積水ハウス の歴史

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創業 1960年
母体 積水化学
創業地 大阪府大阪市
創業 1960年8月、積水化学工業のハウス事業部を母体に、資本金1億円で積水ハウス産業
1960年8月、積水化学工業のハウス事業部を母体に、資本金1億円で積水ハウス産業株式会社が大阪に発足した。初代社長は積水化学工業社長の上野次郎男氏が兼任し、翌1961年7月には滋賀工場が操業を開始した。ただし当時のプレハブ住宅は在来工法より割高で内容も見劣りし、売上高は1961年7月期に2億6,000万円と伸び悩み、発足3年で9,000万円の累積赤字を抱えた。1963年6月、積水化学工業専務から田鍋健氏が社長に就任し、10月に商号を積水ハウスへ改めたうえで、代理店販売を廃して社員による直接販売・責任施工へ切り替えた。値段の安さではなく質で選ばせる高級化に振ったことで、1964年に単年度黒字へ転じた。
決断 需要が細るたびに、売る手立てのほうを自前で作ってきた。1973年の石油危機でプレ
需要が細るたびに、売る手立てのほうを自前で作ってきた。1973年の石油危機でプレハブ住宅の建設戸数が20万戸台から15万戸へ減少すると、業界初の自社ローンを設け、造成地を取得して住宅とセットで売る「売り建て」方式と中古住宅仲介の積和不動産の設立で、需要を自ら掘り起こす経営へ切り替えた。資材が高騰しても値上げ幅は同業平均の半分の15%に抑え、大和ハウス工業以下の他社に差をつけた。同じ時期に全国65の営業所を独立採算の「企業内企業」とし、稟議を廃して営業所長に決裁を委ね、1979年1月期には経常利益207億円で大成建設を上回った。金融も仲介も社内に置いたことが、のちの賃貸住宅管理と不動産開発を生み、請負が細っても利益が残る構造を作った。
現況 祖業の戸建住宅が生む利益は、現在は全体の1割強にすぎない。2026年1月期の売上
祖業の戸建住宅が生む利益は、現在は全体の1割強にすぎない。2026年1月期の売上高4兆1,979億円のうち戸建住宅事業は4,788億円、利益は480億円である。利益の源泉は開発事業950億円、賃貸・事業用建物878億円、賃貸住宅管理690億円で、1976年に始めた土地と仲介の商売が残る。国際事業は売上1兆2,864億円で3割を占めるのに利益は391億円と1割にすぎず、2025年度には米国で販売用不動産の評価損135億円を計上した。2017年の地面師詐欺事件で会長と社長が入れ替わった現体制は、約5万2,000区画の保有地を3年で中高級層向けへ入れ替える。国内で単価を上げて稼いだやり方を米国の土地で再現できるかが、現在の利益率を決める。
競合 同じプレハブ住宅から出発した各社の差は、住宅の外へ出たかどうかでついた。1992
同じプレハブ住宅から出発した各社の差は、住宅の外へ出たかどうかでついた。1992年度のプレハブ住宅市場では24.8%と首位で、2位のミサワホームに9.5ポイント差をつけたが、市場の大きい東京都や神奈川県では首位を奪われ、同年末に商品名を28種類から7種類へ集約したのはその弱点を埋めるためだった。大和ハウス工業は1976年に遊休地の地主とテナントを結ぶ流通店舗事業へ参入し、現在は商業施設と事業施設だけで2兆4,293億円と売上の4割を超える。大東建託は請負の一回収入を管理費の継続収入へ組み替え、賃貸で空室リスクを持つ側に回った。住宅の外へ出た大和ハウス工業に対し、住宅のまま市場を海外へ移した積水ハウスは、連結売上高で1兆3,800億円を離される代わりに、米国の住宅市況へ業績を委ねる立場を選んだ。
長期業績の推移 1970〜2026年
積水ハウス:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
1997年1月期〜2026年1月期

第1章 1960年〜 プレハブから住宅産業のリーダーへの道筋

筆者考察y.sugiura, author

積水ハウスが1963年に選んだのは、商品を変えることではなく、売り方を自社の手に握ることだった。代理店は兼業で、プレハブの技術も分からないまま売る。売った先の責任も分散する。田鍋健氏は販売と施工を自社の社員へ移し、同業が販売コスト増を理由に避けた道をあえて採った。高いものを作れば高く売れるのではなく、売り方を握っているから高いものを作れる、という順序である。"プレハブは安物"というイメージを覆したF型も、1984年のイズシリーズも、値段を説明できる営業組織の上でしか成り立たなかった。営業所を独立採算にして地域ごとに競わせた仕組みも、商品をどこまで高くできるかを決める装置だった。

石油危機のあと、積水ハウスは需要そのものが消えたのではなく、家を買える条件が消えたのだと読んだ。住宅ローンが細れば自社で貸し、宅地が手に入らなければ造成地を一括で買い、その上に自社の家を載せる。土地販売の粗利益率は10.1%で、購入資金の金利を勘定に入れれば持ち出しに近い。それでも土地を抱え続けたのは、土地が受注の入口だったからである。1979年1月期の経常利益207億円は、大成建設を上回り鹿島建設に迫る水準だった。住宅メーカーが建設大手の利益に並んだのは、家を数多く建てたからではなく、家を建てられる条件のほうを自前で作ったからである。

1960年〜沈没寸前の船を引き受けた田鍋健社長の高級化路線

1960年8月、積水化学工業のハウス事業部を母体として積水ハウス産業が資本金1億円で発足し、初代社長には積水化学工業社長の上野次郎男氏が兼任で就任した。プレハブ住宅の事業化を狙ったが、当時のプレハブは在来工法より割高で内容も見劣りし、売上高は1961年7月期2億6000万円、1963年12億4000万円と伸び悩んだ。1961年の業界解説がプレハブの急成長企業として挙げたのは大和ハウス工業と永大産業であり、発足3年で累積赤字9000万円、不良資産を含めれば実質2億円近い赤字を抱えて社員も意欲を失っていた。1963年6月、積水化学工業専務から転じた田鍋健氏が社長に就任し、『この会社は沈没寸前の船と同じや。しかし私は船長としてこの船と運命を共にする覚悟だ』(田鍋健氏、日経新聞"私の履歴書")と宣言し、出向社員に積水化学への帰任か、退職金を受け取っての移籍かを選ばせ、従業員の結束を固めた。

  • 積水ハウス 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1960年8月 積水ハウス産業が発足
    • [3]発足時の資本金 1億円
  • 『日本会社史総覧, 1995, 東洋経済新報社』(1995年)
    • [2]積水化学工業のハウス事業部が母体
  • 日本会社史総覧(1995年、東洋経済新報社)「積水ハウス」の項
    • [4]初代社長は積水化学工業社長の上野次郎男が兼任
    • [5]当時のプレハブは在来工法より割高で内容も劣った
    • [6]売上高 1961年7月期2億6000万円・1963年12億4000万円
    • [10]1963年6月 積水化学工業専務の田鍋健が社長に就任
  • プラスチック材料読本(1961年)
    • [7]1961年時点でプレハブの急成長企業とされたのは大和ハウス工業と永大産業
  • 日本経済新聞「私の履歴書」田鍋健(1985年10月連載、『私の履歴書 経済人23』日本経済新聞社, 1987 所収)
    • [8]発足3年で累積赤字9000万円
    • [9]不良資産を含めれば実質2億円近い赤字
    • [11]積水ハウス社長の田鍋健氏による就任時の発言
    • [12]出向社員に積水化学への帰任か移籍かを選ばせた

1963年10月、田鍋健社長は社名を積水ハウスへ改め、販売と施工を自社社員が担う直接販売・責任施工方式へ切り替えた。代理店は兼業のため商品の消化に熱が入らず、自社の建築技術やシステムを理解している先も少ないという判断からで、同業他社は販売コストが高くなるとしてこの方式を敬遠した。同時に独身者向け2階建ての"2D型"、エコノミータイプの"E型"、デラックスタイプの"F型"を相次いで発売し、F型で"プレハブは安物"という当時のイメージを覆した。改革は数字に表れ、1964年に単年度黒字化を達成し、翌65年には累積赤字を一掃して初配当に踏み切った。1970年8月に東京・大阪証券取引所市場第二部へ株式を上場し、翌71年6月には第一部へ指定替えとなって、証券市場から資金を調達できるようになった。

  • 積水ハウス 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1963年10月 社名を積水ハウスへ変更
    • [21]1970年8月 東京・大阪証券取引所市場第二部へ上場
    • [22]1971年6月 市場第一部へ指定替え
  • 証券アナリストジャーナル 1972年10月号
    • [14]直接販売・責任施工方式への切り替え
    • [15]代理店販売をやめた理由(兼業で消化が進まず建築技術の理解も乏しい)
  • 実業の世界 1972年10月号
    • [16]同業他社は販売コスト増を理由に直販を敬遠
  • 日本会社史総覧(1995年、東洋経済新報社)「積水ハウス」の項
    • [17]2D型・E型・F型の相次ぐ発売
    • [18]F型が「プレハブは安物」のイメージを払拭
    • [19]1964年 単年度黒字化を達成
    • [20]1965年 累積赤字を一掃し初配当

成長を支えたのは、セールスマンを地域に固定して人的関係を深める営業体制だった。住宅産業のシェアはプレハブ全体で1割にとどまり、65%を地元の工務店が握っていたため、長期間ひとつの地域を担当させる必要があった。営業所は物流・建設工事・中古住宅の買い入れまで統括する地域拠点でもあり、1977年末に57カ所だった営業所は1年で67カ所へ増えた。生産面では工場を全国3カ所に集約し、各工場が月産300戸という規模で稼働した。資材はクギ1本に至るまで大量買い付けへ切り替え、『うちのプレハブ住宅で会社の指定外品はガスと水道、電気の資材だけ』と田鍋健社長が語る水準まで統一した。直販は競合を見た策ではなく、『住宅という大事な商品を売るのに人まかせにはできん、という私の哲学に従って直販にしたんや』(田鍋健氏、オール大衆 1976/06)という判断から出た方式である。

  • 日経ビジネス 1979年3月19日号
    • [23]セールスマンを地域に固定する営業体制
    • [24]プレハブは住宅産業の1割・地元工務店が65%
    • [25]営業所は物流・建設工事・中古住宅買い入れの地域拠点
    • [26]営業所は1977年末の57カ所から67カ所へ増加
    • [27]工場は全国3カ所・各工場月産300戸
    • [28]クギ1本に至るまでの大量買い付け
    • [29]積水ハウス社長の田鍋健氏による発言
  • オール大衆 1976年6月号
    • [30]積水ハウス社長の田鍋健氏による直販の動機に関する発言
参考文献[1]-[30]
  • 積水ハウス 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1960年8月 積水ハウス産業が発足
    • [3]発足時の資本金 1億円
    • [13]1963年10月 社名を積水ハウスへ変更
    • [21]1970年8月 東京・大阪証券取引所市場第二部へ上場
    • [22]1971年6月 市場第一部へ指定替え
  • 『日本会社史総覧, 1995, 東洋経済新報社』(1995年)
    • [2]積水化学工業のハウス事業部が母体
  • 日本会社史総覧(1995年、東洋経済新報社)「積水ハウス」の項
    • [4]初代社長は積水化学工業社長の上野次郎男が兼任
    • [5]当時のプレハブは在来工法より割高で内容も劣った
    • [6]売上高 1961年7月期2億6000万円・1963年12億4000万円
    • [10]1963年6月 積水化学工業専務の田鍋健が社長に就任
    • [17]2D型・E型・F型の相次ぐ発売
    • [18]F型が「プレハブは安物」のイメージを払拭
    • [19]1964年 単年度黒字化を達成
    • [20]1965年 累積赤字を一掃し初配当
  • プラスチック材料読本(1961年)
    • [7]1961年時点でプレハブの急成長企業とされたのは大和ハウス工業と永大産業
  • 日本経済新聞「私の履歴書」田鍋健(1985年10月連載、『私の履歴書 経済人23』日本経済新聞社, 1987 所収)
    • [8]発足3年で累積赤字9000万円
    • [9]不良資産を含めれば実質2億円近い赤字
    • [11]積水ハウス社長の田鍋健氏による就任時の発言
    • [12]出向社員に積水化学への帰任か移籍かを選ばせた
    • [14]直接販売・責任施工方式への切り替え
    • [15]代理店販売をやめた理由(兼業で消化が進まず建築技術の理解も乏しい)
    • [16]同業他社は販売コスト増を理由に直販を敬遠
  • 日経ビジネス 1979年3月19日号
    • [23]セールスマンを地域に固定する営業体制
    • [24]プレハブは住宅産業の1割・地元工務店が65%
    • [25]営業所は物流・建設工事・中古住宅買い入れの地域拠点
    • [26]営業所は1977年末の57カ所から67カ所へ増加
    • [27]工場は全国3カ所・各工場月産300戸
    • [28]クギ1本に至るまでの大量買い付け
    • [29]積水ハウス社長の田鍋健氏による発言
  • オール大衆 1976年6月号
    • [30]積水ハウス社長の田鍋健氏による直販の動機に関する発言

1973年〜需要は待つな、創れ ── 自社ローンと売り建て方式

プレハブ住宅の建設戸数は1973年に20万戸台で頂点に達したが、1973年11月の石油危機を境に減り、1975年には15万戸まで落ち込んだ。カネボウや大林ハウジングのように高度成長の終わり近くに入ってきた会社が撤退や戦線の縮小に追い込まれる一方で、積水ハウスの受注はむしろ増えた。住宅ローンが金融の引き締めで細ると、同社は銀行と組んだ提携ローンとは別に、業界で初めてとなる自前のローンを設けた。資金の調達先も地方銀行・相互銀行から信用金庫にまで広げ、株式市場からは時価発行の増資で集めた。住宅資材が軒並み暴騰しても値上げは15%にとどめ、これは同業平均30%の半分にあたる。見直しを求める役員には『資材価格はすぐに落ち着くから、今の価格で十分もうかるんや』と言って応じなかった。値段が安いうえにローンも付くという条件に受注が集まり、大和ハウス工業をはじめとする他社を大きく引き離した。

  • 日経ビジネス 1979年3月19日号
    • [31]プレハブ住宅の建設戸数 1973年ピーク20万戸台→1975年15万戸
    • [32]カネボウ・大林ハウジングの撤退・戦線縮小
    • [33]石油危機下でも受注を拡大
    • [34]業界初の自社ローンの創設
    • [35]資金調達を地方銀行・相互銀行・信用金庫へ拡大し時価発行増資も実施
    • [36]値上げ幅15%(同業平均30%の半分)
    • [37]積水ハウス社長の田鍋健氏による発言
    • [38]大和ハウス工業以下の他社に差をつけた

販売の足かせとして浮かんだのは、割安で質のよい宅地が手に入らないという土地の不足だった。1975年後半には金融が緩み、住宅ローンの資金はすでに十分に出回っていた。これに対し積水ハウスが考えたのは、造成済みの土地を大手デベロッパーからまとめて仕入れ、安い値で客に渡し、その上に建つ家の注文を自社で取るやり方である。同社はこれを、従来の建て売りと対比させて"売り建て方式"と名づけた。1979年1月期末には保有する土地が995億円にのぼり、その1年で990億円分を買い入れ、725億円分を売った。土地販売で得る粗利益は売上の10.1%しかなく、仕入れ資金の金利まで勘定すれば多少の赤字を見込まねばならない水準だったが、『本業の住宅が売れれば、会社全体でみれば十分にもうかります』との読みのもとで押し通した。1976年3月には中古住宅の売買仲介を担う積和不動産を大阪に設立し、都市部の住宅購入希望者の約半分を占める買い換え需要を新築の受注へつないだ。

  • 日経ビジネス 1979年3月19日号
    • [39]1975年後半に土地不足が販売のネックとなった
    • [40]造成地を一括購入し上物を自社で受注する方式
    • [41]建て売りに対する呼称が「売り建て方式」
    • [42]1979年1月期末の土地保有高 995億円
    • [43]1年間の土地購入990億円・販売725億円
    • [44]土地販売の粗利益率 売上の10.1%
    • [45]積水ハウス社長の田鍋健氏による発言
    • [47]都市部の住宅購入希望者の約半分が買い換え需要
  • 積水ハウス 有価証券報告書【沿革】
    • [46]1976年3月 中古住宅仲介の積和不動産を大阪に設立

需要創造の積み重ねは業績に表れ、1979年1月期は売上高3,040億円・経常利益207億円を計上して、1964年以来15年連続の増収増益となった。経常利益は1978年3月期に110億円だった大成建設を抜き、最大手である鹿島建設の265億円に迫った。前年には大手ゼネコンを下請けに使ったマンションの建設・販売にも参入していた『うちはプレハブ会社から脱け出し、大手の建設会社に仲間入りした』(田鍋健氏、日経ビジネス 1979/3/19)。1970年代の積極経営は自己資本比率と売上高純金利負担率を一時的に悪化させた。全住宅産業に占めるシェアはなお2%程度にとどまり、田鍋健社長は『7〜8%のシェアを取りたい』(田鍋健氏、日経ビジネス 1979/3/19)と、未開拓の北海道・東北への営業所展開と関連業界への進出を次の課題に挙げた。

  • 日経ビジネス 1979年3月19日号
    • [48]1979年1月期 売上高3,040億円
    • [49]1979年1月期 経常利益207億円
    • [50]1964年以来15年連続の増収増益
    • [51]大成建設の経常利益は1978年3月期110億円
    • [52]鹿島建設の経常利益 265億円
    • [53]大手ゼネコンを下請けに使ったマンションの建設・販売
    • [54]積水ハウス社長の田鍋健氏による発言
    • [55]積極経営で自己資本比率と売上高純金利負担率が悪化
    • [56]全住宅産業に占めるシェアは2%程度
    • [57]積水ハウス社長の田鍋健氏によるシェア目標に関する発言
    • [58]北海道・東北への営業所展開と関連業界への進出が次の課題
参考文献[31]-[58]
  • 日経ビジネス 1979年3月19日号
    • [31]プレハブ住宅の建設戸数 1973年ピーク20万戸台→1975年15万戸
    • [32]カネボウ・大林ハウジングの撤退・戦線縮小
    • [33]石油危機下でも受注を拡大
    • [34]業界初の自社ローンの創設
    • [35]資金調達を地方銀行・相互銀行・信用金庫へ拡大し時価発行増資も実施
    • [36]値上げ幅15%(同業平均30%の半分)
    • [37]積水ハウス社長の田鍋健氏による発言
    • [38]大和ハウス工業以下の他社に差をつけた
    • [39]1975年後半に土地不足が販売のネックとなった
    • [40]造成地を一括購入し上物を自社で受注する方式
    • [41]建て売りに対する呼称が「売り建て方式」
    • [42]1979年1月期末の土地保有高 995億円
    • [43]1年間の土地購入990億円・販売725億円
    • [44]土地販売の粗利益率 売上の10.1%
    • [45]積水ハウス社長の田鍋健氏による発言
    • [47]都市部の住宅購入希望者の約半分が買い換え需要
    • [48]1979年1月期 売上高3,040億円
    • [49]1979年1月期 経常利益207億円
    • [50]1964年以来15年連続の増収増益
    • [51]大成建設の経常利益は1978年3月期110億円
    • [52]鹿島建設の経常利益 265億円
    • [53]大手ゼネコンを下請けに使ったマンションの建設・販売
    • [54]積水ハウス社長の田鍋健氏による発言
    • [55]積極経営で自己資本比率と売上高純金利負担率が悪化
    • [56]全住宅産業に占めるシェアは2%程度
    • [57]積水ハウス社長の田鍋健氏によるシェア目標に関する発言
    • [58]北海道・東北への営業所展開と関連業界への進出が次の課題
  • 積水ハウス 有価証券報告書【沿革】
    • [46]1976年3月 中古住宅仲介の積和不動産を大阪に設立

1984年〜「家のデパート」── 高級化路線の完成と事業領域の拡大

1970年代後半、積水ハウスは鉄骨系から出発した商品を木質系・コンクリート系・ツーバイフォー工法、さらに一般の注文住宅まで広げた。売上の9割はなお鉄骨系だったが、品ぞろえの厚みは『プレハブのワクを越えた家のデパート化』と業界で呼ばれ、消費者の嗜好の多様化に対応する需要発掘を側面から支えた。1戸あたりのプレハブ化率をあえて引き下げ、コスト上昇を承知で自由な設計と間取りを選べるようにした。1971年3月の寄棟型"K型"、同年7月の連棟式テラスハウス"テラス10"、1972年10月の枠組壁工法"M型"と続いた高級タイプの系譜は、1984年発売の高級住宅"イズシリーズ"へ受け継がれ、イズシリーズはプレハブ住宅のイメージを大きく塗り替えた。

  • 日経ビジネス 1979年3月19日号
    • [59]鉄骨系から木質系・コンクリート系・ツーバイフォー・注文住宅へ商品を拡大
    • [60]売上の9割は鉄骨系
    • [61]業界で「家のデパート化」と呼ばれた品ぞろえ
    • [62]プレハブ化率を下げて自由な設計・間取りを可能にした
  • 日本会社史総覧(1995年、東洋経済新報社)「積水ハウス」の項
    • [63]K型・テラス10・M型の発売
    • [64]1984年 高級住宅「イズシリーズ」を発売
    • [65]イズシリーズがプレハブ住宅のイメージを塗り替えた

1977年3月、大阪市西区で大規模マンション"グランドメゾン長堀"を分譲して都市開発事業に参入し、以後は各地で分譲マンションを供給した。その集大成が神戸市の事業コンペ"六甲アイランドCITY"第1期都市開発事業で、第1期部分だけで事業費は3,000億円に達した。海外では1971年7月にオランダのシステム・バウ社の株式51.9%を取得してセキスイ・システム・バウ社と改称し、西ドイツを中心に住宅販売を開始した。ただし物流コストなどの事情から住宅建築そのものは撤退し、ドイツでの不動産仲介・賃貸へ切り替えた。1987年には北米の豊富な木材資源と木材加工技術の確保を狙って米国積水ハウスをワシントン州に設立し、自社使用木材の2次加工品の供給を始めた。

  • 日本会社史総覧(1995年、東洋経済新報社)「積水ハウス」の項
    • [66]1977年3月 グランドメゾン長堀を分譲し都市開発事業へ参入
    • [67]神戸市「六甲アイランドCITY」第1期都市開発事業
    • [68]六甲アイランドCITY第1期の事業費 3,000億円
    • [69]1971年7月 オランダのシステム・バウ社の株式51.9%を取得
    • [70]セキスイ・システム・バウ社と改称し西ドイツ中心に住宅販売を開始
    • [71]物流コスト等で住宅建築から撤退し不動産仲介・賃貸へ転換
    • [72]1987年 米国積水ハウスをワシントン州に設立
    • [73]自社使用木材の2次加工品の供給を開始
参考文献[59]-[73]
  • 日経ビジネス 1979年3月19日号
    • [59]鉄骨系から木質系・コンクリート系・ツーバイフォー・注文住宅へ商品を拡大
    • [60]売上の9割は鉄骨系
    • [61]業界で「家のデパート化」と呼ばれた品ぞろえ
    • [62]プレハブ化率を下げて自由な設計・間取りを可能にした
  • 日本会社史総覧(1995年、東洋経済新報社)「積水ハウス」の項
    • [63]K型・テラス10・M型の発売
    • [64]1984年 高級住宅「イズシリーズ」を発売
    • [65]イズシリーズがプレハブ住宅のイメージを塗り替えた
    • [66]1977年3月 グランドメゾン長堀を分譲し都市開発事業へ参入
    • [67]神戸市「六甲アイランドCITY」第1期都市開発事業
    • [68]六甲アイランドCITY第1期の事業費 3,000億円
    • [69]1971年7月 オランダのシステム・バウ社の株式51.9%を取得
    • [70]セキスイ・システム・バウ社と改称し西ドイツ中心に住宅販売を開始
    • [71]物流コスト等で住宅建築から撤退し不動産仲介・賃貸へ転換
    • [72]1987年 米国積水ハウスをワシントン州に設立
    • [73]自社使用木材の2次加工品の供給を開始

第2章 1991年〜 売上高1兆円とブランド再編、累積100万戸と積水ハウス木造の合併

筆者考察y.sugiura, author

1兆円は、積水ハウスにとって到達点ではなく伸びの止まる合図だった。1991年1月期に住宅業界で初めて1兆円へ乗った時点で、住宅着工は165万戸を頂に減り始めており、以後10年近く、連結売上高は1兆1000億円台から1兆4000億円台の間を往復した。棟数を積む競争はすでに限界に近く、営業マン1人あたりの年間販売は10棟前後で止まっていた。田鍋健氏が29年かけて作ったのは、営業所を地域ごとに競わせて棟数を取る装置である。その装置が回り切ったとき、会社に残された変数は、売る人の数ではなく売り方の中身のほうだった。

1992年末のブランド集約は、商品を減らす話ではない。28の商品名を7に減らしても商品の種類そのものは減っておらず、変わったのは買い手から見える輪郭である。大阪・東京・広島の3設計部が競って名前を付けてきた体制は、地域に合う家を生む代わりに、積水ハウスという一つの像を薄めていた。価格帯ではなく購買層で並べ直したのは、何を作ったかで棚を分ける発想から、誰に売るかで棚を分ける発想への入れ替えだった。和田勇氏が1998年に紹介による受注を26%から50%へと言えたのも、100万戸を引き渡し終えた後の会社だったからである。

1990年〜展示場営業の限界を突いた納得工房と、業界初の売上高1兆円

1990年9月、積水ハウスは京都府相楽郡木津町に総合住宅研究所を開設し、延べ床面積3万2000平方メートルのうち6600平方メートルを"納得工房"に充てた。台所・階段・照明・サッシを実物で並べ、社員と顧客が操作して使い勝手の差を確かめる施設である。狙いは、展示場に依存した営業の作り替えにあった。全国に約400カ所と業界で最も多い展示場を持ちながら、そこで見せられるのは外観と間取りであって住み心地ではなく、福井佑吉専務・総合住宅研究所長は、外観を派手にして客を呼び込む同業の競い合いが顧客の不信を招いていると述べた。研修は1泊2日で、1990年10月以降に関西地区の約500人が受けた。田鍋健社長は『研究所や納得工房で売り上げアップは期待していない。納得工房を一つ作ったからといって、住宅販売がそう伸びるわけでもない』と語り、施設そのものを受注の道具とは見ていなかった。

  • 日本会社史総覧(1995年、東洋経済新報社)「積水ハウス」の項
    • [74]1990年9月 京都府木津町に総合住宅研究所を設置
  • 日経ビジネス 1991年3月25日号
    • [75]総合住宅研究所の延べ床面積3万2000平方メートルのうち6600平方メートルが納得工房
    • [76]納得工房では台所・階段・照明・サッシを実物で操作して使い勝手の差を確かめる
    • [77]展示場は全国約400カ所で住宅メーカー中最多
    • [78]展示場で見られるのは外観や間取りであって住み心地ではない
    • [79]積水ハウス専務・総合住宅研究所長の福井佑吉による、外観で客を呼び込む競い合いが顧客の不信を招いているとの指摘
    • [80]研修は1泊2日・1990年10月以降に関西地区の約500人が受講
    • [81]積水ハウス社長の田鍋健氏による納得工房に関する発言

販売力の源泉は、全国に張り巡らせた営業所網と、その競わせ方にあった。営業所は独立採算で、与えられた商圏は目安にすぎず、営業所どうしが競って実績を上げる気風だった。1989年度の完工棟数は2万7250棟で、2位の積水化学工業1万5900棟、3位のミサワホーム1万5800棟に1万棟以上の差をつけ、メーカー別のシェアは18.8%に達した。系列営業所を置かない沖縄を除く46都道府県のうち、30府県で地域首位を握っていた。地方では販売を託した先を資本で取り込んでおり、1963年に代理店として北陸3県の販売を引き受けた森下興建は、1990年の第三者割当増資で子会社となり積水ハウス北陸へ商号を改めた。もっとも営業マン1人あたりの年間販売は10棟程度で、福井佑吉専務はこれを2倍に伸ばせるとみていた。

  • 日経ビジネス 1991年3月25日号
    • [82]営業所は独立採算で商圏は目安にすぎず、営業所どうしが競う
    • [83]1989年度の完工棟数は積水ハウス2万7250棟・積水化学1万5900棟・ミサワホーム1万5800棟、積水ハウスのシェアは18.8%
    • [84]沖縄を除く46都道府県のうち30府県で地域トップシェア
    • [86]営業マン1人あたりの年間販売は10棟程度で、福井佑吉専務は2倍に伸ばせるとみていた
  • 証券アナリストジャーナル 1993年7月号別冊付録
    • [85]1963年に北陸3県の販売を受託した森下興建が1990年の第三者割当増資で子会社となり積水ハウス北陸へ商号変更

1991年1月期、売上高は住宅業界で初めて1兆円を超えた。1990年1月期は8417億円で、1年で大台に乗せたことになる。1992年4月、田鍋健氏は29年にわたった社長職を退いて会長に回り、副社長の奥井功氏が後を継いだ。業界の環境はそれ以前から悪化していた。住宅着工は1990年度に165万棟だったが、1991年度は150万棟まで減る見込みで、高い金利が成長の足を引っ張っていた。奥井氏は1970年に積水化学工業から移ってきた人物である。以後は経理と財務の道を歩み、1975年には当時まだ例の少なかった外債の発行を指揮した。神戸市・六甲アイランドの第4次開発など大型案件が控えており、財務の手腕が買われたとみる向きもあった。これに対し本人は『重点は営業に置く。営業が気持ち良く仕事できる環境を作るのが社長の役目』と言い切った。田鍋氏は翌1993年に亡くなった。

  • 日本会社史総覧(1995年、東洋経済新報社)「積水ハウス」の項
    • [87]1991年1月期に業界初の売上高1兆円を達成
  • 日経ビジネス 1991年3月25日号
    • [88]1990年1月期の売上高 8417億円
    • [90]住宅着工は1990年度165万棟から1991年度150万棟へ減少見込み、金利高で業績の伸びが鈍化
  • 日経ビジネス 1992年8月31日号
    • [89]1992年4月 田鍋健社長が会長へ退き副社長の奥井功が社長に就任
    • [91]奥井功は1970年11月に積水化学工業から積水ハウスへ移籍し、1975年に外債発行の指揮を執った
    • [92]積水ハウス社長の奥井功氏による就任時の発言
  • 『創業者精神:独力で優良企業を築いた経営者列伝』(日経ベンチャー別冊、1993年)「親会社を見返したいの一心」
    • [93]田鍋健は1992年に会長へ就任し1993年に没した
参考文献[74]-[93]
  • 日本会社史総覧(1995年、東洋経済新報社)「積水ハウス」の項
    • [74]1990年9月 京都府木津町に総合住宅研究所を設置
    • [87]1991年1月期に業界初の売上高1兆円を達成
  • 日経ビジネス 1991年3月25日号
    • [75]総合住宅研究所の延べ床面積3万2000平方メートルのうち6600平方メートルが納得工房
    • [76]納得工房では台所・階段・照明・サッシを実物で操作して使い勝手の差を確かめる
    • [77]展示場は全国約400カ所で住宅メーカー中最多
    • [78]展示場で見られるのは外観や間取りであって住み心地ではない
    • [79]積水ハウス専務・総合住宅研究所長の福井佑吉による、外観で客を呼び込む競い合いが顧客の不信を招いているとの指摘
    • [80]研修は1泊2日・1990年10月以降に関西地区の約500人が受講
    • [81]積水ハウス社長の田鍋健氏による納得工房に関する発言
    • [82]営業所は独立採算で商圏は目安にすぎず、営業所どうしが競う
    • [83]1989年度の完工棟数は積水ハウス2万7250棟・積水化学1万5900棟・ミサワホーム1万5800棟、積水ハウスのシェアは18.8%
    • [84]沖縄を除く46都道府県のうち30府県で地域トップシェア
    • [86]営業マン1人あたりの年間販売は10棟程度で、福井佑吉専務は2倍に伸ばせるとみていた
    • [88]1990年1月期の売上高 8417億円
    • [90]住宅着工は1990年度165万棟から1991年度150万棟へ減少見込み、金利高で業績の伸びが鈍化
  • 証券アナリストジャーナル 1993年7月号別冊付録
    • [85]1963年に北陸3県の販売を受託した森下興建が1990年の第三者割当増資で子会社となり積水ハウス北陸へ商号変更
  • 日経ビジネス 1992年8月31日号
    • [89]1992年4月 田鍋健社長が会長へ退き副社長の奥井功が社長に就任
    • [91]奥井功は1970年11月に積水化学工業から積水ハウスへ移籍し、1975年に外債発行の指揮を執った
    • [92]積水ハウス社長の奥井功氏による就任時の発言
  • 『創業者精神:独力で優良企業を築いた経営者列伝』(日経ベンチャー別冊、1993年)「親会社を見返したいの一心」
    • [93]田鍋健は1992年に会長へ就任し1993年に没した

1992年〜3設計部が生んだ商品名の乱立と、購買層による並べ直し

1992年末、積水ハウスは商品のシリーズ名を一気に整理した。個人向けの一戸建ては28種類から7種類へ、11種類あったアパートは3種類へ減らし、木造ツーバイフォーの10商品は"ワンズワン"の1ブランドにまとめた。乱立の原因は開発体制にあった。大阪・東京・広島の3設計部が対等の立場で地域の特性を反映した商品を開発し、それぞれが商品名を付けていたため、競い合いが活力を生む一方で一戸建てだけで28種類に膨らみ、差異化が利かなくなっていた。1970年代に鉄骨系から木質系・コンクリート系・ツーバイフォーへ広げた品ぞろえは、業界で"家のデパート化"と呼ばれていた。常務の漆谷康氏は『商品の数が多くなり過ぎて、個々の商品の存在感を薄めた面があった。商品名を集約して、ブランド力を高めたい』と述べた。集約と同時にブランドごとに使う部材と形式の条件を定め、3設計部の商品開発に共通の枠組みを設けた。

  • 日経ビジネス 1993年7月5日号
    • [94]1992年末に一戸建て28種類を7種類、アパート11種類を3種類、木造ツーバイフォー10商品をワンズワン1ブランドへ集約
    • [95]大阪・東京・広島の3設計部が対等に商品を開発し各自が商品名を付けていたため一戸建てが28種類に膨らんだ
    • [97]積水ハウス常務の漆谷康氏による商品系列再編成の狙いに関する発言
    • [98]ブランドごとに使用する部材や形式の条件を定め3設計部の商品開発に共通の枠組みを設けた
  • 日経ビジネス 1979年3月19日号
    • [96]業界で「家のデパート化」と呼ばれた品ぞろえ

新しい分類の軸は、価格帯ではなく購買層に置かれた。最高級の"イズ"は資金に余裕のある建て替え層、"ローラ"は1次取得層、"セントレージ"は都会での建て替えを中心とする1.5次層、"オリジナル"は自由設計層を狙った。1993年5月1日、積水ハウスは大手新聞の首都圏版に、3.3平方メートル当たり42.7万円からという価格を載せた広告を出した。価格を織り込んだ広告は15年ぶりで、商品は同クラスの従来品より2割安い"セントレージDR"だった。ミサワホームの"デビュー・自由空間"、大和ハウス工業の"ユトリエ3"も40万円台を打ち出していた。プレハブ住宅のシェアは1992年度で24.8%と2位のミサワホームを9.5ポイント上回っていたが、東京都と神奈川県では首位を他社に譲り、北陸3県でも業界2位にとどまっていた。

  • 日経ビジネス 1993年7月5日号
    • [99]イズは建て替え層、ローラは1次取得層、セントレージは都会の建て替え1.5次層、オリジナルは自由設計層を対象とした購買層別の分類
    • [100]1993年5月1日に大手新聞の首都圏版へ3.3平方メートル当たり42.7万円からとする広告を掲載
    • [101]価格を織り込んだ広告は15年ぶりで、セントレージDRは同クラスの従来商品より2割安い
    • [102]ミサワホームのデビュー・自由空間と大和ハウス工業のユトリエ3が3.3平方メートル当たり40万円台を打ち出した
    • [103]1992年度のプレハブ住宅シェアは積水ハウス24.8%・ミサワホーム15.3%で、東京都・神奈川県では他社が首位
  • 証券アナリストジャーナル 1993年7月号別冊付録
    • [104]北陸3県における業界での地位は第2位

首位を支えていたのはアパート建築だった。生産緑地法の改正で都市部の貸家需要が膨らみ、1993年1月期の集合住宅の販売戸数は5万3399戸と前期を21.3%上回った。だがこの追い風は1年で止まり、1994年1月期は5万1500戸へ減る見込みとなった。都市開発事業への投資と社債償還が重なって1993年1月期末の有利子負債は4353億円と前期末から333億円増え、金融収支は前期の94億円の黒字から55億円の赤字へ転じ、経常利益は728億円と18.6%減った。連結でも売上高1兆1936億円に対し、経常利益は前期の932億円から751億円へ減少した。奥井功社長は1993年3月の決算発表で、賃貸アパートの着工は1991年度並みまで減るとみて、楽な経営環境とは思わないと述べた。

  • 日経ビジネス 1993年7月5日号
    • [105]1993年1月期の集合住宅販売戸数 5万3399戸(前期比21.3%増)・生産緑地法改正が追い風
    • [106]1994年1月期の集合住宅販売見込み 5万1500戸
    • [107]1993年1月期末の有利子負債4353億円(前期末比333億円増)、金融収支は94億円の黒字から55億円の赤字へ、経常利益728億円(前期比18.6%減)
    • [109]積水ハウス社長の奥井功氏による1993年3月決算発表での賃貸アパート着工に関する見通し
  • 積水ハウス 会社年鑑(連結業績)
    • [108]連結売上高 1993年1月期1兆1936億円、連結経常利益 1992年1月期932億円・1993年1月期751億円
参考文献[94]-[109]
  • 日経ビジネス 1993年7月5日号
    • [94]1992年末に一戸建て28種類を7種類、アパート11種類を3種類、木造ツーバイフォー10商品をワンズワン1ブランドへ集約
    • [95]大阪・東京・広島の3設計部が対等に商品を開発し各自が商品名を付けていたため一戸建てが28種類に膨らんだ
    • [97]積水ハウス常務の漆谷康氏による商品系列再編成の狙いに関する発言
    • [98]ブランドごとに使用する部材や形式の条件を定め3設計部の商品開発に共通の枠組みを設けた
    • [99]イズは建て替え層、ローラは1次取得層、セントレージは都会の建て替え1.5次層、オリジナルは自由設計層を対象とした購買層別の分類
    • [100]1993年5月1日に大手新聞の首都圏版へ3.3平方メートル当たり42.7万円からとする広告を掲載
    • [101]価格を織り込んだ広告は15年ぶりで、セントレージDRは同クラスの従来商品より2割安い
    • [102]ミサワホームのデビュー・自由空間と大和ハウス工業のユトリエ3が3.3平方メートル当たり40万円台を打ち出した
    • [103]1992年度のプレハブ住宅シェアは積水ハウス24.8%・ミサワホーム15.3%で、東京都・神奈川県では他社が首位
    • [105]1993年1月期の集合住宅販売戸数 5万3399戸(前期比21.3%増)・生産緑地法改正が追い風
    • [106]1994年1月期の集合住宅販売見込み 5万1500戸
    • [107]1993年1月期末の有利子負債4353億円(前期末比333億円増)、金融収支は94億円の黒字から55億円の赤字へ、経常利益728億円(前期比18.6%減)
    • [109]積水ハウス社長の奥井功氏による1993年3月決算発表での賃貸アパート着工に関する見通し
  • 日経ビジネス 1979年3月19日号
    • [96]業界で「家のデパート化」と呼ばれた品ぞろえ
  • 証券アナリストジャーナル 1993年7月号別冊付録
    • [104]北陸3県における業界での地位は第2位
  • 積水ハウス 会社年鑑(連結業績)
    • [108]連結売上高 1993年1月期1兆1936億円、連結経常利益 1992年1月期932億円・1993年1月期751億円

1993年〜累積100万戸の母集団と、紹介受注50%という目標

1993年11月、累積の住宅販売戸数が住宅業界で初めて100万戸に達した。年間の販売はおよそ7万6000戸、年商は1兆円で、発足から3年で資本金1億円を使い果たした会社とは規模が変わっていた。同じ年、大阪駅北に梅田スカイビルを完成させ、本社と大阪北地区の事業所をそこへ集約した。都市開発では神戸市の六甲アイランドCITYが住宅に次ぐ収益源に育ち、1990年には事業費総額約3420億円の第4期事業も取っていた。もっとも1995年1月の阪神・淡路大震災で同地域は液状化などの被害を受け、基礎地盤の強化に取り組むことになった。100万戸という引き渡しの積み上がりは、次の建て替えと紹介の母集団でもあった。

  • 日本会社史総覧(1995年、東洋経済新報社)「積水ハウス」の項
    • [110]1993年11月 累積住宅販売戸数が住宅業界初の100万戸に到達
    • [112]1993年 大阪駅北に梅田スカイビルを完成し本社および大阪北地区の事業所を移転・集約
    • [113]1990年に積水ハウスを中心事業主とするグループが六甲アイランドCITY第4期事業(事業費総額約3420億円)のコンペに当選
    • [114]1995年1月の阪神・淡路大震災で六甲アイランド地域が液状化などの被害を受け基礎地盤の強化に着手
  • 山陰の経済 1993年10月号「積水ハウス株式会社 常務取締役・東京支社長 漆谷康氏」
    • [111]年間販売はおよそ7万6000戸・年商1兆円、発足時は3年で資本金1億円を使い果たした

鉄骨系のプレハブを出発点とする積水ハウスは、木造の注文住宅を系列の会社に委ねてきた。積水ハウス木造は関西に地盤を置く中堅の分譲住宅メーカーで、売り上げの柱は木造の注文住宅だった。大阪証券取引所第2部に上場していた同社を、積水ハウスは1995年8月に吸収合併し、比率は積水ハウス1に対して積水ハウス木造0.6とした。合併のあとには木造住宅だけを扱う事業部を設け、5年後にはこの部門の売上高を1000億円に乗せる目標を立てた。住宅産業の大半をなお地元の工務店が握る構図は1970年代から変わっておらず、在来工法の需要を自社の商品として取り込むには、系列に置いたままでは足りなかった。

  • 日本会社史総覧(1995年、東洋経済新報社)「積水ハウス」の項
    • [115]積水ハウス木造は関西を地盤とする中堅の分譲住宅メーカーで注文木造住宅が主力
    • [117]合併比率は積水ハウス1に対し積水ハウス木造0.6
    • [118]合併後に木造住宅専門の事業部を設置し5年後に同部門売上高1000億円を目標とした
  • 積水ハウス 有価証券報告書【沿革】
    • [116]1995年8月 大証2部上場の積水ハウス木造を吸収合併
  • 日経ビジネス 1979年3月19日号
    • [119]住宅産業のシェアは地元の工務店が65%を握っていた

専務だった和田勇氏は1998年4月に社長へ昇格した。入社は1965年で、以来中部地区で住宅を売り続け、28歳のとき営業所長の最年少記録を作った人物である。奥井功社長が若返りを掲げて後任を打診したのは前年11月で、和田氏はそのとき、落ち込む受注を営業の立て直しで止めることが自分に課された役目だと考えた。社長として最初に打ち出したのは市場占有率10%の目標だった。住宅市場には中小の工務店も大手も数多く参入しており、首位の積水ハウスでさえ占有率は5%台だった。目標達成の軸には顧客満足を据え、既存顧客からの紹介で得る受注の比率を26%から50%に高めるとした。取締役に初めて顧客満足の担当を設け、新たにCS推進部を作った。住宅大手のなかで1997年度に増収を確保したのは同社の1社だけだったが、1999年1月期になると連結売上高は1兆3147億円、経常利益は561億円まで下がった。

  • 日経ビジネス 1998年11月23日号
    • [120]1998年4月 専務の和田勇が社長に就任
    • [121]和田勇は1965年入社で中部地区の住宅販売を歩き28歳で最年少の営業所長となった
    • [122]1997年11月に奥井功社長から若返りを理由に社長就任を打診され、営業強化で受注の下落に歯止めをかけることを自らの任務とした
    • [123]就任後に市場占有率10%を目標に掲げた(当時の占有率は5%台)
    • [124]顧客の紹介による受注比率を26%から50%へ高める目標を掲げ、顧客満足担当の取締役を初めて置きCS推進部を新設
    • [125]1997年度決算で住宅大手のうち1社だけ増収を確保
  • 積水ハウス 会社年鑑(連結業績)
    • [126]1999年1月期の連結売上高1兆3147億円・連結経常利益561億円
参考文献[110]-[126]
  • 日本会社史総覧(1995年、東洋経済新報社)「積水ハウス」の項
    • [110]1993年11月 累積住宅販売戸数が住宅業界初の100万戸に到達
    • [112]1993年 大阪駅北に梅田スカイビルを完成し本社および大阪北地区の事業所を移転・集約
    • [113]1990年に積水ハウスを中心事業主とするグループが六甲アイランドCITY第4期事業(事業費総額約3420億円)のコンペに当選
    • [114]1995年1月の阪神・淡路大震災で六甲アイランド地域が液状化などの被害を受け基礎地盤の強化に着手
    • [115]積水ハウス木造は関西を地盤とする中堅の分譲住宅メーカーで注文木造住宅が主力
    • [117]合併比率は積水ハウス1に対し積水ハウス木造0.6
    • [118]合併後に木造住宅専門の事業部を設置し5年後に同部門売上高1000億円を目標とした
  • 山陰の経済 1993年10月号「積水ハウス株式会社 常務取締役・東京支社長 漆谷康氏」
    • [111]年間販売はおよそ7万6000戸・年商1兆円、発足時は3年で資本金1億円を使い果たした
  • 積水ハウス 有価証券報告書【沿革】
    • [116]1995年8月 大証2部上場の積水ハウス木造を吸収合併
  • 日経ビジネス 1979年3月19日号
    • [119]住宅産業のシェアは地元の工務店が65%を握っていた
  • 日経ビジネス 1998年11月23日号
    • [120]1998年4月 専務の和田勇が社長に就任
    • [121]和田勇は1965年入社で中部地区の住宅販売を歩き28歳で最年少の営業所長となった
    • [122]1997年11月に奥井功社長から若返りを理由に社長就任を打診され、営業強化で受注の下落に歯止めをかけることを自らの任務とした
    • [123]就任後に市場占有率10%を目標に掲げた(当時の占有率は5%台)
    • [124]顧客の紹介による受注比率を26%から50%へ高める目標を掲げ、顧客満足担当の取締役を初めて置きCS推進部を新設
    • [125]1997年度決算で住宅大手のうち1社だけ増収を確保
  • 積水ハウス 会社年鑑(連結業績)
    • [126]1999年1月期の連結売上高1兆3147億円・連結経常利益561億円

第3章 2001-2009 (気が向いたら執筆します!) 地域子会社の吸収と積和不動産の完全子会社化、豪州への進出

第4章 2010-2017 (気が向いたら執筆します!) 初の赤字と北米進出、Woodside Homes取得と地面師詐欺事件

第5章 2018-2026 (気が向いたら執筆します!) 会長・社長交代後の鴻池組取得とMDC買収、売上高4兆円

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歴史年表 1960〜2025年

積水ハウスの沿革1960〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1960〜1990年プレハブから住宅産業のリーダーへの道筋上野次郎男積水ハウス産業を設立★
上野次郎男滋賀工場を新設、操業開始★
田鍋健販売と施工を自社で担う体制への切り替えと、高級化路線の採用

1963年、設立から3年で累積赤字を抱えた積水ハウス産業に、積水化学工業専務から転じた田鍋健社長が就任し、代理店販売を廃して社員による直接販売・責任施工へ改め、社名を積水ハウスに変え、"プレハブは安物"のイメージを覆す高級化路線へ転換した経営判断。

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★★★
田鍋健積水ハウスに商号変更★
田鍋健単年度黒字化を達成★
田鍋健東京・大阪証券取引所市場第二部に上場★
田鍋健システムバウ社の株式51.9%を取得★
田鍋健石油危機下の需要創造——自社ローンと売り建て方式による受注確保

1970年代、第1次石油危機でプレハブ住宅の需要が急減するなか、積水ハウスが業界初の自社ローン、保有土地を活かした"売り建て"方式、中古住宅仲介の積和不動産、商品の"家のデパート化"を次々に打ち、外的要因で需要が細っても受注を自ら掘り起こす需要創造の経営を進めた経営判断。

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田鍋健都市開発事業に参入★
田鍋健全国65営業所を独立採算の「企業内企業」にした組織改革

1978年、積水ハウスは全国65カ所の営業所を独立採算の"企業内企業"とし、65人の"経営者"を置いて評価と権限を現場に移す組織改革を進めた経営判断であった。

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田鍋健積和不動産を設立(後の九州積和不動産)★
田鍋健静岡工場を新設、操業開始★
田鍋健高級住宅「イズシリーズ」を発売★
田鍋健兵庫工場を新設、操業開始★
田鍋健米国積水ハウスをワシントン州に設立★
田鍋健総合住宅研究所を新設★
1991〜2000年売上高1兆円とブランド再編、累積100万戸と積水ハウス木造の合併田鍋健売上高1兆円を達成★
奥井功乱立した商品ブランドの集約と購買層別の再編

1992年末、積水ハウスは28種類あった個人向け一戸建て住宅の商品名を7種類に、11種類あったアパートを3種類に、10種類あった木造ツーバイフォー住宅を"ワンズワン"1ブランドに集約し、購買層別のブランド体系へ再編する経営判断を実行した。大阪・東京・広島の3設計部がそれぞれ独自に名付けてきた商品名を整理し、ブランド力の向上と商品開発体制の見直しを同時に進めた。

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奥井功累積住宅販売戸数100万戸を達成★
奥井功積水ハウス木造を吸収合併★
2001〜2009年地域子会社の吸収と積和不動産の完全子会社化、豪州への進出和田勇地域子会社4社を吸収合併★
和田勇ADRの店頭取引を開始★
和田勇積和不動産グループを完全子会社化★
和田勇リフォーム事業を分社化★
阿部俊則Sekisui House Australia Holdings PTY LIMITEDを設立★
2010〜2017年初の赤字と北米進出、Woodside Homes取得と地面師詐欺事件阿部俊則初の営業赤字・経常赤字・純損失を計上★★
阿部俊則North America Sekisui House, LLCを設立★
阿部俊則Woodside Homes Company, LLCを完全子会社化★★
阿部俊則地面師詐欺事件で特別損失約55.5億円を計上★★
2018〜2026年会長・社長交代後の鴻池組取得とMDC買収、売上高4兆円仲井嘉浩分譲マンション用地取引で被った詐欺の引責による経営トップの刷新

2017年、分譲マンション用地の購入時の取引事故で代金が回収できなくなり、約55億円(5,559百万円)を貸倒損失として2018年1月期の特別損失に計上した。期が明けた2018年2月1日、和田勇代表取締役会長は取締役相談役に就任し、阿部俊則社長が代表取締役会長、仲井嘉浩取締役が代表取締役社長に就任した。

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仲井嘉浩持分法の関連会社から議決権の過半を取り、建築・土木を報告セグメントに立てるまで

2019年3月7日の取締役会で、持分法適用関連会社である鳳ホールディングス(鴻池組の発行済株式すべてを所有する持株会社)を連結子会社化することを決議した。同年10月1日、所有していたA種優先株式の転換請求権をすべて行使して普通株式に転換し、議決権比率は40.82%から51.84%となった。 取得原価は475億17百万円で、企業結合の直前に所有していた普通株式の時価304億50百万円と優先株式の時価170億67百万円からなる。取得原価と取引ごとの取得原価の合計額との差額として、段階取得に係る差益85億98百万円を計上した。

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仲井嘉浩鳳HD(鴻池組の持株会社)を子会社化★★
仲井嘉浩地面師事件の責任追及として前会長が求めた取締役11名の入れ替えを、株主総会で退けるまで

2020年4月23日の第69回定時株主総会に、第8号議案「取締役11名選任の件」が株主提案として上程された。提案したのは勝呂文康氏と、2018年2月に退いた前会長の和田勇氏で、提案株主の有する議決権の数は2,162個である。会社提案の取締役選任議案とは別議案として、独立社外取締役候補7名と現任の取締役4名を一括して選任するよう求めた。 取締役会は反対の意見を表明し、議案は否決された。会社提案の第1号から第7号までの7議案はいずれも原案どおり承認可決され、取締役12名が選任されている。

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仲井嘉浩積和不動産グループを積水ハウス不動産グループに再編★
仲井嘉浩Chesmar Holdings, LLCがChesmar Homes, LLC等を取得★
仲井嘉浩M.D.C. Holdings, Inc.を完全子会社化★★
仲井嘉浩売上高4兆円を突破★
出典・参考 17件
出典・参考
  • 積水ハウス 有価証券報告書【沿革】
  • 『日本会社史総覧, 1995, 東洋経済新報社』(1995年)
  • 日本会社史総覧(1995年、東洋経済新報社)「積水ハウス」の項
  • 積水ハウス 会社年鑑(連結業績)
  • 証券アナリストジャーナル 1972年10月号
  • 実業の世界 1972年10月号
  • オール大衆 1976年6月号
  • 日経ビジネス 1979年3月19日号
  • 日経ビジネス 1991年3月25日号
  • 日経ビジネス 1992年8月31日号
  • 証券アナリストジャーナル 1993年7月号別冊付録
  • 日経ビジネス 1993年7月5日号
  • 山陰の経済 1993年10月号「積水ハウス株式会社 常務取締役・東京支社長 漆谷康氏」
  • 日経ビジネス 1998年11月23日号
  • 日本経済新聞「私の履歴書」田鍋健(1985年10月連載、『私の履歴書 経済人23』日本経済新聞社, 1987 所収)
  • プラスチック材料読本(1961年)
  • 『創業者精神:独力で優良企業を築いた経営者列伝』(日経ベンチャー別冊、1993年)「親会社を見返したいの一心」

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