アマノ の歴史

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創業 1945年
創業者 天野修一
創業地 神奈川県横浜市
創業 1931年11月、天野修一氏が東京・蒲田に資金3,000円・従業員4名で個人会社
1931年11月、天野修一氏が東京・蒲田に資金3,000円・従業員4名で個人会社の天野製作所を創業した。海軍技師として原価計算のため英国製タイムスタンプを購入した経験から時間記録機器に着想し、ゼンマイ式が主流だった時代にワーレンモーターで動く電気式の国産タイムレコーダー第1号機を完成させた。1932年5月に特許を出願し、第1号機は東京瓦斯電気へ納入している。1939年には海軍の求めで横浜・菊名へ主力を移し、資本金19万9,800円で株式会社天野製作所を設立した。戦後の1945年11月、横浜でタイムレコーダーを製造する横浜機器が改めて設立され、1956年10月の天野特殊機械の吸収合併を経て、1966年6月に商号をアマノへ改めている。
決断 新しい事業は起こさず、すでに持つ3つの事業の中身を取得で足してきた。1931年の
新しい事業は起こさず、すでに持つ3つの事業の中身を取得で足してきた。1931年のタイムレコーダーに続き、1951年4月に工業用真空掃除機の研究と製造を開始し、1967年には国産第1号の駐車券発行機パーキングマスターを出して、創業から36年で時間管理・環境機器・駐車場の3事業がそろった。1968年6月にはコンピューター就業管理システムのアレコデータを発売し、打刻機を売る会社から打刻した時刻を計算する仕組みを売る会社へ商品の性格を変えている。以後の拡大は買収で進めた。1990年3月から米パイオニア エクリプスと米シンシナティ タイムを続けて買収し、1996年に米アキュタイム、2008年1月に仏ホロクオルツを取得し、2023年以降も英ハイヤー テクニシャンズ、韓国ウェイトゥーテックを続けて買収した。3事業の枠を動かさなかったことが、取得した会社をそのまま既存の事業へ組み入れる形を保った。
現況 祖業のタイムレコーダーは売上の1.3%で、現在の収益源は駐車場設備である。202
祖業のタイムレコーダーは売上の1.3%で、現在の収益源は駐車場設備である。2026年3月期の連結売上高1,764億円は、時間情報システム事業1,369億円と環境関連システム事業395億円に分かれるが、商品別ではパーキングシステムが構成比52.7%を占める。営業利益225億円、純利益201億円はいずれも過去最高で、地域別では日本917億円に対し海外が847億円、うち韓国284億円、米国232億円が続く。この構成は2002年10月にオムロンから駐車場設備事業の営業権を譲り受けたことで動き出し、2007年4月にはオムロンティー・エー・エスの駐車場・駐輪場機器販売事業も譲り受けた。時刻を数えて金額に換算する同じ仕組みを転用できたことが、主力商品の入れ替わりを事業の作り直しなしに済ませた。
競合 駐車場では、機器を売る側に残るか運営する側へ回るかで道が分かれた。アマノは196
駐車場では、機器を売る側に残るか運営する側へ回るかで道が分かれた。アマノは1967年の駐車券発行機パーキングマスター以来、一貫して設備を作って売る側にいる。同じ駐車場機器の販売代理店から出発したパーク24は、1991年に無人時間貸駐車場タイムズの運営へ転換し、機器を購入する側へ回った。運営事業者が増えることはアマノの顧客が増えることでもあり、2002年の営業権譲受で広げた販売網と顧客基盤が、国内で上位の位置を支える。他方、祖業の時間管理機器はリモートワークの広がりで需要の性格が変わり、時間情報システム事業の利益は2020年3月期の157億円から翌期に97億円へ減少した。設備を売り切る側に残ったことが、駐車場の運営がどこの手に渡っても更新需要を受け取れる位置を確保した。
長期業績の推移 1950〜2026年
アマノ:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2026年3月期

第1章 1931年〜 個人会社天野製作所の創業と国産タイムレコーダーの誕生

筆者考察y.sugiura, author

天野修一氏が国産タイムレコーダーへ向かったのは、機械を作りたかったからではなく、作業時間を金額へ換算する手立てが海軍工廠になかったからである。予算を年度末に使い切らなければ翌年度を削られる慣行を不合理と考えた工務係長が、工程ごとの所要時間を計るために英国製のタイムスタンプを買い、それがすぐ壊れた。壊れない機械をつくるという条件から電気式という方式が選ばれ、1931年に資金3,000円・従業員4名の町工場が蒲田に置かれた。輸入品しかない市場へ国産で入るという判断は、恐慌下の商工省が国産品奨励を国策に掲げていた時機と重なり、1933年には国産優良品の推薦を受けている。

ところが、この会社を早く育てた条件が、そのまま主力製品を奪う条件にもなった。呉・舞鶴・門司と並んだ代理店はほとんどが海軍工廠の所在地にあり、需要の大半は軍関係だった。海軍から雷道計の開発を求められれば資本金の半分にあたる5万円を投じ、機密を民需品と分けよと言われれば菊名に専門工場を建てる。1944年に軍需会社の指定を受けたとき、創立以来13年つくり続けたタイムレコーダーとタイムスタンプの製造は止まった。従業員は4名から1,195名へ膨らんでいたが、その約500名は徴用工と学徒動員と女子挺身隊であり、残ったのは民生用の事業ではなく軍需の器であった。

天野製作所の従業員数 1931年〜1944年(名)

4 1931 34 1937 118 1939 207 1941 592 1942 1,195 1944
  • 1931年は個人会社天野製作所、1939年以降は株式会社天野製作所の人員。
  • 出所はアマノ50年史(アマノ、1982年)。

1931年〜原価計算の宿題から生まれた電気式タイムレコーダー

海軍の予算消化を疑い原価計算へ踏み込む

天野修一氏は、海軍技師として工廠の原価管理に行き当たったところからタイムレコーダーへ入った人物である。海軍技師として過ごした歳月は、およそ15年に及ぶ。1890年6月15日に三重県鈴鹿郡石薬師村に生まれ、大阪高等工業学校機械科の在学中に海軍委託学生となって、1909年の卒業後に技師として海軍に入った。大正初年に工務係長となると、年度末に予算を使い切らなければ翌年度分が減らされる慣行に疑問を持ち、工場庫での材料の中央管理と、工程別の所要時間を金額へ置き換える方式を試した。所要時間を測る道具として英国製のタイムスタンプを取り寄せたものの、すぐに故障したこれを改良するという着想は、退官するまで宿題として持ち越された。

  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
    • [1]天野修一は1890年6月15日に三重県鈴鹿郡石薬師村で生まれ、大阪高等工業学校機械科の在学中に海軍委託学生となり、1909年の卒業後に海軍技師として約15年在籍した
    • [2]海軍工廠の工務係長時代に年度末の予算消化の慣行を不合理と考え、材料の中央管理と工程ごとの作業所要時間の金額換算を行った
    • [3]作業時間の計測のため英国からタイムスタンプを購入したが、使うとすぐ壊れた
壊れない機械という条件から電気式を選ぶ

天野氏が海軍を退いたのは1925年6月で、民間への転出を勧める上官と衝突したうえでの退官であった。1928年からは神奈川県藤沢の東京螺子製作所で工場長に就き、山梨高等工業学校でも精密機械講座を担当した。その前には名古屋の浅野木工場の技師長を1年足らずで辞め、岩手県宮古に設立した東洋ベニアも14ヵ月で閉じている。同じ時期には鉄道省の車輌改善委員嘱託として三等寝台制度を提案し、商工省合理局の嘱託としてJISの前身にあたる規格の制定委員にも加わった。螺子工場の現場に接するうちに海軍時代の原価計算への関心がよみがえり、故障しない機械なら将来の役に立つとの考えから、ナンバリングとワーレンモーターの時計をマグネットでつなぐ電気式を構想した

  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
    • [4]天野修一は1925年6月に海軍を退官した。民間企業への転出を勧める上官と衝突した末の退官であった
    • [5]退官後は名古屋の浅野木工場の技師長、岩手県宮古の東洋ベニア設立を経て、1928年から東京螺子製作所(神奈川県藤沢)の工場長を務め、山梨高等工業学校で精密機械講座の講師も務めた
    • [6]1925年に鉄道省車輌改善委員嘱託として三等寝台制度を提案し、1928年に商工省合理局嘱託としてJESの制定委員を務めた
    • [7]壊れない機械をつくるという発想から、ナンバリングとワーレンモーター使用の時計をマグネットで連結する電気式タイムレコーダーを構想した
資金3,000円を三つに割って冒険に踏み切る

天野氏が自ら経営を引き受けたのは、設計を譲った相手が立ち行かなくなったからであった。知人の牧師を介して東京・大崎で工場を営む人物へ設計を渡したところ、工員がいないというので東京螺子時代の工員を集めて補い、資金がないというので3,000円を貸したが、その金は生活費と借金返済で消えてしまった。世話をした工員への責任から、1931年11月、東京市蒲田区南六郷に敷地100坪・建物50坪の町工場を構え、資金3,000円・従業員4名で個人会社天野製作所を興した。当時のタイムレコーダーは輸入品ばかりで国産化は一種の冒険であったため、天野氏は3,000円を設備・給与・予備へ1,000円ずつ割り、以後も社員を1名採るたびに1,000円を積み立てた

  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
    • [8]知人を介して東京・大崎の工場主へタイムレコーダーの設計を譲り、工員の補充と3,000円の貸与まで行ったが資金が費消され、天野修一自身が経営を引き受けた
    • [10]設立資金3,000円を設備資金・給与・予備に1,000円ずつ割り当て、以後も社員1名の採用ごとに1,000円を積み立てた
  • 株式会社年鑑 1963年版(天野特殊機械)
    • [9]1931年11月、東京市蒲田区南六郷に敷地100坪・建物50坪の工場を構え、資金3,000円・従業員4名で個人会社天野製作所を創立した
参考文献[1]-[10]
  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
    • [1]天野修一は1890年6月15日に三重県鈴鹿郡石薬師村で生まれ、大阪高等工業学校機械科の在学中に海軍委託学生となり、1909年の卒業後に海軍技師として約15年在籍した
    • [2]海軍工廠の工務係長時代に年度末の予算消化の慣行を不合理と考え、材料の中央管理と工程ごとの作業所要時間の金額換算を行った
    • [3]作業時間の計測のため英国からタイムスタンプを購入したが、使うとすぐ壊れた
    • [4]天野修一は1925年6月に海軍を退官した。民間企業への転出を勧める上官と衝突した末の退官であった
    • [5]退官後は名古屋の浅野木工場の技師長、岩手県宮古の東洋ベニア設立を経て、1928年から東京螺子製作所(神奈川県藤沢)の工場長を務め、山梨高等工業学校で精密機械講座の講師も務めた
    • [6]1925年に鉄道省車輌改善委員嘱託として三等寝台制度を提案し、1928年に商工省合理局嘱託としてJESの制定委員を務めた
    • [7]壊れない機械をつくるという発想から、ナンバリングとワーレンモーター使用の時計をマグネットで連結する電気式タイムレコーダーを構想した
    • [8]知人を介して東京・大崎の工場主へタイムレコーダーの設計を譲り、工員の補充と3,000円の貸与まで行ったが資金が費消され、天野修一自身が経営を引き受けた
    • [10]設立資金3,000円を設備資金・給与・予備に1,000円ずつ割り当て、以後も社員1名の採用ごとに1,000円を積み立てた
  • 株式会社年鑑 1963年版(天野特殊機械)
    • [9]1931年11月、東京市蒲田区南六郷に敷地100坪・建物50坪の工場を構え、資金3,000円・従業員4名で個人会社天野製作所を創立した

1932年〜商工省の国産奨励と海軍工廠の町に張った代理店網

試作を壊しながら第1号機を仕上げる

ゼンマイ仕掛けの時計部と機械式の印字部を備えた従来のタイムレコーダーと違い、天野方式はワーレンモーターの電気で動くため、カードを差し込むと強い力がかかって紙が裂け、時計と活字の連動も安定しなかった。天野氏は山田市作氏らと1ヵ月以上工場に泊まり込み、仕上がりかけた試作品をハンマーで壊したことも幾度もあった。出来上がった第1号機は、部品を集めて組むだけの機械ではなく作動方式から替えた製品で、タイムスタンプに出退時刻を記すカードの差込口を付けていた。1932年5月2日に特許を出願し、東京瓦斯電気へ納めた試作機は高く評価され、本生産では16台を1台280円で売った

  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
    • [11]従来のタイムレコーダーは時計部がゼンマイ式で印字部も機械式だったが、天野方式はワーレンモーターの電気で作動するため、カードの破損や時計と活字の連動不良が生じた
    • [12]山田市作ら数名とともに1ヵ月以上工場に泊まり込んで試作し、ほとんど完成した試作品を壊すことも一度や二度ではなかった
    • [13]1932年5月2日に特許を出願し、国産第1号機の試作品を東京瓦斯電気(現いすゞ自動車)へ納入して高い評価を得た
    • [14]東京瓦斯電気への納入後、1台280円で16台の本生産に入った
国産奨励の風に乗って輸入品を押し返す

国産化の時機は、天野製作所が選んだというより当時の政策が用意したものであった。当時のタイムレコーダーは、黒沢商会などがドイツのイスガス製や米インターナショナルタイムレコーダー製を輸入して扱っていたが、使っていたのはごく一部にとどまった。世の中では1927年の金融恐慌、1929年からの世界恐慌が続き、浜口内閣が臨時産業審議会を置いて企業の統制や能率の向上と並べて国産品を使うよう国民運動として訴えるなど、官も民も国産を口にしていた。そうしたなか国産第1号機の完成を知った商工省は、1932年11月、国産品の奨励と輸入を防ぐという国の方針にかなうとして製作を急ぐよう求めた。翌1933年8月に完成品が出されると、国産優良品として推薦している

  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
    • [15]日本では明治40年ごろから黒沢商会や小林捨次郎商店がドイツ・イスガス製や米インターナショナルタイムレコーダー製のタイムレコーダーを輸入販売していたが、これらの輸入品はごく一部で使用されていたにすぎなかった
    • [16]1927年の金融恐慌と1929年の世界恐慌を背景に、浜口内閣は臨時産業審議会を設け、企業統制・能率増進・産業金融の改善とともに国産品愛用を国民運動として呼びかけた
    • [17]商工省は1932年11月に個人会社天野製作所へ国産品奨励・輸入防止の国策に合致するとして製作を急ぐよう伝え、1933年8月に提出された完成品を国産優良品として推薦した
海軍工廠の町ごとに代理店を置く

販路は、葉書1枚から作られた。天野氏は大阪方面へタイムレコーダーができたと書いた葉書を300枚出したが返事は2件で、機械2台とカードラックをかついで汽車に乗り、着いた先では次の機会にと言われて雨の中を歩いて帰ったという。1934年に大阪で巽商事と代理店契約を結び、1936年にはこれを解いて、支店設置の最初となる大阪販売所を自ら置いた。続いて呉・舞鶴・門司・名古屋・東京・広島・富山へ代理店が広がったが、これらはほとんどが海軍工廠の所在地であり、需要の大半は軍関係が占めた。1935年には満州や朝鮮半島へも市場を広げ、天野氏自身が大陸へ渡って販売に当たっている。国産の競合はヤマトやニデカなど数社が現れ、生産量に大きな差はなかった

  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
    • [18]大阪方面へ葉書300枚を送る販売を試みたが返事は2件にとどまり、天野修一自身が機械2台とカードラックを運んで訪問した
    • [19]1934年に大阪で巽商事と代理店契約を結び、1936年に契約を解いて大阪市北区梅田新道にアマノタイムレコーダー大阪販売所を設けた。これが支店設置の最初であった
    • [20]呉・舞鶴・門司・名古屋・東京・広島・富山に代理店が置かれたが、これらはほとんどが海軍工廠の所在地で、需要の大半は軍関係であった
    • [21]1935年には中国東北部(満州)や朝鮮半島へも市場を広げ、天野修一自身も大陸へ渡って販売活動を行った
    • [22]国産の競合はヤマト(原口電機製作所)、ニデカ(日本電気)、精工タイムレコーダーなどが現れ、主力3社の生産量に大差はなかった
参考文献[11]-[22]
  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
    • [11]従来のタイムレコーダーは時計部がゼンマイ式で印字部も機械式だったが、天野方式はワーレンモーターの電気で作動するため、カードの破損や時計と活字の連動不良が生じた
    • [12]山田市作ら数名とともに1ヵ月以上工場に泊まり込んで試作し、ほとんど完成した試作品を壊すことも一度や二度ではなかった
    • [13]1932年5月2日に特許を出願し、国産第1号機の試作品を東京瓦斯電気(現いすゞ自動車)へ納入して高い評価を得た
    • [14]東京瓦斯電気への納入後、1台280円で16台の本生産に入った
    • [15]日本では明治40年ごろから黒沢商会や小林捨次郎商店がドイツ・イスガス製や米インターナショナルタイムレコーダー製のタイムレコーダーを輸入販売していたが、これらの輸入品はごく一部で使用されていたにすぎなかった
    • [16]1927年の金融恐慌と1929年の世界恐慌を背景に、浜口内閣は臨時産業審議会を設け、企業統制・能率増進・産業金融の改善とともに国産品愛用を国民運動として呼びかけた
    • [17]商工省は1932年11月に個人会社天野製作所へ国産品奨励・輸入防止の国策に合致するとして製作を急ぐよう伝え、1933年8月に提出された完成品を国産優良品として推薦した
    • [18]大阪方面へ葉書300枚を送る販売を試みたが返事は2件にとどまり、天野修一自身が機械2台とカードラックを運んで訪問した
    • [19]1934年に大阪で巽商事と代理店契約を結び、1936年に契約を解いて大阪市北区梅田新道にアマノタイムレコーダー大阪販売所を設けた。これが支店設置の最初であった
    • [20]呉・舞鶴・門司・名古屋・東京・広島・富山に代理店が置かれたが、これらはほとんどが海軍工廠の所在地で、需要の大半は軍関係であった
    • [21]1935年には中国東北部(満州)や朝鮮半島へも市場を広げ、天野修一自身も大陸へ渡って販売活動を行った
    • [22]国産の競合はヤマト(原口電機製作所)、ニデカ(日本電気)、精工タイムレコーダーなどが現れ、主力3社の生産量に大差はなかった

1938年〜雷道計と菊名工場が進めた軍需への傾斜

資本金の半分を雷道計の開発に投じる

軍需への傾斜は、1933年5月に海軍航空技術廠から航空機試験装置の製作依頼を受けたところから始まった。翌1934年5月には海軍艦政本部から魚形水雷に用いる雷道計の研究開発を求められ、天野製作所は当時の資本金の2分の1にあたる5万円を投じてこれに応じた。開発に成功すると生産も任され、タイムレコーダーの生産余力を雷道計へ振り向けることになった。雷道計は戦前戦中を通じての主力製品となり、1941年12月の真珠湾攻撃で投下された魚雷の頭部にも装着されている民生用の時間管理機器から出発した会社が、海軍の調達に深く組み込まれていった。

  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
    • [23]1933年5月、海軍航空技術廠から航空機試験装置および部品の製作依頼を受けたことが、天野製作所が軍需会社化していく直接の契機となった
    • [24]1934年5月、海軍艦政本部から魚形水雷に使用する雷道計の研究開発の依頼を受け、当時の資本金の2分の1にあたる5万円を投じて研究開発を行った
    • [25]雷道計の開発成功後は海軍当局から生産も依頼され、タイムレコーダー生産の余力を雷道計の生産に充てた
    • [26]雷道計は戦前戦中を通じての主力製品となり、1941年12月の真珠湾攻撃で投下された魚雷の頭部に装着された
積み立てた定期預金で菊名の専門工場を建てる

菊名工場は、軍の機密を民需品と分けるために建てられた工場であった。海軍当局は、雷道計のような機密に属する機器をタイムレコーダーと同じ蒲田工場で生産すれば機密が漏れるとして、事実上の命令として別の場所へ軍需の専門工場を建てるよう申し入れた。天野製作所は1938年に横浜市港北区大豆戸町の土地約2万7,700坪を購入し、6棟・約4,450平方メートルの菊名工場を建てた。会社設立と工場建設には約50万円を要したが、創業以来社員1名につき1,000円ずつ積み立ててきた定期預金が20数万円に達しており、不足分は第一銀行の明石照男頭取が融資に応じた。1939年、主力を菊名へ移し、資本金19万9,800円で株式会社天野製作所を設立した

  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
    • [27]海軍当局は、雷道計など軍機に属する機器を民需品と同じ蒲田工場で生産すると機密が漏れるとして、別の場所に軍需の専門工場を建設するよう申し入れた
    • [28]1938年に横浜市港北区大豆戸町の土地約2万7,700坪を購入し、6棟・約4,450平方メートルの菊名工場を建設した
    • [29]会社設立と工場建設に約50万円を要し、社員1名の採用ごとの積立が20数万円に達していたうえ、不足分は第一銀行の明石照男頭取の融資でまかなった
    • [30]1939年に個人会社天野製作所の主力を菊名工場へ移し、資本金19万9,800円で株式会社天野製作所を設立した。営業目的は兵器および精密計器の製造販売であった
軍需会社の指定で主力製品を手放す

1944年4月、天野製作所は軍需会社法にもとづく軍需会社に指定され、創立以来13年つくり続けてきたタイムレコーダーとタイムスタンプの製造を中止した。指定以前は海軍管理工場として工場部門だけが軍の管理下にあったが、以後は会社経理も労務管理も政府の干渉を受けることになった。同年上期の営業報告書は、主要生産品目の製造を中止して設備を航空兵器へ転換したため売上高が直線的な伸びを失ったと記し、代わりに稼働を始めた三重工場への期待を述べている。従業員は1931年の4名から1944年には1,195名へ増えたが、その約500名は徴用工と学徒動員と女子挺身隊であった会社に残されたのは民生用の事業ではなく軍需の器であった。

  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
    • [31]1944年4月、天野製作所は軍需会社法にもとづき軍需会社に指定され、創立以来13年つくり続けたタイムレコーダーおよびタイムスタンプの製造中止に至った
    • [32]軍需会社の指定以前は海軍管理工場として工場部門だけが軍の管理下にあったが、指定後は会社経理・労務管理などすべての面で政府の干渉を受けた
    • [34]従業員数は1931年の4名から1944年には1,195名となり、うち約500名が徴用工・学徒動員・女子挺身隊であった
  • アマノ50年史(アマノ, 1982)所収 株式会社天野製作所 営業報告書(1944年4〜9月期)
    • [33]1944年上期の営業報告書は、主要生産品目であったタイムレコーダーおよびタイムスタンプの製造を中止して設備を航空兵器の製造へ転換したため売上高が直線的向上を失ったと記し、稼働を始めた三重工場への期待を述べた
参考文献[23]-[34]
  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
    • [23]1933年5月、海軍航空技術廠から航空機試験装置および部品の製作依頼を受けたことが、天野製作所が軍需会社化していく直接の契機となった
    • [24]1934年5月、海軍艦政本部から魚形水雷に使用する雷道計の研究開発の依頼を受け、当時の資本金の2分の1にあたる5万円を投じて研究開発を行った
    • [25]雷道計の開発成功後は海軍当局から生産も依頼され、タイムレコーダー生産の余力を雷道計の生産に充てた
    • [26]雷道計は戦前戦中を通じての主力製品となり、1941年12月の真珠湾攻撃で投下された魚雷の頭部に装着された
    • [27]海軍当局は、雷道計など軍機に属する機器を民需品と同じ蒲田工場で生産すると機密が漏れるとして、別の場所に軍需の専門工場を建設するよう申し入れた
    • [28]1938年に横浜市港北区大豆戸町の土地約2万7,700坪を購入し、6棟・約4,450平方メートルの菊名工場を建設した
    • [29]会社設立と工場建設に約50万円を要し、社員1名の採用ごとの積立が20数万円に達していたうえ、不足分は第一銀行の明石照男頭取の融資でまかなった
    • [30]1939年に個人会社天野製作所の主力を菊名工場へ移し、資本金19万9,800円で株式会社天野製作所を設立した。営業目的は兵器および精密計器の製造販売であった
    • [31]1944年4月、天野製作所は軍需会社法にもとづき軍需会社に指定され、創立以来13年つくり続けたタイムレコーダーおよびタイムスタンプの製造中止に至った
    • [32]軍需会社の指定以前は海軍管理工場として工場部門だけが軍の管理下にあったが、指定後は会社経理・労務管理などすべての面で政府の干渉を受けた
    • [34]従業員数は1931年の4名から1944年には1,195名となり、うち約500名が徴用工・学徒動員・女子挺身隊であった
  • アマノ50年史(アマノ, 1982)所収 株式会社天野製作所 営業報告書(1944年4〜9月期)
    • [33]1944年上期の営業報告書は、主要生産品目であったタイムレコーダーおよびタイムスタンプの製造を中止して設備を航空兵器の製造へ転換したため売上高が直線的向上を失ったと記し、稼働を始めた三重工場への期待を述べた

第2章 1945年〜 横浜機器の設立と真空掃除機、天野特殊機械から東証一部上場とアマノへの改称

筆者考察y.sugiura, author

敗戦で天野製作所が失ったのは工場や資産だけではなく、事業を続ける器そのものであった。戦時補償の打切りで特別経理会社に指定され、旧勘定は1,200万円の損失を抱えて整理へ向かう。そこで採られたのは旧会社の立て直しではなく、本社工場の敷地内に別会社を置いて生産だけを移すことだった。1945年11月に資本金15万円で設立された横浜機器は、旧軍人10数名を含む約30名で始まっている。器を替えて事業を残すという手は、1953年に天野特殊機械という手本の会社を別に立て、1956年にそれを吸収合併して商号ごと受け取るまで、二度繰り返された。

事業の中身を替えたのは、器ではなく売り方だった。代理店はタイプライターも文房具も扱い、客が求めれば届けるだけで市場を広げない。菅原正氏が静岡から関東北部、九州へと半年ずつ市場調査を重ねて確かめたのは、直販の経費が総売上高の0.5%に収まり、従業員30〜50名の工場にもタイムレコーダーが売れるという一点である。そこへNR型の量産工場を株式公開の資金で建て、1959年には国内シェア5割を確保した。国内で作った販売の型をそのまま米国へ持ち込み、1964年にアマノ・タイム・システムズを置いてIBMの特許を借りたのは、機械ではなく売り方のほうに勝算を見ていたからだろう。

横浜機器・天野特殊機械の従業員数 1946年〜1962年(名)

76 1946 31 1947 82 1953 355 1959 693 1962
  • 1946年から1953年は横浜機器、1959年以降は天野特殊機械の人員。
  • 出所はアマノ50年史(アマノ、1982年)および株式会社年鑑1959年版・1963年版。

1945年〜第二会社・横浜機器への事業の移し替え

敗戦の翌日に工場を閉じて退職金を配る

1945年8月15日、天野修一氏は三重工場で玉音放送を聞き、その場で全員を集めて工場の閉鎖を告げ、徴用工や学徒動員で来ていた者に郷里へ帰るよう指導した。翌16日には本社へ戻って同じことを告げ、徴用工には規定の退職金と旅費を、残らない一般従業員にも所定の退職金を払うと伝えた。ほとんどの従業員が退職金を受け取って工場を去り、株式会社天野製作所には残務整理の数名を残すのみとなった。同年10月の第13回定時株主総会で天野氏は、8月15日以降は収入がなく整理のための支出があるのみで、当期は7万円余の赤字になったと報告している

  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
    • [35]1945年8月15日、天野修一は三重工場で玉音放送を聞き、直ちに全員へ工場閉鎖を告げ、徴用工や学徒動員の者に帰郷を指導した
    • [36]翌16日に本社で全従業員へ工場閉鎖を告げ、徴用工には規定の退職金と旅費を、退職する一般従業員にも所定の退職金を支払うと伝えた
    • [37]ほとんどの従業員が退職金を受け取って退職し、株式会社天野製作所には残務整理に数名を要するのみとなった
  • アマノ50年史(アマノ, 1982)所収 株式会社天野製作所 第13回定時株主総会報告(1945年10月)
    • [38]1945年10月の第13回定時株主総会で、終戦の8月15日以降は収入がなく整理のための支出があるのみで、当期は7万円余の赤字となったと報告された
別会社を立ててタイムレコーダーを再開する

再開は、旧会社を立て直すのではなく、別の器を用意して行われた。1945年10月、天野氏は米第八軍司令部へ出頭し、タイムレコーダーは平和的需要を満たすものであるとして再生産の認可を陳情した。許可は得られたが、天野製作所は残務整理と軍需品未払分の補償待ちで事実上閉鎖した状態にあったため、本社工場内に別会社を置いて生産を行うことにした。集まってきた従業員へ仕事を与えると同時に、旧海軍軍人の民間転出を引き受けるという狙いもあり、1945年11月22日、資本金15万円で横浜機器株式会社が設立された。旧軍人10数名と旧天野製作所からの人員を合わせた約30名での出発であった

  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
    • [39]1945年10月、天野修一は米第八軍司令部へ出頭し、タイムレコーダーは平和的需要を満たすものであるとして再生産の認可を陳情し、許可を得た
    • [40]株式会社天野製作所は残務整理と軍需品未払分の補償待ちで事実上閉鎖した状態にあったため、本社工場内に別会社を設けてタイムレコーダーを生産することにした
    • [42]横浜機器は旧軍人10数名と旧天野製作所から移った人員を合わせた約30名で発足した
  • アマノ 有価証券報告書【沿革】
    • [41]1945年11月22日、資本金15万円で横浜機器株式会社を設立し、タイムレコーダー・タイムスタンプの製造を開始した
戦時補償の打切りで旧会社を畳む

天野製作所を解散させたのは、戦時補償の打切りであった。1946年8月、吉田内閣は戦時補償の打切りを決めて戦時補償特別税でこれを相殺する方法を採り、天野製作所は特別経理会社に指定されて新旧勘定を分離した。旧勘定は補償打切りによる1,200万円の損失を抱えて整理へ向かい、新勘定に残された設備と材料が横浜機器へ引き継がれた。1947年に資本金を560万円から180万円へ減資したうえ、1949年4月24日に解散の手続きを取り、1939年の設立以来の歴史を閉じた。解散に先立って天野氏は株主の株を個人として買い取り、従業員の持株には額面で、一般の持株には公開値段で応じている

  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
    • [43]1946年8月、政府は戦時補償の打切りを決めて戦時補償特別税を設け、天野製作所は特別経理会社に指定されて1946年8月10日をもって新旧勘定を分離した
    • [44]旧勘定は軍需補償打切りによる1,200万円の損失を抱えて整理へ向かい、新勘定に保有した設備・材料などが横浜機器へ引き継がれた
    • [45]1947年2月に資本金を560万円から180万円へ減資し、1949年4月24日に株式会社天野製作所は解散の手続きを取った
    • [46]解散に先立ち天野修一は株主の株を個人として買い取り、従業員持株者には額面で、一般の持株者には公開値段85円で応じた
参考文献[35]-[46]
  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
    • [35]1945年8月15日、天野修一は三重工場で玉音放送を聞き、直ちに全員へ工場閉鎖を告げ、徴用工や学徒動員の者に帰郷を指導した
    • [36]翌16日に本社で全従業員へ工場閉鎖を告げ、徴用工には規定の退職金と旅費を、退職する一般従業員にも所定の退職金を支払うと伝えた
    • [37]ほとんどの従業員が退職金を受け取って退職し、株式会社天野製作所には残務整理に数名を要するのみとなった
    • [39]1945年10月、天野修一は米第八軍司令部へ出頭し、タイムレコーダーは平和的需要を満たすものであるとして再生産の認可を陳情し、許可を得た
    • [40]株式会社天野製作所は残務整理と軍需品未払分の補償待ちで事実上閉鎖した状態にあったため、本社工場内に別会社を設けてタイムレコーダーを生産することにした
    • [42]横浜機器は旧軍人10数名と旧天野製作所から移った人員を合わせた約30名で発足した
    • [43]1946年8月、政府は戦時補償の打切りを決めて戦時補償特別税を設け、天野製作所は特別経理会社に指定されて1946年8月10日をもって新旧勘定を分離した
    • [44]旧勘定は軍需補償打切りによる1,200万円の損失を抱えて整理へ向かい、新勘定に保有した設備・材料などが横浜機器へ引き継がれた
    • [45]1947年2月に資本金を560万円から180万円へ減資し、1949年4月24日に株式会社天野製作所は解散の手続きを取った
    • [46]解散に先立ち天野修一は株主の株を個人として買い取り、従業員持株者には額面で、一般の持株者には公開値段85円で応じた
  • アマノ50年史(アマノ, 1982)所収 株式会社天野製作所 第13回定時株主総会報告(1945年10月)
    • [38]1945年10月の第13回定時株主総会で、終戦の8月15日以降は収入がなく整理のための支出があるのみで、当期は7万円余の赤字となったと報告された
  • アマノ 有価証券報告書【沿革】
    • [41]1945年11月22日、資本金15万円で横浜機器株式会社を設立し、タイムレコーダー・タイムスタンプの製造を開始した

1950年〜代理店依存から市場調査に立つ直販への切替え

他社仕様の壁を越えて国鉄43台を取りに行く

1950年の国有鉄道からの受注は、経営から離れていた天野氏を現場へ引き戻した出来事であった。同業のニデカが納めることになったという報告を受けたのは入札の2日前で、示された仕様書は競合品と形状が酷似し、時計の誤差を1日プラスマイナス1秒とするなど当時の技術では満たせない項目を含んでいた。天野氏は、その仕様に合う製品を用意している相手は相応の経費をかけているとみて定価のまま入札し、一番札となった。受注から納入まで15日、盛岡・松任・浜松への分納という条件のもと、1日1台の工場が43台を昼夜兼行で仕上げた。この後、新三菱重工東京製作所や日本鋼管鶴見造船所、東京証券取引所と大口の受注が続いた

  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
    • [47]1950年5月、国有鉄道向け43台のタイムレコーダーを同業のニデカが納入する見込みとの報告を入札2日前に受けた。仕様書は競合品と酷似し、時計の誤差を1日プラスマイナス1秒とするなど当時の技術では不可能な項目を含んでいた
    • [48]天野修一は仕様に合致する製品を用意している競合は相応の経費をかけていると判断して定価どおりで入札し、一番札となった
    • [49]受注から納入まで15日、盛岡・松任・浜松への分納という条件で、1日1台の生産ペースの工場が43台を昼夜兼行で仕上げて納入した
    • [50]国有鉄道への納入後、新三菱重工東京製作所、日本鋼管鶴見造船所、東京証券取引所からタイムレコーダーおよびタイムスタンプの大口受注が続いた
手本になる別会社を立てて横浜機器を作り直す

天野氏は1951年に国際科学経営会議へ日本代表団の団長として参加し、欧米各地の工場を回って蒲田時代の理想工場という考えが誤りでなかったと確信して帰国した。しかし横浜機器は1951年下期に売上高が減少し、1952年には従業員への給与が遅配気味となり、下請への支払いにも事欠いて、天野氏が個人の信用で50万円を借り入れて充てるほどであった。原因は、旧天野製作所から供給されていた部品在庫が尽きて調達費が上がったことと、好況期に生産工程の改善へ手を打たなかったことにあった。天野氏は横浜機器を直接変えるより別に手本を作るほうが早いと考え、1953年6月2日、資本金200万円で天野特殊機械株式会社を本社工場の敷地内に設立した

  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
    • [51]1951年4月、天野修一はベルギーで開かれた国際科学経営会議に日本代表団の団長として参加し、欧米各地を視察して8月に帰国した
    • [52]横浜機器は1951年下期に売上高が落ち込み、約57万円の赤字を計上した。1952年には給与が遅配気味となり、天野修一が個人の信用で銀行から50万円を借り入れて支払いに充てた
    • [53]経営悪化の原因は、旧天野製作所から供給を受けていた部品在庫が底をついて部品を新規購入せざるをえずコストが上がったことと、売上と利益の上昇に気を取られて生産工程の改善に手を打たなかったことにあった
    • [54]1953年6月2日、資本金200万円で天野特殊機械株式会社を本社工場の敷地内に設立し、リクレス・モイスレス・アマークなどの新規開発製品を横浜機器から移して生産・販売した
市場調査で直販の採算を確かめる

静岡県で市場調査が始まったのは1955年夏で、担当した販売企画係長の菅原正氏はその前の半年を文献の学習に費やしていた。発端は1954年末、天野氏が菅原氏に、1,000台、2,000台という規模で売り切れる販売組織の構築を命じたことにある。調査では戦前のタイムレコーダーがまだ現役であることを確かめ、直販にかかる経費は総売上高の0.5%以内で済むと読んだ。群馬・栃木・茨城・福島にも半年をかけて調べを広げ、従業員60〜70名規模の企業を販売対象とし、200〜300キロ圏まで直販で回れると判断した。直販は、勘ではなく調査で採算を確かめてから踏み出したものである。並行して販売奨励金制度が設けられ、代理店へ定価の20〜25%引きで卸すのと同じ考えを自社の営業へも当てた。基本給1万円に奨励金を加えて10万円になる者も出た

  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
    • [55]1954年末、天野修一は販売企画係長の菅原正へ1,000台でも2,000台でも売れる組織を作るよう指示し、菅原は半年を学習に費やしたのち1955年夏から静岡県で市場調査を行った
    • [56]静岡県の調査で直販経費が総売上高の0.5%以内に収まると見通し、群馬・栃木・茨城・福島の調査で従業員60〜70名規模の企業が販売対象になり、200〜300キロ圏でも直販体制が取れると判断した
    • [57]販売奨励金制度は、代理店へ定価の20〜25%引きで卸すのと同じ発想を自社の営業へ適用し、給料・交通費などをその20〜25%から差し引いた額を奨励金として与えるものであった
    • [58]販売奨励金制度により、基本給1万円に奨励金を加えて10万円になる営業も出た
参考文献[47]-[58]
  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
    • [47]1950年5月、国有鉄道向け43台のタイムレコーダーを同業のニデカが納入する見込みとの報告を入札2日前に受けた。仕様書は競合品と酷似し、時計の誤差を1日プラスマイナス1秒とするなど当時の技術では不可能な項目を含んでいた
    • [48]天野修一は仕様に合致する製品を用意している競合は相応の経費をかけていると判断して定価どおりで入札し、一番札となった
    • [49]受注から納入まで15日、盛岡・松任・浜松への分納という条件で、1日1台の生産ペースの工場が43台を昼夜兼行で仕上げて納入した
    • [50]国有鉄道への納入後、新三菱重工東京製作所、日本鋼管鶴見造船所、東京証券取引所からタイムレコーダーおよびタイムスタンプの大口受注が続いた
    • [51]1951年4月、天野修一はベルギーで開かれた国際科学経営会議に日本代表団の団長として参加し、欧米各地を視察して8月に帰国した
    • [52]横浜機器は1951年下期に売上高が落ち込み、約57万円の赤字を計上した。1952年には給与が遅配気味となり、天野修一が個人の信用で銀行から50万円を借り入れて支払いに充てた
    • [53]経営悪化の原因は、旧天野製作所から供給を受けていた部品在庫が底をついて部品を新規購入せざるをえずコストが上がったことと、売上と利益の上昇に気を取られて生産工程の改善に手を打たなかったことにあった
    • [54]1953年6月2日、資本金200万円で天野特殊機械株式会社を本社工場の敷地内に設立し、リクレス・モイスレス・アマークなどの新規開発製品を横浜機器から移して生産・販売した
    • [55]1954年末、天野修一は販売企画係長の菅原正へ1,000台でも2,000台でも売れる組織を作るよう指示し、菅原は半年を学習に費やしたのち1955年夏から静岡県で市場調査を行った
    • [56]静岡県の調査で直販経費が総売上高の0.5%以内に収まると見通し、群馬・栃木・茨城・福島の調査で従業員60〜70名規模の企業が販売対象になり、200〜300キロ圏でも直販体制が取れると判断した
    • [57]販売奨励金制度は、代理店へ定価の20〜25%引きで卸すのと同じ発想を自社の営業へ適用し、給料・交通費などをその20〜25%から差し引いた額を奨励金として与えるものであった
    • [58]販売奨励金制度により、基本給1万円に奨励金を加えて10万円になる営業も出た

1956年〜株式公開で建てた量産工場と対米進出

工場の建設費を株式公開でまかなう

1956年10月1日、横浜機器が天野特殊機械を吸収合併し、商号を天野特殊機械と改めた。合併は、空気系商品の販売を強化するには資本金100万円程度の別会社では足りず、開発の進むNR型タイムレコーダーの量産工場を建てる必要が生じたためであった。1958年7月23日、20万株を公開して東京証券市場での店頭売買が始まり、売出価格80円の株は初日に128円の値をつけた。天野氏が定めたのは、会社の伸びに歩調を合わせて工場を少しずつ建て、その資金を株式公開で集めた自己資金で賄うという方針であり、1956年から1966年にかけて増資を重ねて、借り入れをせずに菊名工場を建てていった

  • アマノ 有価証券報告書【沿革】
    • [59]1956年10月、横浜機器が天野特殊機械を吸収合併し、商号を天野特殊機械へ変更した
  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
    • [60]合併の理由は、空気系商品の販売強化に旧天野特殊機械の規模では対応できなくなったことと、NR型タイムレコーダーの量産工場の建設が必要になったことであった
    • [61]1958年7月23日に日興証券を幹事証券として株式20万株を公開し東京証券市場で店頭売買が始まった。売出価格1株80円に対し初日に128円の初値をつけた
    • [62]工場建設は企業の成長に応じて段階的に行い、その資金は株式を公開して調達する自己資金によるという方針が定められた
    • [63]増資は1956年11月、1957年8月、1958年12月、1960年7月、1962年6月、1964年11月、1966年11月と繰り返され、借入金に頼らない菊名工場の建設が目指された
直販で30〜50名規模の工場を掘り起こす

第一工場は1957年8月に着工して1958年5月に完成し、組立ラインをコンベア化して作業を単純化・専門化することで、個人の能力差によらず同じ品質の製品を量産できる工場となった。数ヵ月遅れの1958年11月、動力を電力とし打刻を全自動化したNR型タイムレコーダーの生産が始まり、1961年3月期にはタイムレコーダー全数量の73.2%を占めるまでになった。販売では1957年7月に菅原氏が福岡支店長として赴任し、九州の代理店の反発を受けながら直販を強めた。当時はタイムレコーダーを従業員100〜200名以上の企業が使うものとする通念があったが、直販の営業は30〜50名規模の工場を目標に市場を開き、1959年にはシェアが50%に達した

  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
    • [64]本社第一工場は約1億円を投じて1957年8月に着工し1958年5月に完成した。柱のないフロアに組立ラインをコンベア化して作業を単純化・専門化し、個人の能力差によらず同じ品質の量産を可能にした
    • [65]1958年11月に全自動のNR型タイムレコーダーの生産を開始した。NR型がタイムレコーダー全数量に占める比率は1961年3月期に数量で73.2%、金額で77.5%に達した
    • [66]1957年7月、菅原正が福岡支店長として赴任し、直販強化のための福岡支店設置に反発した九州の代理店を説得しながら直販を進めた
    • [67]タイムレコーダーは従業員100〜200名以上の企業が使うものという通念があったなか、直販の営業は従業員30〜50名規模の工場を対象に市場を開拓し、1959年にタイムレコーダーのシェアは50%に達した
米国へ販売会社を置きIBMの特許を借りる

対米進出は、35%の輸入税と部品税に州税まで加わる価格の不利を引き受ける判断であった。天野氏は1962年5月に渡米し、同年11月に再び発って全米47都市に255の代理店を持つECSを総代理店に選んだ。当時の米国市場はシンプレックスが7割を握り、同社は同程度の人員で月7,000台を生産しており、月1,500台の天野特殊機械に対して4.7倍の生産性であった。1964年8月、ニューヨーク州法人として資本金5万ドルでアマノ タイムシステムを設立し、これが海外法人の第1号となった。同月にはIBMと技術援助契約を結び、タイムレコーダー部門から退いた同社の200件以上の特許の使用権を得た。1966年6月に商号をアマノへ改め、1967年8月には東京証券取引所第一部へ昇格した

  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
    • [68]天野修一は1962年5月に渡米して各地を視察し、同年11月に再度渡米してニューヨーク支店設置の準備と代理店契約の締結を行い、全米47都市に255の代理店を持つECSを総代理店に選んだ
    • [69]当時の米国市場はシンプレックスが70%のシェアを握り、同社は同程度の人員で月7,000台を生産していた。アマノはタイムレコーダーとタイムスタンプ合計で月1,500台の生産であった
    • [71]1964年8月にIBMと技術援助契約を結び、電算機に力を集中すべくタイムレコーダー部門の製造・販売を中止していた同社から200件以上の特許の使用権を取得した
  • アマノ 有価証券報告書【沿革】
    • [70]1964年7月、ニューヨークに子会社アマノ タイムシステムを設立した
    • [72]1966年6月に商号をアマノへ変更し、1967年8月に東京証券取引所第一部へ上場した
参考文献[59]-[72]
  • アマノ 有価証券報告書【沿革】
    • [59]1956年10月、横浜機器が天野特殊機械を吸収合併し、商号を天野特殊機械へ変更した
    • [70]1964年7月、ニューヨークに子会社アマノ タイムシステムを設立した
    • [72]1966年6月に商号をアマノへ変更し、1967年8月に東京証券取引所第一部へ上場した
  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
    • [60]合併の理由は、空気系商品の販売強化に旧天野特殊機械の規模では対応できなくなったことと、NR型タイムレコーダーの量産工場の建設が必要になったことであった
    • [61]1958年7月23日に日興証券を幹事証券として株式20万株を公開し東京証券市場で店頭売買が始まった。売出価格1株80円に対し初日に128円の初値をつけた
    • [62]工場建設は企業の成長に応じて段階的に行い、その資金は株式を公開して調達する自己資金によるという方針が定められた
    • [63]増資は1956年11月、1957年8月、1958年12月、1960年7月、1962年6月、1964年11月、1966年11月と繰り返され、借入金に頼らない菊名工場の建設が目指された
    • [64]本社第一工場は約1億円を投じて1957年8月に着工し1958年5月に完成した。柱のないフロアに組立ラインをコンベア化して作業を単純化・専門化し、個人の能力差によらず同じ品質の量産を可能にした
    • [65]1958年11月に全自動のNR型タイムレコーダーの生産を開始した。NR型がタイムレコーダー全数量に占める比率は1961年3月期に数量で73.2%、金額で77.5%に達した
    • [66]1957年7月、菅原正が福岡支店長として赴任し、直販強化のための福岡支店設置に反発した九州の代理店を説得しながら直販を進めた
    • [67]タイムレコーダーは従業員100〜200名以上の企業が使うものという通念があったなか、直販の営業は従業員30〜50名規模の工場を対象に市場を開拓し、1959年にタイムレコーダーのシェアは50%に達した
    • [68]天野修一は1962年5月に渡米して各地を視察し、同年11月に再度渡米してニューヨーク支店設置の準備と代理店契約の締結を行い、全米47都市に255の代理店を持つECSを総代理店に選んだ
    • [69]当時の米国市場はシンプレックスが70%のシェアを握り、同社は同程度の人員で月7,000台を生産していた。アマノはタイムレコーダーとタイムスタンプ合計で月1,500台の生産であった
    • [71]1964年8月にIBMと技術援助契約を結び、電算機に力を集中すべくタイムレコーダー部門の製造・販売を中止していた同社から200件以上の特許の使用権を取得した

第3章 1968-2001 (気が向いたら執筆します!) 就業管理システム「アレコデータ」と駐車場・清掃機器、パイオニア エクリプスなど米国の買収

第4章 2002-2026 (気が向いたら執筆します!) オムロンの駐車場事業譲受とマクギャン・ホロクオルツなど欧米の相次ぐ買収

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歴史年表 1945〜2024年

アマノの沿革1945〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1945〜1967年横浜機器の設立と真空掃除機、天野特殊機械から東証一部上場とアマノへの改称横浜機器を設立しタイムレコーダー・タイムスタンプ製造を開始
工業用真空掃除機等の研究・製造を開始★★
天野特殊機械を吸収合併し商号を天野特殊機械に変更
東京証券取引所第二部に上場
ニューヨークに子会社アマノ タイムシステムを設立
商号をアマノに変更
東京証券取引所第一部に上場
1968〜2001年就業管理システム「アレコデータ」と駐車場・清掃機器、パイオニア エクリプスなど米国の買収コンピューター就業管理システム

1966年に"アレコデータシステム"を発表し、1968年6月にコンピューター就業管理システム"アレコデータ"を発売した判断。国産第1号のタイムレコーダーを作った会社が、打刻機の販売から、打刻した時間を計算する仕組みの販売へ商品の性格を変えた。

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★★★
東海アマノ設立し細江工場の製造を委託
ベルギーに子会社アマノ ヨーロッパ N.V.を設立
大阪証券取引所第一部に上場
駐車場管理機器を発売★★
カリフォルニアに製造子会社アマノ アメリカ マニュファクチュアリングを設立
コンピュータータイムレコーダー「インテレコーダー」を発売
清掃機器を発売
津久井工場(後に相模原工場)を建設
ベルギーに子会社アマノ エレクトロニクス ヨーロッパを設立
アマノ アメリカ マニュファクチュアリングがアマノ アメリカを吸収合併
シンシナティ タイムを含む連続買収による北米基盤の確立

1990年3月に米国パイオニア エクリプス(清掃機器・溶剤)を、1991年12月に米国シンシナティ タイム(時間管理機器・パーキングシステム)を、いずれも米国デラウェア州に設けた持株会社を通じて買収した判断。

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シンシナティ タイムを買収★★
都田工場を新設
中国上海に安満能国際貿易を設立
アキュタイムを買収
2002〜2026年オムロンの駐車場事業譲受とマクギャン・ホロクオルツなど欧米の相次ぐ買収武蔵電機製作所(後のアマノ武蔵電機)を買収
営業権の譲り受けという形での駐車場設備事業への進出

2002年10月、アマノがオムロン株式会社から駐車場設備事業の営業権を譲り受けた判断。1967年の駐車券発行機"パーキングマスター"以来35年つづけてきた事業に、同業の顧客と販売網を買い足した。

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春田薫オムロンティー・エー・エスから駐車場・駐輪場機器販売事業を譲受け★★
春田薫テリー マクギャン&アソシエイツを買収しアマノ マクギャンに商号変更★★
春田薫モロッコのホロクオルツ/ホロスマート/ピアル等を持株会社経由で買収
春田薫アキュタイム システムズとアキュテック システムズを買収
中島泉クレオの株式を取得
中島泉アマノ パイオニア エクリプスがNilfisk-Advanceの木材床研磨機器部門を譲受け
中島泉アーセージェーペー他3社を買収
津田博之アマノ マクギャンがService Tracking SystemsのValet Parking事業を譲受け
津田博之アマノ ベトナムを設立
山﨑学アマノ テクニカル サービスを設立
山﨑学ハイヤー テクニシャンズ グループを買収
山﨑学ウェイトゥーテックを買収
出典・参考 5件
出典・参考
  • アマノ 有価証券報告書【沿革】
  • アマノ50年史(アマノ, 1982)
  • アマノ50年史(アマノ, 1982)所収 株式会社天野製作所 営業報告書(1944年4〜9月期)
  • アマノ50年史(アマノ, 1982)所収 株式会社天野製作所 第13回定時株主総会報告(1945年10月)
  • 株式会社年鑑 1963年版(天野特殊機械)

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