1878年〜 1878年の免許から電子取引所への転換まで
- 1878年 東京株式取引所設立免許
- 1878年 大阪株式取引所設立免許
- 1949年 会員組織として東京・大阪証券取引所が設立
- 1949年 株券の売買を開始
- 1985年 東京証券取引所、国債先物市場を開設
- 1999年 東京証券取引所、株券売買立会場を閉場
- 1999年 東京証券取引所、新興企業向け市場「マザーズ」を開設
2つの取引所が並行して走った120年
1878年5月、東京株式取引所が設立免許を取得し、翌6月に大阪株式取引所も同じく免許を受けた。両取引所は近代日本の資本市場の出発点として別々に歩み、戦時中の証券市場統制を経たのち、1949年4月に会員組織の東京証券取引所・大阪証券取引所として再設立された。同年5月に株券売買が再開され、1956年4月に債券市場、1961年10月に市場第二部制度を導入した。続いて1966年10月に国債市場、1970年5月に転換社債市場、1973年12月に外国株市場を東京証券取引所が立ち上げた。株券にとどまらない取扱商品が、戦後復興期から高度成長期にかけて整った。証券取引所は売買インフラの中立性が信用の源泉となる業態であり、商品の幅が広がるほど運営の安定性と資金調達機能の厚みは増す。発行体と投資家の双方を国内取引所のなかにつなぎ留める基盤が、東京と大阪の並走によって築かれた時期である。 [1][2][3][4][5][6]
- 日本取引所グループ 有価証券報告書【沿革】
- [1]1878年5月 東京株式取引所が設立免許を取得(東京証券取引所の前身)
- [2]1878年6月 大阪株式取引所が設立免許を取得(大阪証券取引所の前身)
- [3]1949年4月 会員組織として東京証券取引所・大阪証券取引所が設立
- [4]1949年5月 株券の売買を開始
- [5]1956年4月 債券市場を開設(東京・大阪両取引所)/1961年10月 市場第二部制度を導入
- [6]1966年10月 東証 国債市場開設/1970年5月 東証 転換社債市場開設/1973年12月 東証 外国株市場開設
1969年7月、東京証券取引所株価指数(TOPIX)の算出・公表が始まり、日本株市場を代表する指数として国内外の投資家に定着した。大阪証券取引所は1980年代前半、上場基準を緩和した新2部市場を設け、銀行借り入れや時価発行増資で大企業に劣後していた中堅・中小企業に株式市場への道を開いた。当時の理事長・山内宏は、投資家保護と自己責任の意識がまだ追いつかない段階で米ナスダックのような市場をいきなり作るのは時期尚早と判断し、中小企業の資金調達を支えるという現実的な役割に新2部の狙いを絞り込んだ。1985年10月、東京証券取引所が国債先物市場を開設、1988年9月には東京・大阪両取引所がそれぞれ株価指数先物市場を開設した。 [7][8][9][10]
- 日本取引所グループ 有価証券報告書【沿革】
- [7]1969年7月 東証株価指数(TOPIX)の算出・公表開始
- [10]1988年9月 東京・大阪両取引所が株価指数先物市場を開設
- 日経ビジネス(1986年11月17日号)
- [8]大阪証券取引所は1980年代前半、上場基準を緩和した新2部市場を設置(中堅・中小企業の株式市場参加を支援)
- [9]当時の大証理事長・山内宏がナスダック型市場を時期尚早と判断し、新2部の狙いを中小企業の資金調達支援に絞った
大証が導入した日経平均株価先物は開設半年足らずで1日平均売買金額が現物市場の5、6倍に達し、東証のTOPIX先物をも上回る規模に育ち、山内は「大証の存在意義は新しい試みへの挑戦の場であり続けることにある」との考えで先物・オプションへの傾斜を進めた。翌1989年、大阪証券取引所が日経225オプション市場を、10月に東京証券取引所が株価指数オプション市場を開いた。1990年5月には東京証券取引所が国債先物オプション市場を立ち上げた。現物・債券・デリバティブが同じ資本市場インフラに並ぶ構造を、両取引所が10年弱で整えた。デリバティブ市場の整備は機関投資家のリスクヘッジ需要に応じた動きで、海外勢を東京・大阪の市場へ呼び込む下地ともなった。とりわけ大阪は日経225オプションの先行で派生商品の存在感を高めていた。 [11][12][13]
- 日経ビジネス(1989年2月27日号)
- [11]大証の日経平均株価先物は開設半年足らずで1日平均売買金額が現物市場の5〜6倍に達し、東証TOPIX先物を上回る規模に育った
- 日本取引所グループ 有価証券報告書【沿革】
- [12]1989年6月 大証が日経225オプション(株価指数オプション)市場を開設/同年10月 東証が株価指数オプション市場を開設
- [13]1990年5月 東証 国債先物オプション市場を開設
- 日本取引所グループ 有価証券報告書【沿革】
- [1]1878年5月 東京株式取引所が設立免許を取得(東京証券取引所の前身)
- [2]1878年6月 大阪株式取引所が設立免許を取得(大阪証券取引所の前身)
- [3]1949年4月 会員組織として東京証券取引所・大阪証券取引所が設立
- [4]1949年5月 株券の売買を開始
- [5]1956年4月 債券市場を開設(東京・大阪両取引所)/1961年10月 市場第二部制度を導入
- [6]1966年10月 東証 国債市場開設/1970年5月 東証 転換社債市場開設/1973年12月 東証 外国株市場開設
- [7]1969年7月 東証株価指数(TOPIX)の算出・公表開始
- [10]1988年9月 東京・大阪両取引所が株価指数先物市場を開設
- [12]1989年6月 大証が日経225オプション(株価指数オプション)市場を開設/同年10月 東証が株価指数オプション市場を開設
- [13]1990年5月 東証 国債先物オプション市場を開設
- 日経ビジネス(1986年11月17日号)
- [8]大阪証券取引所は1980年代前半、上場基準を緩和した新2部市場を設置(中堅・中小企業の株式市場参加を支援)
- [9]当時の大証理事長・山内宏がナスダック型市場を時期尚早と判断し、新2部の狙いを中小企業の資金調達支援に絞った
- 日経ビジネス(1989年2月27日号)
- [11]大証の日経平均株価先物は開設半年足らずで1日平均売買金額が現物市場の5〜6倍に達し、東証TOPIX先物を上回る規模に育った
立会場閉鎖と大証の電子取引システム構想
1990年代後半、情報システムの処理性能向上と通信回線の高度化により、取引所は物理的な立会場から電子プラットフォームへ移行した。1997年11月、東京証券取引所が株券・転換社債券にかかる立会外取引制度を導入した。1998年7月には適時開示情報伝達システムTDnetを稼働させ、同年12月には大阪証券取引所が電子取引システム「J-NET」を構築し、国内の取引所間競争にとどまらずグローバル競争に耐える市場、海外のどこからでもアクセスできる体制づくりを進めた。大証専務理事の野口卓夫は、大口注文の情報が取引完了前に市場へ流れて先回り取引を招く問題に対応するため、価格・数量の組み合わせを細かく設定してマッチングする非公開型電子取引「オプティマーク」市場の2000年春導入もあわせて構想した。 [14][15][16][17]
- 日本取引所グループ 有価証券報告書【沿革】
- [14]1997年11月 東証が株券・転換社債券に係る立会外取引制度を導入
- [15]1998年7月 東証 TDnet(適時開示情報伝達システム)を稼働
- 週刊東洋経済(1998年10月31日号)
- [16]1998年12月 大証が電子取引システム「J-NET」を構築
- [17]大証専務理事・野口卓夫が非公開型電子取引「オプティマーク」市場の2000年春導入を構想
野口はあわせて、経常赤字でも上場できる新市場の創設も検討していた。1999年4月に東京証券取引所が株券売買立会場を閉場、同年7月には大阪証券取引所も立会場を廃止し、売買の現場を支えてきた物理空間としての立会場は、開設以来続いた約1世紀の歴史をここで閉じた。東京・大阪のいずれもが、電子取引のインフラとシステム運用を中核に据える組織へ性格を切り替えた。仲立人の身ぶりや声を媒介とする市場から、注文と約定をすべて電子データとして処理する市場への移行であり、取引所自身の主要なコストもシステム投資の側へ寄せられた。 [18][19]
- 週刊東洋経済(1998年10月31日号)
- [18]野口卓夫は経常赤字でも上場できる新市場の創設もあわせて検討していた
- 日本取引所グループ 有価証券報告書【沿革】
- [19]1999年4月 東証が株券売買立会場を閉場/同年7月 大証が立会場を廃止
- 日本取引所グループ 有価証券報告書【沿革】
- [14]1997年11月 東証が株券・転換社債券に係る立会外取引制度を導入
- [15]1998年7月 東証 TDnet(適時開示情報伝達システム)を稼働
- [19]1999年4月 東証が株券売買立会場を閉場/同年7月 大証が立会場を廃止
- 週刊東洋経済(1998年10月31日号)
- [16]1998年12月 大証が電子取引システム「J-NET」を構築
- [17]大証専務理事・野口卓夫が非公開型電子取引「オプティマーク」市場の2000年春導入を構想
- [18]野口卓夫は経常赤字でも上場できる新市場の創設もあわせて検討していた
東西で分かれた新興市場をめぐる競争
1999年11月、東京証券取引所は新興企業向け市場「マザーズ」を開設し、新興企業の直接的な資金調達の場を国内取引所の内部にはじめて設けた。翌2000年5月に大阪証券取引所がナスダック・ジャパン市場を開設し(2002年12月にヘラクレスへ改称)、米ナスダックとの連携を軸とする新興市場の競争が国内で始まった。開設に至る交渉は難航し、同年3月には大蔵省出身の副理事長が理事会の承認を経ずに関連会社12社を設立して資金を流用していた問題が表面化、地場証券出身の理事会メンバーの突き上げで理事長・副理事長が退任に追い込まれた。 [20][21][22]
- 日本取引所グループ 有価証券報告書【沿革】
- [20]1999年11月 東証が新興企業向け市場「マザーズ」を開設
- [21]2000年5月 大証がナスダック・ジャパン市場を開設/2002年12月にヘラクレスへ改称
- 日経ビジネス(2000年10月16日号)
- [22]2000年3月 大蔵省出身副理事長の関連会社無断設立・資金流用問題が表面化し、大証理事長・副理事長が退任
同年6月、民間出身では23年ぶりとなる巽悟朗が後任理事長に就任し、決裂寸前だった交渉の場で「電卓を置け」と一喝して合意をまとめさせた経緯が、この新興市場開設の裏にあった。2000年3月に東京証券取引所が広島・新潟両証券取引所と合併、2001年3月には大阪証券取引所が京都証券取引所と合併し、地方取引所の統合も並行して進んだ。新興市場の受け皿と地方拠点の集約をめぐる東西の対抗関係が、組織再編の論点として輪郭を現した。新興市場と地方拠点の取り合いは、のちの統合交渉の前史として残る論点となった。 [23][24][25]
- 日経ビジネス(2000年10月16日号)
- [23]2000年6月 巽悟朗が民間出身では23年ぶりとなる大証理事長に就任、ナスダック・ジャパン交渉で合意をまとめた
- 日本取引所グループ 有価証券報告書【沿革】
- [24]2000年3月 東証が広島・新潟両証券取引所と合併
- [25]2001年3月 大証が京都証券取引所と合併
- 日本取引所グループ 有価証券報告書【沿革】
- [20]1999年11月 東証が新興企業向け市場「マザーズ」を開設
- [21]2000年5月 大証がナスダック・ジャパン市場を開設/2002年12月にヘラクレスへ改称
- [24]2000年3月 東証が広島・新潟両証券取引所と合併
- [25]2001年3月 大証が京都証券取引所と合併
- 日経ビジネス(2000年10月16日号)
- [22]2000年3月 大蔵省出身副理事長の関連会社無断設立・資金流用問題が表面化し、大証理事長・副理事長が退任
- [23]2000年6月 巽悟朗が民間出身では23年ぶりとなる大証理事長に就任、ナスダック・ジャパン交渉で合意をまとめた