大和ハウス工業 の歴史

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創業 1955年
創業者 石橋信夫
創業地 大阪市
創業 1955年4月、石橋信夫氏が18人の仲間と大阪で大和ハウス工業を創業した。創業商
1955年4月、石橋信夫氏が18人の仲間と大阪で大和ハウス工業を創業した。創業商品のパイプハウスは木材ではなく鋼管を構造材に使う建築で、戦争中の乱伐で木材が不足する一方、復員兵と引き揚げ者が簡単に建つ住宅を求めていた事情に合った。1957年4月には我が国初の鋼管構造建築として構造認定書を取得している。1959年10月に発売したミゼットハウスは約11万円・3時間で建つ手軽さで広まり、同月に東京・大阪の店頭で株式を公開、1961年に大阪・東京両証券取引所へ上場した。1961年6月には富士製鉄・野村証券・小野田セメントと4社で大和団地を設立し、宅地の造成と分譲を本体の外へ置く。工業化住宅を量産する本体と土地を仕込む別法人は、2001年の合併まで40年並走した。
決断 住宅を売るために集めた土地の情報を、住宅以外の建物へ移してきた。1976年、大和
住宅を売るために集めた土地の情報を、住宅以外の建物へ移してきた。1976年、大和ハウス工業は遊休地の地主と出店企業を結ぶ流通店舗事業へ参入した。1990年6月に始めたコンベンションは、地主を集めて初日に相続税と土地税制の講演を当て、翌日に出店希望のテナントを引き合わせる催しで、流通店舗事業部の売上高は1990年3月期の725億円から翌期に1,300億円へ倍増した。同じ多角化でも1985年からの5年でホテルを全国15カ所へ開いたほうは、高級リゾートか大衆観光ホテルかの区別を欠いたまま客室を4,772室へ増やしている。バブル期のワラント債と転換社債は1994年3月期に有利子負債3,877億円まで積み上がり、2000年度から有利子負債ゼロを経営目標に掲げた。2003年に始めた大型物流施設の開発が、流通店舗で覚えた地主とテナントの引き合わせを物流へ移し、現在の事業施設セグメントを生んだ。
現況 5兆円の売上を6つの事業が分け合い、単独で3割を超える事業は無い。2026年3月
5兆円の売上を6つの事業が分け合い、単独で3割を超える事業は無い。2026年3月期の連結売上高は5兆5,769億円、営業利益6,149億円、当期純利益3,506億円で、いずれも過去最高である。セグメント別の売上は賃貸住宅1兆4,261億円、戸建住宅1兆3,348億円、商業施設1兆2,831億円、事業施設1兆1,462億円と続き、利益が最も大きいのは商業施設の1,625億円、次いで戸建住宅の1,557億円である。戸建住宅には2017年以降に傘下へ入れた米国の3社が入り、米国の売上は8,063億円と全体の14.5%になった。2025年4月に7事業本部を住宅系・非住宅系の2大本部へ改め、同年11月には4,600億円で米IESを買収してデータセンター建設を垂直統合し、開発から設備工事までを自社に抱える構成へ広げた。
競合 現在の競争相手は住宅メーカーではなく、開発から施工まで持つ事業者である。積水ハウ
現在の競争相手は住宅メーカーではなく、開発から施工まで持つ事業者である。積水ハウスは石油危機で細った需要に対し自社ローンと売り建てで需要を掘り起こし、住宅の中で単価と付帯サービスを増やす道を通って、現在の売上高は4兆1,979億円である。大和ハウス工業は住宅の外へ出て、商業施設と事業施設だけで売上の43.6%にあたる2兆4,293億円を占める。賃貸住宅の管理と請負で継続収入を積む大東建託とも、扱う建物の種類が違う。2013年にフジタを買収して総合建設会社の施工機能を内製化し、2025年には米国の電気設備工事会社を取得してデータセンターの電源工事まで抱えた。競争は住宅の性能ではなく、地主と出店企業を結ぶ土地情報と、企画から設備工事までを自社で担える範囲で起きている。
長期業績の推移 1956〜2026年
大和ハウス工業:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
1997年3月期〜2026年3月期

第1章 1955年〜 「建築の工業化」への挑戦と新事業への布石

1955年〜木が足りないなら鉄を使う ── 鋼管構造という創業の決断

1955年4月、石橋信夫氏は18人の仲間と大和ハウス工業を創業した。石橋氏は敗戦後にシベリアへ送られ、3年間の抑留生活のなかで、太陽の見えない大森林の伐採作業に隊員が次々と倒れる現場を見た。戦時中の乱伐で木材が足りなくなっていた一方で、復員兵や引き揚げ者の多くは手軽に建つ住まいを求めていた。創業商品"パイプハウス"は、骨組みを木材でなく鋼管で組む建築で、石橋氏はその着想の出どころを『丸太は空洞ではない。それならパイプだ、鉄パイプで家を造ったらいいと閃いた』と振り返っている。1957年4月、我が国初の鋼管構造建築として構造認定書が下り、工法に公の裏づけが付いた。『負ければ守るべき人を守れない』『負けぬため全力を尽くして生きる』(日経ビジネス 1986/4/14)という覚悟は、先に見た体験に根ざすものだった。

  • 大和ハウス工業 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1955年4月 大和ハウス工業株式会社を創業
    • [6]1955年4月 創業商品「パイプハウス」を発売、鋼管(パイプ)構造による建築
    • [8]1957年4月 我が国初の鋼管構造建築として日本軽量鉄骨建築協会より構造認定書を取得
  • 日経ビジネス 1986年4月14日号
    • [2]設立時のメンバーは石橋信夫氏を含め18人、俗に「大和ハウス18人衆」
    • [3]石橋信夫氏 敗戦後にシベリアへ送られ3年間の抑留生活
    • [4]シベリア抑留中 昼も太陽が見えない大森林の伐採作業で寒さと空腹により隊員が次々と倒れた
    • [9]石橋信夫氏の信念「負けてはいけない」「負ければ守るべき人を守れない」「負けぬため全力を尽くして生きる」
  • 日経ビジネス 1984年3月5日号
    • [5]戦争中の乱伐による木材不足と、大量の復員兵・引き揚げ者による簡易住宅の需要
  • 不撓不屈の日々 1992
    • [7]石橋信夫氏 丸太が空洞でないことから鉄パイプで家を造る着想を得た

1959年10月に発売した"ミゼットハウス"は、第1次ベビーブームによる住宅不足の解消をねらった。子どもたちの声をヒントに開発したプレハブ住宅の原点である。価格は約11万円、3時間で建つ家という手軽さが評判を呼んだ。滋賀県栗東では、1週間前まで野原だった土地に13戸の文化住宅が並び、工場で造った住宅を運んで据える速さに近隣の農家が驚いた。1962年4月には量産型プレハブ"ダイワハウスA型"を発売し、1965年3月には初のプレハブ住宅専門工場となる奈良工場を開設した。1968年に考案した住宅設計の半自動化システムは、コンピューターに入力したデザインを6年間変えなかったために売れ行きを落とした。この失敗を受けて石橋氏は『新商品は2年たったら墓場へ送る』(日経ビジネス 1984/3/5)を社内のルールに定めた。

  • 大和ハウス工業 有価証券報告書【沿革】
    • [10]1959年10月 「ミゼットハウス」を発売
    • [11]ミゼットハウスの開発目的 第1次ベビーブームによる住宅不足の解消
    • [12]ミゼットハウス 子どもたちの声をヒントに開発したプレハブ住宅の原点
    • [13]ミゼットハウス 3時間で建つ家として開発
    • [16]1962年4月 プレハブ住宅「ダイワハウスA型」を発売
    • [17]1965年3月 奈良工場(初のプレハブ住宅専門工場)を開設
  • 読売新聞 1961年2月1日
    • [14]滋賀県栗東 1週間前まで野原だった土地に13戸の文化住宅
    • [15]住宅をそっくり工場でつくって現地へ運ぶ建築の速さに近隣の農家が驚いた
  • 日経ビジネス 1984年3月5日号
    • [18]1968年(昭和43年) 住宅設計をコンピューターで半自動化するシステムを考案、一軒20分で設計完了
    • [19]顧客の好みの変化を無視しコンピューターのデザインを6年間据え置いたため売れ行きが落ちた
    • [20]石橋信夫氏 住宅設計の失敗後に「新商品は2年たったら墓場へ送る」を社内ルールとして定着

工業化住宅が価格で通ったのは、建材ではなく人件費の差による。大工の1日あたりの賃金は、東京オリンピック前の約1,800円が開催後に2,800円へ上がった。1968年2月には3,500円となり、万国博を控えて6,000〜7,000円という声も出ていた。20〜30坪の小住宅を在来工法で建てれば4〜6カ月を要し、大工の延べ人数は180人に達した。プレハブなら工期20日、延べ60人で仕上がる。1967年度のプレハブ化率は4.8%で、フランスの33%に遠く及ばない。石橋氏は『われわれには、顧客の好みによるオーダーメードの住宅はできない。レディーメードでしかできないのである』とし、注文生産を捨てて規格の量産へ経営資源を集中した。売上高は1963年3月期の107億9,200万円から、1968年3月期には143億円へ伸びる見通しとなった。

  • 証券アナリストジャーナル 1968年3月号
    • [21]大工の1日当り賃金 東京オリンピック開催前約1,800円、開催後2,800円、1968年2月時点3,500円、万国博を控え6,000〜7,000円の声
    • [22]大工の1日当り賃金 東京オリンピック開催前約1,800円、開催後2,800円、1968年2月時点3,500円、万国博を控え6,000〜7,000円の声
    • [23]20〜30坪の小住宅 従来の建築方法では工期4〜6カ月・大工の延人数180人
    • [24]同じ小住宅 プレハブでは工期20日間・延人数60人で完成
    • [25]日本のプレハブ化率 1967年度4.8%、フランス33%、先進10カ国で最低のイタリアでも10%
    • [26]石橋信夫氏 顧客の好みによるオーダーメードの住宅はできずレディーメードでしかできないと述べた
    • [28]1968年3月期 売上高143億円・利益8億5,000万円の見通し
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版
    • [27]1963年3月期 売上高107.92億円(単体)
参考文献[1]-[28]
  • 大和ハウス工業 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1955年4月 大和ハウス工業株式会社を創業
    • [6]1955年4月 創業商品「パイプハウス」を発売、鋼管(パイプ)構造による建築
    • [8]1957年4月 我が国初の鋼管構造建築として日本軽量鉄骨建築協会より構造認定書を取得
    • [10]1959年10月 「ミゼットハウス」を発売
    • [11]ミゼットハウスの開発目的 第1次ベビーブームによる住宅不足の解消
    • [12]ミゼットハウス 子どもたちの声をヒントに開発したプレハブ住宅の原点
    • [13]ミゼットハウス 3時間で建つ家として開発
    • [16]1962年4月 プレハブ住宅「ダイワハウスA型」を発売
    • [17]1965年3月 奈良工場(初のプレハブ住宅専門工場)を開設
  • 日経ビジネス 1986年4月14日号
    • [2]設立時のメンバーは石橋信夫氏を含め18人、俗に「大和ハウス18人衆」
    • [3]石橋信夫氏 敗戦後にシベリアへ送られ3年間の抑留生活
    • [4]シベリア抑留中 昼も太陽が見えない大森林の伐採作業で寒さと空腹により隊員が次々と倒れた
    • [9]石橋信夫氏の信念「負けてはいけない」「負ければ守るべき人を守れない」「負けぬため全力を尽くして生きる」
  • 日経ビジネス 1984年3月5日号
    • [5]戦争中の乱伐による木材不足と、大量の復員兵・引き揚げ者による簡易住宅の需要
    • [18]1968年(昭和43年) 住宅設計をコンピューターで半自動化するシステムを考案、一軒20分で設計完了
    • [19]顧客の好みの変化を無視しコンピューターのデザインを6年間据え置いたため売れ行きが落ちた
    • [20]石橋信夫氏 住宅設計の失敗後に「新商品は2年たったら墓場へ送る」を社内ルールとして定着
  • 不撓不屈の日々 1992
    • [7]石橋信夫氏 丸太が空洞でないことから鉄パイプで家を造る着想を得た
  • 読売新聞 1961年2月1日
    • [14]滋賀県栗東 1週間前まで野原だった土地に13戸の文化住宅
    • [15]住宅をそっくり工場でつくって現地へ運ぶ建築の速さに近隣の農家が驚いた
  • 証券アナリストジャーナル 1968年3月号
    • [21]大工の1日当り賃金 東京オリンピック開催前約1,800円、開催後2,800円、1968年2月時点3,500円、万国博を控え6,000〜7,000円の声
    • [22]大工の1日当り賃金 東京オリンピック開催前約1,800円、開催後2,800円、1968年2月時点3,500円、万国博を控え6,000〜7,000円の声
    • [23]20〜30坪の小住宅 従来の建築方法では工期4〜6カ月・大工の延人数180人
    • [24]同じ小住宅 プレハブでは工期20日間・延人数60人で完成
    • [25]日本のプレハブ化率 1967年度4.8%、フランス33%、先進10カ国で最低のイタリアでも10%
    • [26]石橋信夫氏 顧客の好みによるオーダーメードの住宅はできずレディーメードでしかできないと述べた
    • [28]1968年3月期 売上高143億円・利益8億5,000万円の見通し
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版
    • [27]1963年3月期 売上高107.92億円(単体)

1964年〜上場6年で得た資金力をしのぐ、資金停止が残した借金嫌い

1959年10月に東京・大阪の店頭承認銘柄として株式を公開し、1961年9月に大阪証券取引所、翌10月に東京証券取引所へ上場した。創業から6年での上場で得た資金は、1965年の奈良工場や1973年11月の奈良中央試験所といった生産・研究設備へ向かった。1961年6月、富士製鉄・野村証券・小野田セメント・大和ハウス工業の4社が資本金1億円を共同出資した。宅地造成と分譲を担う大和団地の設立である。大和団地は羽曳野ネオポリスを皮切りに大阪地区で7つのネオポリスを開発し、1975年時点の総開発面積は840万平方メートルに達した。工業化住宅を量産する本体と土地を仕込む別法人を並走させる体制は、2001年4月の合併まで40年続いた。

  • 大和ハウス工業 有価証券報告書【沿革】
    • [29]1959年10月 東京・大阪市場の店頭承認銘柄として株式公開
    • [30]1961年9月 大阪証券取引所市場に株式上場、1961年10月 東京証券取引所市場に株式上場
    • [31]1955年4月の創業から1961年9月の上場まで6年
    • [32]1973年11月 奈良中央試験所を開設
    • [33]1961年6月 大和団地株式会社を設立
    • [34]1961年6月 大和団地株式会社を設立
    • [37]1961年6月の大和団地設立から2001年4月の合併まで約40年
  • 日本企業要覧 1975年版
    • [35]大和団地 羽曳野ネオポリスを皮切りに大阪地区で7つのネオポリスを開発
    • [36]大和団地 1975年時点の総開発面積840万平方メートル

企業の倒産が続き、山一証券が初めて経営危機に陥った1964年は、大和ハウスにとって創業10年目にあたる。この深刻な不況下の株式市場では、実態とはかけ離れたものながら、同社の経営が危ないという噂が流れた。都市銀行の多くが資金を止め、融資をつないだのは南都銀行や常陽銀行など一部の地方銀行だけだったという経験から、石橋信夫氏は以後、借り入れに頼らずに会社を回すことを旨とした。有利子負債が最も膨らんだ1994年3月期ですら、そのうち借入金は1割未満で、残りを社債と転換社債が埋めていた。創業者の"借金はあかん"(日経ビジネス 2002/8/5)という言葉は、代々の社長に手を加えられないまま受け継がれた。

  • 日経ビジネス 2002年8月5日号
    • [38]1964年 企業の経営破綻が相次ぎ山一証券が最初の経営危機に見舞われた
    • [39]創業10年目の1964年 深刻な不況下で株式市場に大和ハウスの経営不安がささやかれた
    • [41]南都銀行・常陽銀行など一部の地方銀行を除き多くの都市銀行が資金供給を停止
    • [42]1964年の資金調達難を境に石橋信夫氏は借入金に依存しない経営を心がけた
    • [43]有利子負債ピークの1994年3月期でも借入金の比率は1割未満で残りは社債・転換社債
    • [44]石橋信夫氏の信念「借金はあかん」を歴代の社長が継承
  • 読売新聞 1964年12月1日
    • [40]1964年12月時点 大和ハウスの資金計画は苦しく、プレハブ建築のトップメーカーが足踏みしていると伝えられた

資金の裏づけを外に求めない方針は、配当政策にも表れた。1950年代には資本調達の必要から2割配当を堅持していた。1960年代の前半は内部留保へ充当する方針に改め、1968年3月期の配当は1割2分に据え置いた。1967年9月期末の内部留保の累積額は17億円で、当期にさらに5〜6億円を積み増す計画だった。資本金28億円を倍額増資できる水準に達した時点で増資と増配を考える含みである。積んだ資金が向かったのは生産の能力である。当時の月産能力は500棟、建設中の竜ケ崎工場が完成すれば1,000棟となり、長期には月産4,000棟を目標に置いた。1971年3月期の売上高は966億円、経常利益は128億円に達した。

  • 証券アナリストジャーナル 1968年3月号
    • [45]石橋信夫氏 昭和30年代は資本調達の必要から2割配当を堅持、昭和40年代前半は内部留保に努める方針
    • [46]石橋信夫氏 昭和30年代は資本調達の必要から2割配当を堅持、昭和40年代前半は内部留保に努める方針
    • [47]1968年3月期の配当 1割2分を継続
    • [48]1967年9月期末の内部留保の累積額 17億円
    • [49]1968年3月期に内部留保を5〜6億円積み増す計画
    • [50]資本金28億円を倍額増資できる水準に達した時点で増資・増配を検討する含み
    • [51]1968年2月時点の月産能力500棟、建設中の竜ケ崎工場の完成で月産1,000棟
    • [52]長期目標 竜ケ崎工場2,500棟・奈良工場1,500棟の月産4,000棟
  • 会社年鑑 1976年版
    • [53]1971年3月期 売上高966億円・経常利益128億円(単体)
参考文献[29]-[53]
  • 大和ハウス工業 有価証券報告書【沿革】
    • [29]1959年10月 東京・大阪市場の店頭承認銘柄として株式公開
    • [30]1961年9月 大阪証券取引所市場に株式上場、1961年10月 東京証券取引所市場に株式上場
    • [31]1955年4月の創業から1961年9月の上場まで6年
    • [32]1973年11月 奈良中央試験所を開設
    • [33]1961年6月 大和団地株式会社を設立
    • [34]1961年6月 大和団地株式会社を設立
    • [37]1961年6月の大和団地設立から2001年4月の合併まで約40年
  • 日本企業要覧 1975年版
    • [35]大和団地 羽曳野ネオポリスを皮切りに大阪地区で7つのネオポリスを開発
    • [36]大和団地 1975年時点の総開発面積840万平方メートル
  • 日経ビジネス 2002年8月5日号
    • [38]1964年 企業の経営破綻が相次ぎ山一証券が最初の経営危機に見舞われた
    • [39]創業10年目の1964年 深刻な不況下で株式市場に大和ハウスの経営不安がささやかれた
    • [41]南都銀行・常陽銀行など一部の地方銀行を除き多くの都市銀行が資金供給を停止
    • [42]1964年の資金調達難を境に石橋信夫氏は借入金に依存しない経営を心がけた
    • [43]有利子負債ピークの1994年3月期でも借入金の比率は1割未満で残りは社債・転換社債
    • [44]石橋信夫氏の信念「借金はあかん」を歴代の社長が継承
  • 読売新聞 1964年12月1日
    • [40]1964年12月時点 大和ハウスの資金計画は苦しく、プレハブ建築のトップメーカーが足踏みしていると伝えられた
  • 証券アナリストジャーナル 1968年3月号
    • [45]石橋信夫氏 昭和30年代は資本調達の必要から2割配当を堅持、昭和40年代前半は内部留保に努める方針
    • [46]石橋信夫氏 昭和30年代は資本調達の必要から2割配当を堅持、昭和40年代前半は内部留保に努める方針
    • [47]1968年3月期の配当 1割2分を継続
    • [48]1967年9月期末の内部留保の累積額 17億円
    • [49]1968年3月期に内部留保を5〜6億円積み増す計画
    • [50]資本金28億円を倍額増資できる水準に達した時点で増資・増配を検討する含み
    • [51]1968年2月時点の月産能力500棟、建設中の竜ケ崎工場の完成で月産1,000棟
    • [52]長期目標 竜ケ崎工場2,500棟・奈良工場1,500棟の月産4,000棟
  • 会社年鑑 1976年版
    • [53]1971年3月期 売上高966億円・経常利益128億円(単体)

1976年〜遊休地という社会資源を企業価値に変えるマッチング事業

土地を仲立ちする発想は、土地を数えることから出ている。1976年8月の時点で、国土3,724万ヘクタールのうち法人の所有はわずか4%だった。資本金1億円以上の企業が持つ土地は72万ヘクタールにとどまる。そのうち事業に使われている土地が88%を占め、棚卸資産として抱える土地は9万ヘクタールにすぎない。未利用地は57%あるが、1区画70〜80坪の宅地に割っても150万戸分にしかならない。石橋氏はこの数字を『今後の当社の経営を考える上で重要なデータ』と位置づけた。企業が土地を買い占めても宅地の供給には足りず、動かすべきは他人の遊休地である。1968年の時点でも石橋氏は、遊休地の固定資産税に累進税率を適用して宅地の供給量を増やす手を説いていた。

  • 証券アナリストジャーナル 1976年9月号
    • [54]国土3,724万ヘクタールの所有形態 個人71%・国有公有25%・法人4%、資本金1億円以上の大企業の所有地は72万ヘクタール
    • [55]国土3,724万ヘクタールの所有形態 個人71%・国有公有25%・法人4%、資本金1億円以上の大企業の所有地は72万ヘクタール
    • [56]大企業所有地のうち事業用資産土地63万ヘクタール(88%)、棚卸資産として所有する土地9万ヘクタール(12%)
    • [57]棚卸資産土地9万ヘクタールの未利用地は57%、1区画70〜80坪の宅地にしても150万戸分
    • [58]石橋信夫氏 この土地のデータを今後の経営を考える上で重要と位置づけた
  • 証券アナリストジャーナル 1968年3月号
    • [59]石橋信夫氏 1968年2月 遊休地の固定資産税に累進税率を適用して宅地の供給量を増やす方法を提起

1976年、大和ハウスは住宅事業で蓄えた土地情報と施工力を流通店舗事業へ振り向けた。ロードサイドの遊休地を持つ地主と出店を望むテナント企業を引き合わせ、店舗の設計から施工までを一貫して請け負う仕組みである。下地には土地を第一に据える創業者の商法があった。家を買いたい人のうち土地を持つのは約1割にすぎず、プレハブ販売には土地開発が伴った『家を買いたいといっている人で土地をもっておられるのは約1割、他の9割は土地がないのですから、プレハブの販売にはやはり土地開発が伴わなければダメだ』(週刊東洋経済 1970/4/11)。工場で建物と機械を下請け業者に貸し付け、自らは生産の管理に回る商社的な運営も、この時期には定着していた。1977年に流通店舗事業部を設置し、プレハブでも窓を大きく取れる独自工法を開発したため、ほかのプレハブ大手と競合の少ない領域を確保した。

  • 大和ハウス工業 有価証券報告書【沿革】
    • [60]1976年 流通店舗事業の開始
    • [61]流通店舗事業 ロードサイドの遊休土地オーナーと出店希望のテナント企業をマッチング
  • 日経ビジネス 1991年9月30日号
    • [62]成約すればテナントの店舗を詳細設計から建設・施工まで一貫受注
    • [66]1977年 流通店舗事業部を設置
    • [67]プレハブでも窓を大きく取れる独自工法によりほかのプレハブ大手との競合がほとんど無かった
  • 週刊東洋経済 1972年2月19日号
    • [63]石橋商法の本質は第一に土地が基本にあり、第二に商社的経営法にある
    • [65]大和ハウスの生産方式 工場で建物と機械を下請け業者に貸し付け、同社は生産の管理のみを担う
  • 週刊東洋経済 1970年4月11日号
    • [64]石橋信夫氏 家を買いたい人のうち土地を持つのは約1割、プレハブ販売には土地開発が伴う必要

受注を効率よく集める仕掛けが、1990年6月に始めた"コンベンション"である。地主を集めた会場では、初日を相続税や土地税制の講演に充て、翌日に出店希望のテナントを引き合わせた。全国のオーナー会員は約2,500人、登録した土地情報は1万件を上回り、テナント会に加わる企業は120社に及んだ。靴・玩具販売のチョダは975店のうち約7割を大和ハウスが手がけ、日本トイザラスには50店舗分の土地を紹介して工事を請け負った。流通店舗事業部の売上高は1990年3月期の725億円から1991年3月期に1,300億円へ倍増した。全社に占める事業部の比率も1985年度の9%から1990年度の16%へ上がり、非住宅部門は全体のほぼ半分に達した。当時副社長の石橋伸康氏は『この成長に最も寄与したのはコンベンション。10年後には現在の3倍、3,700億円を達成する』と述べた。

  • 日経ビジネス 1991年9月30日号
    • [68]1990年6月 第1回オーナーズコンベンションを開催、以後は年に2〜3回開催
    • [69]コンベンションは2日間の日程で1日目を土地・税制の講演会に充てた
    • [70]オーナー会 会員数は全国で約2,500人、登録土地情報は1万件超
    • [71]テナント会 会員企業120社
    • [72]チョダ 975店のうち約7割を大和ハウスが施工
    • [73]日本トイザラス 50店舗分の土地を紹介し工事の受注が決定
    • [74]流通店舗事業部の売上高 1990年3月期725億円→1991年3月期1,300億円
    • [75]流通店舗事業部の売上比率 1985年度9%→1990年度16%
    • [76]非住宅部門の比率が全社のほぼ半分へ上昇
    • [77]石橋伸康副社長 コンベンションが成長に最も寄与、10年後に現在の3倍の3,700億円を目標
参考文献[54]-[77]
  • 証券アナリストジャーナル 1976年9月号
    • [54]国土3,724万ヘクタールの所有形態 個人71%・国有公有25%・法人4%、資本金1億円以上の大企業の所有地は72万ヘクタール
    • [55]国土3,724万ヘクタールの所有形態 個人71%・国有公有25%・法人4%、資本金1億円以上の大企業の所有地は72万ヘクタール
    • [56]大企業所有地のうち事業用資産土地63万ヘクタール(88%)、棚卸資産として所有する土地9万ヘクタール(12%)
    • [57]棚卸資産土地9万ヘクタールの未利用地は57%、1区画70〜80坪の宅地にしても150万戸分
    • [58]石橋信夫氏 この土地のデータを今後の経営を考える上で重要と位置づけた
  • 証券アナリストジャーナル 1968年3月号
    • [59]石橋信夫氏 1968年2月 遊休地の固定資産税に累進税率を適用して宅地の供給量を増やす方法を提起
  • 大和ハウス工業 有価証券報告書【沿革】
    • [60]1976年 流通店舗事業の開始
    • [61]流通店舗事業 ロードサイドの遊休土地オーナーと出店希望のテナント企業をマッチング
  • 日経ビジネス 1991年9月30日号
    • [62]成約すればテナントの店舗を詳細設計から建設・施工まで一貫受注
    • [66]1977年 流通店舗事業部を設置
    • [67]プレハブでも窓を大きく取れる独自工法によりほかのプレハブ大手との競合がほとんど無かった
    • [68]1990年6月 第1回オーナーズコンベンションを開催、以後は年に2〜3回開催
    • [69]コンベンションは2日間の日程で1日目を土地・税制の講演会に充てた
    • [70]オーナー会 会員数は全国で約2,500人、登録土地情報は1万件超
    • [71]テナント会 会員企業120社
    • [72]チョダ 975店のうち約7割を大和ハウスが施工
    • [73]日本トイザラス 50店舗分の土地を紹介し工事の受注が決定
    • [74]流通店舗事業部の売上高 1990年3月期725億円→1991年3月期1,300億円
    • [75]流通店舗事業部の売上比率 1985年度9%→1990年度16%
    • [76]非住宅部門の比率が全社のほぼ半分へ上昇
    • [77]石橋伸康副社長 コンベンションが成長に最も寄与、10年後に現在の3倍の3,700億円を目標
  • 週刊東洋経済 1972年2月19日号
    • [63]石橋商法の本質は第一に土地が基本にあり、第二に商社的経営法にある
    • [65]大和ハウスの生産方式 工場で建物と機械を下請け業者に貸し付け、同社は生産の管理のみを担う
  • 週刊東洋経済 1970年4月11日号
    • [64]石橋信夫氏 家を買いたい人のうち土地を持つのは約1割、プレハブ販売には土地開発が伴う必要

第2章 1977年〜 土地を軸にした非住宅への多角化ネオポリスの開発力によるロイヤルホテル8棟の開業

1977年〜量的に満たされた住宅市場と、新築の外へ出た店舗事業部

第1次石油危機のあと、住宅は数の上で満たされた。1973年の住宅統計調査では世帯数2,910万に対し住宅数は3,006万戸で、すでに196万戸を上回っていた。空家率は1973年の5.5%から1976年には約6.8%へ上がり、先進12カ国の7〜8%に近づいた。石橋信夫氏は1976年8月、木材資源と土地の供給力からみて年間の住宅建築は150万戸前後が限界とみていた。政府の五カ年計画が求める年平均170〜180万戸は実現できないという見立てである。収益の低下は、市場の頭打ちより先に始まっていた。1974年3月期に148億円だった経常利益は、1978年3月期に62億円、1979年3月期には55億円まで下がっている。売上高が1,584億円から1,772億円へ動く間に、利益は3分の1へ縮んだ。

  • 証券アナリストジャーナル 1976年9月号
    • [78]1973年 住宅統計調査 世帯数2,910万世帯に対し住宅数3,006万戸で196万戸の超過
    • [79]空家率 1973年調査5.5%、1976年時点で約6.8%、先進12カ国は7〜8%
    • [80]石橋信夫氏 1976年8月 年間住宅建築は150万戸前後が限界で住宅建設五カ年計画(年平均170〜180万戸)の完全実施は不可能との見方
    • [81]石橋信夫氏 1976年8月 年間住宅建築は150万戸前後が限界で住宅建設五カ年計画(年平均170〜180万戸)の完全実施は不可能との見方
  • 会社年鑑 1976年版
    • [82]1974年3月期 売上高1,584億円・経常利益148億円(単体)
  • 会社年鑑
    • [83]1978年3月期 経常利益62億円、1979年3月期 売上高1,772億円・経常利益55億円(単体)

石橋信夫氏がまず動かしたのは売り方だった。事業の性格上、代理店を通す販売では顧客の多様な要求に細かく応じられないとして、各県1〜2社へ代理店を集約し、直販の体制へ切り替えた。1976年8月の時点で、大阪の本社のもとに1支社24支店23営業所72出張所13工場を置いた。大都市への人口集中は1973年から1974年にかけて止まり、地方の中都市へ逆流が始まったとの見立てから、5〜10万人規模の地方都市のうち残るところにも営業所や出張所を新しく置く方針を採った。大規模な住宅団地の開発はそれまでに43か所を数え、これを足がかりに福岡・広島・岡山・三重・石川・宮城・群馬の各県で造成を進めた。人員は従業員5,500名、関係会社を含めれば8,600名となっていた。直販に切り替えた1977年3月期には、売上高が前期の1,505億円から3割増えて1,961億円に達した。

  • 証券アナリストジャーナル 1976年9月号
    • [84]代理店販売では顧客の多種多様な要求に対応しにくいとして代理店を1県1〜2社に集約し直販体制を強化
    • [85]1976年8月時点の拠点 大阪の本社のほか1支社24支店23営業所72出張所13工場
    • [86]1973年から1974年にかけて人口の大都市集中が止まり地方の中都市へ逆流を開始
    • [87]残された地方の5〜10万都市に営業所・出張所を新設する方針
    • [88]43の大規模住宅団地の開発実績を背景に福岡・広島・岡山・三重・石川・宮城・群馬の各県で大規模団地の造成を推進
    • [89]1976年8月時点の従業員5,500名、本社と関係会社を合わせて8,600名
  • 会社年鑑
    • [90]1976年3月期 売上高1,505億円、1977年3月期 売上高1,961億円(単体)

1977年1月、平山修氏を中心に店舗事業部が発足した。営業所や販売店舗、配送センター、各種ストアの出店計画を持つ企業が増える一方で、遊休地の有効利用を求める土地所有者も増えていた。そこに着目し、全国の事業所網で適地を管理しながらテナント企業を開拓する。地主と企業の双方に利益をつくる仕組みである。翌1978年2月には日本住宅流通を設立し、建てた家が中古として市場に出る局面まで事業の範囲を広げた。同年4月には石川県の能登でリゾートホテルの経営を始めている。いずれも住宅を新しく建てて売る事業ではない。建てる力ではなく、土地と顧客の接点を持っていることのほうが元手になった。

  • 大和ハウス工業の30年 1985
    • [91]1977年1月 平山修を中心に店舗事業部が発足
    • [92]店舗事業部 出店計画を持つ企業の増加と遊休地の有効利用を求める土地所有者の増加に着目し、事業所ネットワークで適地を管理しテナント企業を開拓して地主と企業相互の利益をはかる
    • [93]店舗事業部 出店計画を持つ企業の増加と遊休地の有効利用を求める土地所有者の増加に着目し、事業所ネットワークで適地を管理しテナント企業を開拓して地主と企業相互の利益をはかる
    • [94]店舗事業部 出店計画を持つ企業の増加と遊休地の有効利用を求める土地所有者の増加に着目し、事業所ネットワークで適地を管理しテナント企業を開拓して地主と企業相互の利益をはかる
  • 大和ハウス工業 有価証券報告書【沿革】
    • [95]1978年2月 日本住宅流通を設立
    • [96]1978年4月 リゾートホテル経営を開始
参考文献[78]-[96]
  • 証券アナリストジャーナル 1976年9月号
    • [78]1973年 住宅統計調査 世帯数2,910万世帯に対し住宅数3,006万戸で196万戸の超過
    • [79]空家率 1973年調査5.5%、1976年時点で約6.8%、先進12カ国は7〜8%
    • [80]石橋信夫氏 1976年8月 年間住宅建築は150万戸前後が限界で住宅建設五カ年計画(年平均170〜180万戸)の完全実施は不可能との見方
    • [81]石橋信夫氏 1976年8月 年間住宅建築は150万戸前後が限界で住宅建設五カ年計画(年平均170〜180万戸)の完全実施は不可能との見方
    • [84]代理店販売では顧客の多種多様な要求に対応しにくいとして代理店を1県1〜2社に集約し直販体制を強化
    • [85]1976年8月時点の拠点 大阪の本社のほか1支社24支店23営業所72出張所13工場
    • [86]1973年から1974年にかけて人口の大都市集中が止まり地方の中都市へ逆流を開始
    • [87]残された地方の5〜10万都市に営業所・出張所を新設する方針
    • [88]43の大規模住宅団地の開発実績を背景に福岡・広島・岡山・三重・石川・宮城・群馬の各県で大規模団地の造成を推進
    • [89]1976年8月時点の従業員5,500名、本社と関係会社を合わせて8,600名
  • 会社年鑑 1976年版
    • [82]1974年3月期 売上高1,584億円・経常利益148億円(単体)
  • 会社年鑑
    • [83]1978年3月期 経常利益62億円、1979年3月期 売上高1,772億円・経常利益55億円(単体)
    • [90]1976年3月期 売上高1,505億円、1977年3月期 売上高1,961億円(単体)
  • 大和ハウス工業の30年 1985
    • [91]1977年1月 平山修を中心に店舗事業部が発足
    • [92]店舗事業部 出店計画を持つ企業の増加と遊休地の有効利用を求める土地所有者の増加に着目し、事業所ネットワークで適地を管理しテナント企業を開拓して地主と企業相互の利益をはかる
    • [93]店舗事業部 出店計画を持つ企業の増加と遊休地の有効利用を求める土地所有者の増加に着目し、事業所ネットワークで適地を管理しテナント企業を開拓して地主と企業相互の利益をはかる
    • [94]店舗事業部 出店計画を持つ企業の増加と遊休地の有効利用を求める土地所有者の増加に着目し、事業所ネットワークで適地を管理しテナント企業を開拓して地主と企業相互の利益をはかる
  • 大和ハウス工業 有価証券報告書【沿革】
    • [95]1978年2月 日本住宅流通を設立
    • [96]1978年4月 リゾートホテル経営を開始

1980年〜石橋殾一社長による営業の評価軸の組み替えと、ホームセンター奈良店

1980年6月、創立25周年を機に石橋信夫氏は社長を石橋殾一氏へ譲り、自らは会長に就任した。石橋殾一氏は1927年5月に奈良県で生まれ、1947年3月に高知高等学校を出た。1958年7月、大和ハウス工業に入社した。それまでは郷里の中学校で約11年間、社会科を教えていた。入社後は九州工場長と社長室長を務めた。1966年5月に取締役経理部長となり、1968年に常務、1970年に専務、1976年に副社長と階段を上った。会長との間柄をたどると、石橋殾一氏の父親どうしがいとこにあたる。社長の座に就く際、石橋殾一氏は『創業以来25年も経てば、いろいろアカもたまるし、コケも生える。ただ、これは、私自身のアカであり、コケという感じで、反省している』と語った。ワンマンとして名の通った前任者が剛なら、こちらは柔だと評された。社内ではTQC運動を始めている。1980年3月期の売上高は1,827億円だった。

  • 日経ビジネス 1980年12月15日号
    • [97]1980年6月 創立25周年を機に石橋信夫社長から石橋殾一氏へ社長職を交代、石橋信夫氏は会長
    • [98]石橋殾一氏 1927年5月25日 奈良県生まれ
    • [99]石橋殾一氏 1947年3月高知高等学校卒業、同年4月から約11年間 奈良県の中学校で社会科の教員・教頭、1958年7月 大和ハウス工業入社
    • [100]石橋殾一氏 九州工場長・社長室長を経て1966年5月 取締役経理部長、1968年 常務、1970年 専務、1976年 副社長
    • [101]石橋信夫会長と石橋殾一氏の父親がいとこ同士
    • [102]石橋殾一氏の社長就任の弁 創業以来25年でアカもたまりコケも生えるが、それは自身のアカでありコケだと反省
    • [103]ワンマンで鳴らした石橋信夫前社長の剛に対し石橋殾一氏は柔と評された
    • [104]石橋殾一氏 社長就任後ただちに社内へTQC運動を導入
  • 会社年鑑
    • [105]1980年3月期 売上高1,827億円・経常利益69億円(単体)

石橋殾一氏がまず手を付けたのは、ノルマ至上主義に固まった営業の評価だった。1970年代に入って成長が鈍った原因の一つは、営業ノルマの厳しさという社風にあった。歩合給の比重を下げ、業績の評価を個人単位から営業所単位へ移した。ノルマを満たすため客先を夜に訪ねて判をもらう習いに対しては『夜訪なんかするな』と言い続けた。失敗への対処も部下自身に考えさせる方式へ改めた。上から下へ流れる動脈は速いが静脈が弱いとして、下からの声を取り込む意図があった。経常利益は1982年3月期に96億円、1983年3月期に127億円、1985年3月期には173億円となった。底だった1979年3月期の55億円から3倍を超えている。

  • 日経ビジネス 1986年9月29日号
    • [106]石橋殾一氏 1980年の社長就任後まずノルマ至上主義に固まった社員の意識の切り替えに着手
    • [107]大和ハウス工業 1970年代に入り成長が鈍化、営業ノルマの厳しい社風がその一因
    • [108]営業マンの歩合給のウエートを下げ、業績評価を個人単位から営業所単位へ移行
    • [109]石橋殾一氏 ノルマを満たすための夜間の訪問販売をやめるよう言い続けた
    • [110]石橋殾一氏 仕事の中味を知るのは部下だとして失敗への対処を自分で考えさせた
  • 日経ビジネス 1980年12月15日号
    • [111]石橋殾一氏 上から下へのルートは速いが静脈が弱いとして下意上達に配慮
  • 会社年鑑
    • [112]経常利益(単体) 1979年3月期55億円、1982年3月期96億円、1983年3月期127億円、1985年3月期173億円
    • [113]経常利益(単体) 1979年3月期55億円、1982年3月期96億円、1983年3月期127億円、1985年3月期173億円

1980年8月、奈良店がホームセンターの第1号として開店した。蓄えてきた家づくりの知識を生活の提案に使うという考えに立った。住宅関連商品と生活商品の供給、保守技術の提供、生活情報の提供を通じて、生活の改善に寄与する。日曜大工用品・カー用品・園芸・インテリア・レジャースポーツ用品・家電用品を並べた。佐賀・亀岡・岡山・橿原・泉ケ丘・三田・千葉・高槻・長久手と続き、1985年の時点で10店に達した。同じ1980年8月には、各研究開発部門を統合する総合技術研究所を設けている。1973年11月に奈良工場内へ完成した中央試験所は、建設省の工業化住宅性能認定制度の発足を受けたものである。実物大の住宅を持ち込む全天候性の環境装置を備えた。

  • 大和ハウス工業 有価証券報告書【沿革】
    • [114]1980年8月 ホームセンター事業に参入
  • 大和ハウス工業の30年 1985
    • [115]1980年8月 ホームセンター第一号店として奈良店が開店
    • [116]ホームセンター事業 家づくりのノウハウで生活指導を行い、住宅関連商品・生活商品の提供、メンテナンス技術の提供、生活関連情報の提供を通じて生活改善に寄与する構想
    • [117]ホームセンター事業 家づくりのノウハウで生活指導を行い、住宅関連商品・生活商品の提供、メンテナンス技術の提供、生活関連情報の提供を通じて生活改善に寄与する構想
    • [118]ホームセンターの取扱商品 日曜大工用品・カー用品・園芸・エクステリア・インテリア・レジャースポーツ用品・家電用品
    • [119]ホームセンター 奈良店に続き佐賀・亀岡・岡山・橿原・泉ケ丘・三田・千葉・高槻・長久手を開設し1985年時点で10店舗
    • [120]1980年8月 各研究開発部門を統合する総合技術研究所を設立
    • [121]1973年11月 奈良工場内に中央試験所が完成、工業化住宅性能認定制度の発足を受け実物大の住宅を持ち込む全天候性の環境装置を設置
    • [122]1973年11月 奈良工場内に中央試験所が完成、工業化住宅性能認定制度の発足を受け実物大の住宅を持ち込む全天候性の環境装置を設置
参考文献[97]-[122]
  • 日経ビジネス 1980年12月15日号
    • [97]1980年6月 創立25周年を機に石橋信夫社長から石橋殾一氏へ社長職を交代、石橋信夫氏は会長
    • [98]石橋殾一氏 1927年5月25日 奈良県生まれ
    • [99]石橋殾一氏 1947年3月高知高等学校卒業、同年4月から約11年間 奈良県の中学校で社会科の教員・教頭、1958年7月 大和ハウス工業入社
    • [100]石橋殾一氏 九州工場長・社長室長を経て1966年5月 取締役経理部長、1968年 常務、1970年 専務、1976年 副社長
    • [101]石橋信夫会長と石橋殾一氏の父親がいとこ同士
    • [102]石橋殾一氏の社長就任の弁 創業以来25年でアカもたまりコケも生えるが、それは自身のアカでありコケだと反省
    • [103]ワンマンで鳴らした石橋信夫前社長の剛に対し石橋殾一氏は柔と評された
    • [104]石橋殾一氏 社長就任後ただちに社内へTQC運動を導入
    • [111]石橋殾一氏 上から下へのルートは速いが静脈が弱いとして下意上達に配慮
  • 会社年鑑
    • [105]1980年3月期 売上高1,827億円・経常利益69億円(単体)
    • [112]経常利益(単体) 1979年3月期55億円、1982年3月期96億円、1983年3月期127億円、1985年3月期173億円
    • [113]経常利益(単体) 1979年3月期55億円、1982年3月期96億円、1983年3月期127億円、1985年3月期173億円
  • 日経ビジネス 1986年9月29日号
    • [106]石橋殾一氏 1980年の社長就任後まずノルマ至上主義に固まった社員の意識の切り替えに着手
    • [107]大和ハウス工業 1970年代に入り成長が鈍化、営業ノルマの厳しい社風がその一因
    • [108]営業マンの歩合給のウエートを下げ、業績評価を個人単位から営業所単位へ移行
    • [109]石橋殾一氏 ノルマを満たすための夜間の訪問販売をやめるよう言い続けた
    • [110]石橋殾一氏 仕事の中味を知るのは部下だとして失敗への対処を自分で考えさせた
  • 大和ハウス工業 有価証券報告書【沿革】
    • [114]1980年8月 ホームセンター事業に参入
  • 大和ハウス工業の30年 1985
    • [115]1980年8月 ホームセンター第一号店として奈良店が開店
    • [116]ホームセンター事業 家づくりのノウハウで生活指導を行い、住宅関連商品・生活商品の提供、メンテナンス技術の提供、生活関連情報の提供を通じて生活改善に寄与する構想
    • [117]ホームセンター事業 家づくりのノウハウで生活指導を行い、住宅関連商品・生活商品の提供、メンテナンス技術の提供、生活関連情報の提供を通じて生活改善に寄与する構想
    • [118]ホームセンターの取扱商品 日曜大工用品・カー用品・園芸・エクステリア・インテリア・レジャースポーツ用品・家電用品
    • [119]ホームセンター 奈良店に続き佐賀・亀岡・岡山・橿原・泉ケ丘・三田・千葉・高槻・長久手を開設し1985年時点で10店舗
    • [120]1980年8月 各研究開発部門を統合する総合技術研究所を設立
    • [121]1973年11月 奈良工場内に中央試験所が完成、工業化住宅性能認定制度の発足を受け実物大の住宅を持ち込む全天候性の環境装置を設置
    • [122]1973年11月 奈良工場内に中央試験所が完成、工業化住宅性能認定制度の発足を受け実物大の住宅を持ち込む全天候性の環境装置を設置

1985年〜会員権で建設費を賄ったロイヤルホテルの同時開業

1978年4月に石川県の能登で始めたホテルは、7年にわたって副業の域を出なかった。転機は1985年で、同年4月に鹿児島県の霧島、1986年4月に北海道の鹿部でホテルを開業した。1987年には三重県の伊勢志摩・佐賀県の唐津・福島県の裏磐梯・宮城県の蔵王が続き、3年で8つのホテルからなる連鎖をつくった。客室数は227室から401室まで、いずれもその地域では最大級である。石橋信夫氏は1992年までに全国40カ所・総室数1万2,000室の日本最大のリゾートホテル連鎖とする計画を掲げた。1988年2月の時点で32カ所の用地を確保している。ホテル1棟あたりの投資額は40〜50億円で、40カ所では2,000億円近い資金を要し、主に外債の発行で賄う計画だった。

  • 大和ハウス工業 有価証券報告書【沿革】
    • [123]1978年4月 リゾートホテル経営を開始
  • 日経ビジネス 1988年2月15日号
    • [124]1978年以降は石川県・能登で副業として細々と展開していたのみ
    • [125]1985年4月 霧島、1986年4月 鹿部、1987年 伊勢志摩・唐津・裏磐梯・宮城蔵王などを開業し3年間で8ホテルのチェーンを形成
    • [126]1985年4月 霧島、1986年4月 鹿部、1987年 伊勢志摩・唐津・裏磐梯・宮城蔵王などを開業し3年間で8ホテルのチェーンを形成
    • [127]8ホテルの客室数は227室〜401室でいずれも地元最大級
    • [128]石橋信夫会長 1992年までに全国40カ所・総室数1万2,000室の日本最大のリゾートホテルチェーンとする計画、32カ所の用地を確保済み
    • [129]石橋信夫会長 1992年までに全国40カ所・総室数1万2,000室の日本最大のリゾートホテルチェーンとする計画、32カ所の用地を確保済み
    • [130]ホテル1棟当たりの投資額40〜50億円、40カ所で2,000億円近い資金
    • [131]ホテル事業の資金は主に外債の発行などで調達する予定

会員制は、客を集めることと建設費を先に手当てすることの二つを同時に果たす仕掛けだった。入会金と預託金を合わせて250万円、法人会員は350万円を払い込めば、全国どこのホテルでも1泊1,000円で泊まれる。1986年10月から1987年3月にかけての第1期販売で約7,300人を集め、155億円の入会金収入を得た。ホテルの数が一気に増えたことが会員権の価値を高め、それがまた入会金の増加につながった。周辺では土地付き別荘の分譲を並行させ、ホテルとゴルフ場を建てて地価が上がった土地の値上がり益を取り込んだ。1万5,000円だった土地が6〜7万円で売れたという。8棟のうち5棟は減価償却後も黒字となり、残る3棟の赤字は別荘の分譲で吸収できていた。

  • 日経ビジネス 1988年2月15日号
    • [132]会員制の採用目的は集客の増加とホテル建設費の捻出の2つ
    • [133]入会金と預託金で250万円(法人会員350万円)を払い込むと全国どこのホテルでも1泊1,000円で宿泊できる
    • [134]1986年10月から1987年3月の第1期会員権販売で約7,300人・155億円の入会金収入
    • [135]利用できるホテル数の増加が会員権の付加価値を高め入会金収入の増大に寄与
    • [136]ホテル周辺で土地付き別荘の分譲を展開しホテル・ゴルフ場の建設で上がった地価の値上がり益を取り込む
    • [137]1万5,000円の土地が6〜7万円で売れた
    • [138]8ホテルのうち5つが減価償却費を差し引いても黒字、3つの赤字分は別荘分譲で吸収

3年で7つのホテルを建てた実績に、約90の自治体が誘致を申し入れた。立地の良い土地を選べたうえ、テニスコートやマリーナ、排水設備を自治体が負担し、3年間は固定資産税を免除する例まであった。石橋信夫氏は『リゾートホテルは絶対にいけると勘がひらめいた。遅くとも65年には週休2日制が完全に定着して、需要は格段に大きくなるだろうと。そうなってから取り組んだのでは遅いので、いま一気に突っ走るんだ』と語り、用地も進出の時期も付帯設備もすべて自ら決めた。開発用地の選定と取得、地元との折衝は、大阪地区の羽曳野を皮切りに全国44カ所へ広げたネオポリスで積んだものである。弱いのは運営で、接客とイベントの企画の経験は浅かった。1978年に開いた能登のホテルマン1期生を本社へ戻して教育役に仕立て、ほかのホテルへ出張指導に出していた。急いだことが条件を有利にした一方で、速さに見合う運営の厚みは残されたままだった。

  • 日経ビジネス 1988年2月15日号
    • [139]3年間で7つのホテルを建設した実績に注目し約90の自治体が誘致を申し入れ
    • [140]進出に際し立地の良い土地を選べ、テニスコート・マリーナ・排水設備を自治体が負担し3年間固定資産税が免除される例もあった
    • [141]石橋信夫会長 リゾートホテルは絶対にいけると勘がひらめいたと述べ、週休2日制の定着を見込んで一気に展開
    • [142]開業した8ホテルの用地・進出時期・付帯設備はすべて石橋信夫会長が自ら決断
    • [143]全国44カ所でネオポリスと呼ぶ新興住宅地を開発し、用地の選定・取得・地元との折衝のノウハウを蓄積
    • [145]接客やイベント企画などホテルの運営・管理の経験は浅く、1978年開業の能登のホテルマン1期生を本社へ戻して教育・研修スタッフとし他のホテルへ出張指導に派遣
    • [146]接客やイベント企画などホテルの運営・管理の経験は浅く、1978年開業の能登のホテルマン1期生を本社へ戻して教育・研修スタッフとし他のホテルへ出張指導に派遣
  • 日本企業要覧 1975年版
    • [144]大和団地 羽曳野ネオポリスを皮切りに大阪地区で7つのネオポリスを開発
参考文献[123]-[146]
  • 大和ハウス工業 有価証券報告書【沿革】
    • [123]1978年4月 リゾートホテル経営を開始
  • 日経ビジネス 1988年2月15日号
    • [124]1978年以降は石川県・能登で副業として細々と展開していたのみ
    • [125]1985年4月 霧島、1986年4月 鹿部、1987年 伊勢志摩・唐津・裏磐梯・宮城蔵王などを開業し3年間で8ホテルのチェーンを形成
    • [126]1985年4月 霧島、1986年4月 鹿部、1987年 伊勢志摩・唐津・裏磐梯・宮城蔵王などを開業し3年間で8ホテルのチェーンを形成
    • [127]8ホテルの客室数は227室〜401室でいずれも地元最大級
    • [128]石橋信夫会長 1992年までに全国40カ所・総室数1万2,000室の日本最大のリゾートホテルチェーンとする計画、32カ所の用地を確保済み
    • [129]石橋信夫会長 1992年までに全国40カ所・総室数1万2,000室の日本最大のリゾートホテルチェーンとする計画、32カ所の用地を確保済み
    • [130]ホテル1棟当たりの投資額40〜50億円、40カ所で2,000億円近い資金
    • [131]ホテル事業の資金は主に外債の発行などで調達する予定
    • [132]会員制の採用目的は集客の増加とホテル建設費の捻出の2つ
    • [133]入会金と預託金で250万円(法人会員350万円)を払い込むと全国どこのホテルでも1泊1,000円で宿泊できる
    • [134]1986年10月から1987年3月の第1期会員権販売で約7,300人・155億円の入会金収入
    • [135]利用できるホテル数の増加が会員権の付加価値を高め入会金収入の増大に寄与
    • [136]ホテル周辺で土地付き別荘の分譲を展開しホテル・ゴルフ場の建設で上がった地価の値上がり益を取り込む
    • [137]1万5,000円の土地が6〜7万円で売れた
    • [138]8ホテルのうち5つが減価償却費を差し引いても黒字、3つの赤字分は別荘分譲で吸収
    • [139]3年間で7つのホテルを建設した実績に注目し約90の自治体が誘致を申し入れ
    • [140]進出に際し立地の良い土地を選べ、テニスコート・マリーナ・排水設備を自治体が負担し3年間固定資産税が免除される例もあった
    • [141]石橋信夫会長 リゾートホテルは絶対にいけると勘がひらめいたと述べ、週休2日制の定着を見込んで一気に展開
    • [142]開業した8ホテルの用地・進出時期・付帯設備はすべて石橋信夫会長が自ら決断
    • [143]全国44カ所でネオポリスと呼ぶ新興住宅地を開発し、用地の選定・取得・地元との折衝のノウハウを蓄積
    • [145]接客やイベント企画などホテルの運営・管理の経験は浅く、1978年開業の能登のホテルマン1期生を本社へ戻して教育・研修スタッフとし他のホテルへ出張指導に派遣
    • [146]接客やイベント企画などホテルの運営・管理の経験は浅く、1978年開業の能登のホテルマン1期生を本社へ戻して教育・研修スタッフとし他のホテルへ出張指導に派遣
  • 日本企業要覧 1975年版
    • [144]大和団地 羽曳野ネオポリスを皮切りに大阪地区で7つのネオポリスを開発

第3章 1990-1998 (気が向いたら執筆します!) 5000室規模のホテル事業と総合技術研究所、石橋伸康社長の辞任

第4章 1999-2012 (気が向いたら執筆します!) 東郷武社長の有利子負債ゼロ目標と大和団地合併、大型物流施設の開発

第5章 2013-2026 (気が向いたら執筆します!) フジタ・コスモスイニシアの子会社化から米国住宅とデータセンターへ

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歴史年表 1955〜2025年

大和ハウス工業の沿革1955〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1955〜1976年「建築の工業化」への挑戦と新事業への布石石橋信夫大和ハウス工業を創業★
石橋信夫東京・大阪市場で株式公開★
石橋信夫「ミゼットハウス」を発売★★
石橋信夫堺工場を新設★
石橋信夫大和団地を設立★
石橋信夫東京証券取引所市場に株式上場★
石橋信夫プレハブ住宅「ダイワハウスA型」を発売★
石橋信夫奈良工場を新設★
石橋信夫ダイワ住宅機器を設立★
石橋信夫奈良中央試験所を開設★
石橋信夫流通店舗事業への参入と非住宅多角化

1976年、大和ハウス工業が住宅事業で培った土地情報と施工力を活かし、ロードサイドの遊休地を持つ地主と出店希望のテナント企業を結ぶ流通店舗事業へ参入した経営判断。創業者・石橋信夫氏が自ら旗を振って立ち上げた。

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★★★
1977〜1989年土地を軸にした非住宅への多角化石橋信夫日本住宅流通を設立★
石橋信夫リゾートホテル経営を開始★
ホームセンター事業に参入★
転宅便を設立★
中国事業を本格化★
大和情報サービスを設立★
大和リビングを設立★
1990〜1998年5000室規模のホテル事業と総合技術研究所、石橋伸康社長の辞任ホテル事業の急拡大と、定まらないまま残されたブランド戦略

1990年7月、日経ビジネスが大和ハウス工業のホテルチェーン"ダイワロイヤルホテルズ"の急拡大とブランドの定まらなさを報じた。1978年に会長・石橋信夫氏の掛け声で始まったホテル事業は、1985年からの5年間で15カ所を開業して客室数4,772室(同年秋の別府開業後には5000室規模の見込み)まで拡大したが、高級リゾートか大衆観光ホテルか、会員制か一般客中心かという性格づけが最後まで定まらなかった。

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★★★
大和ハウス工業総合技術研究所を新設★
1999〜2012年東郷武社長の有利子負債ゼロ目標と大和団地合併、大型物流施設の開発石橋伸康大阪・東京の新社屋完成★
東郷武石橋伸康社長の退任と創業家による路線修正

1999年6月29日、大和ハウス工業の石橋伸康社長が辞任した。表向きは営業不振の責任とされたが、実態は創業者・石橋信夫名誉会長の"拡大積極路線"を否定する急進改革への役員陣の反発から生じた事実上の解任劇で、弁護士の中坊公平氏が信夫氏の意を受けて説得役を担った。

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★★★
東郷武「有利子負債ゼロ」への転換

2000年度から2003年3月期にかけて、大和ハウス工業が"有利子負債ゼロ"を経営目標に掲げ、販売用不動産の売却と土地の含み損処理を進めて無借金経営へ転換した財務判断。創業者・石橋信夫氏の意向を、樋口武男社長が継いで達成に導いた。

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樋口武男大和団地と合併★★
樋口武男大型物流施設の開発を開始★★
村上健治風力発電事業に参入★
村上健治ビ・ライフ投資法人のスポンサーに★
2013〜2026年フジタ・コスモスイニシアの子会社化から米国住宅とデータセンターへ大野直竹フジタを完全子会社化★★
大野直竹コスモスイニシアを子会社化★
大野直竹「xevoΣ(ジーヴォシグマ)」発売★
大野直竹Stanley-Martin Communitiesを子会社化★★
芳井敬一中国子会社の不正・建築基準の不適合・資格の実務経験不備が続いた1年と、事業本部制への移行

2019年3月13日に中国の関連会社における不正行為が、4月12日に戸建住宅・賃貸住宅商品の一部における建築基準に関する不適合等が公表された。この2つの事案には第三者委員会と外部調査委員会が置かれ、11月にはグループのガバナンス強化策が策定された。 ところが12月には、施工管理技士の技術検定試験における実務経験の不備が新たに公表される。2020年1月に外部調査委員会が設置され、4月に調査報告書を受領して国土交通省へ報告した。

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芳井敬一ガバナンス強化策を策定★
芳井敬一事業本部制の本格運用を開始★
芳井敬一CastleRock Communitiesを子会社化★
芳井敬一アライアンス・レジデンシャル社を持分法適用関連会社化★
大友浩嗣電気設備工事会社の完全子会社化による、データセンター建設の垂直統合

2025年10月30日、大和ハウス工業は電気設備工事の住友電設に対する公開買付けを取締役会で決議した。買付価格は1株9,760円、買付予定数は17,362,680株、買付代金は1,694億59百万円である。12月15日に公開買付けが成立して14,389,928株(所有割合40.89%)を取得し、株式併合と自己株式取得を経て、2026年3月24日に住友電設を完全子会社とした。

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★★★
出典・参考 20件
出典・参考
  • 大和ハウス工業 有価証券報告書【沿革】
  • 会社年鑑 1976年版
  • 会社年鑑
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版
  • 証券アナリストジャーナル 1968年3月号
  • 週刊東洋経済 1970年4月11日号
  • 週刊東洋経済 1972年2月19日号
  • 証券アナリストジャーナル 1976年9月号
  • 日経ビジネス 1980年12月15日号
  • 日経ビジネス 1984年3月5日号
  • 日経ビジネス 1986年4月14日号
  • 日経ビジネス 1986年9月29日号
  • 日経ビジネス 1988年2月15日号
  • 日経ビジネス 1991年9月30日号
  • 日経ビジネス 2002年8月5日号
  • 読売新聞 1961年2月1日
  • 読売新聞 1964年12月1日
  • 日本企業要覧 1975年版
  • 大和ハウス工業の30年 1985
  • 不撓不屈の日々 1992

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