制御技術を社会インフラへ広げる社会システム事業と世界初の無人駅システム
工場の自動化で培った制御技術を、立石一真氏はなぜ駅務や交通の自動化へ向けたのか
更新:
- 概要
- 1967年3月、立石電機がオートメーション用機能部品で培った制御技術と電子計算機を組み合わせ、阪急電鉄北千里駅で世界初の大規模な無人駅システムを稼動させた経営判断。工場の自動化にとどまらず、駅務・交通・金融という社会インフラの自動化を新たな事業の柱に据えた。
- 背景
- 1963年、京都大丸から硬貨の真偽を見分けてつり銭も出す自動券売機を依頼された立石電機は、コインのパターン認識と電子計算機を組み合わせ、自動制御に計算機を加えたサイバネーションの技術を自前で手に入れた。この技術が駅務や交通の自動化へ道を開いた。
- 内容
- 1966年に近鉄との共同開発で自動改札機を形にし、翌1967年、これと自動券売機を結んで阪急北千里駅に世界初の無人駅システムを稼動させた。並行して車両検知器から自動感応式電子交通信号機を開発し、線・面の交通管制へ広げた。社憲「よりよい社会をつくりましょう」を事業の形にする道と位置づけた。
- 含意
- 制御技術を製造ラインの内側に閉じ込めず、社会の仕組みそのものを自動化する対象に選んだ点に事業の性格がある。現金自動機やキャッシュレスへも連なり、社会システムはFAに続く柱となったが、世界初のオンライン式現金自動機は後発の富士通・日立に主導権を譲るなど、技術の先行が優位に直結しない構図も早くから現れた。
制御を社会の側へ差し出すということ
この判断が示すのは、工場の自動化で培った制御技術を、駅務・交通・金融という社会の側のインフラへ橋渡しした発想である。券売機のためにコインの真偽を見分けるパターン認識と電子計算機を組み合わせ、サイバネーションという当時最新の技術を自前で手に入れたことが、無人駅・交通管制・現金自動機へと連なった。制御を製造ラインの内側に閉じ込めず、社会の仕組みそのものを自動化する対象に選んだ点に、この事業の性格がうかがえる。
一方で、市場を最初に切り開いても、後発の大手にシェアを譲る展開は繰り返された。世界で初めて実用化したオンライン式現金自動機は、金融機関のシステムを一括して請け負える富士通や日立製作所が地歩を占め、オムロンは主導権を保てなかった。それでも、駅務・決済・交通を束ねる社会システムは、FAに続く柱として今日まで残っている。技術の先行が事業の優位へそのまま結びつくとは限らないという問いは、この分野でも早くから立石電機に突きつけられていたとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
制御技術と電子計算機の結合
オートメーション用の機能部品で制御技術を確立した立石電機は、1960年代に入るとその技術を応用製品へ広げていった。転機となったのは、1963年に京都大丸から地階の飲食コーナーへ据える自動券売機を依頼されたことである。7種類の食券を100円・50円・10円の硬貨で買え、真偽を見分け、つり銭まで出す。当時としては高度な機械で、コインのパターン認識と、3桁の加算・減算ができる電子計算機の二つの技術開発を要した[1]。
この開発で立石氏が得たものは、券売機そのものより大きかった。自動制御技術に電子計算機を組み合わせるサイバネーション、すなわち当時最新の技術を自前で開拓できた点にある。硬貨の真偽判別には、ニセ千円札が横行した1962年のチ37号事件で科学警察研究所の求めに応じ8日間で作ったニセ札発見機の技術を転用した。券売機の注文はその後途絶えたが、システム開発の下地はここに築かれた[2]。
駅務の無人化と交通への応用の芽
やがて国鉄や私鉄から、より精巧な乗車券自動販売機の要望が寄せられた。それまでは硬貨を入れると入場券が出る簡単な機械しかなかったが、立石電機は食券自動販売機を乗車券販売機へ作り替え、駅務の無人化に使われるようになった。券売機はのちに印刷機や金銭登録機を内蔵して進化し、複数台を連動させる群管理システムも実用化されて、出札にかかる人手を大きく省いた[3]。
制御技術を交通の領域へ広げる試みも並行して進んだ。ニセ札事件が縁で警察から車両検知器の開発を求められた立石氏は、無接点近接スイッチの理論を応用できるとみて、感応コイルを路面へ埋め込む方式を2カ月ほどで完成させる。1964年春には、この検知器で交通量を測り最適な信号を選ぶ自動感応式電子交通信号機の第一号機を、京都・河原町三条の交差点で成功させた。従来の定周期式にない仕組みで、世界初の電子式自動感応式信号機となった[4][5]。
決断
阪急北千里の世界初・無人駅
券売機と改札の技術がそろうと、立石氏はこれらを一つの駅で束ねる構想へ進んだ。1966年、近鉄との共同開発で自動改札機が形になり、翌1967年3月、これと自動券売機を組み合わせた世界初の大規模な無人駅システムが阪急電鉄北千里駅で稼動した。乗車券の販売から改札までを機械が担うこの仕組みは、のちの日本の鉄道自動化の原型となる。制御技術を、工場ではなく人が行き交う駅そのものへ持ち込んだ点に新しさがあった[6][7]。
無人駅で見せた発想は、券売機や自動販売システムにも通じていた。すでに1965年7月にはクレジットカードによる自動販売システムを開発し、その技術を世界最大の自動販売機メーカーである米キャンティーン社へ輸出している。制御技術に電子計算機を結んだ立石電機の機械は、切符や商品の売買を人手なしで完結させる方向へ、応用の幅を確かに広げていった[8]。
交通管制システムへの展開
交差点単位の信号制御は、やがて都市の面へと広がった。1965年に大阪・なにわ筋で十数カ所の交差点を系統化した「線の制御」、1966年には東京・銀座で三十数カ所をマトリックスで結ぶ「面の制御」に成功する。車両検知器で交通量を測り、電子計算機が最適なパターンを選んでゴー・ストップを出す仕組みは、やがて国家的な交通管制システムへ発展していった[9]。
これら一連の展開を、立石氏は1959年に発布した社憲「よりよい社会をつくりましょう」を事業の形にする道と重ねた。工場の生産性向上に貢献するオートメーションと並べて、社会そのものの仕組みを自動化し、人手のかかる駅務や交通を機械が担う方向へ制御技術の応用先を定めていく。制御機器(FA)と社会システムという、現在まで続く二つの事業の柱が、この時期に形を取った[10]。
結果
現金自動機への展開と社会システムの柱化
券売機で得たサイバネーションの技術は、金融へも広がった。1965年に米キャンティーン社向けで開発したクレジットカード式自動販売システムの自主技術を土台に、1969年10月には住友銀行向けのオフライン式自動現金支払機、1971年8月には三菱銀行向けで中央の電子計算機につないだオンライン式自動現金支払機を実現する。オンライン式は世界初であった。工場の自動化から社会インフラの自動化へ、事業の裾野は確かに広がった。会社年鑑によれば、1967年3月期の単体売上は約98億円、翌1968年3月期には約132億円へ伸びている[11][12]。
もっとも、市場を最初に切り開いても、その主導権を保つのは別の話であった。2003年、社長の作田久男氏は、オムロンの主要事業に共通する図式として、市場を切り開くのはオムロンが早くても後発の大手電機メーカーにシェアを奪われる流れを挙げている。世界で初めて製品化したオンライン式ATMも、金融機関のシステムを丸ごと請け負える富士通や日立製作所が強みを発揮し、オムロンは4位メーカーにとどまったという。それでも、駅務・決済・交通を担う社会システムは、制御機器と並ぶ事業の柱として定着した[13]。
- 私の履歴書 経済人15「立石一真」(日本経済新聞社, 1981)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- 創る育てる:立石電機55年のあゆみ(立石電機, 1988)
- 週刊東洋経済 2003年11月29日号「インタビュー 作田久男」
- オムロン 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
- 立石電機 会社年鑑(単体業績)