天野修一氏が国産タイムレコーダーへ向かったのは、機械を作りたかったからではなく、作業時間を金額へ換算する手立てが海軍工廠になかったからである。予算を年度末に使い切らなければ翌年度を削られる慣行を不合理と考えた工務係長が、工程ごとの所要時間を計るために英国製のタイムスタンプを買い、それがすぐ壊れた。壊れない機械をつくるという条件から電気式という方式が選ばれ、1931年に資金3,000円・従業員4名の町工場が蒲田に置かれた。輸入品しかない市場へ国産で入るという判断は、恐慌下の商工省が国産品奨励を国策に掲げていた時機と重なり、1933年には国産優良品の推薦を受けている。
ところが、この会社を早く育てた条件が、そのまま主力製品を奪う条件にもなった。呉・舞鶴・門司と並んだ代理店はほとんどが海軍工廠の所在地にあり、需要の大半は軍関係だった。海軍から雷道計の開発を求められれば資本金の半分にあたる5万円を投じ、機密を民需品と分けよと言われれば菊名に専門工場を建てる。1944年に軍需会社の指定を受けたとき、創立以来13年つくり続けたタイムレコーダーとタイムスタンプの製造は止まった。従業員は4名から1,195名へ膨らんでいたが、その約500名は徴用工と学徒動員と女子挺身隊であり、残ったのは民生用の事業ではなく軍需の器であった。
天野修一氏は、海軍技師として工廠の原価管理に行き当たったところからタイムレコーダーへ入った人物である。海軍技師として過ごした歳月は、およそ15年に及ぶ。1890年6月15日に三重県鈴鹿郡石薬師村に生まれ、大阪高等工業学校機械科の在学中に海軍委託学生となって、1909年の卒業後に技師として海軍に入った。大正初年に工務係長となると、年度末に予算を使い切らなければ翌年度分が減らされる慣行に疑問を持ち、工場庫での材料の中央管理と、工程別の所要時間を金額へ置き換える方式を試した。所要時間を測る道具として英国製のタイムスタンプを取り寄せたものの、すぐに故障した。これを改良するという着想は、退官するまで宿題として持ち越された。
天野氏が海軍を退いたのは1925年6月で、民間への転出を勧める上官と衝突したうえでの退官であった。1928年からは神奈川県藤沢の東京螺子製作所で工場長に就き、山梨高等工業学校でも精密機械講座を担当した。その前には名古屋の浅野木工場の技師長を1年足らずで辞め、岩手県宮古に設立した東洋ベニアも14ヵ月で閉じている。同じ時期には鉄道省の車輌改善委員嘱託として三等寝台制度を提案し、商工省合理局の嘱託としてJISの前身にあたる規格の制定委員にも加わった。螺子工場の現場に接するうちに海軍時代の原価計算への関心がよみがえり、故障しない機械なら将来の役に立つとの考えから、ナンバリングとワーレンモーターの時計をマグネットでつなぐ電気式を構想した。
天野氏が自ら経営を引き受けたのは、設計を譲った相手が立ち行かなくなったからであった。知人の牧師を介して東京・大崎で工場を営む人物へ設計を渡したところ、工員がいないというので東京螺子時代の工員を集めて補い、資金がないというので3,000円を貸したが、その金は生活費と借金返済で消えてしまった。世話をした工員への責任から、1931年11月、東京市蒲田区南六郷に敷地100坪・建物50坪の町工場を構え、資金3,000円・従業員4名で個人会社天野製作所を興した。当時のタイムレコーダーは輸入品ばかりで国産化は一種の冒険であったため、天野氏は3,000円を設備・給与・予備へ1,000円ずつ割り、以後も社員を1名採るたびに1,000円を積み立てた。
ゼンマイ仕掛けの時計部と機械式の印字部を備えた従来のタイムレコーダーと違い、天野方式はワーレンモーターの電気で動くため、カードを差し込むと強い力がかかって紙が裂け、時計と活字の連動も安定しなかった。天野氏は山田市作氏らと1ヵ月以上工場に泊まり込み、仕上がりかけた試作品をハンマーで壊したことも幾度もあった。出来上がった第1号機は、部品を集めて組むだけの機械ではなく作動方式から替えた製品で、タイムスタンプに出退時刻を記すカードの差込口を付けていた。1932年5月2日に特許を出願し、東京瓦斯電気へ納めた試作機は高く評価され、本生産では16台を1台280円で売った。
国産化の時機は、天野製作所が選んだというより当時の政策が用意したものであった。当時のタイムレコーダーは、黒沢商会などがドイツのイスガス製や米インターナショナルタイムレコーダー製を輸入して扱っていたが、使っていたのはごく一部にとどまった。世の中では1927年の金融恐慌、1929年からの世界恐慌が続き、浜口内閣が臨時産業審議会を置いて企業の統制や能率の向上と並べて国産品を使うよう国民運動として訴えるなど、官も民も国産を口にしていた。そうしたなか国産第1号機の完成を知った商工省は、1932年11月、国産品の奨励と輸入を防ぐという国の方針にかなうとして製作を急ぐよう求めた。翌1933年8月に完成品が出されると、国産優良品として推薦している。
販路は、葉書1枚から作られた。天野氏は大阪方面へタイムレコーダーができたと書いた葉書を300枚出したが返事は2件で、機械2台とカードラックをかついで汽車に乗り、着いた先では次の機会にと言われて雨の中を歩いて帰ったという。1934年に大阪で巽商事と代理店契約を結び、1936年にはこれを解いて、支店設置の最初となる大阪販売所を自ら置いた。続いて呉・舞鶴・門司・名古屋・東京・広島・富山へ代理店が広がったが、これらはほとんどが海軍工廠の所在地であり、需要の大半は軍関係が占めた。1935年には満州や朝鮮半島へも市場を広げ、天野氏自身が大陸へ渡って販売に当たっている。国産の競合はヤマトやニデカなど数社が現れ、生産量に大きな差はなかった。
軍需への傾斜は、1933年5月に海軍航空技術廠から航空機試験装置の製作依頼を受けたところから始まった。翌1934年5月には海軍艦政本部から魚形水雷に用いる雷道計の研究開発を求められ、天野製作所は当時の資本金の2分の1にあたる5万円を投じてこれに応じた。開発に成功すると生産も任され、タイムレコーダーの生産余力を雷道計へ振り向けることになった。雷道計は戦前戦中を通じての主力製品となり、1941年12月の真珠湾攻撃で投下された魚雷の頭部にも装着されている。民生用の時間管理機器から出発した会社が、海軍の調達に深く組み込まれていった。
菊名工場は、軍の機密を民需品と分けるために建てられた工場であった。海軍当局は、雷道計のような機密に属する機器をタイムレコーダーと同じ蒲田工場で生産すれば機密が漏れるとして、事実上の命令として別の場所へ軍需の専門工場を建てるよう申し入れた。天野製作所は1938年に横浜市港北区大豆戸町の土地約2万7,700坪を購入し、6棟・約4,450平方メートルの菊名工場を建てた。会社設立と工場建設には約50万円を要したが、創業以来社員1名につき1,000円ずつ積み立ててきた定期預金が20数万円に達しており、不足分は第一銀行の明石照男頭取が融資に応じた。1939年、主力を菊名へ移し、資本金19万9,800円で株式会社天野製作所を設立した。
1944年4月、天野製作所は軍需会社法にもとづく軍需会社に指定され、創立以来13年つくり続けてきたタイムレコーダーとタイムスタンプの製造を中止した。指定以前は海軍管理工場として工場部門だけが軍の管理下にあったが、以後は会社経理も労務管理も政府の干渉を受けることになった。同年上期の営業報告書は、主要生産品目の製造を中止して設備を航空兵器へ転換したため売上高が直線的な伸びを失ったと記し、代わりに稼働を始めた三重工場への期待を述べている。従業員は1931年の4名から1944年には1,195名へ増えたが、その約500名は徴用工と学徒動員と女子挺身隊であった。会社に残されたのは民生用の事業ではなく軍需の器であった。
敗戦で天野製作所が失ったのは工場や資産だけではなく、事業を続ける器そのものであった。戦時補償の打切りで特別経理会社に指定され、旧勘定は1,200万円の損失を抱えて整理へ向かう。そこで採られたのは旧会社の立て直しではなく、本社工場の敷地内に別会社を置いて生産だけを移すことだった。1945年11月に資本金15万円で設立された横浜機器は、旧軍人10数名を含む約30名で始まっている。器を替えて事業を残すという手は、1953年に天野特殊機械という手本の会社を別に立て、1956年にそれを吸収合併して商号ごと受け取るまで、二度繰り返された。
事業の中身を替えたのは、器ではなく売り方だった。代理店はタイプライターも文房具も扱い、客が求めれば届けるだけで市場を広げない。菅原正氏が静岡から関東北部、九州へと半年ずつ市場調査を重ねて確かめたのは、直販の経費が総売上高の0.5%に収まり、従業員30〜50名の工場にもタイムレコーダーが売れるという一点である。そこへNR型の量産工場を株式公開の資金で建て、1959年には国内シェア5割を確保した。国内で作った販売の型をそのまま米国へ持ち込み、1964年にアマノ・タイム・システムズを置いてIBMの特許を借りたのは、機械ではなく売り方のほうに勝算を見ていたからだろう。
1945年8月15日、天野修一氏は三重工場で玉音放送を聞き、その場で全員を集めて工場の閉鎖を告げ、徴用工や学徒動員で来ていた者に郷里へ帰るよう指導した。翌16日には本社へ戻って同じことを告げ、徴用工には規定の退職金と旅費を、残らない一般従業員にも所定の退職金を払うと伝えた。ほとんどの従業員が退職金を受け取って工場を去り、株式会社天野製作所には残務整理の数名を残すのみとなった。同年10月の第13回定時株主総会で天野氏は、8月15日以降は収入がなく整理のための支出があるのみで、当期は7万円余の赤字になったと報告している。
再開は、旧会社を立て直すのではなく、別の器を用意して行われた。1945年10月、天野氏は米第八軍司令部へ出頭し、タイムレコーダーは平和的需要を満たすものであるとして再生産の認可を陳情した。許可は得られたが、天野製作所は残務整理と軍需品未払分の補償待ちで事実上閉鎖した状態にあったため、本社工場内に別会社を置いて生産を行うことにした。集まってきた従業員へ仕事を与えると同時に、旧海軍軍人の民間転出を引き受けるという狙いもあり、1945年11月22日、資本金15万円で横浜機器株式会社が設立された。旧軍人10数名と旧天野製作所からの人員を合わせた約30名での出発であった。
天野製作所を解散させたのは、戦時補償の打切りであった。1946年8月、吉田内閣は戦時補償の打切りを決めて戦時補償特別税でこれを相殺する方法を採り、天野製作所は特別経理会社に指定されて新旧勘定を分離した。旧勘定は補償打切りによる1,200万円の損失を抱えて整理へ向かい、新勘定に残された設備と材料が横浜機器へ引き継がれた。1947年に資本金を560万円から180万円へ減資したうえ、1949年4月24日に解散の手続きを取り、1939年の設立以来の歴史を閉じた。解散に先立って天野氏は株主の株を個人として買い取り、従業員の持株には額面で、一般の持株には公開値段で応じている。
1950年の国有鉄道からの受注は、経営から離れていた天野氏を現場へ引き戻した出来事であった。同業のニデカが納めることになったという報告を受けたのは入札の2日前で、示された仕様書は競合品と形状が酷似し、時計の誤差を1日プラスマイナス1秒とするなど当時の技術では満たせない項目を含んでいた。天野氏は、その仕様に合う製品を用意している相手は相応の経費をかけているとみて定価のまま入札し、一番札となった。受注から納入まで15日、盛岡・松任・浜松への分納という条件のもと、1日1台の工場が43台を昼夜兼行で仕上げた。この後、新三菱重工東京製作所や日本鋼管鶴見造船所、東京証券取引所と大口の受注が続いた。
天野氏は1951年に国際科学経営会議へ日本代表団の団長として参加し、欧米各地の工場を回って蒲田時代の理想工場という考えが誤りでなかったと確信して帰国した。しかし横浜機器は1951年下期に売上高が減少し、1952年には従業員への給与が遅配気味となり、下請への支払いにも事欠いて、天野氏が個人の信用で50万円を借り入れて充てるほどであった。原因は、旧天野製作所から供給されていた部品在庫が尽きて調達費が上がったことと、好況期に生産工程の改善へ手を打たなかったことにあった。天野氏は横浜機器を直接変えるより別に手本を作るほうが早いと考え、1953年6月2日、資本金200万円で天野特殊機械株式会社を本社工場の敷地内に設立した。
静岡県で市場調査が始まったのは1955年夏で、担当した販売企画係長の菅原正氏はその前の半年を文献の学習に費やしていた。発端は1954年末、天野氏が菅原氏に、1,000台、2,000台という規模で売り切れる販売組織の構築を命じたことにある。調査では戦前のタイムレコーダーがまだ現役であることを確かめ、直販にかかる経費は総売上高の0.5%以内で済むと読んだ。群馬・栃木・茨城・福島にも半年をかけて調べを広げ、従業員60〜70名規模の企業を販売対象とし、200〜300キロ圏まで直販で回れると判断した。直販は、勘ではなく調査で採算を確かめてから踏み出したものである。並行して販売奨励金制度が設けられ、代理店へ定価の20〜25%引きで卸すのと同じ考えを自社の営業へも当てた。基本給1万円に奨励金を加えて10万円になる者も出た。
1956年10月1日、横浜機器が天野特殊機械を吸収合併し、商号を天野特殊機械と改めた。合併は、空気系商品の販売を強化するには資本金100万円程度の別会社では足りず、開発の進むNR型タイムレコーダーの量産工場を建てる必要が生じたためであった。1958年7月23日、20万株を公開して東京証券市場での店頭売買が始まり、売出価格80円の株は初日に128円の値をつけた。天野氏が定めたのは、会社の伸びに歩調を合わせて工場を少しずつ建て、その資金を株式公開で集めた自己資金で賄うという方針であり、1956年から1966年にかけて増資を重ねて、借り入れをせずに菊名工場を建てていった。
第一工場は1957年8月に着工して1958年5月に完成し、組立ラインをコンベア化して作業を単純化・専門化することで、個人の能力差によらず同じ品質の製品を量産できる工場となった。数ヵ月遅れの1958年11月、動力を電力とし打刻を全自動化したNR型タイムレコーダーの生産が始まり、1961年3月期にはタイムレコーダー全数量の73.2%を占めるまでになった。販売では1957年7月に菅原氏が福岡支店長として赴任し、九州の代理店の反発を受けながら直販を強めた。当時はタイムレコーダーを従業員100〜200名以上の企業が使うものとする通念があったが、直販の営業は30〜50名規模の工場を目標に市場を開き、1959年にはシェアが50%に達した。
対米進出は、35%の輸入税と部品税に州税まで加わる価格の不利を引き受ける判断であった。天野氏は1962年5月に渡米し、同年11月に再び発って全米47都市に255の代理店を持つECSを総代理店に選んだ。当時の米国市場はシンプレックスが7割を握り、同社は同程度の人員で月7,000台を生産しており、月1,500台の天野特殊機械に対して4.7倍の生産性であった。1964年8月、ニューヨーク州法人として資本金5万ドルでアマノ タイムシステムを設立し、これが海外法人の第1号となった。同月にはIBMと技術援助契約を結び、タイムレコーダー部門から退いた同社の200件以上の特許の使用権を得た。1966年6月に商号をアマノへ改め、1967年8月には東京証券取引所第一部へ昇格した。
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|---|---|---|---|---|
| 1945〜1967年横浜機器の設立と真空掃除機、天野特殊機械から東証一部上場とアマノへの改称 | 横浜機器を設立しタイムレコーダー・タイムスタンプ製造を開始 | ★ | ||
| 工業用真空掃除機等の研究・製造を開始 | ★★ | |||
| 天野特殊機械を吸収合併し商号を天野特殊機械に変更 | ★ | |||
| 東京証券取引所第二部に上場 | ★ | |||
| ニューヨークに子会社アマノ タイムシステムを設立 | ★ | |||
| 商号をアマノに変更 | ★ | |||
| 東京証券取引所第一部に上場 | ★ | |||
| 1968〜2001年就業管理システム「アレコデータ」と駐車場・清掃機器、パイオニア エクリプスなど米国の買収 | コンピューター就業管理システム 1966年に"アレコデータシステム"を発表し、1968年6月にコンピューター就業管理システム"アレコデータ"を発売した判断。国産第1号のタイムレコーダーを作った会社が、打刻機の販売から、打刻した時間を計算する仕組みの販売へ商品の性格を変えた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 東海アマノ設立し細江工場の製造を委託 | ★ | |||
| ベルギーに子会社アマノ ヨーロッパ N.V.を設立 | ★ | |||
| 大阪証券取引所第一部に上場 | ★ | |||
| 駐車場管理機器を発売 | ★★ | |||
| カリフォルニアに製造子会社アマノ アメリカ マニュファクチュアリングを設立 | ★ | |||
| コンピュータータイムレコーダー「インテレコーダー」を発売 | ★ | |||
| 清掃機器を発売 | ★ | |||
| 津久井工場(後に相模原工場)を建設 | ★ | |||
| ベルギーに子会社アマノ エレクトロニクス ヨーロッパを設立 | ★ | |||
| アマノ アメリカ マニュファクチュアリングがアマノ アメリカを吸収合併 | ★ | |||
| シンシナティ タイムを含む連続買収による北米基盤の確立 1990年3月に米国パイオニア エクリプス(清掃機器・溶剤)を、1991年12月に米国シンシナティ タイム(時間管理機器・パーキングシステム)を、いずれも米国デラウェア州に設けた持株会社を通じて買収した判断。 詳細を読む | ★★★ | |||
| シンシナティ タイムを買収 | ★★ | |||
| 都田工場を新設 | ★ | |||
| 中国上海に安満能国際貿易を設立 | ★ | |||
| アキュタイムを買収 | ★ | |||
| 2002〜2026年オムロンの駐車場事業譲受とマクギャン・ホロクオルツなど欧米の相次ぐ買収 | 武蔵電機製作所(後のアマノ武蔵電機)を買収 | ★ | ||
| 営業権の譲り受けという形での駐車場設備事業への進出 2002年10月、アマノがオムロン株式会社から駐車場設備事業の営業権を譲り受けた判断。1967年の駐車券発行機"パーキングマスター"以来35年つづけてきた事業に、同業の顧客と販売網を買い足した。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 春田薫 | オムロンティー・エー・エスから駐車場・駐輪場機器販売事業を譲受け | ★★ | ||
| 春田薫 | テリー マクギャン&アソシエイツを買収しアマノ マクギャンに商号変更 | ★★ | ||
| 春田薫 | モロッコのホロクオルツ/ホロスマート/ピアル等を持株会社経由で買収 | ★ | ||
| 春田薫 | アキュタイム システムズとアキュテック システムズを買収 | ★ | ||
| 中島泉 | クレオの株式を取得 | ★ | ||
| 中島泉 | アマノ パイオニア エクリプスがNilfisk-Advanceの木材床研磨機器部門を譲受け | ★ | ||
| 中島泉 | アーセージェーペー他3社を買収 | ★ | ||
| 津田博之 | アマノ マクギャンがService Tracking SystemsのValet Parking事業を譲受け | ★ | ||
| 津田博之 | アマノ ベトナムを設立 | ★ | ||
| 山﨑学 | アマノ テクニカル サービスを設立 | ★ | ||
| 山﨑学 | ハイヤー テクニシャンズ グループを買収 | ★ | ||
| 山﨑学 | ウェイトゥーテックを買収 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(アマノ)