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  "title": "直近の動向と展望",
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      "title": "なぜ長谷工は二度「脱マンション」を試みるのか（筆者所感）",
      "text": "1937年2月、長谷川武彦氏は23歳で兵庫県尼崎市に長谷川工務店を個人創業した。当初は近畿の木造請負業者にすぎず、全国市場へ出る手段を欠いていた。転機は1950年、伊藤忠商事から受注した芦屋打出荘アパートで、鉄筋コンクリート3階建ての施工技術と設備を短期間で整備した。当時RC造を扱える業者は少なく、地方工務店がこの能力を獲得したことで、全国の民間建築市場へのアクセスが開けた。同時に、商社が都市部の集合住宅案件を持ち込み長谷工が施工で応える経路が、創業初期に組み込まれていった。\n\nこうして得た商社経由の受注経路は、1968年の自社マンション第1号着工と翌1969年の日商岩井との業務提携で事業の型として固まった。商社が集めた用地情報に基づき特命で受注する仕組みは、当時の建設業界には前例がなかった。受注を待つのではなく、用地を持ち込まれる側として競争入札に晒されない収益基盤がここで定着した。1970年に分譲子会社の長谷工不動産、1978年に管理子会社の長谷工コミュニティを設立し、用地仕入から設計・施工・販売・管理まで一社で担う体制を整えた。1981年には首都圏マンション施工シェアが約20%に達し、近畿発の地方工務店が全国市場の中核を担う存在となった。\n\nところがこの型は、景気循環と発注側の判断に収益が左右される受注産業の脆さを抱え続けていた。1985年、マンション市場の成熟を受けて「脱マンション」を掲げ、ホテル・リゾートへ1,000億円を投じた。商社が用地を運んでこない領域への一度目の進出であった。バブル崩壊で投資は逆回転し、不動産含み損1,600億円・有利子負債1兆3,000億円を抱え、1999年1月には株価13円まで沈み込んだ。1997年3月期、合田耕平社長は1,850億円の特別損失を一括計上し、オフィスと商業施設から撤退してマンション専業へ事業を絞り直した。商社経由の用地経路を持たない領域への一度目の拡張は、12年で清算された。\n\nその後の長谷工は専業の型を磨き、首都圏マンション施工シェアは2017年に34.5%へ拡大した。ただしこの拡大の主因は自社の営業力よりも、労務費高騰と2024年問題でマンション施工を不採算と判断した他のゼネコンが他分野へ流出したことにある。特命受注比率85%は競争入札を経ない非対称な競争優位だが、他のゼネコンがマンション施工へ復帰すれば崩れる外部条件依存の構造でもある。2025年4月に第9代社長へ就任した熊野聡氏は、府中のデータセンターと冷凍冷蔵倉庫、米国本土の賃貸住宅開発へ資本を振り向けた。商社が用地情報を持ち込む経路のない領域への拡張は、1985年から数えて二度目となる。",
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