中部電力が九分割を主張したのは、地域の企業として自立したかったからではなく、需要の伸びる地域で電源開発の責任を他社との共同計算に委ねたくなかったからである。集中排除審査委員会が1949年に示した7ブロック案は、中部と北陸を関西へ併合するものだった。中部配電の副社長だった井上五郎氏が求めたのは、プール計算をやめ、各社が自分の供給区域に責任を負う形である。ただし責任を引き受けた側には、足りない電気を自分で作る義務が残った。発足時の設備は水力74万kW・火力29万kWの103万kWで、渇水期の供給力は融通受電を加えても60万kW程度、1951年7月の需要74万kWに届かない。設立直後の夏の異常渇水と半年余りの電力制限は、その差が現実に現れたものである。
不足を埋める速さは、資金をどこから引けるかで決まった。10年間の工事資金2,101億円のうち、増資と内部留保で賄えたのは744億円にとどまり、残る1,357億円は社債と借入金である。1953年10月の世界銀行借款は電気事業で戦後初の外資導入となり、三重火力の輸入機器の購入に充てられた。政策資金と外資で設備を先に建てれば、減価償却費と支払利息が発電量より先に立ち上がる。1951年度下期から1960年度下期までに支払利息は13.9倍、減価償却費は約12倍に増えた。発足から4年で27.9%、19.6%、18.1%と3度の値上げが続いたのは、1年間の総括原価を基礎とする料金が、資本費の増加を追いかける形でしか作れなかったためである。
中部電力は1951年5月、電力再編成令に基づく日本発送電と中部配電の発起設立により、資本金7億5,000万円で発足した。再編成の審議では、1949年5月に集中排除審査委員会が中部と北陸を関西へ併合する7ブロック分割案を非公式に示した。中部配電はこれに対し、県・市・商工会議所・需要家とともに反対運動を展開した。中部配電の副社長で、のちに中部電力の初代社長となる井上五郎氏は、プール計算を廃して各社が責任を負う九分割案を配電会社の立場で主張した。発足後の中部電力は、中部5県の区域内にある日本発送電の発送変電設備を継承し、発電から配電までを一貫して担った。需要の伸びを見込む名古屋圏が、電源開発の責任を自社で負う企業形態を選択した再編成とみられる。
設立時の発電設備は水力74万kW・火力29万kWの合計103万kWであった。ところが実際の供給力は豊水期で70万kW、渇水期は融通受電を加えても60万kW程度で、1951年7月の需要74万kWを下回った。中部配電の時代は、供給力の80%を日本発送電からの受電に依存していた。設立直後の夏は異常渇水となり、法的な電力制限は1951年9月から翌年3月まで半年余り続いた。一方で販売電力量は1951年度の36億7,000万kWhから1953年度の46億kWhへ25%余り増え、増加は全国の地区で最も著しかった。この需要増に応えるため、発足後の最大の目標は電源開発に置かれた。渇水に弱い水力と受電への依存という二重の制約が、発足直後の経営を制約したと推定される。
発足時の業務組織は、中部配電と日本発送電東海支店の組織を暫定的に引き継いだものであった。中部電力は1952年3月18日に機構を改め、本店は支店業務を行わず統括業務に限った。同じ改革で、日本発送電から継承した4つの電力事務所を廃止し、その業務を支店へ吸収した。労務では、生活給の色彩が濃い電産型賃金体系を改めるため、電気事業で初めて職階制度を導入した。1952年秋の闘争で統一交渉を求める電産に対し、会社側は個別交渉・個別賃金を主張し、電源スト・停電ストが繰り返された。同年11月の静岡を皮切りに各県で労働組合が生まれ、12月に中部電力労働組合が結成された。発送配電の一貫経営は、組織と賃金の両面で旧来の枠組みを改めることから始まったとみられる。
中部電力は1951年10月に電源開発の基本計画を発表し、1954年末までに水力15万5,000kW、火力14万9,000kWを増強した。火力では米国製の大容量・高能率機で発電原価の高騰を抑える方針を採り、1953年10月に世界銀行との借款を成立させた。この借款は電気事業として戦後初の外資導入となり、三重火力の輸入機器の購入に充てられた。1955年12月に運転を始めた三重火力1号機は、6万6,000kWの屋外ユニットとして中央制御室などの新技術を国内へ持ち込んだ。10年間に開発した火力は98万kWと水力の約42万kWの2倍を超え、1960年度以降は火力の設備が水力を上回った。1961年3月末の発電設備は241万kWと設立時の2.4倍になり、需要は10年間で3.2倍に伸びた。
電源開発と送電設備の拡充に要した工事資金は、10年間で2,101億円にのぼった。このうち増資と内部留保で賄ったのは744億円と約3分の1にとどまり、残る1,357億円は社債・借入金などの外部資金であった。料金原価に織り込まれた減価償却は定額法の分だけで、10年間の総調達に占める内部留保は平均18%程度であった。1951〜55年度は政府の財政資金から工事資金の30%を超える融資を受け、社債は10年間に109回発行して残高460億円に達した。外資は新名古屋火力や畑薙第一・第二発電所の建設にも広がり、10年間の導入額は170億円となった。国内の資本市場が細いなかで、政策資金と外資が再編直後の電源開発を資金面で支えたとみられる。
電力原価は、新設備の割高な建設費に伴う減価償却費と支払利息の増加、火力の比重上昇による燃料費の増加で年々高騰した。中部電力は1951年に27.9%、1952年に19.6%、1954年に18.1%と、発足から4年で3度の料金改定を行った。料金は1年間の総括原価を基礎に算定されるため、新設備の増加に伴う原価の高騰を料金収入で回収できない過程が繰り返された。1954年の改定後は新鋭火力の熱効率向上、豊水、燃料単価の値下がりで原価の高騰を吸収し、1959年度上期には配当率を12%から10%へ下げた。一方で1951年度下期から1960年度下期までに、支払利息は13.9倍、減価償却費は約12倍に増えた。料金を据え置く期間が長いほど、資本費の重みが増す構造を抱えたとみられる。
1957年10月、自由民主党の基礎産業対策特別委員会は、電力不足と融通の不円滑、料金の高騰と地域差、経理内容の格差を電気事業体制の問題点に挙げた。電力会社間の格差から再編成後の企業体制を問う意見も出るなか、電気事業者は自主的経営責任体制のもとで広域運営を採ることを決めた。1958年4月に広域運営に関する協定が結ばれ、中部電力は中央と中地域の電力協議会の構成員となった。1961年3月末までに中部電力が経済融通した電力量は2億1,300万kWhで、経費節減額は約1億3,000万円となった。1960年から61年にかけては275kVの名古屋外輪線を新設し、関開閉所で関西電力と連系した。九分割の枠を保ったまま、会社間を融通と連系で結ぶ方式を選んだとみられる。
1959年9月26日に紀伊半島へ上陸した伊勢湾台風は、中部電力の供給区域全域に被害をもたらした。名古屋港の潮位は午後9時30分ごろに5.81mに達して伊勢湾の堤防が各所で壊れ、中部電力の設備被害は概算24億円余にのぼった。高潮で火力発電所が全停し、配電線はほぼ全線が損傷して、管内は一時停電に陥った。社長は10月1日に緊急布告を出し、平常時は本店が持つ権限を支店などへ移して復旧を急がせた。従業員2名と家族20名が亡くなり、従業員住居の被害は約7,000戸に及んだ。中部電力は同年12月、中部日本災害対策本部から民間会社として唯一の感謝状を受け、復旧後は災害対策特別研究会の結論をその後の災害対策の基礎とした。
1960年代の中部電力にとって、電源の選択は技術の問題から立地の同意の問題へ移った。創立からの10年で水力の良好地点をほぼ開発し終え、火力の経済性が上がっていたから、1961年からの10年間に開発した火力413万5,200kWは水力の約5倍に達した。電源構成は1961年3月末の水力47対火力53から、1971年3月末の27対73へ振れた。この転換が計画どおりに進んだのは、渥美を除く火力の用地が、埋立権者の側で漁業補償まで解決済みの臨海造成地だったからである。同意の手続きを他人が先に済ませた土地の上でだけ、大容量の火力は工程を守れた。知多火力3号機が1968年3月に世界最大の一軸式として運転を始めたのも、その条件の内側の出来事である。
条件が外れた地点では、計画は年単位で止まった。四日市の粉じんと温排水、1972年7月の公害訴訟判決が示したのは、既設の環境実績が次の立地の可否を決めるということである。尾鷲三田3・4号機は国の電源開発基本計画へ組み入れられながら、増設反対連合会の結成と市長のリコール運動を経て延期され、渥美の増設も3号機だけが承認された。1969年6月の開発調整部の設置と、加藤乙三郎社長が全従業員へ出した示達は、立地を技術部門の担当から全社の仕事へ移すものだった。芦浜が長島事件の後も動かず、熊野市議会が1972年3月に反対を決議した結果、原子力は用地156万4,000m²と漁業補償の整った浜岡の1地点だけに残った。
1960年代の中部電力は、電源開発の主体を水力から火力へ移した。創立からの10年で水力の良好地点の開発をほぼ終え、技術革新で火力の経済性が大きく上がっていた。1961年からの10年間に開発した火力は413万5,200kWで、水力の開発量の約5倍に相当した。電源構成は1961年3月末の水力47対火力53から、1971年3月末の27対73へ移った。渥美を除く火力の用地は、埋立権者が漁業補償まで一括して解決した臨海部の造成地を取得していた。1968年3月には、超臨界圧で一軸式として世界最大の知多火力3号機が運転を始めた。1970年時点では国内第3位の電力会社として、1970年度に新規200万kWを着工する1,270億円の投資を計画した。
1970年度の販売電力量は393億8,000万kWhで、10年前の1960年度の3.4倍に増えた。全国9社の総需要に占める中部電力の割合は、1960年度の13.4%から1970年度には15.2%へ上がった。臨海部の石油化学コンビナートと鉄鋼、内陸部の工作機械・輸送用機械が伸び、電力の需要は10年間で3.3倍になった。冷房機器の普及で1968年度に初めて夏季に年間のピークが生じ、1970年度以降はピークが夏季へ移った。昼夜の需要の格差を縮めるため、1964年11月から深夜電力を使う小型電気温水器の販売を始めた。需要の急増と夏への偏りが、大容量の火力を急いで積み増す条件を作ったとみられる。
1961〜70年度の設備投資は総額5,939億円にのぼり、前の10年間の約3倍に達した。社債の残高は1960年度末の459億5,200万円から、1970年度末には約4.2倍の1,928億300万円に増えた。大規模な電源開発で資本費が膨らみ、1963・64年度には大幅な実質赤字が生じて、経理は数期にわたり低空飛行を続けた。中部電力は1964年10月に平均9.71%の値上げを申請し、1965年4月から10年ぶりとなる平均7.89%の料金改定を実施した。1965年5月にまとめた長期総合経営計画は、深夜負荷の造成、大容量電源の拡充、公害対策、先行用地の手配などを提言した。石油が豊富で低廉だったことに合理化が加わり、1965年の改定の料金水準は1974年まで維持された。
四日市火力では1963年に粉じんの降下が、1964年と1966年には温排水による海苔の被害が問題となった。1963年には四日市火力で初めて120mの高煙突を採用し、その後は既設の発電所でも高煙突への建て替えを進めた。1967年に公害対策基本法、1968年に大気汚染防止法が施行され、尾鷲三田火力の増設は公害問題を発端に着手できなくなった。1970年度には休止中の名港火力を復活させても予備力をほぼ確保できず、火力1台の事故で緊急融通か需要抑制を迫られる需給状態となった。1972年7月の四日市公害訴訟判決は、中部電力を含むコンビナート立地企業6社の共同不法行為を認定した。環境対策の水準が、火力立地の同意を得る条件そのものになったとみられる。
尾鷲三田火力3・4号機の増設は、1969年12月に電源開発調整審議会で国の電源開発基本計画への組み入れが決まった。しかし既設の公害問題が障害となり、1970年3月に地元で増設反対連合会が発足した。市長のリコール運動と激しい反対運動を受けて、市長は1971年3月の市議会で増設問題の延期を表明した。工業地帯から離れた渥美と尾鷲の両地点には、電力の必要性は認めるが地元への立地には反対するという風潮が広く存在した。1970年5月の電源開発調整審議会も、渥美火力3・4号機の増設のうち3号機だけを承認した。臨海工業地帯の外へ出た火力の増設は、既設の環境実績を問われて計画年次を大きく後退させたとみられる。
渥美火力の用地は、1965年に地元の積極的な協力を得て約108万m²を買収した。渥美は三河湾国定公園に位置し、発電所の周辺は松林の保安林に囲まれていたため、建設では環境保全に特に留意した。1・2号機は同容量の知多火力3号機の経験を基に電子計算機によるユニット起動制御を採り入れ、大容量機ながら3名の運転員で運転できる設計とした。立地の難航を受けて、中部電力は1969年6月に開発調整部を設け、地元の動向の把握と折衝、公害に関する社内の取りまとめを担わせた。同年9月には加藤乙三郎社長が、部署を問わず全従業員が誠意をつくして地域の理解を得るよう示達した。発電所の立地は、技術部門だけでなく全社で地域の理解を得る仕事になったとみられる。
中部電力は1962年度の電力長期計画で原子力1号機25万kWを初めて組み入れ、1966年6月には原子力推進部を設けた。ところが1964年7月に内定を発表した三重県の芦浜では、南島町の漁業者が温排水による真珠養殖への被害を理由に反対を続けた。南島町の激しい反対運動のなかで1966年9月にいわゆる長島事件が起き、三重県知事は翌1967年9月に声明を出したが、その後も芦浜の情勢に進展はみられなかった。1971年10月には第3の候補地点として熊野市に立地調査を申し入れたが、市議会は1972年3月に原子力反対を決議した。原子力の立地は、地元の合意を得られた静岡県の浜岡の1地点へ絞られていったとみられる。
浜岡地点は1967年に決まり、1号機の着工までに4年余りにわたる地元との話し合いが続いた。用地の取得は地元の浜岡町の協力で比較的順調に進み、1968年に全用地156万4,000m²を取得した。1970年4月には炉形を沸騰水型、主契約者を東芝に決め、5月に原子炉設置許可を申請した。漁業補償は1971年3月に榛南5組合と6億1,100万円で協定を結び、浜岡の前面海域約2.5km²の漁業権を消滅させた。遠州2組合とも同年4月に2億7,000万円で補償協定を結んだ。54万kWの1号機は1971年3月に着工し、5月に起工式を行った。
浜岡町では、関係町の代表者と漁業者からなる対策審議会が発足し、漁業への影響を漁業者みずからの手で調査した。審議会は原子力発電の安全性と環境問題を自主的に研究したうえで、発電所の受け入れを結論とした。中部電力はこれと並行して、1969年のはじめから1年以上、浜岡の敷地内で気象と地質、地震の観測を続けた。政府の原子炉安全専門審査会第64部会は、6か月の審査と現地視察を経て、1970年12月に浜岡原子力発電所の安全を認めた。1971年3月には静岡県と浜岡町・御前崎町・相良町との間で、原子力発電所の安全確認等に関する協定を結んだ。中部電力は1956年3月に火力部へ原子力課を置き、海外の原子力機関や日本原子力研究所への派遣で技術者を養成した。関係する技術者は1971年には150人を超えた。
1973年の石油危機が中部電力を直撃したのは、備えを怠ったからではなく、1960年代に選んだ大容量の石油火力が燃料調達の一点へ集まっていたからである。総発電電力量の約8割を石油火力が占め、1974年3月末の貯油量は消費量の10日分を割り込んだ。1974年6月の平均71.79%、1976年8月の22.47%、1980年4月の49.07%という改定は、燃料費の変動をそのつど料金へ移す作業だった。しかも第2次石油危機の申請は平均64.81%が49.07%へ圧縮されており、転嫁は査定で削られる。1971〜80年度の工事資金2兆3,115億円と約1兆円の社債発行は、削られた分を外部資金で埋めた結果である。
脱石油の中核に据えたのは原子力だったが、実際に石油を置き換えたのはLNGである。1973年12月のプルタミナとの契約で年間170万tを引き取り、知多火力5・6号機が1978年に運転を始め、1988年の四日市火力4号系列は熱効率42.5%のコンバインドサイクルとなった。1981年度末から1990年度末に、石油火力は65%から39%へ下がり、LNG火力は8%から34%へ上がっている。原子力が伸びなかったのは技術ではなく手続きの問題で、浜岡3号機はスリーマイル島の事故と東海地震問題を経て許可が1981年11月までずれ込んだ。芦浜も熊野も住民の反対で止まり、増設できる地点が浜岡しかない以上、1件の審査の遅れがそのまま原子力全体の遅れになった。
1973年秋の石油危機は、総発電電力量の約8割を石油火力に依存する中部電力の経営を大きく圧迫した。1973年11月に燃料緊急打ち合わせ会を設けて行政や石油業界に供給削減の縮小を働きかけたが、1974年3月末の貯油量は石油消費量の10日分以下に低下した。電灯電力需要の年平均伸び率は、1971〜73年度の9.5%から1974〜80年度には3.2%へ下がった。1974年1月の経営計画大綱はエネルギー節約時代への対応を掲げ、営業方針を需要の開拓から省エネルギーの推進へ転換した。1980年度末の発電設備は1,826万kWと1970年度末の2.2倍になったが、同年度の発受電電力量の52%はなお石油が占めた。高度成長期に積み上げた石油火力が、そのまま燃料調達の弱点に転じたとみられる。
中部電力は1974年6月に平均71.79%の料金改定を実施し、家庭用に3段階料金制、産業用に特別料金制を導入した。建設費の上昇と環境保全投資の増加で設備関連費が膨らみ、1976年8月31日からも平均22.47%の改定を行った。その後の円高で燃料費に差益が生じ、1978年10月から翌年3月まで総額457億円の料金割引を実施した。第2次石油危機では1980年1月に平均64.81%の改定を申請したが、4月からの実施は平均49.07%に圧縮され、産業用に季節別料金制を導入した。1971〜80年度の工事資金は2兆3,115億円と前の10年の約4倍に達し、社債は10年間で約1兆円を発行した。燃料費の変動を料金へ転嫁するたびに査定で圧縮され、外部資金への依存が深まったとみられる。
1972年6月の組織改定で、本店は全社的な総括に専念し、支店へ大幅に権限を委譲した。1973年3月には環境立地推進本部を設け、脱石油化を目指した電源開発に全社で取り組んだ。1977年6月に社長に就任した田中精一氏は、入社当時の個人商店のような電力会社を振り返り、『そういう時代がまたやってきましたね。今の電力会社もお願いする時代ですから』と語った。1979年は創立以来初めて新規電源の運転開始がない年となり、田中精一社長は1980年を80年代の供給力となる新規電源に着手する土壇場の年と位置づけた。1980年3月には効率経営推進本部のもとに長期経営戦略部会を置き、電源多様化の基本戦略を抜本的に見直した。
中部電力は原子力を脱石油の中核と位置づける一方、計画から運転開始まで長い期間を要する原子力へのつなぎにLNG火力を充てた。1973年12月にはインドネシアのプルタミナと関西電力、大阪ガスなど5社で年間750万tのLNG購入を契約し、中部電力の引取量は170万tとした。LNG基地には、知多火力の約3km南で東邦瓦斯がガス製造工場用地として取得する予定の埋立地を共同で使った。1977年9月にインドネシアから第1船が到着し、1978年に知多火力5・6号機が中部電力初のLNG専焼火力として運転を始めた。1980年度末の設備構成は石油火力52%、LNG火力12%、原子力8%となった。
1981年4月、中部電力は原子力など脱石油電源の開発を積極的に進める経営基本方針を明らかにした。1981年度の施設計画は、原子力開発の推進、石炭火力開発の早期具体化、当面の脱石油対策としてのLNG火力の開発を基本方針に掲げた。1984年には電源多様化の基本方針のもと、ベース需要に原子力と石炭、ミドル需要にLNG、ピーク需要に石油火力と揚水を充てる構成を目指した。1985年7月の長期展望は、2000年を目標に各電源を最適に組み合わせる電源ベストミックスを掲げた。同年6月に社長に就任した松永亀三郎氏は、『公益事業だからといって甘えてはいけない。ライバルのエネルギーに勝つためには、いつもお客のニーズを的確につかんでいかなければならない』と説いた。燃料の安定性と経済性を電源ごとの役割に割り付ける設計へ移ったとみられる。
1981年8月に三重県と四日市市へ建設を申し入れた四日市火力4号系列は、中部電力で初めてコンバインドサイクルを採用し、1988年7月に営業運転を始めた。熱効率は在来型を大きく上回る42.5%で、年間約5万tの燃料節約が見込まれた。燃料基地の四日市LNG基地には5年余りと905億円を投じ、四日市火力と川越火力へガスを送った。1981〜90年度の開発量654万kWのうち火力が527万kWを占め、既設のLNG転換を含むLNG火力は400万kWに達した。電源構成は1981年度末から1990年度末に、石油火力が65%から39%へ下がり、LNG火力が8%から34%へ上がった。1991年時点で、清水の石炭火力の建設計画は進んでいなかった。脱石油の実質は、原子力よりもLNG火力が担ったとみられる。
浜岡1号機は1976年3月に営業運転を開始し、84万kWの2号機も1978年11月に運転を始めた。1977年6月には110万kWの3号機の増設を、静岡県・浜岡町と関係7漁協へ申し入れた。1979年3月のスリーマイル島の事故は、浜岡3号機をはじめ全国の原子力立地の推進が遅れる要因となった。1981年3月の第2次公開ヒアリングでは約5,000名の反対派がデモを行い、敦賀発電所の廃液漏洩問題や東海地震問題も重なって、許可は同年11月までずれ込んだ。3号機は1987年8月に運転を開始し、原子力の設備構成比は12%と2桁に乗った。浜岡1地点に増設を重ねるほど、1件の審査の遅れが原子力全体の計画を遅らせる構造になったとみられる。
芦浜では1985年4月に施設計画で地点名を公表し、同年6月に三重県議会が原子力発電所立地調査推進を決議した。しかし南島町では反対決議の再確認や反対組織の結成が相次ぎ、20年前の激しい反対運動が再燃した。1986年4月のチェルノブイリ事故の後、熊野市長は同年11月に原子力発電所を誘致しない方針を明確にした。1989年7月の参議院選挙では反原発を掲げる政党が乱立し、芦浜地点の南島町と紀勢町で高い得票率を示した。1991年時点で、芦浜原子力発電所の建設計画は進んでいなかった。原子力による脱石油と電源多様化の推進は、1991年時点で中部電力の最大の経営課題とされた。
1987年度以降は内需主導の景気回復で、中部電力の発受電電力量は毎年4.8〜7.6%伸びた。1990年夏の最大電力は2,205万kWを記録し、他社からの融通を受けても供給予備率は2.3%にとどまった。1991年時点で、2000年以降の電源はほとんど確定しておらず、新規地点の開発が緊急の課題とされた。1991年6月に社長に就任した安部浩平氏は、7月の組織改革で電源別の渉外担当を地域別の担当へ改めた。浜岡では4号機を1989年2月に着工し、5号機の建設では国内の原子力で初めて高効率タービンを採用する予定とした。電源立地の制約は、技術や資金よりも地元の合意形成に移ったとみられる。
自由化が中部電力に迫ったのは、地域独占のもとで積み上げた原価を、価格で選ばれる市場の水準まで引き下げることだった。2000年3月の大口自由化を前に、管内最大の需要家であるトヨタ自動車が東京電力と関西電力へ供給を打診している。2001年4月の経営改革ロードマップは2005年度までに2割のコスト削減を掲げ、同年6月には自由化対応を担った末席常務の川口文夫氏を16人抜きで社長に据えた。設備投資は1993年度の7,424億円から2004年度には1,300億円程度まで下がり、要員も2005年度末に1万6,245人となった。大型電源の建設が一巡した後だから、投資を絞っても供給力に穴が開かなかった。
削った原価は料金の引き下げへ回り、2000年10月から2006年4月まで4度の値下げが続いて、需要が伸びても売上高はほぼ横ばいで推移した。同じ時期に、原子力は立地の選択肢を失っている。2000年2月に三重県の北川正恭知事が芦浜の計画を白紙に戻すと表明し、1964年の内定から36年を費やした計画は着工に至らないまま消えた。残る浜岡には2005年1月に138万kWの5号機が加わり、2008年12月には54万kWの1号機と84万kWの2号機を止めて6号機へ置き換える決定が下る。運転終了に伴う1,536億円の特別損失は、東海地震の想定震源域にある1地点へ設備を積み増してきたことの対価だった。
2000年3月の大口電力の小売自由化を前に、管内最大の需要家であるトヨタ自動車は東京電力と関西電力へ電力供給を打診した。中部電力は2001年4月、事業のあらゆる段階に競争対応の視点を盛り込んだ経営改革ロードマップを策定した。ロードマップは、2005年度までに自由化開始直前と比べて2割のコストを削減する目標を掲げた。同年6月には、名古屋支店長として自由化対応を担っていた末席常務の川口文夫氏を、16人抜きで社長に選任した。川口文夫社長は就任と同時に、2005年までに調達コストを約2割、総額400億円削減する目標を打ち出した。地域独占のもとで積み上げた原価を、価格で選ばれる市場の水準へ引き下げる計画であったとみられる。
2001年度の計画は、2001・02年度の設備投資を年平均4,000億円程度に抑える目標を置いた。2002年度の計画は2002〜04年度を年平均3,000億円程度へ下げ、2004年度の計画は2004〜06年度の単体の投資を年平均1,700億円以下とした。ピークの1993年度に7,424億円だった設備投資は、2004年度に1,300億円程度まで下がる見込みとなった。要員は1998年3月の2万900人に対し、2005年度末に1万6,600人程度とする目標を掲げた。2005年度末の要員は1万6,245人となり、2割のコスト削減目標は2005年度に達成された。大型電源の建設が一巡した時期に、投資と要員の双方を計画の数字で段階的に絞り込んだとみられる。
財務では、1996年度末に約4兆4,000億円に達した有利子負債を、2004年度末までに3.6兆円以下とする目標を置いた。2001〜03年度の平均で経常利益1,500億円以上、総資産利益率1.5%以上を目標とし、2004年度の計画は両目標とも達成の見込みとした。電気料金は2000年10月、2002年9月、2005年1月の3回にわたり引き下げた。2005年1月の値下げは平均5.94%で、2006年4月にも電灯・電力平均で3.79%の値下げを実施した。値下げが重なり、売上高は電力需要の伸びにもかかわらずほぼ横ばいで推移した。コスト削減の成果を、財務目標の達成と料金の引き下げに振り分けたとみられる。
自由化の範囲は2004年4月に高圧500kW以上、2005年4月に高圧の全需要家へ広がった。2005年4月には日本卸電力取引所の運用も始まり、ガス事業でも自由化範囲の拡大と託送制度の整備が進んだ。中部電力は2000年6月にエル・エヌ・ジー中部を設立してタンクローリーによるLNG販売を始め、2001年からは発電用のLNGと発電所周辺のガス導管を使ってガスを販売した。2001年8月には北陸電力など3社と北陸エルネスを設立し、北陸地域でLNGを販売した。2006年度の計画は、ガス・LNG販売と分散型エネルギー事業の3事業で、2010年度に売上高450億円程度を目指した。電気の域外へ出てくる競争相手に対し、発電用燃料の調達網を販売へ転用する策であったとみられる。
海外では、アジアを中心とする電力インフラ整備のコンサルティングで毎年4億円程度の収益を上げていた。2003年度にアジアのクリーンエネルギー投資ファンドへの参画を決め、2004年度にはカタールの発電・海水淡水化プロジェクト(1,025MW)に参画した。2006年度の計画は2010年度までの5年間を海外エネルギー事業の発展期と位置づけ、2006年2月にタイのバンコクへ海外事務所を開設した。国内では2005〜14年度の10年間に、他社開発電源からの受電を含め400万kWを超える電源を開発する計画を立てた。その中核となる新名古屋火力8号系列は2005年7月に着工し、発電効率約51%の1500℃級ガスタービンによるコンバインドサイクルを採用した。
2004年度の計画は、上越火力1号系列126.5万kWの使用開始を2012年度とした。2010年の年報は、上越火力1・2号系列の高効率コンバインドサイクルが年間約60万tのLNG使用と約160万tのCO2排出を減らす見込みと記した。上越火力と燃料関連設備への投資を続けるなかで、2009年度の火力の総合熱効率は46.21%と国内最高水準を保った。2006年度の計画は、定格熱出力一定運転で浜岡3〜5号機の電気出力を増やしたことも効率化の成果に挙げた。設備投資を絞る一方で、火力の更新投資は燃料費とCO2排出を同時に抑える高効率機へ集中させたとみられる。
2000年2月、三重県の北川正恭知事は芦浜原子力発電所の計画について『原子力発電の必要性は認めるが、足掛け37年間にわたり苦しんでいる地域の人たちの声を受けて判断し、白紙に戻すという結論に達した』と表明した。中部電力は2001年度の計画で、30年余りにわたり取り組んできた芦浜原子力発電所計画を断念せざるをえなくなったと記した。1964年の内定から36年、芦浜は着工に至らないまま計画から外れた。原子力の増設は浜岡に集まり、5号機は改良型沸騰水型軽水炉の138万kWとして2005年1月18日に営業運転を開始した。浜岡5号機の建設では、機器メーカーの工場で機器や配管をモジュールブロック化し、現地での作業量を大幅に減らした。立地の選択肢を失った原子力は、東海地震の想定震源域に立つ浜岡1地点へ設備を積み増す構造になったとみられる。
2008年12月22日の取締役会で、中部電力は浜岡原子力発電所1・2号機の運転終了と6号機の建設を内容とするリプレース計画を決めた。6号機は2018年度から5年以内の運転開始を目標とし、全号機の使用済燃料を置く乾式貯蔵施設の建設もあわせて計画した。出力54万kWの1号機と84万kWの2号機は、2009年1月30日をもって発電用の電気工作物として廃止された。運転終了に伴う損失1,536億円は2009年3月期の特別損失に計上され、減損した設備の回収可能価額は転用や売却が困難として零円とされた。2009年8月には駿河湾で起きた地震で浜岡原子力発電所が運転を停止し、火力の発電量が増えた。初期の小型2基を補強して残すより、大型の新設1基へ置き換える選択であったとみられる。
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|---|---|---|---|---|
| 1951〜1960年九分割による発足から、世界銀行借款の新鋭火力と伊勢湾台風の復旧まで | 井上五郎 | 中部電力設立 | ★ | |
| 井上五郎 | 東京・名古屋・大阪の各証券取引所に上場 | ★ | ||
| 井上五郎 | 中電興業を設立 | ★ | ||
| 井上五郎 | 日本耐火防腐の株式取得し子会社化 | ★ | ||
| 井上五郎 | 永楽不動産を設立 | ★ | ||
| 井上五郎 | 中電ビルを設立 | ★ | ||
| 1961〜1972年水力から石油火力への転換から、四日市公害判決と浜岡原子力の着工まで | 横山通夫 | 中部火力工事を設立 | ★ | |
| 横山通夫 | 中電工事を設立 | ★ | ||
| 横山通夫 | 国定公園の保安林に建てた大容量火力と、申し入れから着工まで9年を要した増設 1965年、中部電力は愛知県渥美郡渥美町で、地元の積極的な協力を得て約108万m²の火力発電所用地を買収した。三重・新名古屋・四日市・知多・武豊といった他の火力の用地は、埋立権者が漁業補償まで済ませた臨海部の埋立造成地を譲り受けたものであったのに対し、渥美だけは国定公園内の保安林であった。1・2号機(各50万kW)は1971年6月と10月に運転を始めた。 詳細を読む | |||
| 横山通夫 | 芦浜の行き詰まりを受けた浜岡への立地の切り替えと、沸騰水型軽水炉1号機の建設 1967年9月28日、中部電力は静岡県小笠郡浜岡町の浜岡地点を、原子力発電所の具体的な計画地点として発表した。先に内定を発表していた三重県の芦浜地点で漁業者の反対が続き、原子力の開発が大幅に遅れるなかでの選択であった。4年近い地元との協議を経て1971年3月に沸騰水型軽水炉の1号機(54万kW)を着工し、1976年3月17日、東海道筋で初めての原子力発電所として営業運転を始めた。 詳細を読む | |||
| 加藤乙三郎 | 既設の公害を理由に止まった増設計画の、15年後の建設同意による再開 1969年2月、中部電力は三重県尾鷲市に、尾鷲三田火力発電所3・4号機(各50万kW)の増設計画を申し入れた。同年12月に電源開発調整審議会で国の基本計画への組み入れが決まったが、既設1・2号機の公害問題を背景とする反対運動で計画は延期され、1984年6月に市長と関係漁協から3号機の建設同意を得るまで15年を要した。3号機は1985年1月に着工し、1987年6月に運転を始めた。 詳細を読む | |||
| 1973〜1999年石油危機の料金改定から、LNG・石炭・原子力による電源ベストミックスまで | 加藤乙三郎 | 大気汚染の重い臨海部での増設を通した、中部電力初のLNG専焼火力の採用 1973年11月、中部電力は愛知県知多市に、知多火力発電所5・6号機(各70万kW)の立地を申し入れた。建設地が名古屋南部臨海工業地帯の大気重汚染地域にあり、市から環境対策に万全を期すよう強く求められたことに応え、燃料に中部電力初のLNGを採用した。5号機は1978年3月、6号機は同年4月に運転を始め、中部電力初のガス火力となった。 詳細を読む | ||
| 加藤乙三郎 | 浜岡原子力発電所1号機営業運転開始 | ★★ | ||
| 田中精一 | 中部環境エンジニアリング・中電コンピューターサービスを設立 | ★ | ||
| 田中精一 | 誘致を決議した町の埋立地への、超々臨界圧LNG火力2基の建設 1981年8月、中部電力は三重県川越町に、川越火力発電所1・2号機(各70万kW)の建設を申し入れた。建設地は町が1967年12月に公有水面の埋め立てに着手し、1973年5月に竣工した工業用地で、町は同年7月に町議会全員協議会で発電所の誘致を決議していた。1982年3月に町の埋立地約48haを譲り受け、LNG専焼の2基は1989年6月と1990年6月に営業運転を始めた。 詳細を読む | |||
| 田中精一 | 石油関連企業の立地を拒んだ埋立地の条件解除と、中部電力初のコンバインドサイクルの採用 1981年8月、中部電力は三重県と四日市市に、四日市火力発電所4号系列の建設を申し入れた。ガスタービンの排熱を回収して蒸気タービンを回すコンバインドサイクル発電を中部電力で初めて採用した設備で、1軸11万7,000kWを5軸、合計56万kWの発電所として1988年7月に営業運転を始めた。あわせて四日市港の霞埋立地に、4号系列と川越火力1・2号機の燃料を受け入れる四日市LNG基地を建設した。 詳細を読む | |||
| 松永亀三郎 | ガス火力の計画から海外炭の石炭火力への転換と、70万kW3基の建設 1986年1月、中部電力は愛知県と碧南市に、石炭を燃料とする70万kW3基の碧南火力発電所の建設を正式に申し入れた。当初はLNGまたはLPGのガス火力として計画していた地点を、海外炭を使う中部電力初の大容量石炭火力へ切り替えた。同年10月に国の基本計画に組み入れられ、1988年6月に着工した。1号機は1991年10月18日、2号機は1992年6月12日、3号機は1993年4月22日に運転を始めた。 詳細を読む | |||
| 松永亀三郎 | コンピュータ・テクノロジー・インテグレイタを設立 | ★ | ||
| 太田宏次 | 中電ビルが電気文化会館・電気ビルを吸収合併 | ★ | ||
| 2000〜2010年大口電力の自由化と芦浜の断念から、浜岡1・2号機の廃炉とリプレース計画まで | 太田宏次 | 36年保ち続けた初の原子力立地の、三重県知事の白紙表明を受けた断念 2000年2月、三重県の北川正恭知事が芦浜原子力発電所の計画を白紙に戻す結論を示したのを受けて、中部電力の太田宏次社長は現計画を事実上断念する考えを表明した。芦浜は三重県度会郡の紀勢町と南島町にまたがる地点で、中部電力は1964年7月に初の原子力発電所の建設地点として内定を発表し、1965年に敷地約380万m²を買収していた。電力会社が地元首長の要請で原子力発電所の建設を撤回するのは、初めての例となった。 詳細を読む | ||
| 太田宏次 | シーエナジーを設立 | ★ | ||
| 川口文夫 | 情報・施工子会社を再編 | ★ | ||
| 川口文夫 | 浜岡1・2号機の運転終了を決定 | ★★ | ||
| 三田敏雄 | 運転終了と隣接地への6号機新設という設備更新の選択 2008年12月22日、中部電力は取締役会で、浜岡原子力発電所1・2号機の運転終了と6号機の建設等を内容とするリプレース計画等を決定した。経済産業大臣への電気工作物変更届出を経て、出力540千kWの1号機と840千kWの2号機は2009年1月30日をもって発電用の電気工作物として廃止された。 運転終了に伴う損失1,536億円を2009年3月期の特別損失に計上し、同期は189億円の当期純損失となっている。三田敏雄社長のもとでの設備更新の判断である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 水野明久 | 水野明久が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 2011〜2026年浜岡全号機の停止から、JERAへの火力統合・分社化と基準地震動問題まで | 水野明久 | 浜岡原発の全号機停止(菅首相の要請) | ★★ | |
| 水野明久 | FY11に経常損失678億円、純損失921億円を計上 | ★ | ||
| 水野明久 | ダイヤモンドパワーを子会社化 | ★ | ||
| 水野明久 | 東京電力とJERAを設立 | ★★ | ||
| 勝野哲 | 勝野哲が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 勝野哲 | 国内火力発電事業の全面移管による発電資産の切り出し 2019年4月1日、中部電力は燃料受入・貯蔵・送ガス事業と既存火力発電事業等を吸収分割で㈱JERAへ承継させた。2015年4月に東京電力フュエル&パワーと折半出資で設けた合弁への段階的な統合は、これで完了した。 渡した資産は1兆2,028億円、負債は6,101億円で、このうち有利子負債5,992億円がJERAへ移っている。中部電力は自社で火力発電所を持たない電力会社となった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 林欣吾 | 送配電・小売の分社化と持株会社体制への移行 2020年4月1日、中部電力は一般送配電事業等を中部電力パワーグリッドへ、小売電気事業等を中部電力ミライズへ吸収分割で承継させ、自らは持株会社となった。渡した資産はパワーグリッドが2兆1,311億円、ミライズが2,743億円である。 前年4月に火力発電をJERAへ全面移管しており、報告セグメントはミライズ・パワーグリッド・JERAの3つに整理された。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 林欣吾 | 林欣吾が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 林欣吾 | 日本エスコンを子会社化 | ★ | ||
| 林欣吾 | 命令の取消訴訟を提起しながら、課徴金を特別損失へ計上した二正面の対応 2023年3月30日、中部地区等における特別高圧電力及び高圧電力の供給について、中部電力は独占禁止法に基づく課徴金納付命令を、子会社の中部電力ミライズは排除措置命令及び課徴金納付命令を、公正取引委員会からそれぞれ受領した。嫌疑は不当な取引制限である。 この命令により、2023年3月期に独占禁止法関連損失27,555百万円を特別損失へ計上した。一方で、事実認定と法解釈について見解の相違があるとして、同年9月25日に取消訴訟を提起している。 詳細を読む | |||
| 林欣吾 | 監査役会を廃し、議決権を持つ監査等委員と社外過半の取締役会が監督を担う機関設計へ 2024年6月26日の定時株主総会を以て、監査役会設置会社から監査等委員会設置会社へ移行した。掲げた理由は執行と監督の分離の一層の深化であり、機動的な意思決定とより高度なガバナンスの両立を実現することに置かれた。 移行後の取締役は13名で、うち7名と過半を社外取締役が占める。監査等委員である取締役は5名、うち3名が社外取締役で、いずれも取締役会の議決権を持つ。 詳細を読む | |||
| 林欣吾 | ジェネックスを子会社化 | ★ | ||
| 林欣吾 | 再稼働申請の取り下げと、会長・社長の退任による経営体制の刷新 2025年5月15日、原子力規制庁から浜岡原子力発電所3号機・4号機の新規制基準適合性審査に係る基準地震動の策定について調査を受けた。その対応の結果、地震動評価における代表波の選定が審査会合での説明内容と異なる方法や意図的な方法で実施されていた疑いが確認され、2026年1月5日、外部専門家のみで構成する特別調査委員会の設置を取締役会で決議した。 2026年9月11日に調査報告書を受領し、同月14日の臨時取締役会で、3号機・4号機の設置変更許可申請、4号機の工事計画認可申請および保安規定変更認可申請を取り下げることを決めた。あわせて代表取締役会長の勝野哲氏と代表取締役社長の林欣吾氏が9月30日付で退任し、10月1日付で安井稔氏が社長に就任する。会長職は置かない。 詳細を読む | ★★ | ||
| 林欣吾 | 調査報告書を受けて浜岡3・4号機の設置変更許可申請などを取り下げ、会長・社長が退任 | ★★★ | ||
| 安井稔 | 安井稔が代表取締役社長に就任し、会長職を置かない体制へ移る | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(中部電力)