1960年〜 プレハブから住宅産業のリーダーへの道筋
積水ハウスの業績推移:単体
- 1960年 積水ハウス産業を設立
- 1961年 滋賀工場を新設、操業開始
- 1963年 田鍋健社長による直接販売・責任施工への転換と高級化路線 発足3年で累積赤字を抱えた積水ハウス産業を、田鍋健社長はどう立て直したか
- 1963年 積水ハウスに商号変更
- 1964年 単年度黒字化を達成
- 1976年 「需要は待つな、創れ」——石油危機下の需要創造経営 住宅需要が急減するなか、田鍋健社長は自社ローンと「売り建て」でどう受注を掘り起こしたか
- 1978年 全国65営業所を独立採算の「企業内企業」にした組織改革 拡大する営業網の官僚化を避けるため、田鍋健社長はなぜ本社の権限を手放したのか
沈没寸前の船を引き受けた田鍋健社長の高級化路線
1960年8月[1]、積水化学工業のハウス事業部を母体として[2]積水ハウス産業が資本金1億円で発足[3]し、初代社長には積水化学工業社長の上野次郎男氏が兼任で就いた[4]。プレハブ住宅の事業化を狙ったが、当時のプレハブは在来工法より割高で内容も見劣りし[5]、売上高は1961年7月期2億6000万円、1963年12億4000万円[6]と伸び悩んだ。1961年の業界解説がプレハブの急成長企業として挙げたのは大和ハウス工業と永大産業[7]であり、発足3年で累積赤字9000万円[8]、不良資産を含めれば実質2億円近い赤字[9]を抱えて社員も意欲を失っていた。1963年6月、積水化学工業専務から転じた田鍋健氏が社長に就任し[10]、「この会社は沈没寸前の船と同じや。しかし私は船長としてこの船と運命を共にする覚悟だ」(田鍋健氏、日経新聞「私の履歴書」)と宣言し、出向社員に積水化学への帰任か、退職金を受け取っての移籍かを選ばせ[12]、従業員の結束を固めた。 [11]
- 積水ハウス 有価証券報告書【沿革】
- [1]1960年8月 積水ハウス産業が発足
- [2]積水化学工業のハウス事業部が母体
- [3]発足時の資本金 1億円
- 日本会社史総覧(1995年、東洋経済新報社)「積水ハウス」の項
- [4]初代社長は積水化学工業社長の上野次郎男が兼任
- [5]当時のプレハブは在来工法より割高で内容も劣った
- [6]売上高 1961年7月期2億6000万円・1963年12億4000万円
- [10]1963年6月 積水化学工業専務の田鍋健が社長に就任
- プラスチック材料読本(1961年)
- [7]1961年時点でプレハブの急成長企業とされたのは大和ハウス工業と永大産業
- 日本経済新聞「私の履歴書(田鍋健)」(1985年)
- [8]発足3年で累積赤字9000万円
- [9]不良資産を含めれば実質2億円近い赤字
- [11]積水ハウス社長の田鍋健氏による就任時の発言
- [12]出向社員に積水化学への帰任か移籍かを選ばせた
1963年10月、田鍋社長は社名を積水ハウスへ改め[13]、販売と施工を自社社員が担う直接販売・責任施工方式へ切り替えた[14]。代理店は兼業のため商品の消化に熱が入らず、自社の建築技術やシステムを理解している先も少ない[15]という判断からで、同業他社は販売コストが高くなるとしてこの方式を敬遠した[16]。同時に独身者向け2階建ての「2D型」、エコノミータイプの「E型」、デラックスタイプの「F型」を相次いで発売[17]し、F型で「プレハブは安物」という当時のイメージを覆した[18]。改革は数字に表れ、1964年に単年度黒字化を達成し[19]、翌65年には累積赤字を一掃して初配当に踏み切った[20]。1970年8月に東京・大阪証券取引所市場第二部へ株式を上場[21]し、翌71年6月には第一部へ指定替えとなって[22]、証券市場から資金を調達できるようになった。
- 積水ハウス 有価証券報告書【沿革】
- [13]1963年10月 社名を積水ハウスへ変更
- [21]1970年8月 東京・大阪証券取引所市場第二部へ上場
- [22]1971年6月 市場第一部へ指定替え
- [14]直接販売・責任施工方式への切り替え
- [15]代理店販売をやめた理由(兼業で消化が進まず建築技術の理解も乏しい)
- [16]同業他社は販売コスト増を理由に直販を敬遠
- 日本会社史総覧(1995年、東洋経済新報社)「積水ハウス」の項
- [17]2D型・E型・F型の相次ぐ発売
- [18]F型が「プレハブは安物」のイメージを払拭
- [19]1964年 単年度黒字化を達成
- [20]1965年 累積赤字を一掃し初配当
成長を支えたのは、セールスマンを地域に固定して人的関係を深める営業体制[23]だった。住宅産業のシェアはプレハブ全体で1割にとどまり、65%を地元の工務店が握っていた[24]ため、長期間ひとつの地域を担当させる必要があった。営業所は物流・建設工事・中古住宅の買い入れまで束ねる地域拠点[25]でもあり、1977年末に57カ所だった営業所は1年で67カ所へ増えた[26]。生産面では工場を全国3カ所に集約し、各工場が月産300戸[27]という規模で稼働した。資材はクギ1本に至るまで大量買い付けへ切り替え[28]、「うちのプレハブ住宅で会社の指定外品はガスと水道、電気の資材だけ[29]」(田鍋健氏、日経ビジネス 1979/3/19)と田鍋社長が語る水準まで統一した。直販は競合を見た策ではなく、「住宅という大事な商品を売るのに人まかせにはできん、という私の哲学に従って直販にしたんや[30]」(田鍋健氏、オール大衆 1976/06)という判断から出た方式である。
- 日経ビジネス 1979年3月19日号
- [23]セールスマンを地域に固定する営業体制
- [24]プレハブは住宅産業の1割・地元工務店が65%
- [25]営業所は物流・建設工事・中古住宅買い入れの地域拠点
- [26]営業所は1977年末の57カ所から67カ所へ増加
- [27]工場は全国3カ所・各工場月産300戸
- [28]クギ1本に至るまでの大量買い付け
- [29]積水ハウス社長の田鍋健氏による発言
- オール大衆 1976年6月号
- [30]積水ハウス社長の田鍋健氏による直販の動機に関する発言
- 積水ハウス 有価証券報告書【沿革】
- [1]1960年8月 積水ハウス産業が発足
- [2]積水化学工業のハウス事業部が母体
- [3]発足時の資本金 1億円
- [13]1963年10月 社名を積水ハウスへ変更
- [21]1970年8月 東京・大阪証券取引所市場第二部へ上場
- [22]1971年6月 市場第一部へ指定替え
- 日本会社史総覧(1995年、東洋経済新報社)「積水ハウス」の項
- [4]初代社長は積水化学工業社長の上野次郎男が兼任
- [5]当時のプレハブは在来工法より割高で内容も劣った
- [6]売上高 1961年7月期2億6000万円・1963年12億4000万円
- [10]1963年6月 積水化学工業専務の田鍋健が社長に就任
- [17]2D型・E型・F型の相次ぐ発売
- [18]F型が「プレハブは安物」のイメージを払拭
- [19]1964年 単年度黒字化を達成
- [20]1965年 累積赤字を一掃し初配当
- プラスチック材料読本(1961年)
- [7]1961年時点でプレハブの急成長企業とされたのは大和ハウス工業と永大産業
- 日本経済新聞「私の履歴書(田鍋健)」(1985年)
- [8]発足3年で累積赤字9000万円
- [9]不良資産を含めれば実質2億円近い赤字
- [11]積水ハウス社長の田鍋健氏による就任時の発言
- [12]出向社員に積水化学への帰任か移籍かを選ばせた
- [14]直接販売・責任施工方式への切り替え
- [15]代理店販売をやめた理由(兼業で消化が進まず建築技術の理解も乏しい)
- [16]同業他社は販売コスト増を理由に直販を敬遠
- 日経ビジネス 1979年3月19日号
- [23]セールスマンを地域に固定する営業体制
- [24]プレハブは住宅産業の1割・地元工務店が65%
- [25]営業所は物流・建設工事・中古住宅買い入れの地域拠点
- [26]営業所は1977年末の57カ所から67カ所へ増加
- [27]工場は全国3カ所・各工場月産300戸
- [28]クギ1本に至るまでの大量買い付け
- [29]積水ハウス社長の田鍋健氏による発言
- オール大衆 1976年6月号
- [30]積水ハウス社長の田鍋健氏による直販の動機に関する発言
需要は待つな、創れ ── 自社ローンと売り建て方式
1973年11月の石油危機以降、プレハブ住宅の建設戸数は1973年のピーク20万戸台から1975年に15万戸へ急減[31]し、高度成長の末期に参入したカネボウや大林ハウジングが撤退・戦線縮小へ追い込まれる[32]なか、積水ハウスは逆に受注を広げた[33]。金融引き締めで住宅ローンが細ると、銀行との提携ローンに加えて業界初の自社ローンを創設[34]し、資金調達のパイプを地方銀行・相互銀行から信用金庫まで広げ、株式市場では時価発行増資で資金を集めた[35]。住宅資材の価格が軒並み暴騰するなかでも値上げ幅を15%と同業平均30%の半分に抑え[36]、修正を迫る役員を「資材価格はすぐに落ち着くから、今の価格で十分もうかるんや[37]」(田鍋健氏、日経ビジネス 1979/3/19)と退けた。安く、しかもローンが付く条件が受注を集め、大和ハウス工業以下の他社に大きく差をつけた[38]。
- 日経ビジネス 1979年3月19日号
- [31]プレハブ住宅の建設戸数 1973年ピーク20万戸台→1975年15万戸
- [32]カネボウ・大林ハウジングの撤退・戦線縮小
- [33]石油危機下でも受注を拡大
- [34]業界初の自社ローンの創設
- [35]資金調達を地方銀行・相互銀行・信用金庫へ拡大し時価発行増資も実施
- [36]値上げ幅15%(同業平均30%の半分)
- [37]積水ハウス社長の田鍋健氏による発言
- [38]大和ハウス工業以下の他社に差をつけた
1975年後半には住宅ローン資金が金融緩和で潤沢になった一方、安くて良質の宅地が得られないという土地不足が販売のネックとして浮かんだ[39]。積水ハウスは大手デベロッパーから造成地を一括して買い取り、土地を安く提供したうえで上物を自社で受注する方式[40]を編み出し、従来の建て売りに対して「売り建て方式」と呼んだ[41]。1979年1月期末の土地保有高は995億円[42]で、1年間で990億円を購入し725億円を販売した[43]。土地販売の粗利益率は売上の10.1%[44]にとどまり、購入資金の金利を考えると若干の赤字を覚悟する水準だったが、「本業の住宅が売れれば、会社全体でみれば十分にもうかります[45]」(田鍋健氏、日経ビジネス 1979/3/19)という読みで押し切った。1976年3月には中古住宅の売買仲介を担う積和不動産を大阪に設立[46]し、都市部の住宅購入希望者の約半分を占める買い換え需要[47]を新築の受注へつないだ。
- 日経ビジネス 1979年3月19日号
- [39]1975年後半に土地不足が販売のネックとなった
- [40]造成地を一括購入し上物を自社で受注する方式
- [41]建て売りに対する呼称が「売り建て方式」
- [42]1979年1月期末の土地保有高 995億円
- [43]1年間の土地購入990億円・販売725億円
- [44]土地販売の粗利益率 売上の10.1%
- [45]積水ハウス社長の田鍋健氏による発言
- [47]都市部の住宅購入希望者の約半分が買い換え需要
- 積水ハウス 有価証券報告書【沿革】
- [46]1976年3月 中古住宅仲介の積和不動産を大阪に設立
需要創造の積み重ねは業績に表れ、1979年1月期は売上高3,040億円[48]・経常利益207億円を計上して[49]、1964年以来15年連続の増収増益となった[50]。経常利益は1978年3月期に110億円だった大成建設を抜き[51]、最大手である鹿島建設の265億円に迫った[52]。田鍋社長は「うちはプレハブ会社から脱け出し、大手の建設会社に仲間入りした[53]」(田鍋健氏、日経ビジネス 1979/3/19)と語り、前年には大手ゼネコンを下請けに使ったマンションの建設・販売[54]にも踏み込んでいた。1970年代の積極経営は自己資本比率と売上高純金利負担率を一時的に悪化させた[55]。全住宅産業に占めるシェアはなお2%程度にとどまり[56]、田鍋社長は「7〜8%のシェアを取りたい[57]」(田鍋健氏、日経ビジネス 1979/3/19)と、未開拓の北海道・東北への営業所展開と関連業界への進出[58]を次の課題に挙げた。
- 日経ビジネス 1979年3月19日号
- [48]1979年1月期 売上高3,040億円
- [49]1979年1月期 経常利益207億円
- [50]1964年以来15年連続の増収増益
- [51]大成建設の経常利益は1978年3月期110億円
- [52]鹿島建設の経常利益 265億円
- [53]積水ハウス社長の田鍋健氏による発言
- [54]大手ゼネコンを下請けに使ったマンションの建設・販売
- [55]積極経営で自己資本比率と売上高純金利負担率が悪化
- [56]全住宅産業に占めるシェアは2%程度
- [57]積水ハウス社長の田鍋健氏によるシェア目標に関する発言
- [58]北海道・東北への営業所展開と関連業界への進出が次の課題
- 日経ビジネス 1979年3月19日号
- [31]プレハブ住宅の建設戸数 1973年ピーク20万戸台→1975年15万戸
- [32]カネボウ・大林ハウジングの撤退・戦線縮小
- [33]石油危機下でも受注を拡大
- [34]業界初の自社ローンの創設
- [35]資金調達を地方銀行・相互銀行・信用金庫へ拡大し時価発行増資も実施
- [36]値上げ幅15%(同業平均30%の半分)
- [37]積水ハウス社長の田鍋健氏による発言
- [38]大和ハウス工業以下の他社に差をつけた
- [39]1975年後半に土地不足が販売のネックとなった
- [40]造成地を一括購入し上物を自社で受注する方式
- [41]建て売りに対する呼称が「売り建て方式」
- [42]1979年1月期末の土地保有高 995億円
- [43]1年間の土地購入990億円・販売725億円
- [44]土地販売の粗利益率 売上の10.1%
- [45]積水ハウス社長の田鍋健氏による発言
- [47]都市部の住宅購入希望者の約半分が買い換え需要
- [48]1979年1月期 売上高3,040億円
- [49]1979年1月期 経常利益207億円
- [50]1964年以来15年連続の増収増益
- [51]大成建設の経常利益は1978年3月期110億円
- [52]鹿島建設の経常利益 265億円
- [53]積水ハウス社長の田鍋健氏による発言
- [54]大手ゼネコンを下請けに使ったマンションの建設・販売
- [55]積極経営で自己資本比率と売上高純金利負担率が悪化
- [56]全住宅産業に占めるシェアは2%程度
- [57]積水ハウス社長の田鍋健氏によるシェア目標に関する発言
- [58]北海道・東北への営業所展開と関連業界への進出が次の課題
- 積水ハウス 有価証券報告書【沿革】
- [46]1976年3月 中古住宅仲介の積和不動産を大阪に設立
「家のデパート」── 高級化路線の完成と事業領域の拡大
1970年代後半、積水ハウスは鉄骨系から出発した商品を木質系・コンクリート系・ツーバイフォー工法、さらに一般の注文住宅まで広げた[59]。売上の9割はなお鉄骨系だった[60]が、品ぞろえの厚みは「プレハブのワクを越えた家のデパート化」と業界で呼ばれ[61]、消費者の嗜好の多様化に対応する需要発掘を側面から支えた。1戸あたりのプレハブ化率をあえて引き下げ[62]、コスト上昇を承知で自由な設計と間取りを選べるようにした。1971年3月の寄棟型「K型」、同年7月の連棟式テラスハウス「テラス10」、1972年10月の枠組壁工法「M型」[63]と続いた高級タイプの系譜は、1984年発売の高級住宅「イズシリーズ」[64]へ受け継がれ、イズシリーズはプレハブ住宅のイメージを大きく塗り替えた[65]。
- 日経ビジネス 1979年3月19日号
- [59]鉄骨系から木質系・コンクリート系・ツーバイフォー・注文住宅へ商品を拡大
- [60]売上の9割は鉄骨系
- [61]業界で「家のデパート化」と呼ばれた品ぞろえ
- [62]プレハブ化率を下げて自由な設計・間取りを可能にした
- 日本会社史総覧(1995年、東洋経済新報社)「積水ハウス」の項
- [63]K型・テラス10・M型の発売
- [64]1984年 高級住宅「イズシリーズ」を発売
- [65]イズシリーズがプレハブ住宅のイメージを塗り替えた
1977年3月、大阪市西区で大規模マンション「グランドメゾン長堀」を分譲して都市開発事業に参入[66]し、以後は各地で分譲マンションを供給した。その集大成が神戸市の事業コンペ「六甲アイランドCITY」第1期都市開発事業[67]で、第1期部分だけで事業費は3,000億円に達した[68]。海外では1971年7月にオランダのシステム・バウ社の株式51.9%を取得[69]してセキスイ・システム・バウ社と改称し、西ドイツを中心に住宅販売を始めた[70]。ただし物流コストなどの事情から住宅建築そのものは撤退し[71]、ドイツでの不動産仲介・賃貸へ切り替えた。1987年には北米の豊富な木材資源と木材加工技術の確保を狙って米国積水ハウスをワシントン州に設立[72]し、自社使用木材の2次加工品の供給を始めた[73]。
- 日本会社史総覧(1995年、東洋経済新報社)「積水ハウス」の項
- [66]1977年3月 グランドメゾン長堀を分譲し都市開発事業へ参入
- [67]神戸市「六甲アイランドCITY」第1期都市開発事業
- [68]六甲アイランドCITY第1期の事業費 3,000億円
- [69]1971年7月 オランダのシステム・バウ社の株式51.9%を取得
- [70]セキスイ・システム・バウ社と改称し西ドイツ中心に住宅販売を開始
- [71]物流コスト等で住宅建築から撤退し不動産仲介・賃貸へ転換
- [72]1987年 米国積水ハウスをワシントン州に設立
- [73]自社使用木材の2次加工品の供給を開始
- 日経ビジネス 1979年3月19日号
- [59]鉄骨系から木質系・コンクリート系・ツーバイフォー・注文住宅へ商品を拡大
- [60]売上の9割は鉄骨系
- [61]業界で「家のデパート化」と呼ばれた品ぞろえ
- [62]プレハブ化率を下げて自由な設計・間取りを可能にした
- 日本会社史総覧(1995年、東洋経済新報社)「積水ハウス」の項
- [63]K型・テラス10・M型の発売
- [64]1984年 高級住宅「イズシリーズ」を発売
- [65]イズシリーズがプレハブ住宅のイメージを塗り替えた
- [66]1977年3月 グランドメゾン長堀を分譲し都市開発事業へ参入
- [67]神戸市「六甲アイランドCITY」第1期都市開発事業
- [68]六甲アイランドCITY第1期の事業費 3,000億円
- [69]1971年7月 オランダのシステム・バウ社の株式51.9%を取得
- [70]セキスイ・システム・バウ社と改称し西ドイツ中心に住宅販売を開始
- [71]物流コスト等で住宅建築から撤退し不動産仲介・賃貸へ転換
- [72]1987年 米国積水ハウスをワシントン州に設立
- [73]自社使用木材の2次加工品の供給を開始