1928年に実吉雅郎氏らが東京に設立した日本揮発油が起源。
米UOP社の特許で日本の製油所の中心装置の6〜7割を手がけ、1976年に商号を日揮へ改めて海外プラント中心へ転換した。中東・北米・東南アジアで大型プラントを請け負う、設計専業のエンジニアリング会社である。
石油精製業を営むために作られた会社が、一度も製油所を持たないまま業容を組み替えた。1928年の設立趣意書は、価格の最も低い重油を海外から輸入し、これを価格の最も高い揮発油に変えて国内の需要に応え、進んでは海外へ輸出すると謳っている。だがその製油所は建たず、手元に残ったのは米国ユニバーサル・オイル・プロダクツ社の特許を日本で使わせる権利だけだった。特許を売る商売は、装置も工場も持たずに利益を生む代わりに、技術の供給が絶たれれば何も残らない。1939年の道義的禁輸で図面の受け渡しが止まり、1942年に提携そのものが解消されたとき、その弱さがそのまま業績に出た。
戦後に実吉雅郎社長が二度の渡米で取り戻したのは、同じ特許の再実施許諾権だった。ところが1953年から日本揮発油が売り物にしたのは、その権利ではなく、設計と建設を一社で引き受ける役務のほうである。丸善石油下津製油所の流動接触分解装置で元請を務め、横浜の工務部に主任技師室を置き、設計部門を塔槽・熱交換器・配管の機能別に組み替えた。受注額は1953年度の1億7,000万円から1955年度には8億900万円へ跳ね上がる。特許の使用料は他社が開発した技術の分け前でしかないが、設計料は自社の技術者が費やした時間の対価である。製油所を持てなかったことが、装置を持たずに図面で稼ぐ会社の形を決めた。
社名に「揮発油」の語が入ったのは、発足時に石油事業へ乗り出すつもりだったからである。会社は実吉雅郎氏らが1928年10月25日に資本金250万円で日本揮発油株式会社として立ち上げ、本店を東京市麹町区内幸町に構えた。当初の構想は、ダブス式熱分解プロセスの特許権を買い取り、自ら石油を精製することにあった。設立の翌月、11月には米国ユニバーサル・オイル・プロダクツ社との間で、熱分解蒸留法装置の日本における特許の譲受けおよび建設に関する協約を結んでいる。しかしさまざまな事情から方針を改め、特許権の使用を他社に認めるプロセス・ライセンシングを主な業務に据えた。石油事業から手を引いた後も、社名は48年にわたって変わらなかった。
設立から5年後の1933年1月、本店を大阪市東区高麗橋へ移した。同じ年にダブス・プロセスの第一号基を満鉄へ納入し、買いとった特許を装置として据える最初の実績を得ている。その後はイソオクタン製造法を旧陸海軍や石油会社に使用許可し、あわせて装置の設計と触媒の開発にも事業を拡大した。1938年8月にはUOP社とイソオクタン製造法の特許の実施および建設に関する追加の暫定的諒解覚書を交換したものの、戦争によりUOP社との諸協約は解消された。技術の供給源を失ったまま、1942年12月には新潟県新津に触媒製造工場を新設した。
1928年に導入した技術は、満洲の撫順で始まったオイルシェール事業に使われ、戦争中は陸海軍が使用した航空機用ガソリンの製造にも及んだ。それでも戦前の主な仕事は特許権を売ることだった。1941年から42年にかけて自社に設計事務所を設け、触媒工場を建設し、研究所を置いたのは、特許の使用許可を売るだけの体制から、図面を引き装置を組む機能を社内へ抱える体制に移す動きだった。もっとも終戦後しばらくは日本の産業が順調に伸びず、同社は不振の状態を続けた。1948年8月には再建整備法により資本金を250万円から225万円へ減らし、1949年1月に本店を東京都中央区日本橋室町へ移している。
京浜製作所では従業員への給料を期日どおりに払うことさえ難しく、プラント関係の注文も伸びなかった。1950年3月には資本金を1,000万円に増やしたが、終戦から数年を経ても日本揮発油には確かな仕事の見込みがなかった。同じ1950年、役員会は再建策として、石油の精製か、それにつながる事業に乗り出す案を認め、UOP社へ書簡を出した。占領下の日本では、米国側から招かれなければ海外へ渡る旅券が出ず、返事を待つだけの時間が続いた。1951年7月、UOP社のハリス社長から訪米を促す信書が届いた。役員会は、戦前に契約の交渉に当たった実吉雅郎社長その人を米国へ送ると決め、社長は同年10月と翌年3月の二度にわたって太平洋を越えた。旧知の幹部がすべて入れ替わっていたUOP社との交渉は、困難をきわめた。
UOP社との提携が復活したのは1952年5月で、石油精製および石油化学に関する特許の実施および建設の契約を結び、技術の供給元を14年ぶりに取り戻した。これによって同社は、UOP社の全プロセスについて日本での包括的な特許再実施許可権を手にし、プラントの設計から建設までを自ら手がける体制に移った。その下地には、1950年から51年にかけて国内の石油工場が操業を再開し、そこから事業が大きく伸びていたことがある。同年7月に横浜工務部を置き、8月には触媒製造工場を切り離して日揮化学株式会社を設立した。12月には建設業者としての登録も済ませている。
契約を取り戻した日本揮発油に、次に必要だったのは資金と陣容だった。UOP社へ支払うロイヤリティの頭金40万ドルのうち4分の1にあたる10万ドル、当時の3,600万円を、その年の暮までに用意しなければならなかった。実吉雅郎社長は、第一高等学校と東京帝国大学を通じて同期だった三井銀行頭取の佐藤喜一郎氏に事業の見込みを説いて金融の約束を取り付け、渡辺伊三郎顧問を介して申し込みのあった藤永田造船所にも資本参加を求めた。5,000万円の増資は、再評価積立金2,000万円の組み入れと実吉社長個人の500万円、藤永田造船所の2,500万円で構成され、資本金は1952年6月に2,500万円、次いで5,500万円へ積み上がった。日本揮発油側3,500万円、藤永田側2,500万円という出資の比率が、このとき決まった。
日本では、この種の企業はそれまでプラントメーカーと呼ばれていた。転機は、工務部長を務める権藤登喜雄常務のUOP社への派遣で、常務は1952年9月に出発し、11月まで先方に滞在した。帰国した常務は1953年1月の日本化学機械協会の総会で、UOP社の子会社プロコン社やケロッグ社、マッキー社がいずれも完全なエンジニアリングの基盤に立ってプラントの設計と建設を手がけていると報告し、日本揮発油はこの1953年から、自社をエンジニアリング会社と位置づけ、外に向けてはEngineering FirmまたはEngineers & Constructorsを名乗るようにした。セールスエンジニアが客先に携えたリーフレットには、設計から建設までを一社で責任を負って進めることの利点が11項目にわたり挙げられていた。事業内容はやがて、各種製造装置の設計および建設を先頭に、技術の使用権の付与、UOP社の触媒の輸入販売の三本で書き表されるようになる。
1953年、日本揮発油は丸善石油下津製油所の流動接触分解装置と、これに付くガス回収装置について、設計と建設の元請業者に採用された。石油精製業界で原油処理能力の拡大と新規プロセスの採用を同時に行う気運が高まっていたことが、その背景にある。基本設計はUOP社が行い、詳細設計から先を日本揮発油が担い、機器は顧客の支給、材料は自社の調達という分担だった。ただし反応塔と再生塔、圧縮機は、UOP社の助言のもとで自社が米国から輸入した。近代的な石油プラント一式を初めて請け負う仕事であり、詳細設計にあたっては、1950年に米国で建設された同程度の能力の装置の図面と仕様書をUOP社から取り寄せて参考にしている。丸善石油はのちに、日本石油精製・出光興産・東亜石油と並ぶ主要な取引先となった。
請け負う範囲が広がると、社内の組み立ても変わった。1953年当時の横浜の工務部は従業員が50名を超え、うち30名が設計課、20余名が工務課と工事課に分かれていた。受注額は1953年度に1億7,000万円、1954年度に1億5,700万円と足踏みした。その間の1954年1月、工事規模に応じて置いていたコーディネーター制は主任技師室という組織にまとめられた。この制度はもともとUOP社やプロコン社のやり方にならったもので、設計部門の分担も塔槽・熱交換器・配管の機能ごとに組み替えられた。受注は1955年度に8億900万円へ急増する。当時は設計にかかった費用を顧客にそのまま請求できる環境ではなかった。それでも丸善石油から受けた装置の仕事を機に、設計料と技術料を請求する根拠が発注側と受注側の双方にとってはっきりし始めた。10年後の1963年3月期には完成工事高が64億7,000万円に達し、特許の売り手だった会社は図面の売り手へと姿を変えていた。
国内の製油所を設計する会社が、20年で海外の国営企業を相手にする会社へ変わった。1958年に計画部を置いたときの横浜事業所は213人、完工高19億円の所帯だったが、1964年には762人、134億円になっている。伸びを支えたのは、UOP社のプロセスだけを扱う立場を抜け出したことだった。エチレンのストーン・アンド・ウェブスター社、高圧ポリエチレンのユニオンカーバイド社、ポリウレタンのバイエル社と、顧客が選ぶ技術の導入先ごとに設計の流儀が違い、その差を吸収する作業そのものが仕事になった。1962年の東京証券取引所第二部への上場は、国内の石油精製業の設備投資に歩調を合わせる収益の形が固まった時点の記録である。
その形を崩したのは、国内の需要ではなく契約の型だった。1968年にアルジェリアの国営炭化水素公社ソナトラックから約250億円で受注したアルズー製油所は、洪水と3倍に跳ね上がった賃金を一括請負のランプサム契約で吸収しきれず、約50億円の赤字となって減配と賞与カットを招いた。日本揮発油は損失を社内の検討グループにかけて分解し、実費に報酬を加算するコスト・プラス・フィー方式と、受注先を一国に集中させない方針を引き出す。売上高は1972年3月期の738億円から1975年3月期の1,287億円へ伸びた一方、当期純利益は23億3,000万円から7億円へ低下した。量を取れば利益が薄くなるという、このあと長くつきまとう問いが、ここで立った。
1958年4月、日本揮発油は工務部の主任技師室を計画部へ改め、設計部・調達部と同列に並ぶ機能型の組織を敷いた。石油精製だけでなく石油化学のプラントを数多く受注し、顧客の業種も多様になり、設計から調達、建設までを一貫して請け負う案件が増えたことが背景にあった。もっとも当時のコーディネーターの任務は、専門技術の間を調整して設計・調達・建設の各段階を取りまとめることにとどまり、原価を統制する機能は弱かった。それでも横浜事業所の規模はこの間に大きく変わる。1958年に213人・完工高およそ19億円だった事業所は、1964年には762人・134億円になった。全社の従業員は1963年時点で1,360人。大型の案件を並行してこなせる企業の規模に達したことを、この伸びは示していた。
受注の中身は、UOP社のプロセスだけでは済まなくなった。顧客が決める技術の導入先は、エチレンのストーン・アンド・ウェブスター社、合成ゴム関連のブロウノックス社、高圧ポリエチレンのユニオンカーバイド社、ポリウレタンのバイエル社、アセトアルデヒドのウーデ社へと多元化し、相手ごとに設計と工程管理の考え方が違った。日本揮発油は設計に入る前に、導入先や顧客と基本設計の基準になる資料を確かめ、調える作業から始めるようになる。扱う対象も、ゴムやプラスチックの塑性流体やスラリー、塩素・弗素・濃硫酸・一酸化炭素といった危険物や腐蝕性の物質へ広がり、操作の条件はマイナス100度以下の低温から900度の高温、2,000気圧を超える高圧にまで及んだ。機種と構成材料の選定、装置の設計費の概算を基本設計の段階で行う役割が、ここで重くなる。1963年の主な取引先には、三井石油化学工業・日本石油化学・日本ポリウレタンが名を連ねている。
1962年5月、日本揮発油は東京証券取引所第二部に株式を上場した。1963年3月期の当期純利益は4億4,900万円、授権株式数2,400万株に対して発行済株式数は1,500万株、資本金は7億5,000万円である。装置と触媒の納入先は、日本石油精製・出光興産・丸善石油・東亜石油・大協石油といった国内の製油所でほぼ占められ、拠点も横浜の事業所のほか大阪・徳山・四日市・岩国・水島と、いずれも製油所と石油化学コンビナートの立地に置かれていた。本社は東京都千代田区大手町にあった。国内の石油精製業の設備投資と歩調を合わせる収益の形が、上場の時点ですでにできあがっていた。
1964年、日本揮発油はゼネラル石油精製堺製油所の集中合理化装置の受注を逃した。石油精製設備の新投資を抑えてきた設備休戦が解除される情勢のもとでの第1号の新設製油所であり、受注への意欲は強かった。この失注は組織の問題として受け止められる。プロジェクトエンジニアが関与する範囲が一つの装置から工場全体へ広がるにつれ、機能別に並んだ計画部・設計部・調達部との間に摩擦が生じていたからである。同年4月、計画部長の高木智雄氏の指示で橋本国重氏がまとめた手順書「Project Engineering Procedure」が制定され、プロジェクトマネジャーが設計・調達・建設にわたって管理の責任を負うことが明文化された。6月、計画部はエンジニアリング本部へ改組された。
海外の仕事は、三つの段階を踏んで主軸になった。第1段階は1960年代前半から活発になった欧米のコントラクターの下請としての機器・資材の調達業務で、それとほぼ前後して韓国・南米・東南アジア・中東でのプラント建設を一括で受注する第2段階に移る。もっともこの段階の受注は国内案件の谷間を縫って取ったものが多く、国内受注の周期的な変動に対する安全弁の域を出なかった。1970年代前半になると、経営計画のなかに海外受注比率を25%以上と明示し、重点を置いて取りに行くようになる。顧客も、メジャーオイルとその関係会社から、発展途上国の民間企業や国営企業、社会主義国の国家機関、国際機関へと広がった。恒常的に受注するには自前の拠点が要るとして、1965年に置いたソウル事務所で利点を確かめたうえ、1971年にシンガポール事務所を開設している。
日本揮発油とアルジェリアの縁は、国連工業開発機関との契約に始まる。1966年から1968年にかけて同国政府の石油化学計画に助言を与えるなかで、伊藤忠商事の現地アルジェ事務所との行き来が生まれていた。1968年は、会社が海外の大型プラント案件を積極的に取りにいく方針へ転じた年でもあり、同じ1968年の10月末には、国営炭化水素公社ソナトラックが年産250万トンの製油所を国際入札に付した。ソナトラックは伊藤忠商事と日本揮発油の組み合わせを日本側の一団とみなし、欧米の請負会社と同じ土俵で争わせようと、入札の書類を伊藤忠の同事務所に届けた。二社は組んで札を入れ、長い時間と労力を費やした末に契約にこぎつけ、ブルネイでも1970年1月に液化天然ガス工場の国際入札があり、米国プロコン社と組んだ会社はベクテル社などを退けて落札した。総投資額1億7,000万ドル、612億円の工事のうち、受注額は243億円だった。
1968年に受注したアルズー製油所の工事は、完成までに満4年、最終検収までに満5年を要した。1973年に引き渡しを終えたとき、アルジェリア政府は日本揮発油を、どんな難局に直面しても建設を最後まで完遂する会社と評した。受注額約250億円に対して損失は約50億円にのぼり、会社は配当を減らし賞与も削らざるを得なかった。赤字を招いた要因は重なり合っており、現地を襲った洪水、現地労働者の技量の過大な見積もり、工期中に3倍となった賃金に加え、こうした増分を価格へ転嫁できないランプサム方式の一括請負契約があった。プラント輸出で自信を深めつつあった会社にとって、経営上の打撃は誇りを揺るがしかねない大きさで、この一件はその後の海外案件をどう取り、どう遂行するかの構えを左右した。
日本揮発油は社内に、アルジェリアを中心とする海外の問題のある案件を評価・検討するグループを設けた。グループは当事者とともにデータを集めて分析し、討議のうえ役員会へ報告と提案を行っている。篠田治男社長は、失敗の主因を、増えた費用を吸収できないランプサム契約にあったと見て、以後は実費に報酬を加算するコスト・プラス・フィー方式を積極的に採り入れた。同時に『同じ国に仕事を集中するな、分散しろ』と言って受注先の分散を指示し、東南アジアから中近東へ仕事を振り分けた。分析は1974年、同じアルズー製油所のビチューメンプラント増強工事で生かされ、今度は成功裡に完遂された。損失そのものよりも、そこから契約の型とリスクの配分という繰り返し使える方法を引き出したことに、この会社の性格が出ている。
受注先を散らす方針は、拠点の配置に表れた。1971年のシンガポールに続いて1973年にパリ、1975年にバーレンへ事務所を開設し、1974年には中南米の拠点としてブラジルの設計・建設会社アラウジョ社へ資本参加したうえ、サンパウロに全額出資の子会社JGCリミターダを設立している。同じ1974年、インドネシア国営石油会社プルタミナらとの3社合弁で、ジャカルタにエンジニアリング会社を立ち上げた。売上高は1972年3月期の738億円から1975年3月期には1,287億円へ伸びた。一方で当期純利益は1972年3月期の23億3,000万円を頂に、1974年3月期には7億円まで低下している。仕事の量が増えるほど利益が薄くなるという構造が、ここで姿を見せた。
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事実根拠:出所(日揮ホールディングス)