歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1890年、明治期の都市化で水道インフラの需要が膨らむなか、19歳の久保田権四郎氏が大阪で鋳物屋を開いた。当時の鋳鉄管は輸入品に頼り国産技術がなく、権四郎氏は7年を費やして1897年に独自の鋳造法を組み上げ、量産技術を国内で初めて手にした。1910年代には官公庁向け水道管で国内シェア6割を握り、戦前の都市の地下を支える独占的なメーカーへ育った。
決断祖業の鋳造と機械加工の蓄積を、1947年に発動機設備を耕うん機へ転用して農機に向け、1957年刈取機、1960年中型トラクタへ広げ、1961年農業基本法による稲作機械化の波を全国の農協網で受け止めた。国内の代替期到来を読んだ廣慶太郎社長は1972年に米国へ進出し、大手が握る100馬力超を避けて20〜40馬力のコンパクトトラクタで家庭農園・ヴィンヤード向けという独自のニッチに食い込み、農機を海外で伸ばす事業へ育てた。
決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く
- Q なぜ1900年前後のクボタは、大企業も失敗した鋳鉄管の国産化を町工場の身で成し遂げられたのか
- A 水道インフラに欠かせない鋳鉄管は需要が確実でありながら、当時は輸入に依存して国産の量産技術が空白だった。技術の粋を集めた日本鋳鉄合資会社さえ国産化に挑んで破綻し、世間が不可能と見限ったその空白地帯に、久保田権四郎は逆に商機を見た。零細な鋳物屋ゆえに失う設備も小さく、寝食を忘れる試作を長く続けられたことが、1900年の丸吹堅込法による量産技術の確立につながった。これにより、1910年代には国内シェア6割を握る独占的な地位を築いた。
- Q なぜ1972年にクボタは、国内で農機トップに立ちながら米国市場の開拓へ動いたのか
- A 国内の農機需要は1961年の農業基本法を機に急拡大したが、1971年から本格化した減反政策で頭打ちとなり、買い替え中心の成熟段階に入った。国内に依存し続ければ成長は止まると見たクボタは、稲作で磨いた小型・軽量のトラクタを武器に海外へ向かう。米国で主流の100馬力超ではなく20〜40馬力帯で、農業大手の手薄な家庭農園やヴィンヤード向けという空白から1972年に北米へ参入し、ジョンディアら米国大手との正面対決を避けて足場を築いた。
- Q なぜ2024年前後にクボタは、量の追求から資本効率重視へと経営の方針を転換したのか
- A 北米のコンパクトトラクタ市場でパンデミック期の特需を「量ありき」で取り込んだ結果、資本効率を悪化させたという反省が社内にあった。北尾裕一社長はすべての市場や製品でシェアを追う運営を改め、メリハリをつけた重点指向と、ROICを経営指標として全社に徹底する方針へ転換する。あわせて2019年からは長年立ち遅れていた基幹システムの刷新に着手し、世界で競合と対等に戦うための経営基盤を整え直した。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1890年〜1971年 鋳鉄管の国産化から農機事業の確立に至る多角化
輸入依存を独力で覆した鋳鉄管の国産化
1890年、明治期の急速な都市化で水道インフラの需要が膨らむなか、19歳の久保田権四郎は大阪・南区御蔵跡町で鋳物屋を開き[1]、看貫(はかり)の鋳物などを手がける零細な町工場から出発した。権四郎が早くから狙いを定めたのは、需要が見込まれながら国内に量産技術がなく輸入に依存していた水道用の鋳鉄管である。鋳鉄管は明治期の上水道整備に欠かせない部材でありながら、その製造を外国品に頼り切っていた。技術の粋を集めて東京で発足した日本鋳鉄合資会社さえ国産化に挑んで破綻し[2]、世間が日本では不可能と見限った事業だったが、権四郎はその研究を断念するどころか、かえって発奮して貧弱な設備のまま試作を重ねた。
1893年に水道用鋳鉄管の製造を始めたものの[3]、当時の合わせ型横込法では偏肉や巣といった鋳造欠陥を避けられず、量産には程遠かった。寝食を忘れる試作の末、権四郎は1900年に独自の丸吹堅込法を発明し、国産鋳鉄管の量産技術を日本で初めて確立する[4]。円筒形ながら欠陥を抑え込むこの技法は、当時の鋳鉄管製造にとって劃期的なものだった。1907年には借家でも中古設備でもない初の自社工場として大阪に船出町工場の建設へ着手し[5]、量産体制を本格的に整えていった。その後も鋳造法の改良は続き、1908年には鋳鉄管の廻転式鋳造法を考案して特許を獲得[6]、さらに1923年に自動製心機、1924年に自動成型機の発明特許を相次いで取得して、鋳鉄管事業の発展に一段階を画した[7]。官公庁向けの水道管メーカーとして評価を高めたクボタは、1910年代には国内シェア6割規模を握る独占的な鋳鉄管メーカーへと育った。
外国人に出来ることが、日本人に出来ぬ筈はない。
鋳鉄管不況下で開いた機械と発動機の事業
大正期に入ると、水道普及の一巡と第一次世界大戦による銑鉄価格の高騰が重なり、鋳鉄管事業は不振に陥った。機械加工への足がかりは早く、すでに1914年には船出町工場に機械工場を新設してスチームエンジンなどの舶用機械の製造に着手していた[8]。これを土台に権四郎は逸早く機械製造業への進出を決断し、大量に良いものを安く作れる製品として旋盤を選んで工作機械に参入し、海軍の呉工廠などへ納入した[9]。1917年には船出町工場での機械と鋳鉄管の併用生産を停止し、新設の尼崎工場と恩加島工場を鋳鉄管専門、船出町工場を機械専門とする生産体系の転換を断行する[10]。1919年には実用自動車製造を設立して三輪・四輪車の生産にも挑んだが[11]、品質や市場で成功を得られずに撤退し、自社の強みが鋳造と素材加工にあることを確かめる結果となった。
機械事業と並んで、1922年には農工用の小型エンジンである発動機の製造を始めた[12]。1923年のA型から改良を重ねた発動機は、1937年新設の堺工場で大量生産に乗る[13]。戦時中に発動機の量産設備と技術を蓄えたクボタは、1947年にこれを民需用の耕うん機へ転用する形で農機分野へ参入した[14]。戦後の食糧難と農地改革による自作農の創設は農村の購買力を一気に押し上げ[15]、灌漑や脱穀に使う農用発動機の需要を爆発させる。祖業以来の鋳造と機械加工の蓄積が農機製造の土台となり、クボタは参入初期から品質で農家の信頼を得る農機メーカーへと育っていった。
鉄管はこれ以上どうすることも出来ない。伸びるのは機械工場だ。何がよかろうとなると、大量に、良いものを、廉く造れば売れるから、そういうものを求めたい、という方針でした。それで、旋盤がよかろう、というのでやったわけです。
構造改善事業が押し上げた農機の主力事業化
1961年の農業基本法とそれに続く構造改善事業は、圃場整備と高性能農業機械の導入を一体で進め[16]、国内農業の機械化を一気に加速させた。この波をクボタは全国の農協網を活かした販路で受け止め、農機の年間出荷高は1960年前後の40億円未満から1965年には145億円へ急増する[17]。同年下期には農機が全社出荷高の34.2%を占め、祖業のパイプ部門の32.9%を初めて上回って名実ともに主力事業となり[18]、出荷高はその後も伸びて1969年度には700億円を超えた。鋳鉄管と農機の二本柱という事業構造が、ここに形を取った。この時期の久保田鉄工は全社売上で1968年4月期に632億円を計上する規模に達し、1967年には申告所得105億3900万円で国税庁の申告所得ベスト50の31位に名を連ねる優良成長会社となっていた[19]。
製品ラインも稲作の全工程へ広がった。1957年の刈取機、1960年の純国産トラクタT15形を皮切りに[20]、人力の15倍の能率を持つ自動結束式バインダーHC75形を1966年に、刈取りと脱穀を一台でこなす自脱形コンバインや「ばらまき育苗」方式の土付苗田植機を相次いで送り出し[21]、1969年新設の宇都宮工場で田植機とバインダーの量産体制を整えた[22]。販路の面でも、1961年に農機販売会社の第一号として旭川クボタを設立して流通網を再編し、1963年のイタリア・フィアットとの提携や1968年からの米国市場開拓[23]で、海外展開の足場も築き始める。
急成長は長くは続かなかった。米の過剰在庫を背景に1971年から本格化した減反政策は農家の購買意欲を冷やし[24]、それまで膨張を続けてきた農機需要を急速に抑え込んだ。農機の全国総出荷額は1970年に頭打ちとなり、翌年には前年割れに転じる。クボタは実演販売のMSK作戦やセールスコンクール、見込客管理システムの導入といった販売対策で不振期をしのいだものの[25]、国内市場が買い替え中心の成熟段階に入ったことは明らかだった。国内に依存する限り成長は頭打ちになるという認識が、次の時代の海外市場開拓へとクボタを押し出していく。
1972年〜2011年 海外農機市場の開拓と度重なる経営危機の連鎖
廣慶太郎社長が決断した北米・欧州への農機輸出転換
国内の稲作機械化がほぼ完了したと判断した廣慶太郎社長は、「遅くとも5年先には代替需要の時期がくる」との強い危機感を経営会議で繰り返し表明し、国内市場への依存から脱却して主力を海外市場の開拓に移す戦略的な決断を下した。1972年に米国へクボタトラクターCorp.を正式に設立して米国市場への進出を開始し[26]、1974年には日本式の小型トラクタで北米のコンパクトトラクタ分野に参入する独自の市場ポジションを築く戦略を採用した。米国で主流であった100馬力超の農業向けトラクタとは差別化した40〜100馬力帯の中型トラクタ及び20〜40馬力帯のコンパクトトラクタを狙い、農業市場ではなく家庭農園やヴィンヤード向けという独自ニッチから参入し、ジョンディアなど米国大手との正面対決を避けつつ市場を切り拓いた[27]。
欧州市場への本格進出も1970年代から進められ、フランス・ドイツ・イタリアといった主要国でコンパクトトラクタの販売を伸ばし[28]、米国で築いた「日本式の小型トラクタ」というブランドイメージを欧州でも活用する戦略が一定の成功を収めていった。海外市場開拓の成功は国内依存から脱却する企業体質の転換を実現し、クボタは1980年代から1990年代にかけて売上規模を拡大させていった。一方で鋳鉄管事業は国内水道インフラ整備の一段落のなかで成長性が鈍り、長年続けられてきた業界内の価格カルテル構造が水面下で維持される構造的な問題を抱え込んだまま、公正取引委員会による本格的な調査という運命の日を待つ状態となっていた。
鉄管カルテル摘発とアスベスト問題が迫った経営刷新
1999年2月に公正取引委員会は約30年にわたって続いてきた鋳鉄管業界のヤミカルテルを認定し[29]、クボタ・栗本鐵工所・日本鋳鉄管の3社を刑事告発するという[30]戦後日本の産業史に残る重大な処分を断行した。当時の国内鋳鉄管市場規模は約1150億円であり、そのうちクボタが63%・栗本が27%・日本鋳鉄管が9%というシェア構造を占めていたなかで[31]、長年にわたる価格協定と受注調整という独占的な市場支配が認定された。祖業の鋳鉄管事業に対する社会的な信頼が損なわれるという衝撃的な事態を受けて経営トップの交代が行われ、クボタはコンプライアンス体制の抜本的な再構築を迫られるという厳しい改革の時代を迎えることとなった。
さらに2005年6月にはクボタ神崎工場(兵庫県尼崎市)の周辺住民に石綿関連疾患が多発している問題が報道され[32]、クボタは2001年にアスベスト製品の製造を停止していたが[33]、周辺住民の被害者に対する救済金として2006年3月期に33億円を計上する対応に踏み切り[34]、石綿問題は経営の負担となっていった。鉄管カルテルとアスベスト問題という二度にわたる深刻な経営危機の連続を通じて、クボタは社会的信頼を修復する長い道のりを歩むこととなり、同時に祖業の鋳鉄管事業の位置づけを相対的に縮小させて農機事業を企業の中核に据え直す事業構造の再編を進めていき、2011年頃までに農機事業が売上の過半を占める企業体質への転換を成し遂げた。
2012年〜2023年 グローバル農機メーカーへの飛躍と経営基盤の刷新
欧州M&Aとインド市場攻略でつかんだ世界展開の足場
2012年3月にクボタはノルウェーの老舗農機インプルメントメーカーKverneland ASAを約181億円で買収し[35][36]、欧州市場における製品ラインナップを強化する戦略的な一手を打ち出すこととなった。1879年創業でオスロ証券取引所に上場していたKvernelandは[37]プラウやハローといったトラクタ後部に装着するインプルメント分野に強みを持ち[38]、クボタのトラクタ本体と組み合わせることで欧州の農業ユーザーに対してトラクタからインプルメントまでの一貫ソリューションを提供できる戦略的な組み合わせとして高く評価された。欧州農業市場では既にAGCOやCNH Industrialといった大手メーカーが主要なインプルメントも含めて取り扱っており、クボタはM&Aによる時間短縮という手法で競争環境における不利を覆す経営判断を下した。
2008年にインドに現地法人を設立して事業を開始していたクボタは、軽量で操作性のよいコンパクトなトラクタで南部の稲作市場から浸透を図る戦略を採用していたが、インドでは伝統的にトラクタを荷物の牽引機として使用する文化が根強く、クボタの小型製品は牽引力を重視するインドのニーズに応えることが難しい局面に直面した。この認識のもとクボタは2022年にインド大手のEscortsを買収してブランドと販売網を一括取得する戦略的な投資を決断し[39]、インド市場における存在感を短期間で飛躍的に高めた。インドで進むGlobal Innovative Tractorプロジェクトは後の北米向けコンパクトトラクタの次世代プラットフォーム基盤としても構想され、新興国を先進国市場の製造拠点として活用する長期戦略が姿を現し始めた。
基幹システム刷新と資本効率重視への経営転換
クボタは社内の6つの事業領域それぞれで異なる基幹システムを個別に運用しているという非効率な状況に長年直面しており、社内では主要競合のコマツに対して「IT基盤で20年遅れている」との認識が広く共有されてきた。こうした認識のもとで北尾裕一社長体制は2019年12月から2026年12月までの7ヵ年という長期にわたる基幹システム刷新プロジェクト「K-RISE」を本格始動させ、全社共通のERPと業務プロセス標準化への転換という戦略的で大掛かりな投資を実行していく方針を示した。基幹システムの刷新は投資額が数百億円規模に達する負担であったが、クボタが世界市場で競合各社と対等に戦うための経営基盤の再構築としては避けて通れない必須の投資と経営陣は判断していた。
2023年までのクボタは連結売上高3兆円規模・営業利益3000億円規模という大企業として成長を続けており、北米・欧州・アジアの各地域で堅実な業績を残していたが、北米コンパクトトラクタ市場でパンデミック期の特需的な需要増加を取り込む際に「量ありき」の運営を続けた結果として資本効率を悪化させた反省が社内で意識されていった[41]。北尾社長は決算説明会でこの反省を率直に認め、全ての市場や製品でシェアを追い求めるのではなくメリハリをつけた重点指向の事業運営へと転換する方針を繰り返し表明し、ROICを経営指標として全社的に徹底する準備が進められた[40]。2024年以降の資本効率重視への経営モデル転換は、この2023年までの反省から引き継がれていくこととなった。