【筆者所感】 三菱自動車は1970年4月、三菱重工業の全額出資によって設立され、同年6月に自動車部門を譲り受けて三菱自動車工業として営業を開始した。背景には、1960年代の乗用車販売でトヨタ・日産に対する劣勢に立たされていた三菱重工業が独立した経営体制による事業拡大を迫られていた事情と、日本進出を模索していた米クライスラー・コーポレーションの意向が重なっていた。1971年にはクライスラーが株式15%を取得する資本提携が成立したが、「合衆国流通契約」の制約によって主力の4ドア小型車は北米市場へ輸出できず、自社販売網も敷けないまま、提携先との力関係に経営が左右される構造が創業当初から胚胎した。
1988年12月に東京・大阪・名古屋の各証券取引所第一部に上場し、1982年のパジェロ発売とパリ・ダカールラリーでの実績を通じて海外市場での知名度を確立したのち、2000年のダイムラークライスラーとの提携、2001年と2004年の二度のリコール隠しの発覚、2003年の三菱ふそうトラック・バスの分社化と2005年のダイムラーへの全株式譲渡という激動の展開を経た。2016年5月には日産自動車と戦略提携契約を締結してルノー・日産アライアンスに参画し、以後は東南アジアに偏重した収益構造を軸に事業を運営してきた。しかし2021年3月期には国内6拠点の減損1179億円を含む特別損失2982億円を計上し、2024年12月には日産・ホンダ・三菱自動車の3社による経営統合の協議開始が公表された。
歴史概略
1960年〜1997年三菱重工からの分離とクライスラー提携の制約
三菱自動車の設立と不平等な合衆国流通契約
三菱重工業の自動車部門は1960年代にトヨタ・日産に乗用車販売で劣勢にあり、事業拡大には独立した経営体制が必要であるという判断が社内で共有されていた。一方、米国のクライスラー・コーポレーションは日本進出の足場を求めており、1969年に三菱重工業との間で合弁設立の合意に至る。1970年4月、三菱重工業の全額出資によって三菱自動車工業が設立され、同年6月には三菱重工業から京都製作所の一部(現・京都工場)、名古屋自動車製作所(現・岡崎製作所)、水島自動車製作所(現・水島製作所)など計4製作所を譲り受けて営業を開始した。1971年にはクライスラーが三菱自動車の株式15%を取得する資本提携が正式に成立し、日米資本による自動車メーカーとして再出発する体制が整った。
しかし資本提携と同時に締結された「合衆国流通契約」の条件は、三菱自動車にとって構造的に不利だった。同契約のもとで北米市場では2ドア車限定かつクライスラーの独占販売という制約を受け、主力商品である4ドア小型車の米国市場への輸出は事実上封じられ、自社販売網の構築も認められないという「不平等条約」として機能した。当時の久保富夫社長は後に「非常に縛られるような提携はやめるべき」と述懐しており、経営陣の間では契約の見直しが早期から課題として意識されていた。1981年の契約改定までの約10年間、北米事業は構造的に制約され、提携先との力関係に経営が左右される構造が創業時点で胚胎した。
- 日経ビジネス(1978年7月31日) 1978/7
- 有価証券報告書 沿革
パジェロ発売と海外市場の独自開拓
1977年8月に名古屋自動車製作所岡崎工場を新設し、1979年12月には京都製作所滋賀工場を新設することで、乗用車とエンジンの量産体制を順次整えた。1980年10月には三菱商事と共同出資でミツビシ・モーターズ・オーストラリア・リミテッドを設立し、1981年12月には同じく三菱商事との共同出資でミツビシ・モーター・セールス・オブ・アメリカ・インクを設立して、米国市場への自社販売網の構築に本格的に着手した。1982年に発売したSUV「パジェロ」はパリ・ダカールラリーでの輝かしい実績とともに海外市場での知名度を高め、三菱自動車にとって最も象徴的な商品としての地位を長年にわたって保ち、ブランドの顔としての役割を果たした。
1985年10月にはクライスラーとの合弁会社ダイヤモンド・スター・モーターズ・コーポレーションを米国に設立し、北米での現地生産に本格的に乗り出した。同時期にクライスラーは三菱自動車の株式出資比率を20%に引き上げ、両社の関係は一段と深まった。1988年12月には東京・大阪・名古屋の各証券取引所の市場第一部に株式を上場し、日本の主要自動車メーカーとしての地位を名実ともに確立した。1995年7月にはダイヤモンド・スター・モーターズを「ミツビシ・モーター・マニュファクチュアリング・オブ・アメリカ」へ商号変更し、1997年8月にはタイのエムエムシー・シティポールの株式の過半数を取得して、東南アジアを軸とした海外生産基盤づくりへと舵を切った。
- 日経ビジネス(1978年7月31日) 1978/7
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1998年〜2015年ダイムラー提携と二度のリコール隠しによる経営危機
二度のリコール隠しとダイムラー提携の解消
1994年に米国法人でセクハラ集団訴訟が発生し、1998年に和解金48億円を支払った。2000年3月にはドイツのダイムラークライスラー・アーゲーと乗用車事業全般にわたる事業提携の基本合意書を締結し、同年10月にダイムラークライスラーが三菱自動車の株式34%を取得して親会社に相当する地位に立った。しかし2001年にリコール隠しが発覚し副社長が書類送検される事態となり、三菱自動車は早期退職を募集して人員削減を実施、2003年1月にはトラック・バス事業を会社分割で分社化し三菱ふそうトラック・バスを設立した。同年3月には三菱ふそう株式の43%をダイムラークライスラーへ、15%を三菱グループ10社へ譲渡し、2005年3月には全株式をダイムラークライスラーに譲渡して同事業から撤退した。
ところが2004年3月には二度目のリコール隠しが発覚し、連結自己資本比率は1.4%まで低下して事実上の債務超過寸前にまで追い込まれる危機的状況となった。ダイムラークライスラーは三菱自動車への追加支援を拒否する方針を示し、2005年11月には保有していた三菱自動車株式を全株式売却して提携関係は解消された。三菱グループ各社からの資本注入によって辛うじて存続したものの、クライスラーに続いてダイムラーにも見放される結果となり、外資との提携に依存する経営モデルの構造的な限界が露呈した。ミツビシ・モーターズ・オーストラリアにおける車両の生産事業は2008年3月に終了し、国内主力事業への回帰が進んだ。
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先進国事業の縮小と東南アジアへの集中
2003年にトラック・バス事業を分社化して以降の三菱自動車は、先進国市場における事業基盤の脆弱さが構造的な課題として定着した。2008年にはオーストラリアでの現地生産を終了し、2010年4月にはフランスのプジョー・シトロエン・オートモビルズとの合弁会社ピーシーエムエー・ルスをロシアに設立して新興国市場への展開を進めた。2012年9月には三菱商事との共同出資で広汽三菱汽車有限公司を中国に設立し、2015年3月には同じく三菱商事との共同出資でミツビシ・モーターズ・クラマ・ユダ・インドネシアを設立するなど、アジアを中心とした新興国市場への経営資源の集中が方針として定着し、同時期にミツビシ・モーターズ・ノース・アメリカにおける車両生産事業も2015年11月に終了している。
先進国市場における縮小傾向は、北米での完成車生産からの撤退という形で決定的となり、海外事業の重心は新興国へ移った。東南アジア(タイ・インドネシア・フィリピン)を中心とした市場へ経営資源を集中させる方針は、2016年以降の日産アライアンス参画後も引き継がれた。リコール隠し後の経営再建では三菱グループの支援が不可欠であったが、自動車メーカーとしての独自の成長戦略を描くのは難しく、再び外部パートナーを必要とする場面へと追い込まれた。パジェロ・ランサー・ギャランといった主要車種の世界展開は維持されたものの、先進国販売網の弱さは克服されないまま次の提携局面へ突入した。
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2016年〜2026年日産アライアンス参画と日産・ホンダとの3社統合協議
日産自動車との戦略提携とルノー・日産アライアンス
2016年5月、三菱自動車は日産自動車と資本業務提携に関する戦略提携契約を正式に締結し、同年10月には日産自動車が第三者割当増資の引受によって三菱自動車の株式34%を取得してルノー・日産アライアンスに参画した。日産からの資本注入と経営支援によって経営基盤の安定を図り、東南アジアでのピックアップトラックや軽自動車の共同開発・生産といった具体的なシナジーの追求が方針として示された。2019年6月には指名委員会等設置会社へ移行し、ガバナンス体制の強化も並行して進んだ。日産・ルノーとの三社アライアンス体制のなかで、三菱自動車はプラグインハイブリッド技術や四輪駆動技術といった固有の技術領域での貢献が期待された。
しかし2021年3月期には販売不振によって国内6拠点での減損損失1179億円と事業構造改革費用702億円を含む特別損失2982億円を計上し、結果として3123億円の最終赤字に転落する深刻な事態に直面した。同年8月にはパジェロ製造株式会社の生産事業が終了し、岐阜の工場が閉鎖されるとともに、かつての主力車種パジェロの生産に終止符が打たれた象徴的な転機となった。2022年4月の東京証券取引所の市場区分見直しではプライム市場への移行を果たしたが、2023年12月にはピーシーエムエー・ルス(ロシア)における車両生産事業が終了し、2024年2月には広汽三菱汽車有限公司(中国)における車両生産事業も終了するなど、海外生産網の縮小傾向が事業構造の大きな方向性として続いた。
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日産・ホンダ・三菱の3社統合協議と東南アジア偏重の課題
2024年12月、日産自動車、本田技研工業、三菱自動車の3社による経営統合の協議開始が公表された。2024年3月期の業績は売上高2兆7895億円・純利益1547億円と黒字を確保しているものの、先進国市場からの撤退が進んだ結果として東南アジア偏重の収益構造が続いており、グループ全体の販売台数規模の維持や電動化投資の原資確保という観点から、より規模の大きな枠組みへの参画が不可避だという認識が市場で広がっていた。加藤隆雄CEOは「PHVの需要強い。一気にEVはリスキー」(日経ビジネス 2024)と語り、電動化の道筋でも規模の大手とは距離を置く姿勢を示してきた経緯がある。2024年11月には日産自動車が2016年10月に第三者割当で取得した三菱自動車株式の一部を当社へ売却しており、日産・三菱のアライアンス関係の再編が静かに進行していた。3社協議は日本の自動車産業の競争構造を塗り替える議題として浮上した。
三菱自動車の歴史は、クライスラー、ダイムラークライスラー、日産と続けて外部パートナーとの提携に経営の存続を委ねてきた過程として特徴づけられる。1971年のクライスラーとの資本提携を起点として、2000年のダイムラークライスラーとの提携、2016年の日産自動車との提携と、約15年ごとに主要な提携先を変えてきた経緯は、自動車メーカーの単独での事業継続の難しさを示すと同時に、提携先との力関係によって経営が左右されやすい構造を再生産してきた。二度のリコール隠しは品質管理体制の構造的な問題を露呈させ、提携先からの信頼を繰り返し失う結果を生み、パートナー依存の構造は2024年12月の3社協議開始に至るまで一貫して続いている。
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直近の動向と展望
3社統合協議の行方と電動化投資の焦点
2024年12月に公表された日産・ホンダ・三菱自動車の3社経営統合協議は、世界の自動車産業における電動化投資の増加と、中国勢の台頭による競争環境の激変を背景としている。日産が保有する三菱自動車株式の一部が2024年11月に当社へ売却されていたことは、3社統合の前提となるアライアンス関係の再整理の動きとして市場で注目を集めた。三菱自動車は2024年3月期に売上高2兆7895億円・純利益1547億円の黒字を確保しているが、販売台数規模ではグローバル3社のなかで最も小さく、統合後の枠組みでどのような技術的・事業的な貢献を示すかが経営陣に問われている。アウトランダーPHEVを代表とするプラグインハイブリッド技術は、同社が長年にわたって独自に蓄積してきた固有の強みとなっている。
一方で電動化への対応は、三菱自動車単独では研究開発投資の規模の確保が構造的に困難であり、日産・ホンダとの統合はその制約を緩和する現実的な選択肢として一定の意味を持っている。軽自動車のeKクロスEVやミニキャブEVといった電動軽商用車の展開は国内の脱炭素ニーズに対応する商品群であり、東南アジア市場ではトライトンやパジェロスポーツといった伝統的なSUV・ピックアップの強みを活かす方向で商品戦略が組み立てられている。2016年の日産との戦略提携から約10年を経て、三菱自動車は再び大きな資本構造の変化に直面しており、クライスラー・ダイムラー・日産に続く4度目の主要提携の局面を迎える可能性が浮上している。
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- 日経ビジネス 2024
- Car Watch 2019/6
東南アジア偏重の収益構造と電動車商品展開
三菱自動車の事業構造は、タイ・インドネシア・フィリピンを中心とした東南アジア市場への偏重が長年にわたって続いている。2024年2月に中国の広汽三菱汽車有限公司における車両生産事業が終了し、2023年12月にはロシアのピーシーエムエー・ルスの車両生産事業も終了したことで、大規模な海外生産拠点はタイのミツビシ・モーターズ・タイランドとインドネシアのミツビシ・モーターズ・クラマ・ユダ・インドネシアの2拠点に実質的に集約された。両拠点を中心に、エクスパンダーHEVやエクスフォースHEVといったハイブリッド商品と、トライトン・パジェロスポーツといった伝統的SUV・ピックアップの二軸で事業を回している。
国内市場では、デリカD:5やデリカミニといった独自の商品群で一定の存在感を保っているものの、先進国市場全体の縮小は構造的な課題として残る。加藤CEOは2019年の就任会見で「スモール・バット・ビューティフルな企業として着実な成長を遂げていく」(Car Watch 2019/06)と述べ、規模を追わない独自路線を掲げた。日産自動車とのアライアンスによる軽自動車開発はeKクロス・eKワゴン・eKスペースで一定の成果を上げたが、規模の経済の観点では3社統合による解決を図るほかない水準に達しつつあると市場から認識されている。1970年の三菱重工業からの分離独立以来、提携先を変えながら存続を図ってきた三菱自動車の経営史は、2024年から始まる新たな協議の帰趨によって次の転換点を迎えようとしている。
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