1890年2月、久保田権四郎は大阪市南区御蔵跡町に久保田鉄工所を興し、各種鋳物の製造と販売を始めた。選んだ土地は大阪の鋳物工業の発祥地で、1883年に市内へ9つあった鋳物工場のうち6つが南区に集まっていた。権四郎が借りたのは間口2間・奥行4間の長屋である。床を落として仕事場をつくり、足踏みのふいごで風を送るこしき炉を据え、弟子を兼ねる小僧を雇い入れた。向かいには7馬力の蒸気力を使い15人の職工を抱える大谷数太郎の工場があり、権四郎の長屋はその裏手に並んでいた。始めた仕事は、奉公で身につけた看貫鋳物だった。秤の分銅や台は、当時の零細な鋳物業者にひとつのブームを呼んだ仕事である。資本も設備も持たない出発で、元手は奉公先で覚えた鋳造の腕しかなかった。
鋳物屋のままで終わらなかったのは、権四郎が水道用鋳鉄管という官需を早くに狙ったからである。1893年7月、久保田は水道用鋳鉄管の製造を始めた。その頃の久保田は西関谷町で綿繰機械や旋盤、問屋仕事の鋳物を造っていた。大阪砲兵工廠が鉄管の鋳造に着手した1893年頃から、権四郎は将来の膨大な鉄管需要を見越して試作と研究に入っていた。設備は貧弱なままだったが、権四郎は研究を止めなかった。やがて久保田は、水道用に加えて瓦斯用の鋳鉄管も主体の製品に据える。どちらも地中に埋める配管で、買い手は市の水道部と瓦斯会社に限られ、注文は民間の景気ではなく都市の拡張と予算に従った。
日本では鋳鉄管を造れない、というのが当時の通り相場だった。当時の技法だった合わせ型横込法では、単純な円筒形の鉄管でさえ偏肉や錆巣を避けられなかった。日本鋳鉄合資会社は、技術の最高権威者や陸海軍工廠の鋳造経験者、大財閥までを擁して東京で発足したものの、すぐに行き詰まった。これを見て国産鉄管は外国品に及ばないと受け止められ、計画や研究を進めていた者も手を引いていった。権四郎はこの失敗をかえって勇猛心を奮い起こす材料とし、その信念は「外国人に出来ることが、日本人に出来ぬ筈はない」『外国人に出来ることが、日本人に出来ぬ筈はない。』という言葉として社史に伝わる。寝食を忘れて試作を繰り返した末、1900年に丸吹堅込法を発明し、同年中に実施へ移した。外国製に頼ってきた水道管を自前の型で量産する道が、ここで開いた。
初めての自社工場は、借家を借りるのでも古い工場を買い取るのでもなく、鋳鉄管製造を新たに構想して建てられた。久保田は1901年に船出町で工場を建てて鋳鉄管と諸機械の製造販売を始めており、1907年に同じ町で着工したのがその工場である。敷地はもと製材会社が吉野杉の材木を積んでいた置場で、資材と製品の運搬には高津入堀川を通う船を使った。広さは3,800余坪あったが、うち2,200坪は地主の都合で即座には買い取れず、借地とするほかなかった。創業から17年を経て、権四郎は借りた長屋から自前の敷地へ移っている。鋳造法を手にした鋳物屋が次に要したのは、型と炉を並べる床面積と、原料を運び込む水路だった。
1900年の丸吹堅込法は、鋳造法の改良の終点ではなかった。1908年、久保田は鋳鉄管の廻転式鋳造法を考案し、特許を獲得した。1923年には自動製芯機、翌1924年には自動成型機について、それぞれ発明特許を取得している。中子を作る工程と造型の工程を機械へ置き換えたことで、鋳鉄管事業は一段階を画した。設備の拡充も同じ時期に進み、1917年には異形管を造る恩加島工場を新設し、市岡工場では排水管、異形管、一般鋳物の製造を始めた。工場を増やした背景には、鋳鉄管と鋳物の需要増大があった。創業期の鋳造が職人の手と勘に委ねられていたのに対し、機械は同じ型を同じ寸法で繰り返す。
1917年、久保田は関西鉄工の工場を買収し、尼崎工場として発足させた。この工場は日立造船の前身である大阪鉄工所が、1912年7月に鋳鉄管工場として開いたものだった。大阪鉄工所は造船の本業が繁忙になったため工場を子会社の関西鉄工へ譲り、関西鉄工は鉄管製造の不振から身売り話を始めていた。買収に動いた久保田の側には、新たに鉄管工場を設ける計画があった。船出町工場の鉄管鋳造設備と人員は、そのまま尼崎へ移された。この工場は1958年10月の時点でも、530人が働く鉄管の拠点として残っている。新設ではなく買収を選んだのは、鉄管の需要が増えるなかで立ち上げの時間を買うためだった。
後年、当時の幹部だった須山三は「鉄管はこれ以上どうすることも出来ない。伸びるのは機械工場だ」『鉄管はこれ以上どうすることも出来ない。伸びるのは機械工場だ。』と振り返っている。大正初期の不況に欧州大戦による鉄の暴騰が重なって鉄管事業は不振と不如意に苦しみ、久保田は鉄管の立て直しではなく機械製造業への進出を選んだ。1914年には、鋳物事業の発展で機械加工が要ることに着目して船出町工場に機械工場を設け、スチームエンジンなど舶用機械を作り始めた。旋盤を選んだのは、大量に良いものを安く造れば売れる製品を持つという狙いによる。かつて鋳物屋を開いたばかりの頃、水道鉄管の将来を見込んで鋳造の研究に打ち込んだのと、機械への進出は同じ構えから出たものだった。
機械の品目は数年で広がり、1916年には工作機械、節炭機、給炭機、制水弁、一般機械の製造を始め、1918年には鋳型が加わった。1922年には耐熱・耐酸・耐アルカリの鋳物、砲金、軽合金といった各種鋳物へも手を伸ばした。1924年の度量衡法の改正に合わせては、船出町工場で衡機の製造に入った。衡機は秤であり、創業時に権四郎が仕事の口としていた看貫鋳物と同じく、物の重さを量る器具に当たる。1955年の主なる事業内容にも、鋳鉄管や内燃機関、各種機械と並んで衡器が挙がっている。鋳物の受注に頼ってきた会社は、機械工場の新設から10年ほどで、機械を自ら設計して売る側へ回った。
1922年2月、久保田は農工用の小型エンジンである発動機の製造を始めた。1927年には自動給炭機、ディーゼルエンジン、小形舶用発動機の製造に入り、同年2月には隅田川精鉄所を買収して鋳鉄管事業を広げた。この農工用発動機は1937年11月に新設した堺工場で大量生産へ移り、1947年5月に始まる耕うん機の製造へ続いた。1925年に制定した社章は、円の中に鋳鉄管を組み合わせ、中央へ創業者の姓から取った久の字を配したものだった。その円が歯車に変わり、鋳物と機械の久保田を表徴するようになるのは1930年である。創業から40年を経て、久保田は自らの表看板から鋳物一色を降ろした。
1930年12月22日、久保田は2つの株式会社を同時に設立した。一方は水道瓦斯鋳鉄管と各種鋳物を主とする資本金450万円の久保田鉄工所である。もう一方は内燃機、陸舶用機械、製鉄製鋼用機械、制水弁、衡機、工作機械を作る資本金250万円の久保田鉄工所機械部だった。40年続いた個人経営は、鋳物と機械という2つの法人に分かれた。創業者の久保田権四郎は、この2社の初代社長に就いている。両社が合併して1つに戻るのは1937年3月である。設立から30年余を経た1953年の時点でも、本社は船出町に置かれていた。分けて7年、合わせて1つという運びは、機械部門が単独で立つ規模に育つまでの猶予だった。
合併の年、久保田は設備をまとめて買い足した。1937年9月に大同鉄工所を買収して鋳鋼工場とし、10月には欧米各国の新型機械を輸入して堺工場を設けている。同年11月、その堺工場で農工用発動機の大量生産に着手した。翌1938年8月には隅田川精鉄所を合併し、隅田川工場とした。1931年1月には特許アークロ式ディーゼル機関の製造を始めていた。1939年9月には特殊衡機と輸送機が品目に加わる。資本金は設立時の450万円から、1938年8月の隅田川精鉄所の合併時に1,200万円となった。1945年7月までには3回の増資を経て6,030万円に達している。この堺工場での発動機の量産が、戦後に農機へ向かう久保田の基盤になった。
1940年10月、武庫川工場を新設して産業機械事業を広げ、翌1941年10月には遠心力鋳鉄管の鋳造を始めた。1943年3月には特殊鋳鋼品と高硅素鋳鉄鋳物の鋳造に入り、同じ月に神崎工場、1945年7月には布施工場を設けている。その一方で、農用発動機は農機具統制会社による生産統制の下に置かれ、極度の制限を受けた。堺工場は1943年以降ほとんど発動機の生産を止めたまま終戦を迎えた。戦時に設けたこれらの工場は戦後も残った。1958年10月の時点で堺工場には1,018人、武庫川鉄管工場には503人が働いている。工場と品目は戦時のあいだ増え続けたが、軍需から遠い農村向けの製品はその間ほぼ止まっていた。
戦後の食糧難と住宅難で都市の人口が農村へ流れ込み、食糧を自ら作れる農村の側が景気のよさを享受するという逆転が起きて、農家の購買力は急に高まった。農地改革による自作農創設で土地所有権が細分化され、これも農村景気を押し上げた。当時の食糧増産政策の下で農用発動機の需要が爆発的に膨らみ、発動機部門の民需転換が円滑に軌道へ乗る理由の一つとなった。久保田の戦後の生産復興は、この発動機と鋳鉄管の2部門が原動力となって進んだ。1946年3月には、製材機と鉱山用の諸機械の製造にも着手している。統制で戦時に止まっていた製品が、統制の解けた市場でいち早く売れる側に回ったのである。
堺工場が中心機種に据えたのは戦前から実績のある小型石油発動機で、統制で止まっていた生産をこれで立て直した。久保田の発動機は1923年のA型に始まり、改良を重ねて1928年からはF型になっていた。灌漑や脱穀、籾摺りなど定置作業に使う据え置き型の農用発動機は、従来は地主が持ち主となって小作人に貸し出すのが普通だったが、それが自作農自らの所有物となって需要が急増した。買い手の側が、そもそも入れ替わっていたのである。1947年5月には耕うん機の製造に入り、農機へ参入している。歩行しながら土を起こす耕うん機は、据え置きで使ってきた発動機を車体の上へ載せ替えた製品だった。
生産が戻る一方で、資本の側は戦後の制度に合わせた組み直しを迫られた。戦時中に6,030万円だった資本金は、1948年10月に1億3,300万円へ増えていた。1949年3月に企業再建整備計画の認可を受け、同年5月には資本金を2億8,000万円へ増やして新旧勘定を併合した。同じ1949年5月、久保田鉄工所の株式は東京証券取引所と大阪証券取引所に上場した。翌1950年8月には、製品ごとに損益を持つ製品別事業部制を採り入れている。1952年4月には資本金を5億6,000万円へ倍増した。鋳物・鉄管・発動機という性格の違う事業を、製品ごとの採算で見る枠組みがここで入った。
鉄管の造り方と品種は、戦後の10年でもう一度入れ替わった。1950年7月に金型遠心力鋳鉄管の製造を始め、1951年にはクローム鋳鉄管、セメントライニング管、土木建設の各種プラントが加わった。1952年には鋳鋼管とポンプの製造に入り、同年12月には武庫川機械工場でポンプを作り始めた。1954年には石綿パイプとビニルパイプの製造が始まる。1956年4月にはモビルクレーンと運搬用諸機械、1959年12月にはスパイラル鋼管が品目に加わった。工場も増え、1953年3月に鶴町工場、1959年12月に大浜工場を設けている。鋳鉄という素材に縛られていた配管の品揃えが、素材の側から広がった。
1953年6月、社名を久保田鉄工株式会社に改めた。翌翌1954年4月にはビニルパイプ工場を新設し、合成樹脂管の本格的な製造に着手した。1957年11月には久保田建材工業株式会社を設立し、住宅建材事業へ進んでいる。設備と品目の拡張を支えたのは度重なる増資だった。資本金は1952年4月の5億6,000万円から、1953年7月に11億2,000万円、1955年5月に25億2,000万円へ増えた。1957年10月には56億7,000万円に達している。1953年7月の増資は1株につき1株、1955年5月と1957年10月はいずれも1株につき0.5株の割当だった。5年で10倍という増資の速さが、この時期の設備投資の規模を示している。
設備と増資の拡張に、業績のほうもよく追いついた。1953年4月期に81億6,500万円だった年間の売上高は、1958年4月期には267億3,100万円へ伸びている。営業利益も同じ期間に、9億400万円から43億7,100万円へ増えている。もっとも、事業の重心のほうはまだ動いていない。1955年10月期の売上構成は鋳鉄管が36.0%、内燃機が21.0%を占め、耕うん機は6.4%にすぎなかった。1955年10月期には一般鋳物が8.8%、合成部門が6.8%を占めた。1955年当時に40億円へ届かなかった農機の年間出荷高が100億円を超えるのは、1959年度である。
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|---|---|---|---|---|
| 1890〜1929年久保田権四郎の鋳物業から水道用鋳鉄管へ、工作機械・発動機への参入 | 久保田鉄工所を創業 | ★ | ||
| 水道用鋳鉄管の製造を開始 | ★★ | |||
| 工作機械に参入・鋳鉄管生産を尼崎と恩加島に移管 | ★ | |||
| 実用自動車製造を設立・自動車に参入 | ★★ | |||
| 発動機(農工用小型エンジン)の製造を開始 | ★★ | |||
| 隅田川精鉄所を買収 | ★ | |||
| 1930〜1959年久保田鉄工所の設立と農工用発動機の量産、耕うん機参入と戦後の上場 | 久保田鉄工所を設立 | ★ | ||
| 農工用発動機の大量生産を開始 | ★ | |||
| 耕うん機の製造開始・農機に参入 | ★★ | |||
| 東京証券取引所に株式上場 | ★ | |||
| 小田原大造 | 小田原大造氏が社長就任 | ★ | ||
| 小田原大造 | 社名を久保田鉄工に変更 | ★ | ||
| 小田原大造 | 合成樹脂管の製造を開始 | ★ | ||
| 小田原大造 | 住宅建材事業に参入 | ★ | ||
| 小田原大造 | 創業者・久保田権四郎氏が逝去 | ★ | ||
| 1960〜1971年中型トラクターの発売と環境・住宅建材への参入、田植機の量産 | 小田原大造 | 耕うん機から完成機体系への農業機械の組み替え 1960年、久保田鉄工が15馬力の純国産トラクタT15形を発売し、耕うん機と農用発動機の延長にあった農業機械事業を、乗用トラクタ・バインダー・田植機という完成機の体系へ組み替えた経営判断。1961年の農業基本法と構造改善事業が押し上げた機械化需要を受け、1969年の宇都宮工場までに量産の体制を構築した。 詳細を読む | ★★★ | |
| 小田原大造 | 環境事業に参入 | ★ | ||
| 小田原大造 | 産業機械・鋳鋼製品の量産体制を確立 | ★ | ||
| 米田健三 | 住宅建材事業に本格参入 | ★ | ||
| 米田健三 | 田植機・バインダーの量産体制を確立 | ★ | ||
| 1972〜1989年米国クボタトラクターの設立と欧州進出、筑波工場とニューヨーク証券取引所上場 | 広慶太郎 | 欧米向けトラクタの量産を開始 | ★★ | |
| 広慶太郎 | 水田向け小型トラクタを武器とした北米・欧州市場への進出 1972年9月、久保田鉄工が米国にクボタトラクターCorp.を設立し、日本の水田向けに作った25〜30馬力の小型・中型トラクタを北米へ持ち出した経営判断。廣慶太郎社長の主導で、1974年3月にはフランスにも販売会社を設立して西欧に広げ、輸出を軸とする国際戦略へ移った。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 広慶太郎 | ヨーロッパクボタトラクタ販売を設立 | ★ | ||
| 広慶太郎 | 農業用トラクタの専門量産工場として筑波工場を新設 | ★ | ||
| 広慶太郎 | ニューヨーク証券取引所に上場。(2013年7月に同取引所上場廃止。) | ★ | ||
| 広慶太郎 | 外壁材専門工場として鹿島工場を新設 | ★ | ||
| 三野重和 | エンジン専門工場として堺製造所に堺臨海工場を新設 | ★ | ||
| 1990〜2004年クボタへの改称と水道管カルテルの発覚、希望退職と非注力事業の縮小 | 三野重和 | 祖業と関わりの薄い分野へ次々と展開し、単一事業への依存を断つ経営刷新 1990年、久保田鉄工(同年4月にクボタへ商号変更)が、既存事業の周辺ではなく未経験の分野へ飛び込む"落下傘型"の多角化を掲げ、コンピューター事業を第3の柱に育てようとした経営判断。三野重和社長の主導で、社名・シンボルマークの一新と社内の意識改革をあわせて進めた。 詳細を読む | ★★★ | |
| 三井康平 | 子会社を解散 | ★ | ||
| 三井康平 | 約30年来の水道管カルテルが発覚 | ★★ | ||
| 三井康平 | 希望退職者を募集 | ★ | ||
| 幡掛大輔 | 非注力事業を分離縮小 | ★ | ||
| 2005〜2026年アスベスト問題への対応とKverneland・Escortsの買収による海外農機の拡大 | 幡掛大輔 | シーアイ化成との合成樹脂管事業統合によりクボタシーアイを設立 | ★ | |
| 幡掛大輔 | 疾病の自主公表と、周辺住民への見舞金・救済金の支払い 2005年6月、クボタが旧神崎工場(兵庫県尼崎市)の周辺住民に石綿疾病の患者がいることを公表し、一定の基準に基づく見舞金(弔慰金)の支払いを決めて開始した経営判断。あわせて社員78人が石綿を原因に死亡し15人が療養中であることを明らかにし、中皮腫を発症した住民3人へ1人200万円を支払うと言明した。 幡掛大輔社長の下で、因果関係も法的責任も確定しない段階での支払いに踏み込んだことになる。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 幡掛大輔 | 立ち入り調査が相次ぐ | ★ | ||
| 幡掛大輔 | サイアムクボタトラクター Co.,Ltd.を設立 | ★ | ||
| 益本康男 | ノルウェーKverneland ASAを買収 | ★★ | ||
| 益本康男 | クボタファームマシナリーヨーロッパ S.A.S.を設立 | ★ | ||
| 木股昌俊 | GPを買収 | ★ | ||
| 木股昌俊 | 基幹システムの刷新開始 | ★ | ||
| 北尾裕一 | インド農機大手への1,950億円の出資と議決権44.8%の取得 2021年11月18日、クボタがインドのトラクタメーカー Escorts Limited による第三者割当増資の引受けに関する契約を締結し、2022年4月11日に現金を対価として株式を追加取得して議決権の44.8%を握り、連結子会社とした経営判断。取得対価は1,950億円で、現金1,237億円と取得日直前に保有していた資本持分713億円の合計である。 北尾裕一社長の下で決めたクボタ最大の買収で、同社は2022年6月にエスコーツクボタLtd.へ社名を変更した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 北尾裕一 | グローバル技術研究所を新設 | ★ |
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事実根拠:出所(クボタ)