積水ハウスが1963年に選んだのは、商品を変えることではなく、売り方を自社の手に握ることだった。代理店は兼業で、プレハブの技術も分からないまま売る。売った先の責任も分散する。田鍋健氏は販売と施工を自社の社員へ移し、同業が販売コスト増を理由に避けた道をあえて採った。高いものを作れば高く売れるのではなく、売り方を握っているから高いものを作れる、という順序である。"プレハブは安物"というイメージを覆したF型も、1984年のイズシリーズも、値段を説明できる営業組織の上でしか成り立たなかった。営業所を独立採算にして地域ごとに競わせた仕組みも、商品をどこまで高くできるかを決める装置だった。
1960年8月、積水化学工業のハウス事業部を母体として積水ハウス産業が資本金1億円で発足し、初代社長には積水化学工業社長の上野次郎男氏が兼任で就任した。プレハブ住宅の事業化を狙ったが、当時のプレハブは在来工法より割高で内容も見劣りし、売上高は1961年7月期2億6000万円、1963年12億4000万円と伸び悩んだ。1961年の業界解説がプレハブの急成長企業として挙げたのは大和ハウス工業と永大産業であり、発足3年で累積赤字9000万円、不良資産を含めれば実質2億円近い赤字を抱えて社員も意欲を失っていた。1963年6月、積水化学工業専務から転じた田鍋健氏が社長に就任し、『この会社は沈没寸前の船と同じや。しかし私は船長としてこの船と運命を共にする覚悟だ』(田鍋健氏、日経新聞"私の履歴書")と宣言し、出向社員に積水化学への帰任か、退職金を受け取っての移籍かを選ばせ、従業員の結束を固めた。
1963年10月、田鍋健社長は社名を積水ハウスへ改め、販売と施工を自社社員が担う直接販売・責任施工方式へ切り替えた。代理店は兼業のため商品の消化に熱が入らず、自社の建築技術やシステムを理解している先も少ないという判断からで、同業他社は販売コストが高くなるとしてこの方式を敬遠した。同時に独身者向け2階建ての"2D型"、エコノミータイプの"E型"、デラックスタイプの"F型"を相次いで発売し、F型で"プレハブは安物"という当時のイメージを覆した。改革は数字に表れ、1964年に単年度黒字化を達成し、翌65年には累積赤字を一掃して初配当に踏み切った。1970年8月に東京・大阪証券取引所市場第二部へ株式を上場し、翌71年6月には第一部へ指定替えとなって、証券市場から資金を調達できるようになった。
成長を支えたのは、セールスマンを地域に固定して人的関係を深める営業体制だった。住宅産業のシェアはプレハブ全体で1割にとどまり、65%を地元の工務店が握っていたため、長期間ひとつの地域を担当させる必要があった。営業所は物流・建設工事・中古住宅の買い入れまで統括する地域拠点でもあり、1977年末に57カ所だった営業所は1年で67カ所へ増えた。生産面では工場を全国3カ所に集約し、各工場が月産300戸という規模で稼働した。資材はクギ1本に至るまで大量買い付けへ切り替え、『うちのプレハブ住宅で会社の指定外品はガスと水道、電気の資材だけ』と田鍋健社長が語る水準まで統一した。直販は競合を見た策ではなく、『住宅という大事な商品を売るのに人まかせにはできん、という私の哲学に従って直販にしたんや』(田鍋健氏、オール大衆 1976/06)という判断から出た方式である。
プレハブ住宅の建設戸数は1973年に20万戸台で頂点に達したが、1973年11月の石油危機を境に減り、1975年には15万戸まで落ち込んだ。カネボウや大林ハウジングのように高度成長の終わり近くに入ってきた会社が撤退や戦線の縮小に追い込まれる一方で、積水ハウスの受注はむしろ増えた。住宅ローンが金融の引き締めで細ると、同社は銀行と組んだ提携ローンとは別に、業界で初めてとなる自前のローンを設けた。資金の調達先も地方銀行・相互銀行から信用金庫にまで広げ、株式市場からは時価発行の増資で集めた。住宅資材が軒並み暴騰しても値上げは15%にとどめ、これは同業平均30%の半分にあたる。見直しを求める役員には『資材価格はすぐに落ち着くから、今の価格で十分もうかるんや』と言って応じなかった。値段が安いうえにローンも付くという条件に受注が集まり、大和ハウス工業をはじめとする他社を大きく引き離した。
販売の足かせとして浮かんだのは、割安で質のよい宅地が手に入らないという土地の不足だった。1975年後半には金融が緩み、住宅ローンの資金はすでに十分に出回っていた。これに対し積水ハウスが考えたのは、造成済みの土地を大手デベロッパーからまとめて仕入れ、安い値で客に渡し、その上に建つ家の注文を自社で取るやり方である。同社はこれを、従来の建て売りと対比させて"売り建て方式"と名づけた。1979年1月期末には保有する土地が995億円にのぼり、その1年で990億円分を買い入れ、725億円分を売った。土地販売で得る粗利益は売上の10.1%しかなく、仕入れ資金の金利まで勘定すれば多少の赤字を見込まねばならない水準だったが、『本業の住宅が売れれば、会社全体でみれば十分にもうかります』との読みのもとで押し通した。1976年3月には中古住宅の売買仲介を担う積和不動産を大阪に設立し、都市部の住宅購入希望者の約半分を占める買い換え需要を新築の受注へつないだ。
需要創造の積み重ねは業績に表れ、1979年1月期は売上高3,040億円・経常利益207億円を計上して、1964年以来15年連続の増収増益となった。経常利益は1978年3月期に110億円だった大成建設を抜き、最大手である鹿島建設の265億円に迫った。前年には大手ゼネコンを下請けに使ったマンションの建設・販売にも参入していた『うちはプレハブ会社から脱け出し、大手の建設会社に仲間入りした』(田鍋健氏、日経ビジネス 1979/3/19)。1970年代の積極経営は自己資本比率と売上高純金利負担率を一時的に悪化させた。全住宅産業に占めるシェアはなお2%程度にとどまり、田鍋健社長は『7〜8%のシェアを取りたい』(田鍋健氏、日経ビジネス 1979/3/19)と、未開拓の北海道・東北への営業所展開と関連業界への進出を次の課題に挙げた。
1970年代後半、積水ハウスは鉄骨系から出発した商品を木質系・コンクリート系・ツーバイフォー工法、さらに一般の注文住宅まで広げた。売上の9割はなお鉄骨系だったが、品ぞろえの厚みは『プレハブのワクを越えた家のデパート化』と業界で呼ばれ、消費者の嗜好の多様化に対応する需要発掘を側面から支えた。1戸あたりのプレハブ化率をあえて引き下げ、コスト上昇を承知で自由な設計と間取りを選べるようにした。1971年3月の寄棟型"K型"、同年7月の連棟式テラスハウス"テラス10"、1972年10月の枠組壁工法"M型"と続いた高級タイプの系譜は、1984年発売の高級住宅"イズシリーズ"へ受け継がれ、イズシリーズはプレハブ住宅のイメージを大きく塗り替えた。
1977年3月、大阪市西区で大規模マンション"グランドメゾン長堀"を分譲して都市開発事業に参入し、以後は各地で分譲マンションを供給した。その集大成が神戸市の事業コンペ"六甲アイランドCITY"第1期都市開発事業で、第1期部分だけで事業費は3,000億円に達した。海外では1971年7月にオランダのシステム・バウ社の株式51.9%を取得してセキスイ・システム・バウ社と改称し、西ドイツを中心に住宅販売を開始した。ただし物流コストなどの事情から住宅建築そのものは撤退し、ドイツでの不動産仲介・賃貸へ切り替えた。1987年には北米の豊富な木材資源と木材加工技術の確保を狙って米国積水ハウスをワシントン州に設立し、自社使用木材の2次加工品の供給を始めた。
1兆円は、積水ハウスにとって到達点ではなく伸びの止まる合図だった。1991年1月期に住宅業界で初めて1兆円へ乗った時点で、住宅着工は165万戸を頂に減り始めており、以後10年近く、連結売上高は1兆1000億円台から1兆4000億円台の間を往復した。棟数を積む競争はすでに限界に近く、営業マン1人あたりの年間販売は10棟前後で止まっていた。田鍋健氏が29年かけて作ったのは、営業所を地域ごとに競わせて棟数を取る装置である。その装置が回り切ったとき、会社に残された変数は、売る人の数ではなく売り方の中身のほうだった。
1992年末のブランド集約は、商品を減らす話ではない。28の商品名を7に減らしても商品の種類そのものは減っておらず、変わったのは買い手から見える輪郭である。大阪・東京・広島の3設計部が競って名前を付けてきた体制は、地域に合う家を生む代わりに、積水ハウスという一つの像を薄めていた。価格帯ではなく購買層で並べ直したのは、何を作ったかで棚を分ける発想から、誰に売るかで棚を分ける発想への入れ替えだった。和田勇氏が1998年に紹介による受注を26%から50%へと言えたのも、100万戸を引き渡し終えた後の会社だったからである。
1990年9月、積水ハウスは京都府相楽郡木津町に総合住宅研究所を開設し、延べ床面積3万2000平方メートルのうち6600平方メートルを"納得工房"に充てた。台所・階段・照明・サッシを実物で並べ、社員と顧客が操作して使い勝手の差を確かめる施設である。狙いは、展示場に依存した営業の作り替えにあった。全国に約400カ所と業界で最も多い展示場を持ちながら、そこで見せられるのは外観と間取りであって住み心地ではなく、福井佑吉専務・総合住宅研究所長は、外観を派手にして客を呼び込む同業の競い合いが顧客の不信を招いていると述べた。研修は1泊2日で、1990年10月以降に関西地区の約500人が受けた。田鍋健社長は『研究所や納得工房で売り上げアップは期待していない。納得工房を一つ作ったからといって、住宅販売がそう伸びるわけでもない』と語り、施設そのものを受注の道具とは見ていなかった。
販売力の源泉は、全国に張り巡らせた営業所網と、その競わせ方にあった。営業所は独立採算で、与えられた商圏は目安にすぎず、営業所どうしが競って実績を上げる気風だった。1989年度の完工棟数は2万7250棟で、2位の積水化学工業1万5900棟、3位のミサワホーム1万5800棟に1万棟以上の差をつけ、メーカー別のシェアは18.8%に達した。系列営業所を置かない沖縄を除く46都道府県のうち、30府県で地域首位を握っていた。地方では販売を託した先を資本で取り込んでおり、1963年に代理店として北陸3県の販売を引き受けた森下興建は、1990年の第三者割当増資で子会社となり積水ハウス北陸へ商号を改めた。もっとも営業マン1人あたりの年間販売は10棟程度で、福井佑吉専務はこれを2倍に伸ばせるとみていた。
1991年1月期、売上高は住宅業界で初めて1兆円を超えた。1990年1月期は8417億円で、1年で大台に乗せたことになる。1992年4月、田鍋健氏は29年にわたった社長職を退いて会長に回り、副社長の奥井功氏が後を継いだ。業界の環境はそれ以前から悪化していた。住宅着工は1990年度に165万棟だったが、1991年度は150万棟まで減る見込みで、高い金利が成長の足を引っ張っていた。奥井氏は1970年に積水化学工業から移ってきた人物である。以後は経理と財務の道を歩み、1975年には当時まだ例の少なかった外債の発行を指揮した。神戸市・六甲アイランドの第4次開発など大型案件が控えており、財務の手腕が買われたとみる向きもあった。これに対し本人は『重点は営業に置く。営業が気持ち良く仕事できる環境を作るのが社長の役目』と言い切った。田鍋氏は翌1993年に亡くなった。
1992年末、積水ハウスは商品のシリーズ名を一気に整理した。個人向けの一戸建ては28種類から7種類へ、11種類あったアパートは3種類へ減らし、木造ツーバイフォーの10商品は"ワンズワン"の1ブランドにまとめた。乱立の原因は開発体制にあった。大阪・東京・広島の3設計部が対等の立場で地域の特性を反映した商品を開発し、それぞれが商品名を付けていたため、競い合いが活力を生む一方で一戸建てだけで28種類に膨らみ、差異化が利かなくなっていた。1970年代に鉄骨系から木質系・コンクリート系・ツーバイフォーへ広げた品ぞろえは、業界で"家のデパート化"と呼ばれていた。常務の漆谷康氏は『商品の数が多くなり過ぎて、個々の商品の存在感を薄めた面があった。商品名を集約して、ブランド力を高めたい』と述べた。集約と同時にブランドごとに使う部材と形式の条件を定め、3設計部の商品開発に共通の枠組みを設けた。
新しい分類の軸は、価格帯ではなく購買層に置かれた。最高級の"イズ"は資金に余裕のある建て替え層、"ローラ"は1次取得層、"セントレージ"は都会での建て替えを中心とする1.5次層、"オリジナル"は自由設計層を狙った。1993年5月1日、積水ハウスは大手新聞の首都圏版に、3.3平方メートル当たり42.7万円からという価格を載せた広告を出した。価格を織り込んだ広告は15年ぶりで、商品は同クラスの従来品より2割安い"セントレージDR"だった。ミサワホームの"デビュー・自由空間"、大和ハウス工業の"ユトリエ3"も40万円台を打ち出していた。プレハブ住宅のシェアは1992年度で24.8%と2位のミサワホームを9.5ポイント上回っていたが、東京都と神奈川県では首位を他社に譲り、北陸3県でも業界2位にとどまっていた。
首位を支えていたのはアパート建築だった。生産緑地法の改正で都市部の貸家需要が膨らみ、1993年1月期の集合住宅の販売戸数は5万3399戸と前期を21.3%上回った。だがこの追い風は1年で止まり、1994年1月期は5万1500戸へ減る見込みとなった。都市開発事業への投資と社債償還が重なって1993年1月期末の有利子負債は4353億円と前期末から333億円増え、金融収支は前期の94億円の黒字から55億円の赤字へ転じ、経常利益は728億円と18.6%減った。連結でも売上高1兆1936億円に対し、経常利益は前期の932億円から751億円へ減少した。奥井功社長は1993年3月の決算発表で、賃貸アパートの着工は1991年度並みまで減るとみて、楽な経営環境とは思わないと述べた。
1993年11月、累積の住宅販売戸数が住宅業界で初めて100万戸に達した。年間の販売はおよそ7万6000戸、年商は1兆円で、発足から3年で資本金1億円を使い果たした会社とは規模が変わっていた。同じ年、大阪駅北に梅田スカイビルを完成させ、本社と大阪北地区の事業所をそこへ集約した。都市開発では神戸市の六甲アイランドCITYが住宅に次ぐ収益源に育ち、1990年には事業費総額約3420億円の第4期事業も取っていた。もっとも1995年1月の阪神・淡路大震災で同地域は液状化などの被害を受け、基礎地盤の強化に取り組むことになった。100万戸という引き渡しの積み上がりは、次の建て替えと紹介の母集団でもあった。
鉄骨系のプレハブを出発点とする積水ハウスは、木造の注文住宅を系列の会社に委ねてきた。積水ハウス木造は関西に地盤を置く中堅の分譲住宅メーカーで、売り上げの柱は木造の注文住宅だった。大阪証券取引所第2部に上場していた同社を、積水ハウスは1995年8月に吸収合併し、比率は積水ハウス1に対して積水ハウス木造0.6とした。合併のあとには木造住宅だけを扱う事業部を設け、5年後にはこの部門の売上高を1000億円に乗せる目標を立てた。住宅産業の大半をなお地元の工務店が握る構図は1970年代から変わっておらず、在来工法の需要を自社の商品として取り込むには、系列に置いたままでは足りなかった。
専務だった和田勇氏は1998年4月に社長へ昇格した。入社は1965年で、以来中部地区で住宅を売り続け、28歳のとき営業所長の最年少記録を作った人物である。奥井功社長が若返りを掲げて後任を打診したのは前年11月で、和田氏はそのとき、落ち込む受注を営業の立て直しで止めることが自分に課された役目だと考えた。社長として最初に打ち出したのは市場占有率10%の目標だった。住宅市場には中小の工務店も大手も数多く参入しており、首位の積水ハウスでさえ占有率は5%台だった。目標達成の軸には顧客満足を据え、既存顧客からの紹介で得る受注の比率を26%から50%に高めるとした。取締役に初めて顧客満足の担当を設け、新たにCS推進部を作った。住宅大手のなかで1997年度に増収を確保したのは同社の1社だけだったが、1999年1月期になると連結売上高は1兆3147億円、経常利益は561億円まで下がった。
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|---|---|---|---|---|
| 1960〜1990年プレハブから住宅産業のリーダーへの道筋 | 上野次郎男 | 積水ハウス産業を設立 | ★ | |
| 上野次郎男 | 滋賀工場を新設、操業開始 | ★ | ||
| 田鍋健 | 販売と施工を自社で担う体制への切り替えと、高級化路線の採用 1963年、設立から3年で累積赤字を抱えた積水ハウス産業に、積水化学工業専務から転じた田鍋健社長が就任し、代理店販売を廃して社員による直接販売・責任施工へ改め、社名を積水ハウスに変え、"プレハブは安物"のイメージを覆す高級化路線へ転換した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 田鍋健 | 積水ハウスに商号変更 | ★ | ||
| 田鍋健 | 単年度黒字化を達成 | ★ | ||
| 田鍋健 | 東京・大阪証券取引所市場第二部に上場 | ★ | ||
| 田鍋健 | システムバウ社の株式51.9%を取得 | ★ | ||
| 田鍋健 | 石油危機下の需要創造——自社ローンと売り建て方式による受注確保 1970年代、第1次石油危機でプレハブ住宅の需要が急減するなか、積水ハウスが業界初の自社ローン、保有土地を活かした"売り建て"方式、中古住宅仲介の積和不動産、商品の"家のデパート化"を次々に打ち、外的要因で需要が細っても受注を自ら掘り起こす需要創造の経営を進めた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 田鍋健 | 都市開発事業に参入 | ★ | ||
| 田鍋健 | 全国65営業所を独立採算の「企業内企業」にした組織改革 1978年、積水ハウスは全国65カ所の営業所を独立採算の"企業内企業"とし、65人の"経営者"を置いて評価と権限を現場に移す組織改革を進めた経営判断であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 田鍋健 | 積和不動産を設立(後の九州積和不動産) | ★ | ||
| 田鍋健 | 静岡工場を新設、操業開始 | ★ | ||
| 田鍋健 | 高級住宅「イズシリーズ」を発売 | ★ | ||
| 田鍋健 | 兵庫工場を新設、操業開始 | ★ | ||
| 田鍋健 | 米国積水ハウスをワシントン州に設立 | ★ | ||
| 田鍋健 | 総合住宅研究所を新設 | ★ | ||
| 1991〜2000年売上高1兆円とブランド再編、累積100万戸と積水ハウス木造の合併 | 田鍋健 | 売上高1兆円を達成 | ★ | |
| 奥井功 | 乱立した商品ブランドの集約と購買層別の再編 1992年末、積水ハウスは28種類あった個人向け一戸建て住宅の商品名を7種類に、11種類あったアパートを3種類に、10種類あった木造ツーバイフォー住宅を"ワンズワン"1ブランドに集約し、購買層別のブランド体系へ再編する経営判断を実行した。大阪・東京・広島の3設計部がそれぞれ独自に名付けてきた商品名を整理し、ブランド力の向上と商品開発体制の見直しを同時に進めた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 奥井功 | 累積住宅販売戸数100万戸を達成 | ★ | ||
| 奥井功 | 積水ハウス木造を吸収合併 | ★ | ||
| 2001〜2009年地域子会社の吸収と積和不動産の完全子会社化、豪州への進出 | 和田勇 | 地域子会社4社を吸収合併 | ★ | |
| 和田勇 | ADRの店頭取引を開始 | ★ | ||
| 和田勇 | 積和不動産グループを完全子会社化 | ★ | ||
| 和田勇 | リフォーム事業を分社化 | ★ | ||
| 阿部俊則 | Sekisui House Australia Holdings PTY LIMITEDを設立 | ★ | ||
| 2010〜2017年初の赤字と北米進出、Woodside Homes取得と地面師詐欺事件 | 阿部俊則 | 初の営業赤字・経常赤字・純損失を計上 | ★★ | |
| 阿部俊則 | North America Sekisui House, LLCを設立 | ★ | ||
| 阿部俊則 | Woodside Homes Company, LLCを完全子会社化 | ★★ | ||
| 阿部俊則 | 地面師詐欺事件で特別損失約55.5億円を計上 | ★★ | ||
| 2018〜2026年会長・社長交代後の鴻池組取得とMDC買収、売上高4兆円 | 仲井嘉浩 | 分譲マンション用地取引で被った詐欺の引責による経営トップの刷新 2017年、分譲マンション用地の購入時の取引事故で代金が回収できなくなり、約55億円(5,559百万円)を貸倒損失として2018年1月期の特別損失に計上した。期が明けた2018年2月1日、和田勇代表取締役会長は取締役相談役に就任し、阿部俊則社長が代表取締役会長、仲井嘉浩取締役が代表取締役社長に就任した。 詳細を読む | ★★★ | |
| 仲井嘉浩 | 持分法の関連会社から議決権の過半を取り、建築・土木を報告セグメントに立てるまで 2019年3月7日の取締役会で、持分法適用関連会社である鳳ホールディングス(鴻池組の発行済株式すべてを所有する持株会社)を連結子会社化することを決議した。同年10月1日、所有していたA種優先株式の転換請求権をすべて行使して普通株式に転換し、議決権比率は40.82%から51.84%となった。 取得原価は475億17百万円で、企業結合の直前に所有していた普通株式の時価304億50百万円と優先株式の時価170億67百万円からなる。取得原価と取引ごとの取得原価の合計額との差額として、段階取得に係る差益85億98百万円を計上した。 詳細を読む | |||
| 仲井嘉浩 | 鳳HD(鴻池組の持株会社)を子会社化 | ★★ | ||
| 仲井嘉浩 | 地面師事件の責任追及として前会長が求めた取締役11名の入れ替えを、株主総会で退けるまで 2020年4月23日の第69回定時株主総会に、第8号議案「取締役11名選任の件」が株主提案として上程された。提案したのは勝呂文康氏と、2018年2月に退いた前会長の和田勇氏で、提案株主の有する議決権の数は2,162個である。会社提案の取締役選任議案とは別議案として、独立社外取締役候補7名と現任の取締役4名を一括して選任するよう求めた。 取締役会は反対の意見を表明し、議案は否決された。会社提案の第1号から第7号までの7議案はいずれも原案どおり承認可決され、取締役12名が選任されている。 詳細を読む | |||
| 仲井嘉浩 | 積和不動産グループを積水ハウス不動産グループに再編 | ★ | ||
| 仲井嘉浩 | Chesmar Holdings, LLCがChesmar Homes, LLC等を取得 | ★ | ||
| 仲井嘉浩 | M.D.C. Holdings, Inc.を完全子会社化 | ★★ | ||
| 仲井嘉浩 | 売上高4兆円を突破 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(積水ハウス)