1887
6月

長瀬富郎商店を創業

明治20年(1887年)に長瀬富郎氏が「長瀬富郎商店」を東京日本橋の馬喰町にて創業したことが、花王の創業である。祖業は日用雑貨を扱う小売店であり「石けん・輸入文具」を主に販売していた。当時の石鹸は西洋からの輸入品であり、創業時の花王はメーカーではなく流通業であった。

長瀬富郎氏の実家は、岐阜県中津川で酒蔵を営んでおり、開業資金に恵まれていたと推察される。

1890年10月
花王石鹸を発売。日用品に参入
1890年
10月
花王石鹸を発売。日用品に参入
1922年
11月
東京工場を新設
1925年
5月
花王石鹸株式会社を設立
1949年5月
東京証券取引所に株式上場
1949年5月
潤滑油(化学事業)を花王傘下に吸収
1935年
5月
大日本油脂を会社設立
1940年
5月
日本有機を会社設立
1949年
5月
日本有機の商号を花王石鹸に変更
1949年
12月
大日本油脂と花王が合併(花王油脂の発足)
1954年
8月
花王石鹸が花王油脂を吸収合併
1957年12月
和歌山工場内に合成洗剤工場を新設

電気洗濯機の普及に合わせて合成洗剤「花王ワンダフル」の量産投資。設備面で競合の石鹸メーカーを圧倒

1950年
合成洗剤の研究開発を開始
1951年
合成洗剤「ワンダフル(花王粉せんたく)」を発売
1957年
12月
合成洗剤工場を新設
7.5 億円
1963年
3月
川崎工場を新設
決算
花王の業績
1958年3月期(単体)
売上高
64
億円
当期純利益
2.82
億円
1964

全国27万件の小売店と再販契約を締結

背景
競争環境の激化(P&G日本進出とスーパーマケットの台頭)
1960年代を通じて、花王は2つの脅威に直面した。 1つ目は資本自由化による欧米企業の日本進出であり、P&Gの日本進出が日用品業界に大き...
販売
販社を整備
花王の副社長であった丸田芳郎氏は、P&G及び流通業の脅威に対して、販社整備で対応。1964年に小売店(全国27万件)に対して再販契約を締...
紛糾
既存の問屋が反発
問屋の花王離反によって、1970年前後に洗剤の国内シェアでライオンがトップを確保。花王の首位が陥落するなど、販社整備における代償を払う形...
結果
オイルショック後も売価維持
1973年のオイルショックを経て、洗剤のシェアで花王はライオンを凌駕して首位を奪還。オイルショックの不況により、小売業が乱売に走ったため...
決断
コンピュータを導入して製品開発を迅速化
販社整備とともに、花王はコンピュータの導入を決定。小売店からの販売情報を1日以内に販社を通じて本社に集約するシステムを構築し、製品開発に...
結果
洗剤でトップシェアを持続(P&Gを撃破)
販社により日用品の流通を掌握した花王に対して、1970年代を通じて日本市場に進出したP&Gは洗剤のシェア獲得で苦戦。1980年前後にP&...
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1964年
P&G経営陣が来日。日本進出を準備
1964年
12月
小売店と再販契約を締結
1966年
販社整備5カ年計画
1966年
東京の問屋が反発(販社粉砕協議会が結成)
1971年
物流整備5カ年計画
1972年
P&Gが日本進出(P&Gサンホーム設立)
1969年
洗剤のシェア2位転落
1972年
洗剤のシェア1位を奪還
1977年
オンラインシステムを整備
1977年
3月
業績好調へ
1978年3月
設備投資計画(1200億円/3年)

品質向上と研究開発力の向上を目論み原料の垂直統合に巨額投資。P&Gと対抗するための設備を拡充

1977年
ピリナス花王を設立(ヤシ油原料調達)
1980年
鹿島工場を新設(脂肪酸等の製造)
決算
花王の業績
1978年3月期(単体)
売上高
1867
億円
当期純利益
29
億円
証言
丸田芳郎(花王・当時社長)

技術は一朝一夕にはなりませんからね。しかも、今後はいぜnより大きな成果が期待できます。今年度500億円の投資を決めたのも、他社のマネできない'シーズ'(種)が出始めているからです。特に今年度から3年間が大変な時期で、この間、1200億円から1300億円の投融資を計画しています。その償却は特別償却、有税償却含めて3年間で600億円に達します。しかし、その償却が済めば、キャッシュフローからいって、非常に強い体質ができる。そこで、いよいよ欧米市場での計画実行に乗り出す。順序としては、このように考えているわけです。

1979/8/13 日経ビジネス「編集長インタビュー・丸田芳郎」
1983年
紙おむつ「メリーズ」を発売

紙おむつに後発参入。P&Gおよびユニチャームとの熾烈な競争を展開

1975年
12月
栃木工場を新設
1978年
2月
栃木研究所を新設(栃木工場内)
1978年
生理用品「ロリエ」を発売
1983年
紙おむつ「メリーズ」を発売
決算
花王の業績
1984年3月期(単体)
売上高
3306
億円
当期純利益
63
億円
1985年
フロッピーディスクに新規参入(失敗)

界面活性技術と応用してフロッピーディスク(FD)に参入。合理化で余剰になった社員の雇用維持の狙いもあり。一時は急成長するが、競争激化により巨額損失を出した末に撤退へ

1980年
1月
基礎研究の拡大方針を策定
1985年
FDを発売
1988年
カナダ・ダイダック社を買収
1990年
3月
FD事業で売上高200億円を突破
1999年
3月
FD事業で売上高800億円を突破
1999年
FDから撤退
決算
花王の業績
1986年3月期(単体)
売上高
4057
億円
証言
後藤卓也(花王・当時社長)

確かに売上高で800億円にも達する事業をいきなりやめていいのかという見方はあるでしょう。10年近く全社をあげてと言っていいぐらい力を入れてきたわけですから。しかし現実の市場は非常に変化が早かった。花王の情報事業はフロッピーディスクなどのメディアだけで、ハードもソフトもおっていないわけです。とにかく変化に振り回されるだけで終わってしまった。(略)

これだけ大きな仕事をしたうえでの撤退は、見通しが甘かったトップ経営層の責任です。社員の中には情報事業にかけてきた人もいるわけです。あるいは、「花王は情報事業をやっているから」と入社してきた社員に対しても迷惑をかけました。幸いなことに赤字決算にはならなかったので、株主への配当と言った面での迷惑はかけていません。しかし、やはりけじめはつけるべきじゃないかということで、一部の役員を降格させ、賞与をカットしました。

1999/6/14 日経ビジネス「編集長インタビュー・後藤卓也氏」
1985年10月
商号を花王株式会社に変更

花王石鹸から花王に変更。多角化路線を本格化

決算
花王の業績
1986年3月期(単体)
売上高
4057
億円
1986年
原価低減に注力
1985年
川崎ロジスティクスセンターを稼働
1986年
TCR活動を推進
九州工場を閉鎖
酒田工場で洗剤生産を停止(紙製品に注力)
2000年
3月
フロッピーディスク撤退により連続増収の記録に終止符
1998年
アジア市場に注力
1997年
3月
2000年
取締役会の改革
1997年
3月
経営指標にEVAを活用(日本初)
2000年
取締役8名を降格(1/3を入れかえ)
2002年
6月
社外取締役に女性を起用(橘フクシマ咲江氏)
2006

カネボウから化粧品事業を買収

背景
花王が化粧品事業に参入。販路に乏しく苦戦
1982年に花王は基礎化粧品「ソフィーナ」を発売して化粧品事業に参入したが、化粧品業界では「資生堂」「カネボウ」「コーセー」といった先発...
決定
カネボウの化粧品事業を買収(国内シェア12%へ)
カネボウは繊維事業の経営不振と粉飾決算により2003年9月に債務超過に陥った。産業再生機構は、カネボウにおけるキャッシュを捻出するために...
結果
売上低迷。ブランド統合に15年
カネボウ化粧品買収後、花王の化粧品事業の売上高は低迷が続いた。2013年の品質問題(カネボウ化粧品による白斑問題)により、FY2013〜...
考察
企業文化の違い
PMIに失敗した理由は、マーケティングにおけるカネボウと花王の差や、労働組合の強いカネボウ化粧品と言った様々な要因が考えられるが、根本的...
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1982年
花王が化粧品事業に参入(ソフィーナを発売)
2003年
カネボウ化粧品事業の買収検討
2006年
1月
カネボウ化粧品事業を買収完了
4100 億円
2009年
カネボウ化粧品と物流拠点の統合(年100〜150億円のコストダウン)
2013年
7月
カネボウ化粧品で白斑問題が発生(品質不良)
-476 億円
2014年
カネボウ化粧品の研究部門を花王に移管
2014年
カネボウ化粧品の生産部門を新会社に移管
2016年
カネボウ化粧品の販売部門を花王グループカスタマーマーケティングに移管
2021年
カネボウ化粧品のブランド事業部を花王と統合