1933年〜 立石一真氏と世界初を連発した京都の発明会社
- 1933年立石一真が大阪で立石電機製作所を創業
- 1945年工場を移転
- 1948年株式会社に改組
- 1955年プロデューサ・システム(分権型生産子会社方式)を創案
- 1960年世界初の無接点近接スイッチを開発
- 1962年京都・大阪証券取引所市場第二部に上場
- 1967年世界初の無人駅システムが阪急北千里駅で稼動
オムロンの業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
九尺二間から京都へ ── 創業・戦災・33人の谷
1933年5月10日、立石一真氏は33歳で大阪市都島区東野田に立石電機製作所を創業した。社員は工員と徒弟の各1人、長屋の2階に住み込んで階下を土間とし、作業台に万力を据えただけの零細な町工場だった。最初の製品は自ら開発したレントゲン写真撮影用タイマである。しかしレントゲンの市場は小さく、早々に電力用保護継電器の専門工場と銘打って電力業界へマーケットを切り替えた。立石電機製作所はわが国最初で唯一の継電器専門工場と称された。この転換が当たり、1936年には大阪市西淀川区野里町へ工場を新設移転し、1945年には社員250人を擁する規模へと伸びた。 [1][2][3][4]
- オムロン 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
- [1]1933年5月10日、立石一真が33歳で大阪市都島区東野田に立石電機製作所を創業(最初の製品はレントゲン写真撮影用タイマ)
- [4]1936年に大阪市西淀川区野里町へ工場を新設移転、1945年時点で社員250人規模
- 創る育てる:立石電機55年のあゆみ(立石電機, 1988)
- [2]レントゲン市場の小ささから電力用保護継電器の専門工場へ事業を転換
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [3]立石電機製作所はわが国最初で唯一の継電器(保護継電器)専門工場と位置づけられた
だが1945年5月、大阪の工場は終戦を待たず空襲で全焼する。前年から京都・御室にあった映画撮影所を譲り受けて疎開工場の改修を進めていたため、立石電機はここへ本拠を移した。今日オムロンが京都に本社を置く直接の経緯であり、後に制定する商標「OMRON」も御室の地名に由来する。終戦で継電器の需要は消え、1948年5月に資本金200万円で立石電機株式会社へ改組したものの再建は進まず、1950年には社員がわずか33人まで落ち込んだ。電力用機器の需要回復を待って、ここから本格的な再建が始まる。 [5][6][7][8]
- オムロン 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
- [5]1945年5月に大阪工場が空襲で全焼、前年に譲り受けた京都・御室の疎開工場へ本拠を移転
- [6]商標「OMRON」は本社所在地・御室の地名に由来
- [7]1948年5月、資本金200万円で立石電機株式会社へ改組
- わがベンチャー経営(立石一真著, ダイヤモンド・タイム社, 1974)
- [8]1950年(昭和25年)に社員が33人まで減少
- オムロン 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
- [1]1933年5月10日、立石一真が33歳で大阪市都島区東野田に立石電機製作所を創業(最初の製品はレントゲン写真撮影用タイマ)
- [4]1936年に大阪市西淀川区野里町へ工場を新設移転、1945年時点で社員250人規模
- [5]1945年5月に大阪工場が空襲で全焼、前年に譲り受けた京都・御室の疎開工場へ本拠を移転
- [6]商標「OMRON」は本社所在地・御室の地名に由来
- [7]1948年5月、資本金200万円で立石電機株式会社へ改組
- 創る育てる:立石電機55年のあゆみ(立石電機, 1988)
- [2]レントゲン市場の小ささから電力用保護継電器の専門工場へ事業を転換
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [3]立石電機製作所はわが国最初で唯一の継電器(保護継電器)専門工場と位置づけられた
- わがベンチャー経営(立石一真著, ダイヤモンド・タイム社, 1974)
- [8]1950年(昭和25年)に社員が33人まで減少
オートメーションへの賭けと分権制経営
再建の途上にあった1952年、立石一真氏は能率学の権威・上野陽一氏から、米国に作業員のいない自動工場が現れたという話を聞く。日本にオートメーションという言葉すら知られていなかった時期である。立石氏はこれを将来有望なマーケットと見定め、1955年、すでに55歳で社員110人・年商2億4000万円の会社を率いながら、まだ存在しない市場の開拓に乗り出した。マイクロスイッチやリレーなど制御に使う機能部品を自前で開発する道であり、新商品の研究開発を最優先する「経営基本五原則」とともに、後年オムロンを支えるR&D先行の経営はこの決断から始まる。 [9][10][11]
- わがベンチャー経営(立石一真著, ダイヤモンド・タイム社, 1974)
- [9]1952年、立石一真が能率学の権威・上野陽一から米国の無人工場(オートメーション)の話を聞く
- [11]新商品の研究開発を最優先する「経営基本五原則」
- 創る育てる:立石電機55年のあゆみ(立石電機, 1988)
- [10]1955年、社員110人・年商2億4000万円でオートメーション市場の開拓に着手(立石一真55歳)
事業の急拡大に対し、立石氏は1955年1月、独自の組織論「プロデューサ・システム」を創案した。販売と研究を別会社として分離し、生産を品目別の独立専門工場へ分社する分権型の運営方式で、生産子会社は最終的に9社に及んだ。立石氏はこれを単なる分社ではなく、人間が個性を発揮する場をつくる経営思想として位置付けている。システムが軌道に乗った5年間で売上はおよそ10倍に伸び、1959年には御室に由来する商標「OMRON」を制定、1962年4月には京都・大阪証券取引所市場第二部へ上場して、開発投資と資金調達を両輪で回す体制を整えた。 [12][13][14][15]
- オムロン 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
- [12]1955年1月、分権型の生産運営方式「プロデューサ・システム」を創案。生産子会社は最終的に9社
- [14]1959年に商標「OMRON」を制定
- [15]1962年4月、京都・大阪証券取引所市場第二部に上場
- わがベンチャー経営(立石一真著, ダイヤモンド・タイム社, 1974)
- [13]プロデューサ・システム導入後の約5年間で売上は約10倍に拡大
- わがベンチャー経営(立石一真著, ダイヤモンド・タイム社, 1974)
- [9]1952年、立石一真が能率学の権威・上野陽一から米国の無人工場(オートメーション)の話を聞く
- [11]新商品の研究開発を最優先する「経営基本五原則」
- [13]プロデューサ・システム導入後の約5年間で売上は約10倍に拡大
- 創る育てる:立石電機55年のあゆみ(立石電機, 1988)
- [10]1955年、社員110人・年商2億4000万円でオートメーション市場の開拓に着手(立石一真55歳)
- オムロン 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
- [12]1955年1月、分権型の生産運営方式「プロデューサ・システム」を創案。生産子会社は最終的に9社
- [14]1959年に商標「OMRON」を制定
- [15]1962年4月、京都・大阪証券取引所市場第二部に上場
「世界初」の連発と健康工学・社会貢献の源流
オートメーション用の機能部品で築いた制御技術は、1960年代に応用製品の「世界初」を次々に生み出した。1960年に世界初の無接点近接スイッチ、1964年に世界初の電子式自動感応式信号機を開発し、制御技術を交通インフラの領域へ広げる。1967年3月には阪急電鉄北千里駅で世界初の無人駅システムが稼動し、自動改札機と券売機を組み合わせたこの仕組みは日本の鉄道自動化の原型となった。1965年7月にはクレジットカードによる自動販売システムを開発し、その技術を世界最大の自動販売機メーカーである米キャンティーン社へ輸出している。工場の自動化を担うFAと、社会インフラを担う社会システムという、現在まで続く二つの事業の柱がこの時期に形を取った。 [16][17][18]
- オムロン 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
- [16]1960年に世界初の無接点近接スイッチ、1964年に世界初の電子式自動感応式信号機を開発
- [17]1967年3月、阪急北千里駅で世界初の無人駅システム(自動改札機・券売機)が稼動
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [18]1965年7月、クレジットカードによる自動販売システムを開発し、世界最大の自動販売機メーカー・米キャンティーン社へその技術を輸出
三つ目の柱となるヘルスケアの源流は、1963年のハンス・セリエ博士の招聘にさかのぼる。ストレス学説の世界的権威を一私企業が招いて健康工学を共同研究する試みは医学界の反響を呼び、立石電機はカナダのモントリオール大学実験医学研究所と共同研究契約を結んだ。東洋医学の経絡や脈診を電子的に測る研究から簡易血圧計の開発へと進み、1973年の血圧計1号機、そして電子血圧計や電子体温計「けんおんくん」へとつながった。健康機器への参入は、立石氏が掲げた社憲「よりよい社会をつくりましょう」の具現化と位置付けられた。 [19][20][21]
- 創る育てる:立石電機55年のあゆみ(立石電機, 1988)
- [19]1963年にハンス・セリエ博士を招聘して健康工学を共同研究、カナダ・モントリオール大学実験医学研究所と共同研究契約を締結
- [21]社憲「よりよい社会をつくりましょう」
- オムロン 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
- [20]東洋医学の経絡・脈診の電子計測研究から簡易血圧計を開発、1973年に血圧計1号機
社会への貢献を事業の形にする発想は、ほかにも現れた。1972年2月には障がい者雇用を前提とする生産子会社オムロン太陽株式会社を設立し、1960年代後半にはサリドマイド児のための電動義手を徳島大学と共同開発している。一方で1988年4月には東京支社を東京本社へ昇格させて二本社制とし、オランダ・シンガポール・米国に地域統轄会社を順次設けて、1989年にグローバル3極統轄体制を整えた。国内で世界初を重ねた京都の発明会社は、1980年代末に世界市場を見据えた制御機器メーカーへと立ち位置を移した。 [22][23][24]
- オムロン 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
- [22]1972年2月、障がい者雇用を前提とする生産子会社オムロン太陽株式会社を設立
- [24]1988年4月に二本社制へ移行、欧州・アジア・北米に地域統轄会社を設け1989年に3極統轄体制を完成
- 創る育てる:立石電機55年のあゆみ(立石電機, 1988)
- [23]1960年代後半、サリドマイド児のための電動義手を徳島大学と共同開発
- オムロン 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
- [16]1960年に世界初の無接点近接スイッチ、1964年に世界初の電子式自動感応式信号機を開発
- [17]1967年3月、阪急北千里駅で世界初の無人駅システム(自動改札機・券売機)が稼動
- [20]東洋医学の経絡・脈診の電子計測研究から簡易血圧計を開発、1973年に血圧計1号機
- [22]1972年2月、障がい者雇用を前提とする生産子会社オムロン太陽株式会社を設立
- [24]1988年4月に二本社制へ移行、欧州・アジア・北米に地域統轄会社を設け1989年に3極統轄体制を完成
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [18]1965年7月、クレジットカードによる自動販売システムを開発し、世界最大の自動販売機メーカー・米キャンティーン社へその技術を輸出
- 創る育てる:立石電機55年のあゆみ(立石電機, 1988)
- [19]1963年にハンス・セリエ博士を招聘して健康工学を共同研究、カナダ・モントリオール大学実験医学研究所と共同研究契約を締結
- [21]社憲「よりよい社会をつくりましょう」
- [23]1960年代後半、サリドマイド児のための電動義手を徳島大学と共同開発