歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1889年、官庁工事を一般競争入札に付す会計法が公布された年に、日本鉄道を辞した技術者・間猛馬が福岡県門司で間組を起こした。最初の仕事は官庁発注の鉄道工事の請負だった。地質や工法を読み違えれば採算が崩れる土木で、見積もりどおり仕事を仕上げる施工力がそのまま信用となり、次の難工事を呼んだ。戦後はダムやトンネルで佐久間や黒部第四といった難工事を完遂し、土木の名門と呼ばれる地歩を固めた。
決断いまの安藤・間の姿を決めたのは、2013年4月の安藤建設との合併である。バブル後の経営危機を2003年の会社分割で乗り越えた間組は、土木に偏った構成のままでは準大手として規模が足りなかった。そこで建築に強い安藤建設を取り込み、土木で利益率を稼ぎ建築で売上の量を取る総合ゼネコンへ組み替えた。間組を存続会社とした合併で連結売上高は単独の約1.9倍へ広がり、高い土木の利益率を保ったまま建築事業を補完した。
現況安藤・間は、2013年の合併で得た「土木と建築」という収益源を確立し、現在は次の事業を探索している。2023年4月に旧ハザマの土木系から国谷一彦氏が3代目社長に就き、人材の確保と定着を経営の前提に据えた。中期経営計画BEYOND2025では、データセンター施工・再生可能エネルギー・建設DXを成長領域に並べた。だが、いずれも鹿島建設や大林組、専業のEPC企業が先行する市場であり、安藤・間はまだ買収も大型投資も実行していない。合併の補完に代わる構造的な一手を打てないまま、時間が経過している。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1889年〜1990年 間組の創業と戦後の電源開発――門司からダムの名門へ
間組の創業と発展――門司に始まる土木の系譜
現在の安藤・間の法人格と上場は、1889年創業の間組(株式会社間組)を母体として受け継がれている[1]。間組は明治22年4月、間猛馬が福岡県門司で個人企業として創業し、土木建築の請負に従事した会社である[2][3][4]。間猛馬は日本鉄道を辞して独立した技術者で、官庁工事を一般競争入札に付す会計法が公布された年に、鉄道建設の請負を足がかりとして事業を起こした[5][6]。仙石貢ら帝国大学出の技術者や郷里高知の士族子弟の支援を受けながら、本店を下関を経て東京へ移し、全国規模で工事を手がける総合建設業者へと成長していった[7][8]。ダムやトンネルなどの土木工事を得意とし、なかでも発電所工事で技術力を高めている。
間組は創業者一族の個人企業から、産業化の進展と公共工事の規模拡大に合わせて会社組織を整えていった。1917年12月に合資会社へ改組し、1930年12月には資本金50万円で株式会社間組を設立、翌1931年4月に合資会社間組を合併して株式会社へ一本化した[9][10][11]。戦前にはアジア最大の出力70万kWを誇った朝鮮・水豊発電所などの工事を手がけ、発電所やダムの建設で土木技術を蓄積している[12]。土木は公共発注の比率が高く、1案件あたりの工事高が数十億円から数百億円規模に達するため、技術力と地質の知見が採算を左右した。難工事を引き受けて完遂する施工力そのものが信用となる世界で、間組は土木の名門としての地歩を固めていった。
神部社長と戦後の電源開発――間組を象徴したダム工事
間組の戦後は、終戦による壊滅的な打撃からの再建で始まった。中興の祖と呼ばれる神部社長は、明治神宮仮御殿御造営工事の拝命を再建の第一歩とし、入間川飛行場をはじめとする進駐軍工事を次々と請け負って経営を立て直した[13][14]。戦前までに培った発電所やダムの土木技術を足場に、間組は戦後復興と高度成長が生んだ膨大な電力需要へ応える電源開発の担い手として歩み出す。神部社長は間組創立から83年の歴史のうち24年にわたって社長を務めて戦後の経営基盤を築き、松永安左衛門から「日本ダム王」と呼ばれた人物であり、敬神の念とともに数々の逸話を残した[15][16]。
電源開発の本格化とともに、間組は日本を代表するダム工事を相次いで手がけた。1951年の木曽川・丸山ダムを皮切りに、1953年着工の天竜川・佐久間ダムでは米アトキンソン社と技術提携して重機械を駆使し、当時日本最大の重力式ダムを約3年で完成させた[17][18]。続いて世界第2位のアーチダムである黒部川第四発電所、日本初の中空重力式である井川発電所、米国の技術を導入した御母衣ロックフィルダムを完成させ、多様な型式の施工技術を蓄積していった[19][20][21]。土木にとどまらず、1959年竣工の名古屋城復元や会津鶴ヶ城の復元工事でも陣頭指導をとり、難工事を引き受ける会社という評価を業界内に確立した[22][23]。
間組は土木専業から事業の幅も広げていった。1966年9月期には完工高に占める建築の比率が53%となって初めて土木を上回り、ベトナムやタイ、ラオスのナムグム・ダムなど海外工事の受注にも乗り出している[24][25]。高度成長期からオイルショックを経てもなお、ダムやトンネルの難工事を引き受ける土木の名門という評価は揺るがなかった。しかし1980年代まで安定して成長した建設業界は、1990年代のバブル崩壊で転機を迎える。公共事業費の削減と民間設備投資の冷え込みは土木・建築の双方で受注機会と採算を圧迫し、間組もこの逆風のなかで経営の立て直しを迫られた。
1990年〜2013年 経営危機と再建――株式会社間組として安藤・間へ
債権放棄から会社分割へ――間組の社名を継いだ承継会社
株式会社ハザマと改称していた間組の経営は、1990年代後半に海外工事の損失と国内不採算案件の累積で悪化し、有利子負債の負担が重くなっていた[26]。2000年5月、ハザマは主力4行(第一勧業・三菱信託・日本長期信用・日本債券信用)に総額1,050億円の債権放棄を要請し、免除額の半分程度をメーンバンクの第一勧銀が負担、不良債権処理として2001年3月期に約1,200億円の特別損失を計上する計画を示した[27][28][29]。第一勧銀が引き続き主力行として支援すると表明し要請先も4行にとどまったため、1998年度に相次いだ青木建設や長谷工などの切迫した債権放棄要請とは様相が異なった。
それでも本体での再建は難しく、2002年から2003年にかけて事業再生計画が練られた[30]。2003年10月、旧法人(現商号・青山管財株式会社)の会社分割によって建設事業部門の承継会社として株式会社間組が設立され、東京証券取引所市場第一部へ上場して歴史的な「間組」の社名を継いだ[31]。この会社分割は単なる人員や拠点の削減ではなく、不採算資産と過剰債務を旧法人に残し、健全な建設事業のみを新会社へ切り出す再編だった。間組は再建のめどをつけ、外部から中身の見えるバランスシートを示せる状態になり、合併への足場を整えた。
独力での限界と安藤建設との統合――承継会社の財務が示す合併の必然
合併以前の財務動向は、承継会社・株式会社間組の有価証券報告書が残るFY03(2004年3月期)以降からたどれる。連結売上高はFY03の1,403億円からFY06の2,372億円までほぼ単調に拡大したのち、連結経常利益はFY05の56億円、FY06の34億円と起伏を見せ、リーマンショック後のFY09(2010年3月期)には5億円まで縮小して純利益は17億円の赤字となった[32]。合併直前のFY11(2012年3月期)は売上1,820億円、FY12(2013年3月期)は1,979億円で推移し、独力での収益拡大には限界があった[33]。
こうしたなか、間組は安藤建設との統合へ動いた。2003年に締結した安藤建設との資本業務提携が布石となり、2013年4月、土木に強い間組を存続会社として、建築に強い安藤建設を統合した[34][35]。間組は証券コードと東証一部上場の地位を継承したまま、両社の社名を併せ持つ株式会社安藤・間(ブランド名・安藤ハザマ)として歩み始めた[36]。合併後のFY13売上高3,712億円は、存続会社・間組単独のFY12の1,979億円から87.6%増の規模であり、安藤建設を取り込むことで独力では到達し得なかった水準へ事業を引き上げた[37]。
2013年〜2026年 合併後の安藤・間――再構築から人的資本経営へ
合併の狙いと融合体制――建築と土木の補完
安藤・間の合併は、土木に強い間組と建築に強い安藤建設という得意分野の異なる2社を一つにする再編だった。準大手ゼネコンはスーパーゼネコンと地域中堅の中間にあり、単独では規模でも価格競争力でも見劣りしやすい。2003年の会社分割で健全な建設事業に再建していた間組と、独力での規模拡大に限界を抱えていた安藤建設は、土木と建築を補い合うことで受注の幅と事業規模を広げられる関係にあった。この相互補完性が合併の経済合理性を裏づけ、2013年4月、間組を存続会社として安藤・間が発足し、連結売上高はFY13(2014年3月期)に3,712億円と間組単独の約1.9倍へ拡大した[38]。
初代社長には旧ハザマ系の野村俊明氏が就任し、最初の5年間は組織再編や人事・システムの統一を進める「2社統合の地ならし」期間となった[39]。本社機能の重複解消と土木・建築の相互送客がシナジーの中核を成し、FY16(2017年3月期)には売上高4,079億円・営業利益370億円と合併後の業績ピークを記録した[40]。一方で土木事業の利益率20.1%に対し建築事業は5.5%と二極化し、FY18には特別損失95億円で純利益が88億円へ落ち込んだため、同年4月に就任した2代目・福富正人社長は建築事業の利益率改善を最優先課題に据えた[41][42][43]。
福富正人社長のもとでFY19〜FY21は営業利益260億円台・純利益170億円前後で推移し、コロナ禍にあっても収益力を保った[44]。建築事業の利益率改善を最優先に据えた取り組みが、FY18の落ち込みからの立て直しを支えた形である。財務基盤も合併後の10年で改善し、自己資本比率はFY14の23.7%からFY21の47.7%へ倍増、有利子負債は325億円から243億円へ圧縮され、合併直後に抱えた財務リスクは抑えられた[45][46]。利益剰余金の蓄積による財務の安定は、のちに中期経営計画でROE目標を掲げるための土台となった。
国谷体制と中期経営計画――収益性回復・人的資本経営と次の決断
合併から10年のFY22(2023年3月期)は、建設資材価格の急騰と労務費の上昇が利益を直撃し、営業利益は199億円(前期比25%減)へ後退、建築事業の利益率は4.6%まで低下した[47][48]。案件不足ではなく既存案件の採算悪化が中心課題となるなか、安藤・間はFY22中に中期経営計画「BEYOND2025」を策定し、ROE8%以上の達成、建設事業の生産性改革、DX推進と人的資本経営、グループ事業の収益貢献拡大の4本柱を掲げた[49]。残業規制が建設業へ適用される2024年問題への対応もあり、現場の生産性改革を計画の根幹に据えた。
2023年4月、合併後3代目の社長として旧ハザマ系の国谷一彦氏が就任した[50]。国谷氏は「建設業界で最も従業員を大切にする会社」を掲げ、若年層離れと現場の高齢化が進むなかで人材確保と定着を事業継続の前提と位置づけ、人的資本経営を重要テーマに据えた[51]。連結従業員数はFY18の3,966名からFY24の3,753名へ漸減し、平均年収は848万円から1,005万円へ上昇している[52][53]。業績はFY23の伸び悩みを経てFY24(2025年3月期)に売上4,251億円・営業利益352億円・純利益264億円とFY16並みへ回復し、建築事業の利益率がFY18以来初めて2桁の10.3%へ戻ったことが牽引した[54][55]。
国谷体制の今後の焦点は2つに集約される。第1は、FY24で示した建築利益率10%水準を資材・労務費の変動下で持続できるかであり、改善が一過性の発注環境に依存していた場合は再び4〜5%帯へ押し戻されるリスクが残る。第2は、合併由来のシナジー――組織融合・コスト削減・相互送客――が一巡したあとの成長軸であり、ここから先の成長は新規事業やM&A、海外展開など合併以外の手段で生み出す必要がある。建設DXやデータセンター施工、再生可能エネルギーといった成長領域はいずれも差別化が容易ではなく、建築と土木の融合という合併当初のコンセプトを越える「次の構造的決断」を打ち出せるかが、合併15年目以降の企業価値を決める。