1971年〜 寺町博氏の第二の創業による直動案内という新市場の創造と海外展開
- 1971年 東邦精工を設立
- 1972年 LMガイド・ボールスプラインの販売を開始
- 1977年 テーエチケーから製造部門を買収し甲府工場に
- 1979年 ボールねじ製造販売を開始
- 1985年 東洋精工を吸収合併し三重工場・山口工場を新設
- 1989年 THKの株式店頭公開による世界市場向け資金調達体制の構築 個人資金では届かない設備投資と海外販売網を、どこから賄うか
- 1997年 THKの株式店頭公開による世界市場向け資金調達体制の構築 個人資金では届かない設備投資と海外販売網を、どこから賄うか
日本トムソンを去った寺町博氏の第二の創業
THKの源流は、創業者の寺町博氏が一度は社長の座を失った経験にある。寺町博氏は1924年生まれで[1]、独自のニードルベアリングを武器に日本トムソン株式会社を上場企業へと育てた経営者だった[2]。ところが1970年7月、寺町博氏は個人会社[3]である大一工業の名義で小豆の商品相場に投機し、相場の大暴落で約6億円の損失を出す。さらに日本トムソンが大一工業へ営業目的で貸し付けた資金を投機に流用していたことが明るみに出て、上場企業の社長にあるまじき行為だとの非難が集中し、社長辞任に追い込まれた。当時の新聞は『商品相場で社長転落』と[4]報じている。
- [1]寺町博は1924年生まれ
- 日経ビジネス(1982年1月25日号)
- [2]寺町博は独自のニードルベアリングで日本トムソンを上場企業に育てた経営者だった
- [3]1970年7月、寺町博は大一工業名義の小豆相場投機で約6億円損失、日本トムソンの貸付金流用問題で社長辞任に追い込まれた
- [4]当時の新聞は「商品相場で社長転落」と報じた
指弾を浴びた寺町博氏は、しかし腐らなかった。翌1971年4月、寺町博氏は東京都目黒区に東邦精工株式会社を設立する[5]。47歳での再起であり[6]、本人にとっては第二の創業だった。辞任で味わった怒りと意地が再起のバネになったと[7]、当時を伝える取材記事は記している。会社の方から迎えに来ると考えていたがそうはならず、寺町博氏は誰も手をつけていない機械要素部品を自分で売り、その需要を一から起こす道を選んだ。既にある市場で競うのではなく、世になかった市場を自分の手で立ち上げるという発想であり、本人のモットーは『今を最善に』だった。
- THK 有価証券報告書 第56期(2025年12月期)【沿革】
- [5]1971年4月、寺町博が東京都目黒区に東邦精工株式会社を設立(第二の創業)
- [6]1971年の創業時、寺町博は47歳(1924年生まれ)
- 日経ビジネス(1982年1月25日号)
- [7]寺町博は辞任で味わった怒りと意地を再起のバネにし、世になかった機械要素部品の需要を一から起こす道を選んだ(モットーは「今を最善に」)
- [1]寺町博は1924年生まれ
- [6]1971年の創業時、寺町博は47歳(1924年生まれ)
- 日経ビジネス(1982年1月25日号)
- [2]寺町博は独自のニードルベアリングで日本トムソンを上場企業に育てた経営者だった
- [3]1970年7月、寺町博は大一工業名義の小豆相場投機で約6億円損失、日本トムソンの貸付金流用問題で社長辞任に追い込まれた
- [4]当時の新聞は「商品相場で社長転落」と報じた
- [7]寺町博は辞任で味わった怒りと意地を再起のバネにし、世になかった機械要素部品の需要を一から起こす道を選んだ(モットーは「今を最善に」)
- THK 有価証券報告書 第56期(2025年12月期)【沿革】
- [5]1971年4月、寺町博が東京都目黒区に東邦精工株式会社を設立(第二の創業)
すべり案内を置き換えたLMガイドの線接触と市場の離陸
再起した寺町博氏が膨らませていた新製品の着想が、現在の主力であるLMガイドだった。1972年4月、東邦精工は主力製品となるLMガイドとボールスプラインの販売を開始する[8]。当時の機械の直線運動部はすべり案内が主流で、レールとブロックが面接触するため摩擦が避けにくく、NC装置向けには位置決め精度に難があった。鋼球を使うボールブッシュ方式はレールと点で接触するため、重い工作機械を載せるには強度が足りなかった。寺町博氏は鋼球がぴったりはまる溝をレールに刻んで線接触に変え、高荷重に耐える実用的なころがり方式の直動案内「LMガイド NSR・BC型」を他社に先がけて製品化[9]した。ボールブッシュ方式に比べ、荷重は13倍、寿命は2,210[10]倍に達した。
- THK 有価証券報告書 第56期(2025年12月期)【沿革】
- [8]1972年4月、東邦精工がLMガイドとボールスプラインの販売を開始
- 証券調査 349号(新日本証券調査センター、1999年10月)
- [9]すべり案内(面接触・摩擦大・NC向け精度難)とボールブッシュ(点接触・強度不足)に対し、鋼球がはまる溝をレールに作り線接触に変えて「LMガイド NSR・BC型」を他社に先がけ製品化
- [10]LMガイドNSR・BC型はボールブッシュ方式比で荷重13倍・寿命2,210倍
1973年に本格発売を始めると、LMガイドはすべり摩擦の摺動面に比べて摩擦が桁違いに小さく、機械の位置決め精度[11]を飛躍的に高める部品として機械技術者から大きな反響を呼んだ。1978年に米国大手工作機械メーカーのマシニングセンターに採用[12]されたことが評価を決定づけ、受注に弾みがついた。LMガイドは工作機械・半導体製造装置・産業用ロボットの標準部品へと広がり、寺町博氏が一から起こそうとした直動案内の需要が現実のものになった。寺町博氏は後年、直動システムを回転用ベアリングに対する直線運動のベアリングと位置付け、自身が世界で初めて開発[13]した、これから伸びる商品だと語っている。似た製品を出す競合は現れたが、品質で戻ってくる顧客を背景に、THKの直動案内製品は高い市場シェアを保った。
- 証券調査 349号(新日本証券調査センター、1999年10月)
- [11]1973年に本格発売、すべり摩擦比で摩擦が小さく位置決め精度が向上し機械技術者から反響
- [12]1978年、米国大手工作機械メーカーのマシニングセンターに採用され受注が伸びた
- 日経ビジネス(1990年2月12日号)
- [13]寺町博は直動システムを直線運動のベアリングと位置付け、自身が世界で初めて開発した伸びる商品と語った
LMガイドは発売後も改良が重ねられた。1981年には荷重を四方向で受けるHSRシリーズを発売し、レール上下の角に45[14]度でボールが接触する設計と、レール6面を同時に切削する独自の加工装置によって、ねじれを伴う複雑な動きにも対応した。後継のSHSでは樹脂製のリテーナーでボールを数珠[15]つなぎにして接触を避け、精度を高めると同時に騒音を抑え、産業用にとどまらず民生機器への展開の可能性も開いた。1999年時点で、THKのLMガイドは国内で約7割[16]、海外で約6割の市場シェアを占めるに至った。
- 証券調査 349号(新日本証券調査センター、1999年10月)
- [14]1981年、四方向等荷重のHSRシリーズを発売(45度接触・レール6面同時切削の独自装置)
- [15]後継SHSは樹脂製リテーナーでボールを数珠つなぎにし精度向上・騒音低減、民生機器への展開可能性
- [16]1999年時点でTHKのLMガイドは国内約7割・海外約6割の市場シェア
- THK 有価証券報告書 第56期(2025年12月期)【沿革】
- [8]1972年4月、東邦精工がLMガイドとボールスプラインの販売を開始
- 証券調査 349号(新日本証券調査センター、1999年10月)
- [9]すべり案内(面接触・摩擦大・NC向け精度難)とボールブッシュ(点接触・強度不足)に対し、鋼球がはまる溝をレールに作り線接触に変えて「LMガイド NSR・BC型」を他社に先がけ製品化
- [10]LMガイドNSR・BC型はボールブッシュ方式比で荷重13倍・寿命2,210倍
- [11]1973年に本格発売、すべり摩擦比で摩擦が小さく位置決め精度が向上し機械技術者から反響
- [12]1978年、米国大手工作機械メーカーのマシニングセンターに採用され受注が伸びた
- [14]1981年、四方向等荷重のHSRシリーズを発売(45度接触・レール6面同時切削の独自装置)
- [15]後継SHSは樹脂製リテーナーでボールを数珠つなぎにし精度向上・騒音低減、民生機器への展開可能性
- [16]1999年時点でTHKのLMガイドは国内約7割・海外約6割の市場シェア
- 日経ビジネス(1990年2月12日号)
- [13]寺町博は直動システムを直線運動のベアリングと位置付け、自身が世界で初めて開発した伸びる商品と語った
国内外への拠点拡張・店頭公開と寺町彰博氏への承継
市場が立ち上がるとともに、寺町博氏は製品群と生産・販売網を広げた。直動部品では1979年にボールねじ、1982年にXYテーブル[17]、1987年にインテリジェントアクチュエータ、1998年にリニアモータと、直動部の運動制御に必要な周辺要素を相次いで製品化した。海外では1981年3月に米国シカゴでTHK Americaを設立し、1982年10[18]月には西ドイツ・デュッセルドルフにTHK Europe(現THK GmbH)を構えた。国内でも山口工場・山形工場などLMガイド専用拠点を新設し、台湾・中国・アイルランド・オランダへも販売・製造の足場を順次配置した。1984年1月には商号をTHK株式会社へ変更[19]する。Toughness、High Quality、Know-howの頭文字[20]を冠した社名であることは、後に寺町彰博氏が説明している。
- THK 有価証券報告書 第56期(2025年12月期)【沿革】
- [17]1979年ボールねじ・1982年XYテーブル・1987年インテリジェントアクチュエータ・1998年リニアモータと直動周辺製品を相次ぎ製品化
- [18]1981年3月に米シカゴでTHK Americaを設立、1982年10月に西独デュッセルドルフにTHK Europe(現THK GmbH)を設立
- [19]1984年1月、商号をTHK株式会社に変更
- [20]THKは『Toughness』『High Quality』『Know-how』の頭文字を取ったブランド名(寺町彰博が説明)
1989年11月、THKは株式の[21]店頭公開を果たした。寺町博氏にとって株式公開は、需要が何十倍にも広がる世界市場でシェアを確保するための資金調達の手段だった。設備投資と海外販売網の拡張には個人資金では限界があり、開発投資に危険が伴う設備産業として、有利な資金調達の体制を整える必要があるというのが寺町博氏の考えだった[22]。創業時に日本トムソンから合流した部下へ将来の上場を約束していたとも伝えられる。店頭公開で得た資金と知名度を足場に、THKは直動案内の世界市場での地位を固めた。
- THK 有価証券報告書 第56期(2025年12月期)【沿革】
- [21]1989年11月、株式店頭公開を達成
- 日経ビジネス(1990年2月12日号)
- [22]寺町博は株式公開を、世界市場でシェアを確保するための設備投資・海外販売網拡張の資金調達手段と位置付けた
1997年、寺町博氏は社長を退き、長男の寺町彰博氏が第2代社長[23]に就いた。承継した時点のTHKは、LMガイドで世界シェアトップを握る直動案内の専業メーカーへ成長していた。寺町彰博氏は就任直後の1998年から2000年にかけて受注・生産・物流を見直す業務改革を進め[24]、半導体や工作機械の需要変動に耐える体制づくりに取り組んだ。寺町博氏は社長退任後も会長として経営に関わり、その後フジフューチャーズの代表を務め、2012年9月11日に88歳で死去した[25]。一度は社長の座を追われた創業者が、世になかった市場を一代で立ち上げ、世界トップへ育てた歩みだった。
- [23]1997年、寺町博が社長を退任し長男の寺町彰博が第2代社長に就任
- [24]寺町彰博は就任直後の1998〜2000年に受注・生産・物流を見直す業務改革(業革)を実行
- [25]創業者寺町博は社長退任後に会長・フジフューチャーズ代表を経て2012年9月11日に88歳で死去
- THK 有価証券報告書 第56期(2025年12月期)【沿革】
- [17]1979年ボールねじ・1982年XYテーブル・1987年インテリジェントアクチュエータ・1998年リニアモータと直動周辺製品を相次ぎ製品化
- [18]1981年3月に米シカゴでTHK Americaを設立、1982年10月に西独デュッセルドルフにTHK Europe(現THK GmbH)を設立
- [19]1984年1月、商号をTHK株式会社に変更
- [21]1989年11月、株式店頭公開を達成
- [20]THKは『Toughness』『High Quality』『Know-how』の頭文字を取ったブランド名(寺町彰博が説明)
- 日経ビジネス(1990年2月12日号)
- [22]寺町博は株式公開を、世界市場でシェアを確保するための設備投資・海外販売網拡張の資金調達手段と位置付けた
- [23]1997年、寺町博が社長を退任し長男の寺町彰博が第2代社長に就任
- [24]寺町彰博は就任直後の1998〜2000年に受注・生産・物流を見直す業務改革(業革)を実行
- [25]創業者寺町博は社長退任後に会長・フジフューチャーズ代表を経て2012年9月11日に88歳で死去