群馬県を中心にロードサイド向けの小売業を展開する土屋嘉雄(ベイシアグループの創業者)は、作業着というニッチな分野に進出するために「ワークマン」という業態を開発し、小売業を展開していた「いせや」の1店舗として開業した。
開発の経緯は、関西において人気の作業着ショップがあることを、土屋嘉雄氏が知り、有望な市場だと判断したことにあった。
群馬県を中心にロードサイド向けの小売業を展開する土屋嘉雄(ベイシアグループの創業者)は、作業着というニッチな分野に進出するために「ワークマン」という業態を開発し、小売業を展開していた「いせや」の1店舗として開業した。
開発の経緯は、関西において人気の作業着ショップがあることを、土屋嘉雄氏が知り、有望な市場だと判断したことにあった。
作業着のロードサイド店舗をフランチャイズによって本格展開するために、1982年に株式会社ワークマンを設立した。
別の意図としては、ベイシアグループにおける経営者の育成のために、ワークマンを子会社として設立したという事情もあった。
会社設立と同時に作業着向けの物流センターを新設し、まずは群馬県を中心とした北関東における店舗展開を開始した。
なお、当時から「しない経営」を志向しており、徹底したマニュアル化・標準化によって、FCを誰がやっても儲かるような仕組みを作り上げていたという。
これらの組織文化は、作業着のロードサイド店舗というニッチな市場において、強力な競合会社が存在せず、職人の指名買いが多い市場特性が背景にあって、実現できたものでもあった。
北関東における店舗展開を順調に推し進め、1988年に100店舗体制となった。なお、加盟店募集にあたっては、ラジオやテレビでCMを放映することで、認知度向上を図った。
群馬県でのドミナント出店を終え、1988年に東京本部を新設するとともに、新潟地区本部・長野地区本部・栃木地区本部を新設。翌1989年には、茨城地区本部・南東北地区本部(仙台市)を新設し、東日本におけるチェーン出店を強化した
株式を店頭登録へ。1997年時点でFC193店舗、直営103(うち業務委託90)店舗の体制。作業着の国内市場規模700億円に対して、全国展開をするのはワークマン1社のみで「ライバル企業は存在しない」(1997/12野田経済)とも言われた。
経営方針の面では山根定美氏(ワークマン当時社長)は「13年後の2010年までに全国に1300店舗を展開しナショナルチェーンとしての体制を目指したい」(1997/11証券アナリストジャーナル)と公表し、着実に出典を増やす方針を掲げた。
1990年代を通じて東北地区・中部地区・関西地区に進出し、ワークマンの店舗数国内で200店を突破した。
ワークマンは2004年にジャスダックに株式を上場した。
だが、上場後も筆頭株主はベイシア系の「ベイシア興業」であり、上位株主はベイシアの創業家である「土屋家」により占められており、ワークマンの資本政策に大きな課題を残す株式上場となった。
このため、ワークマンは株式の流動性が低い状態が続き、2021年時点でも、株主の70%以上がベイシアないし土屋家関係者によって占められており、資本政策に課題が多い。
現在に至るまで、機関投資家にとっては投資対象になりにくい状況が続いており、同社の企業価値の算出が難しい要因になっている。
2000年代を通じて西日本地区などの国内の未進出区域に出店し、2009年にワークマンの店舗数は200店を突破した。
その一方で、徐々に国内の出店余地が少なくなり、ワークマンの展開だけで増収を重ねることが難しくなると予想され、経営の課題となった。
九州での店舗展開を強化。ワークマンの業態開発から、約20年を経て全国出店をほぼ完了させた
データ分析を通じて、ワークマンはアパレル業界のうちで「高機能かつ低価格」という市場が4000億円であり、空白地帯であると判断した。そこで、2019年から新業態の「Workman Plus」の展開を開始し、従来の職人向けではなく、一般商品者向けに作業着の販売を開始した。
2019年から2020年を通じて、アパレルの流行が「カジュアル路線」に傾斜し、スニーカーなどがブームになったことを受けて、ワークマンの「作業着」が新しいファションとして歓迎された。このため、ファッショントレンドに即した一時的なブームではあるものの、ワークマンは大幅な増収を達成した。
この結果、ワークマンは増収を達成し、2021年3月期には売上高1466億円に対して、当期純利益170億円という高収益を持続している。
現在、ワークマンは「データ活用」の成功事例として、さまざまな経済メディアで注目され、急成長企業として注目を集めている。