立石電機が伸びた理由は、製品を良くしたことではなく、買い手がまだ欲しいと言えない市場を先に作ったことにある。1933年に始めた保護継電器は電力会社という限られた相手しか持たない商品で、戦災と終戦でその需要ごと消えた。1950年に社員33人まで縮んだ会社が選んだのは、同じ商品の改良ではなく、日本にオートメーションという言葉すら無かった1955年に、機械が機械を動かすための機能部品へ回ることだった。市場が無い場所へ出れば回収は遅れるが、競合もいない。無接点近接スイッチも自動改札機も血圧計も、他社が参入を決める前に立石電機が単独で走った期間の長さが、そのまま利益になった。
この遠回りを支えたのは、人を小さな単位へ割り続ける組織である。1955年のプロデューサ・システムは販売と研究を別会社にし、生産を品目別の工場へ分けて、最終的に9社の生産子会社を生んだ。1962年には本社の部長を工場へ送り、販売会社の注文も本社を通さず工場へ入れている。分ける狙いは効率ではなく、決める人を顧客の近くに置くことにあった。だから1983年に立石一真氏が自ら大企業病と名付けて事業本部へ権限を移したときも、手口は創業期と変わらない。見本品を届けるのに3か月かかる会社が、2〜3週間で応じる中小に小口を奪われる。大きくなるほど競争優位を失うというこの自覚が、京都の発明会社を世界市場の制御機器メーカーへ押し出した。
1933年5月10日、立石一真氏は33歳で大阪市都島区東野田に立石電機製作所を創業した。社員は工員と徒弟の各1人、長屋の2階に住み込んで階下を土間とし、作業台に万力を据えただけの零細な町工場だった。最初の製品は自ら開発したレントゲン写真撮影用タイマである。しかしレントゲンの市場は小さく、早々に電力用保護継電器の専門工場と銘打って電力業界へマーケットを切り替えた。立石電機製作所はわが国最初で唯一の継電器専門工場と称された。この転換が当たり、1936年には大阪市西淀川区野里町へ工場を新設移転し、1945年には社員250人を擁する規模へと伸びた。
だが1945年5月、大阪の工場は終戦を待たず空襲で全焼する。前年から京都・御室にあった映画撮影所を譲り受けて疎開工場の改修を進めていたため、立石電機はここへ本拠を移した。今日オムロンが京都に本社を置く直接の経緯であり、後に制定する商標"OMRON"も御室の地名に由来する。終戦で継電器の需要は消え、1948年5月に資本金200万円で立石電機株式会社へ改組したものの再建は進まず、1950年には社員がわずか33人まで減少した。電力用機器の需要回復を待って、ここから本格的な再建が始まる。
疎開先に京都を選んだ理由は三つあった。立石氏が創業前に京都南郊の井上電機製作所へ勤めた縁があったこと、文化遺産が多く空襲の恐れが小さいと見たこと、西陣織や清水焼の伝統産業があり、組立作業に向く器用な手を見込めることである。御室の疎開工場を開設したのは1944年4月で、大阪工場の焼失を受けて1945年8月にこの京都工場が本社工場へ昇格した。本命の誘導形保護継電器は戦後数年、需要がまったく消えたままだった。1947年6月に政府が示した電力危機突破対策要綱に沿って電力会社から電流制限器を受注し、電熱器やヘヤアイロン、電気ライタなどの家庭用品を売って急場をしのぐ。その電流制限器も1949年3月のドッジ・ラインに関連して出荷停止令を受けた。
再建の途上にあった1952年、立石一真氏は能率学の権威・上野陽一氏から、米国に作業員のいない自動工場が現れたという話を聞く。日本にオートメーションという言葉すら知られていなかった時期である。立石氏はこれを将来有望なマーケットと見定め、1955年、すでに55歳で社員110人・年商2億4000万円の会社を率いながら、まだ存在しない市場の開拓に乗り出した。マイクロスイッチやリレーなど制御に使う機能部品を自前で開発する道であり、新商品の研究開発を最優先する"経営基本五原則"とともに、後年オムロンを支えるR&D先行の経営はこの決断から始まる。立石氏にとって本当の意味の創業は、保護継電器から次の有望マーケットへ踏み出した戦後の1955年だった。
事業の急拡大に対し、立石氏は1955年1月、独自の組織論"プロデューサ・システム"を創案した。販売と研究を別会社として分離し、生産を品目別の独立専門工場へ分社する分権型の運営方式で、生産子会社は最終的に9社に及んだ。立石氏はこれを単なる分社ではなく、人間が個性を発揮する場をつくる経営思想として位置付けている。システムが軌道に乗った5年間で売上はおよそ10倍に伸び、1959年には御室に由来する商標"OMRON"を制定、1962年4月には京都・大阪証券取引所市場第二部へ上場して、開発投資と資金調達を両輪で回す体制を構築した。
分権の実像は数字に残っている。プロデューサ・システムを始めた1955年の全社員は185人、プロデューサ工場は二つで、1工場あたり40〜50人にすぎなかった。工場が増えて借工場から新築へ移ると本社からの集中管理では手が届かなくなり、1962年9月には本社の部長級を工場へ送り込む工場専務制を敷く。販売会社からの注文も本社を経由せず工場へ直接入るよう改め、資材や一部の管理業務も工場へ移した。儲かる商品が現れると各社がなだれ込む業界にあって、自ら技術で商品を開発し市場も自分で開拓する遠回りの道を選ぶ──1973年時点で、その研究テーマは一貫して省力化と無人化に置かれ、外れた新規投資がないと評価されていた。
オートメーション用の機能部品で築いた制御技術は、1960年代に応用製品の"世界初"を次々に生み出した。1960年に世界初の無接点近接スイッチ、1964年に世界初の電子式自動感応式信号機を開発し、制御技術を交通インフラの領域へ広げる。1967年3月には阪急電鉄北千里駅で世界初の無人駅システムが稼動し、自動改札機と券売機を組み合わせたこの仕組みは日本の鉄道自動化の原型となった。1965年7月にはクレジットカードによる自動販売システムを開発し、その技術を世界最大の自動販売機メーカーである米キャンティーン社へ輸出している。交通制御はその後、都心の120か所の交差点に探知機を置いて車の通過量を測り、警視庁の計算機で信号を一斉に出す無人の仕組みへ進む。工場の自動化を担うFAと、社会インフラを担う社会システムという、現在まで続く二つの主力事業がこの時期に形を取った。
三つ目の柱となるヘルスケアの源流は、1963年のハンス・セリエ博士の招聘にさかのぼる。立石氏の掲げた社憲はより良い社会を築くことをうたっており、健康機器への参入はその具体化と位置付けられた。出発点は、ストレス学説の世界的権威を一私企業が招き、健康工学を共同で研究するという試みで、医学界に反響を呼んだ。立石電機が契約を結んだ相手は、カナダのモントリオール大学実験医学研究所である。研究は東洋医学の経絡や脈診を電子で測る方向から簡易血圧計の開発へ進み、1973年に血圧計1号機を送り出した。その流れは、電子血圧計や電子体温計"けんおんくん"につながっている。
社会への貢献を事業の形にする発想は、ほかにも現れた。徳島大学と組んでサリドマイド児向けの電動義手を開発したのは1960年代後半で、1972年2月には障がい者の雇用を前提とした生産子会社オムロン太陽株式会社を設けた。会社が大きくなると、別の問題が表に出た。見本品を届けるまでに3か月かかる間に、2〜3週間で応じる中小企業に小口の取引を奪われ始めていたのである。1983年、立石氏は、中央集権化によって許認可事項と会議が膨らみ、注文を受けてから代金を回収するまでの期間が長くなったことで、機敏な新興企業に対して優位に立てなくなったと判断した。そこで事業本部に大きく権限を移し、会社を中小企業の寄り合いのような形に組み替える道を選んだ。その一方で、1988年4月には東京支社を東京本社に格上げして二本社制を敷いた。オランダ・シンガポール・米国に地域統轄会社を順に置き、1989年にはグローバル3極統轄体制を築いている。国内で世界初を重ねた京都の発明会社は、1980年代末に世界市場を見据えた制御機器メーカーへと立ち位置を移した。
1990年代のオムロンが突き当たったのは需要の減少ではなく、拡大そのものが利益を生まなくなったという事実だった。バブル期に機種を増やしてシェアを追った結果、独立採算の事業は約30、機種は10万点、使用部品は12万点、購買窓口は22まで膨らむ。発注は一件ずつが町工場並みの量になり、まとめ買いの単価も効かない。立石義雄氏が1992年に打った手は、需要を増やす努力ではなく、整理する製品のほうを値上げして需要を減らすことだった。良いものを安く大量にという前提を外せば、シェアも売上高も目標の座から降りる。残るのは、どの事業がいくらの資本を使っていくらを返したかという問いだけになる。売上高至上主義を降りると決めた会社が次に要したのは、量に代わる物差しである。
その物差しがROEだった。外国人株主の比率が高い資本構成を理由に1996年3月期の連結7%という目標を置き、ロンドンで機関投資家に説明した。円が1ドル90円を割ったときコストの基準を円からドルへ移したのも同じ発想で、自社の都合ではなく外から見た尺度に経営を合わせる決め方である。連結の当期純利益は1994年3月期の46億円から1998年3月期の183億円へ4倍になり、量を追った時期より利益の出る会社になった。1999年4月の事業部制廃止とカンパニー制の導入は、その尺度を組織の単位にまで下ろした操作だった。創業者が分権で作った会社は、分ける理由を人が個性を発揮する場から資本の効率が測れる単位へ置き換えることで、次の10年へ入った。
1990年1月、立石電機は社名をオムロン株式会社へ変更した。1959年に制定した商標をそのまま社名へ引き上げ、創業者一族の姓を冠した商号は消えた。三男の立石義雄氏は1987年6月に社長へ就任しており、改称にあたって同族色を薄めると宣言している。新しい名の下で掲げたのが1990年代の経営ビジョン「ゴールデンナインティーズ」である。2001年時点の本業の売上高を当時の2.5倍にあたる1兆円へ広げる目標で、新規事業も3000億〜5000億円まで育てるとした。1991年1月、立石一真氏が90歳で死去する。創業者の手を離れた会社が最初に突き当たったのは、その拡大目標を支えるはずの需要が消えたことだった。
拡大を掲げる一方で、立石一真氏が晩年まで執念を燃やした大企業病の退治は間接部門へ及んだ。社員が増えて組織が肥大化すると、間接部門では責任の所在が曖昧になり、経費削減も合理化も効かなくなる。そこで宣伝・物流・経理などの業務をサービスという商品と捉え直し、社内取引価格を決めて対価を取る民営化に踏み切った。1988年春に総括部から事業部へ衣替えした物流事業部は、年末年始に各事業部と輸送サービスの価格交渉を行うようになる。1990年度の売上高は約60億円、利益率は3%程度を見込む収支単位となった。宣伝部門は1989年12月にオムロンコミュニケーションクリエイツとして分離し、初年度に約40億円を売り上げた。1990年12月には関係会社を含む1500人規模の改善活動報告会を京都で開き、この子会社が運営を請け負っている。
1990年4月に始まったMINEは、ホストコンピュータにつながるラップトップ型端末を課長以上の管理職と役員、その秘書に1人1台ずつ持たせる仕組みで、経営管理に関する情報を必要なときに端末から引き出せた。対象の約700人に対し、1991年4月までに460台が配られた。部長や課長が、それまで本部長クラス以上に閉じていた情報に触れられれば、判断は速くなり権限の委譲も進む。部品をまとめて調達する顧客から注文を得るには事業部の垣根を越えた対応が必要だったが、販売課長のなかには商談を上司に伏せておきたがる者もいた。これとは別に、中堅管理職が最長3か月休める長期休暇制度を1988年に設けている。立石一真氏は組織を細分化して権限を委ね、それぞれを中小企業へ戻そうとしたが、事業が絡み合う時代には分割だけで総合力は出ない。必要だったのは、分けずに全体を圧縮する装置だった。
1991年10月ごろを境に需要は一気にしぼみ、立石義雄氏は柱の制御事業の状態を減速ではなく失速と呼んだ。並みの不況なら横ばいで持ちこたえる合理化投資も前年比9割前後まで減り、省力化を売り物とする会社には逃げ道がなかった。もっとも、落ち込みの原因は需要の側だけにあったわけではない。エレクトロニクス業界はここ数年、新株発行を伴う資金調達で得た資金を設備投資に回し続け、技術者を中心に人も増やしたため、固定費と償却の重みで損益の均衡点が非常に高いところまで上がっていた。約30ある独立採算の事業は、売上高4000億円余りの会社には多すぎた。東芝や三菱電機などの総合電機と競い、リレーなど一部を除けば圧倒的なシェアを持つ事業はなかった。1993年3月期は7年ぶりの減収、2期連続の減益となる。
バブル期に採算の合わない機種まで広げてシェアを追ったことが、この局面で重荷となった。1992年6月の5〜15%の値上げは、不況下では逆の手に見えるが、主な対象は整理を予定する製品で、需要自体を減らすことが狙いだった。立石義雄氏は、10万点に及んだ機種を3年で3割削る目標を立て、新商品の開発もスクラップ・アンド・ビルドで進めるとした。量を増やしシェアを争えば売上は伸びても利益率は上がらず、品質の良い品を低価格で量産するという日本企業が当然としてきた考えを改めるべき時期だとして、事業量の拡大のみを頼みとする経営を社内で戒めた。質の高い成長を測る物差しには、顧客満足・働きがい・仕事の質・独自技術の四つを置いた。1993年3月期の連結では売上高4627億円、当期純利益45億円を計上した。
売上高の8%を研究開発に回し続けても経営資源が有限であることに変わりはなく、広がり過ぎた事業領域の見直しが始まった。不況をしのぐ三つの施策の一つとして立石義雄氏が掲げたのも、得意な技術分野への絞り込みと資源の集中投資である。選ばれたのは各事業に共通して強みを出せる四つの技術分野で、コンピュータ・通信・制御の頭文字を取った3Cと超小型電子部品のマイクロコンポ、それに人が機械を扱いやすくするライフサイエンスと、曖昧な条件をそのまま処理するファジーが並んだ。中央研究所は1988年から4年がかりで核技術別に再編し、ファジィ推進センタを設けた。有力な表示技術として取り組んだELは、液晶ディスプレーに優位を発揮できないと見て撤退した。既存事業と掛け離れた分野への落下傘的な展開をやめ、手がけた領域からにじみ出す型へ切り替えている。
1994年1月、オムロンは部品の国際調達を強制するアクションプランを示した。プリント基板・LED・コンデンサーなど調達金額の大きい130種が対象となる。各事業部は4月までに、国際購買課が指定した部品しか使えなくなった。1ドル100円を切れば調達比率は20%、80円なら50%へ自動でスライドする。かつて成長の原動力だった独立採算の社内ベンチャーは、ここでは足かせになっていた。部品調達は事業部ごとにばらばらで、購買窓口は全社に22を数えた。製品種は十数万点、使用部品は12万点で、発注量は一つひとつが町工場並みだった。部品取引先は2000社から1000社へ半減させ、残す相手は取引額と納入品種の比重で選んだ。為替変動に耐える体質をつくるには、ドルへコストを合わせたうえで国際生産分業と海外調達を進めるほかなかった。
オムロンはバブル不況に対し、経費削減・設備投資の圧縮・採用の抑制・資産の圧縮という第1次のリストラを済ませていた。それまでの施策を前倒しすれば1ドル90円までは耐えられるという自信があったが、1995年に90円の線を越えると、立石義雄氏は第2次のリストラに着手し、コスト・固定費・成長の三つの構造の改革を打ち出した。その柱は、基準とする通貨を円からドルへ移し、すべてのコストをドルの動きに連動させることだった。日本で基板、アジアで組み立てという水平分業を採り、生産面では両地域を一つの単位として扱った。中国では1993年4月に初の独資生産会社オムロン大連有限公司が動き出し、1994年5月には地域統轄会社も設けた。アジアへ生産を全面的に移す米国企業と違い、距離の近さを使えば空洞化を防ぎながら市場を取れるという読みである。
こうした構造改革の物差しとして、立石義雄氏はROE経営を掲げた。外国人株主の比率が他社より高く、株主に報いる努力が要るという理由からである。1996年3月期に連結7%・単独6%を目標へ置き、毎年ロンドンで機関投資家向けの説明会を開催した。成長の側では、既存の技術と商品と顧客を組み替えて新市場を作る「拡業」を軸に据え、3Cと健康分野へ経営資源を再配備する。連結売上高は1994年3月期の4608億円から1998年3月期の6117億円へ、当期純利益は46億円から183億円へ伸びた。1999年3月期は売上5552億円・純利益21億円へ減少し、同年4月、オムロンは事業部制を廃してカンパニー制を導入する。プロデューサ・システムから数えて三度目の、分権の組み替えだった。
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事実根拠:出所(オムロン)