1928年10月25日に、東京都内において日本揮発油株式会社を設立。創業者は実吉雅郎氏(元横浜正金銀行・勤務)が中心となって会社を発足した。事業の狙いは、海外から安価な重油を輸入し、国内でガソリンに精製し、海外に輸出することにあった。このため、ガソリン精製のための技術導入を決定し、会社設立の翌月(1928年11月)に米UOP社と「熱分解蒸留装置」に関する技術提携を締結した。
会社設立当初は、日本国内でガソリン精製を行うため、大阪府の泉北地区において製油所(通称:大津製油所計画)の新設を計画した。莫大な投資が必要なことから、増資を通じた募集を行ったものの、国内でガソリンは普及途上であったこともあり理解が得られずに苦戦。昭和恐慌による経済不況にも直面したことから増資を諦め、1930年に大津製油所の新設計画を撤回した。
日揮としては製油所の経営は断念したものの、米UOP社との提携によって得た特許実施権などを保持しており、これらの「プラント特許使用権権」を日本石油などの石油会社に販売することで収益を確保。このため、製油所ではなく、海外提携による特許収入により、戦前を通じて財務基盤を安定させた。
1934年に日揮は米UOP社の技術支援を受けつつ、四日市に存在した海軍燃料厰に対して「固定床接触分解装置」の建設支援を実施。日米開戦の数年前であり、米UOP社からの技術指導を受けることができた。この実績により、日揮はプラントエンジニアリング事業を本格化し、プラント建設における「設計料」を徴収するビジネスを開始した。1940年に海軍はUOP社の技術を持つ日揮に着眼し、日揮と海軍は「特別契約」を締結した。
その後、1941年の日米開戦を機に、軍用航空機向けのガソリン需要が増大。日本国内に燃料基地が新設され、日揮はこれらのプラントの設計を手掛けることで収入を確保した。1943年までに、従来の主力であった「特許使用権による収入」を「設計料」が凌駕し、業績面においてもエンジニアリング会社となった。
アルジェリア、ブルネイ、シンガポールなどで200億円台の大型PJを相次いで受注。プラント新設が一巡した国内から、海外展開に注力
アルジェリア向けガスプラント「モジュールI」「モジュールII」の2件を受注。合計の受注額は1450億円となった。1976年に日揮は大規模PJに対応するため、アルジェリア事業本部を新設。数十名の海外PJ経験者から構成されるチームで対応し、社内組織においては「部」ではなく「本部」扱いすることで重要視した。