建築の請負は、受注のたびに価格と採算が交渉で決まる商売である。長谷川工務店が1937年から1967年までに作ったのは、その振れ幅をもう一つの収入で抑える収益構造だった。1957年に大阪本店へ長谷川第1ビルを建てて定款に貸室業を加えたとき、会社が見ていたのは家賃そのものより、入室時に受け取る保証金が総建築費の7割以上を先に戻すという資金の順序である。請負は完成まで資金が出ていく一方だが、貸ビルは着工前に元手の大半が入る。同じ建築の技術を使いながら資金の向きが逆の事業を並べ、利益の比で工事部門とビル部門が拮抗する状態を理想に掲げた。木造の工務店が耐火構造へ主力を移した先にあったのは、建てて渡す商売と建てて持つ商売の二本立てである。
この構えが効いたことは、上場前後の数字に表れている。半期売上高は1958年11月期の2.1億円から1965年5月期の39.6億円へ19倍近くに伸びたのに、税引前利益率は1963年5月期の11.1%から1965年11月期の2.8%へ4分の1に低下した。建築請負だけを見れば、規模の拡大と採算の悪化が同時に進んだ時期である。その間に資本金は1953年の1,000万円から1962年の1億4,000万円へ積み上がり、保有ビルの総床面積は1962年の21,726平方メートルから翌1963年の3万8,000平方メートルへ広がった。同業と比べて貸ビルを多く持つ建築業者という自己規定が成り立ったのは、貸室業が会社の副業ではなく、請負の採算を支える収益源だったからだろう。
1937年2月、長谷川武彦氏は兵庫県尼崎市で個人企業の長谷川工務店を興した。木造建築の請負から出発した事業は、1946年8月に神戸出張所の開設とあわせて資本金19万5,000円の株式会社へ改組され、本店は姫路市に置かれた。同年9月に大阪出張所を開設し、1949年5月には建設業法の施行にあわせて建設大臣の登録を受けている。1951年2月には東京出張所を開設して関東へ進出している。1953年8月には本店を姫路から大阪出張所跡の所在地へ移すとともに、資本金を1,000万円へ引き上げた。
事業の性格を変えたのは、1950年に伊藤忠商事から受注した芦屋打出荘アパートである。鉄筋コンクリート造のこの案件を機に、耐火構造建築に要する設備機械の整備充実を図った。資本金は1956年8月に5,000万円へ増資され、1957年8月には大阪本店第一ビルを竣工させて本格的に貸ビル業を始めている。1963年には東京・渋谷区に長谷川スカイラインビルを完成させて東京支店を移し、あわせて不動産部を新設した。1964年に竣工した長谷川第一〇ビルは、世界で最初の全館鋳鋼管構造として注目を集めた。
建設業法の施行にあわせて建設大臣の登録を受けた当時、長谷川工務店は山林経営から各営業所の製材工場・建具工場までを併営する一貫体制を敷いていた。戦前、太陽鉱工の子会社である日輪ゴム工業が福島紡績姫路工場を取得した際の補修拡張工事は、飾磨に本拠を置く長谷川工務店へ回り、戦災の修理と戦後の復旧転換工事へ引き継がれた。この工事は激しいインフレのさなかにあり、契約の価格では履行が難しかったが、長谷川武彦氏は値増しを求めずに完成させたという。1950年に受注した伊藤忠商事の芦屋打出荘でも、鉄筋工事を採算度外視で仕上げている。木材の調達から加工までを自社に抱え、契約価格を動かさずに引き渡す施工が、特命で仕事の回る関係を施主との間に作った。
1957年8月、大阪本店に長谷川第1ビルを竣工させ、定款の営業種目に貸室業を加えた。貸ビル経営が他の生産企業と異なるのは、入室契約時に受け取る保証金が投下資本である総建築費に見合うか、最悪の場合でもその70%以上を確保できる点にある。立地条件の選定を誤らない限り空室の生じる危険は小さく、稼働後の家賃収入は安定した収入源となる。第1ビルは冷暖房とエレベーターを備え、住友金属工業や遠州製作といった企業が入室した。市街地の地価が高騰し、各社が人員増に対応するオフィススペースの確保を急いでいた時期にあたる。請負の採算が受注競争と資材価格に振られるのに対し、家賃は契約の期間だけ動かない。
事業の拡大にあわせて採用の規模が変わった。1960年春には60名の新入社員を迎えて社員は200名に達し、1961年は80名、1962年3月には東京と大阪で70名を採用して従業員総数は400名に迫った。同年の従業員375名のうち技術者は209名を占め、社員の半数を超えていた。急増した社員を現場の戦力に育てるため、早稲田大学の関係教授の賛同を得て社立長谷川学校を開校し、長谷川武彦氏が校長に就任した。講義は毎月2回・4時間で、建築理論と施工技術のほか経済学・経営学・会計学にまで及んだ。新入社員教育とは別に、中堅社員へ管理者としての知識を与える場として置かれたものである。
1962年3月に長谷川第6ビル、11月に第7ビルが竣工すると、保有ビルの総床面積は21,726平方メートルとなり、年間のビル収入は2億5,000万円が見込まれた。ビル部門だけで年間1億円前後の純利益が約束される計算であり、会社は利益の比で工事部門とビル部門が拮抗する状態を理想に掲げた。工事部門では1962年度の年間受注目標を、前年度実績のおよそ2.5倍にあたる100億円に置いた。受注から完成までの1年のずれを見込んでも1963年度には年間50億円の完成工事高に届き、1965年には年間100億円の完成工事高も難事ではないと見ていた。毎年1棟の高層貸ビルを建てることは既定の方針だった。
1961年、資本金を5,512万5,000円へ増資する際に大阪市場へ株式を公開し、翌1962年3月5日には東京証券取引所市場第二部へ上場した。上場時点の資本金は1億4,000万円、従業員は284名で、1961年11月期の完成工事高は約13億円と、同年5月期の7億円からほぼ倍増していた。事業の内訳は総合建設業96.2%、貸室業3.8%であり、建築工事の受注方法は特命によるものが72.8%、競争によるものが27.2%を占めた。系列的な受注は持たず、手持工事高は約26億円で前期比42%増だった。1965年4月には東京・大阪・名古屋の各市場第一部へ指定替えとなった。
公開後の資金は東京の高層ビルへ向かった。1963年の時点で渋谷駅前に建設していた第8ビルは地上10階・地下3階の規模にあり、着工は第11ビルにまで及んでいる。保有ビルの総床面積は3万8,000平方メートルに達し、翌1964年1月に銀座の第9ビルが完成すれば4万3,000平方メートルを超えて、年間のビル収入は5億円が確保される見通しにあった。長谷川工務店は、同業と比べて貸ビルを多く持つ建築業者という位置に自らを置いていた。受注する工事の規模が1,000万円単位から億円単位へ一桁上がる一方で、家賃は棟数に比例して積み上がり、工事の採算が振れても収益の底が抜けない形が整った。
1968年の時点で、東京と大阪に8棟のビルを持って貸室業を営み、資本金は12億4,800万円、従業員は527名だった。貸ビル業は早くから収益を支えており、1961年11月期の貸室収入は前期より13%増えて5,200万円に達した。本業の建築請負では、半期売上高が1958年11月期の2.1億円から1965年5月期の39.6億円へ膨らんだ。その一方で、税引前利益率は1963年5月期の11.1%が天井で、1965年11月期には2.8%に低下した。売上は19倍近くになったのに利益率は4分の1に縮んでおり、上場をはさむ数年で請負の採算は大きく揺れた。
マンションで長谷川工務店が取った位置は、建てる側と売る側のどちらでもなく、その両方を一つの工程として統合する立場だった。入札に参加せず官公需の受注をゼロに保ったのは、落札の可否が最後まで読めず、原価に適正利潤を乗せる原則が守れない場面があるからである。代わりに商社やデベロッパーと組み、用地の選定から企画・工事・販売までを共同で行った。工事費は着工時から10か月の均等払いで受け取る。資金需要は完成へ近づくほど急に増えるのに入金は直線で積み上がるから、その差額はそのまま手元に残る。請負の形を借りながら、資金の順序だけを自社に有利な向きへ変えた設計である。
規格化は、その延長で原価の側まで自社へ引き寄せる手だった。設計図を受け取って施工するのではなく、自社が使う部材に合わせて設計する。都市型と郊外型の七つのブロックを共通コアの周りに積み上げる方式は設計で10%、資材費で10%を削減し、粗利益率を1977年の12.6%から1980年の19.2%へ押し上げた。1981年に首都圏で約20%のシェアに達したのは、同じ市場で一社だけ違う原価表を持っていたからである。ただし、この構えは自社の工程に注文を合わせてもらえる事業でしか働かない。1988年の京都ブライトンホテルも蓼科・淡路島のリゾートも、建てて渡せば終わる事業ではなかった。
1968年、長谷川工務店は自社マンションの第1号を着工してマンション事業へ参入した。翌1969年には日商岩井と業務提携を結び、1970年には長谷工不動産を設立している。1969年6月に本社機構を東京へ移し、1970年12月には名実ともに東京へ移った。単体の売上高は1970年3月期の110億円から1975年3月期の1,004億円へ伸び、この5年間で売上高は9.1倍、経常利益は12.5倍になった。貸ビル業から転じてほぼマンション専業に徹したことと、1970年から爆発的なブームが訪れたことが、伸びの二つの条件だった。
建築業者が入札・受注・工事の手順を踏む請負形態を取るなかで、長谷川工務店は入札工事に一切参加せず、官公需の受注件数はゼロだった。水上芳美社長は、付き合いに費用がかかること、落札の可否がぎりぎりまで分からないこと、原価に適正利潤を上乗せする経営原則を守り切れない場合があることを理由に挙げている。代わりに採ったのは施主と完全に一体となる体制である。施主が商社であれば、どこにどんな需要があり何を建てるかを共同で練り、土地取得・開発行為・工事・販売までを共同で行った。企画・開発・建築工事・販売のそれぞれの原価を施主と話し合うため、建築工事だけを請け負う場合より付加価値は高まった。自社でマンションを建てて売る場合も、子会社をオーナーに立てて注文を受ける方式を採った。
共同事業が成り立つ前提として、工事費の入金条件を着工時から10か月の均等払いで通した。10億円の工事なら着工時から毎月1億円ずつの現金払いであり、前渡し・中間渡し・完工時渡しの3分割払いが通例だった一般の建築業とは条件が決定的に異なる。建設資金は着工時に少なく完成へ近づくほど急に増えるため資金需要は二次曲線を描くが、均等払いの入金は直線で積み上がり、その差が余剰資金となった。入金と支出金の相殺勘定は1975年まで10年にわたって受け取り超過を続けている。貸ビルの保証金を準自己資本とみなせば固定比率は100%を割るという見方も、社内では並行して立てられていた。
1974年初め、長谷川工務店は首都圏の民間デベロッパー融資で第1号となる案件を出した。石油ショックを境にマンション不況が来て、売れ残り戸数は増加した。もっとも同社の完成在庫は、首都圏全体の平均に届かない水準にとどまった。それでも主なスポンサーと協議したうえで、同じ1974年初めには在庫を値下げして売り切ることを非常の措置として徹底的に実行した。1974年から1976年にかけての特別損は50億円見当にのぼったが、全額が償却された。固定比率も1974年5月期の284%から110%へ下がった。関係会社が手持ちする完成マンションは1975年6月の731戸・135億円から237戸・36億円へ減り、230億円ほどあった手持ち不動産投資も172億円に圧縮された。
設計の力で大手総合建設会社に見劣りする点が、この会社の弱みだった。その埋め合わせも兼ねて営業戦略に加えられたもう一つの柱が、マンションの規格化である。住戸はまず都市型と郊外型に大別された。そのうえで2DKや3LDKなど七つの型にそろえた。階段などの共通コアを軸にこれらの型を組み合わせて重ね、外装だけを立地の周辺環境に応じて仕上げた。設計の合理化で10%、部材をまとめて発注したことで資材費の10%が、それぞれ浮いた。施主の図面どおりに建てるのではなく、自社で使う部材を前提に先に設計を済ませるので、着工の時期も施主の指示ではなく自社の作業の流れに合わせてもらっていた。粗利益率は1977年の12.6%から1980年の19.2%まで上がった。
買い手の層も変わった。1974年初めに民間デベロッパー融資の第1号を出した際の購入者の年齢分析で、トップに初めて20歳代が現れた。会社はこれを異常現象と受け取ったが、1977年になっても年収200万円から350万円の層が購入者層のトップを形成し続けた。家を借りれば6万円から7万円の家賃を覚悟せねばならず、同じ額を払うなら自分のものになるマンションを買うという判断が働いていた。1976年6月から1977年5月までの総売上高は829億8,300万円、経常利益は51億4,500万円である。1981年には首都圏のマンション供給で約20%のシェアに達した。
1987年8月、合田耕平氏が社長に就任した。創業者の長谷川武彦氏、二代目の水上芳美氏に続く三代目であり、合田耕平氏の実姉二人がそれぞれ両名に嫁いでいる。建設業で大手5社に量で並ぶことは難しく、会社の成長は建設業以外の周辺業務をどこまで担えるかにかかっていた。創業50周年を機に社内を建設・開発・技術の三つの事業部門へ分け、建設事業部と不動産事業部は財務諸表を別々に作り始めている。売上の半分は不動産が占めており、会社の性格と社名が一致しなくなっていた。1988年、商号を長谷工コーポレーションへ変更した。
1988年7月、京都にブライトンホテルを開業した。マンション用地として1983年に買い入れた、大通りを離れた住宅街のなかの土地である。183室はいずれも通常のホテルのスイートルームほどの広さを取り、平均的なツインで42平方メートル、室料は2万4,000円前後に設定した。婚礼は1日10組の能力に対して多くとも6組に抑え、プールの入場者はデッキチェアの数に合わせて55人までに制限している。1989年3月期の初決算は売上高23億3,000万円と目標を約30%上回り、営業利益は目標の2倍に達した。土地を仕込んで上物を建てれば終わる短期回転の事業に対し、ホテルは工夫した分がすぐ跳ね返る事業として扱われた。
1989年3月期の売上高4,337億円・経常利益271億円は当時の最高だった。しかしバブル期の建設ブームで職人が不足し、大工の日当は一時7万円へ跳ね上がって、年間1万戸を建てる会社ほど競争力を落とした。1992年、内装工事を多能工がこなす新工法M-2000を埼玉県三郷市の物件で初めて施工している。配線と配管を天井へ集めて金具で止め、コンクリートへ打ち込む工程をなくし、部材は工場で加工して現場から熟練の要る道具を減らした。同年4月には長谷工インテリア技術専門校を開校し、高卒者を1年かけて技能工に育てる体制を敷いた。1995年3月期の連結売上高は4,257億円、経常損益は8億円の赤字を計上した。
1996年3月期、長谷工コーポレーションは連結で経常損失1,180億円、当期純損失2,144億円を計上した。合田耕平社長は1995年11月の時点で、1996年3月期に1,850億円の最終赤字を出す処理を決めていた。取得価格3,800億円の土地を2,300億円で売却し、1,500億円の損失を確定させる内容だった。外部へ売却できない土地はグループ出資のエイチ・シー土地開発へ時価で移し、その取得資金1,600億円余りは主力銀行などが融資する予定だった。処理を急いだ最大の理由は、5,300億円を超える有利子負債と180億円を上回る利払いにあった。合田耕平社長は分割処理について『少しずつ不良資産を処分していくやり方では赤字が100億円単位でだらだらと続くことになる』と述べた。
一括処理のあとも、長谷工コーポレーションは3期続けて連結当期純損失を計上した。損失額は1997年3月期が477億円、1998年3月期が146億円、1999年3月期が649億円だった。借入金の返済は、エイチ・シー土地開発へ移した土地を5年で全て売却する計画を前提としていた。1998年6月には、主力銀行の一つである大和銀行の専務取締役だった岩尾崇氏が、顧問兼代表取締役副社長に就任した。1999年6月には、三井信託銀行静岡支店長だった大西敏夫氏も顧問に迎えた。主力銀行2行から相次いで人を受け入れたのは、残る借入金の条件を金融機関と協議する体制を経営の中に置くためだったとみられる。
1999年5月、合田耕平社長の後任として嵩聰久氏が代表取締役社長に就任した。嵩聰久社長は建設省大臣官房審議官を経て1991年7月に顧問として入社し、常務取締役としてグループ経営戦略室長を務めた。1996年4月に建築本部長となり、1998年6月からは代表取締役専務取締役として建設部門を管掌した。翌6月には、大和銀行出身の岩尾崇副社長が営業部門を管掌することになった。連結当期損益は、1999年3月期の649億円の赤字から2000年3月期の521億円の黒字に転じた。不動産の処理を終えて施工で収益を確保する方針に合わせ、建設部門を率いた役員を社長に選んだと推察される。
嵩聰久社長のもとで、長谷工コーポレーションは借入金の一部を優先株式に振り替える債務の株式化(DES)を実施した。DESで発行した優先株式の発行価額は、合計1,428億円に上った。2003年9月中間期の単体の支払利息・社債利息は、有利子負債の削減によって前年同期の50億円から28億円へ減少した。同じ中間期に連結の資本剰余金749億円はゼロとなり、利益剰余金等のマイナスは1,157億円から339億円へ縮小した。2003年3月期の単体業績は売上高3,652億円、経常利益135億円で、中期3ヶ年計画の目標をともに上回った。借入金を資本に置き換えて利払いを減らし、累積した欠損を資本剰余金で埋めることで、施工の利益が利払いに消えない財務に改めたと考えられる。
2001年3月、嵩聰久社長のもとで長谷工コーポレーションは米国にHASEKO America, Inc.を設立した。2004年3月期のHASEKO Americaは、売上高119億円、経常利益13億円を計上した。2005年9月末の自己資本は305億円、従業員は30名だった。2006年3月期の決算説明資料は、翌期のHASEKO Americaが大幅な増収・増益となる見通しを示した。国内で保有不動産の圧縮を進める一方、米国では少人数で収益を上げる事業を残したのだろう。
2003年4月、長谷工コーポレーションはサービス関連事業を統括する長谷工アネシスを設立した。長谷工アネシスは長谷工コミュニティ、長谷工ライブネット、センチュリーライフ、長谷工システムズの全株式を保有した。会社側は長谷工アネシスを『21世紀の時代のニーズに相応した「サービス関連事業」の推進母体としての事業持株会社』と位置づけた。2004年3月期の長谷工アネシスグループは、売上高545億円、経常利益32億円を見込んだ。2006年3月期には、グループ内の内装工事部門も長谷工アネシスへ移管した。マンションの管理と賃貸運営を新築の請負と切り分け、景気で振れにくい収益源として一社のもとで管理する狙いがあったと思われる。
2005年4月、岩尾崇副社長が代表取締役社長に就任し、嵩聰久社長は代表取締役会長となった。直前の2005年3月期に、長谷工コーポレーションは転換社債300億円と優先株式700億円で計1,000億円の資本を調達した。有利子負債は前期比970億円減の1,841億円となり、自己資本比率は20%に達した。新中期経営計画は、連結経常利益400億円以上の安定確保を目標に掲げた。資本構成の再構築について、会社側は『債務株式化により発行した優先株式への対応と計画期間中の復配の目処付けによる再生完了を目指し』と説明した。2007年3月期の連結経常利益は630億円となり、計画に掲げた水準を上回った。
2006年11月、岩尾崇社長のもとで長谷工コーポレーションは長谷工インテックを設立した。長谷工インテックは、インテリア販売、内装リフォーム、中古マンションのリノベーションの3事業で収益の拡大を目指した。2008年3月期には、売上高91億円、経常利益5億円を見込んだ。これに先立つ2005年3月期の時点で、長谷工アネシスはインテリア事業を近く統合する予定としていた。長谷工コーポレーションは研究開発の課題として、住みながら施工できる既築リフォームの確立を新築の生産効率化と並べて掲げた。新築の引渡し後に住戸の内側で生じる需要を、一つの子会社に集約する狙いがあったと推測される。
2009年4月、長谷工コーポレーションは長谷工リフォームを設立した。直前の2009年3月期、連結売上高は7,451億円から5,055億円へ、経常利益は531億円から124億円へ減少した。同期の決算説明資料は、超高層マンションの大規模修繕工事の受注促進をトピックスの一つに挙げた。長谷工リフォームは大規模修繕工事、リフォーム工事、耐震補強工事を担う会社として、2010年10月に本格営業を始めた。設立の理由について、会社側は『当社グループの管理物件に限らず他社の管理物件に対しても積極的な営業を展開するため』と説明した。新築の受注が減少した局面で、既存マンションの修繕の営業対象を自社の管理物件の外にまで広げる判断だったようだ。
2010年に就任した大栗育夫社長は、新築マンションの施工に加え、完成後の管理と修繕を収益の土台に据えた。大栗育夫社長は2011年1月4日の年頭あいさつで、生え抜きの社長・副社長による体制の2年目の標語を「挑戦」と定めた。同じあいさつでは、施工実績が2011年中に50万戸を超えると示し、その蓄積を品質と顧客対応に活かすよう求めた。2011年7月には、長谷工ライブネットが物産コミュニティーから賃貸管理と社宅管理代行の事業を会社分割で承継した。2012年3月期には、自社施工の分譲マンション50万戸超から大規模修繕を効率よく受注できるよう組織を改めた。大栗育夫社長は、国内建設市場の縮小に伴う受注競争の激化と少子高齢化を、対応の欠かせない構造変化と位置付けた。
大栗育夫社長は2012年2月の中期経営計画(4N計画)で、第1回B種優先株式の全部を期間利益で償還すると定めた。2015年10月に始まる普通株式への転換期間より前に償還を終え、株式の希薄化を避けるためであった。資金の備えに、優先株主でもある主力3行と極度額200億円の劣後ローン枠を設け、初回は2012年3月の1,000万株(額面50億円)とした。2013年7月には、ホテルの譲渡で財務基盤を補強したうえで2,000万株(100億円)を償還した。大栗育夫社長は2012年6月の年次報告書に、償還の原資を残すため『we reluctantly decided to deliver no dividend to common stocks.』(訳:普通株式の無配をやむなく決めた)と記した。
2014年2月、大栗育夫社長は残る優先株式250億円の全部償還に目途が立ったことから、普通株式の配当の再開を決めた。2014年3月期の当期純利益が増益の見通しとなり、保有不動産の売却で手元資金の確保と有利子負債の削減も進んだことが理由であった。償還は2014年3月に100億円、7月に150億円を予定し、期末配当は1株3円とした。2014年3月期の連結経常利益は254億円となり、リーマン・ショック後に低い採算で受注した工事の影響が薄れた。これに先立つ2013年11月には、4N計画が掲げた高齢者向け住宅の管理・運営への展開として、生活科学運営を子会社化した。
2014年4月に就任した辻範明社長は、翌5月に6年間の経営計画(NB計画)を定め、4N計画を2年前倒しで打ち切った。優先株式の全額償還と復配が2014年度に実現する見通しとなり、20年に及んだ再建が完了すると判断したためである。辻範明社長は2014年6月の年次報告書に『At the same time, achieving this represents the fulfillment of Haseko’s rehabilitation.』(訳:これを成し遂げることは、長谷工の再建の完遂を意味する)と記した。一方、首都圏の世帯数が近く減少に転じる予測や、建設技能労働者の減少といった条件は4N計画の策定時から変わっていなかった。そのため基本方針は4N計画を継ぎ、グループ事業の連携と都市居住者からの信頼獲得を加えた。前半3年間の数値目標は、2017年3月期の連結経常利益350億円とした。
辻範明社長は2015年5月、ルネシリーズで約64千戸のマンションを供給してきた総合地所の全株式を取得し、子会社化した。取得の理由は、560千戸超の施工実績に総合地所の分譲の知見を合わせ、顧客の要望を設計と施工に反映させることにあった。同年12月には、首都圏でアデニウムシリーズ約46千戸を供給したジョイント・コーポレーションも子会社化した。理由は総合地所と同じく分譲の知見を設計に活かすことで、賃貸マンションの管理受託戸数は両社で85千戸程度になると見込んだ。辻範明社長は2017年6月の年次報告書で、サービス関連事業のM&Aを収益力の向上の観点から進めたと説明した。分譲主を傘下に置くことで、施工の受注を他社の事業計画に左右されにくくする効果もあったとみられる。
2018年3月期の連結経常利益は1,005億円となり、初めて1,000億円を超えた。利益を押し上げたのは、首都圏の新築分譲マンション工事で受注時の採算が上がり、完成工事の利益率が改善したことであった。2016年3月期には物件の大型化で受注時採算が改善し、2017年3月期には首都圏の100戸以上のマンションで施工シェア50%超を確保した。辻範明社長は2016年6月の年次報告書に『project owners have a high regard for the Company’s ability to gather land information and product planning ability, its attitude regarding construction quality and keeping construction schedules, and its efficient production system.』(訳:事業主は土地情報収集力、商品企画力、品質と工期への姿勢、生産体制を高く評価している)と記した。辻範明社長は2020年2月のお知らせで、NB計画の6年間を振り返って競合環境の緩和と低金利に支えられた市場を背景に挙げた。総合地所などの買収よりも、本業の施工採算の改善が増益の大半を生んだと考えられる。
辻範明社長は2019年12月、ジャスダック上場の細田工務店に公開買付けを始め、2020年2月に子会社化した。目的は「住まいと暮らし」に関わる事業の拡大で、戸建分譲に加えて個人・法人向けの設計・施工まで戸建事業の領域を広げられると判断した。マンション用地の取得後に残る戸建向きの土地を、他業者へ転売せず細田工務店の分譲用地に充てられる点も利点に挙げた。細田工務店は多摩エリアなどで値引き販売を迫られ、たな卸資産の評価損で財務基盤が悪化していた。2025年4月には熊野聡社長が東海圏の戸建会社ウッドフレンズに公開買付けを始めた。2021年5月設立の長谷工ホームと商品や用地情報を持ち寄り、東海圏で戸建事業を広げる計画であった。
2020年4月に就任した池上一夫社長は、辻範明社長の下で2020年2月に公表した長期ビジョンと中期経営計画(NS計画)の実行を担った。長期ビジョンは2030年3月期の連結経常利益1,500億円を掲げ、NS計画は2025年3月期に1,000億円を目標とした。池上一夫社長は2020年6月の年次報告書で、新規設計の物件にBIMを全面導入する体制を年度内に整えるとした。そのうえで『One of the major themes in promoting these initiatives is digital transformation (DX).』(訳:その推進の主要テーマの一つがデジタルトランスフォーメーション(DX)である)と記した。2021年5月の説明会では、タワーマンション、賃貸マンション、物流倉庫へ受注の領域を広げたことを成果に挙げた。施工の担い手が減るなかで、1人当たりの生産性を上げなければ受注を増やせないという判断があったと思われる。
2025年3月期、主に海外事業で約230億円の特別損失を計上し、その総額は22,960百万円(うち減損損失16,861百万円)となった。減損の対象には、ハワイのエヴァプロジェクトで開発地区の集客のために開設した商業施設「ワイカイ」が含まれた。投資の途中でコロナにより観光が止まり、日本からの客足が回復しなかったためである。2025年4月に就任した熊野聡社長は、同年5月の説明会で『ハワイ事業につきましても、早期の完結に向けて取り組んでまいります。』と語り、ハワイの残高396億円を2〜3年後にほぼゼロへ近づける方針を示した。2025年3月期の連結経常利益は834億円で、新中期経営計画は2028年3月期の1,000億円を改めて目標に掲げた。海外の損失を先に確定させたのは、NS計画で達しなかった1,000億円を建設事業の採算回復で達成し直すための整理だったと推察される。
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|---|---|---|---|---|
| 1937〜1967年木造の請負から鉄筋コンクリートへ ── 貸ビル業を併せ持つ工務店 | 長谷川武彦氏が長谷川工務店を個人創業 | ★ | ||
| 長谷川武彦 | 長谷川工務店を設立 | ★ | ||
| 長谷川武彦 | 大阪出張所を開設 | ★ | ||
| 長谷川武彦 | 鉄筋コンクリート造の芦屋打出荘アパートを受注 | ★ | ||
| 長谷川武彦 | 東京出張所を開設 | ★ | ||
| 長谷川武彦 | 本店を移転 | ★ | ||
| 長谷川武彦 | 貸ビル業を開始 | ★ | ||
| 長谷川武彦 | 不動産売買業を開始 | ★ | ||
| 長谷川武彦 | 株式を店頭公開 | ★ | ||
| 長谷川武彦 | 東京証券取引所市場第二部に上場 | ★ | ||
| 長谷川武彦 | 東京・名古屋各証券取引所市場第一部へ指定 | ★ | ||
| 1968〜1995年マンション専業化と規格化 ── 首都圏シェア2割からホテル・リゾートへ | 長谷川武彦 | 自社マンション第1号を着工しマンション事業に参入 | ★★ | |
| 水上芳美 | 日商岩井と業務提携 | ★ | ||
| 水上芳美 | 長谷工不動産を設立 | ★ | ||
| 水上芳美 | 本社を移転 | ★ | ||
| 水上芳美 | ハワイに子会社を設立 | ★ | ||
| 水上芳美 | 本店を移転 | ★ | ||
| 水上芳美 | 長谷工コミュニティを設立 | ★ | ||
| 水上芳美 | 首都圏マンションシェアが約20%に到達 | ★ | ||
| 水上芳美 | 長谷工アーベストを設立 | ★ | ||
| 合田耕平 | 長谷工ライブネットを設立 | ★ | ||
| 合田耕平 | 本業の外へ1,000億円を投じたホテル・リゾートへの多角化 1988年、マンション専業ゼネコンの長谷工コーポレーション(当時:長谷川工務店)が、市場の成熟を受けてホテル・リゾート事業に1,000億円規模を投じる多角化に踏み切り、京都でのホテル開業と商号変更で"脱マンション"を対外的に印象づけた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 合田耕平 | 商号を長谷工コーポレーションに変更 | ★ | ||
| 合田耕平 | 長谷工システムズを設立 | ★ | ||
| 合田耕平 | 不二建設を設立 | ★ | ||
| 合田耕平 | 関西支社を移転 | ★ | ||
| 1996〜2009年不動産含み損1850億円の一括処理と、マンション施工への再集中 | 合田耕平 | 「毎年赤字より一回ドカンと出す」──1,850億円を一度に落とし、含み損を後年へ残さない決着 1996年3月期、長谷工コーポレーションは不動産含み損1,600億円を含む1,850億円の特別損失を一括計上し、連結最終赤字2,144億円を計上した。合田耕平社長は、毎年に分けて損失を計上し続けるより一度に処理すると決め、バブル期に膨らんだ不良資産の清算を短期間で進める決断を下した。 詳細を読む | ★★★ | |
| 合田耕平 | 嵩聰久氏が第4代社長に就任 | ★ | ||
| 合田耕平 | HASEKO America, Inc.を設立 | ★ | ||
| 合田耕平 | 長谷工アネシスを設立 | ★ | ||
| 岩尾崇 | 岩尾崇氏が第5代社長に就任 | ★ | ||
| 岩尾崇 | 長谷工インテックを設立 | ★ | ||
| 岩尾崇 | 長谷工リフォームを設立 | ★ | ||
| 2010〜2026年大栗育夫社長以降の総合地所・細田工務店の取得と経常利益1000億円 | 大栗育夫 | 大栗育夫氏が第6代社長に就任 | ★ | |
| 大栗育夫 | 生活科学運営を子会社化 | ★ | ||
| 辻範明 | 辻範明氏が第7代社長に就任 | ★ | ||
| 辻範明 | 総合地所を子会社化 | ★★ | ||
| 辻範明 | 連結経常利益1,000億円を初めて達成 | ★ | ||
| 辻範明 | 細田工務店を子会社化 | ★ | ||
| 池上一夫 | 池上一夫氏が第8代社長に就任 | ★ | ||
| 池上一夫 | 私募REIT「長谷工レジデンシャルプライベート投資法人」の運用開始 | ★ | ||
| 池上一夫 | 海外事業で約230億円の特別損失を計上 | ★★ | ||
| 熊野聡 | 熊野聡氏が第9代社長に就任 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(長谷工コーポレーション)