1955年4月、石橋信夫氏は18人の仲間と大和ハウス工業を創業した。石橋氏は敗戦後にシベリアへ送られ、3年間の抑留生活のなかで、太陽の見えない大森林の伐採作業に隊員が次々と倒れる現場を見た。戦時中の乱伐で木材が足りなくなっていた一方で、復員兵や引き揚げ者の多くは手軽に建つ住まいを求めていた。創業商品"パイプハウス"は、骨組みを木材でなく鋼管で組む建築で、石橋氏はその着想の出どころを『丸太は空洞ではない。それならパイプだ、鉄パイプで家を造ったらいいと閃いた』と振り返っている。1957年4月、我が国初の鋼管構造建築として構造認定書が下り、工法に公の裏づけが付いた。『負ければ守るべき人を守れない』『負けぬため全力を尽くして生きる』(日経ビジネス 1986/4/14)という覚悟は、先に見た体験に根ざすものだった。
1959年10月に発売した"ミゼットハウス"は、第1次ベビーブームによる住宅不足の解消をねらった。子どもたちの声をヒントに開発したプレハブ住宅の原点である。価格は約11万円、3時間で建つ家という手軽さが評判を呼んだ。滋賀県栗東では、1週間前まで野原だった土地に13戸の文化住宅が並び、工場で造った住宅を運んで据える速さに近隣の農家が驚いた。1962年4月には量産型プレハブ"ダイワハウスA型"を発売し、1965年3月には初のプレハブ住宅専門工場となる奈良工場を開設した。1968年に考案した住宅設計の半自動化システムは、コンピューターに入力したデザインを6年間変えなかったために売れ行きを落とした。この失敗を受けて石橋氏は『新商品は2年たったら墓場へ送る』(日経ビジネス 1984/3/5)を社内のルールに定めた。
工業化住宅が価格で通ったのは、建材ではなく人件費の差による。大工の1日あたりの賃金は、東京オリンピック前の約1,800円が開催後に2,800円へ上がった。1968年2月には3,500円となり、万国博を控えて6,000〜7,000円という声も出ていた。20〜30坪の小住宅を在来工法で建てれば4〜6カ月を要し、大工の延べ人数は180人に達した。プレハブなら工期20日、延べ60人で仕上がる。1967年度のプレハブ化率は4.8%で、フランスの33%に遠く及ばない。石橋氏は『われわれには、顧客の好みによるオーダーメードの住宅はできない。レディーメードでしかできないのである』とし、注文生産を捨てて規格の量産へ経営資源を集中した。売上高は1963年3月期の107億9,200万円から、1968年3月期には143億円へ伸びる見通しとなった。
1959年10月に東京・大阪の店頭承認銘柄として株式を公開し、1961年9月に大阪証券取引所、翌10月に東京証券取引所へ上場した。創業から6年での上場で得た資金は、1965年の奈良工場や1973年11月の奈良中央試験所といった生産・研究設備へ向かった。1961年6月、富士製鉄・野村証券・小野田セメント・大和ハウス工業の4社が資本金1億円を共同出資した。宅地造成と分譲を担う大和団地の設立である。大和団地は羽曳野ネオポリスを皮切りに大阪地区で7つのネオポリスを開発し、1975年時点の総開発面積は840万平方メートルに達した。工業化住宅を量産する本体と土地を仕込む別法人を並走させる体制は、2001年4月の合併まで40年続いた。
企業の倒産が続き、山一証券が初めて経営危機に陥った1964年は、大和ハウスにとって創業10年目にあたる。この深刻な不況下の株式市場では、実態とはかけ離れたものながら、同社の経営が危ないという噂が流れた。都市銀行の多くが資金を止め、融資をつないだのは南都銀行や常陽銀行など一部の地方銀行だけだったという経験から、石橋信夫氏は以後、借り入れに頼らずに会社を回すことを旨とした。有利子負債が最も膨らんだ1994年3月期ですら、そのうち借入金は1割未満で、残りを社債と転換社債が埋めていた。創業者の"借金はあかん"(日経ビジネス 2002/8/5)という言葉は、代々の社長に手を加えられないまま受け継がれた。
資金の裏づけを外に求めない方針は、配当政策にも表れた。1950年代には資本調達の必要から2割配当を堅持していた。1960年代の前半は内部留保へ充当する方針に改め、1968年3月期の配当は1割2分に据え置いた。1967年9月期末の内部留保の累積額は17億円で、当期にさらに5〜6億円を積み増す計画だった。資本金28億円を倍額増資できる水準に達した時点で増資と増配を考える含みである。積んだ資金が向かったのは生産の能力である。当時の月産能力は500棟、建設中の竜ケ崎工場が完成すれば1,000棟となり、長期には月産4,000棟を目標に置いた。1971年3月期の売上高は966億円、経常利益は128億円に達した。
土地を仲立ちする発想は、土地を数えることから出ている。1976年8月の時点で、国土3,724万ヘクタールのうち法人の所有はわずか4%だった。資本金1億円以上の企業が持つ土地は72万ヘクタールにとどまる。そのうち事業に使われている土地が88%を占め、棚卸資産として抱える土地は9万ヘクタールにすぎない。未利用地は57%あるが、1区画70〜80坪の宅地に割っても150万戸分にしかならない。石橋氏はこの数字を『今後の当社の経営を考える上で重要なデータ』と位置づけた。企業が土地を買い占めても宅地の供給には足りず、動かすべきは他人の遊休地である。1968年の時点でも石橋氏は、遊休地の固定資産税に累進税率を適用して宅地の供給量を増やす手を説いていた。
1976年、大和ハウスは住宅事業で蓄えた土地情報と施工力を流通店舗事業へ振り向けた。ロードサイドの遊休地を持つ地主と出店を望むテナント企業を引き合わせ、店舗の設計から施工までを一貫して請け負う仕組みである。下地には土地を第一に据える創業者の商法があった。家を買いたい人のうち土地を持つのは約1割にすぎず、プレハブ販売には土地開発が伴った『家を買いたいといっている人で土地をもっておられるのは約1割、他の9割は土地がないのですから、プレハブの販売にはやはり土地開発が伴わなければダメだ』(週刊東洋経済 1970/4/11)。工場で建物と機械を下請け業者に貸し付け、自らは生産の管理に回る商社的な運営も、この時期には定着していた。1977年に流通店舗事業部を設置し、プレハブでも窓を大きく取れる独自工法を開発したため、ほかのプレハブ大手と競合の少ない領域を確保した。
受注を効率よく集める仕掛けが、1990年6月に始めた"コンベンション"である。地主を集めた会場では、初日を相続税や土地税制の講演に充て、翌日に出店希望のテナントを引き合わせた。全国のオーナー会員は約2,500人、登録した土地情報は1万件を上回り、テナント会に加わる企業は120社に及んだ。靴・玩具販売のチョダは975店のうち約7割を大和ハウスが手がけ、日本トイザラスには50店舗分の土地を紹介して工事を請け負った。流通店舗事業部の売上高は1990年3月期の725億円から1991年3月期に1,300億円へ倍増した。全社に占める事業部の比率も1985年度の9%から1990年度の16%へ上がり、非住宅部門は全体のほぼ半分に達した。当時副社長の石橋伸康氏は『この成長に最も寄与したのはコンベンション。10年後には現在の3倍、3,700億円を達成する』と述べた。
第1次石油危機のあと、住宅は数の上で満たされた。1973年の住宅統計調査では世帯数2,910万に対し住宅数は3,006万戸で、すでに196万戸を上回っていた。空家率は1973年の5.5%から1976年には約6.8%へ上がり、先進12カ国の7〜8%に近づいた。石橋信夫氏は1976年8月、木材資源と土地の供給力からみて年間の住宅建築は150万戸前後が限界とみていた。政府の五カ年計画が求める年平均170〜180万戸は実現できないという見立てである。収益の低下は、市場の頭打ちより先に始まっていた。1974年3月期に148億円だった経常利益は、1978年3月期に62億円、1979年3月期には55億円まで下がっている。売上高が1,584億円から1,772億円へ動く間に、利益は3分の1へ縮んだ。
石橋信夫氏がまず動かしたのは売り方だった。事業の性格上、代理店を通す販売では顧客の多様な要求に細かく応じられないとして、各県1〜2社へ代理店を集約し、直販の体制へ切り替えた。1976年8月の時点で、大阪の本社のもとに1支社24支店23営業所72出張所13工場を置いた。大都市への人口集中は1973年から1974年にかけて止まり、地方の中都市へ逆流が始まったとの見立てから、5〜10万人規模の地方都市のうち残るところにも営業所や出張所を新しく置く方針を採った。大規模な住宅団地の開発はそれまでに43か所を数え、これを足がかりに福岡・広島・岡山・三重・石川・宮城・群馬の各県で造成を進めた。人員は従業員5,500名、関係会社を含めれば8,600名となっていた。直販に切り替えた1977年3月期には、売上高が前期の1,505億円から3割増えて1,961億円に達した。
1977年1月、平山修氏を中心に店舗事業部が発足した。営業所や販売店舗、配送センター、各種ストアの出店計画を持つ企業が増える一方で、遊休地の有効利用を求める土地所有者も増えていた。そこに着目し、全国の事業所網で適地を管理しながらテナント企業を開拓する。地主と企業の双方に利益をつくる仕組みである。翌1978年2月には日本住宅流通を設立し、建てた家が中古として市場に出る局面まで事業の範囲を広げた。同年4月には石川県の能登でリゾートホテルの経営を始めている。いずれも住宅を新しく建てて売る事業ではない。建てる力ではなく、土地と顧客の接点を持っていることのほうが元手になった。
1980年6月、創立25周年を機に石橋信夫氏は社長を石橋殾一氏へ譲り、自らは会長に就任した。石橋殾一氏は1927年5月に奈良県で生まれ、1947年3月に高知高等学校を出た。1958年7月、大和ハウス工業に入社した。それまでは郷里の中学校で約11年間、社会科を教えていた。入社後は九州工場長と社長室長を務めた。1966年5月に取締役経理部長となり、1968年に常務、1970年に専務、1976年に副社長と階段を上った。会長との間柄をたどると、石橋殾一氏の父親どうしがいとこにあたる。社長の座に就く際、石橋殾一氏は『創業以来25年も経てば、いろいろアカもたまるし、コケも生える。ただ、これは、私自身のアカであり、コケという感じで、反省している』と語った。ワンマンとして名の通った前任者が剛なら、こちらは柔だと評された。社内ではTQC運動を始めている。1980年3月期の売上高は1,827億円だった。
石橋殾一氏がまず手を付けたのは、ノルマ至上主義に固まった営業の評価だった。1970年代に入って成長が鈍った原因の一つは、営業ノルマの厳しさという社風にあった。歩合給の比重を下げ、業績の評価を個人単位から営業所単位へ移した。ノルマを満たすため客先を夜に訪ねて判をもらう習いに対しては『夜訪なんかするな』と言い続けた。失敗への対処も部下自身に考えさせる方式へ改めた。上から下へ流れる動脈は速いが静脈が弱いとして、下からの声を取り込む意図があった。経常利益は1982年3月期に96億円、1983年3月期に127億円、1985年3月期には173億円となった。底だった1979年3月期の55億円から3倍を超えている。
1980年8月、奈良店がホームセンターの第1号として開店した。蓄えてきた家づくりの知識を生活の提案に使うという考えに立った。住宅関連商品と生活商品の供給、保守技術の提供、生活情報の提供を通じて、生活の改善に寄与する。日曜大工用品・カー用品・園芸・インテリア・レジャースポーツ用品・家電用品を並べた。佐賀・亀岡・岡山・橿原・泉ケ丘・三田・千葉・高槻・長久手と続き、1985年の時点で10店に達した。同じ1980年8月には、各研究開発部門を統合する総合技術研究所を設けている。1973年11月に奈良工場内へ完成した中央試験所は、建設省の工業化住宅性能認定制度の発足を受けたものである。実物大の住宅を持ち込む全天候性の環境装置を備えた。
1978年4月に石川県の能登で始めたホテルは、7年にわたって副業の域を出なかった。転機は1985年で、同年4月に鹿児島県の霧島、1986年4月に北海道の鹿部でホテルを開業した。1987年には三重県の伊勢志摩・佐賀県の唐津・福島県の裏磐梯・宮城県の蔵王が続き、3年で8つのホテルからなる連鎖をつくった。客室数は227室から401室まで、いずれもその地域では最大級である。石橋信夫氏は1992年までに全国40カ所・総室数1万2,000室の日本最大のリゾートホテル連鎖とする計画を掲げた。1988年2月の時点で32カ所の用地を確保している。ホテル1棟あたりの投資額は40〜50億円で、40カ所では2,000億円近い資金を要し、主に外債の発行で賄う計画だった。
会員制は、客を集めることと建設費を先に手当てすることの二つを同時に果たす仕掛けだった。入会金と預託金を合わせて250万円、法人会員は350万円を払い込めば、全国どこのホテルでも1泊1,000円で泊まれる。1986年10月から1987年3月にかけての第1期販売で約7,300人を集め、155億円の入会金収入を得た。ホテルの数が一気に増えたことが会員権の価値を高め、それがまた入会金の増加につながった。周辺では土地付き別荘の分譲を並行させ、ホテルとゴルフ場を建てて地価が上がった土地の値上がり益を取り込んだ。1万5,000円だった土地が6〜7万円で売れたという。8棟のうち5棟は減価償却後も黒字となり、残る3棟の赤字は別荘の分譲で吸収できていた。
3年で7つのホテルを建てた実績に、約90の自治体が誘致を申し入れた。立地の良い土地を選べたうえ、テニスコートやマリーナ、排水設備を自治体が負担し、3年間は固定資産税を免除する例まであった。石橋信夫氏は『リゾートホテルは絶対にいけると勘がひらめいた。遅くとも65年には週休2日制が完全に定着して、需要は格段に大きくなるだろうと。そうなってから取り組んだのでは遅いので、いま一気に突っ走るんだ』と語り、用地も進出の時期も付帯設備もすべて自ら決めた。開発用地の選定と取得、地元との折衝は、大阪地区の羽曳野を皮切りに全国44カ所へ広げたネオポリスで積んだものである。弱いのは運営で、接客とイベントの企画の経験は浅かった。1978年に開いた能登のホテルマン1期生を本社へ戻して教育役に仕立て、ほかのホテルへ出張指導に出していた。急いだことが条件を有利にした一方で、速さに見合う運営の厚みは残されたままだった。
https://the-shashi.com/api/companies.json https://the-shashi.com/api/decisions.json https://the-shashi.com/api/api-manifest.json https://the-shashi.com/api/1925/company.json https://the-shashi.com/api/1925/history.json https://the-shashi.com/api/1925/ceo.json https://the-shashi.com/api/1925/financials.json https://the-shashi.com/api/1925/financials/segment.json https://the-shashi.com/api/1925/financials/pl.json https://the-shashi.com/api/1925/financials/cf.json https://the-shashi.com/api/1925/financials/bs.json https://the-shashi.com/api/1925/financials/employee.json https://the-shashi.com/api/1925/financials/stock.json https://the-shashi.com/api/1925/financials.csv https://the-shashi.com/api/1925/financials_history.csv | 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1955〜1976年「建築の工業化」への挑戦と新事業への布石 | 石橋信夫 | 大和ハウス工業を創業 | ★ | |
| 石橋信夫 | 東京・大阪市場で株式公開 | ★ | ||
| 石橋信夫 | 「ミゼットハウス」を発売 | ★★ | ||
| 石橋信夫 | 堺工場を新設 | ★ | ||
| 石橋信夫 | 大和団地を設立 | ★ | ||
| 石橋信夫 | 東京証券取引所市場に株式上場 | ★ | ||
| 石橋信夫 | プレハブ住宅「ダイワハウスA型」を発売 | ★ | ||
| 石橋信夫 | 奈良工場を新設 | ★ | ||
| 石橋信夫 | ダイワ住宅機器を設立 | ★ | ||
| 石橋信夫 | 奈良中央試験所を開設 | ★ | ||
| 石橋信夫 | 流通店舗事業への参入と非住宅多角化 1976年、大和ハウス工業が住宅事業で培った土地情報と施工力を活かし、ロードサイドの遊休地を持つ地主と出店希望のテナント企業を結ぶ流通店舗事業へ参入した経営判断。創業者・石橋信夫氏が自ら旗を振って立ち上げた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 1977〜1989年土地を軸にした非住宅への多角化 | 石橋信夫 | 日本住宅流通を設立 | ★ | |
| 石橋信夫 | リゾートホテル経営を開始 | ★ | ||
| ホームセンター事業に参入 | ★ | |||
| 転宅便を設立 | ★ | |||
| 中国事業を本格化 | ★ | |||
| 大和情報サービスを設立 | ★ | |||
| 大和リビングを設立 | ★ | |||
| 1990〜1998年5000室規模のホテル事業と総合技術研究所、石橋伸康社長の辞任 | ホテル事業の急拡大と、定まらないまま残されたブランド戦略 1990年7月、日経ビジネスが大和ハウス工業のホテルチェーン"ダイワロイヤルホテルズ"の急拡大とブランドの定まらなさを報じた。1978年に会長・石橋信夫氏の掛け声で始まったホテル事業は、1985年からの5年間で15カ所を開業して客室数4,772室(同年秋の別府開業後には5000室規模の見込み)まで拡大したが、高級リゾートか大衆観光ホテルか、会員制か一般客中心かという性格づけが最後まで定まらなかった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 大和ハウス工業総合技術研究所を新設 | ★ | |||
| 1999〜2012年東郷武社長の有利子負債ゼロ目標と大和団地合併、大型物流施設の開発 | 石橋伸康 | 大阪・東京の新社屋完成 | ★ | |
| 東郷武 | 石橋伸康社長の退任と創業家による路線修正 1999年6月29日、大和ハウス工業の石橋伸康社長が辞任した。表向きは営業不振の責任とされたが、実態は創業者・石橋信夫名誉会長の"拡大積極路線"を否定する急進改革への役員陣の反発から生じた事実上の解任劇で、弁護士の中坊公平氏が信夫氏の意を受けて説得役を担った。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 東郷武 | 「有利子負債ゼロ」への転換 2000年度から2003年3月期にかけて、大和ハウス工業が"有利子負債ゼロ"を経営目標に掲げ、販売用不動産の売却と土地の含み損処理を進めて無借金経営へ転換した財務判断。創業者・石橋信夫氏の意向を、樋口武男社長が継いで達成に導いた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 樋口武男 | 大和団地と合併 | ★★ | ||
| 樋口武男 | 大型物流施設の開発を開始 | ★★ | ||
| 村上健治 | 風力発電事業に参入 | ★ | ||
| 村上健治 | ビ・ライフ投資法人のスポンサーに | ★ | ||
| 2013〜2026年フジタ・コスモスイニシアの子会社化から米国住宅とデータセンターへ | 大野直竹 | フジタを完全子会社化 | ★★ | |
| 大野直竹 | コスモスイニシアを子会社化 | ★ | ||
| 大野直竹 | 「xevoΣ(ジーヴォシグマ)」発売 | ★ | ||
| 大野直竹 | Stanley-Martin Communitiesを子会社化 | ★★ | ||
| 芳井敬一 | 中国子会社の不正・建築基準の不適合・資格の実務経験不備が続いた1年と、事業本部制への移行 2019年3月13日に中国の関連会社における不正行為が、4月12日に戸建住宅・賃貸住宅商品の一部における建築基準に関する不適合等が公表された。この2つの事案には第三者委員会と外部調査委員会が置かれ、11月にはグループのガバナンス強化策が策定された。 ところが12月には、施工管理技士の技術検定試験における実務経験の不備が新たに公表される。2020年1月に外部調査委員会が設置され、4月に調査報告書を受領して国土交通省へ報告した。 詳細を読む | |||
| 芳井敬一 | ガバナンス強化策を策定 | ★ | ||
| 芳井敬一 | 事業本部制の本格運用を開始 | ★ | ||
| 芳井敬一 | CastleRock Communitiesを子会社化 | ★ | ||
| 芳井敬一 | アライアンス・レジデンシャル社を持分法適用関連会社化 | ★ | ||
| 大友浩嗣 | 電気設備工事会社の完全子会社化による、データセンター建設の垂直統合 2025年10月30日、大和ハウス工業は電気設備工事の住友電設に対する公開買付けを取締役会で決議した。買付価格は1株9,760円、買付予定数は17,362,680株、買付代金は1,694億59百万円である。12月15日に公開買付けが成立して14,389,928株(所有割合40.89%)を取得し、株式併合と自己株式取得を経て、2026年3月24日に住友電設を完全子会社とした。 詳細を読む | ★★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(大和ハウス工業)