1937年〜 坂口機械製作所の創業と兼松資本による搬送機械への転換
- 1937年 坂口機械製作所として設立
- 1939年 御幣島工場を新設
- 1941年 兼松商店が経営に参加
- 1944年 兼松機工に商号変更し東京営業所を開設
- 1945年 福知山工場新設
- 1947年 大福機工に商号変更
- 1957年 ビューラー社・ジャービス・ビー・ウェブ社との技術提携による搬送機械への転換 存続の瀬戸際で、赤字の機械工場はなぜ海外技術に活路を求めたか
坂口機械製作所の創業と兼松商店の経営参加
1937年5月、坂口機械製作所は大阪市西淀川区で設立された。資本金30万円の独立系の機械工場で、エアハンマー・圧延機・鋼板矯正機・水圧プレスといった製鉄用の鍛圧機械を主力とし、起重機やドレッジャーなども手がけた。従業員は約150名だった。設立直後の日華事変にともない鉄鋼業が歴史的な拡張期に入ると、大阪地区の製鋼所向け需要が同社の生産を押し上げ、1938年・1939年と相次ぐ増資で資本を厚くした。1939年には御幣島工場(現在の大阪本社の所在地)を新設し、木造工場や鍛造工場を備えて従業員も約400名へ増えた。西淀川の工場地帯で、製鉄補助機械の担い手として知られる規模へ育った。 [1][2][3][4]
- ダイフク 有価証券報告書【沿革】
- [1]1937年5月 坂口機械製作所として大阪で設立(資本金30万円)
- [4]1939年7月 御幣島工場(現大阪本社所在地)を新設
- 大福機工 運搬機械の前衛(ダイヤモンド社, 1967)
- [2]創業時の従業員は約150名(社史)
- [3]主力は製鉄用の鍛圧機械(エアハンマー・圧延機・鋼板矯正機・水圧プレス等)
事業の拡大とともに、坂口機械製作所は商社資本を後ろ盾に取り込んだ。1939年ごろから橋梁メーカー日本橋梁とその親会社・岩井商店が経営に関与し、1941年5月には総合商社の兼松商店(現兼松)が出資して経営に参加した。岩井と兼松が並ぶ後援はほどなく整理され、1941年末には岩井が手を引いて兼松が単独で同社を支えた。原材料統制で取引品目の細った繊維商社が重工業へ進むなかで、兼松は有望な機械工場として同社に資本を入れた。1943年には陸海軍両省の監督工場に指定され、鍛圧機械や起重機とあわせて戦時標準船のレシプロエンジンの生産にもあたった。1944年3月には商号を兼松機工へ改め、東京営業所も設けて関東へ営業基盤を広げた。坂口嘉兵衛社長らに代わって、兼松出身の役員が経営の中核に並んだ。 [5][6][7][8][9]
- ダイフク 有価証券報告書【沿革】
- [5]1941年5月 兼松商店(現兼松)が経営に参加
- [8]1944年3月 商号を兼松機工へ変更し東京営業所を設置
- 大福機工 運搬機械の前衛(ダイヤモンド社, 1967)
- [6]岩井商店の関与を経て1941年末に兼松が単独後援へ(社史)
- [9]創業時の社長は坂口嘉兵衛(社史)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [7]1943年 陸海軍両省の監督工場に指定され戦時標準船のレシプロエンジンを生産(明治百年)
- ダイフク 有価証券報告書【沿革】
- [1]1937年5月 坂口機械製作所として大阪で設立(資本金30万円)
- [4]1939年7月 御幣島工場(現大阪本社所在地)を新設
- [5]1941年5月 兼松商店(現兼松)が経営に参加
- [8]1944年3月 商号を兼松機工へ変更し東京営業所を設置
- 大福機工 運搬機械の前衛(ダイヤモンド社, 1967)
- [2]創業時の従業員は約150名(社史)
- [3]主力は製鉄用の鍛圧機械(エアハンマー・圧延機・鋼板矯正機・水圧プレス等)
- [6]岩井商店の関与を経て1941年末に兼松が単独後援へ(社史)
- [9]創業時の社長は坂口嘉兵衛(社史)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [7]1943年 陸海軍両省の監督工場に指定され戦時標準船のレシプロエンジンを生産(明治百年)
大福機工への改称と戦後の存続危機
1945年3月、空襲を避けて京都府福知山市に福知山工場を新設し、生産を地方へ分散させた。終戦後の1947年8月、兼松の持株のもとで兼松機工の名が独占禁止法に触れる懸念から、商号を大福機工へ改めた。新社名は、大阪の「大」と福知山の「福」を組み合わせた造語で、当時の専務・妹尾一日の発案による。中国向けの取引で縁起がよく、響きに親しみがある点も選定の理由だった。取引先から大福さんと呼ばれて定着したものの、事業の中身は戦時標準船エンジンの仕掛品が工場に残るなど、終戦直後の混乱が尾を引いた。 [10][11][12]
- ダイフク 有価証券報告書【沿革】
- [10]1945年3月 京都府福知山市に福知山工場を新設
- [11]1947年8月 商号を大福機工へ変更
- [12]「大福」は大阪の「大」と福知山の「福」を組み合わせた造語(妹尾一日専務の発案・兼松機工の名が独禁法に触れる懸念からの改称)
朝鮮戦争の特需も及ばず、大福機工は6,000万〜7,000万円の累積赤字を抱え、不渡り寸前まで追い込まれた。親会社の兼松も苦境にあり、存続の可否をめぐって社内の意見は割れたが、紙一重で生き残った。赤字圧縮のため社員の約4割を整理し、発祥の大和田工場や泉尾工場を売却して資金を捻出した。1953年10月には福知山工場を福知山大福機工として分離独立させ、1957年4月に売却して、生産を本社御幣島へ集約した。各地に広げた工場を畳み、御幣島一拠点へ絞り込む整理が、この時期に固まった。 [13][14][15][16]
- 大福機工 運搬機械の前衛(ダイヤモンド社, 1967)
- [13]累積赤字6,000万〜7,000万円・社員の約4割を整理(社史)
- [14]大和田工場・泉尾工場を売却して資金捻出(社史)
- ダイフク 有価証券報告書【沿革】
- [15]1953年10月 福知山工場を福知山大福機工として分離独立
- [16]1957年4月 福知山大福機工を売却
- ダイフク 有価証券報告書【沿革】
- [10]1945年3月 京都府福知山市に福知山工場を新設
- [11]1947年8月 商号を大福機工へ変更
- [15]1953年10月 福知山工場を福知山大福機工として分離独立
- [16]1957年4月 福知山大福機工を売却
- [12]「大福」は大阪の「大」と福知山の「福」を組み合わせた造語(妹尾一日専務の発案・兼松機工の名が独禁法に触れる懸念からの改称)
- 大福機工 運搬機械の前衛(ダイヤモンド社, 1967)
- [13]累積赤字6,000万〜7,000万円・社員の約4割を整理(社史)
- [14]大和田工場・泉尾工場を売却して資金捻出(社史)
技術提携による搬送機械(マテハン)への転換
御幣島へ集約した大福機工は、運搬機械(マテハン)に活路を求めた。最初の運搬機械は戦時下に手がけたロコモチーブ(機関車)で、戦後は荷役運搬機械を旗印に総合メーカーを目指し、第一号機のスタッカーから1948年のパイラーへと自社製の搬送機を広げた。兼松の専務だった益田乾次郎は、スイスのビューラー社との技術提携をまとめるべく相手側代表を説き伏せ、1952年に妹尾社長がスイスへ渡って提携にこぎ着けた。導入したのは、穀物や石炭・セメントなどのばら物をトラフ内のチェンで送るバルクベヤと、可搬式の垂直搬送機SKTで、第一号機は四日市倉庫向けのバルクベヤだった。味の素や東京瓦斯、八幡製鉄の貯炭場など食糧・電力・鉄鋼の各分野へ納入が広がり、はじめの二年で受注が伸びて、累積赤字に苦しんだ収益が上向いた。 [17][18][19][20]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [17]最初の運搬機械は戦時下のロコモチーブ、戦後は第一号機スタッカー製造に着手し1948年にパイラーを手がけた(明治百年)
- 大福機工 運搬機械の前衛(ダイヤモンド社, 1967)
- [18]兼松の専務だった益田乾次郎がスイスのビューラー社との技術提携をまとめた(社史)
- [19]1952年 妹尾社長がスイスへ渡りビューラー提携に至る(社史)
- [20]バルクベヤ・SKTを導入、第一号機は四日市倉庫向けバルクベヤ(社史)
もう一筋の提携は、米国の搬送機械メーカー、ジャービス・ビー・ウェブ社との間で結ばれた。1954年夏、兼松の田口重雄が日本人として初めてデトロイトのウェブ本社を訪ね、床下チェンで台車を引くトウベヤや自動車工場向けのチェン・コンベヤに着目した。売り込みは自動車各社に当初阻まれたが、1956年、鋼板矯正機の納入で縁のあったトヨタ車体の小島吉郎を介して、トヨタ自動車工業がウェブ・コンベヤの採用を決めた。1957年12月、ウェブ社との技術提携が正式に許可され、同社のコンベヤはトヨタ車体・本社工場・元町工場へ相次いで納入された。自動車の量産ラインを搬送機械で支える事業が立ち上がった。 [21][22][23]
- 大福機工 運搬機械の前衛(ダイヤモンド社, 1967)
- [21]1954年夏 兼松の田口重雄が日本人として初めて米ジャービス・ビー・ウェブ社を訪問(社史)
- [22]1956年 トヨタ車体の小島吉郎を介しトヨタ自動車工業がウェブ・コンベヤ採用を決定(社史)
- [23]1957年12月 ウェブ社との技術提携が正式許可(社史)
ウェブとの提携には難所があった。チェン・コンベヤの心臓部である鍛造チェンを、業界の有力会社が手がけないなか、大福機工は鍛圧機械で培った技術を頼りに国産化へ挑んだ。ビューラーとの先約との競合は、ばら物と重量物で住み分ける解釈で整理し、両提携を併存させた。終戦直後に存続を危ぶまれた機械工場は、二つの技術提携を支えに、運搬機械の専業メーカーへと姿を変えた。後に空港やEC物流まで広げる搬送機械事業の骨格が、トヨタ向けコンベヤの量産とともにこの時期に定まった。 [24]
- 大福機工 運搬機械の前衛(ダイヤモンド社, 1967)
- [24]鍛造チェンの国産化に挑戦(業界有力会社が手がけないなか・社史)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [17]最初の運搬機械は戦時下のロコモチーブ、戦後は第一号機スタッカー製造に着手し1948年にパイラーを手がけた(明治百年)
- 大福機工 運搬機械の前衛(ダイヤモンド社, 1967)
- [18]兼松の専務だった益田乾次郎がスイスのビューラー社との技術提携をまとめた(社史)
- [19]1952年 妹尾社長がスイスへ渡りビューラー提携に至る(社史)
- [20]バルクベヤ・SKTを導入、第一号機は四日市倉庫向けバルクベヤ(社史)
- [21]1954年夏 兼松の田口重雄が日本人として初めて米ジャービス・ビー・ウェブ社を訪問(社史)
- [22]1956年 トヨタ車体の小島吉郎を介しトヨタ自動車工業がウェブ・コンベヤ採用を決定(社史)
- [24]鍛造チェンの国産化に挑戦(業界有力会社が手がけないなか・社史)
- [23]1957年12月 ウェブ社との技術提携が正式許可(社史)