1963年〜 IC産業の仕掛人として商社からメーカーへの転換期
- 1963年東京エレクトロン研究所を設立
- 1964年米国サームコ社と代理店契約を締結し拡散炉の輸入販売を開始
- 1964年米国フェアチャイルド社と代理店契約を締結しICテスターの輸入販売を開始
- 1972年Tokyo Electron America, Inc. を設立
- 1974年久保徳雄氏が社長に就任
- 1978年消費財輸出事業から全面撤退
- 1980年東京証券取引所市場第二部に上場
東京エレクトロンの業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
資本金500万円からの出発と日本IC産業勃興への寄与
1963年11月、久保徳雄氏と小高敏夫氏は東京放送から500万円の出資を受け、東京都港区に東京エレクトロン研究所を設立した。当初はVTRやカーラジオの輸出入を手がける零細商社だったが、翌1964年に小高氏が渡米し、米国サームコ社の拡散炉とフェアチャイルド社のICテスターの代理店契約を獲得したことが転機となる。1台4000万円のICテスターをデモ用に自費購入する賭けに出た二人は、日本電気を皮切りに国内メーカーへ装置を次々と納入し、日本のIC産業勃興の仕掛人としての地位を得た。当時の日本ではICの工業化に懐疑的な見方が支配的ななかで、小さな商社が半導体産業の黎明期に決定的な役割を果たした。 [1][2][3][4]
- 東京エレクトロン 有価証券報告書【沿革】
- [1]1963年11月 東京放送の出資で東京都港区に東京エレクトロン研究所を設立(資本金500万円)
- [2]創業者は久保徳雄・小高敏夫の2名
- 異端の男とその一族 : 火の玉集団・東京エレクトロンの奇跡, 1982/4
- [3]1964年に米国サームコ社の拡散炉とフェアチャイルド社のICテスターの代理店契約を獲得
- [4]ICテスターは1台4000万円。デモ用に自費購入し日本電気に第1号機を納入
フェアチャイルド社の工場で工業用ICの量産を目撃した小高氏は「いよいよICの時代が始まります」(異端の男とその一族 1982/4)と久保氏に書き送っている。技術者を米国メーカーに派遣し装置のアフターサービスまで自ら手がける技術商社というモデルが、大手総合商社との差別化を生んだ。久保氏によれば、フェアチャイルド社創業者のノイス氏は「TELの雰囲気は、自分たちが独立したときの雰囲気と実によく似ている」(異端の男とその一族 1982/4)と語ったという。ベンチャー精神に満ちた技術者集団は、拡散炉で国内シェア70%を獲得するなど市場地位を築いた。IC勃興期の日本で前例のない技術商社モデルを築いた時期である。 [5]
- 異端の男とその一族 : 火の玉集団・東京エレクトロンの奇跡, 1982/4
- [5]フェアチャイルド社創業者はノイス氏
- 東京エレクトロン 有価証券報告書【沿革】
- [1]1963年11月 東京放送の出資で東京都港区に東京エレクトロン研究所を設立(資本金500万円)
- [2]創業者は久保徳雄・小高敏夫の2名
- 異端の男とその一族 : 火の玉集団・東京エレクトロンの奇跡, 1982/4
- [3]1964年に米国サームコ社の拡散炉とフェアチャイルド社のICテスターの代理店契約を獲得
- [4]ICテスターは1台4000万円。デモ用に自費購入し日本電気に第1号機を納入
- [5]フェアチャイルド社創業者はノイス氏
消費財撤退という英断と7つの商品選定基準
1974年の石油ショックは創業以来最大の危機をもたらした。売上高の約6割を占めた電卓やカーステレオの輸出事業は、大手メーカーの参入で構造的なジリ貧に陥っていた。同年11月に社長に就任した久保氏は、専務の小高氏とともに輸出事業からの全面撤退を決断する。小高氏はこの判断を「自分の体力ではとうてい持ち上げられないバーベルを、早いとこ床に下ろしてしまった」(異端の男とその一族 1982/4)と振り返っている。売上の6割が消える判断に社内の反対は強く、最も強硬に反対した常務が辞任し、さらに二人が去るなど経営陣の交代を伴う荒療治となった。輸出撤退という選択が、IC装置専業化への道を開く起点となった。 [6][7]
- 異端の男とその一族 : 火の玉集団・東京エレクトロンの奇跡, 1982/4
- [6]撤退対象の輸出事業は売上高の約6割
- [7]1974年11月 久保氏が社長に就任、小高氏は専務
久保氏と小高氏はこの方針を貫き、1978年までに消費財輸出を停止した。小高氏は撤退後の経営方針として7つの商品選定基準を社内に示している。マーケットが成長中であること、競争相手が少ないこと、大メーカーの主力製品でないこと、付加価値と利益率が高いこと──これらの条件をすべて満たすIC製造装置への集中こそが、同社の高収益体質の原点となった。創業期の苦境をきっかけに、のちに貫かれる経営の規律が言語化された。同社は消費財商社から半導体装置専業へ舵を切り、事業ポートフォリオの輪郭を引き直した。輸出撤退の痛みと引き換えに、選択と集中の論理が組織に根付いた時期にあたる。 [8]
- 東京エレクトロン 有価証券報告書【沿革】
- [8]1978年までに消費財輸出を停止(消費財輸出事業から全面撤退)
- 異端の男とその一族 : 火の玉集団・東京エレクトロンの奇跡, 1982/4
- [6]撤退対象の輸出事業は売上高の約6割
- [7]1974年11月 久保氏が社長に就任、小高氏は専務
- 東京エレクトロン 有価証券報告書【沿革】
- [8]1978年までに消費財輸出を停止(消費財輸出事業から全面撤退)
商社とメーカーの二刀流からメーカー化への移行
IC製造装置への集中を決めた同社は、1980年に東証二部、1984年には東証一部に上場した。東証一部昇格と同時に小高社長は業種区分を「商社」から「電機」へ変更するよう申請したが認められなかった。「商社と呼ばれたくない」(日経ビジネス 1984/4/26)という小高社長の意志が示すとおり、同社のメーカー化は進んでいた。1984年にプローバー製造子会社テルメックを合併し、1988年にはサームコ社との合弁会社テル・サームコの全株式を取得して拡散炉製造を内製化した。米国の先進技術を輸入しつつ自前の製造能力を高める二刀流路線が形作られた時期であり、商社の機能とメーカーの機能を並走させる独自モデルの原型がここで整った。 [9][10][11][12]
- 東京エレクトロン 有価証券報告書【沿革】
- [9]1980年に東証二部、1984年に東証一部上場(指定替え)
- [11]1984年 プローバー製造子会社テルメックを合併
- [12]1988年 サームコ社との合弁テル・サームコの全株式を取得し拡散炉製造を内製化
- 日経ビジネス(1984年4月26日)
- [10]東証一部昇格時の社長は小高氏(小高社長)
同社は商社とメーカーの両面を備える存在へ変貌した。米国の先進技術を輸入・国産化しつつ、顧客の半導体メーカーに密着したサービスを提供する業態は日本に前例がなかった。全国22カ所のフィールド・エンジニアリング・ステーションに500人の技術者を配置し、トラブル発生から1時間以内に駆けつける体制を築いている。このサービス網が次世代装置の開発情報を吸い上げる情報収集拠点ともなり、半導体製造装置約20種類で国内首位の座を固めた。顧客密着のサービス網が情報源として働く構図は、現在の競争力の原型であり、同業他社が追随できない独自ポジションを与えた。
- 東京エレクトロン 有価証券報告書【沿革】
- [9]1980年に東証二部、1984年に東証一部上場(指定替え)
- [11]1984年 プローバー製造子会社テルメックを合併
- [12]1988年 サームコ社との合弁テル・サームコの全株式を取得し拡散炉製造を内製化
- 日経ビジネス(1984年4月26日)
- [10]東証一部昇格時の社長は小高氏(小高社長)