クボタ の歴史

更新:

創業 1890年
創業者 久保田権四郎
創業地 大阪市
創業 1890年2月、久保田権四郎氏が大阪市南区御蔵跡町に久保田鉄工所を興し、各種鋳物
1890年2月、久保田権四郎氏が大阪市南区御蔵跡町に久保田鉄工所を興し、各種鋳物の製造・販売を開始した。1893年7月には水道用鋳鉄管の製造に入り、大企業でも量産に達しなかった国産化を1900年の丸吹堅込法で成し遂げ、1910年代には国内シェア6割を占めた。1922年2月に農工用小型エンジン、1927年2月に隅田川精鉄所の買収と品目を拡大し、1930年12月に鋳物と機械の二社へ分けて法人化し、1937年3月に再び一社へ合併している。1949年5月に東京・大阪の両証券取引所へ上場し、1953年6月に久保田鉄工、1990年4月にクボタへ商号を変更した。
決断 祖業を抱えたまま、主力だけを鋳鉄管から農業機械へ移した。1960年3月に純国産ト
祖業を抱えたまま、主力だけを鋳鉄管から農業機械へ移した。1960年3月に純国産トラクタT15形を発売し、耕うん機の延長ではなく乗用トラクタ・収穫機・田植機という完成機の体系へ資源を移した。減反政策で国内需要が頭打ちになると、1972年9月にはクボタトラクターCorp.を米国に設立し、米国大手が手薄な25〜30馬力の区画へ入った。一方、1990年5月に掲げた「落下傘型」と称した多角化では未経験の分野へ次々と参入したものの、第3の収益源には届かず、2003年に住宅建材を分離している。祖業の側でも2005年6月に旧神崎工場の石綿疾病を公表し、鋳鉄管とともに扱った石綿の代償を負った。多角化で作ろうとした事業は残らず、現在も売上の87%は機械が占める。
現況 日本の水田向けに作った機械が、売上の4割を北米で立てている。2025年12月期の
日本の水田向けに作った機械が、売上の4割を北米で立てている。2025年12月期の売上高3兆189億円のうち北米が1兆2,185億円と40%を占め、日本は6,852億円の23%にとどまる。事業別では農業機械・エンジン・建設機械を含む機械が2兆6,289億円で87%、鋳鉄管を継いだ水・環境は3,744億円である。2022年4月にはインドのエスコーツを最大約1,406億円で子会社化し、高価格の自社製品では14年間シェアを取れなかったインドで、低価格帯のベーシックトラクタと販売網ごと取り込んだ。ただし北米の在庫調整で営業利益は2,654億円と前期から500億円あまり減り、ROICの徹底が全社の課題に据えられた。
競合 国内では農機の首位を保つが、北米ではジョンディアを追う立場にある。国内で同じ稲作
国内では農機の首位を保つが、北米ではジョンディアを追う立場にある。国内で同じ稲作向けの機体を作るのはヤンマーと井関農機で、クボタは1960年代に組み替えた完成機の体系で首位を守ってきた。北米では大型トラクタを主戦場とするジョンディアやCNHが相手になり、25〜30馬力の小型機という空白へ入ることで正面からの競合を避けている。建設機械のミニショベルでは油圧ショベルへ後発で参入したコマツとも重なる。相手ごとに機体の大きさを変えて住み分ける進み方は、世界最大のインド市場では通じず、現地大手の買収という回り道を強いた。
長期業績の推移 1949〜2025年
クボタ:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
1996年3月期〜2025年12月期

第1章 1890年〜 久保田権四郎の鋳物業から水道用鋳鉄管へ、工作機械・発動機への参入

1890年〜長屋の鋳物屋から水道用鋳鉄管へ

1890年2月、久保田権四郎は大阪市南区御蔵跡町に久保田鉄工所を興し、各種鋳物の製造と販売を始めた。選んだ土地は大阪の鋳物工業の発祥地で、1883年に市内へ9つあった鋳物工場のうち6つが南区に集まっていた。権四郎が借りたのは間口2間・奥行4間の長屋である。床を落として仕事場をつくり、足踏みのふいごで風を送るこしき炉を据え、弟子を兼ねる小僧を雇い入れた。向かいには7馬力の蒸気力を使い15人の職工を抱える大谷数太郎の工場があり、権四郎の長屋はその裏手に並んでいた。始めた仕事は、奉公で身につけた看貫鋳物だった。秤の分銅や台は、当時の零細な鋳物業者にひとつのブームを呼んだ仕事である。資本も設備も持たない出発で、元手は奉公先で覚えた鋳造の腕しかなかった。

  • クボタ 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1890年2月に創業者久保田権四郎が大阪市南区御蔵跡町に久保田鉄工所を興し、各種鋳物の製造・販売を開始した
  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
    • [2]1883年の大阪市内の鋳物工場は9工場で、そのうち6工場が南区にあった
    • [3]権四郎は御蔵跡町で間口二間・奥行四間の長屋を借りて鋳物屋を始めた
    • [4]権四郎は借家の床を落として仕事場をつくり、足踏みのふいごで風を送るたたら吹きのこしき炉を据え、弟子を兼ねる手伝いの小僧を雇い入れた
    • [5]御蔵跡町の大谷数太郎の鋳物工場は7馬力の蒸気力を使用し15人の職工を抱えており、権四郎が借りた長屋はその工場の裏側に立ち並ぶ棟割長屋だった
    • [6]権四郎は奉公で身につけた看貫鋳物を吹いて仕事を始めた
    • [7]看貫は当時の零細な鋳物業者にとってひとつのブームを呼んだ仕事だった

鋳物屋のままで終わらなかったのは、権四郎が水道用鋳鉄管という官需を早くに狙ったからである。1893年7月、久保田は水道用鋳鉄管の製造を始めた。その頃の久保田は西関谷町で綿繰機械や旋盤、問屋仕事の鋳物を造っていた。大阪砲兵工廠が鉄管の鋳造に着手した1893年頃から、権四郎は将来の膨大な鉄管需要を見越して試作と研究に入っていた。設備は貧弱なままだったが、権四郎は研究を止めなかった。やがて久保田は、水道用に加えて瓦斯用の鋳鉄管も主体の製品に据える。どちらも地中に埋める配管で、買い手は市の水道部と瓦斯会社に限られ、注文は民間の景気ではなく都市の拡張と予算に従った。

  • クボタ 有価証券報告書【沿革】
    • [8]1893年7月に水道用鋳鉄管の製造を開始した
  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
    • [9]西関谷町の久保田では綿繰機械や軸刻機、旋盤、問屋仕事などの鋳物を造っていた
    • [10]権四郎は砲兵工廠が鉄管の鋳造を始めた明治26年頃から、将来の膨大な鉄管需要を見越して鉄管の試作と研究を始めていた
    • [11]権四郎は貧弱な設備にもめげず鉄管の試作と研究を続けた
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [12]久保田鉄工所は水道用及び瓦斯用鋳鉄管を主体とする各種鋳物の製造販売を行った

日本では鋳鉄管を造れない、というのが当時の通り相場だった。当時の技法だった合わせ型横込法では、単純な円筒形の鉄管でさえ偏肉や錆巣を避けられなかった。日本鋳鉄合資会社は、技術の最高権威者や陸海軍工廠の鋳造経験者、大財閥までを擁して東京で発足したものの、すぐに行き詰まった。これを見て国産鉄管は外国品に及ばないと受け止められ、計画や研究を進めていた者も手を引いていった。権四郎はこの失敗をかえって勇猛心を奮い起こす材料とし、その信念は「外国人に出来ることが、日本人に出来ぬ筈はない」『外国人に出来ることが、日本人に出来ぬ筈はない。』という言葉として社史に伝わる。寝食を忘れて試作を繰り返した末、1900年に丸吹堅込法を発明し、同年中に実施へ移した。外国製に頼ってきた水道管を自前の型で量産する道が、ここで開いた。

  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
    • [13]当時の技法である合わせ型横込法では、単純な円筒形で加工度も低い鉄管でも偏肉や錆巣が生じた
    • [14]東京でわが国技術の最高権威者や陸海軍工廠での鋳造経験者、大財閥も関係して発足した日本鋳鉄合資会社は、スタートでもろくも破綻した
    • [15]鋳鉄管製造は日本では不可能と考えられ、その製品も外国品と肩を並べられないものとされて、計画や研究を続けていた人たちも断念・中止するようになった
    • [16]日本鋳鉄合資会社の破綻は権四郎に研究を断念させるどころか、勇猛心を奮い立たせるのに役立った
    • [17]明治33年に鋳鉄管製造にとって画期的な丸吹堅込法を発明した
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [18]明治33年に丸吹立込鋳造法を考案して実施した
参考文献[1]-[18]
  • クボタ 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1890年2月に創業者久保田権四郎が大阪市南区御蔵跡町に久保田鉄工所を興し、各種鋳物の製造・販売を開始した
    • [8]1893年7月に水道用鋳鉄管の製造を開始した
  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
    • [2]1883年の大阪市内の鋳物工場は9工場で、そのうち6工場が南区にあった
    • [3]権四郎は御蔵跡町で間口二間・奥行四間の長屋を借りて鋳物屋を始めた
    • [4]権四郎は借家の床を落として仕事場をつくり、足踏みのふいごで風を送るたたら吹きのこしき炉を据え、弟子を兼ねる手伝いの小僧を雇い入れた
    • [5]御蔵跡町の大谷数太郎の鋳物工場は7馬力の蒸気力を使用し15人の職工を抱えており、権四郎が借りた長屋はその工場の裏側に立ち並ぶ棟割長屋だった
    • [6]権四郎は奉公で身につけた看貫鋳物を吹いて仕事を始めた
    • [7]看貫は当時の零細な鋳物業者にとってひとつのブームを呼んだ仕事だった
    • [9]西関谷町の久保田では綿繰機械や軸刻機、旋盤、問屋仕事などの鋳物を造っていた
    • [10]権四郎は砲兵工廠が鉄管の鋳造を始めた明治26年頃から、将来の膨大な鉄管需要を見越して鉄管の試作と研究を始めていた
    • [11]権四郎は貧弱な設備にもめげず鉄管の試作と研究を続けた
    • [13]当時の技法である合わせ型横込法では、単純な円筒形で加工度も低い鉄管でも偏肉や錆巣が生じた
    • [14]東京でわが国技術の最高権威者や陸海軍工廠での鋳造経験者、大財閥も関係して発足した日本鋳鉄合資会社は、スタートでもろくも破綻した
    • [15]鋳鉄管製造は日本では不可能と考えられ、その製品も外国品と肩を並べられないものとされて、計画や研究を続けていた人たちも断念・中止するようになった
    • [16]日本鋳鉄合資会社の破綻は権四郎に研究を断念させるどころか、勇猛心を奮い立たせるのに役立った
    • [17]明治33年に鋳鉄管製造にとって画期的な丸吹堅込法を発明した
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [12]久保田鉄工所は水道用及び瓦斯用鋳鉄管を主体とする各種鋳物の製造販売を行った
    • [18]明治33年に丸吹立込鋳造法を考案して実施した

1900年〜丸吹堅込法と自社工場が支えた鋳鉄管の量産

初めての自社工場は、借家を借りるのでも古い工場を買い取るのでもなく、鋳鉄管製造を新たに構想して建てられた。久保田は1901年に船出町で工場を建てて鋳鉄管と諸機械の製造販売を始めており、1907年に同じ町で着工したのがその工場である。敷地はもと製材会社が吉野杉の材木を積んでいた置場で、資材と製品の運搬には高津入堀川を通う船を使った。広さは3,800余坪あったが、うち2,200坪は地主の都合で即座には買い取れず、借地とするほかなかった。創業から17年を経て、権四郎は借りた長屋から自前の敷地へ移っている。鋳造法を手にした鋳物屋が次に要したのは、型と炉を並べる床面積と、原料を運び込む水路だった。

  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
    • [19]船出町工場は借家でも古い工場の買収でもなく、鋳鉄管製造の新しい構想の下に新しく造られる久保田鉄工初めての工場だった
    • [21]船出町工場は明治40年から建設を始めた
    • [22]船出町工場の敷地は元は製材会社が吉野杉の材木を積んでいた置場で、工場の資材や製品を運搬する船が高津入堀川を通った
    • [23]船出町工場の敷地は3,800余坪で、うち2,200坪は地主の都合ですぐには買収できず借地とした
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [20]明治34年に船出町工場を建設し、鋳鉄管・諸機械の製造販売を開始した

1900年の丸吹堅込法は、鋳造法の改良の終点ではなかった。1908年、久保田は鋳鉄管の廻転式鋳造法を考案し、特許を獲得した。1923年には自動製芯機、翌1924年には自動成型機について、それぞれ発明特許を取得している。中子を作る工程と造型の工程を機械へ置き換えたことで、鋳鉄管事業は一段階を画した。設備の拡充も同じ時期に進み、1917年には異形管を造る恩加島工場を新設し、市岡工場では排水管、異形管、一般鋳物の製造を始めた。工場を増やした背景には、鋳鉄管と鋳物の需要増大があった。創業期の鋳造が職人の手と勘に委ねられていたのに対し、機械は同じ型を同じ寸法で繰り返す。

  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
    • [24]明治33年に丸吹堅込法を発明した
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [25]明治41年に鋳鉄管の廻転式鋳造法を考案し特許を獲得した
    • [26]大正12年に自動製芯機、大正13年に自動成型機の発明特許をそれぞれ獲得した
    • [27]自動製芯機・自動成型機の特許取得によって同社事業の大宗である鋳鉄管事業の発展に一段階を画した
    • [28]大正6年に異形管工場として恩加島工場を新設し、さらに市岡工場を新設して排水管、異形管、一般鋳物の製造を開始した
    • [29]大正6年の工場新設は鋳鉄管及び鋳物の需要増大に伴うものだった

1917年、久保田は関西鉄工の工場を買収し、尼崎工場として発足させた。この工場は日立造船の前身である大阪鉄工所が、1912年7月に鋳鉄管工場として開いたものだった。大阪鉄工所は造船の本業が繁忙になったため工場を子会社の関西鉄工へ譲り、関西鉄工は鉄管製造の不振から身売り話を始めていた。買収に動いた久保田の側には、新たに鉄管工場を設ける計画があった。船出町工場の鉄管鋳造設備と人員は、そのまま尼崎へ移された。この工場は1958年10月の時点でも、530人が働く鉄管の拠点として残っている。新設ではなく買収を選んだのは、鉄管の需要が増えるなかで立ち上げの時間を買うためだった。

  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
    • [30]尼崎工場は大正6年に関西鉄工の工場を買収して発足した
    • [31]尼崎の工場は日立造船の前身である大阪鉄工所が明治45年7月に鋳鉄管工場として開設したものである
    • [32]大阪鉄工所は造船の本業が繁忙となり工場を子会社の関西鉄工株式会社へ譲渡し、関西鉄工は鉄管製造の不振から身売り話を始めた
    • [33]久保田は新規に鉄管工場の新設を計画しており、その理由から関西鉄工の工場を買収した
    • [34]買収にあたり船出町工場の鉄管鋳造設備と人員を移して尼崎工場とした
  • 株式会社年鑑 1959年版「久保田鉄工」
    • [35]1958年10月時点の尼崎工場(尼崎市西向島町64)の従業員は530人だった
参考文献[19]-[35]
  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
    • [19]船出町工場は借家でも古い工場の買収でもなく、鋳鉄管製造の新しい構想の下に新しく造られる久保田鉄工初めての工場だった
    • [21]船出町工場は明治40年から建設を始めた
    • [22]船出町工場の敷地は元は製材会社が吉野杉の材木を積んでいた置場で、工場の資材や製品を運搬する船が高津入堀川を通った
    • [23]船出町工場の敷地は3,800余坪で、うち2,200坪は地主の都合ですぐには買収できず借地とした
    • [24]明治33年に丸吹堅込法を発明した
    • [30]尼崎工場は大正6年に関西鉄工の工場を買収して発足した
    • [31]尼崎の工場は日立造船の前身である大阪鉄工所が明治45年7月に鋳鉄管工場として開設したものである
    • [32]大阪鉄工所は造船の本業が繁忙となり工場を子会社の関西鉄工株式会社へ譲渡し、関西鉄工は鉄管製造の不振から身売り話を始めた
    • [33]久保田は新規に鉄管工場の新設を計画しており、その理由から関西鉄工の工場を買収した
    • [34]買収にあたり船出町工場の鉄管鋳造設備と人員を移して尼崎工場とした
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [20]明治34年に船出町工場を建設し、鋳鉄管・諸機械の製造販売を開始した
    • [25]明治41年に鋳鉄管の廻転式鋳造法を考案し特許を獲得した
    • [26]大正12年に自動製芯機、大正13年に自動成型機の発明特許をそれぞれ獲得した
    • [27]自動製芯機・自動成型機の特許取得によって同社事業の大宗である鋳鉄管事業の発展に一段階を画した
    • [28]大正6年に異形管工場として恩加島工場を新設し、さらに市岡工場を新設して排水管、異形管、一般鋳物の製造を開始した
    • [29]大正6年の工場新設は鋳鉄管及び鋳物の需要増大に伴うものだった
  • 株式会社年鑑 1959年版「久保田鉄工」
    • [35]1958年10月時点の尼崎工場(尼崎市西向島町64)の従業員は530人だった

1914年〜鉄管の不振を埋めた機械製造業への進出

後年、当時の幹部だった須山三は「鉄管はこれ以上どうすることも出来ない。伸びるのは機械工場だ」『鉄管はこれ以上どうすることも出来ない。伸びるのは機械工場だ。』と振り返っている。大正初期の不況に欧州大戦による鉄の暴騰が重なって鉄管事業は不振と不如意に苦しみ、久保田は鉄管の立て直しではなく機械製造業への進出を選んだ。1914年には、鋳物事業の発展で機械加工が要ることに着目して船出町工場に機械工場を設け、スチームエンジンなど舶用機械を作り始めた。旋盤を選んだのは、大量に良いものを安く造れば売れる製品を持つという狙いによる。かつて鋳物屋を開いたばかりの頃、水道鉄管の将来を見込んで鋳造の研究に打ち込んだのと、機械への進出は同じ構えから出たものだった。

  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
    • [36]大正初期の経済不況と欧州大戦による鉄の暴騰によって鉄管は不振・不如意を招来した
    • [37]久保田は鉄管の不振を受けて逸早く機械製造業への進出を目論んだ
    • [39]大量に、良いものを、廉く造れば売れるものを求めたいという方針で旋盤を選んだ
    • [40]機械製造業への進出は、鋳物屋開業の当初から水道鉄管の将来に狙いをつけて鋳造研究に専念した時と同じ姿勢だった
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [38]大正3年に鋳物事業の発展に伴う機械加工に着目し、船出町工場に機械工場を新設してスチームエンジンなど舶用機械の製造を開始した

機械の品目は数年で広がり、1916年には工作機械、節炭機、給炭機、制水弁、一般機械の製造を始め、1918年には鋳型が加わった。1922年には耐熱・耐酸・耐アルカリの鋳物、砲金、軽合金といった各種鋳物へも手を伸ばした。1924年の度量衡法の改正に合わせては、船出町工場で衡機の製造に入った。衡機は秤であり、創業時に権四郎が仕事の口としていた看貫鋳物と同じく、物の重さを量る器具に当たる。1955年の主なる事業内容にも、鋳鉄管や内燃機関、各種機械と並んで衡器が挙がっている。鋳物の受注に頼ってきた会社は、機械工場の新設から10年ほどで、機械を自ら設計して売る側へ回った。

  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [41]大正5年に工作機械、節炭機、給炭機、制水弁、一般機械、大正7年に鋳型の製造をそれぞれ開始した
    • [42]大正11年に耐熱、耐酸、耐アルカリの鋳物、砲金、軽合金等の各種鋳物の製造を開始した
    • [43]大正13年に度量衡法の改正と共に船出町工場で衡機の製造を開始した
  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
    • [44]権四郎が創業時に手がけた看貫鋳物は秤に用いる鋳物である
  • 株式会社年鑑 1955年版「久保田鉄工」
    • [45]1955年時点の主なる事業内容は鋳鉄管、石綿セメント管、塩化ビニール管、鋳型、各種機械鋳物、内燃機関、耕耘機、衡器、一般機械などである

1922年2月、久保田は農工用の小型エンジンである発動機の製造を始めた。1927年には自動給炭機、ディーゼルエンジン、小形舶用発動機の製造に入り、同年2月には隅田川精鉄所を買収して鋳鉄管事業を広げた。この農工用発動機は1937年11月に新設した堺工場で大量生産へ移り、1947年5月に始まる耕うん機の製造へ続いた。1925年に制定した社章は、円の中に鋳鉄管を組み合わせ、中央へ創業者の姓から取った久の字を配したものだった。その円が歯車に変わり、鋳物と機械の久保田を表徴するようになるのは1930年である。創業から40年を経て、久保田は自らの表看板から鋳物一色を降ろした。

  • クボタ 有価証券報告書【沿革】
    • [46]1922年2月に発動機(農工用小型エンジン)の製造を開始した
    • [48]1927年2月に株式会社隅田川精鉄所を買収し、鋳鉄管事業を拡張した
    • [49]1937年11月に堺工場を新設して農工用発動機の大量生産に着手し、1947年5月に耕うん機の製造を開始した
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [47]昭和2年に自動給炭機、ディーゼルエンジン、小形舶用発動機等の製造をそれぞれ開始した
    • [50]大正14年に制定した社章は円の中に鋳鉄管を組み合わせ、創立者久保田権四郎の「久」を配して鋳物の久保田を象徴していた
    • [51]昭和5年の産業機械部門への進出を機に、社章の円を歯車に変えて鋳物と機械の久保田を表徴した
参考文献[36]-[51]
  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
    • [36]大正初期の経済不況と欧州大戦による鉄の暴騰によって鉄管は不振・不如意を招来した
    • [37]久保田は鉄管の不振を受けて逸早く機械製造業への進出を目論んだ
    • [39]大量に、良いものを、廉く造れば売れるものを求めたいという方針で旋盤を選んだ
    • [40]機械製造業への進出は、鋳物屋開業の当初から水道鉄管の将来に狙いをつけて鋳造研究に専念した時と同じ姿勢だった
    • [44]権四郎が創業時に手がけた看貫鋳物は秤に用いる鋳物である
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [38]大正3年に鋳物事業の発展に伴う機械加工に着目し、船出町工場に機械工場を新設してスチームエンジンなど舶用機械の製造を開始した
    • [41]大正5年に工作機械、節炭機、給炭機、制水弁、一般機械、大正7年に鋳型の製造をそれぞれ開始した
    • [42]大正11年に耐熱、耐酸、耐アルカリの鋳物、砲金、軽合金等の各種鋳物の製造を開始した
    • [43]大正13年に度量衡法の改正と共に船出町工場で衡機の製造を開始した
    • [47]昭和2年に自動給炭機、ディーゼルエンジン、小形舶用発動機等の製造をそれぞれ開始した
    • [50]大正14年に制定した社章は円の中に鋳鉄管を組み合わせ、創立者久保田権四郎の「久」を配して鋳物の久保田を象徴していた
    • [51]昭和5年の産業機械部門への進出を機に、社章の円を歯車に変えて鋳物と機械の久保田を表徴した
  • 株式会社年鑑 1955年版「久保田鉄工」
    • [45]1955年時点の主なる事業内容は鋳鉄管、石綿セメント管、塩化ビニール管、鋳型、各種機械鋳物、内燃機関、耕耘機、衡器、一般機械などである
  • クボタ 有価証券報告書【沿革】
    • [46]1922年2月に発動機(農工用小型エンジン)の製造を開始した
    • [48]1927年2月に株式会社隅田川精鉄所を買収し、鋳鉄管事業を拡張した
    • [49]1937年11月に堺工場を新設して農工用発動機の大量生産に着手し、1947年5月に耕うん機の製造を開始した

第2章 1930年〜 久保田鉄工所の設立と農工用発動機の量産、耕うん機参入と戦後の上場

1930年〜鋳物と機械を分けた2社設立から合併へ

1930年12月22日、久保田は2つの株式会社を同時に設立した。一方は水道瓦斯鋳鉄管と各種鋳物を主とする資本金450万円の久保田鉄工所である。もう一方は内燃機、陸舶用機械、製鉄製鋼用機械、制水弁、衡機、工作機械を作る資本金250万円の久保田鉄工所機械部だった。40年続いた個人経営は、鋳物と機械という2つの法人に分かれた。創業者の久保田権四郎は、この2社の初代社長に就いている。両社が合併して1つに戻るのは1937年3月である。設立から30年余を経た1953年の時点でも、本社は船出町に置かれていた。分けて7年、合わせて1つという運びは、機械部門が単独で立つ規模に育つまでの猶予だった。

  • クボタ 有価証券報告書【沿革】
    • [52]1930年12月22日に株式会社久保田鉄工所及び株式会社久保田鉄工所機械部を設立した
    • [56]1937年3月に株式会社久保田鉄工所機械部を株式会社久保田鉄工所に合併した
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [53]昭和5年12月に水道瓦斯鋳鉄管及び各種鋳物製造を主とする資本金450万円の株式会社久保田鉄工所を設立した
    • [54]昭和5年12月に内燃機・陸舶用機械・製鉄製鋼用機械・制水弁・衡機・工作機械等を製造する資本金250万円の株式会社久保田鉄工所機械部を設立した
    • [55]久保田権四郎は久保田鉄工所の創立者であり初代社長だった
  • 株式会社年鑑 1953年版「久保田鉄工所」
    • [57]1953年時点の本社は大阪市浪速区船出町2の22である

合併の年、久保田は設備をまとめて買い足した。1937年9月に大同鉄工所を買収して鋳鋼工場とし、10月には欧米各国の新型機械を輸入して堺工場を設けている。同年11月、その堺工場で農工用発動機の大量生産に着手した。翌1938年8月には隅田川精鉄所を合併し、隅田川工場とした。1931年1月には特許アークロ式ディーゼル機関の製造を始めていた。1939年9月には特殊衡機と輸送機が品目に加わる。資本金は設立時の450万円から、1938年8月の隅田川精鉄所の合併時に1,200万円となった。1945年7月までには3回の増資を経て6,030万円に達している。この堺工場での発動機の量産が、戦後に農機へ向かう久保田の基盤になった。

  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [58]昭和12年9月に大同鉄工所を買収して鋳鋼工場とし、翌10月に欧米各国の新型機械を輸入して堺工場を設けた
    • [60]昭和13年8月に株式会社隅田川精鉄所を合併して隅田川工場とした
    • [61]昭和6年1月に特許アークロ式ディーゼル機関の製造を開始した
    • [62]昭和14年9月に特殊衡機・輸送機の製造を開始した
  • クボタ 有価証券報告書【沿革】
    • [59]1937年11月に堺工場を新設し、農工用発動機の大量生産に着手した
  • 株式会社年鑑 1953年版「久保田鉄工所」
    • [63]昭和13年8月に隅田川精鉄所を合併し、資本金は1,200万円となった
    • [64]昭和20年7月までに3回の増資を経て資本金6,030万円となった

1940年10月、武庫川工場を新設して産業機械事業を広げ、翌1941年10月には遠心力鋳鉄管の鋳造を始めた。1943年3月には特殊鋳鋼品と高硅素鋳鉄鋳物の鋳造に入り、同じ月に神崎工場、1945年7月には布施工場を設けている。その一方で、農用発動機は農機具統制会社による生産統制の下に置かれ、極度の制限を受けた。堺工場は1943年以降ほとんど発動機の生産を止めたまま終戦を迎えた。戦時に設けたこれらの工場は戦後も残った。1958年10月の時点で堺工場には1,018人、武庫川鉄管工場には503人が働いている。工場と品目は戦時のあいだ増え続けたが、軍需から遠い農村向けの製品はその間ほぼ止まっていた。

  • クボタ 有価証券報告書【沿革】
    • [65]1940年10月に武庫川工場を新設して産業機械事業を拡張し、翌1941年10月に遠心力鋳鉄管の鋳造を開始した
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [66]昭和18年3月に特殊鋳鋼品及び高硅素鋳鉄鋳物の鋳造を開始し、同年3月に神崎工場、昭和20年7月に布施工場を新設した
  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
    • [67]農用発動機は戦時中、農機具統制会社による生産統制下に置かれ、極度の制限を受けた
    • [68]堺工場では昭和18年以降ほとんど農用発動機の生産を中止して終戦を迎えた
  • 株式会社年鑑 1959年版「久保田鉄工」
    • [69]1958年10月時点の事業所には堺工場、武庫川鉄管工場、隅田川工場、神崎工場が含まれる
    • [70]1958年10月時点の従業員数は堺工場1,018人、武庫川鉄管工場503人である
参考文献[52]-[70]
  • クボタ 有価証券報告書【沿革】
    • [52]1930年12月22日に株式会社久保田鉄工所及び株式会社久保田鉄工所機械部を設立した
    • [56]1937年3月に株式会社久保田鉄工所機械部を株式会社久保田鉄工所に合併した
    • [59]1937年11月に堺工場を新設し、農工用発動機の大量生産に着手した
    • [65]1940年10月に武庫川工場を新設して産業機械事業を拡張し、翌1941年10月に遠心力鋳鉄管の鋳造を開始した
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [53]昭和5年12月に水道瓦斯鋳鉄管及び各種鋳物製造を主とする資本金450万円の株式会社久保田鉄工所を設立した
    • [54]昭和5年12月に内燃機・陸舶用機械・製鉄製鋼用機械・制水弁・衡機・工作機械等を製造する資本金250万円の株式会社久保田鉄工所機械部を設立した
    • [55]久保田権四郎は久保田鉄工所の創立者であり初代社長だった
    • [58]昭和12年9月に大同鉄工所を買収して鋳鋼工場とし、翌10月に欧米各国の新型機械を輸入して堺工場を設けた
    • [60]昭和13年8月に株式会社隅田川精鉄所を合併して隅田川工場とした
    • [61]昭和6年1月に特許アークロ式ディーゼル機関の製造を開始した
    • [62]昭和14年9月に特殊衡機・輸送機の製造を開始した
    • [66]昭和18年3月に特殊鋳鋼品及び高硅素鋳鉄鋳物の鋳造を開始し、同年3月に神崎工場、昭和20年7月に布施工場を新設した
  • 株式会社年鑑 1953年版「久保田鉄工所」
    • [57]1953年時点の本社は大阪市浪速区船出町2の22である
    • [63]昭和13年8月に隅田川精鉄所を合併し、資本金は1,200万円となった
    • [64]昭和20年7月までに3回の増資を経て資本金6,030万円となった
  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
    • [67]農用発動機は戦時中、農機具統制会社による生産統制下に置かれ、極度の制限を受けた
    • [68]堺工場では昭和18年以降ほとんど農用発動機の生産を中止して終戦を迎えた
  • 株式会社年鑑 1959年版「久保田鉄工」
    • [69]1958年10月時点の事業所には堺工場、武庫川鉄管工場、隅田川工場、神崎工場が含まれる
    • [70]1958年10月時点の従業員数は堺工場1,018人、武庫川鉄管工場503人である

1946年〜農用発動機の民需転換と企業再建整備

戦後の食糧難と住宅難で都市の人口が農村へ流れ込み、食糧を自ら作れる農村の側が景気のよさを享受するという逆転が起きて、農家の購買力は急に高まった。農地改革による自作農創設で土地所有権が細分化され、これも農村景気を押し上げた。当時の食糧増産政策の下で農用発動機の需要が爆発的に膨らみ、発動機部門の民需転換が円滑に軌道へ乗る理由の一つとなった。久保田の戦後の生産復興は、この発動機と鋳鉄管の2部門が原動力となって進んだ。1946年3月には、製材機と鉱山用の諸機械の製造にも着手している。統制で戦時に止まっていた製品が、統制の解けた市場でいち早く売れる側に回ったのである。

  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
    • [71]戦後の食糧難と住宅難によって農村は都市の人口を吸収した
    • [72]経済事情が逆転し、食糧を自作する農村が好景気を謳歌する時代となって農村の購買力がにわかに向上した
    • [73]戦後の農地改革による自作農創設は土地所有権の細分化を促し、農村景気に拍車をかけた
    • [74]発動機部門の民需転換が円滑に軌道に乗った原因の一つは、当時の食糧増産政策からして農用発動機の需要が爆発的だったことである
    • [75]戦後の生産復興の原動力となったのは発動機と鋳鉄管の両部門だった
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [76]昭和21年3月に製材機・鉱山用諸機械の製造を開始した

堺工場が中心機種に据えたのは戦前から実績のある小型石油発動機で、統制で止まっていた生産をこれで立て直した。久保田の発動機は1923年のA型に始まり、改良を重ねて1928年からはF型になっていた。灌漑や脱穀、籾摺りなど定置作業に使う据え置き型の農用発動機は、従来は地主が持ち主となって小作人に貸し出すのが普通だったが、それが自作農自らの所有物となって需要が急増した。買い手の側が、そもそも入れ替わっていたのである。1947年5月には耕うん機の製造に入り、農機へ参入している。歩行しながら土を起こす耕うん機は、据え置きで使ってきた発動機を車体の上へ載せ替えた製品だった。

  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
    • [77]堺工場では戦前から実績を持つ小型石油発動機を中心機種として生産体制を整備した
    • [78]大正12年のA型に始まったクボタ発動機は昭和3年からF型に変わっていた
    • [79]農用発動機は従来は灌漑・脱穀・籾摺りなどの定置作業に使用され、主として地主が所有し小作人に貸して使わせるのが一般だった
    • [80]戦後の経済事情の変革によって発動機の需要は急激に増加した
  • クボタ 有価証券報告書【沿革】
    • [81]1947年5月に耕うん機の製造を開始し、農機に参入した

生産が戻る一方で、資本の側は戦後の制度に合わせた組み直しを迫られた。戦時中に6,030万円だった資本金は、1948年10月に1億3,300万円へ増えていた。1949年3月に企業再建整備計画の認可を受け、同年5月には資本金を2億8,000万円へ増やして新旧勘定を併合した。同じ1949年5月、久保田鉄工所の株式は東京証券取引所と大阪証券取引所に上場した。翌1950年8月には、製品ごとに損益を持つ製品別事業部制を採り入れている。1952年4月には資本金を5億6,000万円へ倍増した。鋳物・鉄管・発動機という性格の違う事業を、製品ごとの採算で見る枠組みがここで入った。

  • 株式会社年鑑 1953年版「久保田鉄工所」
    • [82]昭和23年10月に資本金1億3,300万円に増資した
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [83]昭和24年3月に再建整備計画の認可を受け、同年5月に同計画に基づき資本金2億8千万円に増資して新旧勘定を併合した
  • クボタ 有価証券報告書【沿革】
    • [84]1949年5月に東京証券取引所、大阪証券取引所に上場した
    • [85]1950年8月に製品別事業部制を採用した
  • 資本異動総覧 1983年版(東洋経済新報社, 1982年11月)
    • [86]1952年4月16日に1対1の有償増資を実施し、資本金は5億6,000万円となった
参考文献[71]-[86]
  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
    • [71]戦後の食糧難と住宅難によって農村は都市の人口を吸収した
    • [72]経済事情が逆転し、食糧を自作する農村が好景気を謳歌する時代となって農村の購買力がにわかに向上した
    • [73]戦後の農地改革による自作農創設は土地所有権の細分化を促し、農村景気に拍車をかけた
    • [74]発動機部門の民需転換が円滑に軌道に乗った原因の一つは、当時の食糧増産政策からして農用発動機の需要が爆発的だったことである
    • [75]戦後の生産復興の原動力となったのは発動機と鋳鉄管の両部門だった
    • [77]堺工場では戦前から実績を持つ小型石油発動機を中心機種として生産体制を整備した
    • [78]大正12年のA型に始まったクボタ発動機は昭和3年からF型に変わっていた
    • [79]農用発動機は従来は灌漑・脱穀・籾摺りなどの定置作業に使用され、主として地主が所有し小作人に貸して使わせるのが一般だった
    • [80]戦後の経済事情の変革によって発動機の需要は急激に増加した
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [76]昭和21年3月に製材機・鉱山用諸機械の製造を開始した
    • [83]昭和24年3月に再建整備計画の認可を受け、同年5月に同計画に基づき資本金2億8千万円に増資して新旧勘定を併合した
  • クボタ 有価証券報告書【沿革】
    • [81]1947年5月に耕うん機の製造を開始し、農機に参入した
    • [84]1949年5月に東京証券取引所、大阪証券取引所に上場した
    • [85]1950年8月に製品別事業部制を採用した
  • 株式会社年鑑 1953年版「久保田鉄工所」
    • [82]昭和23年10月に資本金1億3,300万円に増資した
  • 資本異動総覧 1983年版(東洋経済新報社, 1982年11月)
    • [86]1952年4月16日に1対1の有償増資を実施し、資本金は5億6,000万円となった

1950年〜合成管と住宅建材へ広げた久保田鉄工への改称

鉄管の造り方と品種は、戦後の10年でもう一度入れ替わった。1950年7月に金型遠心力鋳鉄管の製造を始め、1951年にはクローム鋳鉄管、セメントライニング管、土木建設の各種プラントが加わった。1952年には鋳鋼管とポンプの製造に入り、同年12月には武庫川機械工場でポンプを作り始めた。1954年には石綿パイプとビニルパイプの製造が始まる。1956年4月にはモビルクレーンと運搬用諸機械、1959年12月にはスパイラル鋼管が品目に加わった。工場も増え、1953年3月に鶴町工場、1959年12月に大浜工場を設けている。鋳鉄という素材に縛られていた配管の品揃えが、素材の側から広がった。

  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [87]昭和25年7月に金型遠心力鋳鉄管、昭和26年にクローム鋳鉄管、セメントライニング管、土木建設各種プラントの製造をそれぞれ開始した
    • [88]昭和27年に鋳鋼管、ポンプの製造を開始した
    • [90]昭和29年に石綿パイプ、ビニルパイプの製造を開始した
    • [91]昭和31年4月にモビルクレーン・運搬用諸機械、昭和34年12月にスパイラル鋼管の製造をそれぞれ開始した
    • [92]昭和28年3月に鶴町工場、昭和34年12月に大浜工場を新設した
  • クボタ 有価証券報告書【沿革】
    • [89]1952年12月に武庫川機械工場でポンプの製造を開始した

1953年6月、社名を久保田鉄工株式会社に改めた。翌翌1954年4月にはビニルパイプ工場を新設し、合成樹脂管の本格的な製造に着手した。1957年11月には久保田建材工業株式会社を設立し、住宅建材事業へ進んでいる。設備と品目の拡張を支えたのは度重なる増資だった。資本金は1952年4月の5億6,000万円から、1953年7月に11億2,000万円、1955年5月に25億2,000万円へ増えた。1957年10月には56億7,000万円に達している。1953年7月の増資は1株につき1株、1955年5月と1957年10月はいずれも1株につき0.5株の割当だった。5年で10倍という増資の速さが、この時期の設備投資の規模を示している。

  • クボタ 有価証券報告書【沿革】
    • [93]1953年6月に社名を久保田鉄工株式会社に変更した
    • [94]1954年4月にビニルパイプ工場を新設し、合成樹脂管の本格的製造に着手した
    • [95]1957年11月に久保田建材工業株式会社を設立し、住宅建材事業に進出した
  • 資本異動総覧 1983年版(東洋経済新報社, 1982年11月)
    • [96]資本金は1952年4月に5億6,000万円、1953年7月に11億2,000万円、1955年5月に25億2,000万円となった
    • [97]1957年10月16日の有償増資により資本金は56億7,000万円となった
    • [98]割当比率は1953年7月が1.0、1955年5月と1957年10月がいずれも0.5である

設備と増資の拡張に、業績のほうもよく追いついた。1953年4月期に81億6,500万円だった年間の売上高は、1958年4月期には267億3,100万円へ伸びている。営業利益も同じ期間に、9億400万円から43億7,100万円へ増えている。もっとも、事業の重心のほうはまだ動いていない。1955年10月期の売上構成は鋳鉄管が36.0%、内燃機が21.0%を占め、耕うん機は6.4%にすぎなかった。1955年10月期には一般鋳物が8.8%、合成部門が6.8%を占めた。1955年当時に40億円へ届かなかった農機の年間出荷高が100億円を超えるのは、1959年度である。

  • 上場会社総覧(1956年版・1959年版)
    • [99]売上高は1953年4月期81.65億円、1958年4月期267.31億円だった(単体・半期合算)
    • [100]営業利益は1953年4月期9.04億円、1958年4月期43.71億円だった(単体・半期合算)
  • 上場会社総覧 昭和31年版
    • [101]1955年10月期の売上構成は鋳鉄管21億8,720万円(36.0%)、内燃機12億7,473万円(21.0%)、耕耘機3億9,157万円(6.4%)である
    • [102]1955年10月期の売上構成比は一般鋳物8.8%、合成部門6.8%である
  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
    • [103]農機事業の年間出荷高は昭和30年当時は40億円に満たず、昭和34年度に初めて100億円を突破した
参考文献[87]-[103]
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [87]昭和25年7月に金型遠心力鋳鉄管、昭和26年にクローム鋳鉄管、セメントライニング管、土木建設各種プラントの製造をそれぞれ開始した
    • [88]昭和27年に鋳鋼管、ポンプの製造を開始した
    • [90]昭和29年に石綿パイプ、ビニルパイプの製造を開始した
    • [91]昭和31年4月にモビルクレーン・運搬用諸機械、昭和34年12月にスパイラル鋼管の製造をそれぞれ開始した
    • [92]昭和28年3月に鶴町工場、昭和34年12月に大浜工場を新設した
  • クボタ 有価証券報告書【沿革】
    • [89]1952年12月に武庫川機械工場でポンプの製造を開始した
    • [93]1953年6月に社名を久保田鉄工株式会社に変更した
    • [94]1954年4月にビニルパイプ工場を新設し、合成樹脂管の本格的製造に着手した
    • [95]1957年11月に久保田建材工業株式会社を設立し、住宅建材事業に進出した
  • 資本異動総覧 1983年版(東洋経済新報社, 1982年11月)
    • [96]資本金は1952年4月に5億6,000万円、1953年7月に11億2,000万円、1955年5月に25億2,000万円となった
    • [97]1957年10月16日の有償増資により資本金は56億7,000万円となった
    • [98]割当比率は1953年7月が1.0、1955年5月と1957年10月がいずれも0.5である
  • 上場会社総覧(1956年版・1959年版)
    • [99]売上高は1953年4月期81.65億円、1958年4月期267.31億円だった(単体・半期合算)
    • [100]営業利益は1953年4月期9.04億円、1958年4月期43.71億円だった(単体・半期合算)
  • 上場会社総覧 昭和31年版
    • [101]1955年10月期の売上構成は鋳鉄管21億8,720万円(36.0%)、内燃機12億7,473万円(21.0%)、耕耘機3億9,157万円(6.4%)である
    • [102]1955年10月期の売上構成比は一般鋳物8.8%、合成部門6.8%である
  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
    • [103]農機事業の年間出荷高は昭和30年当時は40億円に満たず、昭和34年度に初めて100億円を突破した

第3章 1960-1971 (気が向いたら執筆します!) 中型トラクターの発売と環境・住宅建材への参入、田植機の量産

第4章 1972-1989 (気が向いたら執筆します!) 米国クボタトラクターの設立と欧州進出、筑波工場とニューヨーク証券取引所上場

第5章 1990-2004 (気が向いたら執筆します!) クボタへの改称と水道管カルテルの発覚、希望退職と非注力事業の縮小

第6章 2005-2026 (気が向いたら執筆します!) アスベスト問題への対応とKverneland・Escortsの買収による海外農機の拡大

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

歴史年表 1890〜2022年

クボタの沿革1890〜2022年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1890〜1929年久保田権四郎の鋳物業から水道用鋳鉄管へ、工作機械・発動機への参入久保田鉄工所を創業★
水道用鋳鉄管の製造を開始★★
工作機械に参入・鋳鉄管生産を尼崎と恩加島に移管★
実用自動車製造を設立・自動車に参入★★
発動機(農工用小型エンジン)の製造を開始★★
隅田川精鉄所を買収★
1930〜1959年久保田鉄工所の設立と農工用発動機の量産、耕うん機参入と戦後の上場久保田鉄工所を設立★
農工用発動機の大量生産を開始★
耕うん機の製造開始・農機に参入★★
東京証券取引所に株式上場★
小田原大造小田原大造氏が社長就任★
小田原大造社名を久保田鉄工に変更★
小田原大造合成樹脂管の製造を開始★
小田原大造住宅建材事業に参入★
小田原大造創業者・久保田権四郎氏が逝去★
1960〜1971年中型トラクターの発売と環境・住宅建材への参入、田植機の量産小田原大造耕うん機から完成機体系への農業機械の組み替え

1960年、久保田鉄工が15馬力の純国産トラクタT15形を発売し、耕うん機と農用発動機の延長にあった農業機械事業を、乗用トラクタ・バインダー・田植機という完成機の体系へ組み替えた経営判断。1961年の農業基本法と構造改善事業が押し上げた機械化需要を受け、1969年の宇都宮工場までに量産の体制を構築した。

詳細を読む
★★★
小田原大造環境事業に参入★
小田原大造産業機械・鋳鋼製品の量産体制を確立★
米田健三住宅建材事業に本格参入★
米田健三田植機・バインダーの量産体制を確立★
1972〜1989年米国クボタトラクターの設立と欧州進出、筑波工場とニューヨーク証券取引所上場広慶太郎欧米向けトラクタの量産を開始★★
広慶太郎水田向け小型トラクタを武器とした北米・欧州市場への進出

1972年9月、久保田鉄工が米国にクボタトラクターCorp.を設立し、日本の水田向けに作った25〜30馬力の小型・中型トラクタを北米へ持ち出した経営判断。廣慶太郎社長の主導で、1974年3月にはフランスにも販売会社を設立して西欧に広げ、輸出を軸とする国際戦略へ移った。

詳細を読む
★★★
広慶太郎ヨーロッパクボタトラクタ販売を設立★
広慶太郎農業用トラクタの専門量産工場として筑波工場を新設★
広慶太郎ニューヨーク証券取引所に上場。(2013年7月に同取引所上場廃止。)★
広慶太郎外壁材専門工場として鹿島工場を新設★
三野重和エンジン専門工場として堺製造所に堺臨海工場を新設★
1990〜2004年クボタへの改称と水道管カルテルの発覚、希望退職と非注力事業の縮小三野重和祖業と関わりの薄い分野へ次々と展開し、単一事業への依存を断つ経営刷新

1990年、久保田鉄工(同年4月にクボタへ商号変更)が、既存事業の周辺ではなく未経験の分野へ飛び込む"落下傘型"の多角化を掲げ、コンピューター事業を第3の柱に育てようとした経営判断。三野重和社長の主導で、社名・シンボルマークの一新と社内の意識改革をあわせて進めた。

詳細を読む
★★★
三井康平子会社を解散★
三井康平約30年来の水道管カルテルが発覚★★
三井康平希望退職者を募集★
幡掛大輔非注力事業を分離縮小★
2005〜2026年アスベスト問題への対応とKverneland・Escortsの買収による海外農機の拡大幡掛大輔シーアイ化成との合成樹脂管事業統合によりクボタシーアイを設立★
幡掛大輔疾病の自主公表と、周辺住民への見舞金・救済金の支払い

2005年6月、クボタが旧神崎工場(兵庫県尼崎市)の周辺住民に石綿疾病の患者がいることを公表し、一定の基準に基づく見舞金(弔慰金)の支払いを決めて開始した経営判断。あわせて社員78人が石綿を原因に死亡し15人が療養中であることを明らかにし、中皮腫を発症した住民3人へ1人200万円を支払うと言明した。 幡掛大輔社長の下で、因果関係も法的責任も確定しない段階での支払いに踏み込んだことになる。

詳細を読む
★★★
幡掛大輔立ち入り調査が相次ぐ★
幡掛大輔サイアムクボタトラクター Co.,Ltd.を設立★
益本康男ノルウェーKverneland ASAを買収★★
益本康男クボタファームマシナリーヨーロッパ S.A.S.を設立★
木股昌俊GPを買収★
木股昌俊基幹システムの刷新開始★
北尾裕一インド農機大手への1,950億円の出資と議決権44.8%の取得

2021年11月18日、クボタがインドのトラクタメーカー Escorts Limited による第三者割当増資の引受けに関する契約を締結し、2022年4月11日に現金を対価として株式を追加取得して議決権の44.8%を握り、連結子会社とした経営判断。取得対価は1,950億円で、現金1,237億円と取得日直前に保有していた資本持分713億円の合計である。 北尾裕一社長の下で決めたクボタ最大の買収で、同社は2022年6月にエスコーツクボタLtd.へ社名を変更した。

詳細を読む
★★★
北尾裕一グローバル技術研究所を新設★
出典・参考 9件
出典・参考
  • クボタ 有価証券報告書【沿革】
  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
  • 株式会社年鑑 1953年版「久保田鉄工所」
  • 株式会社年鑑 1955年版「久保田鉄工」
  • 上場会社総覧(1956年版・1959年版)
  • 株式会社年鑑 1959年版「久保田鉄工」
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
  • 上場会社総覧 昭和31年版
  • 資本異動総覧 1983年版(東洋経済新報社, 1982年11月)

免責事項およびポリシー