オムロン の歴史

更新:

沿革

1933〜2026年 1933年に立石一真氏が大阪市でレントゲン写真撮影用タイマの製造を始めた立石電機製作所が起源。1960年に世界初の無接点近接スイッチを開発し、1967年には阪急北千里駅で世界初の無人駅システムを稼働させた。制御機器を主力とし、血圧計では世界首位に立つ。

沿革

1933年に立石一真氏が大阪市でレントゲン写真撮影用タイマの製造を始めた立石電機製作所が起源。

1960年に世界初の無接点近接スイッチを開発し、1967年には阪急北千里駅で世界初の無人駅システムを稼働させた。制御機器を主力とし、血圧計では世界首位に立つ。

1933年〜創業期立石一真の立石電機製作所創業と世界初の無接点近接スイッチ

  1. 立石一真が大阪で立石電機製作所を創業
  2. 工場を新設移転
  3. 工場を移転
  4. 株式会社に改組
  5. プロデューサ・システム(分権型生産子会社方式)を創案
  6. 商標「OMRON」を制定
  7. 世界初の無接点近接スイッチを開発
  8. 中央研究所を竣工
  9. 京都・大阪証券取引所市場第二部に上場
  10. 世界初の電子式自動感応式信号機を開発
  11. 世界初の無人駅システムが阪急北千里駅で稼動
  12. オムロン太陽を設立
  13. オムロンの血圧計1号機を開発
  14. 東京支社を東京本社に昇格し二本社制に移行
  15. 北米地域統轄会社を設立
オムロン売上高1985年3月期2,704億円

1990年〜転換期オムロンへの改称とカンパニー制の導入

  1. 社名を「オムロン」に変更
  2. 本社を移転
  3. 初の独資生産会社オムロン大連有限公司が稼動
  4. 事業部制を廃止しカンパニー制を導入
オムロン売上高1999年3月期5,552億円

2000年〜転換期純損失291億円と車載電装部品事業のニデックへの譲渡

  1. 京阪奈イノベーションセンタを開設
  2. ヘルスケア事業を分社しオムロンヘルスケアを設立
  3. BITRONを子会社化し車載電装部品事業を拡大
  4. 共同新設分割によりATM等の情報機器事業を日立オムロンターミナルソリューションズへ承継
  5. リーマンショックで純損失▲291億円を計上
  6. 事業別分社化を推進
  7. 山田義仁氏が代表取締役社長に就任
  8. 米Delta Tau Data Systemsを子会社化
  9. Adept Technologyを子会社化
  10. 産業用カメラメーカーのセンテックを子会社化
  11. 米Microscan Systemsを子会社化
  12. 世界初のウェアラブル血圧計を発売
  13. 車載電装部品事業をニデックへ譲渡
  14. 日立オムロンターミナルソリューションズ株式を日立に譲渡
  15. MEMS事業を分社しミツミ電機に譲渡
  16. 医療統計データの株式会社JMDCと資本・業務提携を実施
オムロン売上高2022年3月期7,629億円

2023年〜低迷期JMDCの子会社化と大幅減益からの構造改革

  1. 辻永順太氏が代表取締役社長CEOに就任
  2. JMDCを子会社化
  3. 大幅減益
  4. データソリューション事業ののれん減損損失を計上
  5. DMB事業を新会社へ吸収分割
オムロン売上高2026年3月期7,674億円

系譜

前身は1933年に立石一真氏が創業した立石電機製作所。1990年にオムロンへ商号変更し、2003年にヘルスケア事業を分社した。2019年には車載電装部品事業をニデックへ譲渡。売却と買収を重ね、選択と集中で事業ポートフォリオを組み替えた。

系譜

前身は1933年に立石一真氏が創業した立石電機製作所。

1990年にオムロンへ商号変更し、2003年にヘルスケア事業を分社した。2019年には車載電装部品事業をニデックへ譲渡。売却と買収を重ね、選択と集中で事業ポートフォリオを組み替えた。

1933年 2003年2004年 2015年 2017年 2019年2021年 2023年 2026年 立石電機製作所 1933年大阪で創業 オムロンヘルスケア 2003年分社 日立オムロンTS 2004年ATM等を承継 Delta Tau 2015年子会社化 Adept Technology 2015年子会社化 センテック 2017年子会社化 Microscan 2017年子会社化 車載電装部品事業 2019年ニデックへ譲渡 MEMS事業 2021年ミツミ電機へ譲渡 JMDC 2023年子会社化
長期業績の推移 1950〜2026年

業績

オムロン:歴代社長と長期業績の推移売上高(億円)純利益率(%)
1970年3月期〜2026年3月期

第1章 1933年〜 立石一真の立石電機製作所創業と世界初の無接点近接スイッチ

筆者考察y.sugiura, author

立石電機が伸びた理由は、製品を良くしたことではなく、買い手がまだ欲しいと言えない市場を先に作ったことにある。1933年に始めた保護継電器は電力会社という限られた相手しか持たない商品で、戦災と終戦でその需要ごと消えた。1950年に社員33人まで縮んだ会社が選んだのは、同じ商品の改良ではなく、日本にオートメーションという言葉すら無かった1955年に、機械が機械を動かすための機能部品へ回ることだった。市場が無い場所へ出れば回収は遅れるが、競合もいない。無接点近接スイッチも自動改札機も血圧計も、他社が参入を決める前に立石電機が単独で走った期間の長さが、そのまま利益になった。

この遠回りを支えたのは、人を小さな単位へ割り続ける組織である。1955年のプロデューサ・システムは販売と研究を別会社にし、生産を品目別の工場へ分けて、最終的に9社の生産子会社を生んだ。1962年には本社の部長を工場へ送り、販売会社の注文も本社を通さず工場へ入れている。分ける狙いは効率ではなく、決める人を顧客の近くに置くことにあった。だから1983年に立石一真氏が自ら大企業病と名付けて事業本部へ権限を移したときも、手口は創業期と変わらない。見本品を届けるのに3か月かかる会社が、2〜3週間で応じる中小に小口を奪われる。大きくなるほど競争優位を失うというこの自覚が、京都の発明会社を世界市場の制御機器メーカーへ押し出した。

立石電機の売上高 1961年3月期から1985年3月期まで(億円)

8.2 1961 57.1 1965 267 1970 842 1975 1,251 1980 2,704 1985
  • オートメーション市場の開拓に乗り出した1955年の年商は2億4000万円。
  • 出所は会社年鑑(単体)。

1933年〜九尺二間から京都へ ── 創業・戦災・33人の谷

1933年5月10日、立石一真氏は33歳で大阪市都島区東野田に立石電機製作所を創業した。社員は工員と徒弟の各1人、長屋の2階に住み込んで階下を土間とし、作業台に万力を据えただけの零細な町工場だった。最初の製品は自ら開発したレントゲン写真撮影用タイマである。しかしレントゲンの市場は小さく、早々に電力用保護継電器の専門工場と銘打って電力業界へマーケットを切り替えた。立石電機製作所はわが国最初で唯一の継電器専門工場と称された。この転換が当たり、1936年には大阪市西淀川区野里町へ工場を新設移転し、1945年には社員250人を擁する規模へと伸びた。

  • オムロン 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1933年5月10日、立石一真が33歳で大阪市都島区東野田に立石電機製作所を創業(最初の製品はレントゲン写真撮影用タイマ)
    • [4]1936年に大阪市西淀川区野里町へ工場を新設移転、1945年時点で社員250人規模
  • 創る育てる:立石電機55年のあゆみ(立石電機, 1988)
    • [2]レントゲン市場の小ささから電力用保護継電器の専門工場へ事業を転換
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [3]立石電機製作所はわが国最初で唯一の継電器(保護継電器)専門工場と位置づけられた

だが1945年5月、大阪の工場は終戦を待たず空襲で全焼する。前年から京都・御室にあった映画撮影所を譲り受けて疎開工場の改修を進めていたため、立石電機はここへ本拠を移した。今日オムロンが京都に本社を置く直接の経緯であり、後に制定する商標"OMRON"も御室の地名に由来する。終戦で継電器の需要は消え、1948年5月に資本金200万円で立石電機株式会社へ改組したものの再建は進まず、1950年には社員がわずか33人まで減少した。電力用機器の需要回復を待って、ここから本格的な再建が始まる。

  • オムロン 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [5]商標「OMRON」は本社所在地・御室の地名に由来
    • [6]1948年5月、資本金200万円で立石電機株式会社へ改組
  • わがベンチャー経営(立石一真著, ダイヤモンド・タイム社, 1974)
    • [7]1950年(昭和25年)に社員が33人まで減少

疎開先に京都を選んだ理由は三つあった。立石氏が創業前に京都南郊の井上電機製作所へ勤めた縁があったこと、文化遺産が多く空襲の恐れが小さいと見たこと、西陣織や清水焼の伝統産業があり、組立作業に向く器用な手を見込めることである。御室の疎開工場を開設したのは1944年4月で、大阪工場の焼失を受けて1945年8月にこの京都工場が本社工場へ昇格した。本命の誘導形保護継電器は戦後数年、需要がまったく消えたままだった。1947年6月に政府が示した電力危機突破対策要綱に沿って電力会社から電流制限器を受注し、電熱器やヘヤアイロン、電気ライタなどの家庭用品を売って急場をしのぐ。その電流制限器も1949年3月のドッジ・ラインに関連して出荷停止令を受けた。

  • 立石電機株式会社社史編纂委員会『立石電機の30年 : 1933-1963』「立石電機および組織の変遷」(立石電機社史編纂委員会, 1963年)
    • [8]京都を疎開先に選んだ理由は、立石一真が創業前に京都南郊の井上電機製作所へ勤めた縁、文化遺産にめぐまれ爆撃の心配がほとんどないこと、西陣織・清水焼などの伝統郷土産業があり組立作業に必要な手先の器用さが期待できることの3点
    • [9]1944年4月に御室へ疎開工場を開設、大阪工場焼失を受けて1945年8月に京都工場が本社工場へ昇格
    • [10]戦後数年は本命の誘導形保護継電器の需要が消え、1947年6月の政府「電力危機突破対策要綱」に基づく電流制限器の受注と家庭用電気器具(電熱器・ヘヤアイロン・電気ライタ等)で急場をしのいだ。電流制限器は1949年3月のドッジ・ラインに関連して出荷停止令を受けた
参考文献[1]-[10]
  • オムロン 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1933年5月10日、立石一真が33歳で大阪市都島区東野田に立石電機製作所を創業(最初の製品はレントゲン写真撮影用タイマ)
    • [4]1936年に大阪市西淀川区野里町へ工場を新設移転、1945年時点で社員250人規模
    • [5]商標「OMRON」は本社所在地・御室の地名に由来
    • [6]1948年5月、資本金200万円で立石電機株式会社へ改組
  • 創る育てる:立石電機55年のあゆみ(立石電機, 1988)
    • [2]レントゲン市場の小ささから電力用保護継電器の専門工場へ事業を転換
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [3]立石電機製作所はわが国最初で唯一の継電器(保護継電器)専門工場と位置づけられた
  • わがベンチャー経営(立石一真著, ダイヤモンド・タイム社, 1974)
    • [7]1950年(昭和25年)に社員が33人まで減少
  • 立石電機株式会社社史編纂委員会『立石電機の30年 : 1933-1963』「立石電機および組織の変遷」(立石電機社史編纂委員会, 1963年)
    • [8]京都を疎開先に選んだ理由は、立石一真が創業前に京都南郊の井上電機製作所へ勤めた縁、文化遺産にめぐまれ爆撃の心配がほとんどないこと、西陣織・清水焼などの伝統郷土産業があり組立作業に必要な手先の器用さが期待できることの3点
    • [9]1944年4月に御室へ疎開工場を開設、大阪工場焼失を受けて1945年8月に京都工場が本社工場へ昇格
    • [10]戦後数年は本命の誘導形保護継電器の需要が消え、1947年6月の政府「電力危機突破対策要綱」に基づく電流制限器の受注と家庭用電気器具(電熱器・ヘヤアイロン・電気ライタ等)で急場をしのいだ。電流制限器は1949年3月のドッジ・ラインに関連して出荷停止令を受けた

1952年〜オートメーションへの賭けと分権制経営

再建の途上にあった1952年、立石一真氏は能率学の権威・上野陽一氏から、米国に作業員のいない自動工場が現れたという話を聞く。日本にオートメーションという言葉すら知られていなかった時期である。立石氏はこれを将来有望なマーケットと見定め、1955年、すでに55歳で社員110人・年商2億4000万円の会社を率いながら、まだ存在しない市場の開拓に乗り出した。マイクロスイッチやリレーなど制御に使う機能部品を自前で開発する道であり、新商品の研究開発を最優先する"経営基本五原則"とともに、後年オムロンを支えるR&D先行の経営はこの決断から始まる。立石氏にとって本当の意味の創業は、保護継電器から次の有望マーケットへ踏み出した戦後の1955年だった。

  • わがベンチャー経営(立石一真著, ダイヤモンド・タイム社, 1974)
    • [11]1952年、立石一真が能率学の権威・上野陽一から米国の無人工場(オートメーション)の話を聞く
    • [13]新商品の研究開発を最優先する「経営基本五原則」
  • 創る育てる:立石電機55年のあゆみ(立石電機, 1988)
    • [12]1955年、社員110人・年商2億4000万円でオートメーション市場の開拓に着手(立石一真55歳)
  • 日経ビジネス 1990年5月21日号
    • [14]立石一真は、創業商品の保護継電器のままでは大きな飛躍は望めず次の有望マーケットを模索していたとし、本当の意味の創業は戦後の1955年(オートメーション事業への進出)だったと述べた

事業の急拡大に対し、立石氏は1955年1月、独自の組織論"プロデューサ・システム"を創案した。販売と研究を別会社として分離し、生産を品目別の独立専門工場へ分社する分権型の運営方式で、生産子会社は最終的に9社に及んだ。立石氏はこれを単なる分社ではなく、人間が個性を発揮する場をつくる経営思想として位置付けている。システムが軌道に乗った5年間で売上はおよそ10倍に伸び、1959年には御室に由来する商標"OMRON"を制定、1962年4月には京都・大阪証券取引所市場第二部へ上場して、開発投資と資金調達を両輪で回す体制を構築した。

  • オムロン 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [15]1955年1月、分権型の生産運営方式「プロデューサ・システム」を創案。生産子会社は最終的に9社
    • [17]1959年に商標「OMRON」を制定
    • [18]1962年4月、京都・大阪証券取引所市場第二部に上場
  • わがベンチャー経営(立石一真著, ダイヤモンド・タイム社, 1974)
    • [16]プロデューサ・システム導入後の約5年間で売上は約10倍に拡大

分権の実像は数字に残っている。プロデューサ・システムを始めた1955年の全社員は185人、プロデューサ工場は二つで、1工場あたり40〜50人にすぎなかった。工場が増えて借工場から新築へ移ると本社からの集中管理では手が届かなくなり、1962年9月には本社の部長級を工場へ送り込む工場専務制を敷く。販売会社からの注文も本社を経由せず工場へ直接入るよう改め、資材や一部の管理業務も工場へ移した。儲かる商品が現れると各社がなだれ込む業界にあって、自ら技術で商品を開発し市場も自分で開拓する遠回りの道を選ぶ──1973年時点で、その研究テーマは一貫して省力化と無人化に置かれ、外れた新規投資がないと評価されていた。

  • 立石電機株式会社社史編纂委員会『立石電機の30年 : 1933-1963』「立石電機および組織の変遷」(立石電機社史編纂委員会, 1963年)
    • [19]プロデューサ・システム創設時(1955年)の全社員は185人、プロデューサ工場は2つで1工場あたり40〜50人規模
    • [20]1962年9月に工場専務制を実施し本社管理部門の部長クラスをプロデューサ工場へ派遣。販売会社から工場への直接発注、資材および一部管理業務の工場移管を1961年後半〜1962年にかけて実施
  • 日経ビジネス 1973年9月2日号
    • [21]独自の技術開発で新商品を開発しマーケットも自主開拓する「遠回りに見える」経営戦略が高成長・高収益の源泉で、研究テーマは一貫して省力化・無人化に置かれ、当たらない新規投資はなかった(1973年時点)
参考文献[11]-[21]
  • わがベンチャー経営(立石一真著, ダイヤモンド・タイム社, 1974)
    • [11]1952年、立石一真が能率学の権威・上野陽一から米国の無人工場(オートメーション)の話を聞く
    • [13]新商品の研究開発を最優先する「経営基本五原則」
    • [16]プロデューサ・システム導入後の約5年間で売上は約10倍に拡大
  • 創る育てる:立石電機55年のあゆみ(立石電機, 1988)
    • [12]1955年、社員110人・年商2億4000万円でオートメーション市場の開拓に着手(立石一真55歳)
  • 日経ビジネス 1990年5月21日号
    • [14]立石一真は、創業商品の保護継電器のままでは大きな飛躍は望めず次の有望マーケットを模索していたとし、本当の意味の創業は戦後の1955年(オートメーション事業への進出)だったと述べた
  • オムロン 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [15]1955年1月、分権型の生産運営方式「プロデューサ・システム」を創案。生産子会社は最終的に9社
    • [17]1959年に商標「OMRON」を制定
    • [18]1962年4月、京都・大阪証券取引所市場第二部に上場
  • 立石電機株式会社社史編纂委員会『立石電機の30年 : 1933-1963』「立石電機および組織の変遷」(立石電機社史編纂委員会, 1963年)
    • [19]プロデューサ・システム創設時(1955年)の全社員は185人、プロデューサ工場は2つで1工場あたり40〜50人規模
    • [20]1962年9月に工場専務制を実施し本社管理部門の部長クラスをプロデューサ工場へ派遣。販売会社から工場への直接発注、資材および一部管理業務の工場移管を1961年後半〜1962年にかけて実施
  • 日経ビジネス 1973年9月2日号
    • [21]独自の技術開発で新商品を開発しマーケットも自主開拓する「遠回りに見える」経営戦略が高成長・高収益の源泉で、研究テーマは一貫して省力化・無人化に置かれ、当たらない新規投資はなかった(1973年時点)

1960年〜「世界初」の連発と健康工学・社会貢献の源流

オートメーション用の機能部品で築いた制御技術は、1960年代に応用製品の"世界初"を次々に生み出した。1960年に世界初の無接点近接スイッチ、1964年に世界初の電子式自動感応式信号機を開発し、制御技術を交通インフラの領域へ広げる。1967年3月には阪急電鉄北千里駅で世界初の無人駅システムが稼動し、自動改札機と券売機を組み合わせたこの仕組みは日本の鉄道自動化の原型となった。1965年7月にはクレジットカードによる自動販売システムを開発し、その技術を世界最大の自動販売機メーカーである米キャンティーン社へ輸出している。交通制御はその後、都心の120か所の交差点に探知機を置いて車の通過量を測り、警視庁の計算機で信号を一斉に出す無人の仕組みへ進む。工場の自動化を担うFAと、社会インフラを担う社会システムという、現在まで続く二つの主力事業がこの時期に形を取った。

  • オムロン 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [22]1960年に世界初の無接点近接スイッチ、1964年に世界初の電子式自動感応式信号機を開発
    • [23]1967年3月、阪急北千里駅で世界初の無人駅システム(自動改札機・券売機)が稼動
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [24]1965年7月、クレジットカードによる自動販売システムを開発し、世界最大の自動販売機メーカー・米キャンティーン社へその技術を輸出
  • 日経ビジネス 1985年8月19日号
    • [25]交通制御システムでは銀座界隈から国会議事堂まで120か所の交差点に探知機を取り付け、車の通過量を測定して警視庁の大型コンピューターで演算し、120か所の信号を制御する無人化を実現(1985年時点)

三つ目の柱となるヘルスケアの源流は、1963年のハンス・セリエ博士の招聘にさかのぼる。立石氏の掲げた社憲はより良い社会を築くことをうたっており、健康機器への参入はその具体化と位置付けられた。出発点は、ストレス学説の世界的権威を一私企業が招き、健康工学を共同で研究するという試みで、医学界に反響を呼んだ。立石電機が契約を結んだ相手は、カナダのモントリオール大学実験医学研究所である。研究は東洋医学の経絡や脈診を電子で測る方向から簡易血圧計の開発へ進み、1973年に血圧計1号機を送り出した。その流れは、電子血圧計や電子体温計"けんおんくん"につながっている。

  • 創る育てる:立石電機55年のあゆみ(立石電機, 1988)
    • [26]社憲「よりよい社会をつくりましょう」
    • [27]1963年にハンス・セリエ博士を招聘して健康工学を共同研究、カナダ・モントリオール大学実験医学研究所と共同研究契約を締結
  • オムロン 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [28]東洋医学の経絡・脈診の電子計測研究から簡易血圧計を開発、1973年に血圧計1号機

社会への貢献を事業の形にする発想は、ほかにも現れた。徳島大学と組んでサリドマイド児向けの電動義手を開発したのは1960年代後半で、1972年2月には障がい者の雇用を前提とした生産子会社オムロン太陽株式会社を設けた。会社が大きくなると、別の問題が表に出た。見本品を届けるまでに3か月かかる間に、2〜3週間で応じる中小企業に小口の取引を奪われ始めていたのである。1983年、立石氏は、中央集権化によって許認可事項と会議が膨らみ、注文を受けてから代金を回収するまでの期間が長くなったことで、機敏な新興企業に対して優位に立てなくなったと判断した。そこで事業本部に大きく権限を移し、会社を中小企業の寄り合いのような形に組み替える道を選んだ。その一方で、1988年4月には東京支社を東京本社に格上げして二本社制を敷いた。オランダ・シンガポール・米国に地域統轄会社を順に置き、1989年にはグローバル3極統轄体制を築いている。国内で世界初を重ねた京都の発明会社は、1980年代末に世界市場を見据えた制御機器メーカーへと立ち位置を移した。

  • 創る育てる:立石電機55年のあゆみ(立石電機, 1988)
    • [29]1960年代後半、サリドマイド児のための電動義手を徳島大学と共同開発
  • オムロン 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [30]1972年2月、障がい者雇用を前提とする生産子会社オムロン太陽株式会社を設立
    • [33]1988年4月に二本社制へ移行、欧州・アジア・北米に地域統轄会社を設け1989年に3極統轄体制を完成
  • 日経ビジネス 1983年10月31日号
    • [31]制御機器部品の分野で中小のライバルに小口の商売を奪われるケースが増え、注文から見本品を届けるまで自社は3か月、ライバルの中小企業は2〜3週間だった(1983年時点)
  • 読売新聞(1983年1月22日)
    • [32]1983年1月、立石一真は中央集権化で許認可事項も会議も増え受注から代金回収までの時間が延びて小回りのきくベンチャービジネスに勝てなくなるとし、事業本部への大幅な権限移譲で会社全体を中小企業の集まりにすると述べた
参考文献[22]-[33]
  • オムロン 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [22]1960年に世界初の無接点近接スイッチ、1964年に世界初の電子式自動感応式信号機を開発
    • [23]1967年3月、阪急北千里駅で世界初の無人駅システム(自動改札機・券売機)が稼動
    • [28]東洋医学の経絡・脈診の電子計測研究から簡易血圧計を開発、1973年に血圧計1号機
    • [30]1972年2月、障がい者雇用を前提とする生産子会社オムロン太陽株式会社を設立
    • [33]1988年4月に二本社制へ移行、欧州・アジア・北米に地域統轄会社を設け1989年に3極統轄体制を完成
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [24]1965年7月、クレジットカードによる自動販売システムを開発し、世界最大の自動販売機メーカー・米キャンティーン社へその技術を輸出
  • 日経ビジネス 1985年8月19日号
    • [25]交通制御システムでは銀座界隈から国会議事堂まで120か所の交差点に探知機を取り付け、車の通過量を測定して警視庁の大型コンピューターで演算し、120か所の信号を制御する無人化を実現(1985年時点)
  • 創る育てる:立石電機55年のあゆみ(立石電機, 1988)
    • [26]社憲「よりよい社会をつくりましょう」
    • [27]1963年にハンス・セリエ博士を招聘して健康工学を共同研究、カナダ・モントリオール大学実験医学研究所と共同研究契約を締結
    • [29]1960年代後半、サリドマイド児のための電動義手を徳島大学と共同開発
  • 日経ビジネス 1983年10月31日号
    • [31]制御機器部品の分野で中小のライバルに小口の商売を奪われるケースが増え、注文から見本品を届けるまで自社は3か月、ライバルの中小企業は2〜3週間だった(1983年時点)
  • 読売新聞(1983年1月22日)
    • [32]1983年1月、立石一真は中央集権化で許認可事項も会議も増え受注から代金回収までの時間が延びて小回りのきくベンチャービジネスに勝てなくなるとし、事業本部への大幅な権限移譲で会社全体を中小企業の集まりにすると述べた

第2章 1990年〜 オムロンへの改称とカンパニー制の導入ゴールデンナインティーズの1兆円からROE経営へ

筆者考察y.sugiura, author

1990年代のオムロンが突き当たったのは需要の減少ではなく、拡大そのものが利益を生まなくなったという事実だった。バブル期に機種を増やしてシェアを追った結果、独立採算の事業は約30、機種は10万点、使用部品は12万点、購買窓口は22まで膨らむ。発注は一件ずつが町工場並みの量になり、まとめ買いの単価も効かない。立石義雄氏が1992年に打った手は、需要を増やす努力ではなく、整理する製品のほうを値上げして需要を減らすことだった。良いものを安く大量にという前提を外せば、シェアも売上高も目標の座から降りる。残るのは、どの事業がいくらの資本を使っていくらを返したかという問いだけになる。売上高至上主義を降りると決めた会社が次に要したのは、量に代わる物差しである。

その物差しがROEだった。外国人株主の比率が高い資本構成を理由に1996年3月期の連結7%という目標を置き、ロンドンで機関投資家に説明した。円が1ドル90円を割ったときコストの基準を円からドルへ移したのも同じ発想で、自社の都合ではなく外から見た尺度に経営を合わせる決め方である。連結の当期純利益は1994年3月期の46億円から1998年3月期の183億円へ4倍になり、量を追った時期より利益の出る会社になった。1999年4月の事業部制廃止とカンパニー制の導入は、その尺度を組織の単位にまで下ろした操作だった。創業者が分権で作った会社は、分ける理由を人が個性を発揮する場から資本の効率が測れる単位へ置き換えることで、次の10年へ入った。

連結の当期純利益 1992年3月期から1999年3月期まで(億円)

61 92.3 45 93.3 46 94.3 121 95.3 145 96.3 157 97.3 183 98.3 21 99.3
  • 同じ期間の連結売上高は4832億円から6117億円へ伸び、1999年3月期は5552億円。
  • 出所は会社年鑑(連結決算)。

1990年〜1兆円構想を掲げた改称と間接部門の民営化

社名を捨てて1兆円を掲げる

1990年1月、立石電機は社名をオムロン株式会社へ変更した。1959年に制定した商標をそのまま社名へ引き上げ、創業者一族の姓を冠した商号は消えた。三男の立石義雄氏は1987年6月に社長へ就任しており、改称にあたって同族色を薄めると宣言している。新しい名の下で掲げたのが1990年代の経営ビジョン「ゴールデンナインティーズ」である。2001年時点の本業の売上高を当時の2.5倍にあたる1兆円へ広げる目標で、新規事業も3000億〜5000億円まで育てるとした。1991年1月、立石一真氏が90歳で死去する。創業者の手を離れた会社が最初に突き当たったのは、その拡大目標を支えるはずの需要が消えたことだった。

  • オムロン 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [34]1990年1月、社名を「オムロン株式会社」に変更
    • [35]1959年に商標「OMRON」を制定
  • 日経ビジネス 1992年7月13日号
    • [36]立石義雄は創業者の三男で、1987年6月に社長就任
  • 日経ビジネス 1995年6月5日号
    • [37]立石義雄は、オーナー経営そのものは否定しないが同族色は薄めてきたとし、それは社名をオムロンに変えたときに宣言したと述べた
  • 日経ビジネス 1991年1月14日号
    • [38]立石義雄社長のもとで21世紀のあるべき姿を考慮し、1990年代の経営ビジョン「ゴールデンナインティーズ」を策定
    • [39]ゴールデンナインティーズは、2001年時点で本業のマイクロエレクトロニクス事業の売上高を当時の2.5倍にあたる1兆円へ拡大し、新規事業を3000億〜5000億円まで成長させると掲げた
  • 日経ビジネス 1991年4月22日号
    • [40]創業者の立石一真は1991年1月に90歳で死去
間接部門に値札を付ける

拡大を掲げる一方で、立石一真氏が晩年まで執念を燃やした大企業病の退治は間接部門へ及んだ。社員が増えて組織が肥大化すると、間接部門では責任の所在が曖昧になり、経費削減も合理化も効かなくなる。そこで宣伝・物流・経理などの業務をサービスという商品と捉え直し、社内取引価格を決めて対価を取る民営化に踏み切った。1988年春に総括部から事業部へ衣替えした物流事業部は、年末年始に各事業部と輸送サービスの価格交渉を行うようになる。1990年度の売上高は約60億円、利益率は3%程度を見込む収支単位となった。宣伝部門は1989年12月にオムロンコミュニケーションクリエイツとして分離し、初年度に約40億円を売り上げた。1990年12月には関係会社を含む1500人規模の改善活動報告会を京都で開き、この子会社が運営を請け負っている。

  • 日経ビジネス 1991年4月22日号
    • [41]創業者の立石一真は晩年、組織の肥大に伴う意思決定の遅れ・顧客対応の悪化・在庫の増加といった「大企業病」の退治に執念を燃やした
  • 日経ビジネス 1991年1月14日号
    • [42]会社の規模拡大で社員が増え組織が肥大化し、特に間接部門では責任の所在が曖昧になって経費削減・合理化の効果が上がらなくなった
    • [43]宣伝・経理など間接部門の分権化を進め、業務をサービスとして社内取引価格を決めて対価を取る「民営化」を実施
    • [44]物流総括部は1988年春に物流事業部へ衣替えし、各事業部と輸送サービスの社内取引価格の見直し交渉を年末年始に行うようになった
    • [45]物流事業部の1990年度の売上高見込みは約60億円、利益は3%程度
    • [46]1989年12月に広告宣伝・イベント企画の子会社オムロンコミュニケーションクリエイツを設立、初年度売上高は約40億円
    • [47]1990年12月13〜14日に京都でグループ関係者1500人が集まる「全社革新成果発表大会」を開催し、オムロンコミュニケーションクリエイツが会場選定から告知・発表資料の制作協力までを担当
管理職に端末を配る

1990年4月に始まったMINEは、ホストコンピュータにつながるラップトップ型端末を課長以上の管理職と役員、その秘書に1人1台ずつ持たせる仕組みで、経営管理に関する情報を必要なときに端末から引き出せた。対象の約700人に対し、1991年4月までに460台が配られた。部長や課長が、それまで本部長クラス以上に閉じていた情報に触れられれば、判断は速くなり権限の委譲も進む。部品をまとめて調達する顧客から注文を得るには事業部の垣根を越えた対応が必要だったが、販売課長のなかには商談を上司に伏せておきたがる者もいた。これとは別に、中堅管理職が最長3か月休める長期休暇制度を1988年に設けている。立石一真氏は組織を細分化して権限を委ね、それぞれを中小企業へ戻そうとしたが、事業が絡み合う時代には分割だけで総合力は出ない。必要だったのは、分けずに全体を圧縮する装置だった。

  • 日経ビジネス 1991年4月22日号
    • [48]1990年4月、課長以上の管理職・役員とその秘書にラップトップ型端末を1人1台持たせる情報システム「MINE」を導入
    • [49]MINEの端末はホストコンピューターと結ばれ各種の経営管理情報を自由に引き出せ、基本メニューは社長でも課長でも変わらない
    • [50]MINEの対象者は約700人で、1991年4月時点で460台を導入済み
    • [51]MINE導入の最大の狙いは社内情報の共有化で、従来は本部長以上しか知り得なかったデータを部長・課長も知ることで意思決定の迅速化と権限委譲を進める
    • [52]進行中の商談を上司に秘密にしたがる販売課長に対し、顧客であるセットメーカーは必要な部品の仕入れを一括管理しているため事業部を超えて迅速に対応しなければ商談を取れないと説明した
    • [54]立石一真は大企業病の治療法として組織を細分化し権限を委譲して元の中小企業に戻そうとしたが、事業内容が多様化し絡み合う状況では分割するばかりでは強さが保てない
  • 日経ビジネス 1991年1月14日号
    • [53]1988年から最長3か月間の長期休暇制度を導入し中堅管理職クラスの活性化を図った
参考文献[34]-[54]
  • オムロン 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [34]1990年1月、社名を「オムロン株式会社」に変更
    • [35]1959年に商標「OMRON」を制定
  • 日経ビジネス 1992年7月13日号
    • [36]立石義雄は創業者の三男で、1987年6月に社長就任
  • 日経ビジネス 1995年6月5日号
    • [37]立石義雄は、オーナー経営そのものは否定しないが同族色は薄めてきたとし、それは社名をオムロンに変えたときに宣言したと述べた
  • 日経ビジネス 1991年1月14日号
    • [38]立石義雄社長のもとで21世紀のあるべき姿を考慮し、1990年代の経営ビジョン「ゴールデンナインティーズ」を策定
    • [39]ゴールデンナインティーズは、2001年時点で本業のマイクロエレクトロニクス事業の売上高を当時の2.5倍にあたる1兆円へ拡大し、新規事業を3000億〜5000億円まで成長させると掲げた
    • [42]会社の規模拡大で社員が増え組織が肥大化し、特に間接部門では責任の所在が曖昧になって経費削減・合理化の効果が上がらなくなった
    • [43]宣伝・経理など間接部門の分権化を進め、業務をサービスとして社内取引価格を決めて対価を取る「民営化」を実施
    • [44]物流総括部は1988年春に物流事業部へ衣替えし、各事業部と輸送サービスの社内取引価格の見直し交渉を年末年始に行うようになった
    • [45]物流事業部の1990年度の売上高見込みは約60億円、利益は3%程度
    • [46]1989年12月に広告宣伝・イベント企画の子会社オムロンコミュニケーションクリエイツを設立、初年度売上高は約40億円
    • [47]1990年12月13〜14日に京都でグループ関係者1500人が集まる「全社革新成果発表大会」を開催し、オムロンコミュニケーションクリエイツが会場選定から告知・発表資料の制作協力までを担当
    • [53]1988年から最長3か月間の長期休暇制度を導入し中堅管理職クラスの活性化を図った
  • 日経ビジネス 1991年4月22日号
    • [40]創業者の立石一真は1991年1月に90歳で死去
    • [41]創業者の立石一真は晩年、組織の肥大に伴う意思決定の遅れ・顧客対応の悪化・在庫の増加といった「大企業病」の退治に執念を燃やした
    • [48]1990年4月、課長以上の管理職・役員とその秘書にラップトップ型端末を1人1台持たせる情報システム「MINE」を導入
    • [49]MINEの端末はホストコンピューターと結ばれ各種の経営管理情報を自由に引き出せ、基本メニューは社長でも課長でも変わらない
    • [50]MINEの対象者は約700人で、1991年4月時点で460台を導入済み
    • [51]MINE導入の最大の狙いは社内情報の共有化で、従来は本部長以上しか知り得なかったデータを部長・課長も知ることで意思決定の迅速化と権限委譲を進める
    • [52]進行中の商談を上司に秘密にしたがる販売課長に対し、顧客であるセットメーカーは必要な部品の仕入れを一括管理しているため事業部を超えて迅速に対応しなければ商談を取れないと説明した
    • [54]立石一真は大企業病の治療法として組織を細分化し権限を委譲して元の中小企業に戻そうとしたが、事業内容が多様化し絡み合う状況では分割するばかりでは強さが保てない

1991年〜制御事業の失速と機種・技術の集約

制御事業が失速する

1991年10月ごろを境に需要は一気にしぼみ、立石義雄氏は柱の制御事業の状態を減速ではなく失速と呼んだ。並みの不況なら横ばいで持ちこたえる合理化投資も前年比9割前後まで減り、省力化を売り物とする会社には逃げ道がなかった。もっとも、落ち込みの原因は需要の側だけにあったわけではない。エレクトロニクス業界はここ数年、新株発行を伴う資金調達で得た資金を設備投資に回し続け、技術者を中心に人も増やしたため、固定費と償却の重みで損益の均衡点が非常に高いところまで上がっていた。約30ある独立採算の事業は、売上高4000億円余りの会社には多すぎた。東芝や三菱電機などの総合電機と競い、リレーなど一部を除けば圧倒的なシェアを持つ事業はなかった。1993年3月期は7年ぶりの減収、2期連続の減益となる。

  • 日経ビジネス 1992年7月13日号
    • [55]1991年10月あたりから需要が急激に落ち込んだ
    • [56]立石義雄は基軸の制御事業について「減速というよりも失速といった方が適切」と述べた
    • [57]通常の不況では合理化投資が前年比横ばいで推移するが、今回は前年を割り込み9割前後となり企業が合理化投資も手控えた
    • [58]エレクトロニクス業界はここ数年エクイティファイナンスで多額の資金を調達し設備投資に充ててきた
    • [59]償却負担が重くのしかかり、技術者を中心とした積極採用で固定費が膨れて損益分岐点が極端に高くなった
  • 日経ビジネス 1992年3月9日号
    • [60]独立採算制をとる事業は約30あり、売上高4000億円余りの企業としては事業領域が幅広い(1992年時点)
    • [61]各事業のライバルに東芝・三菱電機など総合電機メーカーや専門メーカーが並び、リレーなどごく一部の製品を除き圧倒的なシェアを握る事業は見当たらない
  • 日経ビジネス 1994年1月31日号
    • [62]不況による設備投資の低迷と円高による為替差損などで1993年3月期は7年ぶりの減収、2期連続の減益
機種を減らし、値を上げる

バブル期に採算の合わない機種まで広げてシェアを追ったことが、この局面で重荷となった。1992年6月の5〜15%の値上げは、不況下では逆の手に見えるが、主な対象は整理を予定する製品で、需要自体を減らすことが狙いだった。立石義雄氏は、10万点に及んだ機種を3年で3割削る目標を立て、新商品の開発もスクラップ・アンド・ビルドで進めるとした。量を増やしシェアを争えば売上は伸びても利益率は上がらず、品質の良い品を低価格で量産するという日本企業が当然としてきた考えを改めるべき時期だとして、事業量の拡大のみを頼みとする経営を社内で戒めた。質の高い成長を測る物差しには、顧客満足・働きがい・仕事の質・独自技術の四つを置いた。1993年3月期の連結では売上高4627億円、当期純利益45億円を計上した。

  • 日経ビジネス 1992年7月13日号
    • [63]バブルに乗って必ずしも利益の上がらない機種を多く作りシェアを高めることに力を注いだことが裏目に出た
    • [64]1992年6月から製品価格を5〜15%引き上げた
    • [65]値上げの対象は整理する製品が中心で、価格を上げて需要を減らす狙いだった
    • [66]10万点ある機種を3年で3割減らすことを目標とし、次の商品を開発する際はスクラップ・アンド・ビルドのマネジメントが必要だとした
    • [67]量の拡大とシェア競争で売上は伸びたが利益率は低く、「良いものを安く大量に」という日本企業の常識を見直す時期であり、事業量の拡大だけを前提とした経営はまずいと社内に問いかけた
    • [68]質の高さの基準として顧客満足の創造・働きがいの創造・仕事の質の創造・オリジナルテクノロジーの創造の4つを挙げた
  • オムロン 会社年鑑(連結決算)
    • [69]1993年3月期の連結売上高4627億円・連結当期純利益45億円
核技術を四つに集約する

売上高の8%を研究開発に回し続けても経営資源が有限であることに変わりはなく、広がり過ぎた事業領域の見直しが始まった。不況をしのぐ三つの施策の一つとして立石義雄氏が掲げたのも、得意な技術分野への絞り込みと資源の集中投資である。選ばれたのは各事業に共通して強みを出せる四つの技術分野で、コンピュータ・通信・制御の頭文字を取った3Cと超小型電子部品のマイクロコンポ、それに人が機械を扱いやすくするライフサイエンスと、曖昧な条件をそのまま処理するファジーが並んだ。中央研究所は1988年から4年がかりで核技術別に再編し、ファジィ推進センタを設けた。有力な表示技術として取り組んだELは、液晶ディスプレーに優位を発揮できないと見て撤退した。既存事業と掛け離れた分野への落下傘的な展開をやめ、手がけた領域からにじみ出す型へ切り替えている。

  • 日経ビジネス 1992年3月9日号
    • [70]秦野勲専務は売上高の8%を常に研究開発費として投入してきたとはいえ経営資源には限りがあると述べ、目一杯に広がった事業領域を点検した
    • [72]各事業に共通し、オムロンが強さを発揮できる技術領域を四つに絞り込んだ
    • [73]核技術のうち2つはコンピューター・通信・制御の頭文字をまとめた「3C」と、超小型電子部品などの「マイクロコンポ」
    • [74]残る2つの核技術は、人が機械を利用しやすくするための「ライフサイエンス」と、あいまいな人間の考え方や条件をそのまま処理できる「ファジー」
    • [75]長岡京市の中央研究所を1988年から1991年まで4年がかりで核技術別に再編し、ファジー技術に特化したファジィ推進センタを発足させた
    • [76]有力な表示技術として取り組んできたEL(エレクトロルミネッセンス)から撤退。液晶ディスプレーなど他の技術と比べ優位性を発揮できなかったため
    • [77]立石義雄は、既存事業と掛け離れた分野への落下傘的な展開はやめ、すでに手がけている分野と密接に関係した領域を広げる「にじみ出し型」で事業を展開すると述べた
  • 日経ビジネス 1992年7月13日号
    • [71]立石義雄は不況対策の3施策の一つに「高付加価値の経営体質作り」を挙げ、技術開発の得意分野への絞り込みと経営資源の集中的投資により、多角化で分散した投資を競争力のある事業へ絞って投入するとした
参考文献[55]-[77]
  • 日経ビジネス 1992年7月13日号
    • [55]1991年10月あたりから需要が急激に落ち込んだ
    • [56]立石義雄は基軸の制御事業について「減速というよりも失速といった方が適切」と述べた
    • [57]通常の不況では合理化投資が前年比横ばいで推移するが、今回は前年を割り込み9割前後となり企業が合理化投資も手控えた
    • [58]エレクトロニクス業界はここ数年エクイティファイナンスで多額の資金を調達し設備投資に充ててきた
    • [59]償却負担が重くのしかかり、技術者を中心とした積極採用で固定費が膨れて損益分岐点が極端に高くなった
    • [63]バブルに乗って必ずしも利益の上がらない機種を多く作りシェアを高めることに力を注いだことが裏目に出た
    • [64]1992年6月から製品価格を5〜15%引き上げた
    • [65]値上げの対象は整理する製品が中心で、価格を上げて需要を減らす狙いだった
    • [66]10万点ある機種を3年で3割減らすことを目標とし、次の商品を開発する際はスクラップ・アンド・ビルドのマネジメントが必要だとした
    • [67]量の拡大とシェア競争で売上は伸びたが利益率は低く、「良いものを安く大量に」という日本企業の常識を見直す時期であり、事業量の拡大だけを前提とした経営はまずいと社内に問いかけた
    • [68]質の高さの基準として顧客満足の創造・働きがいの創造・仕事の質の創造・オリジナルテクノロジーの創造の4つを挙げた
    • [71]立石義雄は不況対策の3施策の一つに「高付加価値の経営体質作り」を挙げ、技術開発の得意分野への絞り込みと経営資源の集中的投資により、多角化で分散した投資を競争力のある事業へ絞って投入するとした
  • 日経ビジネス 1992年3月9日号
    • [60]独立採算制をとる事業は約30あり、売上高4000億円余りの企業としては事業領域が幅広い(1992年時点)
    • [61]各事業のライバルに東芝・三菱電機など総合電機メーカーや専門メーカーが並び、リレーなどごく一部の製品を除き圧倒的なシェアを握る事業は見当たらない
    • [70]秦野勲専務は売上高の8%を常に研究開発費として投入してきたとはいえ経営資源には限りがあると述べ、目一杯に広がった事業領域を点検した
    • [72]各事業に共通し、オムロンが強さを発揮できる技術領域を四つに絞り込んだ
    • [73]核技術のうち2つはコンピューター・通信・制御の頭文字をまとめた「3C」と、超小型電子部品などの「マイクロコンポ」
    • [74]残る2つの核技術は、人が機械を利用しやすくするための「ライフサイエンス」と、あいまいな人間の考え方や条件をそのまま処理できる「ファジー」
    • [75]長岡京市の中央研究所を1988年から1991年まで4年がかりで核技術別に再編し、ファジー技術に特化したファジィ推進センタを発足させた
    • [76]有力な表示技術として取り組んできたEL(エレクトロルミネッセンス)から撤退。液晶ディスプレーなど他の技術と比べ優位性を発揮できなかったため
    • [77]立石義雄は、既存事業と掛け離れた分野への落下傘的な展開はやめ、すでに手がけている分野と密接に関係した領域を広げる「にじみ出し型」で事業を展開すると述べた
  • 日経ビジネス 1994年1月31日号
    • [62]不況による設備投資の低迷と円高による為替差損などで1993年3月期は7年ぶりの減収、2期連続の減益
  • オムロン 会社年鑑(連結決算)
    • [69]1993年3月期の連結売上高4627億円・連結当期純利益45億円

1993年〜円高下の購買集中とROE経営への移行

購買窓口を一つに集約する

1994年1月、オムロンは部品の国際調達を強制するアクションプランを示した。プリント基板・LED・コンデンサーなど調達金額の大きい130種が対象となる。各事業部は4月までに、国際購買課が指定した部品しか使えなくなった。1ドル100円を切れば調達比率は20%、80円なら50%へ自動でスライドする。かつて成長の原動力だった独立採算の社内ベンチャーは、ここでは足かせになっていた。部品調達は事業部ごとにばらばらで、購買窓口は全社に22を数えた。製品種は十数万点、使用部品は12万点で、発注量は一つひとつが町工場並みだった。部品取引先は2000社から1000社へ半減させ、残す相手は取引額と納入品種の比重で選んだ。為替変動に耐える体質をつくるには、ドルへコストを合わせたうえで国際生産分業と海外調達を進めるほかなかった。

  • 日経ビジネス 1994年1月31日号
    • [78]1994年1月26日のIB政策会議で、部品の国際調達を強制的に実行する「アクションプラン」を発表
    • [79]プリント基板・LED・各種表示装置・コンデンサー・コネクター・抵抗・電線など調達金額の大きい130種が対象
    • [80]4月までに強制的に国際調達へ切り替え、各ユニットと事業部は国際購買課が指定した部品しか使えなくなる
    • [81]為替レートが1ドル100円を切ったら調達比率20%、80円になった場合は50%と自動的にスライドさせ調達品目も拡大する
    • [82]かつてオムロンの成長の原動力だった独立採算の社内ベンチャーがコスト削減の足を引っ張っていた
    • [83]部品の調達をユニット・事業部単位でばらばらに行い、全社で22の購買窓口があった
    • [84]製品種は十数万点、使用部品点数は12万点に上り、一つひとつの部品発注量は町工場並みでまとめ買いによる単価引き下げができない状態だった
    • [85]海外調達と開発購買で部品取引先を2000社から1000社へ半減させ、取引額が総売上の25%以上または納入部品が1品種で総売上の10%を超える協力会社だけを残す
  • 日経ビジネス 1995年6月5日号
    • [86]立石義雄は、為替変動に耐え得る企業体質をつくるには世界標準通貨であるドルにコストを合わせることを基本に国際生産分業と海外調達を進めたいと述べた
コストの原点をドルへ移行する

オムロンはバブル不況に対し、経費削減・設備投資の圧縮・採用の抑制・資産の圧縮という第1次のリストラを済ませていた。それまでの施策を前倒しすれば1ドル90円までは耐えられるという自信があったが、1995年に90円の線を越えると、立石義雄氏は第2次のリストラに着手し、コスト・固定費・成長の三つの構造の改革を打ち出した。その柱は、基準とする通貨を円からドルへ移し、すべてのコストをドルの動きに連動させることだった。日本で基板、アジアで組み立てという水平分業を採り、生産面では両地域を一つの単位として扱った。中国では1993年4月に初の独資生産会社オムロン大連有限公司が動き出し、1994年5月には地域統轄会社も設けた。アジアへ生産を全面的に移す米国企業と違い、距離の近さを使えば空洞化を防ぎながら市場を取れるという読みである。

  • 日経ビジネス 1995年6月5日号
    • [87]バブル不況に対して経費削減・設備投資の圧縮・採用の抑制・資産の圧縮という第1次リストラ策を実施
    • [88]1ドル90円ぐらいまでは第1次リストラ策を加速することで乗り切る自信があった
    • [89]1ドル90円を突破した時点で第2次リストラへ踏み切り、コスト構造・固定費構造・成長構造の3つの構造改革に取り組むとした
    • [90]今後の経営の原点を円ではなく世界標準通貨であるドルに置き、あらゆるコストをドルに連動させる方針
    • [91]日本とアジアを一体的にとらえ、日本で基板を作りアジアで組み立てる役割分担による水平分業を進める
    • [93]水平分業ができない米国企業はアジアに生産を任せるため空洞化が進むが、日本はアジアとの距離の近さを生かして空洞化を防ぎながらアジア市場に事業展開できる
  • オムロン 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [92]1993年4月に中国で初めての独資生産会社オムロン(大連)有限公司が稼動、1994年5月に中国の地域統轄会社を設立
事業部制を廃してカンパニー制へ移る

こうした構造改革の物差しとして、立石義雄氏はROE経営を掲げた。外国人株主の比率が他社より高く、株主に報いる努力が要るという理由からである。1996年3月期に連結7%・単独6%を目標へ置き、毎年ロンドンで機関投資家向けの説明会を開催した。成長の側では、既存の技術と商品と顧客を組み替えて新市場を作る「拡業」を軸に据え、3Cと健康分野へ経営資源を再配備する。連結売上高は1994年3月期の4608億円から1998年3月期の6117億円へ、当期純利益は46億円から183億円へ伸びた。1999年3月期は売上5552億円・純利益21億円へ減少し、同年4月、オムロンは事業部制を廃してカンパニー制を導入する。プロデューサ・システムから数えて三度目の、分権の組み替えだった。

  • 日経ビジネス 1995年6月5日号
    • [94]立石義雄はROE(株主資本利益率)経営を数年前から掲げた
    • [95]オムロンは他社に比べ外国人株主の比率が高く、そこに最大の注意を向けて株主に報いることが経営者として当然だと述べた
    • [96]ROE(株主資本利益率)は1996年3月期に連結7%・単独6%を目標とし、毎年ロンドンでIR(投資家向け広報)を開催
    • [97]現有の技術・商品・顧客の3要素を組み替えて新市場を創造する「拡業」を掲げ、コンピューター・通信・制御の「3C」分野や健康分野へ経営資源を再配備する
  • オムロン 会社年鑑(連結決算)
    • [98]連結売上高は1994年3月期4608億円から1998年3月期6117億円へ、連結当期純利益は同46億円から183億円へ増加
    • [99]1999年3月期の連結売上高5552億円・連結当期純利益21億円
  • オムロン 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [100]1999年4月、事業部制を廃止しカンパニー制を導入
参考文献[78]-[100]
  • 日経ビジネス 1994年1月31日号
    • [78]1994年1月26日のIB政策会議で、部品の国際調達を強制的に実行する「アクションプラン」を発表
    • [79]プリント基板・LED・各種表示装置・コンデンサー・コネクター・抵抗・電線など調達金額の大きい130種が対象
    • [80]4月までに強制的に国際調達へ切り替え、各ユニットと事業部は国際購買課が指定した部品しか使えなくなる
    • [81]為替レートが1ドル100円を切ったら調達比率20%、80円になった場合は50%と自動的にスライドさせ調達品目も拡大する
    • [82]かつてオムロンの成長の原動力だった独立採算の社内ベンチャーがコスト削減の足を引っ張っていた
    • [83]部品の調達をユニット・事業部単位でばらばらに行い、全社で22の購買窓口があった
    • [84]製品種は十数万点、使用部品点数は12万点に上り、一つひとつの部品発注量は町工場並みでまとめ買いによる単価引き下げができない状態だった
    • [85]海外調達と開発購買で部品取引先を2000社から1000社へ半減させ、取引額が総売上の25%以上または納入部品が1品種で総売上の10%を超える協力会社だけを残す
  • 日経ビジネス 1995年6月5日号
    • [86]立石義雄は、為替変動に耐え得る企業体質をつくるには世界標準通貨であるドルにコストを合わせることを基本に国際生産分業と海外調達を進めたいと述べた
    • [87]バブル不況に対して経費削減・設備投資の圧縮・採用の抑制・資産の圧縮という第1次リストラ策を実施
    • [88]1ドル90円ぐらいまでは第1次リストラ策を加速することで乗り切る自信があった
    • [89]1ドル90円を突破した時点で第2次リストラへ踏み切り、コスト構造・固定費構造・成長構造の3つの構造改革に取り組むとした
    • [90]今後の経営の原点を円ではなく世界標準通貨であるドルに置き、あらゆるコストをドルに連動させる方針
    • [91]日本とアジアを一体的にとらえ、日本で基板を作りアジアで組み立てる役割分担による水平分業を進める
    • [93]水平分業ができない米国企業はアジアに生産を任せるため空洞化が進むが、日本はアジアとの距離の近さを生かして空洞化を防ぎながらアジア市場に事業展開できる
    • [94]立石義雄はROE(株主資本利益率)経営を数年前から掲げた
    • [95]オムロンは他社に比べ外国人株主の比率が高く、そこに最大の注意を向けて株主に報いることが経営者として当然だと述べた
    • [96]ROE(株主資本利益率)は1996年3月期に連結7%・単独6%を目標とし、毎年ロンドンでIR(投資家向け広報)を開催
    • [97]現有の技術・商品・顧客の3要素を組み替えて新市場を創造する「拡業」を掲げ、コンピューター・通信・制御の「3C」分野や健康分野へ経営資源を再配備する
  • オムロン 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [92]1993年4月に中国で初めての独資生産会社オムロン(大連)有限公司が稼動、1994年5月に中国の地域統轄会社を設立
    • [100]1999年4月、事業部制を廃止しカンパニー制を導入
  • オムロン 会社年鑑(連結決算)
    • [98]連結売上高は1994年3月期4608億円から1998年3月期6117億円へ、連結当期純利益は同46億円から183億円へ増加
    • [99]1999年3月期の連結売上高5552億円・連結当期純利益21億円

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

出典・参考 17件
出典・参考
  • オムロン 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
  • 立石電機株式会社社史編纂委員会『立石電機の30年 : 1933-1963』「立石電機および組織の変遷」(立石電機社史編纂委員会, 1963年)
  • 創る育てる:立石電機55年のあゆみ(立石電機, 1988)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • オムロン 会社年鑑(連結決算)
  • 日経ビジネス 1973年9月2日号
  • わがベンチャー経営(立石一真著, ダイヤモンド・タイム社, 1974)
  • 日経ビジネス 1983年10月31日号
  • 日経ビジネス 1985年8月19日号
  • 日経ビジネス 1990年5月21日号
  • 日経ビジネス 1991年1月14日号
  • 日経ビジネス 1991年4月22日号
  • 日経ビジネス 1992年7月13日号
  • 日経ビジネス 1992年3月9日号
  • 日経ビジネス 1994年1月31日号
  • 日経ビジネス 1995年6月5日号
  • 読売新聞(1983年1月22日)

免責事項およびポリシー