中部電力 の歴史

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創業 1951年
母体 中部配電+日本発送電
創業地 愛知県名古屋市
創業 1951年5月、電気事業再編成令にもとづき中部配電と日本発送電から設備の出資と譲
1951年5月、電気事業再編成令にもとづき中部配電と日本発送電から設備の出資と譲渡を受け、名古屋で中部電力が発足した。同年8月に東京・名古屋・大阪の各証券取引所へ上場し、愛知・岐阜・三重・静岡・長野の5県を供給区域とする発送配電一貫の民間会社となった。九電力体制のなかでは東京電力・関西電力に次ぐ規模だが、首都圏や関西圏のような大消費地は持たず、自動車と機械の集まる中京工業地帯の産業用需要が収益を支えた。工場の稼働に電力消費が連動するため景気の波を受けやすく、産業用の大口需要に寄りかかった発足時の顧客構成が、以後の収益の振れ幅を決めた。
決断 発電から小売までの一貫体制を、みずから解いてきた。2008年12月、東海地震の想
発電から小売までの一貫体制を、みずから解いてきた。2008年12月、東海地震の想定震源域に立つ老朽の浜岡1・2号機を耐震補強で延命させず、運転を終えて廃炉とする方針を決めた。2011年5月には政府の要請で浜岡の全号機が止まり、代替火力の焚き増しが年約2,500億円の燃料費増をもたらして、2012年3月期から3期続けて経常赤字を計上した。この負担を抱えきれず、2015年4月に東京電力と折半出資のJERAを設立して、4年がかりで国内の火力発電事業を全面的に移管した。2020年4月には送配電と小売を分社し、みずからは持株会社となった。切り離すたびに損益計算書から燃料費と減価償却費が消え、代わりに持分法による投資利益という一行が残った。
現況 収益源は発電所ではなく、電気を売る事業と送る事業である。2026年3月期の連結売
収益源は発電所ではなく、電気を売る事業と送る事業である。2026年3月期の連結売上高は3兆5,460億円、営業利益は2,300億円で、報告セグメントは小売の中部電力ミライズ、送配電の中部電力パワーグリッド、JERAの3つに整理されている。売上の8割にあたる2兆8,151億円をミライズが占め、セグメント利益もミライズ1,380億円・パワーグリッド476億円と、この2社で営業利益のほぼ全額を説明できる。JERAは持分法による投資利益942億円として営業外に載り、経常利益2,911億円のおよそ3割を占める。自社で火力を持たず浜岡も2011年から止まったままであることが、電気を市場から買う立場を固定し、燃料相場の振れをそのまま小売の損益へ通す構造を作った。
競合 同じ原発停止でも、再稼働へ経営資源を投じるか発電から降りるかで道が分かれた。20
同じ原発停止でも、再稼働へ経営資源を投じるか発電から降りるかで道が分かれた。2011年に全国の原発が止まったあと、九州電力は値上げで当座をしのぎながら川内1・2号機を審査の先頭に置き、2015年に再稼働へこぎつけた。中部電力の浜岡は東海地震の想定震源域という立地から審査が長引き、2023年に基準地震動が確定したものの、その策定に不適切な事案が発覚して2026年9月に3・4号機の申請を取り下げた。再稼働を待てないまま、中部電力は火力を東京電力と統合し、みずからは発電の外側へ回った。相手の東京電力が1兆円の公的資金を受けて議決権の過半を政府へ渡したのに対し、中部電力は独立を保ったまま発電から降りた。原子力で燃料費を取り戻す手段を断たれたため、電気の外に利益を求めるほかなく、2021年の日本エスコン、2024年のジェネックスと不動産と再生可能エネルギーの買収へ資本を回している。
長期業績の推移 1951〜2026年
中部電力:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
1997年3月期〜2026年3月期

第1章 1951年〜 九分割による発足から、世界銀行借款の新鋭火力と伊勢湾台風の復旧まで

筆者考察y.sugiura, author

中部電力が九分割を主張したのは、地域の企業として自立したかったからではなく、需要の伸びる地域で電源開発の責任を他社との共同計算に委ねたくなかったからである。集中排除審査委員会が1949年に示した7ブロック案は、中部と北陸を関西へ併合するものだった。中部配電の副社長だった井上五郎氏が求めたのは、プール計算をやめ、各社が自分の供給区域に責任を負う形である。ただし責任を引き受けた側には、足りない電気を自分で作る義務が残った。発足時の設備は水力74万kW・火力29万kWの103万kWで、渇水期の供給力は融通受電を加えても60万kW程度、1951年7月の需要74万kWに届かない。設立直後の夏の異常渇水と半年余りの電力制限は、その差が現実に現れたものである。

不足を埋める速さは、資金をどこから引けるかで決まった。10年間の工事資金2,101億円のうち、増資と内部留保で賄えたのは744億円にとどまり、残る1,357億円は社債と借入金である。1953年10月の世界銀行借款は電気事業で戦後初の外資導入となり、三重火力の輸入機器の購入に充てられた。政策資金と外資で設備を先に建てれば、減価償却費と支払利息が発電量より先に立ち上がる。1951年度下期から1960年度下期までに支払利息は13.9倍、減価償却費は約12倍に増えた。発足から4年で27.9%、19.6%、18.1%と3度の値上げが続いたのは、1年間の総括原価を基礎とする料金が、資本費の増加を追いかける形でしか作れなかったためである。

発足から4年で3度の料金改定 平均改定率(%)

27.9 1951 19.6 1952 18.1 1954
  • 1954年の改定後は新鋭火力の熱効率向上と燃料単価の値下がりで原価の高騰を吸収し、次の改定は1965年4月まで行われなかった。
  • 出所は中部電力10年史(中部電力、1961年)。

1951年〜7ブロック案への反対と、103万kWの設備で始めた発送配電一貫経営

中部電力は1951年5月、電力再編成令に基づく日本発送電と中部配電の発起設立により、資本金7億5,000万円で発足した。再編成の審議では、1949年5月に集中排除審査委員会が中部と北陸を関西へ併合する7ブロック分割案を非公式に示した。中部配電はこれに対し、県・市・商工会議所・需要家とともに反対運動を展開した。中部配電の副社長で、のちに中部電力の初代社長となる井上五郎氏は、プール計算を廃して各社が責任を負う九分割案を配電会社の立場で主張した。発足後の中部電力は、中部5県の区域内にある日本発送電の発送変電設備を継承し、発電から配電までを一貫して担った。需要の伸びを見込む名古屋圏が、電源開発の責任を自社で負う企業形態を選択した再編成とみられる。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 09_電力「中部電力」
    • [1]1951年5月 電力再編成令に基づき日本発送電と中部配電の発起設立により資本金7億5,000万円で発足
    • [5]中部電力発足時の社長は井上五郎(会長は海東要造)
    • [6]供給区域は愛知・岐阜・長野・静岡・三重の中部5県。区域内の日本発送電の発送変電設備を継承し発送配電の一貫経営を行う私企業として発足
  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総説編 第1章 戦後の電気事業と当社の設立
    • [2]1949年5月 集中排除審査委員会が中部配電・北陸配電の地区を関西地区へ併合する7ブロック分割案を非公式に提示
    • [3]中部配電は県・市・商工会議所・需用家とともに7ブロック分割案への反対運動を展開
  • 私の履歴書 経済人9(日本経済新聞社、1980年)「井上五郎」
    • [4]中部配電副社長の井上五郎は配電会社側の九分割案を推進。プール計算を廃止し各企業が責任体制をとるべきと主張

設立時の発電設備は水力74万kW・火力29万kWの合計103万kWであった。ところが実際の供給力は豊水期で70万kW、渇水期は融通受電を加えても60万kW程度で、1951年7月の需要74万kWを下回った。中部配電の時代は、供給力の80%を日本発送電からの受電に依存していた。設立直後の夏は異常渇水となり、法的な電力制限は1951年9月から翌年3月まで半年余り続いた。一方で販売電力量は1951年度の36億7,000万kWhから1953年度の46億kWhへ25%余り増え、増加は全国の地区で最も著しかった。この需要増に応えるため、発足後の最大の目標は電源開発に置かれた。渇水に弱い水力と受電への依存という二重の制約が、発足直後の経営を制約したと推定される。

  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総説編 第2章 設立後10年間の社業大観
    • [7]設立時の発電設備は水力74万kW・火力29万kW、合計103万kW
    • [8]実際の供給力は豊水期70万kW、渇水期は融通受電を加えても60万kW程度。需用は1951年7月に74万kWに達した
    • [10]1951年夏の異常渇水により法的電力制限が1951年9月から1952年3月まで半年余り継続
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 09_電力「中部電力」
    • [9]中部配電時代は供給力の80%を日本発送電からの受電に依存
    • [11]販売電力量は1951年度36億7,000万kWhから1953年度46億kWhへ25%余り増加。需用増加は全国各地区中最も著しい
    • [12]発足後最大の目標は電源開発

発足時の業務組織は、中部配電と日本発送電東海支店の組織を暫定的に引き継いだものであった。中部電力は1952年3月18日に機構を改め、本店は支店業務を行わず統括業務に限った。同じ改革で、日本発送電から継承した4つの電力事務所を廃止し、その業務を支店へ吸収した。労務では、生活給の色彩が濃い電産型賃金体系を改めるため、電気事業で初めて職階制度を導入した。1952年秋の闘争で統一交渉を求める電産に対し、会社側は個別交渉・個別賃金を主張し、電源スト・停電ストが繰り返された。同年11月の静岡を皮切りに各県で労働組合が生まれ、12月に中部電力労働組合が結成された。発送配電の一貫経営は、組織と賃金の両面で旧来の枠組みを改めることから始まったとみられる。

  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [13]創立当初の業務組織は暫定的に中部配電および日本発送電東海支店の組織を踏襲して発足
    • [15]1952年3月の経営管理組織の改革で、日本発送電から引き継いだ4電力事務所を廃止し業務を支店に吸収
    • [16]生活給的色彩の濃い電産型賃金体系を改め、電気事業で最初に職階制度を導入
    • [17]1952年秋の闘争で会社側は個別交渉・個別賃金を主張し統一交渉を求める電産と対立。電源スト・停電ストが繰り返された
    • [18]1952年11月に中部電力静岡労働組合が結成され、各県の労働組合を結集して同年12月に中部電力労働組合(中電労組)が結成
  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総務編 第1章 経営管理組織の近代化
    • [14]1952年3月18日に機構改革を断行。本店は支店業務を行わず統括業務のみとする
参考文献[1]-[18]
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 09_電力「中部電力」
    • [1]1951年5月 電力再編成令に基づき日本発送電と中部配電の発起設立により資本金7億5,000万円で発足
    • [5]中部電力発足時の社長は井上五郎(会長は海東要造)
    • [6]供給区域は愛知・岐阜・長野・静岡・三重の中部5県。区域内の日本発送電の発送変電設備を継承し発送配電の一貫経営を行う私企業として発足
    • [9]中部配電時代は供給力の80%を日本発送電からの受電に依存
    • [11]販売電力量は1951年度36億7,000万kWhから1953年度46億kWhへ25%余り増加。需用増加は全国各地区中最も著しい
    • [12]発足後最大の目標は電源開発
  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総説編 第1章 戦後の電気事業と当社の設立
    • [2]1949年5月 集中排除審査委員会が中部配電・北陸配電の地区を関西地区へ併合する7ブロック分割案を非公式に提示
    • [3]中部配電は県・市・商工会議所・需用家とともに7ブロック分割案への反対運動を展開
  • 私の履歴書 経済人9(日本経済新聞社、1980年)「井上五郎」
    • [4]中部配電副社長の井上五郎は配電会社側の九分割案を推進。プール計算を廃止し各企業が責任体制をとるべきと主張
  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総説編 第2章 設立後10年間の社業大観
    • [7]設立時の発電設備は水力74万kW・火力29万kW、合計103万kW
    • [8]実際の供給力は豊水期70万kW、渇水期は融通受電を加えても60万kW程度。需用は1951年7月に74万kWに達した
    • [10]1951年夏の異常渇水により法的電力制限が1951年9月から1952年3月まで半年余り継続
  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [13]創立当初の業務組織は暫定的に中部配電および日本発送電東海支店の組織を踏襲して発足
    • [15]1952年3月の経営管理組織の改革で、日本発送電から引き継いだ4電力事務所を廃止し業務を支店に吸収
    • [16]生活給的色彩の濃い電産型賃金体系を改め、電気事業で最初に職階制度を導入
    • [17]1952年秋の闘争で会社側は個別交渉・個別賃金を主張し統一交渉を求める電産と対立。電源スト・停電ストが繰り返された
    • [18]1952年11月に中部電力静岡労働組合が結成され、各県の労働組合を結集して同年12月に中部電力労働組合(中電労組)が結成
  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総務編 第1章 経営管理組織の近代化
    • [14]1952年3月18日に機構改革を断行。本店は支店業務を行わず統括業務のみとする

1954年〜世界銀行借款の三重火力と、2,101億円の工事資金・3度の料金改定

中部電力は1951年10月に電源開発の基本計画を発表し、1954年末までに水力15万5,000kW、火力14万9,000kWを増強した。火力では米国製の大容量・高能率機で発電原価の高騰を抑える方針を採り、1953年10月に世界銀行との借款を成立させた。この借款は電気事業として戦後初の外資導入となり、三重火力の輸入機器の購入に充てられた。1955年12月に運転を始めた三重火力1号機は、6万6,000kWの屋外ユニットとして中央制御室などの新技術を国内へ持ち込んだ。10年間に開発した火力は98万kWと水力の約42万kWの2倍を超え、1960年度以降は火力の設備が水力を上回った。1961年3月末の発電設備は241万kWと設立時の2.4倍になり、需要は10年間で3.2倍に伸びた。

  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総説編 第2章 設立後10年間の社業大観
    • [19]1951年10月 電源開発の基本計画を発表。1954年末までに水力15万5,000kW・火力14万9,000kWを増強
    • [20]大容量・高能率の新鋭機器を米国から輸入し発電原価の高騰抑制をはかる方針。1953年10月 世界銀行との火力借款が成立
    • [21]世界銀行借款は電気事業として戦後はじめての外資導入。三重火力発電所の輸入機器購入に充当
    • [24]1961年3月末の水・火力発電設備241万kW(設立時の2.4倍)。需用は10年間で3.2倍
  • 中部電力30年史(中部電力、1981年)
    • [22]1955年12月に運転を開始した三重火力1号機は世銀借款の1号として米国の新鋭火力技術を導入。6万6,000kWの屋外ユニットとして中央制御室をはじめ種々の新技術をもたらした
  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [23]創立以来10年間に開発した火力の総出力は98万kWで水力の約42万kWの2倍以上。1960年度以降は火力の設備が水力を上回った

電源開発と送電設備の拡充に要した工事資金は、10年間で2,101億円にのぼった。このうち増資と内部留保で賄ったのは744億円と約3分の1にとどまり、残る1,357億円は社債・借入金などの外部資金であった。料金原価に織り込まれた減価償却は定額法の分だけで、10年間の総調達に占める内部留保は平均18%程度であった。1951〜55年度は政府の財政資金から工事資金の30%を超える融資を受け、社債は10年間に109回発行して残高460億円に達した。外資は新名古屋火力や畑薙第一・第二発電所の建設にも広がり、10年間の導入額は170億円となった。国内の資本市場が細いなかで、政策資金と外資が再編直後の電源開発を資金面で支えたとみられる。

  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [25]電源開発と輸送設備の拡充強化に要した工事資金は10年間に2,101億円
    • [26]増資および内部留保で744億円と約1/3を賄い、社債・借入金など外部資金が1,357億円
    • [28]1951〜1955年度の5年間に工事資金の30%を超える財政資金の融資を受けた。社債は10年間で109回発行し残高460億円
    • [29]新名古屋火力の建設でワシントン輸出入銀行等から融資、畑薙第一・第二発電所建設で世界銀行と借款。外資導入は10年間で170億円
  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総説編 第2章 設立後10年間の社業大観
    • [27]減価償却は料金原価中に定額法による分が織り込まれるに過ぎず、10年間の総調達に占める内部留保は平均18%程度

電力原価は、新設備の割高な建設費に伴う減価償却費と支払利息の増加、火力の比重上昇による燃料費の増加で年々高騰した。中部電力は1951年に27.9%、1952年に19.6%、1954年に18.1%と、発足から4年で3度の料金改定を行った。料金は1年間の総括原価を基礎に算定されるため、新設備の増加に伴う原価の高騰を料金収入で回収できない過程が繰り返された。1954年の改定後は新鋭火力の熱効率向上、豊水、燃料単価の値下がりで原価の高騰を吸収し、1959年度上期には配当率を12%から10%へ下げた。一方で1951年度下期から1960年度下期までに、支払利息は13.9倍、減価償却費は約12倍に増えた。料金を据え置く期間が長いほど、資本費の重みが増す構造を抱えたとみられる。

  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総説編 第3章 電気事業における諸問題
    • [30]電力原価は供給力の増強にともなう減価償却費・支払利息などの資本費の増大と火力発電の比重増加による燃料費の増加で高騰する傾向
    • [32]電気料金算定は1年間の総括原価を基礎とするため、新設備の増加にともなう料金原価の高騰を料金収入を通じて回収できず、料金改訂を繰り返してきた
    • [33]新鋭火力の熱効率向上、1959年度上期からの配当率12%から10%への引下げ、豊水、燃料単価の値下りなどで原価高騰を吸収し、1954年度改訂の料金水準のまま経理の安定を保った
  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [31]料金値上げ率は1951年27.9%、1952年19.6%、1954年18.1%
    • [34]1951年度下期から1960年度下期までに支払利息は13.9倍、減価償却費は5億8,000万円から69億5,500万円へ約12倍
参考文献[19]-[34]
  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総説編 第2章 設立後10年間の社業大観
    • [19]1951年10月 電源開発の基本計画を発表。1954年末までに水力15万5,000kW・火力14万9,000kWを増強
    • [20]大容量・高能率の新鋭機器を米国から輸入し発電原価の高騰抑制をはかる方針。1953年10月 世界銀行との火力借款が成立
    • [21]世界銀行借款は電気事業として戦後はじめての外資導入。三重火力発電所の輸入機器購入に充当
    • [24]1961年3月末の水・火力発電設備241万kW(設立時の2.4倍)。需用は10年間で3.2倍
    • [27]減価償却は料金原価中に定額法による分が織り込まれるに過ぎず、10年間の総調達に占める内部留保は平均18%程度
  • 中部電力30年史(中部電力、1981年)
    • [22]1955年12月に運転を開始した三重火力1号機は世銀借款の1号として米国の新鋭火力技術を導入。6万6,000kWの屋外ユニットとして中央制御室をはじめ種々の新技術をもたらした
  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [23]創立以来10年間に開発した火力の総出力は98万kWで水力の約42万kWの2倍以上。1960年度以降は火力の設備が水力を上回った
    • [25]電源開発と輸送設備の拡充強化に要した工事資金は10年間に2,101億円
    • [26]増資および内部留保で744億円と約1/3を賄い、社債・借入金など外部資金が1,357億円
    • [28]1951〜1955年度の5年間に工事資金の30%を超える財政資金の融資を受けた。社債は10年間で109回発行し残高460億円
    • [29]新名古屋火力の建設でワシントン輸出入銀行等から融資、畑薙第一・第二発電所建設で世界銀行と借款。外資導入は10年間で170億円
    • [31]料金値上げ率は1951年27.9%、1952年19.6%、1954年18.1%
    • [34]1951年度下期から1960年度下期までに支払利息は13.9倍、減価償却費は5億8,000万円から69億5,500万円へ約12倍
  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総説編 第3章 電気事業における諸問題
    • [30]電力原価は供給力の増強にともなう減価償却費・支払利息などの資本費の増大と火力発電の比重増加による燃料費の増加で高騰する傾向
    • [32]電気料金算定は1年間の総括原価を基礎とするため、新設備の増加にともなう料金原価の高騰を料金収入を通じて回収できず、料金改訂を繰り返してきた
    • [33]新鋭火力の熱効率向上、1959年度上期からの配当率12%から10%への引下げ、豊水、燃料単価の値下りなどで原価高騰を吸収し、1954年度改訂の料金水準のまま経理の安定を保った

1958年〜広域運営への参加と、伊勢湾台風の24億円の設備被害

1957年10月、自由民主党の基礎産業対策特別委員会は、電力不足と融通の不円滑、料金の高騰と地域差、経理内容の格差を電気事業体制の問題点に挙げた。電力会社間の格差から再編成後の企業体制を問う意見も出るなか、電気事業者は自主的経営責任体制のもとで広域運営を採ることを決めた。1958年4月に広域運営に関する協定が結ばれ、中部電力は中央と中地域の電力協議会の構成員となった。1961年3月末までに中部電力が経済融通した電力量は2億1,300万kWhで、経費節減額は約1億3,000万円となった。1960年から61年にかけては275kVの名古屋外輪線を新設し、関開閉所で関西電力と連系した。九分割の枠を保ったまま、会社間を融通と連系で結ぶ方式を選んだとみられる。

  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総説編 第3章 電気事業における諸問題
    • [35]1957年10月 自由民主党基礎産業対策特別委員会が電気事業体制について、電力不足と融通の不円滑・料金高騰と地域差・経理内容の格差の3点を問題とした
    • [36]電力会社間の企業格差から現行の企業体制に問題があるとの意見もあったが、電気事業者は1958年3月の「電気事業の新基本方策」で自主的経営責任体制のもとに広域運営方式をとることとした
    • [37]1958年4月1日付で「広域運営に関する協定書」を締結。当社は中央ならびに中地域電力協議会の構成員となった
    • [38]1961年3月末まで経済融通による電力量は当社のみで2億1,300万kWh、経済融通による経費節減額は約1億3,000万円
  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [39]1960年から1961年にかけて275kV名古屋外輪線などを新設し、関開閉所において関西電力との連系をはかった

1959年9月26日に紀伊半島へ上陸した伊勢湾台風は、中部電力の供給区域全域に被害をもたらした。名古屋港の潮位は午後9時30分ごろに5.81mに達して伊勢湾の堤防が各所で壊れ、中部電力の設備被害は概算24億円余にのぼった。高潮で火力発電所が全停し、配電線はほぼ全線が損傷して、管内は一時停電に陥った。社長は10月1日に緊急布告を出し、平常時は本店が持つ権限を支店などへ移して復旧を急がせた。従業員2名と家族20名が亡くなり、従業員住居の被害は約7,000戸に及んだ。中部電力は同年12月、中部日本災害対策本部から民間会社として唯一の感謝状を受け、復旧後は災害対策特別研究会の結論をその後の災害対策の基礎とした。

  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [40]1959年9月26日 紀伊半島に上陸した台風15号(伊勢湾台風)は当社の供給区域全域にわたり未曽有の被害をもたらした
    • [42]高潮により火力発電所が全停、暴風雨によって配電線はほとんど全線が損傷し一時は管内が真暗闇となった
    • [45]1959年12月 中部日本災害対策本部から民間会社として唯一感謝状を受けた
    • [46]復旧終了後に「災害対策特別研究会」を設けて施設・動員・組織などを討議し、その結論がその後の災害対策の基礎となった
  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総務編 第8章 関係会社、風水害、刊行物
    • [41]名古屋港の潮位は午後9時30分ごろ最高5.81mに達し伊勢湾海岸線の堤防は各所で破壊。当社は設備に概算24億円余の被害
    • [43]1959年10月1日 社長が緊急布告を発し、平常時に本店がもっていた権限を支店等下部機関に移譲して復旧業務を迅速化
    • [44]死亡従業員2名・家族20名。従業員住居の被害は流失・全壊・半壊・浸水を含め約7,000戸
参考文献[35]-[46]
  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総説編 第3章 電気事業における諸問題
    • [35]1957年10月 自由民主党基礎産業対策特別委員会が電気事業体制について、電力不足と融通の不円滑・料金高騰と地域差・経理内容の格差の3点を問題とした
    • [36]電力会社間の企業格差から現行の企業体制に問題があるとの意見もあったが、電気事業者は1958年3月の「電気事業の新基本方策」で自主的経営責任体制のもとに広域運営方式をとることとした
    • [37]1958年4月1日付で「広域運営に関する協定書」を締結。当社は中央ならびに中地域電力協議会の構成員となった
    • [38]1961年3月末まで経済融通による電力量は当社のみで2億1,300万kWh、経済融通による経費節減額は約1億3,000万円
  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [39]1960年から1961年にかけて275kV名古屋外輪線などを新設し、関開閉所において関西電力との連系をはかった
    • [40]1959年9月26日 紀伊半島に上陸した台風15号(伊勢湾台風)は当社の供給区域全域にわたり未曽有の被害をもたらした
    • [42]高潮により火力発電所が全停、暴風雨によって配電線はほとんど全線が損傷し一時は管内が真暗闇となった
    • [45]1959年12月 中部日本災害対策本部から民間会社として唯一感謝状を受けた
    • [46]復旧終了後に「災害対策特別研究会」を設けて施設・動員・組織などを討議し、その結論がその後の災害対策の基礎となった
  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総務編 第8章 関係会社、風水害、刊行物
    • [41]名古屋港の潮位は午後9時30分ごろ最高5.81mに達し伊勢湾海岸線の堤防は各所で破壊。当社は設備に概算24億円余の被害
    • [43]1959年10月1日 社長が緊急布告を発し、平常時に本店がもっていた権限を支店等下部機関に移譲して復旧業務を迅速化
    • [44]死亡従業員2名・家族20名。従業員住居の被害は流失・全壊・半壊・浸水を含め約7,000戸

第2章 1961年〜 水力から石油火力への転換から、四日市公害判決と浜岡原子力の着工まで

筆者考察y.sugiura, author

1960年代の中部電力にとって、電源の選択は技術の問題から立地の同意の問題へ移った。創立からの10年で水力の良好地点をほぼ開発し終え、火力の経済性が上がっていたから、1961年からの10年間に開発した火力413万5,200kWは水力の約5倍に達した。電源構成は1961年3月末の水力47対火力53から、1971年3月末の27対73へ振れた。この転換が計画どおりに進んだのは、渥美を除く火力の用地が、埋立権者の側で漁業補償まで解決済みの臨海造成地だったからである。同意の手続きを他人が先に済ませた土地の上でだけ、大容量の火力は工程を守れた。知多火力3号機が1968年3月に世界最大の一軸式として運転を始めたのも、その条件の内側の出来事である。

条件が外れた地点では、計画は年単位で止まった。四日市の粉じんと温排水、1972年7月の公害訴訟判決が示したのは、既設の環境実績が次の立地の可否を決めるということである。尾鷲三田3・4号機は国の電源開発基本計画へ組み入れられながら、増設反対連合会の結成と市長のリコール運動を経て延期され、渥美の増設も3号機だけが承認された。1969年6月の開発調整部の設置と、加藤乙三郎社長が全従業員へ出した示達は、立地を技術部門の担当から全社の仕事へ移すものだった。芦浜が長島事件の後も動かず、熊野市議会が1972年3月に反対を決議した結果、原子力は用地156万4,000m²と漁業補償の整った浜岡の1地点だけに残った。

電源構成 1961年3月末と1971年3月末(%)

53471961年3月末 73271971年3月末 火力 水力
  • 1961年3月末の水力47対火力53が、1971年3月末には27対73へ逆転した。
  • 出所は中部電力20年史(中部電力、1971年)。

1961年〜火力比率73%への転換と、販売電力量3.4倍・設備投資5,939億円

1960年代の中部電力は、電源開発の主体を水力から火力へ移した。創立からの10年で水力の良好地点の開発をほぼ終え、技術革新で火力の経済性が大きく上がっていた。1961年からの10年間に開発した火力は413万5,200kWで、水力の開発量の約5倍に相当した。電源構成は1961年3月末の水力47対火力53から、1971年3月末の27対73へ移った。渥美を除く火力の用地は、埋立権者が漁業補償まで一括して解決した臨海部の造成地を取得していた。1968年3月には、超臨界圧で一軸式として世界最大の知多火力3号機が運転を始めた。1970年時点では国内第3位の電力会社として、1970年度に新規200万kWを着工する1,270億円の投資を計画した。

  • 中部電力20年史(中部電力、1971年)
    • [47]1960年代は火力主体の電源開発を推進
    • [48]創立からの10年間に水力の良好地点をほとんど開発しつくし、技術革新によって火力の経済性が大幅に向上
    • [49]1961〜1971年の10年間に開発した火力は413万5,200kW、水力の開発量の約5倍
    • [50]電源構成比率は1961年3月末の水力47対火力53から1971年3月末に27対73
    • [51]火力発電所用地は渥美火力を除き臨海部の埋立造成地で、埋立権者から漁業補償問題も一括解決した土地を譲り受けた
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)「中部電力」
    • [52]1968年3月 超臨界圧で出力50万kW、一軸式では世界最大の知多火力3号機が運転を開始
  • 日本企業要覧 1970年版(東洋経済新報社)「中部電力」
    • [53]わが国第3位の電力会社。1970年度は新規に200万kWを着工、前年比65%増の1,270億円の大型投資を計画

1970年度の販売電力量は393億8,000万kWhで、10年前の1960年度の3.4倍に増えた。全国9社の総需要に占める中部電力の割合は、1960年度の13.4%から1970年度には15.2%へ上がった。臨海部の石油化学コンビナートと鉄鋼、内陸部の工作機械・輸送用機械が伸び、電力の需要は10年間で3.3倍になった。冷房機器の普及で1968年度に初めて夏季に年間のピークが生じ、1970年度以降はピークが夏季へ移った。昼夜の需要の格差を縮めるため、1964年11月から深夜電力を使う小型電気温水器の販売を始めた。需要の急増と夏への偏りが、大容量の火力を急いで積み増す条件を作ったとみられる。

  • 中部電力20年史(中部電力、1971年)
    • [54]1970年度の総販売電力量は393億8,000万kWh、10年前の1960年度にくらべ3.4倍(年平均増加率13.0%)
  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [55]全国9社の総需要に占める当社の割合は1960年度の13.4%から1970年度には15.2%に増大
    • [56]臨海部の石油化学コンビナート・鉄鋼、内陸部の工作機械・輸送用機械が発展し、電力需要は10年間に3.3倍
    • [57]1968年度に初めて夏季に年間ピークが発生し、1970年度以降は夏季に移行
    • [58]深夜負荷の造成をはかるため1964年11月から小型電気温水器の販売を開始

1961〜70年度の設備投資は総額5,939億円にのぼり、前の10年間の約3倍に達した。社債の残高は1960年度末の459億5,200万円から、1970年度末には約4.2倍の1,928億300万円に増えた。大規模な電源開発で資本費が膨らみ、1963・64年度には大幅な実質赤字が生じて、経理は数期にわたり低空飛行を続けた。中部電力は1964年10月に平均9.71%の値上げを申請し、1965年4月から10年ぶりとなる平均7.89%の料金改定を実施した。1965年5月にまとめた長期総合経営計画は、深夜負荷の造成、大容量電源の拡充、公害対策、先行用地の手配などを提言した。石油が豊富で低廉だったことに合理化が加わり、1965年の改定の料金水準は1974年まで維持された。

  • 中部電力20年史(中部電力、1971年)
    • [59]この10年間の設備投資は総額5,939億円にのぼり、前半10年間の約3倍
    • [60]1960年度末に459億5,200万円であった社債残高は1970年度末には約4.2倍の1,928億300万円
    • [61]大規模な電源開発により資本費が増大し、1963・1964年度には大幅な実質赤字が発生、経理状況は数期にわたって「低空飛行」状態
    • [63]1965年5月にとりまとめた長期総合経営計画は深夜負荷造成・大容量電源の拡充・公害対策・先行用地手配などを提言
  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [62]1964年10月に平均9.71%の電気料金値上げを申請し、翌年3月に平均7.89%の認可を受け4月から実施。1954年以来10年ぶりの改定
  • 中部電力30年史(中部電力、1981年)
    • [64]1965年4月に平均7.89%の料金改定を実施して以来1974年まで料金水準を維持。石油エネルギーが豊富で低廉であったことに合理化が加わった
参考文献[47]-[64]
  • 中部電力20年史(中部電力、1971年)
    • [47]1960年代は火力主体の電源開発を推進
    • [48]創立からの10年間に水力の良好地点をほとんど開発しつくし、技術革新によって火力の経済性が大幅に向上
    • [49]1961〜1971年の10年間に開発した火力は413万5,200kW、水力の開発量の約5倍
    • [50]電源構成比率は1961年3月末の水力47対火力53から1971年3月末に27対73
    • [51]火力発電所用地は渥美火力を除き臨海部の埋立造成地で、埋立権者から漁業補償問題も一括解決した土地を譲り受けた
    • [54]1970年度の総販売電力量は393億8,000万kWh、10年前の1960年度にくらべ3.4倍(年平均増加率13.0%)
    • [59]この10年間の設備投資は総額5,939億円にのぼり、前半10年間の約3倍
    • [60]1960年度末に459億5,200万円であった社債残高は1970年度末には約4.2倍の1,928億300万円
    • [61]大規模な電源開発により資本費が増大し、1963・1964年度には大幅な実質赤字が発生、経理状況は数期にわたって「低空飛行」状態
    • [63]1965年5月にとりまとめた長期総合経営計画は深夜負荷造成・大容量電源の拡充・公害対策・先行用地手配などを提言
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)「中部電力」
    • [52]1968年3月 超臨界圧で出力50万kW、一軸式では世界最大の知多火力3号機が運転を開始
  • 日本企業要覧 1970年版(東洋経済新報社)「中部電力」
    • [53]わが国第3位の電力会社。1970年度は新規に200万kWを着工、前年比65%増の1,270億円の大型投資を計画
  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [55]全国9社の総需要に占める当社の割合は1960年度の13.4%から1970年度には15.2%に増大
    • [56]臨海部の石油化学コンビナート・鉄鋼、内陸部の工作機械・輸送用機械が発展し、電力需要は10年間に3.3倍
    • [57]1968年度に初めて夏季に年間ピークが発生し、1970年度以降は夏季に移行
    • [58]深夜負荷の造成をはかるため1964年11月から小型電気温水器の販売を開始
    • [62]1964年10月に平均9.71%の電気料金値上げを申請し、翌年3月に平均7.89%の認可を受け4月から実施。1954年以来10年ぶりの改定
  • 中部電力30年史(中部電力、1981年)
    • [64]1965年4月に平均7.89%の料金改定を実施して以来1974年まで料金水準を維持。石油エネルギーが豊富で低廉であったことに合理化が加わった

1963年〜四日市の公害と、尾鷲三田・渥美の増設を止めた地元の反対

四日市火力では1963年に粉じんの降下が、1964年と1966年には温排水による海苔の被害が問題となった。1963年には四日市火力で初めて120mの高煙突を採用し、その後は既設の発電所でも高煙突への建て替えを進めた。1967年に公害対策基本法、1968年に大気汚染防止法が施行され、尾鷲三田火力の増設は公害問題を発端に着手できなくなった。1970年度には休止中の名港火力を復活させても予備力をほぼ確保できず、火力1台の事故で緊急融通か需要抑制を迫られる需給状態となった。1972年7月の四日市公害訴訟判決は、中部電力を含むコンビナート立地企業6社の共同不法行為を認定した。環境対策の水準が、火力立地の同意を得る条件そのものになったとみられる。

  • 中部電力20年史(中部電力、1971年)
    • [65]四日市火力で1963年に磯津地区への粉じん降下、1964・1966年に温排水による海苔被害が問題化
    • [67]1967年8月公害対策基本法・1968年12月大気汚染防止法が施行。尾鷲三田火力の増設は公害問題に端を発して着手できない事態
    • [68]1970年度は名港火力1〜3号機を復活しても予備力をほとんど保有できず、火力1台の事故で緊急融通受電または需要抑制を考慮する危局
  • 中部電力30年史(中部電力、1981年)
    • [66]新設発電所の公害防除対策として1963年にはじめて四日市火力で120mの高煙突を採用し、その後順次既設分も高煙突の建て替えを行った
  • 日本産業史 第3巻 エネルギー・資源(日本経済新聞社、1994年)「原発時代の幕開けと脱石油への模索」
    • [69]1972年7月の四日市公害訴訟判決で中部電力を含む四日市コンビナートの立地企業6社の共同不法行為が認定

尾鷲三田火力3・4号機の増設は、1969年12月に電源開発調整審議会で国の電源開発基本計画への組み入れが決まった。しかし既設の公害問題が障害となり、1970年3月に地元で増設反対連合会が発足した。市長のリコール運動と激しい反対運動を受けて、市長は1971年3月の市議会で増設問題の延期を表明した。工業地帯から離れた渥美と尾鷲の両地点には、電力の必要性は認めるが地元への立地には反対するという風潮が広く存在した。1970年5月の電源開発調整審議会も、渥美火力3・4号機の増設のうち3号機だけを承認した。臨海工業地帯の外へ出た火力の増設は、既設の環境実績を問われて計画年次を大きく後退させたとみられる。

  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [70]尾鷲三田火力3・4号機(50万kW・2基)は1969年12月に電源開発調整審議会で国の電源開発基本計画への組み入れが決定
    • [72]市長のリコール運動や激しい増設反対運動が展開され、市長は1971年3月の市議会において増設問題の延期を表明
  • 中部電力30年史(中部電力、1981年)
    • [71]尾鷲三田火力3・4号機の増設は当時から既設の公害問題があい路となって、1970年3月に地元に増設反対連合会が発足
    • [73]第1次産業中心の経済基盤をもち工業地帯からの遠隔立地である渥美・尾鷲両地点の増設には、電力の必要性は認めるが地元での立地には反対するといった総論賛成・各論反対の風潮が広く存在
    • [74]1970年5月 電源開発調整審議会で渥美火力の増設は3号機のみが承認

渥美火力の用地は、1965年に地元の積極的な協力を得て約108万m²を買収した。渥美は三河湾国定公園に位置し、発電所の周辺は松林の保安林に囲まれていたため、建設では環境保全に特に留意した。1・2号機は同容量の知多火力3号機の経験を基に電子計算機によるユニット起動制御を採り入れ、大容量機ながら3名の運転員で運転できる設計とした。立地の難航を受けて、中部電力は1969年6月に開発調整部を設け、地元の動向の把握と折衝、公害に関する社内の取りまとめを担わせた。同年9月には加藤乙三郎社長が、部署を問わず全従業員が誠意をつくして地域の理解を得るよう示達した。発電所の立地は、技術部門だけでなく全社で地域の理解を得る仕事になったとみられる。

  • 中部電力20年史(中部電力、1971年)
    • [75]渥美火力については地元の積極的協力を得て1965年に約108万m²の用地買収を行った
  • 中部電力30年史(中部電力、1981年)
    • [76]渥美火力は三河湾国定公園に位置し、発電所周辺は松林の保安林に囲まれた環境のよい所であるため、環境保全について特に留意して建設
    • [77]渥美1・2号機は同容量・同型式の知多火力3号機の経験を基に電子計算機によるユニット起動制御などの自動化を行い、大容量機でありながら3名の運転員で運転可能
  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [78]1969年6月「開発調整部」を設置し、地元動向の把握・折衝業務および公害に関する社内取りまとめを担当
    • [79]1969年9月 加藤社長が「一人ひとりが電源開発の先兵たれ」を発表し、全従業員に部署のいかんを問わず誠意をつくして地域の理解を得るよう示達
参考文献[65]-[79]
  • 中部電力20年史(中部電力、1971年)
    • [65]四日市火力で1963年に磯津地区への粉じん降下、1964・1966年に温排水による海苔被害が問題化
    • [67]1967年8月公害対策基本法・1968年12月大気汚染防止法が施行。尾鷲三田火力の増設は公害問題に端を発して着手できない事態
    • [68]1970年度は名港火力1〜3号機を復活しても予備力をほとんど保有できず、火力1台の事故で緊急融通受電または需要抑制を考慮する危局
    • [75]渥美火力については地元の積極的協力を得て1965年に約108万m²の用地買収を行った
  • 中部電力30年史(中部電力、1981年)
    • [66]新設発電所の公害防除対策として1963年にはじめて四日市火力で120mの高煙突を採用し、その後順次既設分も高煙突の建て替えを行った
    • [71]尾鷲三田火力3・4号機の増設は当時から既設の公害問題があい路となって、1970年3月に地元に増設反対連合会が発足
    • [73]第1次産業中心の経済基盤をもち工業地帯からの遠隔立地である渥美・尾鷲両地点の増設には、電力の必要性は認めるが地元での立地には反対するといった総論賛成・各論反対の風潮が広く存在
    • [74]1970年5月 電源開発調整審議会で渥美火力の増設は3号機のみが承認
    • [76]渥美火力は三河湾国定公園に位置し、発電所周辺は松林の保安林に囲まれた環境のよい所であるため、環境保全について特に留意して建設
    • [77]渥美1・2号機は同容量・同型式の知多火力3号機の経験を基に電子計算機によるユニット起動制御などの自動化を行い、大容量機でありながら3名の運転員で運転可能
  • 日本産業史 第3巻 エネルギー・資源(日本経済新聞社、1994年)「原発時代の幕開けと脱石油への模索」
    • [69]1972年7月の四日市公害訴訟判決で中部電力を含む四日市コンビナートの立地企業6社の共同不法行為が認定
  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [70]尾鷲三田火力3・4号機(50万kW・2基)は1969年12月に電源開発調整審議会で国の電源開発基本計画への組み入れが決定
    • [72]市長のリコール運動や激しい増設反対運動が展開され、市長は1971年3月の市議会において増設問題の延期を表明
    • [78]1969年6月「開発調整部」を設置し、地元動向の把握・折衝業務および公害に関する社内取りまとめを担当
    • [79]1969年9月 加藤社長が「一人ひとりが電源開発の先兵たれ」を発表し、全従業員に部署のいかんを問わず誠意をつくして地域の理解を得るよう示達

1966年〜芦浜の漁業者の反対から、浜岡の用地156万m²と漁業補償による1号機着工まで

中部電力は1962年度の電力長期計画で原子力1号機25万kWを初めて組み入れ、1966年6月には原子力推進部を設けた。ところが1964年7月に内定を発表した三重県の芦浜では、南島町の漁業者が温排水による真珠養殖への被害を理由に反対を続けた。南島町の激しい反対運動のなかで1966年9月にいわゆる長島事件が起き、三重県知事は翌1967年9月に声明を出したが、その後も芦浜の情勢に進展はみられなかった。1971年10月には第3の候補地点として熊野市に立地調査を申し入れたが、市議会は1972年3月に原子力反対を決議した。原子力の立地は、地元の合意を得られた静岡県の浜岡の1地点へ絞られていったとみられる。

  • 中部電力20年史(中部電力、1971年)
    • [80]1962年度電力長期計画で原子力1号機25万kWをはじめて組み入れ
    • [81]原子力発電の計画が具体的になり1966年6月に「原子力推進部」を設け組織体制を強化
    • [82]1964年7月 芦浜内定を発表。南島町の漁業者は温排水が真珠養殖に被害を及ぼすとして反対を継続
  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [83]南島町では激しい反対運動が続き1966年9月にいわゆる「長島事件」が発生。三重県知事は1967年9月に声明を発表し、以降も情勢の進展はみられなかった
    • [84]1971年10月 浜岡・芦浜に次ぐ3番目の立地候補地点として熊野市に立地調査を申し入れ。1972年3月に市議会が原子力反対決議

浜岡地点は1967年に決まり、1号機の着工までに4年余りにわたる地元との話し合いが続いた。用地の取得は地元の浜岡町の協力で比較的順調に進み、1968年に全用地156万4,000m²を取得した。1970年4月には炉形を沸騰水型、主契約者を東芝に決め、5月に原子炉設置許可を申請した。漁業補償は1971年3月に榛南5組合と6億1,100万円で協定を結び、浜岡の前面海域約2.5km²の漁業権を消滅させた。遠州2組合とも同年4月に2億7,000万円で補償協定を結んだ。54万kWの1号機は1971年3月に着工し、5月に起工式を行った。

  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [85]浜岡1号機は1967年の地点決定以来4年余にわたる話し合いを通じて合意が得られ着工に至った
    • [91]浜岡原子力発電所起工式(1971年5月)
  • 中部電力20年史(中部電力、1971年)
    • [86]浜岡地点の用地取得は地元浜岡町の協力を得て比較的順調にすすみ、1968年に全用地156万4,000m²を取得
    • [87]1970年4月 炉形を沸とう水形(BWR)に、主契約者を東芝に決定。5月に原子炉設置許可を申請
    • [88]1971年3月 榛南5組合と、浜岡前面海域約2.5km²の漁業権を消滅させ漁業補償額6億1,100万円とする協定を締結
    • [89]遠州2組合とも1971年4月に漁業補償額2億7,000万円で補償協定を締結
    • [90]浜岡では4年間にわたる地元との話合いの結果立地が認められ、54万kWの1号機を1971年3月に着工

浜岡町では、関係町の代表者と漁業者からなる対策審議会が発足し、漁業への影響を漁業者みずからの手で調査した。審議会は原子力発電の安全性と環境問題を自主的に研究したうえで、発電所の受け入れを結論とした。中部電力はこれと並行して、1969年のはじめから1年以上、浜岡の敷地内で気象と地質、地震の観測を続けた。政府の原子炉安全専門審査会第64部会は、6か月の審査と現地視察を経て、1970年12月に浜岡原子力発電所の安全を認めた。1971年3月には静岡県と浜岡町・御前崎町・相良町との間で、原子力発電所の安全確認等に関する協定を結んだ。中部電力は1956年3月に火力部へ原子力課を置き、海外の原子力機関や日本原子力研究所への派遣で技術者を養成した。関係する技術者は1971年には150人を超えた。

  • 中部電力30年史(中部電力、1981年)
    • [92]関係町の代表者と漁業者からなる「対策審議会」を発足させ、漁業者みずからの手で漁業への影響調査を実施
    • [93]対策審議会は原子力発電の安全性や環境問題を自主的に研究し、その結論として浜岡への原子力発電所の設置を受け入れた。地元のこうした方針は電源立地における地域社会関係の新しい形として注目された
    • [96]1971年3月、関係漁業協同組合との補償解決とともに静岡県・浜岡町・御前崎町・相良町との間で「原子力発電所の安全確認等に関する協定」に調印
  • 中部電力20年史(中部電力、1971年)
    • [94]1969年のはじめから1年以上にわたり浜岡地点の敷地内で気象、地質調査、地震観測などを行い、原子炉設置許可申請の基礎資料とした
    • [95]原子炉安全専門審査会第64部会で6カ月にわたる慎重な審査と現地視察を行い、1970年12月に浜岡原子力発電所が安全であることを認めた
    • [97]1956年3月に火力部へ原子力課を設置し、技術者を海外原子力機関や日本原子力研究所、日本原子力発電会社などへ計画的に派遣して原子力発電所の建設・運転を経験させた
    • [98]原子力の関係技術者は1971年時点で150人を超えた
参考文献[80]-[98]
  • 中部電力20年史(中部電力、1971年)
    • [80]1962年度電力長期計画で原子力1号機25万kWをはじめて組み入れ
    • [81]原子力発電の計画が具体的になり1966年6月に「原子力推進部」を設け組織体制を強化
    • [82]1964年7月 芦浜内定を発表。南島町の漁業者は温排水が真珠養殖に被害を及ぼすとして反対を継続
    • [86]浜岡地点の用地取得は地元浜岡町の協力を得て比較的順調にすすみ、1968年に全用地156万4,000m²を取得
    • [87]1970年4月 炉形を沸とう水形(BWR)に、主契約者を東芝に決定。5月に原子炉設置許可を申請
    • [88]1971年3月 榛南5組合と、浜岡前面海域約2.5km²の漁業権を消滅させ漁業補償額6億1,100万円とする協定を締結
    • [89]遠州2組合とも1971年4月に漁業補償額2億7,000万円で補償協定を締結
    • [90]浜岡では4年間にわたる地元との話合いの結果立地が認められ、54万kWの1号機を1971年3月に着工
    • [94]1969年のはじめから1年以上にわたり浜岡地点の敷地内で気象、地質調査、地震観測などを行い、原子炉設置許可申請の基礎資料とした
    • [95]原子炉安全専門審査会第64部会で6カ月にわたる慎重な審査と現地視察を行い、1970年12月に浜岡原子力発電所が安全であることを認めた
    • [97]1956年3月に火力部へ原子力課を設置し、技術者を海外原子力機関や日本原子力研究所、日本原子力発電会社などへ計画的に派遣して原子力発電所の建設・運転を経験させた
    • [98]原子力の関係技術者は1971年時点で150人を超えた
  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [83]南島町では激しい反対運動が続き1966年9月にいわゆる「長島事件」が発生。三重県知事は1967年9月に声明を発表し、以降も情勢の進展はみられなかった
    • [84]1971年10月 浜岡・芦浜に次ぐ3番目の立地候補地点として熊野市に立地調査を申し入れ。1972年3月に市議会が原子力反対決議
    • [85]浜岡1号機は1967年の地点決定以来4年余にわたる話し合いを通じて合意が得られ着工に至った
    • [91]浜岡原子力発電所起工式(1971年5月)
  • 中部電力30年史(中部電力、1981年)
    • [92]関係町の代表者と漁業者からなる「対策審議会」を発足させ、漁業者みずからの手で漁業への影響調査を実施
    • [93]対策審議会は原子力発電の安全性や環境問題を自主的に研究し、その結論として浜岡への原子力発電所の設置を受け入れた。地元のこうした方針は電源立地における地域社会関係の新しい形として注目された
    • [96]1971年3月、関係漁業協同組合との補償解決とともに静岡県・浜岡町・御前崎町・相良町との間で「原子力発電所の安全確認等に関する協定」に調印

第3章 1973年〜 石油危機の料金改定から、LNG・石炭・原子力による電源ベストミックスまで

筆者考察y.sugiura, author

1973年の石油危機が中部電力を直撃したのは、備えを怠ったからではなく、1960年代に選んだ大容量の石油火力が燃料調達の一点へ集まっていたからである。総発電電力量の約8割を石油火力が占め、1974年3月末の貯油量は消費量の10日分を割り込んだ。1974年6月の平均71.79%、1976年8月の22.47%、1980年4月の49.07%という改定は、燃料費の変動をそのつど料金へ移す作業だった。しかも第2次石油危機の申請は平均64.81%が49.07%へ圧縮されており、転嫁は査定で削られる。1971〜80年度の工事資金2兆3,115億円と約1兆円の社債発行は、削られた分を外部資金で埋めた結果である。

脱石油の中核に据えたのは原子力だったが、実際に石油を置き換えたのはLNGである。1973年12月のプルタミナとの契約で年間170万tを引き取り、知多火力5・6号機が1978年に運転を始め、1988年の四日市火力4号系列は熱効率42.5%のコンバインドサイクルとなった。1981年度末から1990年度末に、石油火力は65%から39%へ下がり、LNG火力は8%から34%へ上がっている。原子力が伸びなかったのは技術ではなく手続きの問題で、浜岡3号機はスリーマイル島の事故と東海地震問題を経て許可が1981年11月までずれ込んだ。芦浜も熊野も住民の反対で止まり、増設できる地点が浜岡しかない以上、1件の審査の遅れがそのまま原子力全体の遅れになった。

電源構成 1981年度末と1990年度末(%)

65191981年度末 393411161990年度末 石油火力 LNG火力 原子力 水力
  • 1990年度末は水力16%・石油火力39%・LNG火力34%・原子力11%。1981年度末は石油火力65%・LNG火力8%・原子力8%で、水力19%は100%からの残余。
  • 石炭火力は1974年の武豊1号機を最後に設備が無くなった。
  • 出所は中部電力40年史(中部電力、1991年)。

1973年〜発電の8割を石油に頼った燃料危機と、71.79%から49.07%までの3度の料金改定

1973年秋の石油危機は、総発電電力量の約8割を石油火力に依存する中部電力の経営を大きく圧迫した。1973年11月に燃料緊急打ち合わせ会を設けて行政や石油業界に供給削減の縮小を働きかけたが、1974年3月末の貯油量は石油消費量の10日分以下に低下した。電灯電力需要の年平均伸び率は、1971〜73年度の9.5%から1974〜80年度には3.2%へ下がった。1974年1月の経営計画大綱はエネルギー節約時代への対応を掲げ、営業方針を需要の開拓から省エネルギーの推進へ転換した。1980年度末の発電設備は1,826万kWと1970年度末の2.2倍になったが、同年度の発受電電力量の52%はなお石油が占めた。高度成長期に積み上げた石油火力が、そのまま燃料調達の弱点に転じたとみられる。

  • 中部電力30年史(中部電力、1981年)
    • [99]1973年秋の石油危機は総発電電力量の約8割を石油火力に依存する当社にとって深刻な打撃
    • [100]1973年11月に「燃料緊急打ち合わせ会」を設置。行政当局や石油業界へ供給カット幅を小さくする働きかけを実施
    • [101]1974年3月末の貯油量は52万2,000klとなり、当社石油消費量の10日分以下という低い水準
  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [102]1971〜1973年度の平均伸び率は電力量9.5%、1974〜1980年度は3.2%
    • [103]1974年1月の経営計画大綱は「エネルギー節約時代への対応」と題し、需要開拓から省エネルギー推進への転換をはかった
    • [104]1980年度末の発電設備は1,826万kWで1970年度末の2.2倍。1980年度の発受電電力量の構成は石油52%

中部電力は1974年6月に平均71.79%の料金改定を実施し、家庭用に3段階料金制、産業用に特別料金制を導入した。建設費の上昇と環境保全投資の増加で設備関連費が膨らみ、1976年8月31日からも平均22.47%の改定を行った。その後の円高で燃料費に差益が生じ、1978年10月から翌年3月まで総額457億円の料金割引を実施した。第2次石油危機では1980年1月に平均64.81%の改定を申請したが、4月からの実施は平均49.07%に圧縮され、産業用に季節別料金制を導入した。1971〜80年度の工事資金は2兆3,115億円と前の10年の約4倍に達し、社債は10年間で約1兆円を発行した。燃料費の変動を料金へ転嫁するたびに査定で圧縮され、外部資金への依存が深まったとみられる。

  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [105]1974年6月から平均71.79%の料金改定を実施。家庭用には3段階料金制、産業用には特別料金制を導入
    • [108]1980年1月に平均64.81%の電気料金改定を申請したが厳しい査定を受け、4月から平均49.07%の改定を実施。産業用に季節別料金制を導入
    • [109]1971〜1980年度の工事資金は総額2兆3,115億円で前10年間の約4倍。社債は10年間で約1兆円を発行
  • 中部電力30年史(中部電力、1981年)
    • [106]1976年8月20日認可、8月31日から電灯20.71%・電力23.08%、平均22.47%の料金改定を実施
    • [107]円高差益の還元として1978年10月から1979年3月まで総額457億円、標準1世帯当たり月額284円の割引を実施

1972年6月の組織改定で、本店は全社的な総括に専念し、支店へ大幅に権限を委譲した。1973年3月には環境立地推進本部を設け、脱石油化を目指した電源開発に全社で取り組んだ。1977年6月に社長に就任した田中精一氏は、入社当時の個人商店のような電力会社を振り返り、『そういう時代がまたやってきましたね。今の電力会社もお願いする時代ですから』と語った。1979年は創立以来初めて新規電源の運転開始がない年となり、田中精一社長は1980年を80年代の供給力となる新規電源に着手する土壇場の年と位置づけた。1980年3月には効率経営推進本部のもとに長期経営戦略部会を置き、電源多様化の基本戦略を抜本的に見直した。

  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [110]1972年6月に大幅な組織改定を行い、本店は全社的総括に専念し支店(社)に大幅な権限の委譲を行った
  • 中部電力30年史(中部電力、1981年)
    • [111]1973年3月「環境立地推進本部」を設置し、脱石油化を目指した電源開発に全社一丸となって努力
    • [114]1980年3月の料金改定認可と同時に効率経営推進本部のもとに「長期経営戦略部会」を設置し、電源多様化の基本戦略を抜本的に見直した
  • 日経ビジネス 1977年10月10日号
    • [112]田中精一は1977年6月に社長就任。入社当時は電灯や扇風機を一軒一軒売って歩いたと回想
  • 80年代わが社の戦略(1980年)「中部電力 田中精一」
    • [113]1979年は創立以来初めて新規電源の運転開始がない年。1980年は原子力をはじめ80年代の供給力となる新規電源地点に着手する土壇場の年
参考文献[99]-[114]
  • 中部電力30年史(中部電力、1981年)
    • [99]1973年秋の石油危機は総発電電力量の約8割を石油火力に依存する当社にとって深刻な打撃
    • [100]1973年11月に「燃料緊急打ち合わせ会」を設置。行政当局や石油業界へ供給カット幅を小さくする働きかけを実施
    • [101]1974年3月末の貯油量は52万2,000klとなり、当社石油消費量の10日分以下という低い水準
    • [106]1976年8月20日認可、8月31日から電灯20.71%・電力23.08%、平均22.47%の料金改定を実施
    • [107]円高差益の還元として1978年10月から1979年3月まで総額457億円、標準1世帯当たり月額284円の割引を実施
    • [111]1973年3月「環境立地推進本部」を設置し、脱石油化を目指した電源開発に全社一丸となって努力
    • [114]1980年3月の料金改定認可と同時に効率経営推進本部のもとに「長期経営戦略部会」を設置し、電源多様化の基本戦略を抜本的に見直した
  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [102]1971〜1973年度の平均伸び率は電力量9.5%、1974〜1980年度は3.2%
    • [103]1974年1月の経営計画大綱は「エネルギー節約時代への対応」と題し、需要開拓から省エネルギー推進への転換をはかった
    • [104]1980年度末の発電設備は1,826万kWで1970年度末の2.2倍。1980年度の発受電電力量の構成は石油52%
    • [105]1974年6月から平均71.79%の料金改定を実施。家庭用には3段階料金制、産業用には特別料金制を導入
    • [108]1980年1月に平均64.81%の電気料金改定を申請したが厳しい査定を受け、4月から平均49.07%の改定を実施。産業用に季節別料金制を導入
    • [109]1971〜1980年度の工事資金は総額2兆3,115億円で前10年間の約4倍。社債は10年間で約1兆円を発行
    • [110]1972年6月に大幅な組織改定を行い、本店は全社的総括に専念し支店(社)に大幅な権限の委譲を行った
  • 日経ビジネス 1977年10月10日号
    • [112]田中精一は1977年6月に社長就任。入社当時は電灯や扇風機を一軒一軒売って歩いたと回想
  • 80年代わが社の戦略(1980年)「中部電力 田中精一」
    • [113]1979年は創立以来初めて新規電源の運転開始がない年。1980年は原子力をはじめ80年代の供給力となる新規電源地点に着手する土壇場の年

1977年〜知多のLNG専焼火力から、四日市のコンバインドサイクルと石炭火力による脱石油

中部電力は原子力を脱石油の中核と位置づける一方、計画から運転開始まで長い期間を要する原子力へのつなぎにLNG火力を充てた。1973年12月にはインドネシアのプルタミナと関西電力、大阪ガスなど5社で年間750万tのLNG購入を契約し、中部電力の引取量は170万tとした。LNG基地には、知多火力の約3km南で東邦瓦斯がガス製造工場用地として取得する予定の埋立地を共同で使った。1977年9月にインドネシアから第1船が到着し、1978年に知多火力5・6号機が中部電力初のLNG専焼火力として運転を始めた。1980年度末の設備構成は石油火力52%、LNG火力12%、原子力8%となった。

  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [115]原子力開発は脱石油の中核と位置付けたが、計画から運転開始までの期間が長いためLNG火力をそのつなぎとして位置付けた
    • [116]1973年12月 インドネシア国営石油ガス会社プルタミナとの間に関西電力・大阪ガスなど5社で年間750万t(うち当社170万t)を契約
    • [118]1977年9月にインドネシアから第1船が知多LNG共同基地に到着。知多火力5・6号機は当社初のLNG専焼火力として1978年運転開始
    • [119]1980年度末の発電設備の構成比率は石油火力52%、LNG火力12%、原子力8%
  • 中部電力30年史(中部電力、1981年)
    • [117]知多火力の約3km南に東邦瓦斯がガス製造工場用地として取得予定の名古屋港管理組合の埋立地がLNG基地の立地条件に適合し、共同利用を折衝

1981年4月、中部電力は原子力など脱石油電源の開発を積極的に進める経営基本方針を明らかにした。1981年度の施設計画は、原子力開発の推進、石炭火力開発の早期具体化、当面の脱石油対策としてのLNG火力の開発を基本方針に掲げた。1984年には電源多様化の基本方針のもと、ベース需要に原子力と石炭、ミドル需要にLNG、ピーク需要に石油火力と揚水を充てる構成を目指した。1985年7月の長期展望は、2000年を目標に各電源を最適に組み合わせる電源ベストミックスを掲げた。同年6月に社長に就任した松永亀三郎氏は、『公益事業だからといって甘えてはいけない。ライバルのエネルギーに勝つためには、いつもお客のニーズを的確につかんでいかなければならない』と説いた。燃料の安定性と経済性を電源ごとの役割に割り付ける設計へ移ったとみられる。

  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [120]1981年4月 原子力など脱石油電源の開発を積極的に進める経営基本方針を明らかにした
    • [121]1981年度の施設計画は「脱石油化と省エネルギー推進」を基本方針とし、原子力開発の推進・石炭火力開発の早期具体化・当面の脱石油対策としてのLNG火力開発の推進などを掲げた
    • [122]1984年に「セキュリティーとコストのバランスを目指した電源多様化」を基本方針とし、ベース需要に原子力・石炭火力、ミドル需要にLNG、ピーク需要に石油火力・揚水を充てることとした
    • [123]1985年7月策定の「21世紀に向けての長期展望」で2000年を目標に最適電源構成(電源ベストミックス)を追求
  • 日経ビジネス 1985年10月7日秋季増刊号
    • [124]松永亀三郎は1985年6月に社長就任。公益事業でも競合エネルギーに対し顧客のニーズを的確につかむ必要があるとの持論

1981年8月に三重県と四日市市へ建設を申し入れた四日市火力4号系列は、中部電力で初めてコンバインドサイクルを採用し、1988年7月に営業運転を始めた。熱効率は在来型を大きく上回る42.5%で、年間約5万tの燃料節約が見込まれた。燃料基地の四日市LNG基地には5年余りと905億円を投じ、四日市火力と川越火力へガスを送った。1981〜90年度の開発量654万kWのうち火力が527万kWを占め、既設のLNG転換を含むLNG火力は400万kWに達した。電源構成は1981年度末から1990年度末に、石油火力が65%から39%へ下がり、LNG火力が8%から34%へ上がった。1991年時点で、清水の石炭火力の建設計画は進んでいなかった。脱石油の実質は、原子力よりもLNG火力が担ったとみられる。

  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [125]1981年8月に三重県および四日市市に四日市火力4号系列建設を申し入れ。当社として初めてコンバインドサイクル・プラントを採用し1988年7月に営業運転を開始
    • [126]四日市火力4号系列の熱効率は在来型に比べて42.5%と大幅に向上し、年間約5万tの燃料節約が期待できる
    • [127]5年余の歳月と905億円を投じて四日市LNG基地が完成。気化したガスは四日市火力および川越火力に送られる
    • [128]1981〜1990年度の開発量は合計654万kW、うち火力527万kW。LNG火力は既設四日市1〜3号機のLNG転換を含め400万kW
    • [129]電源構成は石油火力が1981年度末65%から1990年度末39%、LNG火力が8%から34%
  • 日経ビジネス 1991年7月15日号
    • [130]清水石炭火力発電所・芦浜原子力発電所など電源開発の建設計画は遅々として進んでいない(1991年7月時点)
参考文献[115]-[130]
  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [115]原子力開発は脱石油の中核と位置付けたが、計画から運転開始までの期間が長いためLNG火力をそのつなぎとして位置付けた
    • [116]1973年12月 インドネシア国営石油ガス会社プルタミナとの間に関西電力・大阪ガスなど5社で年間750万t(うち当社170万t)を契約
    • [118]1977年9月にインドネシアから第1船が知多LNG共同基地に到着。知多火力5・6号機は当社初のLNG専焼火力として1978年運転開始
    • [119]1980年度末の発電設備の構成比率は石油火力52%、LNG火力12%、原子力8%
    • [120]1981年4月 原子力など脱石油電源の開発を積極的に進める経営基本方針を明らかにした
    • [121]1981年度の施設計画は「脱石油化と省エネルギー推進」を基本方針とし、原子力開発の推進・石炭火力開発の早期具体化・当面の脱石油対策としてのLNG火力開発の推進などを掲げた
    • [122]1984年に「セキュリティーとコストのバランスを目指した電源多様化」を基本方針とし、ベース需要に原子力・石炭火力、ミドル需要にLNG、ピーク需要に石油火力・揚水を充てることとした
    • [123]1985年7月策定の「21世紀に向けての長期展望」で2000年を目標に最適電源構成(電源ベストミックス)を追求
    • [125]1981年8月に三重県および四日市市に四日市火力4号系列建設を申し入れ。当社として初めてコンバインドサイクル・プラントを採用し1988年7月に営業運転を開始
    • [126]四日市火力4号系列の熱効率は在来型に比べて42.5%と大幅に向上し、年間約5万tの燃料節約が期待できる
    • [127]5年余の歳月と905億円を投じて四日市LNG基地が完成。気化したガスは四日市火力および川越火力に送られる
    • [128]1981〜1990年度の開発量は合計654万kW、うち火力527万kW。LNG火力は既設四日市1〜3号機のLNG転換を含め400万kW
    • [129]電源構成は石油火力が1981年度末65%から1990年度末39%、LNG火力が8%から34%
  • 中部電力30年史(中部電力、1981年)
    • [117]知多火力の約3km南に東邦瓦斯がガス製造工場用地として取得予定の名古屋港管理組合の埋立地がLNG基地の立地条件に適合し、共同利用を折衝
  • 日経ビジネス 1985年10月7日秋季増刊号
    • [124]松永亀三郎は1985年6月に社長就任。公益事業でも競合エネルギーに対し顧客のニーズを的確につかむ必要があるとの持論
  • 日経ビジネス 1991年7月15日号
    • [130]清水石炭火力発電所・芦浜原子力発電所など電源開発の建設計画は遅々として進んでいない(1991年7月時点)

1978年〜浜岡3号機の許可を遅らせた事故と東海地震問題、芦浜・熊野の停滞

浜岡1号機は1976年3月に営業運転を開始し、84万kWの2号機も1978年11月に運転を始めた。1977年6月には110万kWの3号機の増設を、静岡県・浜岡町と関係7漁協へ申し入れた。1979年3月のスリーマイル島の事故は、浜岡3号機をはじめ全国の原子力立地の推進が遅れる要因となった。1981年3月の第2次公開ヒアリングでは約5,000名の反対派がデモを行い、敦賀発電所の廃液漏洩問題や東海地震問題も重なって、許可は同年11月までずれ込んだ。3号機は1987年8月に運転を開始し、原子力の設備構成比は12%と2桁に乗った。浜岡1地点に増設を重ねるほど、1件の審査の遅れが原子力全体の計画を遅らせる構造になったとみられる。

  • 日本企業要覧 1976年版(東洋経済新報社)「中部電力」
    • [131]1976年3月 浜岡原子力発電所1号機が営業運転を開始
  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [132]浜岡2号機(84万kW)は1978年11月に運転を開始
    • [135]1981年3月の第2次公開ヒアリングでは約5,000名の反対派がデモ。スリーマイル島事故・敦賀発電所の廃液漏洩問題・東海地震問題の影響で厳しい安全審査が行われ、1981年11月に許可
    • [136]浜岡3号機は1987年8月に営業運転を開始し、原子力発電設備容量は248万kW、設備構成比は12%と2桁に乗った
  • 中部電力30年史(中部電力、1981年)
    • [133]1977年6月に3号機(出力110万kW)増設を静岡県・浜岡町および関係7漁業協同組合へ申し入れ
    • [134]1979年3月のスリーマイル島の原子力発電所事故が浜岡3号機をはじめとして全国の原子力立地推進が遅延する要因となった

芦浜では1985年4月に施設計画で地点名を公表し、同年6月に三重県議会が原子力発電所立地調査推進を決議した。しかし南島町では反対決議の再確認や反対組織の結成が相次ぎ、20年前の激しい反対運動が再燃した。1986年4月のチェルノブイリ事故の後、熊野市長は同年11月に原子力発電所を誘致しない方針を明確にした。1989年7月の参議院選挙では反原発を掲げる政党が乱立し、芦浜地点の南島町と紀勢町で高い得票率を示した。1991年時点で、芦浜原子力発電所の建設計画は進んでいなかった。原子力による脱石油と電源多様化の推進は、1991年時点で中部電力の最大の経営課題とされた。

  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [137]1985年4月に施設計画で芦浜地点を実名化し、同年6月に三重県議会が原子力発電所立地調査推進に関する決議
    • [138]南島町では原発反対決議の再確認、反対組織の結成など20年前の激しい反対運動が再燃
    • [139]1986年4月のチェルノブイリ原子力発電所の事故の後、同年11月に8選を果たした熊野市長は原子力発電所誘致の考えはないとして拒否の方針を明確にした
    • [140]1989年7月の参議院選挙比例代表区で反原発ミニ政党が乱立し、芦浜地点の南島町・紀勢町などで高い得票率を示した
    • [142]原子力発電による脱石油・電源多様化の推進は当社最大の経営課題
  • 日経ビジネス 1991年7月15日号
    • [141]清水石炭火力発電所・芦浜原子力発電所など電源開発の建設計画は遅々として進んでいない(1991年7月時点)

1987年度以降は内需主導の景気回復で、中部電力の発受電電力量は毎年4.8〜7.6%伸びた。1990年夏の最大電力は2,205万kWを記録し、他社からの融通を受けても供給予備率は2.3%にとどまった。1991年時点で、2000年以降の電源はほとんど確定しておらず、新規地点の開発が緊急の課題とされた。1991年6月に社長に就任した安部浩平氏は、7月の組織改革で電源別の渉外担当を地域別の担当へ改めた。浜岡では4号機を1989年2月に着工し、5号機の建設では国内の原子力で初めて高効率タービンを採用する予定とした。電源立地の制約は、技術や資金よりも地元の合意形成に移ったとみられる。

  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [143]発受電電力量は前年対比で1987年度7.6%、1988年度4.8%、1989年度5.9%、1990年度6.6%の伸び
    • [144]1990年夏季の最大電力は2,205万kWを記録し、供給予備率は他社融通を受けてもなお2.3%
    • [145]2000年以降の電源についてはほとんど確定しておらず、新規地点の開発は緊急課題(1991年時点)
    • [147]浜岡原子力発電所4号機は1989年2月に建設着工
  • 日経ビジネス 1991年7月15日号
    • [146]1991年6月 安部浩平が社長就任。7月1日の組織改革で電源別担当渉外を地域別担当に変更
  • 中部電力 経営計画「平成13年度 経営の目指すもの」(2001年)
    • [148]建設中の浜岡原子力発電所5号機に国内原子力プラントでは初めてとなる高効率タービンを採用する予定
参考文献[131]-[148]
  • 日本企業要覧 1976年版(東洋経済新報社)「中部電力」
    • [131]1976年3月 浜岡原子力発電所1号機が営業運転を開始
  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [132]浜岡2号機(84万kW)は1978年11月に運転を開始
    • [135]1981年3月の第2次公開ヒアリングでは約5,000名の反対派がデモ。スリーマイル島事故・敦賀発電所の廃液漏洩問題・東海地震問題の影響で厳しい安全審査が行われ、1981年11月に許可
    • [136]浜岡3号機は1987年8月に営業運転を開始し、原子力発電設備容量は248万kW、設備構成比は12%と2桁に乗った
    • [137]1985年4月に施設計画で芦浜地点を実名化し、同年6月に三重県議会が原子力発電所立地調査推進に関する決議
    • [138]南島町では原発反対決議の再確認、反対組織の結成など20年前の激しい反対運動が再燃
    • [139]1986年4月のチェルノブイリ原子力発電所の事故の後、同年11月に8選を果たした熊野市長は原子力発電所誘致の考えはないとして拒否の方針を明確にした
    • [140]1989年7月の参議院選挙比例代表区で反原発ミニ政党が乱立し、芦浜地点の南島町・紀勢町などで高い得票率を示した
    • [142]原子力発電による脱石油・電源多様化の推進は当社最大の経営課題
    • [143]発受電電力量は前年対比で1987年度7.6%、1988年度4.8%、1989年度5.9%、1990年度6.6%の伸び
    • [144]1990年夏季の最大電力は2,205万kWを記録し、供給予備率は他社融通を受けてもなお2.3%
    • [145]2000年以降の電源についてはほとんど確定しておらず、新規地点の開発は緊急課題(1991年時点)
    • [147]浜岡原子力発電所4号機は1989年2月に建設着工
  • 中部電力30年史(中部電力、1981年)
    • [133]1977年6月に3号機(出力110万kW)増設を静岡県・浜岡町および関係7漁業協同組合へ申し入れ
    • [134]1979年3月のスリーマイル島の原子力発電所事故が浜岡3号機をはじめとして全国の原子力立地推進が遅延する要因となった
  • 日経ビジネス 1991年7月15日号
    • [141]清水石炭火力発電所・芦浜原子力発電所など電源開発の建設計画は遅々として進んでいない(1991年7月時点)
    • [146]1991年6月 安部浩平が社長就任。7月1日の組織改革で電源別担当渉外を地域別担当に変更
  • 中部電力 経営計画「平成13年度 経営の目指すもの」(2001年)
    • [148]建設中の浜岡原子力発電所5号機に国内原子力プラントでは初めてとなる高効率タービンを採用する予定

第4章 2000年〜 大口電力の自由化と芦浜の断念から、浜岡1・2号機の廃炉とリプレース計画まで

筆者考察y.sugiura, author

自由化が中部電力に迫ったのは、地域独占のもとで積み上げた原価を、価格で選ばれる市場の水準まで引き下げることだった。2000年3月の大口自由化を前に、管内最大の需要家であるトヨタ自動車が東京電力と関西電力へ供給を打診している。2001年4月の経営改革ロードマップは2005年度までに2割のコスト削減を掲げ、同年6月には自由化対応を担った末席常務の川口文夫氏を16人抜きで社長に据えた。設備投資は1993年度の7,424億円から2004年度には1,300億円程度まで下がり、要員も2005年度末に1万6,245人となった。大型電源の建設が一巡した後だから、投資を絞っても供給力に穴が開かなかった。

削った原価は料金の引き下げへ回り、2000年10月から2006年4月まで4度の値下げが続いて、需要が伸びても売上高はほぼ横ばいで推移した。同じ時期に、原子力は立地の選択肢を失っている。2000年2月に三重県の北川正恭知事が芦浜の計画を白紙に戻すと表明し、1964年の内定から36年を費やした計画は着工に至らないまま消えた。残る浜岡には2005年1月に138万kWの5号機が加わり、2008年12月には54万kWの1号機と84万kWの2号機を止めて6号機へ置き換える決定が下る。運転終了に伴う1,536億円の特別損失は、東海地震の想定震源域にある1地点へ設備を積み増してきたことの対価だった。

経営計画が示した設備投資の年平均額 各年度の計画値(億円)

4,000 2001年度計画 3,000 2002年度計画 1,700 2004年度計画
  • 2001年度計画は2001・02年度、2002年度計画は2002〜04年度、2004年度計画は2004〜06年度の年平均。2004年度計画は単体で1,700億円以下。
  • 出所は中部電力 経営計画「平成13年度 経営の目指すもの」(2001年)、同「平成14年度 経営の目指すもの」(2002年3月)、同「平成16年度 経営の目指すもの」(2004年3月)。

2000年〜経営改革ロードマップの2割削減と、設備投資7,424億円から1,300億円への圧縮

2000年3月の大口電力の小売自由化を前に、管内最大の需要家であるトヨタ自動車は東京電力と関西電力へ電力供給を打診した。中部電力は2001年4月、事業のあらゆる段階に競争対応の視点を盛り込んだ経営改革ロードマップを策定した。ロードマップは、2005年度までに自由化開始直前と比べて2割のコストを削減する目標を掲げた。同年6月には、名古屋支店長として自由化対応を担っていた末席常務の川口文夫氏を、16人抜きで社長に選任した。川口文夫社長は就任と同時に、2005年までに調達コストを約2割、総額400億円削減する目標を打ち出した。地域独占のもとで積み上げた原価を、価格で選ばれる市場の水準へ引き下げる計画であったとみられる。

  • 日経ビジネス 2001年4月9日号
    • [149]2000年3月の大口電力小売自由化の直前、管内最大の需要家トヨタ自動車が東京電力・関西電力に電力供給を打診
    • [152]2001年3月 末席常務で名古屋支店長の川口文夫を16人抜きで社長に抜擢すると発表(2001年6月就任)
  • 中部電力 経営計画「平成14年度 経営の目指すもの」(2002年3月)
    • [150]2001年4月 電力自由化時代に即応するため、事業のあらゆる段階について「競争対応」という視点を盛り込んだ経営戦略「経営改革ロードマップ」を策定
    • [151]経営改革ロードマップで「平成17年度までに自由化開始直前と比較して2割のコスト削減」の目標を設定
  • 日経ビジネス 2001年11月12日号
    • [153]川口文夫社長は2001年6月の就任と同時に2005年までに調達コストを約2割、総額400億円削減する目標を打ち出した

2001年度の計画は、2001・02年度の設備投資を年平均4,000億円程度に抑える目標を置いた。2002年度の計画は2002〜04年度を年平均3,000億円程度へ下げ、2004年度の計画は2004〜06年度の単体の投資を年平均1,700億円以下とした。ピークの1993年度に7,424億円だった設備投資は、2004年度に1,300億円程度まで下がる見込みとなった。要員は1998年3月の2万900人に対し、2005年度末に1万6,600人程度とする目標を掲げた。2005年度末の要員は1万6,245人となり、2割のコスト削減目標は2005年度に達成された。大型電源の建設が一巡した時期に、投資と要員の双方を計画の数字で段階的に絞り込んだとみられる。

  • 中部電力 経営計画「平成13年度 経営の目指すもの」(2001年)
    • [154]2001・2002年度の2カ年の投資規模について年平均4,000億円程度の水準を目標とした
    • [158]社員数2万900人(1998年3月1日時点)を2001年度末までに約1,600人削減する目標
  • 中部電力 経営計画「平成14年度 経営の目指すもの」(2002年3月)
    • [155]2002〜2004年度の3カ年の投資規模について年平均3,000億円程度の水準を目指す
    • [159]今後の要員目標は2005年度末までに社員数を1万6,600人程度とする
  • 中部電力 経営計画「平成16年度 経営の目指すもの」(2004年3月)
    • [156]設備投資目標は2004〜2006年度の3カ年平均で単体年平均1,700億円以下、連結年平均2,000億円以下
  • 中部電力 経営計画「平成17年度 経営の目指すもの」(2005年3月)
    • [157]ピーク時の1993年度に7,424億円であった設備投資額を2004年度には1,300億円程度にまで抑制できる見込み
  • 中部電力 経営計画「経営の概況」(2006年5月)
    • [160]2005年度末の要員は1万6,245人となり、「2005年度末で在籍人員1万6,600人程度」の目標を達成
    • [161]経営改革ロードマップで掲げた「2005年度までに自由化開始直前と比較して2割のコスト削減」の目標を達成

財務では、1996年度末に約4兆4,000億円に達した有利子負債を、2004年度末までに3.6兆円以下とする目標を置いた。2001〜03年度の平均で経常利益1,500億円以上、総資産利益率1.5%以上を目標とし、2004年度の計画は両目標とも達成の見込みとした。電気料金は2000年10月、2002年9月、2005年1月の3回にわたり引き下げた。2005年1月の値下げは平均5.94%で、2006年4月にも電灯・電力平均で3.79%の値下げを実施した。値下げが重なり、売上高は電力需要の伸びにもかかわらずほぼ横ばいで推移した。コスト削減の成果を、財務目標の達成と料金の引き下げに振り分けたとみられる。

  • 中部電力 経営計画「平成14年度 経営の目指すもの」(2002年3月)
    • [162]有利子負債は1996年度末に約4兆4,000億円に達した。有利子負債残高の目標を「2004年度末までに3.6兆円以下」とする
    • [163]企業価値の向上にむけた目標として経常利益1,500億円以上・総資産利益率1.5%以上(2001〜2003年度の3カ年平均)
  • 中部電力 経営計画「平成16年度 経営の目指すもの」(2004年3月)
    • [164]従来の目標「総資産当期利益率1.5%以上」「経常利益1,500億円以上」(2001〜2003年度平均)はいずれも達成の見込み
  • 中部電力 経営計画「経営の概況」(2006年5月)
    • [165]2000年10月、2002年9月および2005年1月の3回にわたり電気料金を引下げ
    • [167]2006年4月に電灯・電力平均で3.79%の値下げを実施
    • [168]売上高は堅調な電力需要の伸びはあったものの、3回にわたる電気料金引下げなどによりほぼ横這いで推移
  • 中部電力 経営計画「平成17年度 経営の目指すもの」(2005年3月)
    • [166]2005年1月に平均5.94%の電気料金の値下げを実施
参考文献[149]-[168]
  • 日経ビジネス 2001年4月9日号
    • [149]2000年3月の大口電力小売自由化の直前、管内最大の需要家トヨタ自動車が東京電力・関西電力に電力供給を打診
    • [152]2001年3月 末席常務で名古屋支店長の川口文夫を16人抜きで社長に抜擢すると発表(2001年6月就任)
  • 中部電力 経営計画「平成14年度 経営の目指すもの」(2002年3月)
    • [150]2001年4月 電力自由化時代に即応するため、事業のあらゆる段階について「競争対応」という視点を盛り込んだ経営戦略「経営改革ロードマップ」を策定
    • [151]経営改革ロードマップで「平成17年度までに自由化開始直前と比較して2割のコスト削減」の目標を設定
    • [155]2002〜2004年度の3カ年の投資規模について年平均3,000億円程度の水準を目指す
    • [159]今後の要員目標は2005年度末までに社員数を1万6,600人程度とする
    • [162]有利子負債は1996年度末に約4兆4,000億円に達した。有利子負債残高の目標を「2004年度末までに3.6兆円以下」とする
    • [163]企業価値の向上にむけた目標として経常利益1,500億円以上・総資産利益率1.5%以上(2001〜2003年度の3カ年平均)
  • 日経ビジネス 2001年11月12日号
    • [153]川口文夫社長は2001年6月の就任と同時に2005年までに調達コストを約2割、総額400億円削減する目標を打ち出した
  • 中部電力 経営計画「平成13年度 経営の目指すもの」(2001年)
    • [154]2001・2002年度の2カ年の投資規模について年平均4,000億円程度の水準を目標とした
    • [158]社員数2万900人(1998年3月1日時点)を2001年度末までに約1,600人削減する目標
  • 中部電力 経営計画「平成16年度 経営の目指すもの」(2004年3月)
    • [156]設備投資目標は2004〜2006年度の3カ年平均で単体年平均1,700億円以下、連結年平均2,000億円以下
    • [164]従来の目標「総資産当期利益率1.5%以上」「経常利益1,500億円以上」(2001〜2003年度平均)はいずれも達成の見込み
  • 中部電力 経営計画「平成17年度 経営の目指すもの」(2005年3月)
    • [157]ピーク時の1993年度に7,424億円であった設備投資額を2004年度には1,300億円程度にまで抑制できる見込み
    • [166]2005年1月に平均5.94%の電気料金の値下げを実施
  • 中部電力 経営計画「経営の概況」(2006年5月)
    • [160]2005年度末の要員は1万6,245人となり、「2005年度末で在籍人員1万6,600人程度」の目標を達成
    • [161]経営改革ロードマップで掲げた「2005年度までに自由化開始直前と比較して2割のコスト削減」の目標を達成
    • [165]2000年10月、2002年9月および2005年1月の3回にわたり電気料金を引下げ
    • [167]2006年4月に電灯・電力平均で3.79%の値下げを実施
    • [168]売上高は堅調な電力需要の伸びはあったものの、3回にわたる電気料金引下げなどによりほぼ横這いで推移

2004年〜高圧全数への自由化拡大と、ガス・LNG販売、カタールの発電事業、新名古屋8号系列

自由化の範囲は2004年4月に高圧500kW以上、2005年4月に高圧の全需要家へ広がった。2005年4月には日本卸電力取引所の運用も始まり、ガス事業でも自由化範囲の拡大と託送制度の整備が進んだ。中部電力は2000年6月にエル・エヌ・ジー中部を設立してタンクローリーによるLNG販売を始め、2001年からは発電用のLNGと発電所周辺のガス導管を使ってガスを販売した。2001年8月には北陸電力など3社と北陸エルネスを設立し、北陸地域でLNGを販売した。2006年度の計画は、ガス・LNG販売と分散型エネルギー事業の3事業で、2010年度に売上高450億円程度を目指した。電気の域外へ出てくる競争相手に対し、発電用燃料の調達網を販売へ転用する策であったとみられる。

  • 中部電力 経営計画「平成16年度 経営の目指すもの」(2004年3月)
    • [169]2004年4月に高圧500kW以上、2005年4月に高圧全数のお客さまに自由化範囲が拡大
  • 中部電力 経営計画「平成17年度 経営の目指すもの」(2005年3月)
    • [170]2005年4月から「日本卸電力取引所」と「電力系統利用協議会」の運用開始。ガス事業においても自由化範囲の拡大や託送制度整備等の制度変更
  • 中部電力 経営計画「平成18年度 経営の目指すもの」(2006年3月)
    • [171]2000年6月にエル・エヌ・ジー中部を設立しLNGのタンクローリー販売を開始。発電用燃料のLNGと発電所周辺のガス導管を活用し2001年よりガス販売を開始
    • [173]ガス事業・LNG販売事業・分散型エネルギー事業の三事業合計で2010年度に450億円程度の売上高を目指す
  • 中部電力 経営計画「平成14年度 経営の目指すもの」(2002年3月)
    • [172]2001年8月に北陸電力をはじめとする3社とともに北陸エルネスを設立し、北陸地域におけるLNGの販売事業に進出

海外では、アジアを中心とする電力インフラ整備のコンサルティングで毎年4億円程度の収益を上げていた。2003年度にアジアのクリーンエネルギー投資ファンドへの参画を決め、2004年度にはカタールの発電・海水淡水化プロジェクト(1,025MW)に参画した。2006年度の計画は2010年度までの5年間を海外エネルギー事業の発展期と位置づけ、2006年2月にタイのバンコクへ海外事務所を開設した。国内では2005〜14年度の10年間に、他社開発電源からの受電を含め400万kWを超える電源を開発する計画を立てた。その中核となる新名古屋火力8号系列は2005年7月に着工し、発電効率約51%の1500℃級ガスタービンによるコンバインドサイクルを採用した。

  • 中部電力 経営計画「平成16年度 経営の目指すもの」(2004年3月)
    • [174]主にアジアの国々における電力インフラ整備等のコンサルティングを展開し、毎年4億円程度の収益を計上
    • [175]2003年度に「グローバル・アジア・クリーンエナジーサービスファンド」への参画を決定
  • 中部電力 経営計画「平成17年度 経営の目指すもの」(2005年3月)
    • [176]2004年度にカタールにおける発電・海水淡水化プロジェクト(1,025MW)に参画
    • [178]2005〜2014年度の10年間で原子力など他社開発電源からの受電を含め400万kWを超える電源を開発
  • 中部電力 経営計画「平成18年度 経営の目指すもの」(2006年3月)
    • [177]2010年度までの5年間を「海外エネルギー事業の発展期」と位置付け。2006年2月にタイのバンコクに海外事務所を開設
    • [179]新名古屋火力発電所8号系列は2005年7月に着工し、発電効率約51%の1500℃級ガスタービンによるコンバインドサイクル発電方式を採用

2004年度の計画は、上越火力1号系列126.5万kWの使用開始を2012年度とした。2010年の年報は、上越火力1・2号系列の高効率コンバインドサイクルが年間約60万tのLNG使用と約160万tのCO2排出を減らす見込みと記した。上越火力と燃料関連設備への投資を続けるなかで、2009年度の火力の総合熱効率は46.21%と国内最高水準を保った。2006年度の計画は、定格熱出力一定運転で浜岡3〜5号機の電気出力を増やしたことも効率化の成果に挙げた。設備投資を絞る一方で、火力の更新投資は燃料費とCO2排出を同時に抑える高効率機へ集中させたとみられる。

  • 中部電力 経営計画「平成16年度 経営の目指すもの」(2004年3月)
    • [180]電源設備計画で上越火力発電所1号系列126.5万kWの使用開始を2012年度とした
  • 中部電力 Annual Report 2010(2010年)
    • [181]上越火力1・2号系列の高効率コンバインドサイクルにより年間約60万tのLNG使用と約160万tのCO2排出を削減
    • [182]上越火力発電所の建設や燃料関連インフラへの投資を行いつつ、2009年度の総合熱効率は46.21%(LHV基準)と国内トップクラスを維持
  • 中部電力 経営計画「平成18年度 経営の目指すもの」(2006年3月)
    • [183]定格熱出力一定運転を実施し、2006年1月の実績で3号機平均1.7万kW、4号機平均0.5万kW、5号機3.2万kWの電気出力を増加
参考文献[169]-[183]
  • 中部電力 経営計画「平成16年度 経営の目指すもの」(2004年3月)
    • [169]2004年4月に高圧500kW以上、2005年4月に高圧全数のお客さまに自由化範囲が拡大
    • [174]主にアジアの国々における電力インフラ整備等のコンサルティングを展開し、毎年4億円程度の収益を計上
    • [175]2003年度に「グローバル・アジア・クリーンエナジーサービスファンド」への参画を決定
    • [180]電源設備計画で上越火力発電所1号系列126.5万kWの使用開始を2012年度とした
  • 中部電力 経営計画「平成17年度 経営の目指すもの」(2005年3月)
    • [170]2005年4月から「日本卸電力取引所」と「電力系統利用協議会」の運用開始。ガス事業においても自由化範囲の拡大や託送制度整備等の制度変更
    • [176]2004年度にカタールにおける発電・海水淡水化プロジェクト(1,025MW)に参画
    • [178]2005〜2014年度の10年間で原子力など他社開発電源からの受電を含め400万kWを超える電源を開発
  • 中部電力 経営計画「平成18年度 経営の目指すもの」(2006年3月)
    • [171]2000年6月にエル・エヌ・ジー中部を設立しLNGのタンクローリー販売を開始。発電用燃料のLNGと発電所周辺のガス導管を活用し2001年よりガス販売を開始
    • [173]ガス事業・LNG販売事業・分散型エネルギー事業の三事業合計で2010年度に450億円程度の売上高を目指す
    • [177]2010年度までの5年間を「海外エネルギー事業の発展期」と位置付け。2006年2月にタイのバンコクに海外事務所を開設
    • [179]新名古屋火力発電所8号系列は2005年7月に着工し、発電効率約51%の1500℃級ガスタービンによるコンバインドサイクル発電方式を採用
    • [183]定格熱出力一定運転を実施し、2006年1月の実績で3号機平均1.7万kW、4号機平均0.5万kW、5号機3.2万kWの電気出力を増加
  • 中部電力 経営計画「平成14年度 経営の目指すもの」(2002年3月)
    • [172]2001年8月に北陸電力をはじめとする3社とともに北陸エルネスを設立し、北陸地域におけるLNGの販売事業に進出
  • 中部電力 Annual Report 2010(2010年)
    • [181]上越火力1・2号系列の高効率コンバインドサイクルにより年間約60万tのLNG使用と約160万tのCO2排出を削減
    • [182]上越火力発電所の建設や燃料関連インフラへの投資を行いつつ、2009年度の総合熱効率は46.21%(LHV基準)と国内トップクラスを維持

2005年〜芦浜の白紙撤回、浜岡5号機の運転開始と、1・2号機の運転終了による1,536億円の特別損失

2000年2月、三重県の北川正恭知事は芦浜原子力発電所の計画について『原子力発電の必要性は認めるが、足掛け37年間にわたり苦しんでいる地域の人たちの声を受けて判断し、白紙に戻すという結論に達した』と表明した。中部電力は2001年度の計画で、30年余りにわたり取り組んできた芦浜原子力発電所計画を断念せざるをえなくなったと記した。1964年の内定から36年、芦浜は着工に至らないまま計画から外れた。原子力の増設は浜岡に集まり、5号機は改良型沸騰水型軽水炉の138万kWとして2005年1月18日に営業運転を開始した。浜岡5号機の建設では、機器メーカーの工場で機器や配管をモジュールブロック化し、現地での作業量を大幅に減らした。立地の選択肢を失った原子力は、東海地震の想定震源域に立つ浜岡1地点へ設備を積み増す構造になったとみられる。

  • 火力原子力発電 51巻3号(2000年3月)「展望 エネルギー問題に難題重なる」(火力原子力発電技術協会)
    • [184]2000年2月 三重県知事が芦浜原子力発電所計画を白紙に戻すとの結論を表明
  • 中部電力 経営計画「平成13年度 経営の目指すもの」(2001年)
    • [185]昨年(2000年)、30年余りの永きにわたり取り組んできた芦浜原子力発電所計画を断念せざるをえないこととなった
  • 中部電力20年史(中部電力、1971年)
    • [186]1964年7月 芦浜内定を発表
  • 中部電力 経営計画「平成16年度 経営の目指すもの」(2004年3月)
    • [187]電源設備計画で浜岡原子力発電所5号(ABWR・改良型沸騰水型軽水炉)138万kW
    • [189]浜岡5号機ではあらかじめ機器メーカー工場内で機器・配管類をモジュールブロック化し、現地での作業量を大幅に削減
  • 中部電力 経営計画「平成17年度 経営の目指すもの」(2005年3月)
    • [188]2005年1月18日 浜岡原子力発電所5号機が営業運転を開始

2008年12月22日の取締役会で、中部電力は浜岡原子力発電所1・2号機の運転終了と6号機の建設を内容とするリプレース計画を決めた。6号機は2018年度から5年以内の運転開始を目標とし、全号機の使用済燃料を置く乾式貯蔵施設の建設もあわせて計画した。出力54万kWの1号機と84万kWの2号機は、2009年1月30日をもって発電用の電気工作物として廃止された。運転終了に伴う損失1,536億円は2009年3月期の特別損失に計上され、減損した設備の回収可能価額は転用や売却が困難として零円とされた。2009年8月には駿河湾で起きた地震で浜岡原子力発電所が運転を停止し、火力の発電量が増えた。初期の小型2基を補強して残すより、大型の新設1基へ置き換える選択であったとみられる。

  • 中部電力 有価証券報告書 第85期(2009年3月期)【設備の状況】【連結損益計算書関係】
    • [190]2008年12月22日の取締役会で浜岡原子力発電所1・2号機の運転終了と6号機の建設等を内容とするリプレース計画等を決定
    • [192]1号機540千kW・2号機840千kWは2009年1月30日をもって発電用の電気工作物としては廃止
    • [193]運転終了に伴う損失1,536億円を2009年3月期の特別損失に計上。減損の回収可能価額は他への転用や売却が困難なため零円
  • 中部電力 Annual Report 2010(2010年)
    • [191]2008年12月に1・2号機の運転終了を決め、6号機を2018年度から5年以内に運転開始する計画を策定。1・2号機の運転終了にあわせ全号機の使用済燃料の乾式貯蔵施設の建設を計画
    • [194]2009年8月の駿河湾の地震により浜岡原子力発電所が運転を停止し、火力発電電力量が増加
参考文献[184]-[194]
  • 火力原子力発電 51巻3号(2000年3月)「展望 エネルギー問題に難題重なる」(火力原子力発電技術協会)
    • [184]2000年2月 三重県知事が芦浜原子力発電所計画を白紙に戻すとの結論を表明
  • 中部電力 経営計画「平成13年度 経営の目指すもの」(2001年)
    • [185]昨年(2000年)、30年余りの永きにわたり取り組んできた芦浜原子力発電所計画を断念せざるをえないこととなった
  • 中部電力20年史(中部電力、1971年)
    • [186]1964年7月 芦浜内定を発表
  • 中部電力 経営計画「平成16年度 経営の目指すもの」(2004年3月)
    • [187]電源設備計画で浜岡原子力発電所5号(ABWR・改良型沸騰水型軽水炉)138万kW
    • [189]浜岡5号機ではあらかじめ機器メーカー工場内で機器・配管類をモジュールブロック化し、現地での作業量を大幅に削減
  • 中部電力 経営計画「平成17年度 経営の目指すもの」(2005年3月)
    • [188]2005年1月18日 浜岡原子力発電所5号機が営業運転を開始
  • 中部電力 有価証券報告書 第85期(2009年3月期)【設備の状況】【連結損益計算書関係】
    • [190]2008年12月22日の取締役会で浜岡原子力発電所1・2号機の運転終了と6号機の建設等を内容とするリプレース計画等を決定
    • [192]1号機540千kW・2号機840千kWは2009年1月30日をもって発電用の電気工作物としては廃止
    • [193]運転終了に伴う損失1,536億円を2009年3月期の特別損失に計上。減損の回収可能価額は他への転用や売却が困難なため零円
  • 中部電力 Annual Report 2010(2010年)
    • [191]2008年12月に1・2号機の運転終了を決め、6号機を2018年度から5年以内に運転開始する計画を策定。1・2号機の運転終了にあわせ全号機の使用済燃料の乾式貯蔵施設の建設を計画
    • [194]2009年8月の駿河湾の地震により浜岡原子力発電所が運転を停止し、火力発電電力量が増加

第5章 2011-2026 (気が向いたら執筆します!) 浜岡全号機の停止から、JERAへの火力統合・分社化と基準地震動問題まで

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歴史年表 1951〜2026年

中部電力の沿革1951〜2026年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1951〜1960年九分割による発足から、世界銀行借款の新鋭火力と伊勢湾台風の復旧まで井上五郎中部電力設立★
井上五郎東京・名古屋・大阪の各証券取引所に上場★
井上五郎中電興業を設立★
井上五郎日本耐火防腐の株式取得し子会社化★
井上五郎永楽不動産を設立★
井上五郎中電ビルを設立★
1961〜1972年水力から石油火力への転換から、四日市公害判決と浜岡原子力の着工まで横山通夫中部火力工事を設立★
横山通夫中電工事を設立★
横山通夫国定公園の保安林に建てた大容量火力と、申し入れから着工まで9年を要した増設

1965年、中部電力は愛知県渥美郡渥美町で、地元の積極的な協力を得て約108万m²の火力発電所用地を買収した。三重・新名古屋・四日市・知多・武豊といった他の火力の用地は、埋立権者が漁業補償まで済ませた臨海部の埋立造成地を譲り受けたものであったのに対し、渥美だけは国定公園内の保安林であった。1・2号機(各50万kW)は1971年6月と10月に運転を始めた。

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横山通夫芦浜の行き詰まりを受けた浜岡への立地の切り替えと、沸騰水型軽水炉1号機の建設

1967年9月28日、中部電力は静岡県小笠郡浜岡町の浜岡地点を、原子力発電所の具体的な計画地点として発表した。先に内定を発表していた三重県の芦浜地点で漁業者の反対が続き、原子力の開発が大幅に遅れるなかでの選択であった。4年近い地元との協議を経て1971年3月に沸騰水型軽水炉の1号機(54万kW)を着工し、1976年3月17日、東海道筋で初めての原子力発電所として営業運転を始めた。

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加藤乙三郎既設の公害を理由に止まった増設計画の、15年後の建設同意による再開

1969年2月、中部電力は三重県尾鷲市に、尾鷲三田火力発電所3・4号機(各50万kW)の増設計画を申し入れた。同年12月に電源開発調整審議会で国の基本計画への組み入れが決まったが、既設1・2号機の公害問題を背景とする反対運動で計画は延期され、1984年6月に市長と関係漁協から3号機の建設同意を得るまで15年を要した。3号機は1985年1月に着工し、1987年6月に運転を始めた。

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1973〜1999年石油危機の料金改定から、LNG・石炭・原子力による電源ベストミックスまで加藤乙三郎大気汚染の重い臨海部での増設を通した、中部電力初のLNG専焼火力の採用

1973年11月、中部電力は愛知県知多市に、知多火力発電所5・6号機(各70万kW)の立地を申し入れた。建設地が名古屋南部臨海工業地帯の大気重汚染地域にあり、市から環境対策に万全を期すよう強く求められたことに応え、燃料に中部電力初のLNGを採用した。5号機は1978年3月、6号機は同年4月に運転を始め、中部電力初のガス火力となった。

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加藤乙三郎浜岡原子力発電所1号機営業運転開始★★
田中精一中部環境エンジニアリング・中電コンピューターサービスを設立★
田中精一誘致を決議した町の埋立地への、超々臨界圧LNG火力2基の建設

1981年8月、中部電力は三重県川越町に、川越火力発電所1・2号機(各70万kW)の建設を申し入れた。建設地は町が1967年12月に公有水面の埋め立てに着手し、1973年5月に竣工した工業用地で、町は同年7月に町議会全員協議会で発電所の誘致を決議していた。1982年3月に町の埋立地約48haを譲り受け、LNG専焼の2基は1989年6月と1990年6月に営業運転を始めた。

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田中精一石油関連企業の立地を拒んだ埋立地の条件解除と、中部電力初のコンバインドサイクルの採用

1981年8月、中部電力は三重県と四日市市に、四日市火力発電所4号系列の建設を申し入れた。ガスタービンの排熱を回収して蒸気タービンを回すコンバインドサイクル発電を中部電力で初めて採用した設備で、1軸11万7,000kWを5軸、合計56万kWの発電所として1988年7月に営業運転を始めた。あわせて四日市港の霞埋立地に、4号系列と川越火力1・2号機の燃料を受け入れる四日市LNG基地を建設した。

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松永亀三郎ガス火力の計画から海外炭の石炭火力への転換と、70万kW3基の建設

1986年1月、中部電力は愛知県と碧南市に、石炭を燃料とする70万kW3基の碧南火力発電所の建設を正式に申し入れた。当初はLNGまたはLPGのガス火力として計画していた地点を、海外炭を使う中部電力初の大容量石炭火力へ切り替えた。同年10月に国の基本計画に組み入れられ、1988年6月に着工した。1号機は1991年10月18日、2号機は1992年6月12日、3号機は1993年4月22日に運転を始めた。

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松永亀三郎コンピュータ・テクノロジー・インテグレイタを設立★
太田宏次中電ビルが電気文化会館・電気ビルを吸収合併★
2000〜2010年大口電力の自由化と芦浜の断念から、浜岡1・2号機の廃炉とリプレース計画まで太田宏次36年保ち続けた初の原子力立地の、三重県知事の白紙表明を受けた断念

2000年2月、三重県の北川正恭知事が芦浜原子力発電所の計画を白紙に戻す結論を示したのを受けて、中部電力の太田宏次社長は現計画を事実上断念する考えを表明した。芦浜は三重県度会郡の紀勢町と南島町にまたがる地点で、中部電力は1964年7月に初の原子力発電所の建設地点として内定を発表し、1965年に敷地約380万m²を買収していた。電力会社が地元首長の要請で原子力発電所の建設を撤回するのは、初めての例となった。

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太田宏次シーエナジーを設立★
川口文夫情報・施工子会社を再編★
川口文夫浜岡1・2号機の運転終了を決定★★
三田敏雄運転終了と隣接地への6号機新設という設備更新の選択

2008年12月22日、中部電力は取締役会で、浜岡原子力発電所1・2号機の運転終了と6号機の建設等を内容とするリプレース計画等を決定した。経済産業大臣への電気工作物変更届出を経て、出力540千kWの1号機と840千kWの2号機は2009年1月30日をもって発電用の電気工作物として廃止された。 運転終了に伴う損失1,536億円を2009年3月期の特別損失に計上し、同期は189億円の当期純損失となっている。三田敏雄社長のもとでの設備更新の判断である。

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★★★
水野明久水野明久が代表取締役社長に就任★
2011〜2026年浜岡全号機の停止から、JERAへの火力統合・分社化と基準地震動問題まで水野明久浜岡原発の全号機停止(菅首相の要請)★★
水野明久FY11に経常損失678億円、純損失921億円を計上★
水野明久ダイヤモンドパワーを子会社化★
水野明久東京電力とJERAを設立★★
勝野哲勝野哲が代表取締役社長に就任★
勝野哲国内火力発電事業の全面移管による発電資産の切り出し

2019年4月1日、中部電力は燃料受入・貯蔵・送ガス事業と既存火力発電事業等を吸収分割で㈱JERAへ承継させた。2015年4月に東京電力フュエル&パワーと折半出資で設けた合弁への段階的な統合は、これで完了した。 渡した資産は1兆2,028億円、負債は6,101億円で、このうち有利子負債5,992億円がJERAへ移っている。中部電力は自社で火力発電所を持たない電力会社となった。

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★★★
林欣吾送配電・小売の分社化と持株会社体制への移行

2020年4月1日、中部電力は一般送配電事業等を中部電力パワーグリッドへ、小売電気事業等を中部電力ミライズへ吸収分割で承継させ、自らは持株会社となった。渡した資産はパワーグリッドが2兆1,311億円、ミライズが2,743億円である。 前年4月に火力発電をJERAへ全面移管しており、報告セグメントはミライズ・パワーグリッド・JERAの3つに整理された。

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★★★
林欣吾林欣吾が代表取締役社長に就任★
林欣吾日本エスコンを子会社化★
林欣吾命令の取消訴訟を提起しながら、課徴金を特別損失へ計上した二正面の対応

2023年3月30日、中部地区等における特別高圧電力及び高圧電力の供給について、中部電力は独占禁止法に基づく課徴金納付命令を、子会社の中部電力ミライズは排除措置命令及び課徴金納付命令を、公正取引委員会からそれぞれ受領した。嫌疑は不当な取引制限である。 この命令により、2023年3月期に独占禁止法関連損失27,555百万円を特別損失へ計上した。一方で、事実認定と法解釈について見解の相違があるとして、同年9月25日に取消訴訟を提起している。

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林欣吾監査役会を廃し、議決権を持つ監査等委員と社外過半の取締役会が監督を担う機関設計へ

2024年6月26日の定時株主総会を以て、監査役会設置会社から監査等委員会設置会社へ移行した。掲げた理由は執行と監督の分離の一層の深化であり、機動的な意思決定とより高度なガバナンスの両立を実現することに置かれた。 移行後の取締役は13名で、うち7名と過半を社外取締役が占める。監査等委員である取締役は5名、うち3名が社外取締役で、いずれも取締役会の議決権を持つ。

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林欣吾ジェネックスを子会社化★
林欣吾再稼働申請の取り下げと、会長・社長の退任による経営体制の刷新

2025年5月15日、原子力規制庁から浜岡原子力発電所3号機・4号機の新規制基準適合性審査に係る基準地震動の策定について調査を受けた。その対応の結果、地震動評価における代表波の選定が審査会合での説明内容と異なる方法や意図的な方法で実施されていた疑いが確認され、2026年1月5日、外部専門家のみで構成する特別調査委員会の設置を取締役会で決議した。 2026年9月11日に調査報告書を受領し、同月14日の臨時取締役会で、3号機・4号機の設置変更許可申請、4号機の工事計画認可申請および保安規定変更認可申請を取り下げることを決めた。あわせて代表取締役会長の勝野哲氏と代表取締役社長の林欣吾氏が9月30日付で退任し、10月1日付で安井稔氏が社長に就任する。会長職は置かない。

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★★
安井稔安井稔が代表取締役社長に就任し、会長職を置かない体制へ移る★
出典・参考 29件
出典・参考
  • 中部電力 有価証券報告書 第85期(2009年3月期)【設備の状況】【連結損益計算書関係】
  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総説編 第1章 戦後の電気事業と当社の設立
  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総説編 第2章 設立後10年間の社業大観
  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総務編 第1章 経営管理組織の近代化
  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総説編 第3章 電気事業における諸問題
  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総務編 第8章 関係会社、風水害、刊行物
  • 中部電力20年史(中部電力、1971年)
  • 中部電力30年史(中部電力、1981年)
  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 09_電力「中部電力」
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)「中部電力」
  • 日本産業史 第3巻 エネルギー・資源(日本経済新聞社、1994年)「原発時代の幕開けと脱石油への模索」
  • 日本企業要覧 1970年版(東洋経済新報社)「中部電力」
  • 日本企業要覧 1976年版(東洋経済新報社)「中部電力」
  • 日経ビジネス 1977年10月10日号
  • 日経ビジネス 1985年10月7日秋季増刊号
  • 日経ビジネス 1991年7月15日号
  • 火力原子力発電 51巻3号(2000年3月)「展望 エネルギー問題に難題重なる」(火力原子力発電技術協会)
  • 日経ビジネス 2001年4月9日号
  • 日経ビジネス 2001年11月12日号
  • 私の履歴書 経済人9(日本経済新聞社、1980年)「井上五郎」
  • 80年代わが社の戦略(1980年)「中部電力 田中精一」
  • 中部電力 経営計画「平成13年度 経営の目指すもの」(2001年)
  • 中部電力 経営計画「平成14年度 経営の目指すもの」(2002年3月)
  • 中部電力 経営計画「平成16年度 経営の目指すもの」(2004年3月)
  • 中部電力 経営計画「平成17年度 経営の目指すもの」(2005年3月)
  • 中部電力 経営計画「経営の概況」(2006年5月)
  • 中部電力 経営計画「平成18年度 経営の目指すもの」(2006年3月)
  • 中部電力 Annual Report 2010(2010年)

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