委員長代理は松永安左エ門
  • 私の履歴書 松永安左エ門
    • [5]松永安左エ門は1928年7月に全国9地域1社・公益事業委員会設置の案を提唱
  • 東京電力三十年史(1983) 一章 第一節「高井社長、菅会長の就任」「資本費の高騰と料金改定」
    • [8]電気料金は1949年来据え置き、1951年8月改定は申請の半分以下、1952年5月29日流会総会、加藤武男の裁定、1952年9月20日高井亮太郎社長、1952年4月再改定と合理化で1952年度上期に年15%の初配当
    • [9]電気料金は1949年来据え置き、1951年8月改定は申請の半分以下、1952年5月29日流会総会、加藤武男の裁定、1952年9月20日高井亮太郎社長、1952年4月再改定と合理化で1952年度上期に年15%の初配当
    • [10]電気料金は1949年来据え置き、1951年8月改定は申請の半分以下、1952年5月29日流会総会、加藤武男の裁定、1952年9月20日高井亮太郎社長、1952年4月再改定と合理化で1952年度上期に年15%の初配当
    • [11]電気料金は1949年来据え置き、1951年8月改定は申請の半分以下、1952年5月29日流会総会、加藤武男の裁定、1952年9月20日高井亮太郎社長、1952年4月再改定と合理化で1952年度上期に年15%の初配当
    • [12]電気料金は1949年来据え置き、1951年8月改定は申請の半分以下、1952年5月29日流会総会、加藤武男の裁定、1952年9月20日高井亮太郎社長、1952年4月再改定と合理化で1952年度上期に年15%の初配当
    • [13]電気料金は1949年来据え置き、1951年8月改定は申請の半分以下、1952年5月29日流会総会、加藤武男の裁定、1952年9月20日高井亮太郎社長、1952年4月再改定と合理化で1952年度上期に年15%の初配当
  • 株式会社年鑑 1953年版 東京電力
    • [14]東京電力の設立は1951年5月1日、決算期は3月・9月
  • 東京電力三十年史(1983) 一章 第二節「臨時湖面低下」
    • [15]発足時の認可出力は水力144万1,000kW・火力34万5,000kWで水力が80%、貯水池式は26万5,000kW、1951・1952年度は電力割当制、猪苗代湖は渇水時に福島県・用水組合の協力で水位を超えて利用、1954年12月28日に保持水位引き下げの許可
    • [16]発足時の認可出力は水力144万1,000kW・火力34万5,000kWで水力が80%、貯水池式は26万5,000kW、1951・1952年度は電力割当制、猪苗代湖は渇水時に福島県・用水組合の協力で水位を超えて利用、1954年12月28日に保持水位引き下げの許可
    • [17]発足時の認可出力は水力144万1,000kW・火力34万5,000kWで水力が80%、貯水池式は26万5,000kW、1951・1952年度は電力割当制、猪苗代湖は渇水時に福島県・用水組合の協力で水位を超えて利用、1954年12月28日に保持水位引き下げの許可
    • [19]発足時の認可出力は水力144万1,000kW・火力34万5,000kWで水力が80%、貯水池式は26万5,000kW、1951・1952年度は電力割当制、猪苗代湖は渇水時に福島県・用水組合の協力で水位を超えて利用、1954年12月28日に保持水位引き下げの許可
    • [20]発足時の認可出力は水力144万1,000kW・火力34万5,000kWで水力が80%、貯水池式は26万5,000kW、1951・1952年度は電力割当制、猪苗代湖は渇水時に福島県・用水組合の協力で水位を超えて利用、1954年12月28日に保持水位引き下げの許可
  • 読売新聞(1953年2月5日)
    • [18]1953年2月5日の流量は平年の81%で10年来の渇水、通産省公益事業局が電力制限を強化

1955年〜潮田・千葉の新鋭火力で進めた火主水従と、石炭事件で辞した高井亮太郎社長

1955年8月、東京電力は水主火従を原則としてきた電力設備の増強計画を、火主水従に改める方針を示した。背景には、開発に適した大規模な水力地点が少なくなったことがあった。火力は技術の進歩で大容量化して経済性が高まり、水力より建設期間が短く、必要な資金も少なかった。東京電力は新鋭火力を常時運転に回し、千住のような効率の低い火力は渇水期以外は止めて、コストと料金を安定させる考えであった。1959年には火力の認可出力が194万5,000kWとなって水力の177万5,000kWを上回り、九電力合計より2年早く火主水従に移った。1951年に引き継いだ約180万kWの設備は、1962年に約480万kWへ拡大した。設備の主力を火力に移したことで、供給の制約は雨量から燃料の調達へ移ったとみられる。

  • 読売新聞(1955年8月13日)
    • [21]1955年8月、東京電力は水主火従による設備増強計画を火主水従に改め、新鋭火力を常時運転し千住などの非能率火力は渇水期以外停止する意向
    • [24]1955年8月、東京電力は水主火従による設備増強計画を火主水従に改め、新鋭火力を常時運転し千住などの非能率火力は渇水期以外停止する意向
  • 東京電力三十年史(1983) 一章 序「経済の復興と電源開発」
    • [22]大規模水力地点の減少と火力の大容量化・経済性・短い建設期間・少ない資金で火力重点の開発、1959年に火力194万5,000kWが水力177万5,000kWを上回り当社は1959年、九電力合計は1961年に火主水従
    • [23]大規模水力地点の減少と火力の大容量化・経済性・短い建設期間・少ない資金で火力重点の開発、1959年に火力194万5,000kWが水力177万5,000kWを上回り当社は1959年、九電力合計は1961年に火主水従
    • [25]大規模水力地点の減少と火力の大容量化・経済性・短い建設期間・少ない資金で火力重点の開発、1959年に火力194万5,000kWが水力177万5,000kWを上回り当社は1959年、九電力合計は1961年に火主水従
  • 企業の現代史 エネルギー革命の推進者(東京電力)1962
    • [26]1951年に引き継いだ発電設備約180万kWが1962年時点で約480万kW、水主火従から火主水従へ移行

東京電力はまず既設の潮田・鶴見火力にボイラを増設し、1953年6月に鶴見第二火力、1954年3月に新東京火力を着工した。両火力は需給の逼迫から完成を急ぎ、国産機を採用した。日本の火力技術は戦中・戦後の空白で世界の水準から遅れ、国内で製造できるのは7万5,000kW級までであった。そこで1954年6月着工の千葉火力1号機では、機器を米国のGE社から輸入し、発電所の設計をギルバート社に委託した。主要機器の購入資金には、東京電力として初めて外資借款を充当した。12万5,000kWの1号機は1957年4月に運転を始め、熱効率は在来の新鋭火力の32.3%に対し37.2%であった。初号機を輸入して2号機から国産化する方式を続け、1962年には東京湾岸の火力発電所が10か所に達した。

  • 東京電力三十年史(1983) 一章 第三節「新鋭火力の建設」
    • [27]既設潮田・鶴見のボイラ増設、1953年6月鶴見第二・1954年3月新東京着工(国産機)、国内製造は7万5,000kW級まで、千葉火力1号機はGE社機器・ギルバート社設計・初の外資借款、12万5,000kW、1957年4月運転開始、熱効率37.2%(在来32.3%)、初号機輸入・2号機以降国産
    • [28]既設潮田・鶴見のボイラ増設、1953年6月鶴見第二・1954年3月新東京着工(国産機)、国内製造は7万5,000kW級まで、千葉火力1号機はGE社機器・ギルバート社設計・初の外資借款、12万5,000kW、1957年4月運転開始、熱効率37.2%(在来32.3%)、初号機輸入・2号機以降国産
    • [29]既設潮田・鶴見のボイラ増設、1953年6月鶴見第二・1954年3月新東京着工(国産機)、国内製造は7万5,000kW級まで、千葉火力1号機はGE社機器・ギルバート社設計・初の外資借款、12万5,000kW、1957年4月運転開始、熱効率37.2%(在来32.3%)、初号機輸入・2号機以降国産
    • [30]既設潮田・鶴見のボイラ増設、1953年6月鶴見第二・1954年3月新東京着工(国産機)、国内製造は7万5,000kW級まで、千葉火力1号機はGE社機器・ギルバート社設計・初の外資借款、12万5,000kW、1957年4月運転開始、熱効率37.2%(在来32.3%)、初号機輸入・2号機以降国産
    • [31]既設潮田・鶴見のボイラ増設、1953年6月鶴見第二・1954年3月新東京着工(国産機)、国内製造は7万5,000kW級まで、千葉火力1号機はGE社機器・ギルバート社設計・初の外資借款、12万5,000kW、1957年4月運転開始、熱効率37.2%(在来32.3%)、初号機輸入・2号機以降国産
    • [32]既設潮田・鶴見のボイラ増設、1953年6月鶴見第二・1954年3月新東京着工(国産機)、国内製造は7万5,000kW級まで、千葉火力1号機はGE社機器・ギルバート社設計・初の外資借款、12万5,000kW、1957年4月運転開始、熱効率37.2%(在来32.3%)、初号機輸入・2号機以降国産
    • [33]既設潮田・鶴見のボイラ増設、1953年6月鶴見第二・1954年3月新東京着工(国産機)、国内製造は7万5,000kW級まで、千葉火力1号機はGE社機器・ギルバート社設計・初の外資借款、12万5,000kW、1957年4月運転開始、熱効率37.2%(在来32.3%)、初号機輸入・2号機以降国産
  • 企業の現代史 エネルギー革命の推進者(東京電力)1962
    • [34]1962年時点で東京湾岸の火力は西側7か所と千住・千葉・五井の計10か所

1958年10月14日、鶴見火力の分析係員が、石炭業者から多額の金品を受け取り炭質の分析に手心を加えた疑いで逮捕された。事件は火力発電所の所長を含む8名と本店資材部石炭課の2名の起訴に広がり、役員1名にも及んだ。会長の菅礼之助氏は常勤取締役全員の辞表を預かり、処置を社外取締役の石坂泰三氏に一任した。12月9日の緊急取締役会で、社長の高井亮太郎氏と常務の岡次郎氏は監督責任をとって辞任した。副社長の木川田一隆氏は自ら常務に降格し、社長には非常勤取締役の青木均一氏が就任した。青木均一氏は品川白煉瓦の社長で、1951年に公益事業委員の松本烝治氏と松永安左エ門氏の要望で取締役に加わっていた。旧2社の出身者ではない社外の人物を選んだ人事は、社内の均衡より信用の回復を優先したものと推察される。

  • 東京電力三十年史(1983) 一章 第一節「石炭事件と善後処理」
    • [35]1958年10月14日鶴見火力の分析係員が収賄容疑で逮捕、所長含む8名と本店資材部石炭課員2名起訴、役員1名に波及、12月9日緊急取締役会で高井社長・岡常務辞任、木川田副社長は常務に降格、非常勤取締役の青木均一が社長
    • [36]1958年10月14日鶴見火力の分析係員が収賄容疑で逮捕、所長含む8名と本店資材部石炭課員2名起訴、役員1名に波及、12月9日緊急取締役会で高井社長・岡常務辞任、木川田副社長は常務に降格、非常勤取締役の青木均一が社長
    • [38]1958年10月14日鶴見火力の分析係員が収賄容疑で逮捕、所長含む8名と本店資材部石炭課員2名起訴、役員1名に波及、12月9日緊急取締役会で高井社長・岡常務辞任、木川田副社長は常務に降格、非常勤取締役の青木均一が社長
    • [39]1958年10月14日鶴見火力の分析係員が収賄容疑で逮捕、所長含む8名と本店資材部石炭課員2名起訴、役員1名に波及、12月9日緊急取締役会で高井社長・岡常務辞任、木川田副社長は常務に降格、非常勤取締役の青木均一が社長
  • 私の履歴書 木川田一隆
    • [37]菅会長が役員全員の辞表をまとめ社外取締役石坂泰三に処置を一任、高井社長勇退、木川田は副社長を辞退し常務に、菅会長が青木均一を社長に推す
    • [40]菅会長が役員全員の辞表をまとめ社外取締役石坂泰三に処置を一任、高井社長勇退、木川田は副社長を辞退し常務に、菅会長が青木均一を社長に推す
  • 私の履歴書 青木均一
    • [41]青木均一は品川白煉瓦社長、1951年に松本烝治・松永安左エ門の要望で東京電力取締役、1958年末の汚職事件で社長
参考文献[21]-[41]
  • 読売新聞(1955年8月13日)
    • [21]1955年8月、東京電力は水主火従による設備増強計画を火主水従に改め、新鋭火力を常時運転し千住などの非能率火力は渇水期以外停止する意向
    • [24]1955年8月、東京電力は水主火従による設備増強計画を火主水従に改め、新鋭火力を常時運転し千住などの非能率火力は渇水期以外停止する意向
  • 東京電力三十年史(1983) 一章 序「経済の復興と電源開発」
    • [22]大規模水力地点の減少と火力の大容量化・経済性・短い建設期間・少ない資金で火力重点の開発、1959年に火力194万5,000kWが水力177万5,000kWを上回り当社は1959年、九電力合計は1961年に火主水従
    • [23]大規模水力地点の減少と火力の大容量化・経済性・短い建設期間・少ない資金で火力重点の開発、1959年に火力194万5,000kWが水力177万5,000kWを上回り当社は1959年、九電力合計は1961年に火主水従
    • [25]大規模水力地点の減少と火力の大容量化・経済性・短い建設期間・少ない資金で火力重点の開発、1959年に火力194万5,000kWが水力177万5,000kWを上回り当社は1959年、九電力合計は1961年に火主水従
  • 企業の現代史 エネルギー革命の推進者(東京電力)1962
    • [26]1951年に引き継いだ発電設備約180万kWが1962年時点で約480万kW、水主火従から火主水従へ移行
    • [34]1962年時点で東京湾岸の火力は西側7か所と千住・千葉・五井の計10か所
  • 東京電力三十年史(1983) 一章 第三節「新鋭火力の建設」
    • [27]既設潮田・鶴見のボイラ増設、1953年6月鶴見第二・1954年3月新東京着工(国産機)、国内製造は7万5,000kW級まで、千葉火力1号機はGE社機器・ギルバート社設計・初の外資借款、12万5,000kW、1957年4月運転開始、熱効率37.2%(在来32.3%)、初号機輸入・2号機以降国産
    • [28]既設潮田・鶴見のボイラ増設、1953年6月鶴見第二・1954年3月新東京着工(国産機)、国内製造は7万5,000kW級まで、千葉火力1号機はGE社機器・ギルバート社設計・初の外資借款、12万5,000kW、1957年4月運転開始、熱効率37.2%(在来32.3%)、初号機輸入・2号機以降国産
    • [29]既設潮田・鶴見のボイラ増設、1953年6月鶴見第二・1954年3月新東京着工(国産機)、国内製造は7万5,000kW級まで、千葉火力1号機はGE社機器・ギルバート社設計・初の外資借款、12万5,000kW、1957年4月運転開始、熱効率37.2%(在来32.3%)、初号機輸入・2号機以降国産
    • [30]既設潮田・鶴見のボイラ増設、1953年6月鶴見第二・1954年3月新東京着工(国産機)、国内製造は7万5,000kW級まで、千葉火力1号機はGE社機器・ギルバート社設計・初の外資借款、12万5,000kW、1957年4月運転開始、熱効率37.2%(在来32.3%)、初号機輸入・2号機以降国産
    • [31]既設潮田・鶴見のボイラ増設、1953年6月鶴見第二・1954年3月新東京着工(国産機)、国内製造は7万5,000kW級まで、千葉火力1号機はGE社機器・ギルバート社設計・初の外資借款、12万5,000kW、1957年4月運転開始、熱効率37.2%(在来32.3%)、初号機輸入・2号機以降国産
    • [32]既設潮田・鶴見のボイラ増設、1953年6月鶴見第二・1954年3月新東京着工(国産機)、国内製造は7万5,000kW級まで、千葉火力1号機はGE社機器・ギルバート社設計・初の外資借款、12万5,000kW、1957年4月運転開始、熱効率37.2%(在来32.3%)、初号機輸入・2号機以降国産
    • [33]既設潮田・鶴見のボイラ増設、1953年6月鶴見第二・1954年3月新東京着工(国産機)、国内製造は7万5,000kW級まで、千葉火力1号機はGE社機器・ギルバート社設計・初の外資借款、12万5,000kW、1957年4月運転開始、熱効率37.2%(在来32.3%)、初号機輸入・2号機以降国産
  • 東京電力三十年史(1983) 一章 第一節「石炭事件と善後処理」
    • [35]1958年10月14日鶴見火力の分析係員が収賄容疑で逮捕、所長含む8名と本店資材部石炭課員2名起訴、役員1名に波及、12月9日緊急取締役会で高井社長・岡常務辞任、木川田副社長は常務に降格、非常勤取締役の青木均一が社長
    • [36]1958年10月14日鶴見火力の分析係員が収賄容疑で逮捕、所長含む8名と本店資材部石炭課員2名起訴、役員1名に波及、12月9日緊急取締役会で高井社長・岡常務辞任、木川田副社長は常務に降格、非常勤取締役の青木均一が社長
    • [38]1958年10月14日鶴見火力の分析係員が収賄容疑で逮捕、所長含む8名と本店資材部石炭課員2名起訴、役員1名に波及、12月9日緊急取締役会で高井社長・岡常務辞任、木川田副社長は常務に降格、非常勤取締役の青木均一が社長
    • [39]1958年10月14日鶴見火力の分析係員が収賄容疑で逮捕、所長含む8名と本店資材部石炭課員2名起訴、役員1名に波及、12月9日緊急取締役会で高井社長・岡常務辞任、木川田副社長は常務に降格、非常勤取締役の青木均一が社長
  • 私の履歴書 木川田一隆
    • [37]菅会長が役員全員の辞表をまとめ社外取締役石坂泰三に処置を一任、高井社長勇退、木川田は副社長を辞退し常務に、菅会長が青木均一を社長に推す
    • [40]菅会長が役員全員の辞表をまとめ社外取締役石坂泰三に処置を一任、高井社長勇退、木川田は副社長を辞退し常務に、菅会長が青木均一を社長に推す
  • 私の履歴書 青木均一
    • [41]青木均一は品川白煉瓦社長、1951年に松本烝治・松永安左エ門の要望で東京電力取締役、1958年末の汚職事件で社長

1959年〜青木均一社長の再建委員会と、木川田一隆社長の三大方針・重油専焼火力

青木均一氏は社長就任の翌日、全職員に自粛自戒と、進取と廉潔の社風を求める告示を出した。12月15日には自ら委員長となる再建委員会を設け、社風と人事、職制の運用、取引業務と内部監査の3部会で見直しを進めた。1959年2月には答申に沿って職制を改め、役職員270名を含む1,500名の人事異動を実施した。改革の焦点は内部監査の強化に置き、火力発電所を社長直属とし、燃料の発熱量を二重に確かめる中央分析所を新設した。同年4月には長期企画委員会を設け、12月に1975年までの17年間を見通す超長期計画を公表した。会長の菅礼之助氏は1961年の退任時の社報で、青木均一氏が手がけた仕事を長期計画とトップマネジメントの確立と振り返った。

  • 東京電力三十年史(1983) 一章 第一節「青木社長の就任と社風高揚」
    • [42]青木社長が就任翌日に社長告示、12月15日再建委員会(3専門部会)、1959年2月職制改革と役職員270名含む1,500名の異動、火力発電所を社長直属・中央分析所新設、1959年4月長期企画委員会、12月に1975年までの超長期計画を公表
    • [43]青木社長が就任翌日に社長告示、12月15日再建委員会(3専門部会)、1959年2月職制改革と役職員270名含む1,500名の異動、火力発電所を社長直属・中央分析所新設、1959年4月長期企画委員会、12月に1975年までの超長期計画を公表
    • [44]青木社長が就任翌日に社長告示、12月15日再建委員会(3専門部会)、1959年2月職制改革と役職員270名含む1,500名の異動、火力発電所を社長直属・中央分析所新設、1959年4月長期企画委員会、12月に1975年までの超長期計画を公表
    • [45]青木社長が就任翌日に社長告示、12月15日再建委員会(3専門部会)、1959年2月職制改革と役職員270名含む1,500名の異動、火力発電所を社長直属・中央分析所新設、1959年4月長期企画委員会、12月に1975年までの超長期計画を公表
    • [46]青木社長が就任翌日に社長告示、12月15日再建委員会(3専門部会)、1959年2月職制改革と役職員270名含む1,500名の異動、火力発電所を社長直属・中央分析所新設、1959年4月長期企画委員会、12月に1975年までの超長期計画を公表
  • 東京電力株式会社社報 1961年「会長就任のごあいさつ」ほか
    • [47]菅礼之助は汚職後の人事は公益機関として信用保持のためと述べ、青木が手がけた仕事を長期計画とトップマネジメントの確立と評価

1961年7月27日、東京電力は青木均一氏を会長に、副社長の木川田一隆氏を社長に選んだ。同月の料金改定で経営安定の足がかりは得たものの、1961年度上期の支払利息は前年同期比33.5%増の105億円に膨らんだ。1961年度の長期計画は1970年度の需要を1960年度の約3.2倍と見込み、それまでの工事資金を1兆6,000億円と見積もった。木川田一隆氏は就任後の談話で、公益事業を担う者としての誠実さと社員の人格の尊重を掲げた。1962年2月には、企業の体質改善、投資効率・資金効率の向上、サービスの向上の三大方針を打ち出した。木川田一隆氏は関東配電時代から、民有民営の自由企業が人の創意を引き出すという考えを持っていた。三大方針は、借入金に依存した設備拡張に歯止めをかける狙いを持っていたと思われる。

  • 東京電力三十年史(1983) 二章 第一節「木川田社長の就任と経営の刷新」
    • [48]1961年7月27日青木会長・木川田社長、菅は代表取締役辞任、1961年度上期支払利息105億円(前年同期比33.5%増)、自己資本比率29.3%、1961年度長期計画で1970年度需要は1960年度の約3.2倍・工事資金1兆6,000億円、就任談話、1962年2月三大方針
    • [49]1961年7月27日青木会長・木川田社長、菅は代表取締役辞任、1961年度上期支払利息105億円(前年同期比33.5%増)、自己資本比率29.3%、1961年度長期計画で1970年度需要は1960年度の約3.2倍・工事資金1兆6,000億円、就任談話、1962年2月三大方針
    • [50]1961年7月27日青木会長・木川田社長、菅は代表取締役辞任、1961年度上期支払利息105億円(前年同期比33.5%増)、自己資本比率29.3%、1961年度長期計画で1970年度需要は1960年度の約3.2倍・工事資金1兆6,000億円、就任談話、1962年2月三大方針
    • [51]1961年7月27日青木会長・木川田社長、菅は代表取締役辞任、1961年度上期支払利息105億円(前年同期比33.5%増)、自己資本比率29.3%、1961年度長期計画で1970年度需要は1960年度の約3.2倍・工事資金1兆6,000億円、就任談話、1962年2月三大方針
    • [52]1961年7月27日青木会長・木川田社長、菅は代表取締役辞任、1961年度上期支払利息105億円(前年同期比33.5%増)、自己資本比率29.3%、1961年度長期計画で1970年度需要は1960年度の約3.2倍・工事資金1兆6,000億円、就任談話、1962年2月三大方針
  • 私の履歴書 木川田一隆
    • [53]木川田一隆は創意工夫の発揮には民有民営の競争的自由企業・縦の一貫経営・地域分割が妥当と確信

1950年代後半から燃料は石炭から石油へ移り、東京電力は石炭火力にも重油専焼の設備を備えた。1960年度着工の横浜・五井両火力は、重油ボイラー規制法の緩和を受けた東京電力初の屋外式重油専焼火力であった。1963・1964年度には五井火力の新設と横須賀・川崎両火力の増設を進め、1965年度には1機60万kWの姉崎火力に着工した。1965年時点の東京電力は、急増する需要を大容量の重油専焼火力で賄い、ピークを水力に受け持たせる計画を示した。原子力では1955年11月に社長室へ原子力発電課を置き、1956年6月に東芝・日立の両グループと協同研究会を組織した。1964年には立地を福島県大熊地区に決め、双葉郡で用地の取得を終えて現地に調査所を置いた。

  • 東京電力三十年史(1983) 一章 第三節「石炭対策と重油ボイラの規制」「原子力発電への始動」
    • [54]石炭から石油への移行で石炭火力にも重油専焼設備、1960年度着工の横浜・五井は重油ボイラー規制法緩和による初の屋外式重油専焼火力、1955年11月原子力発電課、1956年6月東芝・日立と東電原子力発電協同研究会
    • [55]石炭から石油への移行で石炭火力にも重油専焼設備、1960年度着工の横浜・五井は重油ボイラー規制法緩和による初の屋外式重油専焼火力、1955年11月原子力発電課、1956年6月東芝・日立と東電原子力発電協同研究会
    • [58]石炭から石油への移行で石炭火力にも重油専焼設備、1960年度着工の横浜・五井は重油ボイラー規制法緩和による初の屋外式重油専焼火力、1955年11月原子力発電課、1956年6月東芝・日立と東電原子力発電協同研究会
  • 東京電力三十年史(1983) 二章 序
    • [56]1963-1964年度に五井火力新設・横須賀・川崎増設、1964年に原子力立地を福島県大熊地区に決定し調査所設置、1965年度に姉崎火力(1機60万kW)着工
    • [59]1963-1964年度に五井火力新設・横須賀・川崎増設、1964年に原子力立地を福島県大熊地区に決定し調査所設置、1965年度に姉崎火力(1機60万kW)着工
  • 証券アナリストジャーナル 1965年3巻1号(荘村義雄)
    • [57]急増需要は大容量重油専焼火力を主力、ピークは水力が分担する計画、福島県双葉郡の原子力発電所用地取得を完了し調査所・原子力発電準備委員会を設置
    • [60]急増需要は大容量重油専焼火力を主力、ピークは水力が分担する計画、福島県双葉郡の原子力発電所用地取得を完了し調査所・原子力発電準備委員会を設置
参考文献[42]-[60]
  • 東京電力三十年史(1983) 一章 第一節「青木社長の就任と社風高揚」
    • [42]青木社長が就任翌日に社長告示、12月15日再建委員会(3専門部会)、1959年2月職制改革と役職員270名含む1,500名の異動、火力発電所を社長直属・中央分析所新設、1959年4月長期企画委員会、12月に1975年までの超長期計画を公表
    • [43]青木社長が就任翌日に社長告示、12月15日再建委員会(3専門部会)、1959年2月職制改革と役職員270名含む1,500名の異動、火力発電所を社長直属・中央分析所新設、1959年4月長期企画委員会、12月に1975年までの超長期計画を公表
    • [44]青木社長が就任翌日に社長告示、12月15日再建委員会(3専門部会)、1959年2月職制改革と役職員270名含む1,500名の異動、火力発電所を社長直属・中央分析所新設、1959年4月長期企画委員会、12月に1975年までの超長期計画を公表
    • [45]青木社長が就任翌日に社長告示、12月15日再建委員会(3専門部会)、1959年2月職制改革と役職員270名含む1,500名の異動、火力発電所を社長直属・中央分析所新設、1959年4月長期企画委員会、12月に1975年までの超長期計画を公表
    • [46]青木社長が就任翌日に社長告示、12月15日再建委員会(3専門部会)、1959年2月職制改革と役職員270名含む1,500名の異動、火力発電所を社長直属・中央分析所新設、1959年4月長期企画委員会、12月に1975年までの超長期計画を公表
  • 東京電力株式会社社報 1961年「会長就任のごあいさつ」ほか
    • [47]菅礼之助は汚職後の人事は公益機関として信用保持のためと述べ、青木が手がけた仕事を長期計画とトップマネジメントの確立と評価
  • 東京電力三十年史(1983) 二章 第一節「木川田社長の就任と経営の刷新」
    • [48]1961年7月27日青木会長・木川田社長、菅は代表取締役辞任、1961年度上期支払利息105億円(前年同期比33.5%増)、自己資本比率29.3%、1961年度長期計画で1970年度需要は1960年度の約3.2倍・工事資金1兆6,000億円、就任談話、1962年2月三大方針
    • [49]1961年7月27日青木会長・木川田社長、菅は代表取締役辞任、1961年度上期支払利息105億円(前年同期比33.5%増)、自己資本比率29.3%、1961年度長期計画で1970年度需要は1960年度の約3.2倍・工事資金1兆6,000億円、就任談話、1962年2月三大方針
    • [50]1961年7月27日青木会長・木川田社長、菅は代表取締役辞任、1961年度上期支払利息105億円(前年同期比33.5%増)、自己資本比率29.3%、1961年度長期計画で1970年度需要は1960年度の約3.2倍・工事資金1兆6,000億円、就任談話、1962年2月三大方針
    • [51]1961年7月27日青木会長・木川田社長、菅は代表取締役辞任、1961年度上期支払利息105億円(前年同期比33.5%増)、自己資本比率29.3%、1961年度長期計画で1970年度需要は1960年度の約3.2倍・工事資金1兆6,000億円、就任談話、1962年2月三大方針
    • [52]1961年7月27日青木会長・木川田社長、菅は代表取締役辞任、1961年度上期支払利息105億円(前年同期比33.5%増)、自己資本比率29.3%、1961年度長期計画で1970年度需要は1960年度の約3.2倍・工事資金1兆6,000億円、就任談話、1962年2月三大方針
  • 私の履歴書 木川田一隆
    • [53]木川田一隆は創意工夫の発揮には民有民営の競争的自由企業・縦の一貫経営・地域分割が妥当と確信
  • 東京電力三十年史(1983) 一章 第三節「石炭対策と重油ボイラの規制」「原子力発電への始動」
    • [54]石炭から石油への移行で石炭火力にも重油専焼設備、1960年度着工の横浜・五井は重油ボイラー規制法緩和による初の屋外式重油専焼火力、1955年11月原子力発電課、1956年6月東芝・日立と東電原子力発電協同研究会
    • [55]石炭から石油への移行で石炭火力にも重油専焼設備、1960年度着工の横浜・五井は重油ボイラー規制法緩和による初の屋外式重油専焼火力、1955年11月原子力発電課、1956年6月東芝・日立と東電原子力発電協同研究会
    • [58]石炭から石油への移行で石炭火力にも重油専焼設備、1960年度着工の横浜・五井は重油ボイラー規制法緩和による初の屋外式重油専焼火力、1955年11月原子力発電課、1956年6月東芝・日立と東電原子力発電協同研究会
  • 東京電力三十年史(1983) 二章 序
    • [56]1963-1964年度に五井火力新設・横須賀・川崎増設、1964年に原子力立地を福島県大熊地区に決定し調査所設置、1965年度に姉崎火力(1機60万kW)着工
    • [59]1963-1964年度に五井火力新設・横須賀・川崎増設、1964年に原子力立地を福島県大熊地区に決定し調査所設置、1965年度に姉崎火力(1機60万kW)着工
  • 証券アナリストジャーナル 1965年3巻1号(荘村義雄)
    • [57]急増需要は大容量重油専焼火力を主力、ピークは水力が分担する計画、福島県双葉郡の原子力発電所用地取得を完了し調査所・原子力発電準備委員会を設置
    • [60]急増需要は大容量重油専焼火力を主力、ピークは水力が分担する計画、福島県双葉郡の原子力発電所用地取得を完了し調査所・原子力発電準備委員会を設置

第2章 1966-2001 (気が向いたら執筆します!) 福島第一原子力発電所の着工と柏崎刈羽原発、海外電力事業の開始

第3章 2002-2010 (気が向いたら執筆します!) 原発検査データ改ざんと通信事業の参入・撤退、中越沖地震と初の赤字

第4章 2011-2026 (気が向いたら執筆します!) 福島第一原発事故と実質国有化、JERA設立と持株会社体制

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

歴史年表 1951〜2024年

東京電力ホールディングスの沿革1951〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1951〜1965年東京電力の発足と火主水従への電源転換安蔵彌輔東京電力設立★
安蔵彌輔東京・大阪両証券取引所市場第一部に上場★
高井亮太郎水力中心の電源構成を改め、火力を基幹に据えた供給体制の組み替え

1955年8月、東京電力が従来の"水主火従"原則による電力設備増強計画を"火主水従"へ改め、天候に左右されにくい火力を供給の基幹電源に据える転換に踏み切った経営判断。戦後の需要膨張と渇水による供給危機がその引き金となった。

詳細を読む
★★★
木川田一隆名古屋証券取引所市場第一部に上場★
木川田一隆姫川電力を子会社化★
1966〜2001年福島第一原子力発電所の着工と柏崎刈羽原発、海外電力事業の開始木川田一隆原子力を主力電源に据える選択と、その第一号機の実現

1966年、東京電力が福島県双葉郡に福島第一原子力発電所1号機を着工し、1971年3月に営業運転を開始した経営判断。米ゼネラル・エレクトリック社が設計した沸騰水型軽水炉を採用し、出力46万kWは日本の40万kW級商用原発の先駆けとなった。木川田一隆社長のもとで原子力を基幹電源に据えた。

詳細を読む
★★★
水野久男福島第一原子力発電所1号機営業運転開始★★
那須翔柏崎刈羽原子力発電所1号機営業運転開始★
那須翔テプコケーブルテレビを設立★
荒木浩テプコ・リソーシズ社設立★
南直哉海外電力事業の統括会社TEPCインターナショナルを設立★
2002〜2010年原発検査データ改ざんと通信事業の参入・撤退、中越沖地震と初の赤字南直哉原発検査データ改ざん問題の発覚★★
勝俣恒久パワードコムを子会社化し通信事業へ参入★
勝俣恒久パワードコムをKDDIと合併し通信事業から撤退★★
勝俣恒久新潟県中越沖地震により柏崎刈羽原発が全基停止★
勝俣恒久初の純損失を計上★
2011〜2026年福島第一原発事故と実質国有化、JERA設立と持株会社体制清水正孝東日本大震災・福島第一原子力発電所事故★★
清水正孝FY10に純損失1兆2473億円を計上★
廣瀬直己1兆円の公的資金の受け入れと、議決権の過半の政府への移転

2012年7月31日、政府が原子力損害賠償支援機構を通じて東京電力へ1兆円を出資し、議決権の50.11%を取得した。同年5月に総合特別事業計画を発表し、6月末には委員会設置会社へ移行して廣瀬直己氏が社長、下河辺和彦氏が会長に就任している。民間電力会社が国の管理下で経営を続ける枠組みがここで成立した。

詳細を読む
★★
廣瀬直己燃料調達まで含めて中部電力との合弁へ委ねた発電資産の切り出し

2015年4月に燃料・火力発電、送配電、小売電気の3つの分割準備会社を設立し、同年10月には中部電力との合弁会社JERAが燃料輸送事業と燃料トレーディング事業を承継した。2016年7月に既存の燃料上流・調達事業と海外火力IPP事業、2019年4月には既存火力発電事業が移り、東京電力は自社の火力発電所を持たない電力会社になった。

詳細を読む
★★★
廣瀬直己東京電力HDに商号変更、HDス体制に移行★★
小早川智明小早川智明氏が代表執行役社長に就任★
小早川智明リニューアブルパワーに再エネ事業を承継★
小早川智明ユーラスエナジーHDの株式を全数譲渡★
小早川智明FY22に経常損失2853億円、純損失1236億円を計上★
小早川智明FY23に経常利益4255億円、純利益2678億円に回復★
出典・参考 19件
出典・参考
  • 東京電力三十年史(1983) 一章 第一節「新木会長、安藏社長の和の経営」
  • 東京電力三十年史(1983) 一章 第一節「高井社長、菅会長の就任」「資本費の高騰と料金改定」
  • 東京電力三十年史(1983) 一章 第二節「臨時湖面低下」
  • 東京電力三十年史(1983) 一章 序「経済の復興と電源開発」
  • 東京電力三十年史(1983) 一章 第三節「新鋭火力の建設」
  • 東京電力三十年史(1983) 一章 第一節「石炭事件と善後処理」
  • 東京電力三十年史(1983) 一章 第一節「青木社長の就任と社風高揚」
  • 東京電力三十年史(1983) 二章 第一節「木川田社長の就任と経営の刷新」
  • 東京電力三十年史(1983) 一章 第三節「石炭対策と重油ボイラの規制」「原子力発電への始動」
  • 東京電力三十年史(1983) 二章 序
  • 株式会社年鑑 1953年版 東京電力
  • 企業の現代史 エネルギー革命の推進者(東京電力)1962
  • 私の履歴書 木川田一隆
  • 私の履歴書 松永安左エ門
  • 私の履歴書 青木均一
  • 証券アナリストジャーナル 1965年3巻1号(荘村義雄)
  • 読売新聞(1953年2月5日)
  • 読売新聞(1955年8月13日)
  • 東京電力株式会社社報 1961年「会長就任のごあいさつ」ほか

免責事項およびポリシー