研究開発重視の原点
教訓
1951年に合成洗剤ワンダフルを発売し、1957年に和歌山で専用工場へ投下資本を配分した。日本有機で蓄積した高級アルコール技術を民需へ転用した。単なる合成洗剤への投資ではなく、研究開発と設備を揃える経営判断に特色があり、その後の花王が研究開発型メーカーとして意思決定を行う傾向を決定づけた。
1950年代
流通再設計の覚悟
教訓
1964年に花王は小売27万店と再販契約を結び販社整備へ踏み切った。一次問屋との取引停止で反発を受け、1969〜71年に洗剤シェア首位を失った。1973年の乱売局面で売価を統制し利益率を守った。短期の数量より価格主導権を優先する決断が、長期収益の確保に直結した。
1960年代
買収後統合の設計
教訓
2006年に花王はカネボウ化粧品を4100億円で買収し国内シェアを引き上げた。統合は長期化し、2013年の白斑問題でFY2013〜FY2015に累積赤字が発生した。結果として長期にわたる買収交渉で消耗し、物流・研究・販促を束ねるPMIの設計が不十分なまま、買収後の企業運営に課題を残した。
2000年代
経営指標の理想と現実
教訓
オアシスからの株主提案は、花王が重要視した経営指標(EVA、ROIC)に一石を投じた。確かに花王は最先端の指標を導入することで経営効率を改善したように見えたが、肝心の企業価値(株価)は長期で伸び悩んでいた。すなわち、経営と株主の価値観の対立でもあった。
2020年代
売上
花王:売上高
■単体 | ■連結 (単位:億円)
16,284億円
売上高:2024/12
利益
花王:売上高_当期純利益率
○単体 | ○連結 (単位:%)
12.1%
利益率:2024/12
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1887
6月

長瀬富郎商店を創業

背景:石鹸需要の拡大と日用品流通の進展

明治期の日本では、都市部を中心に生活習慣が変化し、石鹸は衛生用品として消費対象になりつつあった。石鹸市場は欧米からの輸入品が中心であり、品質差や供給安定性が販売数量に影響していた。国内製造は限定的で、小売段階では輸入商材の取扱いが主流だった。

同時に鉄道網の整備が進み、東京を起点とする日用品の流通路が形成されていた。日本橋・馬喰町は商業と物流が交差する地点であり、反復購買が見込まれる日用品を扱う条件が整っていた。石鹸は軽量で保管性が高く、鉄道物流との相性が良い商品として流通しやすい位置づけにあった。

決断:1887年における日用雑貨商としての創業

1887年6月、長瀬富郎は東京日本橋・馬喰町で長瀬富郎商店を創業した。長瀬富郎は岐阜県中津川で酒造業を営む家系の出身で、独立開業に必要な投下資本を確保できる立場にあった。創業時の事業は石鹸と輸入文具を扱う日用雑貨の小売であり、製造業ではなく流通業として市場に参入していた。

当時の石鹸市場では、製造に先行してリスクテイクするよりも、仕入れと販売を通じて需要と品質評価を把握する選択が現実的だった。長瀬は製造投資を後段に置き、まず流通で販売数量と取引関係を積み上げる判断を取っていた。この選択により、後の事業拡張に接続可能な販売データと市場理解が蓄積されていった。

流通起点で始まった事業選択

1887年の創業時、長瀬富郎商店は製造ではなく流通から石鹸市場に参入していた。輸入石鹸の取扱いを通じて、品質差と需要の関係を販売現場で把握する動きが取られていた。その後の製造検討は、販売数量や取引関係の蓄積を踏まえて進められる形となっていた。

1890
10月

花王石鹸を発売

1890年、長瀬富郎商店は石鹸の製造に参入し、国産の「花王石鹸」を発売した。これは、流通業として石鹸を扱ってきた同店が、製造工程へと活動領域を広げる動きだった。長瀬富郎は日用雑貨商として輸入石鹸を販売する中で、品質差や供給条件、価格形成を把握しており、その知見を踏まえてバリューチェーンの川上へ進出していた。

流通業者からメーカへの転身

当時の石鹸市場では輸入品への依存度が高く、為替や調達条件が収益に影響していた。製造参入は投下資本と技術習得を伴う判断だったが、流通段階で蓄積した需要情報を活用することで、供給の主導権を一部内製化する狙いがあった。1890年の花王石鹸発売は、流通中心の事業から製造を含む事業構成へ移行する転換点として位置づけられていた。

1922
11月

吾嬬町工場を新設

背景:石鹸需要拡大と量産体制への要請

大正期に入ると、日本国内では都市人口の増加と生活様式の変化により、石鹸需要が拡大していた。花王石鹸は1890年の製造参入以降、流通網を通じて販売数量を伸ばしており、従来の製造規模では供給能力と効率性の面で制約が生じていた。とくに日用品としての反復購買が進む中、安定供給と単位当たりコストの管理が論点になっていた。

また、第一次世界大戦後の経済環境では、輸入品への依存リスクや原材料調達条件の変動が意識されていた。石鹸製造においては、製造工程の集約と設備更新による生産性向上が求められ、既存工場の拡張ではなく、新たな量産拠点を設ける選択肢が検討されていた。

決断:1922年における吾嬬町工場の新設

1922年、花王は東京・吾嬬町に新工場を新設した。同工場は石鹸の量産を目的とした設備を備え、従来拠点に比べて生産工程の集約が図られていた。吾嬬町は水運と陸上輸送の双方に対応可能な立地であり、原材料の受け入れと製品出荷の両面で物流効率を意識した配置だった。

この新設により、花王は製造能力を引き上げ、需要増加に対応する体制を整えた。量産設備への投下資本は大きかったが、生産単位当たりのコスト管理と供給の安定化を同時に進める判断だった。吾嬬町工場は、その後の事業拡大を支える中核拠点となり、現在のすみだ事業場へと連なる生産拠点の起点として位置づけられている。

量産によるコストダウンを推進

1922年の吾嬬町工場新設は、石鹸需要の拡大に対して製造能力を引き上げる判断だった。既存拠点の延長ではなく、新工場への集中投資を選択した点に特徴があった。この決断により、花王は量産・安定供給・コストを同時に進めることで、中小企業が群雄割拠する市場で、大手メーカーとしての生き残りを図った。

1925
5月

花王石鹸株式会社を設立

背景:事業規模拡大と家族経営の限界認識

大正期を通じて、花王石鹸は製造能力の増強と販売数量の拡大を進めていた。吾嬬町工場の新設以降、石鹸は量産品として全国流通し、売上規模と取引先数は拡大していた。一方で、経営の意思決定や資金調達、組織運営は、創業家(長瀬家)を中心とした体制に依存していた。

事業が拡張するにつれ、家族経営では対応が難しい論点が顕在化していた。設備投資に伴う資金需要は増加し、製造・販売・管理の各機能を分担する体制が求められていた。また、取引関係の拡大に伴い、経営の継続性や責任の所在を明確に示す必要性も高まっていた。

決断:1925年における株式会社化の選択

1925年、花王石鹸は株式会社として組織を改め、花王石鹸株式会社を設立した。この決断により、経営は創業家個人の裁量から、役割分担を前提とした組織運営へと移行していった。株式会社化は、資本の集約と意思決定プロセスの整理を目的とした対応だった。

法人化によって、花王は資金調達の選択肢を広げ、継続的な投下資本を前提とする事業運営が可能になった。また、経営と執行の分離を意識した体制が整えられ、家族経営から組織経営へ移る契機となった。1925年の株式会社設立は、創業期から成長期へ移行する過程における転換点として位置づけられている。

組織化による経営体制の再設計

1925年の株式会社設立は、事業規模の拡大に対応するための組織的な選択だった。家族経営に依存した体制から、役割分担と資本集約を前提とする運営へ移行した点に特徴があった。この対応により、花王は継続的な投資と事業拡張を可能とする経営体制を整えていった。

1940
5月

日本有機を設立

背景:油脂原料の制約と統制経済の進行

1930年代後半、日本の石鹸産業は油脂原料の調達制約に直面していた。牛脂や植物油脂は輸入依存が大きく、国際情勢の悪化により供給条件が変動しやすかった。花王石鹸にとっても、販売数量の拡大と原料制約が同時に存在し、完成品の増産だけでは需給変動を吸収しにくい局面だった。

また日中戦争以降、油脂・化学分野は軍需の影響を強く受け、配給や用途転用が進んだ。石鹸は民需品であったが、原材料と製造工程が化学と隣接しており、調達と生産計画は外部要因に左右されやすかった。結果として、原材料側の手当てと化学技術の確保が、事業継続上の論点として浮上していた。

決断:日本有機設立による化学領域の内製化

1940年、花王石鹸は日本有機を設立し、原材料段階の化学領域へ事業を拡張した。これは石鹸の販売・製造に加えて、油脂加工やアルコール類などの化学プロセスへ投下資本を振り向ける判断だった。完成品メーカーの範囲に留まらず、供給制約が生じやすい領域を事業範囲に取り込み、調達リスクを下げる狙いがあった。

戦時下、日本有機は軍需請に基づき、航空機用潤滑油やアルコールの生産に関与し、合成・精製に関する技術を習得していった。石鹸とは用途が異なる一方、油脂と化学反応の知見は近接していた。この蓄積により、花王は石鹸単品の事業像から、化学技術を扱う事業群へと領域を広げる形になった。

戦時下で有機化学に投資

1940年の日本有機設立は、油脂原料の制約と統制経済の影響を受ける中で、原材料側の化学へ踏み込む対応だった。軍需請を経由して潤滑油やアルコールの生産技術を得た点は、石鹸とは異なる用途からの学習になった。この時期の投下資本は、完成品中心の事業像を相対化し、化学技術を扱う事業ポートフォリオへ接続していった。

1949
東京証券取引所に株式上場
1951

合成洗剤を発売

背景:洗濯機普及と洗浄剤需要の質的変化

1950年代初頭、日本の家庭では電気洗濯機の普及が進み、洗濯行動が手作業中心から機械利用へと移行しつつあった。従来の洗濯石鹸は手洗いを前提に設計されており、機械洗濯では泡立ち過多や洗浄力のばらつきが生じやすかった。このため、洗浄性能の再現性や操作性に優れた新たな洗浄剤が求められていた。

こうした環境変化は、単なる製品改良では対応しきれず、洗浄原理そのものの転換を伴う課題であった。とくに粉末型の合成洗剤は、水溶性や洗浄効率の点で機械洗濯との親和性が高く、家庭用洗浄剤の新たな選択肢として注目されていた。

決断:1951年「ワンダフル」発売と技術の転用

花王は1951年、粉末型合成洗剤「ワンダフル」を発売し、洗剤分野へ本格参入した。この判断は、既存の石鹸事業を延長するものではなく、化学技術を起点とした事業領域の拡張として位置づけられる。

背景には、戦前から戦中にかけて蓄積された高級アルコールおよび油脂化学の生産技術があった。日本有機を中心とする化学事業では、軍需対応を通じてアルコール類や潤滑油の製造技術が体系化され、脂肪族化合物の反応制御や精製に関する知見が蓄積されていた。これらの技術は、界面活性剤を主成分とする合成洗剤の開発において、そのまま応用可能な技術基盤となっていた。

結果:石鹸メーカーから洗剤メーカーへの転換点

ワンダフルの発売後、合成洗剤は電気洗濯機の普及と連動して需要を拡大し、家庭用洗浄剤の主力製品群として定着していった。粉末合成洗剤は、機械洗濯に適した製品として受け入れられ、洗濯用途における製品構成を変化させた。

この過程で花王は、従来の石鹸製造企業という位置づけから、油脂化学や高級アルコール技術を活用する洗剤メーカーへと事業ポートフォリオを拡張した。戦前・戦中に蓄積された化学技術が、戦後の民需市場において製品競争力として機能した点に、この転換の特徴がある。

技術蓄積が可能にした市場転換

競合他社の多くが従来型の洗濯石鹸に経営資源を配分していた中で、花王は合成洗剤という新しい洗浄剤分野に早期に着手していた。戦前から蓄積していた高級アルコールおよび油脂化学の技術が、製品開発の実行力として機能した。結果として、洗濯行動の変化に対応した製品供給が可能となり、洗剤市場におけるポジション形成につながった。

1951年
合成洗剤「ワンダフル(花王粉せんたく)」を発売
1950年
合成洗剤の研究開発を開始
1954
8月

花王石鹸が花王油脂を吸収合併

-

1935年
5月
大日本油脂を会社設立
1940年
5月
日本有機を会社設立
1949年
5月
日本有機の商号を花王石鹸に変更
1949年
12月
大日本油脂と花王が合併(花王油脂の発足)
1954年
8月
花王石鹸が花王油脂を吸収合併
1957
12月

合成洗剤工場に投資

背景:合成洗剤需要の拡大と設備制約

1950年代後半、日本では電気洗濯機の普及が進み、家庭用洗濯の主役は石鹸から合成洗剤へと移行しつつあった。1951年に発売された合成洗剤「ワンダフル」は、粉末型洗浄剤として機械洗濯との親和性が高く、需要は着実に拡大していた。一方で、従来の石鹸製造設備では、生産量・工程管理・品質安定性の面で限界が見え始めていた。

合成洗剤は石鹸とは異なり、高級アルコールや界面活性剤を用いた化学プロセスを前提とする製品である。戦前から戦時期にかけて日本有機を通じて蓄積してきた高級アルコールや化学反応に関する知見はあったものの、洗剤専用の量産設備としては、既存工場との混在生産では効率面に課題が残っていた。需要拡大に応えるためには、合成洗剤に特化した生産体制の整備が求められていた。

決断:和歌山工場内への合成洗剤工場新設

1957年、花王は和歌山工場内に合成洗剤工場を新設した。この投資は、合成洗剤を一過性の商品ではなく、将来の中核事業として位置づけたことを示すものであった。石鹸設備の延長ではなく、原料処理から反応工程、粉末化、包装までを一体で設計する専用設備を導入し、生産能力と品質管理の両立を図った。

和歌山工場は、戦前・戦後を通じて油脂・化学分野の技術蓄積が進んでいた拠点であり、高級アルコールや界面活性剤の取り扱いにも適した立地であった。合成洗剤工場の新設により、花王は研究・製造・量産の連携を強化し、合成洗剤の安定供給体制を確立していった。これは、石鹸中心の製品構成から、洗剤を軸とする事業構造への転換を設備面で裏付ける動きであった。

設備投資による事業転換の固定化

1957年の和歌山工場における合成洗剤工場新設は、花王が洗剤メーカーとしての進路を明確にした段階と位置づけられる。戦前・戦時期に獲得した高級アルコールや化学技術を、戦後の民需市場に転用し、需要拡大に対応するための量産設備へと結びつけた点に特徴がある。競合他社がなお石鹸設備を中心に据える中で、専用設備への投資を進めたことは、合成洗剤分野における競争優位の基盤形成につながっていった。

1963
川崎工場を新設
1964

小売店と再販契約を締結

背景:外資進出と流通構造変化への直面

1960年代を通じて、花王は日用品業界の競争環境が質的に変化しつつある局面に置かれていた。ひとつは資本自由化を背景とする外資企業の進出である。とくにP&Gは欧州で現地メーカーを淘汰してきた実績を持ち、日本市場でも同様の展開が想定されていた。1971年度の売上規模を比較すると、P&Gが1兆円を超える一方、花王は600億円台にとどまり、投下資本と持久力には大きな差が存在していた。

もうひとつは流通側の交渉力上昇である。1960年代後半にかけて、ダイエーに代表されるスーパーマーケットが急成長し、大量仕入れを武器に価格引き下げを要求するようになった。従来の問屋多層構造では、メーカーが最終売価を統制することは難しくなりつつあり、価格決定権が流通側へ移行する兆しが見え始めていた。

決断:27万店との再販契約と販社整備

こうした環境下で、当時副社長であった丸田芳郎は、問屋依存からの転換を選択した。1964年、花王は全国約27万件の小売店と再販契約を締結し、各地の問屋を再編して販売会社として集約する方針を打ち出した。一次問屋との取引を停止し、販社を起点として二次問屋や小売店へ直接流す流通経路を構築する決断であった。

この施策は既存問屋に対する路線転換を意味し、反発も招いた。競合のライオンを優遇する問屋も現れ、花王は1969年から1971年にかけて洗剤シェアで首位を失った。それでも花王は短期的なシェア低下を受容し、流通集約による価格主導権の確保を優先した。

結果:価格維持力と情報優位の獲得

販社網の整備は、1973年のオイルショック後に効果を示した。不況下で小売業が乱売に走る中でも、花王は販社を通じて売価を統制し、利益率の維持に成功した。結果として洗剤シェアは回復し、1970年代半ばには再び首位を奪還した。

加えて、販社から日次で集約される販売データを活用し、コンピュータ導入によって需給調整と製品開発の速度が向上した。流通と情報を一体で運営する体制は、日本市場におけるP&Gのシェア拡大を抑制し、花王の競争優位を支える要素となった。

証言
丸田芳郎(花王・当時社長)

問(注:記者) すると各地の問屋と花王が共同出資で全国に販社を設立していったわけですか。

答(注:丸田社長) いや、花王はほとんど出していません。問屋がそれまでのワーキングキャピタルを持ち寄っています。しかし、最初は問屋も十分にこちらの考えがわかっていなかったので大変でした。寄こした人材もよくなかった。どうせ成績はあがらないんだから早く解散させ、元の会社に早く帰ろうなんてヤツが経営に当たったりして...(笑い)(略)

一時はシェアが2位に落ちちゃいましてね。昭和44、45年(注:1969年、1970年)、それに私が社長に就任した46年の3年間は、トップの座を譲ったわけです。各地の卸問屋から総スカンくいました。ある程度は覚悟していましたが、それでもやり抜いたのは、問屋が乱立してお互いにけんかばかりしていては、当時ぼっ興していたスーパーに問屋がたたかれ、ダメになってしまうという危機感があったからです。つまり、せめて花王を扱う問屋は仲良くやろうということです。

1979/8/13 日経ビジネス「編集長インタビュー・丸田芳郎」

販社整備という異色の決断

外資と流通の圧力が同時に高まる中で、花王は広告や価格競争ではなく、流通の再設計に投下資本を振り向けた。短期的なシェア低下を許容し、売価維持と情報獲得を優先した判断は、競争優位を時間をかけて構築する意思決定だった。結果としてROIを左右する価格統制力が日本市場で参入障壁として機能した。

1964年
P&G経営陣が来日。日本進出を準備
1964年
12月
小売店と再販契約を締結
1966年
販社整備5カ年計画
1966年
東京の問屋が反発(販社粉砕協議会が結成)
1971年
物流整備5カ年計画
1972年
P&Gが日本進出(P&Gサンホーム設立)
1969年
洗剤のシェア2位転落
1972年
洗剤のシェア1位を奪還
1977年
オンラインシステムを整備
1978
3月

設備投資を積極化

背景:オイルショック後の競争軸の変化

1970年代後半、花王はオイルショック後の回復局面にあった。洗剤市場では売価維持に成功し収益は改善していたが、欧米ではP&Gが研究開発と設備投資を継続しており、価格や流通だけでは長期的な競争優位を維持できない状況が明確になっていた。

流通整備が一巡したことで、競争の主戦場は技術力と品質へ移行しつつあった。販社体制により市場情報を即時に取得できる条件が整い、生産・研究領域への集中投資が次の選択肢として浮上していた。

決断:3年間1200億円規模の集中投資

1978年3月、花王は3年間で1200億円から1300億円に及ぶ設備投資計画を決定した。原料分野を含む垂直統合と生産設備の高度化を通じ、品質向上と研究開発力の底上げを狙った内容であった。

丸田芳郎社長は、技術は短期間で成果が出るものではないとしつつ、他社が模倣できないシーズが見え始めた段階での投資が重要だと位置づけた。償却後のキャッシュフロー改善を見据え、欧米市場展開への準備とする順序が描かれていた。

証言
丸田芳郎(花王・当時社長)

技術は一朝一夕にはなりませんからね。しかも、今後は以前より大きな成果が期待できます。今年度500億円の投資を決めたのも、他社のマネできない'シーズ'(種)が出始めているからです。特に今年度から3年間が大変な時期で、この間、1200億円から1300億円の投融資を計画しています。その償却は特別償却、有税償却含めて3年間で600億円に達します。しかし、その償却が済めば、キャッシュフローからいって、非常に強い体質ができる。そこで、いよいよ欧米市場での計画実行に乗り出す。順序としては、このように考えているわけです。

1979/8/13 日経ビジネス「編集長インタビュー・丸田芳郎」
1977年
ピリナス花王を設立(ヤシ油原料調達)
1980年
鹿島工場を新設(脂肪酸等の製造)
1982
化粧品事業に参入
1983

紙おむつ「メリーズ」を発売

紙おむつに後発参入。P&Gおよびユニチャームとの熾烈な競争を展開

1975年
12月
栃木工場を新設
1978年
2月
栃木研究所を新設(栃木工場内)
1978年
生理用品「ロリエ」を発売
1983年
紙おむつ「メリーズ」を発売
1985
10月

商号を花王株式会社に変更

花王石鹸から花王に変更。多角化路線を本格化

1985

情報媒体FDに参入

背景:技術資産の拡張と成長分野探索

1980年代前半、花王は日用品事業で安定した収益基盤を確立していた。販社整備による価格統制と、1970年代後半からの大規模設備投資により、生産技術と研究開発力は社内に蓄積されていた。一方で、国内の日用品市場は成熟に向かい、長期的な売上成長をどの領域で確保するかが経営課題として浮上していた。

この過程で注目されたのが、界面活性技術や高分子技術の応用可能性である。花王は化学メーカーとして、表面処理や素材といった基盤技術を複数の産業分野に展開してきた。OA機器の普及とともに拡大していた記録媒体市場は、技術的には異業種であるものの、素材技術の延長線上にあると認識された。また、工場合理化によって生じた余剰人員の活用という組織的事情も、新規分野参入を後押ししていた。

決断:フロッピーディスク事業への参入

1985年前後、花王はフロッピーディスク(FD)事業への本格参入を決断した。FDは円盤状の高分子フィルムに磁性粉を均一に塗布する製品であり、耐久性や表面特性が品質を左右する。花王は、界面活性技術や高分子加工技術を応用することで、先行メーカーに対抗できる品質を実現できると判断した。

事業展開は国内にとどまらなかった。花王はFDの製造販売を担う事業本部の機能を北米へ移し、日本・米国・欧州の三極体制でグローバル展開を進めた。研究、生産、販売、経理、購買まで含めた一体運営は、同社にとって前例の少ないスピードと規模であった。実際、FD事業は一時的に急成長し、売上高は最大で800億円規模に達するまで拡大した。

結果:市場変化への対応限界と撤退判断

しかし1990年代に入ると、市場環境は急速に変化した。パソコンの記録媒体は、FDからCD-ROM、DVDといった大容量メディアへ急速に移行し、FDそのものが価格下落と需要縮小に直面した。花王の情報事業は記録メディアに特化しており、ハードウェアやソフトウェアを含む統合的な事業展開を行っていなかったため、市場変化に対する選択肢は限られていた。

1998年、花王はFD事業からの全面撤退を決定した。当時社長であった後藤卓也は、売上規模の大きさや投入した時間を認めつつも、市場変化の速さに対応できなかった点を経営の責任として受け止めた。赤字決算には至らなかったものの、経営責任を明確にするため役員の降格や賞与カットが行われた。一方で、FD事業を通じて育成された人材は、その後の花王の各事業部門で重用されることとなった。

証言
後藤卓也(花王・当時社長)

確かに売上高で800億円にも達する事業をいきなりやめていいのかという見方はあるでしょう。10年近く全社をあげてと言っていいぐらい力を入れてきたわけですから。しかし現実の市場は非常に変化が早かった。花王の情報事業はフロッピーディスクなどのメディアだけで、ハードもソフトもおっていないわけです。とにかく変化に振り回されるだけで終わってしまった。(略)

これだけ大きな仕事をしたうえでの撤退は、見通しが甘かったトップ経営層の責任です。社員の中には情報事業にかけてきた人もいるわけです。あるいは、「花王は情報事業をやっているから」と入社してきた社員に対しても迷惑をかけました。幸いなことに赤字決算にはならなかったので、株主への配当と言った面での迷惑はかけていません。しかし、やはりけじめはつけるべきじゃないかということで、一部の役員を降格させ、賞与をカットしました。

1999/6/14 日経ビジネス「編集長インタビュー・後藤卓也氏」

無形資産を残したFD撤退

花王のFD参入は、既存技術を異業種に適用する明確なリスクテイクだった。短期的には売上規模を拡大したが、市場構造の変化により事業継続は困難となった。一方で、グローバル展開と人材育成という無形資産を残し、事業ポートフォリオ経営の経験値を高めた点は、単純な成否では測れない。

1980年
1月
基礎研究の拡大方針を策定
1985年
FDを発売
1988年
カナダ・ダイダック社を買収
1990年
3月
FD事業で売上高200億円を突破
1999年
3月
FD事業で売上高800億円を突破
1999年
FDから撤退
1986

トータルコストリダクションを推進

背景:成長局面で顕在化した原価構造の課題

1980年代半ば、花王は日用品事業を中心に売上成長を続けていたが、事業領域の拡大と設備増強に伴い、原価構造は次第に複雑化していた。生産・物流・販売の各工程が個別最適で運営される中で、全社としてのコスト把握や改善余地を横断的に管理する仕組みは十分に整っていなかった。

また、1980年代はバブル経済の入口にあたり、需要拡大を前提とした設備投資や人員配置が合理的と見なされやすい環境でもあった。しかし花王内部では、外部環境が変化した場合に固定費が収益を圧迫するリスクが意識され始めていた。売上成長に依存しない原価低減の仕組みが必要だという認識が共有されていた。

決断:TCRによる原価低減と資源再配分

1986年、花王は全社的な業務革新運動として「TCR(トータル・コスト・リダクション)」活動を開始した。TCRは開発・生産・物流・販売を横断し、仕事の進め方そのものを見直す取り組みとして位置づけられた。1986年から1990年までの5年間で、生産性向上と合理化を集中的に進める計画であった。

この過程で約1000名規模の人員削減が行われたが、余剰人員は新規事業であるフロッピーディスク事業などへ再配置された。川崎ロジスティクスセンターの稼働や工場配置の見直しを含め、TCRは原価低減と経営資源再配分を伴う意思決定として実行された。

数字経営への転換点

TCRは花王にとって、コストを数量で捉え全社横断で管理する最初の取り組みだった。原価率改善によって成果が可視化され、後年のEVAなど資本効率を重視する経営手法につながった。TCRは数値で判断する経営文化の起点となった。

1985年
川崎ロジスティクスセンターを稼働
1986年
TCR活動を推進
1999年
九州工場を閉鎖
1993
中国に現地法人を設立
1999
1月

花王販売株式会社を設立

背景:小売業態の変化と販社構造の限界

1990年代を通じて、コンビニエンスストアおよびドラッグストアが日用品流通の主要チャネルとして成長した。とくにドラッグストアはチェーン展開と大量仕入れを前提とする業態であり、日用品メーカーに対して強い価格交渉力を持つ存在となった。1998年の大規模小売店舗立地法の施行は店舗の大型化を後押しし、小売側からの値下げ圧力は一段と高まった。

一方、花王は1960年代以降、問屋と連携して地域ごとに販社を設立し、販社を軸とする流通体制を構築してきた。しかし販社が多数に分かれている状態では、全国規模で拡大する小売チェーンへの対応に限界があった。1982年から1992年にかけて全国8地域の広域販社へ集約を進めたものの、販社が地域単位で分断されている構造は残り、販売面でのボトルネックとなっていた。

決断:花王販売への集約と経営統合

1999年4月、花王は広域販社8社を合併し、「花王販売株式会社」を設立した。これにより、従来の地域別販売体制を解消し、ドラッグストアなど有力小売チャネル別に対応できる販売・マーケティング体制を整えた。販社を一本化することで、全国規模の取引条件交渉や販促施策の統一が可能となった。

さらに2004年には、花王が花王販売を合併し、問屋資本によって設立されてきた販社を本社組織に取り込んだ。ここにおいて、花王は半世紀近くかけて進めてきた販社整備と統合を完了し、製造と販売を一体で運営する体制へ移行した。小売構造の変化に対応するため、時間をかけて積み上げてきた流通改革が、この段階で経営統合という形を取った。

長期投資としての販社統合

1960年代に始まった販社整備は、即効性のある施策ではなかった。地域販社、広域販社を経て1999年の統合に至るまで、流通改革は数十年単位で進められた。販社統合は短期の収益改善ではなく、将来の小売構造変化に備える長期投資として位置づけられていた。

1982年
11月
北海道花王販売を設立(販社集約へ)
1992年
10月
全国8地区の広域販社体制
1999年
4月
8販社を統合して花王販売株式会社を設立
2004年
花王が花王販売を完全子会社化
2007年
花王販売の商号を花王マーケティングに変更
1999
4月

経営指標にEVAを採用

背景:コスト削減から資本効率への視点転換

1986年に開始したTCR活動により、花王は長期にわたって原価低減と業務効率化を進めてきた。年100億円規模のコスト削減を十数年にわたり継続することで、安定した収益基盤を築いたが、「削減」だけでは次の成長を説明できない局面に差しかかっていた。

1990年代後半、日本企業では資本効率を明示的に測る経営指標は一般的ではなかった。花王内部では、TCRで生み出した余力をどの事業に投じるべきか判断する共通指標が必要だという認識が高まり、株主資本コストを意識した経営への関心が強まっていた。

決断:EVAを軸とする財務戦略の採用

1999年、花王はEVAを経営指標として本格導入した。EVAは利益から資本コストを差し引き、株主価値の創出度合いを測る指標である。花王はTCRの次段階として、資本の使い方を全社的に可視化することを狙った。

EVAは投資判断や人事評価にも組み込まれ、日本企業として先進的な取り組みとして注目を集めた。現場への浸透を重視し、具体的な業務改善がEVAにどう反映されるかを説明する教育も進められた。

結果:EVAの限界とROIC併用への転換

EVA経営を20年以上続ける中で、全社合計では稼ぐ力を示せる一方、事業別の収益性が見えにくいという欠点が顕在化した。2018年度の935億円から2022年度の147億円へとEVAが悪化し、指標の有効性が問われるようになった。

この反省から花王は、EVAに加えてROICを併用し、事業ごとの資本効率を評価する財務戦略へと転換した。EVA経営は数字経営を高度化する重要な通過点であり、その見直しは次の成長段階に向けた進化と位置づけられている。

TCRからEVA、そしてROICへ

EVA経営は、花王にとってTCRで培った数字管理を株主価値の次元へ引き上げた試みだった。限界も露呈したが、その経験がROICによる事業選別につながった。財務戦略を段階的に進化させてきた点が花王の特徴である。

2000
取締役会の改革
2002
米John Frieda社を買収
2006

カネボウ化粧品を買収

背景:後発参入としての構造的制約

花王は1982年に基礎化粧品「ソフィーナ」を発売し、化粧品事業へ参入した。しかし、化粧品業界では資生堂、カネボウ、コーセーといった先発企業が専門店網とブランド力を確立しており、後発の花王は厳しい競争に直面した。花王は日用品分野で強みを持つ一方、化粧品では専門店チャネルに乏しく、GMS(総合スーパー)中心の販路に依存していた。

1980年代後半から1990年代にかけては、自然化粧品のファンケルや通信販売に特化したオルビスなど、新興企業が成長したが、花王の化粧品事業はこうした潮流を十分に取り込めなかった。結果として、2000年代に入っても花王の化粧品事業は業界内で存在感を高めることができず、規模とブランド力の両面で課題を抱え続けていた。

決断:カネボウ化粧品事業の買収

一方、カネボウは繊維事業の不振と粉飾決算問題により、2003年9月に債務超過に陥った。産業再生機構は再建のためにキャッシュ創出が不可欠と判断し、利益の柱であった化粧品事業の売却を決定した。

花王は後藤卓也社長のもと、カネボウの化粧品事業を4100億円で買収する方針を決定した。買収交渉は2003年内の合意を目指して進められたが、利害関係の調整により最終的な買収は2006年1月となった。買収直前の国内化粧品市場では、花王は4位、カネボウは2位であり、買収によって花王は国内シェア約12%を獲得し第2位となった。

結果:PMIの停滞と長期低迷

買収後の花王の化粧品事業は期待された成果を上げられなかった。2013年の白斑問題により、FY2013〜FY2015で累積営業赤字476億円を計上した。インバウンド需要による一時的な改善はあったものの、売上は伸び悩んだ。

花王は買収後も「花王の化粧品事業」と「旧カネボウの化粧品事業」を長期間分離して管理しており、物流・生産・研究開発・マーケティングが統合されなかった。ブランド統合には15年を要し、PMIを強力に進めなかった姿勢が低迷の一因と評価されている。

証言
後藤卓也(花王・当時社長)

これまでも、国内でいい相手がいれば当然考えます、と言ってきた。我々が今までやってきたこととシナジー(相乗)効果が発揮でき、お互いにいいことがあるという前提なら、国内でも構わなかった。交渉相手や結果は秘密だが、いくつか仕掛けてきたし、向こうから寄ってきたケースもある。(カネボウの化粧品事業の)強みや弱みについては、これから打ち合わせをする中で深く理解できると思うが、エモーショナルな(感情に訴える)ところは我々より優れているし、専門店網も構築している。我々はGMS(総合スーパー)に強みがある。生き方が違っているから相乗効果が見込める。

2003/11/3 日経ビジネス「カネボウ・花王両トップが語る化粧品大統合の真相」

異なる歴史を持つ組織の融和コスト

カネボウ化粧品の買収は、花王にとって事業規模を獲得する合理的な判断だった一方で、組織融和には想定以上の時間を要した。日用品メーカーとして効率と再現性を重視する花王と、専門店網と感性価値を軸に発展してきたカネボウでは、事業の成り立ちや組織文化が大きく異なっていた。異なる歴史を持つ者同士の統合は、制度や構造の統合以上に、人と文化の融和に時間を要する。PMIの長期化は、その調整コストの大きさを示した事例である。

2003年
カネボウ化粧品事業の買収検討
2006年
1月
カネボウ化粧品事業を買収完了
2009年
カネボウ化粧品と物流拠点の統合(年100〜150億円のコストダウン)
2013年
7月
カネボウ化粧品で白斑問題が発生(品質不良)
-476 億円
2014年
カネボウ化粧品の研究部門を花王に移管
2014年
カネボウ化粧品の生産部門を新会社に移管
2016年
カネボウ化粧品の販売部門を花王グループカスタマーマーケティングに移管
2021年
カネボウ化粧品のブランド事業部を花王と統合
2011
4月

中国でオムツの生産開始

背景:急成長市場への本格参入判断

花王は、2000年代後半以降、海外売上比率の引き上げを経営課題として掲げ、中国市場を最重要成長領域の一つと位置付けた。中でも紙おむつ市場は、所得水準の上昇と衛生意識の高まりを背景に、日本に匹敵する規模へ拡大する見通しが示されていた。花王は2009年から日本製「メリーズ」を中国で販売していたが、主な顧客は沿岸部の高所得層に限られ、市場シェアは低位にとどまっていた。

一方、競合の欧米・日系メーカーは現地生産による価格競争力を武器に中間所得層の取り込みを進めており、輸出モデルのままでは成長余地が限られる状況だった。こうした中、花王は「高品質を維持しつつ価格を引き下げる」ためには、中国での現地生産が不可欠と判断した。

決断:中国現地生産による中間層攻略

2011年、花王は安徽省合肥市に現地法人を設立し、2012年末に紙おむつ工場を建設して、中国での現地生産を開始した。これは花王にとって紙おむつ事業で初の海外生産拠点であり、中国市場を本格攻略する象徴的な投資だった。現地生産によって、従来の輸入品に比べて販売価格を大幅に引き下げ、中間所得層向け製品「メリーズ瞬爽透気」を投入した。

製品面では、日本市場で培った通気性や肌へのやさしさを訴求し、中国メーカーとの差別化を図った。また、販売面では現地企業との提携を通じてベビー用品専門店網への展開を進め、市場浸透を狙った。この段階で花王は、短期的な収益よりも市場獲得を優先し、将来的な規模拡大を前提とした戦略を選択していた。

結果:競争激化と構造改革による撤退

しかし2010年代後半以降、中国の紙おむつ市場では現地メーカーの品質向上とブランド力強化が急速に進み、価格競争は一段と激化した。中国ブランドの台頭に加え、消費者の嗜好も国産志向へと変化し、花王のシェアは低下傾向をたどった。市場自体は成長を続ける一方で、花王の採算性は悪化し、ROICの低下が顕在化した。

2023年8月、花王は中国での紙おむつ生産を終了し、合肥工場を閉鎖する決断を下した。これに伴い、約600億円の構造改革費用を計上した。中国市場から完全撤退するのではなく、日本からの輸出による販売は継続するが、現地生産モデルは終了した。結果として本件は、高成長市場であっても現地政府の補助を受けた地場メーカーに対する優位性の発揮が困難であったことや、全社の重要指標であるROICにより事業撤退を推進した事例となった。

なお、花王の合肥工場については、現地メーカーである杭州豪悦護理用品が買収し、競合の手に渡る形で決着した。

現地メーカーのキャッチアップ

花王の中国おむつ事業が直面した本質的な課題は、市場成長そのものではなく、現地メーカーの品質向上による競争条件の変化だった。かつては日系メーカーの技術優位が明確だったが、2010年代後半には中国メーカーが品質・機能面で急速にキャッチアップし、差別化の源泉は縮小した。結果として価格競争に巻き込まれ、投下資本に見合う収益を確保できなくなった。本件は、新興国市場では「品質優位が永続しない」ことを前提に、事業の寿命と資本回収を設計する必要性を示している。

2011年
4月
花王(合肥)有限公司を設立
2012年
12月
合肥工場の稼働(予定)
投資予定額 60 億円
2021年
5月
合肥工場に新棟を竣工
投資額 60 億円
2023年
8月
ベビー用おむつの中国での現地生産を終了
2024年
2月
合肥工場を杭州豪悦護理用品に売却発表
2018
Oribe Hair Careを買収
2018
Washing Systemsを買収
2018
11月

早期退職者への支払金増額

国内および中国における生産体制の縮小を受けて、花王は人財構造改革を公表。早期退職者に対する支払金の増額を決定。2023年12月期に250億円の構造改革費用を計上した。

2023
11月

Bondi Sands Australiaを買収

背景:グローバル・シャープトップへの戦略転換

花王は、国内市場を起点とした海外展開から脱却し、「世界全体を市場として捉える」グローバル戦略への転換を進めていた。その象徴が中期経営計画「K27」で掲げられた「グローバル・シャープトップ」である。これは単に世界シェアを追うのではなく、特定の顧客ニーズに対し、エッジの効いたブランドや技術で唯一無二の価値を提供するという考え方だった。

成長領域として位置付けられたのがスキンケア事業、とりわけ紫外線や外的環境から肌を守る「スキンプロテクション領域」である。花王は日本市場でUVケア技術を磨いてきた一方、セルフタンニング分野ではグローバルで確立したブランドを持たず、事業拡大には時間を要する状況にあった。

決断:Bondi Sands社の買収による即時参入

2023年7月、花王は子会社を通じて、オーストラリアのプレミアムスキンケアブランドであるBondi Sands社を買収した。同社はセルフタンニングおよび日やけ止め製品を中心に、オーストラリア、英国、米国など32カ国で事業を展開し、特にオーストラリアのセルフタンニング市場でNo.1のシェアを持つブランドであった。

花王はこの買収により、スキンプロテクション領域において即時にグローバル競争力を獲得した。日本で培ったUVケア技術や、米国でのセルフタンニング関連の知見と、Bondi Sands社の強いブランド力・販売網を組み合わせることで、世界市場を前提とした事業展開の基盤を構築した。この判断は、「日本発技術の海外展開」から「世界で尖った価値を持つブランドを軸にした成長」へと舵を切った花王の戦略転換であった。

2025
4月

オアシスからの株主提案を否認

背景:ESG重視経営が主流化した文脈

花王は2010年代以降、日用品企業として環境負荷の大きい事業特性を強く意識し、ESGを経営判断の中核に据えてきた。洗剤容器の再生プラスチック化や使用量削減、原料設計の見直しなど、商品開発段階から投下資本を伴う対応が積み重ねられていた。これらはコスト削減を目的とした施策ではなく、事業の持続可能性そのものを問い直す選択として位置付けられていた。

一方、グローバル日用品大手はブランド数の削減とマーケティング集中投資によって売上成長を加速させていた。ユニリーバやP&Gが海外比率を高める中、花王の海外売上比率は相対的に低水準で推移していた。国内市場では値上げによって利益率が回復していたが、投資家が重視する海外展開による売上成長やシェア拡大は可視化されにくい状況が続いていた。

決断:株主提案を受け入れない選択

こうした状況下で、香港の投資ファンドであるオアシス・マネジメントが花王株の約5%を保有し、経営改善策を公表した。提案の中核は、競合に比して多いブランド数の削減や、海外経験を持つマーケティング人材の登用による売上成長の加速であった。オアシスは、花王が持つブランド資産を十分に活用できていないと指摘していた。

花王は2025年2月、オアシスが提出した4つの株主提案すべてに反対する方針を明確にした。社外取締役の追加選任や報酬制度の見直しに対し、現行体制下で業績回復とROIC改善が進んでいると説明した。大規模なマーケティング投資は過剰生産や在庫リスクを高める可能性があるとして、既存の経営方針を維持する判断が下された。

結果:経営哲学と資本市場の緊張

3月の定時株主総会において、オアシスの株主提案はいずれも否決された。形式的には経営陣の判断が支持された形となったが、投資家の評価が完全に収束したわけではなかった。業績回復は主として国内値上げの効果によるものであり、海外成長の進捗は限定的なままであった。

加えて、ESG投資を取り巻く環境も変化していた。海外市場では、ESGと投資リターンの関係を再検証する動きが広がり、理想と収益性の両立が改めて問われていた。花王は高機能商品を軸とした海外展開を進める方針を示しているが、この戦略が売上成長と資本効率の改善として示されなければ、同様の株主圧力が再び生じる余地は残されている。

理想と収益の時間差

ESGを経営判断の中心に据える選択は、当時の社会的要請に照らせば合理的であった。一方で資本市場は、その判断が売上成長やROICの改善としてどの時点で現れるかを重視する。花王の事例は、価値観主導の経営が競争優位へ転化するまでの時間差が、投資家との緊張関係を生むことを示している。

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