創業1937年、日中戦争開戦の戦時下に、長谷川武彦が兵庫県尼崎市で長谷川工務店を起こした。原体験は1950年に伊藤忠商事から請けた芦屋打出荘アパートで、ここでRC造技術を獲得した。そして商社が都市部の集合住宅案件を持ち込み、長谷工が施工で応える経路が創業初期に組み込まれた。
決断1968年のマンション第1号着工と翌1969年の日商岩井との業務提携で、商社が用地情報を持ち込み長谷工が特命で受注する営業モデルが固まった。競争入札を経ない単価安定の構造を得たが、受注産業の不安定を嫌う動機は残り、1985年以降の「脱マンション」多角化でホテル・リゾートへ1,000億円を投じた。バブル崩壊で有利子負債1兆3,000億円・株価13円まで悪化し、合田耕平が1997年3月期に特別損失1,850億円を一括処理して専業へ戻した。
課題首都圏マンションシェア34%は他社撤退の結果でもあり、特命受注85%の事業モデルは外部条件の変化に対して脆い。2025年4月就任の熊野聡社長は府中のデータセンターと冷凍冷蔵倉庫で非住宅へ参入したが、競争入札の採算にさらされる領域で同質の障壁を築けるかが、熊野体制が問われる論点となる。
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歴史概略
1937年〜1988年地方工務店からマンション専業ゼネコンへ
RC造への賭け ── 地方業者が全国区になる契機
1937年2月、長谷川武彦(当時23歳)は兵庫県尼崎市で長谷川工務店を個人創業した。木造建築の請負から始まり、戦後は進駐米軍の兵舎建設も手がけたが、事業基盤は近畿の地方業者の域を出ず、全国展開の手段を欠いていた。RC造への転機は1950年、伊藤忠商事から受注した芦屋打出荘アパートである。鉄筋コンクリート3階建てのこの案件をきっかけに、耐火構造建築の設備と技術を短期間で整備した。当時RC造ができる業者は少なく、木造主体の地方工務店がこの能力を得たことで、全国の民間建築市場にアクセスする基盤を得た。その結果、このRC造への先行投資が、後年のマンション事業参入を可能にする技術基盤となり、他の地方工務店との差別化の源泉となった。
1946年の法人設立時に姫路に置いた本店は、1953年に大阪へ、1970年に東京へと移り、事業の重心は東へと動いた。この移転は、近畿中心だった地方業者が全国規模の建設会社へ転換する過程そのものを示す。1957年には貸ビル業を開始し、東西に計11棟のオフィスビルを建設・保有して賃貸収入を得る「建築と貸ビルの総合経営」を始めた。しかしこの多角化は昭和40年不況で一部ビルを手放す結果となり、建築請負だけでは景気変動に弱いという課題を経営陣に突きつけた。すなわち収益源の多様化が不可欠だと経営陣が認識した。その理由として、この苦い経験が後のマンション事業参入の下地を形成し、受注産業からの脱却を探る原動力となった。昭和40年不況は、長谷工の経営思想に残る最初の教訓となった。
商社連携で参入したマンション市場
1968年、長谷工は三井信託銀行と販売提携を結び、自社マンション第1号を着工した。昭和40年不況で苦境に陥り大和銀行と日商岩井の支援を受けた経験が、受注を待つだけの建設業からの脱却を経営陣に促した。1969年の日商岩井との業務提携は、商社が集めた用地情報に基づいてマンション建設を提案し特命で受注する、当時の建設業界には前例のない営業モデルを生んだ。受注を「待つ」のではなく土地を「持ち込む」事業の型がここで固まり、以降の首都圏シェア拡大と再建期の特命受注85%という事業構造を支える根幹となった。つまり、この営業モデルが長谷工を他のゼネコンと区別する基盤となった。
1970年に分譲子会社の長谷工不動産を設立し、開発から販売まで一貫した事業体制を整えた。マンション参入から5年で施工戸数は業界1位となり、1981年には首都圏のマンション施工シェアが約20%に達した。その結果、近畿発の地方工務店が全国市場の中核を担う存在となった。列島改造ブームに乗って国内16カ所に営業所を開設し、1973年にはハワイに現地法人を設立して海外にも進出した。1978年にはマンション管理子会社の長谷工コミュニティを設立し、建設後の管理というストック型事業の種も蒔いた。この管理子会社の設立は、後年のストック事業という二本目の収益柱となり、新築依存からの脱却を見据えた一手として後に再評価された。
- 1976年に7,781戸・1977年に11,461戸を施工し、国内マンション市場で15.6%・14.4%のシェアを得た。
- 同期間の全国新設住宅着工約150万戸のうちマンションは3.3%→5.3%へと拡大しており、長谷川工務店はマンション市場の成長期に業界首位の地位を固めた。
| 項目 | 1976年(昭51) | 1977年(昭52) |
|---|---|---|
| 新設住宅着工戸数(全国) | 1,523,844戸 | 1,508,260戸 |
| マンション戸数(全住宅比) | 49,955戸(3.3%) | 79,618戸(5.3%) |
| 長谷川工務店マンション戸数 | 7,781戸 | 11,461戸 |
| 全住宅対比シェア | 0.5% | 0.8% |
| マンション市場内シェア | 15.6% | 14.4% |
顧みると、長谷工コーポレーションは昭和四十二年、兵庫県芦屋市において、「背屋松浜ハイツ」八三戸を手掛けたことが、その後長谷工コーポレーションがマンション建設事業へ進出するきっかけとなりました。 当時は、まだ全国のマンション供給量も現在の二〇〇分の一程度、わずか二、〇〇〇戸弱を数えるだけの建設量しかなかった頃であります。 当時のマンションは、外人好みのデラックスなスタイルを大幅に採り入れ、ハイクラスの生活様式に合わせたものが主流であったのに比べ、その後漸次、マンションが大都市における住宅難解決の一方策として採り上げられ、大衆化、市民化の路線を歩んで今日に至ったものであります。まさに、隔世の感があります。 マンションも一つの商品である以上、そこには当然、類似品もあり、業界の熾烈な競争もありますが、しかし、何よりも商品として、今日、目の肥えた顧客の厳しい選別に耐えるものを供給しなければ、顧客に愛され、顧客の支持を得ることができません。 又、顧客は値段に敏感であります。値段のわずかな相違によって買ったり買わなかったりするものであります。 特に、マンション購買層が、戦後昭和二十三、四、五年のベビーブーム期に生まれた若い世代が顧客層でありますから、この人達の手の届く安くて良いものを提供することが、今後のマンションの市場開拓につながるものと考えられます。
1,000億円投じた「脱マンション」── バブル期の多角化
1985年以降、マンション市場が成熟したことを受け、長谷工は「脱マンション」を掲げて事業領域を広げた。ホテル・リゾート事業には1,000億円の投資計画が策定され、1988年7月には京都駅近くにホテルエルシエント京都(客室367室)を開業し、観光需要を見込んだ事業を始めた。開発事業本部のリゾート開発部長は「ホテルの名前に長谷工という名を付けたくなかった」(日経ビジネス 1989/8/14)と語り、マンション会社のイメージからの転換を強く意識していた。同年10月には商号を「長谷川工務店」から「長谷工コーポレーション」に変更し、グループ経営の総合化を示した。社名変更と同時期の積極投資はバブル経済を前提とする経営判断だったが、その結果、崩壊後に巨額の損失となった。
しかし不動産部門の売上構成比は5年間で11%から56%へと急拡大しており、マンション専業の強みを手放す多角化路線はバブル崩壊後に巨額の含み損をもたらした。1991年の時点で合田耕平社長は「経済性を追求し過ぎて失敗した過去」を認め、マンション不況の深刻化に備えたコスト削減を社内に指示した(日経ビジネス 1991/11/18)。バブル期の多角化は短期の収益拡大をもたらしたが、その反面、景気反転時の損失耐性を損なう構造を内包していた。合田の問題認識は早くから定まっていたが、不動産含み損の規模は想定を超えて拡大し、やがて1,600億円に達して再建を不可避にした。その結果、この経営危機の深さが後の経営刷新を促す決定的な要因となった。
1989年〜2009年株価13円からの再建とマンション専業への回帰
有利子負債1兆3,000億円 ── 多角化の代償
バブル崩壊は、多角化路線を取った長谷工を直撃した。不動産含み損は1,600億円に達し、有利子負債はピーク時に自己資本の4倍超となる1兆3,000億円に膨張し、財務基盤が根底から揺らいだ。株価は1998年9月に100円を、次いで50円を割り込み、1999年1月には13円の史上最安値をつけて市場からの信頼を失った。額面50円を下回る株価は「倒産株価」と呼ばれ、上場ゼネコンの経営破綻が相次ぐなか、長谷工も同じ道を辿るとみられていた。他の上場ゼネコンの破綻が連鎖するなか、長谷工だけが再建の道を探れた。その理由は、マンション専業という事業特性が金融機関にとって再建後の事業価値を見込みやすかったためで、業種特性がそのまま生存確率を左右した。
1998年には34の金融機関に融資残高の48%一律カットを要請し、債務免除総額は3,942億円に達した。これは当時の国内企業再建でも最大級の金融支援で、長谷工が個別の存続危機を越えて日本の金融システム全体の処理問題と直結していたことを示す。2002年には1,428億円の優先株を発行して有利子負債を株式に転換する債務の株式化を実施し、債務超過の解消を図った。自己資本比率については2001年度のマイナス21.1%を底にプラスへ転じ、数年の改革期間を経て債務超過を脱した。つまり、金融機関からの債務免除と資本増強、そして内部の事業改革が同時並行で進んだ結果、長谷工は倒産ゼネコンが相次ぐ市場環境のなかで独力では不可能だった再建への入り口に立つことができた。
「毎年赤字より一回ドカンと出す」── 1,850億円の一括処理
再建の方向を決めたのは、合田耕平社長の判断だった。1997年3月期に不動産含み損1,600億円を含む1,850億円の特別損失を一括計上し、バブル期の負の遺産を短期間で清算した。毎年200〜300億円ずつ処理する案もあり得たが、合田は「毎年赤字を出し続けるのは会社にも社員にも精神衛生上よくない。一回ドカンと出して翌年から黒字にした方がいい」(日経ビジネス 1995/11/13)と判断し、翌1998年3月期に黒字転換した。この一括処理は、先送り文化が根強かった当時の日本企業の再建事例のなかでも際立った判断として評価された。損失処理の先送りでは信用回復の期間が延び、受注活動に影響が及ぶというのが合田の判断の前提にあり、短期決着が再建の速度を決めた。
大変悩みました。含み損を抱えた保有不動産を一気に処分する、と言っても96年3月期は1850億円もの最終赤字になるのです。「ウミを出し切るために思い切った経営判断をした」などと、いい格好できるものではありません。「実態を申し上げれば、損失の大きさから信用不安を招く可能性があります。そうなればマンションの販売や建築の受注活動にも大きな影響を及ぼし、リストラどころか経営危機に陥ってしまう。出血の大きさを測りか、本当に判断に苦しんだというのが実情です。
同時に、バブル期に手を広げたオフィスビルや商業施設から撤退し、マンション専業への回帰を決断した。組織面では階層組織をフラット化して部長・次長・課長・係長の多段階を削減し、設計から施工・管理まで一貫体制を再編してコスト競争力を引き上げた。合田の後を受けた嵩聰久(第4代社長、1999年就任)、岩尾崇(第5代社長、2005年就任)の下で再建は仕上げに入り、有利子負債は2003年3月期に4,000億円を割り込んだ。つまり、かつて1兆3,000億円まで膨張した有利子負債が3分の1以下に縮小したことが、再建期の財務改革の成果を示す数字となった。辻範明(後の第7代社長)は当時を振り返り「修羅場、土壇場、正念場を経験した」「仕事を取らないと会社は潰れてしまう状態だった」(PRESIDENT Online 2014/9/25)と語っている。
特命受注85% ── 土地を持ち込む営業モデルの確立
再建期を経て長谷工が磨いたのは、土地を自ら仕入れてデベロッパーに持ち込み、建設の特命受注を得る独自の営業モデルだった。バブル期の特命受注比率は3〜4割だったが、2003年3月期には7割を超え、85%に達する見通しとなった。他のゼネコンが競争入札で受注を争うなか、長谷工は用地を自ら確保する営業力とマンション建設の一貫体制を武器に、競争入札を経ずに単価が安定した仕事を得る仕組みを整えた。すなわち、これは単なる営業手法の改善ではなく、事業モデルそのものを他のゼネコンと差別化する競争優位の源泉となり、用地情報を持ち込める能力そのものが長谷工の中核資産となった。
岩尾社長はストック事業(既築マンションの管理・修繕)を次の成長分野と位置づけた。フローの新築だけでなく、建てた後の管理・修繕で長期的な収益を得る構造への転換が始まった。2010年に就任した大栗育夫(第6代社長)はフロー型の新築とストック型の管理・修繕を両輪で営む経営方針を掲げ、修繕事業を利益基盤に育てる方向性を示して、新築依存からの脱却を経営戦略の中心に据えた。1968年のマンション参入から約40年を経て、長谷工は「建てて終わり」から「建てた後も稼ぐ」モデルへ移行した。その結果、累計施工戸数の積み上がりそのものが将来の収益基盤となる構造ができあがり、マンション専業という選択が2000年代以降の都市部への人口集中と相まって独自の優位を生んだ。
2010年〜2022年経常利益1,000億円の到達とその構造
経常利益1,005億円 ── マンション専業ゼネコンの到達点
2014年に就任した辻範明(第7代社長)は入社以来40年間で過去最高の受注環境にあるとの認識を示した。再建期に固めた特命受注モデルは、都心のマンション用地が希少化するほど競争優位が強まる非対称な構造を持っていた。デベロッパーにとって、用地情報を持ち込み設計から施工まで一貫で担えるゼネコンは事実上長谷工しかなく、選択の余地は限られた。2018年3月期(FY17)に連結経常利益は1,005億円に到達し、建設関連事業のセグメント利益は912億円となった。マンション専業ゼネコンが経常利益1,000億円を超えたのは業界初で、スーパーゼネコン並みの利益水準をマンションという単一事業領域だけで達成した。つまり、再建期に蓄えた独自の営業モデルと施工力が時間をかけて実を結んだ。
- 大栗・辻・池上・熊野の4代が2010〜2024年の経営を担い、再建仕上げからグループ1兆円到達、そして工事利益率改善へと主題が順次移った。
- 再建期に蓄えた財務健全性重視のDNAは代替わりを経ても引き継がれ、マンション専業という事業軸も変わらずに維持された。
| 代 | 社長 | 就任 | 在任期間 | 主な出来事 |
|---|---|---|---|---|
| 第6代 | 大栗育夫 | 2010年 | FY2009-FY2012 | フローとストックの両輪経営を提唱 |
| 第7代 | 辻範明 | 2014年 | FY2013-FY2018 | 連結経常利益1,005億円到達(FY2017) |
| 第8代 | 池上一夫 | 2020年 | FY2019-FY2023 | 連結売上高1兆円突破(FY2022) |
| 第9代 | 熊野聡 | 2024年 | FY2024〜 | ハワイ事業清算・工事利益率改善 |
辻社長は「1兆円の売上目標は2度と立てないと決めています。気がついたら1兆円になっていた、となればいいと願っています」(経済界 2016/8/8)と語り、規模の拡大よりも自己資本の充実を重視する方針を示した。バブル崩壊から債務免除・株価13円を経験した企業にとって、財務健全性への意識は経営のDNAとして定着しており、売上至上主義とは対極の経営哲学が社内に根付いていた。規模の目標を掲げない経営方針は、一般的な成長志向の企業とは一線を画しており、過去の経営危機の記憶が組織文化として引き継がれていた。2023年3月期(FY22)に連結売上高は初の1兆円を超え、目標を立てずとも結果として到達するという辻の言葉通りの展開となり、再建期の辛苦を経た長谷工にふさわしい静かな達成となった。
累計施工70万戸 ── ストック事業という二本目の柱
長谷工の収益構造はマンション建設だけで成り立っているわけではない。1978年設立の長谷工コミュニティを中核とする管理事業、2009年設立の長谷工リフォームによる修繕事業、長谷工アーベストの販売受託事業など、マンションのライフサイクル全体をカバーするグループ体制が連結収益を下支えしている。2023年に累計施工実績は70万戸を超え、国内分譲マンションストックの約1割に相当する規模となり、国内マンションの一定割合を長谷工が建設した計算になる。つまり、この70万戸の管理・修繕需要がストック事業の成長余地そのものであり、新築市場が縮小しても既存ストックからの安定した需要が長期にわたって発生し続ける構造を同社にもたらしている。
FY24のセグメント利益を見ると、建設関連事業534億円に対し、不動産関連事業240億円、サービス関連事業181億円で、不動産とサービスの合計421億円は建設に迫る規模へと成長した。2015年に総合地所とジョイント・コーポレーション(後の長谷工不動産)を子会社化して不動産開発機能を内製化し、2022年には私募REIT「長谷工レジデンシャルプライベート投資法人」の運用を開始し、建設から賃貸運用まで一気通貫のモデルを整えた。すなわちこの構造は、マンション建設で得た顧客と用地情報を管理・運用・販売の各事業に継続的に循環させる仕組みであり、単なる多角化ではなく専業を軸にした周辺事業の有機的な統合だった。単一の主戦場で複数の収益源を育てる戦略が、バブル期の多角化失敗を教訓にする長谷工の新しい成長モデルとなった。
首都圏シェア34% ── 他社が退くほど集まる構造
2008年のリーマンショック時に首都圏分譲マンション施工シェアは20.7%だったが、2017年には34.5%に拡大し、2017年以降も上昇が続いて長谷工の首位が固まった。長谷工のシェアが伸びた要因は自社の努力だけではない。その理由として、労務費・資材費の上昇に加え、2024年問題(時間外労働の上限規制)の影響で、マンション施工を不採算とみなすゼネコンが他分野に流出した。その結果、タワーマンションをはじめとする発注が長谷工に集中し、競合他社の撤退こそが長谷工のシェア拡大の最大の原動力となった。シェアの上昇は競争激化ではなく、マンションを主戦場とする企業が事実上長谷工だけに残った結果で、市場構造そのものの変化を映していた。
池上一夫(第8代社長、2020年就任)は「マンション専業であることが大きい」(経済界 2021/4/6)と述べ、この集中構造が競争優位を強化する好循環を認識していた。BIMを核としたDX推進により5年間で施工キャパシティは8%向上し、単体受注高はFY23に5,000億円に達した。ただし4週8閉所や残業規制が生産性を圧迫し、目標の20%向上には届かず、施工能力の拡充は受注の増勢に追いつかない状態が続いた。他社がマンションから退くほど長谷工への発注は増える ── この構造は、マンション専業を貫いた結果として得られた非対称な競争優位だが、施工体制の拡充が追いつくかどうかが次の課題となった。その理由は、人員採用・外注先確保・DXによる生産性改善の三つが揃って初めて、この競争優位が収益として結びつくからである。