創業期の関西電力が解かねばならなかったのは、電気をどう作るかではなく、作るための資金をどこから取るかという問いだった。1951年に引き継いだのは228万kWの設備だが、水力発電所133カ所のうち97カ所は流水量を調整できない流込式で、渇水が来れば出力はそのまま低下する。補うべき火力には九州の中小炭鉱からの石炭が届かず、貯炭は1カ月の消費量しかなかった。太田垣士郎氏が掲げた需給・料金・労使の三つの安定は、並列の目標ではない。料金を適正な水準へ改めて資金を作り、争議を止めて操業を保ち、その資金で電源を開発するという、一本の順序である。
黒部川第四発電所は、その順序が届いた先にあった。370億円の見積もりが500億円余へ膨らむ工事を発足5年の会社が引き受けられたのは、3次の改定で原価を賄える料金を得ていたからである。ところが黒四が竣工した1963年、水力はすでに主役ではなかった。1961年に全国の火力設備が水力を超え、黒四は最大級の水力であると同時に、火力が担うベース負荷の脇でピークを調整する装置として位置づけ直される。社運を託した工事は、水主火従という時代の最後の記念碑になった。
1951年5月1日、電気事業再編成令にもとづき、日本発送電と9つの配電会社が解散し、発送配電を一貫して営む9社が発足した。関西電力はその一社として、日本発送電から8億4000万円、関西配電から8億5000万円の現物出資を受け、資本金16億9000万円をもって設立された。発足時の発電設備は水力113万kWと火力115万kWの合計228万kW、年間販売電力量は5655百万kWh、年度末の契約口数は268万3000口だった。会長には堀新氏、社長には太田垣士郎氏が就任し、本社を大阪市北区梅ケ枝町に置いた。同年7月に大阪証券取引所、8月に東京証券取引所へ株式を上場し、額面500円の株式338万株のうち関西配電分が170万株、日本発送電分が168万株を占めた。
京阪神急行電鉄の社長だった太田垣士郎氏は、1950年4月の参議院電力特別委員会で公述人を務めている。そこでは、責任の帰属があいまいで独立採算も顧みられていないという理由を挙げ、発送配電を一貫して担う9ブロック会社の設立を支持した。初代社長の候補に推されたのは、この太田垣氏である。会長となる堀新氏は、引き受けの条件として社長の人選を任されていたとされ、関係者は三顧の礼を尽くしてようやく就任を取りつけた。内定から就任までの短期間に太田垣氏がまとめたのは、電力需給・料金・労使関係の三つの安定を掲げる方針で、需給は電源開発を積極的に進めて、料金は適正水準への引き上げと社内の合理化で、労使は企業別組合との交渉で解くという、発足時の三つの難問にそのまま応じる組み立てだった。
発足した1951年の夏から冬にかけて、関西地域は異常渇水に見舞われた。1951年度末の水力発電所133カ所のうち97カ所、72%は流水量を調整できない流込式で、渇水はそのまま発電能力の低下を意味した。水力を補うべき火力も、石炭不足で役割を果たせない。発足当時の貯炭量は約8万トンと、平水時の1カ月の消費量にあたるだけだった。朝鮮動乱ブームのさなかで産炭地には現金を持参した買い手が殺到し、本来は電力へ向かうはずの石炭が特需へさらわれた。9月には公益事業委員会が告示制限に踏み切り、大口工場へ週2日の休電日と使用電力量の50%抑制を課し、一般には週3回の昼間停電を行なった。太田垣氏ら経営陣は九州へ出向き、数日にわたって徹夜の買付交渉を繰り返した。
発足直後の関西電力が抱えた課題は需要の伸びに供給が追いつかないことで、管内の電力需要は年10%程度の増加が続いていた。1951年度から1953年度までの3年間で水力65万kW・火力32万kWの合計97万kWを開発する計画を立てても、平水年で年30億kWh以上の不足が残る見通しだった。同年、関西電力は公益事業委員会へ料金の改定を申請し、定額電灯40%、従量電灯26%、大口電灯31%の引き上げが認められた。申請の理由には物件費と人件費の上昇、需要増にともなう修繕費の増加、減価償却費の増加が挙げられている。改定は1951年8月、1952年5月、1954年10月の3次にわたり、以後は合理化で原価の上昇を吸収して1968年まで料金を改定しなかった。
発足時の電気事業が向き合っていたのは、9社を横断する産業別組合の電産だった。関西では1953年5月2日、有志3500名の手で企業別の関西電力労働組合が生まれた。1952年秋の大争議を受けて、電気事業及び石炭鉱業の争議行為の方法の規制に関する法律ができたのは1953年8月である。この間の1953年7月に会社は関労と初の労働協約を交わし、8月には加入者が従業員の過半を占めた。1956年5月の電産関西地方本部の解散で、従業員の組合は関労ひとつに絞られる。1958年4月に結んだ新協約は、双方の理解と信頼を土台に企業の運営を滑らかに進めることをうたった。賃金の面では、物価の変動に連動する電産型の体系が1956年になくなり、1955年からは毎年4月に定期昇給を行う制度が定着した。
合理化の成果は送配電の損失に表れた。総合ロス率は発足した1951年度末に32.1%と、全国平均の26.4%を大幅に上回っていたが、1955年度末に22.7%、1957年度には17.9%まで下がった。合理化の方向は、1955年春に示された経営合理化10原則で具体的に定まった。それに先立つ1951年12月の組織簡素化では、役職を外れた部課長約30名が3人ずつ10班に分けられた。この移動特命チームが管内8支店4支社を巡り、経理の状態、資材の扱い、サービスの状態を点検している。堀会長が1957年の年頭挨拶で説いたのは、サービスの心を見失った合理化など、血の通わない死物と変わらないということだった『経営合理化を進める上には、その裏付けとして、需要家に対するサービスの点に特に留意すべきであります。サービスの精神を没却した合理化は血の通わない死物同然のものというべきであって、それではまことの社業の発展はあり得ないのであります』。1959年度になると供給に余力が見込めるようになり、電気の質を高めることとサービス活動を積極的に進めることが重点となった。
1950年代のなかばには全国で水力開発が最盛期を迎え、佐久間、田子倉、御母衣、奥只見といった大規模地点が相次いで工事に入っていた。黒部川の電源開発は北陸電力・電源開発・関西電力の三社が計画しており、1956年5月に電源開発調整審議会が事業主体を関西電力と決め、同年6月に出力25万8000kWの黒部川第四発電所の計画が発表された。7月には長野県大町に建設事務所を開設し、工区ごとに特命で工事契約を締結した。大町から赤沢岳を貫きダムサイトへ至る第三工区は熊谷組、高さ182m・堤頂長526mのアーチダム本体は間組、地下150mの発電所は大成建設が請け負い、鹿島建設・佐藤工業・清水建設なども工区を分担した。
工事は大町ルートで80mにおよぶ破砕帯に突き当たり、ダム地点では第7号台風、黒部ルートと地下発電所では高熱と高湿に見舞われた。工費は当初見込んだ370億円から、500億円あまりへとかさんだ。難所の突破には、28トンダンプ、ドリルジャンボー、ロッカーショベル、長大ベルトコンベヤーなどの大型機械を組み合わせて当たっている。ルートを捨てるべきだという声もあったが、経営陣は工事の続行を選んだ。技術者はこれを機に奮い立ち、全社員がこの工事を注視するようになった。太田垣氏は、九分九厘安全と分かっている仕事なら誰でもこなせるとし、現にある危険をどう乗り越えるかに経営者の力量が問われると書いた。1963年6月に竣工式が開かれた。佐久間や黒部第四のような大工事を通じ、日本の土木事業では機械の導入が本格的に進んだ。
関西電力は黒部川第四発電所と同じ1956年に、大容量高性能の新鋭火力である大阪発電所の建設にも着工している。水力は地理的にも経済的にも開発可能な地点が残り少なく、急増する需要をまかなうには供給の基礎を火力に置き、調整能力を持つ水力をピーク負荷へ充当する火主水従へ転じるほかなかった。1961年には九電力合計で火力975万kWが水力944万kWを上回り、大正以来の水主火従は主役の座を譲った。燃料も石炭から石油へ移り、石炭と石油の比率は1955年度の92対8から1965年度には45対54へ逆転する。1959年11月、太田垣氏は会長へ退き、芦原義重副社長が社長に就任した。在任8年余の間に資本金は6回の増資で315億円となり、発電設備364万kW、販売電力量は創立時の2.4倍の138億kWhに達していた。
19年間料金を据え置いたことは、関西電力の誇りであると同時に負債でもあった。据え置きを支えたのは、従業員を1割減らしながら管内需要を8倍にした生産性であり、火力の熱効率を22.2%から37.7%へ引き上げた技術である。だが設備に蓄えず内部留保に蓄えるという選び方は、供給力の余裕を削減することでもあった。1973年の夏に13回のピークカットを課された管内の工場は、優等生の合理化がどこへ皺寄せされていたのかを知ることになる。電力業界の優等生と呼ばれた会社が、列島を襲う電力危機の震源地と書かれた年である。
芦原義重が悔やんだのは、値上げをしなかったことそのものではない。1961年に東京電力と同じ13.7%を取っていれば6000億円の内部留保ができていたという述懐は、安い料金で得た信用を、立地の同意や燃料の先手に換えそこねたという認識に近い。東京電力がミナス原油とLNGの導入で自治体の信頼を買っていた同じ時期、関西電力は原子力へ一気に移る自信を持って共同購入の誘いを断った。美浜の原子力は1970年に万国博へ灯をともし、1979年のトラブルが重なった1980年3月期には創業以来の赤字の主因になる。一つの電源へ寄せた重みは、上向きにも下向きにも同じだけ効いた。
1965年の日本経済は不況のうちに明けた。5月には山一証券の経営が行き詰まり、日本銀行法25条の発動による無担保・無制限融資で最悪の事態だけが回避された。産業界の不振は関西電力の販売電力量に直に響く。1965年度の産業向け販売電力量の伸びはわずか2.9%にとどまり、翌年以降の増加率と対照をなした。管内の電力多消費業種を前年度比の指数でみると、鉄鋼94.7、電気機械96.8と前年を割り込んでいる。芦原義重社長は同年7月の定例幹部会議で、不況対策を短期ではなく長期の視野から立てる方針を示し、種別と地域の特性に応じた販売促進を指示した。促進はサービスの向上と表裏一体で進めるものとされ、電気を多く売って収益を上げればよいという立て方は退けられた。
原子力の調査と研究は発足直後から始まっていた。福井県美浜町丹生地区が建設予定地と定まったのは1962年11月で、その前年の1961年には、原子力委員会の第1次原子力開発利用長期計画に1号炉がすでに組み込まれていた。1966年1月には社長を委員長とする原子力発電所建設推進会議を置き、同月の定例幹部会議で芦原社長は、黒四の破砕帯での苦労をはるかに超える困難に必ずぶつかると覚悟するよう社員に求めた。美浜発電所建設事務所の開設は同年12月で、万国博に原子の灯をを合言葉に工事が始まる。1970年8月8日には出力1万kWの電気が27万5000Vの若狭幹線で万国博会場に届けられ、営業運転は同年11月28日に始まった。総工事費は315億円だった。
料金を据え置いたまま、業績は伸びた。期間総利益は1966年度193億円、1968年度258億円、1969年度276億円、1970年度258億円と推移している。原価の上昇要因を抱えながら決算が保てた理由は、設備の合理化と省力化にあった。従業員1人当たりの電気事業固定資産額は1961年度の1214万円から1965年度1848万円、1970年度2839万円へ増え、1人当たり販売電力量は1961年度の84万1000kWhから1965年度125万kWh、1970年度240万6000kWhへ伸びた。1970年時点の料金単価は、電燈と電力の合計で東京電力が6円69銭、関西電力が5円89銭と、1kWh当たり60銭の開きがあった。1970年11月27日、芦原社長が会長へ、吉村清三副社長が社長に就任した。
運転開始を控えた海南発電所3号機は、総合試運転の最中だった。1972年6月5日、この機でタービンと発電機が壊れて火が出て、3号機と4号機の計120万kWが停止した。6月15日には美浜発電所1号機も、蒸気発生器の細管から一次冷却水が漏れて止まり、調べて直すまでに相当の日数がかかると判明する。この夏、供給の見込みは大きく外れた。翌1973年の夏も、7月初旬から平年を3度近く上回る炎暑となり、7月10日から13日にかけて初の4日連続となるピークカットを実施している。光化学スモッグの予報や注意報が出るたび自治体は発電所の出力を落とすよう指示し、関西電力は契約電力500kW以上の2660軒へ節電を要請した。前年の夏に1回だったピークカットは、この夏13回に及んだ。
立地の条件は反転した。管内の人口と工場は大阪湾と瀬戸内海の沿岸に集中していた。そのため臨海部の火力発電所は需要地に近く、送電設備の負担も送電損失も小さく済んだが、公害問題が深まると、人の多い地域で新設や増設を進めることはきわめて難しくなった。人口の少ない地域に移ろうとしても、残された海岸線は大半が国立公園または国定公園の指定を受けていた。企業が公害防止にどう向き合うかが厳しく問われるきっかけは、1972年の四日市公害訴訟での被害者側の全面勝訴だった。大阪地裁には1973年12月、多奈川第二発電所の建設差し止めと損害賠償を求める訴えが起こされ、1974年3月には105名の第2次原告団も加わった。大阪府が出力規模を半減すれば府の環境管理計画に適合すると判断したため、関西電力は4基の方針を2基へ改め、1974年5月6日に黒田知事と公害防止協定を結んだ。
内部留保の充実を設備への資産積み増しより優先したため、設備投資は必要最小限に抑えられ、需要業界からは合理化のための合理化と批判された。供給力の薄さは、こうした経営姿勢そのものに根があった。1966年度末の自己資本比率は38.5%と東京電力の26.9%を10ポイント以上上回り、設備投資額は1968年度の1057億円から1972年度の2954億円へ増えた。一方、1962年に無公害を掲げてミナス原油と長期契約のLNGへ踏み切った東京電力から共同購入を持ちかけられた際、関西電力は原子力へ一気に移る自信を背景にこれを断っていた。芦原会長は、1961年に東京電力と同じ値上げをしていればどれだけの内部留保ができていたかを悔やんだ『うちが36年に東京電力と同じに13.7%の値上げをやっていれば、年間500億円の増収で、ざっと6000億円の内部留保ができていたのに』。
1972年度の料金は、九電力会社のなかで最低の水準にあった。1954年10月を100とする1972年10月の料金指数は、大阪の都市ガス112、水道163、国鉄の旅客1km200、大阪市営地下鉄333で、電気だけが据え置かれている。据え置きを支えたのは生産性だった。管内の電力需要が約8倍に増えるあいだ、従業員数は1954年度末の2万3700人から1972年度末の2万1600人へ1割ほど減り、火力の熱効率は22.2%から37.7%へ、電力損失率は24.7%から9.6%へ改善した。だが効率と損失率の曲線は1972年度に近づくにつれ水平になり、長く料金の安定に寄与してきた合理化のメリットは技術的な限界に達していた。
コストの上昇は加速した。1968年度から1972年度までの5年間で公害対策に約360億円を投じ、1972年度末に作った10年間の長期計画では火力部門の公害対策投資が910億円、総投資額の4分の1を占める見込みとなった。使用燃料の硫黄含有率は1965年度の2.5%から1972年度の0.68%へ下がったが、そのミナス原油の1972年価格は1969年比で約50%高に達している。1973年6月20日に通産省へ申請した改定は、電燈平均15.8%に対し電力平均35.2%と、産業用へ寄せた配分だった。石油ショックを挟んだ1974年4月8日の再申請は53.40%、内訳は電燈33.89%・電力63.31%に及び、家庭用には月100kWhまでを低廉に抑える3段階料金制が導入された。
原子力を軸に供給力を確保することが、電源立地の重点項目とされた。それを掲げたのが1975年4月に発表された新経営5カ年計画である。計画は、高度成長期の惰性から抜け出し、乏しい資源と資金を最も生かす道として、原子力発電に全力を注ぐとした。1980年3月期、売上高は1兆2224億1100万円まで増える。しかし経常損益は311億3700万円、当期損益は187億6700万円と、いずれも損失だった。1979年にトラブルが続いて原子力の稼働が落ちたうえ、石油価格の高騰と急速な円安で燃料費がかさんだことが響いた。中間配当は年6分相当に引き下げられ、小林庄一郎社長はこの事態を創業以来の業績悪化と位置づけた。九電力で最高の原子力比率は、動かない年には最大の負担へ転じた。
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|---|---|---|---|---|
| 1951〜1963年電気事業再編成による発足と黒部川第四発電所の建設 | 太田垣士郎 | 電気料金の引き上げが認可 | ★★ | |
| 太田垣士郎 | 電気事業再編成令により発足 | ★★★ | ||
| 太田垣士郎 | 太田垣士郎氏が社長に就任 | ★ | ||
| 太田垣士郎 | 本社を開設 | ★ | ||
| 太田垣士郎 | 大阪証券取引所に上場 | ★ | ||
| 太田垣士郎 | 東京証券取引所に上場 | ★ | ||
| 太田垣士郎 | 電気料金を改定 | ★ | ||
| 太田垣士郎 | 黒部川第四発電所の事業主体に決定 | ★★ | ||
| 太田垣士郎 | 黒部川第四発電所の新設工事に着手 | ★ | ||
| 太田垣士郎 | 原子力部を設置 | ★★ | ||
| 太田垣士郎 | 大町トンネルの掘削で断層破砕帯に直面 | ★ | ||
| 芦原義重 | 芦原義重氏が社長に就任 | ★ | ||
| 芦原義重 | 火力設備の出力が水力設備を上回る | ★★ | ||
| 芦原義重 | 黒部川第四発電所が竣工 | ★★ | ||
| 1964〜1990年原子力への傾斜と料金据え置きが残した代償 | 芦原義重 | 美浜発電所1号機の建設に着手 | ★★ | |
| 芦原義重 | ウラン精鉱の長期購入契約に調印 | ★ | ||
| 吉村清三 | 吉村清三氏が社長に就任 | ★ | ||
| 吉村清三 | 美浜発電所1号機が営業運転を開始 | ★★★ | ||
| 吉村清三 | 大口需要家へのピークカットを9回発令 | ★★ | ||
| 吉村清三 | 電灯15.8%・電力35.2%の値上げを申請 | ★★★ | ||
| 吉村清三 | ボイラーメーカーに窒素酸化物除去率の保証を要求 | ★ | ||
| 森岡俊男 | 森岡俊男氏が社長に就任 | ★ | ||
| 森岡俊男 | 美浜発電所3号機の運転を開始 | ★ | ||
| 小林庄一郎 | 小林庄一郎氏が社長に就任 | ★ | ||
| 小林庄一郎 | 大飯発電所1号機の運転を停止 | ★★ | ||
| 小林庄一郎 | 姫路LNG施設が営業運転を開始 | ★ | ||
| 小林庄一郎 | 核燃料サイクル3施設の立地を申し入れ | ★★ | ||
| 森井清二 | 森井清二氏が社長に就任 | ★ | ||
| 森井清二 | 芦原義重氏を取締役から解任 | ★★ | ||
| 森井清二 | 関西通信設備サービスを設立 | ★ | ||
| 1991〜2010年美浜で起きた二度の原子力事故と自由化への対応 | 森井清二 | 事故を受けた自主保安体制の立て直し 1991年2月9日、関西電力の美浜発電所2号機で蒸気発生器の伝熱管が破断し、非常用炉心冷却装置(ECCS)が作動した。国内の商用原発で初めてECCSが働いた大規模事故であった。 詳細を読む | ★★★ | |
| 秋山喜久 | 秋山喜久氏が社長に就任 | ★ | ||
| 秋山喜久 | 社長が原子力本部長を兼ねる制度に改正 | ★★ | ||
| 秋山喜久 | 阪神・淡路大震災の被災地で応急送電が完了 | ★★ | ||
| 秋山喜久 | 初めて電気卸の入札を実施 | ★★ | ||
| 石川博志 | 石川博志氏が社長に就任 | ★ | ||
| 石川博志 | ケイ・オプティコムを設立 | ★★ | ||
| 石川博志 | 電力の小売部分自由化が開始 | ★★ | ||
| 石川博志 | 関電ガス・アンド・コージェネレーションを設立 | ★ | ||
| 藤洋作 | 藤洋作氏が社長に就任 | ★ | ||
| 藤洋作 | 「エコキュート」を開発 | ★★ | ||
| 藤洋作 | 全原発停止に至った安全対策の見直しと、保守を担うサポート子会社の再編 2004年8月9日、関西電力の美浜発電所3号機で2次系配管が破損し、高温の2次冷却水を浴びた協力会社の作業員5名が死亡、6名が負傷した。破損箇所は1976年の運転開始から28年間、点検リストから漏れたまま放置されていた。関西電力は保有する全11基の原発を順次停止して総点検し、事故対応の過程で安全管理を担うサポート子会社26社を専門分野別の11社へ再編した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 藤洋作 | 保有する原子力発電所11基を順次停止して点検 | ★★ | ||
| 藤洋作 | 子会社26社を専門分野別11社に再編 | ★ | ||
| 藤洋作 | 原子力安全・保安院の調査委員会が最終報告書を公表 | ★★ | ||
| 森詳介 | 森詳介氏が社長に就任 | ★ | ||
| 森詳介 | 初の経常赤字を計上 | ★★ | ||
| 八木誠 | 八木誠氏が社長に就任 | ★ | ||
| 2011〜2026年東日本大震災後の4期連続赤字と信用の立て直し | 八木誠 | 原子力の停止により過去最大の経常赤字を計上 | ★★ | |
| 八木誠 | BPと15年間のLNG購入で基本合意 | ★★ | ||
| 八木誠 | 電気料金を平均9.75%値上げ | ★★ | ||
| 八木誠 | 高浜発電所3・4号機が再稼働 | ★★ | ||
| 八木誠 | 大津地裁の仮処分により高浜発電所3号機を停止 | ★★ | ||
| 八木誠 | 5期ぶりに経常黒字を回復 | ★ | ||
| 八木誠 | 電力の小売全面自由化が開始 | ★★ | ||
| 岩根茂樹 | 岩根茂樹氏が社長に就任 | ★ | ||
| 岩根茂樹 | 大阪ガスの一般料金を下回るガス料金プランを発表 | ★★ | ||
| 岩根茂樹 | 役員らの金品受領問題の露見と、第三者委員会設置・指名委員会等設置会社移行によるガバナンス再建 2019年9月、役員らが高浜原子力発電所を擁する福井県高浜町の元助役・森山栄治氏から金品を受け取っていた問題が明るみに出た。10月には客観的かつ徹底的な調査を行うため、中立・公正な社外委員のみで構成する第三者委員会を設置し、同月9日には取締役2名が辞任した。 2020年3月14日に調査報告書を受領して同日に経営刷新本部を設置、同月29日に経済産業省から電気事業法に基づく業務改善命令を受け、30日に業務改善計画を経済産業大臣へ提出した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 岩根茂樹 | 八木誠氏ら取締役2名が辞任 | ★★ | ||
| 岩根茂樹 | 「ゼロカーボンビジョン2050」を策定 | ★ | ||
| 森本孝 | 森本孝氏が社長に就任 | ★ | ||
| 森本孝 | 第三者委員会が金品受領の事実を認定 | ★★ | ||
| 森本孝 | 経済産業省から業務改善命令 | ★★ | ||
| 森本孝 | 関西電力送配電を分社化 | ★★ | ||
| 森本孝 | 指名委員会等設置会社に移行 | ★★ | ||
| 森本孝 | 公正取引委員会の立入検査 | ★★ | ||
| 森望 | 森望氏が社長に就任 | ★ | ||
| 森望 | 新電力の顧客情報の不正閲覧が発覚 | ★★ | ||
| 森望 | 原子力プラント7基体制を実現 | ★★ | ||
| 森望 | 過去最高益を計上 | ★ | ||
| 森望 | 姫路第二発電所で混焼率30%の水素発電を達成 | ★ | ||
| 森望 | 「関西電力グループ 経営計画2026」を策定 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(関西電力)